市川喜一著作集 > 第1巻 聖書百話 > 第17講

17 同じ秤で

「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるのである」。

(ルカ福音書 六章三八節)


 秤は正義の象徴である。物を売る時に使う秤と、買う時に使う秤を替えることは、不正義の典型である。正義は売る時と買う時に同じ秤を使うことを要求する。ところがわれわれ人間は身勝手にも、他人を量る時の秤とは違う秤で自分が量られることを要求している。
 人間の本性は自分中心であるから、人はいつも自分を物差しにして他人を測っている。そして自分と違う部分を価値の低いものとして批判する。自分を基準にして他人を裁き、違いがあることを理由にして他者を退ける。しかし、人を裁くあなたはいったい何者か。人間はすべて量られる立場にいるのであって、他者を量る立場にはない。神だけが人間を量る方である。もしわたしが自分の秤で他者を量り裁いているならば、神は正義の神であるから、神も同じようにわたしを量られるであろう。すなわち、神も御自身を秤としてわたしを量り、裁かれるのである。その時、いったい誰が神の秤に耐えることができようか。
 だからイエスはこう言われる、「人を裁くな、そうすれば自分も裁かれることはない。人を断罪するな、そうすれば自分も断罪されることはない。人を赦せ、そうすれば自分も赦される。人に与えよ、そうすれば自分にも与えられる」(ルカ六・三七〜三八)。各組の後半はすべてイエス特有の受動態で語られているが、これを能動態で表現すれば、「人を裁くな、そうすれば神もあなたを裁かない。人を断罪するな、そうすれば神もあなたを断罪しない。人を赦せ、そうすれば神もあなたを赦してくださる。人に与えよ、そうすれば(人々が、ではなく)神があなたに(押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量をよくして)与えてくださる」となる。そして最後に、この四組に共通する原理として「あなたがたは自分の量る秤で(神から)量り返されるのである」という神の正義が掲げられる。
 自分を基準にして人を裁き批判する者は、自分を裁く立場に置いて、他者から価値を奪う者である。人を断罪する者は、自分の中からその人を追い出す者である。そのような者を神も御自身の基準で批判し、それに耐えられない者を御自身の交わりから追い出される。人を裁くことなく断罪しない者は、自分を裁く立場ではなく裁かれる立場に置く者であり、そうする者を神は裁くことなく恩寵をもって扱われる。すなわち無条件で赦し、御自身との交わりに受け入れてくださるのである。
 人を赦す者は、自分との違いを理由に他者を退けず、違いがあるままで相手を無条件に受け入れる。神はそうする者を赦し、無条件で受け入れてくださる。さらに進んで、自分の中にある価値あるものを惜しみなく与える者、自分自身を他者に与えてやまない者は、神からの良いものを溢れるばかりに受けることになる。それが同じ秤で量られる正義の神が支配される霊界の法則である。霊において豊かでありたいと願う者は、自分に与えられている霊の良いものを惜しみなく人に与えるがよい。この大切な自分自身を無条件で人に与えるがよい。そうする者に神はあらゆる霊の賜物を、押し入れ、揺すり入れ、溢れ出るように与えてくださるのである。

                              (一九八八年三号)