市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第13講

X 福音書ところどころ

1 天国はどこにあるのか

「天国は畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり行って持ち物をみな売り払い、その畑を買うのである」。

(マタイ福音書 一三章四四節)

イエスの中に来ている天国

 人は現実の生活の苦悩や悲しさの中で天国や極楽や浄土に憧れてきました。しかしそれはどこにあるのでしょうか。星空の彼方にあるとか、西方十万億土にあるとか言います。しかしそういう表現はかえって、天国とか浄土というものが所詮人間の手に届かない憧れにすぎないものであることを語っています。
 では死後の世界にあるのでしょうか。人はみな死ねば天国に行くのでしょうか。たしかに死ねば地上の苦しみや悲しみはなくなります。しかし、もしそういうものが天国であれば、それはいま生きている現実の人間には何の関係もないものです。天国は人間にとって矛盾です。それは無くてはならないものですが、現実にはありえないものです。
 福音はこのような矛盾の中にある人間にイエス・キリストを宣べ伝えます。そして、このイエス・キリストの中に天国があることを宣べ伝えているのです。イエスとは今から二千年ほど前にユダヤの国に生まれ、十字架にかけられて処刑された方の名です。キリストとは復活して天に挙げられ、全世界の主、万民の救い主として立てられた方を指しています。福音はこのイエスがキリストであること、すなわち十字架につけられて死なれたイエスが、三日目に復活して天に挙げられ、主キリストとして立てられ、今も信じる者の中に働かれる救い主であることを宜べ伝え、この方の中にこそ天国があることを世界に告げ知らせているのです。
 イエスが病人を癒し悪霊を追い出すという力ある業をされる時、天国が地上に来ているのです。天国は神の国とも呼ばれますが、これは神の支配のことです。イエスが神の霊によって病人を癒し悪霊を追い出される時、それは人間を縛りつけている敵対的な力が打ち破られ、神の力がその人を支配する事態が来ていること、すなわち天国が来ていることを指し示しているのです。
 またイエスが取税人や遊女と食卓を共にされる時、それは律法の支配が終わり、神の恩恵が支配する時が来たことを指し示しています。それまでは、人が天国に入るかどうかは、律法を守り行うことが条件とされていました。ところがイエスの中に来ている天国は、取税人や遊女というような律法を守ることができない者でも、砕けた心で無条件に受け入れる者は、その中に入っていくことができるのです。もはや律法を行う事は条件ではありません。無条件の恩恵が支配しているのです。天国とは、この無条件の恩恵が支配しているところです。

わが内にある天国

 イエスの中に神の救いの力、無条件の恩恵が来ています。神の霊による神と人との全き交わりが具現しているのです。イエスの中に天国が来ているのです。ところが、それは畑の中に隠されている宝のようなものです。その天国はイエスの人間としての姿の中に隠されていて、周囲の人々には見えないのです。しかし、それを見つけた人は喜びのあまり、自分の全存在を投げ出してイエスを信じ従う者になりました。イエスは逡巡する周囲の人々に言われます、「わたしにつまずかない者はさいわいである」(マタイ一一・六)。
 イエスが十字架上に処刑された時、天国は最も深くイエスの卑しい姿の中に隠されたのでした。しかし「隠されているもので現れないものはない」のです(マルコ四・二二)。イエスが神の御力により三日日に死人の中から復活された時、イエスの中に隠されていた天国の栄光が(まだ信じる弟子たちだけにではありますが)現されたのです。
 イエスは復活された! 復活して天に挙げられ、主(キュリオス)またキリストとされた。これが福音です。この福音を信じるなら、「すなわち、自分の口でイエスは主であると告白し、自分の心で神がイエスを死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われる」のです(ローマ一〇・九)。信じてキリストに合わせられる者は、キリストが十字架の上で成し遂げてくださった罪の贖いの業に与り(キリストはわたしたちの罪のために死なれたのです)、神が約束された聖霊の賜物を受けるのです。そこには何の条件もありません。そしてこの聖霊こそわが内に宿る天国なのです。
 聖霊は「子たる身分を授ける霊」です。聖霊によってわたしたちは「アッバ、父よ!」と祈り始めます。信仰はもはや信念とか決意の問題ではなく、内なる命の自然の発露となります。子が親を信頼するのが自然であるように、神への賛美と信頼とが自然なものになります。
 聖霊によって、わたしたちの中に新しい愛が始まります。自己中心の頑なな人間本性とは異質の、他者を無条件に赦し、受け入れ、仕える質の命が働き始めます。
 聖霊によって、死に閉じ込められている人生の中で、復活の希望が現実の生きる力になってきます。聖霊はイエスを死人の中から復活させたかたの霊です。キリストにある者を死人の中から復活させるとの約束は、聖霊によって現在の内なる力となります。

隠されている天国

 このように聖霊によってわたしたちの内に生きる信仰と愛と希望、これこそわたしたちの内に宿る天国の姿です。聖霊が働かれる時、天国は「わたしたちの内に」あります。ここで誤解しないでいただきたいのです。「天国は人の心の中にある」のではありません。生まれながらの人の心というものは、天国を宿しうるほど清いものではありません。心をも含めて、生まれながらの人間の本性は自己を押し立てて神に逆らう質のものです。そのような質の心に天国はありえません。そのような心を撃ち貫くように、聖霊が働きたもう限り、その中に天国があるのです。聖霊は人間本性に属するものではなく、天国は人間が所有できるものではありません。それは反逆する人間の中に臨む神の恩恵の働きです。わたしたちは「この宝を土の器の中に持っている」のです。わたしたちの場合も、天国は卑しい人間性、弱い心、破れ多い人生という「畑の中に隠されている宝」です。
 涙多い人生、苦難に満ちた信仰生活も、その中に天国という宝が隠されていることを見出した者は、喜びのあまり持てるすべての能力を捧げて、その苦難の人生を丸ごと受け入れます。それは、その中に隠されている「一粒のからし種」のような天国が、栄光の中に現れる時が必ず来ることを知っているからです。今「初めの実」として内に賜っている聖霊の命が、復活の栄光の中に現れる時が必ず来ることを知っているからです。「隠されているもので現れないものはない」のです。
(アレーテイア 7号 一九八七年)