市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第18講

18 無くてならぬもの

 「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くない。いや一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

(ルカ福音書 一〇章四一〜四二節)


 人生にはじつに様々な問題がある。健康の問題、職業や仕事の問題、生計の問題、子供の教育問題、夫婦間の問題、職場や地域の人間関係の問題、老後の問題、死の問題などなど、懸命に対応し、緊急に取り組まねばならない問題が数え上げることもできないほど多くある。どれ一つとしてゆるがせにすることはできない問題である。わたしたちの人生はこのような心を押し潰すような問題の対応に追われ、僅かの息抜きによって辛うじてバランスをとりながら慌ただしく過ぎ去ってゆく。
 イエスがマルタに語られたこの言葉は、時代を超えて「多くのことに思い悩み、心を乱している」(新共同訳)現代人に語りかけている。人間が真実に生きるために必要なものは多くない。ただ一つである。それが無ければこのような人生の諸問題がただ心を押し潰すバラバラの重荷にすぎなくなるもの、それがあることによってこのような問題の中にある人生が永遠の意義と輝きを獲得するようなもの、そのような「ただ一つのもの」をこそ追い求めるようにと呼びかけている。それは一体何であろうか。それは、足もとに座ってイエスの言葉に耳を傾けているマリヤの姿が指し示している。
 イエスは神の恵みの言葉を語られる。どのような人をも無条件で受け入れようとして呼びかけられる神の恵みの言葉を語られる。しかもその言葉は力ある業に裏打ちされて権威をもって聞く人々に迫る。人間の思いをはるかに超えるその言葉に聞く人々は驚嘆する。宗教的社会から無資格者として排斥されている人たちは歓喜して耳を傾け、宗教的功績を誇る者たちは激怒してイエスを殺そうとする。イエスは神の言葉を語られる。
 この神の言葉こそ人間が真実に生きるために「無くてならぬもの」である。神の言葉は人間に呼びかけ、人間との交わりを造り出す。神の言葉は人間を捕らえ、人間を造りかえる。神の言葉はそれを受け入れる者に神の霊を与え、神の生命を注ぎ入れる。神の言葉は時間の中に流されていく無常な人間存在に永遠の次元を導き入れる。
 神の言葉は人間の頭の中の思想や想像の産物ではない。それは向こうから迫ってきて人間を捕らえる現実の力である。神の言葉を聴くとは、人生のどの体験よりも確かな事実である。その一言に自分の全人生を賭ることができる確かな現実である。その一言の背後には神の信実と力があるからである。そして神の言葉の現実性をすこしでも味わい知った魂は、神の言葉を聴くことが地上のいかなる資産よりも尊い宝であることを悟る。
 マリヤはほかの何を差し置いてもイエスの語られる神の言葉を聴くことを先にした。マリヤは良い方を選んだ。神の言葉を聴くことを差し置いて人生の諸問題に対処することを選ぶか、まず神の言葉を聴いて、神の言葉がもたらすものによって問題の中の人生を生きるか、一人一人が選ばなければならない。

                              (一九八八年四号)