市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第57講

57 かたくなな民

あなたは、かたくなで心を改めようとせず、
神の怒りを自分のために蓄えています。

(ローマの信徒への手紙 二章五節)


 この言葉はユダヤ人である使徒パウロが、同胞のユダヤ人を責めた言葉です。最近、この前の戦争は侵略戦争ではなかった、などと発言した閣僚が更迭されるということが繰り返されるのを見て、この言葉を思い起こさずにはいられませんでした。
 日本人の宗教心に造詣の深い哲学者と作家が、この事件に関して感想を求められたとき、期せずして同じような分析をしているのを興味深く読みました。この種の発言が出てくる根は、日本人の「御霊(ごりょう)信仰」だというのです。怨みをもって死んだ人の霊が怨霊として祟るのを避けるために、その霊を祭り鎮めるという宗教心です。道真の怨霊を鎮めるための天神崇拝は典型的なものです。本来は自分が殺した敵の怨霊も含めて祭るのですが、明治以後の国家神道の枠組みの中で、天皇のために死んだ者だけを祭る靖国神社宗教へ変質したというのです。だから、あの戦争は侵略戦争だと言えば、「英霊」を鎮めることはできないという心情が、日本人の宗教心の深層にあるわけです。靖国神社にこぞって参拝することを求める運動も、根はこのような日本人の基層的な宗教心にあると見ることができます。
 このような宗教心は、霊を祭ることによって自分の息災繁栄を求めるだけで、自分が神の前に犯した罪を悔い改める心がありません。自国の利益のために他国を侵略占領し、罪のない民を殺戮し、自分の文化を他民族に押しつけるという行為をしたことが、人間の尊厳に対して、また万民の創造者である神の前に、いかに大きな罪であるかの認識もなく、身内の霊を祭るだけの宗教心にかたくなに固執して心を改めようしません。
 戦後半世紀の繁栄によって正当化し、このような「かたくなで心を改めようとしない」態度を続けていくならば、それは「神の怒りを自分のために蓄えていく」ことになります。歴史の支配者としての神の怒りは、日本に対する世界からの糾弾となり、日本の将来を塞ぐことになるでしょう。日本に真の悔い改めが起こるためには、宗教の変革が必要であることを改めて痛感します。

                              (一九九四年四号)