市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第80講

80 彼女を記念して

 「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この女性のしたことも彼女を記念して語り伝えられるであろう」。

(マルコ福音書 一四章九節 一部私訳)


 「この女性のしたこと」というのは、イエスが十字架につけられる前日、ベタニアのシモンの家におられたとき、ある女性が高価なナルドの香油をイエスの頭に注いだことです。これを見て、男性の弟子たちは、香油を三百デナリオン以上に売って貧しい人々に施したほうがよいのにと苦情を言いましたが、イエスはこの女性のしたことをご自分の埋葬の準備と意義づけ、この言葉を語られたのです。
 この物語が示しているように、男の目は社会に向かい、目に見える形での事業に捕らわれがちですが、女性は愛の直感によってイエスへの献身に集中することができます。イエスが逮捕され、裁判にかけられ、ついに処刑されるにいたって、弟子たちは恐れて、みな逃げて隠れていました。そのとき、イエスへの愛の故に、恐れることなく処刑場までイエスにつき従い、埋葬の場所を確認したのは、ガリラヤからイエスに従ってきた数名の女性たちだけでした。
 日曜日の朝、遺体に香油を塗ろうとして墓を訪れ、墓が空であることを見つけて弟子たちに知らせたのもこの女性たちでした。最初期の伝承は、復活されたイエスが最初に現れたのはマグダラのマリアであったと伝えています。イエスの生涯でもっとも重要な出来事に居合わせ、目撃し、その意味を理解し、それを伝えたのは女性であったのです。マルコが香油を注いだ女性の名を伝えなかったのは、「彼女を記念して」という句が、このようなイエスへの献身に生きるどの女性についても語られるようになるためだったかもしれません。
 これまで男性が支配する父権制社会で、女性の働きは陰に隠されがちでした。しかし、このイエスの言葉が示しているように、福音が宣べ伝えられる場では、この女性に代表される女性の心と働きは忘れられたり無視されてはならないのです。キリストにあっては「男も女もない」のです(ガラテヤ三・二八)。女性も男性と同じく、いや男性も女性と同じく、イエス・キリストの弟子であり、証人であり、働き人であり、使徒でありうるのです。
(一九九八年四号)