市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第37講

37 忍耐について

「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。

(マルコ福音書 一三章一三節)


 福音は信じる者に耐え忍ぶことを求めます。耐え忍ぶとは、自分の願いに反する外からの圧力に対して、それを自分の力ではねのけて力づくで自分の願いを実現しようするのでなく、また、その圧力に屈して自分を変えてしまうのでもなく、その矛盾から生じる苦しみを自分に引き受けて、問題が解決する時が来ることを待つ態度です。これは一見、消極的で弱い生き方のように見えます。事実、キリスト教を「弱者の倫理」と嘲った哲学者もいました。しかし、人間の基準からすれば弱いと見える信仰者の忍耐こそ、神の強さの現れなのです。わたしたちは「弱い時にこそ強い」のです。
 福音が耐え忍ぶことを求めるのは、福音においては、信仰が希望と一体であり、また愛と一体であるからです。希望も愛も必然的に忍耐を要求するのです。まず、福音は本来神の約束であり、信仰は神の約束に対する信頼です。約束とは将来の神の行為を予め語る言葉ですから、約束への信頼、すなわち信仰は必然的に希望という形をとります。福音は、キリストの復活を告げることによって、「死者を復活させる」という創造者である神の最終的な約束を世界に布告するのです。そして、この約束は、十字架の贖罪を通して与えられる聖霊によって、信じる者の内面において保証されるのです。聖霊は復活の「最初の実」です。けれども、この朽ちるべき体の中に生きている者にとっては、霊の体とか復活は依然として理解しがたいこと、「見ることができないもの」です。だいたい、約束は現実に反します。現実の中に見ることができるものは、もはや約束ではありません。「見えるものに対する希望は希望ではありません」。人間の力で実現できるものは、神の約束ではありません。約束が約束である限り、それを受け継ぐには忍耐が必要なのです。わたしたちの魂は、御霊によって保証されている復活の希望と、死の体の中に生きている現実との間の矛盾にうめきます。しかし、「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(ローマ八・二五)。
 さらに、信じる者に賜る聖霊は、愛の質の生命として働きます。信仰は聖霊による愛の働きとして具体化します。信仰は、自分が敵であった時、自分の罪を引き受けて苦しまれたキリストの十字架の愛を知っています。信仰者は、敵を愛してくださった無条件絶対の神の愛を体験し、その神の絶対の愛、無条件の恩恵の場にしか生きられなくなり、敵を愛する愛に生きようとします。敵を愛するとは、相手が自分にとってどれほど望ましくない在り方をしていても、在るがまま受け入れ、慈しみ、祝福し、祈ることです。相手の悪をすべて覆い、根底において相手の人間性を信じ、将来にすべて良きことを望み、そうすることに伴う現在の苦しみを自分の側で引き受けることです。ですから、このような質の愛は必然的に耐え忍ぶことを求めるのです。「愛はすべてを覆い、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」のです(コリントT一三・七私訳)。
 このような希望と愛に伴う忍耐は、信仰者の内面における忍耐です。しかし、状況によっては外からの圧力が、信仰に対する迫害という激しい暴力の形をとることがあります。その時、忍耐は、外からの暴力に暴力をもって対抗してそれを排除しようとすることなく、内なるキリストの現実に依りすがって、苦しみを自分の身に引き受けて耐え忍ぶという形を取らざるをえません。このような状況において、信仰告白が要求する忍耐、希望と愛が生み出す忍耐は、もっとも劇的な姿をとります。現実にきびしい迫害に直面していた初代の教団には、このような形の忍耐が求められたのです。新約聖書にはこのような迫害の下での忍耐を励ます言葉が多くあるわけです。
 このように、忍耐はキリストに結ばれて生きる者の在り方の基調となります。この忍耐は人間の精神力でできることではありません。これは「キリストの忍耐」と呼ばれています(テサロニケU三・五)。キリストに合わせられ、キリストの力、御霊の力に生きる者だけが持ちうる忍耐です。終わりまで、ひたすら耐え忍んでいる信仰者の姿は一見弱さの極地に見えますが、実はその姿に、いかなる反抗にも負けることなく愛を貫く神の強さが現れているのです。

                              (一九九一年三号)