市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第83講

83 神の像

神は御自分の像に人を創造された。

(創世記 一章二七節)


 これは人間についての聖書の基本的な宣言である。神は被造物の中で人間だけを神の語りかけに応答する存在とされた。ここに神の像がある。人間が互いに語りかけに応答するのは、この神の像であることの現れである。自由とか人格とか人権とか、総じて人間の尊厳は、人間がこのように神の像に創造されているという事実にある。
 この神がイスラエルの民を選び契約を結ばれたとき、何よりも第一に求められたことは、「わたしをおいてほかに神があってはならない。いかなる像も造ってはならない」ということであった。神がご自分の像に人間を造られたのである。その人間が被造物に似せて神の像を造ることははなはだしい倒錯である。自分の像に造った人間との交わりを求めたもう「熱情の神」は、偶像を何よりも憎まれる。偶像に満ちた諸民族の中で、イスラエルだけが厳しく偶像を禁止し、預言者たちが激しく偶像と戦ったのは、このような神の像としての人間理解が根底にあったからである。
 このような背景で、「あなたがたは神と富(マモン)とに兼ね仕えることはできない」と言われたイエスのお言葉を聴くと、「神に仕える」とは何を意味するのかが明らかになる。「マモンに仕える」という表現が示唆しているように、ここで富は神に対立する偶像である。人間が生産力とか経済力を至上の価値として仕えるならば、そのマモン神は人間に犠牲を捧げることを要求するのである。富(マモン神)の祭壇に人間の尊厳と人権が犠牲として捧げられるのである。
 それに対して「神に仕える」とは、具体的には神の像である人間に仕えること、すなわち神の像としての人間の尊厳とか人権を確立し増し加えることを至上の価値として奉仕することである。イエスのお言葉は、経済活動を軽視したり否定して、宗教活動だけを重視することを意味しない。神の像である人間の尊厳と人権を目的として全力で奉仕するならば、それに必要な富(経済)もおのずから伴って豊かになるのである。富に魂を奪われているこの国が、この真理を実証する証人になることを切に祈るばかりである。

                              (一九九九年一号)