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98 口で言い表して救われる

 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われます。

(ローマの信徒への手紙 一〇章九節)


 今年の夏はふとした機会から法然について勉強することになり、主著の「選択本願念仏集」や関連して浄土三部経を読み、改めてこの日本浄土教の大成者の実像に感銘を受けました。それで、今年の夏の誌友会では、福音講話として、法然の浄土信仰と比較して「キリストの福音」の本質を語ることになりました。
 法然は若い時に比叡山に上り、厖大な仏典を読破して、仏教の様々な相に通じるのですが、その中から選びに選んで無量寿経の阿弥陀の本願に縋る信仰に到達します。しかも、その四八願の中の第一八願を拠り所にして、口で阿弥陀仏の名を称えるならば必ず浄土に生まれるという口称念仏だけを唯一の正業として選び取ります。法然をそのような選択に駆り立てのは、どのような無学無知の者でも救われるためにはどうすればよいのかという、戦乱の世に苦しむ民衆への切実な同情であったようです。
 ところが、法然よりも千年以上も前に、福音は「口でイエスは主であると言い表すならば救われる」と宣言しているのです。主《キュリオス》というのは、復活して万物の上に上げられた方のことですから、この告白には「心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」ことが含まれています。しかも、イエスは十字架につけられて死なれた方ですから、この告白はイエス・キリストの十字架と復活の出来事は自分の救いのためであるとの告白を含んでいます。法然も「選択本願念仏集」では、浄土に生まれるために起こすべき三つの心と修すべき四つの業である「三心四修」を説いていますが、最後の「一枚起請文」では、三心四修も口で阿弥陀仏の名を称える念仏に含まれていると明言しています。
 浄土教には十字架の贖罪も復活もありません。阿弥陀仏の本願というのは、何億年も昔に立てられたとされています。それは、人間の救済には絶対的な慈悲がなければならないとする人間の心の願望と要請から出たものでしょう。それに対して福音は、歴史の中で起こったイエス・キリストの出来事を、神の無条件絶対の恩恵として告知しています。その告知を受け入れ、イエスを主であると口で言い表して、主イエス・キリストに全存在を投げ入れる者は、恩恵により聖霊を与えられて、救いの現実を体験します。福音は浄土信仰を現実にする力です。

                              (二〇〇一年四号)