市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第53講

53 火で塩づけられる  9章 49〜50節

 49 人はすべて火で塩づけられねばならない。 50 塩はよいものである。だが、塩が塩気を失ったら、何をもって塩気を戻すことができようか。あなたがたは自分の内に塩を持っていなさい。そして、互いに和らぎなさい」。

聖霊の火によって

 前段の「火」を連結語として、この段落が続く。人はすべて、消えることのない地獄の火で焼かれないためには、神からいただく別の「火で塩づけられねばならない」。ふつう食物は腐敗を防ぐために塩を用いる。人が腐敗から守られて神に捧げられる清い供え物となるには、火を用いるのである。この火は人の手が作り出すものではない。人間の中には清いものはないからである。その火は聖なる神から下るものでなければならない。すなわち聖霊である。聖霊だけが人を腐敗から守り、聖なる神への供え物とするのである。
 イエスの弟子は「地の塩」であることを期待されている(マタイ五・一三)。聖霊によって清くされた者が世界の中で神の真理を保持することによって、世界が腐敗から守られるというのである。ところが、もし塩自身が塩気を失ったら、もはや何をもってしても塩気を取り戻すことができないように、神の民が聖霊を失ったら、もはや神の民も世界も神の清さを回復することはできない。それだけに、聖霊を宿す器である神の民の責任は重いと言える。
 それで、イエスの弟子たる者は、何よりも自分の内に聖霊の現実を保持することが大切である。その上で、聖霊を宿す故に自分だけを尊しとして孤立するのではなく、お互いに和らいで交わりを持ち、その交わりの中で御霊の真理を確立してゆかなければならない。

 このように、九章三三〜五〇節にまとめられている五つの短い段落は、「小さい者」を隠された共通項として、前の段落の一語を連結語として次の段落が導入されるという形で、様々な主題が展開されている一つのまとまりと見ることができる。おそらく、イエスが弟子たる者の心構えを教えるために様々な機会に語られたことを、最後の旅の途中の家の中で語られたものとして、マルコがこのようにまとめたのであろう。