市川喜一著作集 > 第29巻 ペトロ ― 弟子から使徒へ > 第2講

第二章 ガリラヤでの復活者の顕現

          ー 過越祭から五旬祭までの五十日のペトロ ー

復活されたイエスとの出会い ー マルコ・マタイの場合

 ガリラヤに戻ったペトロら弟子たちは、漁師としての日常の仕事を始めます。漁に出るペトロの日々を想像して見ましょう。ペトロは毎日浜に繋いである自分の舟に向かって歩いていきますが、そのとき彼は、イエスと一緒にガリラヤの各地に神の国を宣べ伝え、イエスの教えの言葉を深い感銘をもって聞いた日々を思い起こしていたことでしょう。突然目の前にイエスが現れて、「ペトロよ」と呼びかけてくださる光景を思い浮かべたこともあったことでしょう。

 すると実際イエスが現れてくださったのです。マルコ福音書の第一章(一六〜二〇節)に、ガリラヤ湖の岸辺を歩いておられたイエスが、シモンとアンデレの兄弟とヤコブとヨハネの兄弟の四人の漁師と出会い、彼らを召して弟子とされた記事がありますが、これはガリラヤに戻って漁師の仕事をしていたペトロたちに、復活されたイエスが現れて彼らを召された記事なのです。ペトロら四人の漁師は、イエスの「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という呼びかけの言葉に従い、直ちに「網を捨て」また「父と雇い人たちを舟に残して」イエスの後について行くのです。

 マルコ福音書を初めから読み始めた読者は、まだなにもしておられないイエスに呼びかけられて、四人の漁師が生業とか家業を捨てて、初めて声をかけられた見知らぬ人の後について行くという不思議な光景に直面します。しかしこの記事は、つい先日エルサレムで師イエスの十字架刑の日を体験し、その墓で「あの方は復活なさった」とか、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる」という天来の声を伝え聞いていた弟子たちの体験とすれば、混乱し悄然とガリラヤに戻ってきた弟子たちに復活したイエスが現れた記事になり、彼らが「網を捨て」また「父と雇い人たちを舟に残して」直ちにイエスに従ったことも理解できます。

 確かにマルコ福音書はその全体で、地上のイエスの働きや出来事と教えの言葉を伝えています。しかし同時に、復活されたイエスの働きも伝えているのです。マルコだけでなく四つの福音書の記者はみな、地上のイエスの働きや出来事と教えの言葉を伝えるだけでなく、復活して今も働いておられるイエスを伝えようとしているのです。福音書にはこの二重性があります。

マルコ福音書の「二重性」については、拙著『マルコ福音書講解U』三四〇頁以下の「91 復活者の顕現」と「92 マルコ福音書の二重構造」を参照してください。

 マルコ福音書(一・一六〜二〇)の記事は、ペトロら四人が初めてイエスと出会った記事ではなく、イエスの十字架死の後ガリラヤに戻っていたペトロたちの体験であることは、「二人はすぐ網を捨てて従った」とか「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」という表現に示されています。先に第一章で見たように、シモンは洗礼者ヨハネの運動の中でイエスと出会い、その後も同じ小さい町カファルナウムに住む顔見知りの仲であったはずです。ですから会堂での礼拝の後、「一行(イエスを含む一行)は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった」ということが起こり、その家でイエスがシモンのしうとめの熱病を癒やされるというようなことが行われるのです(マルコ一・二九〜三一)。

 この時以後のペトロたち漁師は、イエスの不思議な力に惹かれて、その不思議な力に圧倒され、その高い教えの言葉に耳を傾け、ガリラヤでのイエスの活動に協力していたことでしょう。しかし一家の責任もあり、家業を捨てて他所に行くことなどは考えることはなかったでしょう。「網を捨てて」イエスに従ったのではありません。ペトロたちが漁師の家業を捨て、「すべてを捨てて」イエスの後に従って行ったというマルコ福音書(一・一六〜二〇)の表現は、復活されたイエスに出会った体験なのです。

 復活されたイエスに出会うという体験は聖霊の働きによります。ですからペトロがガリラヤで復活されたイエスに出会ったという体験は、ペトロの聖霊体験なのです。ペトロは五旬祭(ペンテコステ)の日に初めて聖霊の働きを体験したのではありません。ガリラヤで復活者イエスに出会ったとき聖霊の働きをその身に受けて体験しているのです。

 マタイ福音書の場合を見ましょう。マタイはユダヤ人のキリスト信仰の人たちに向かってこの福音書を書いています。マタイはマルコ福音書に伝えられているイエスの働きとその生涯を枠組みとして、マルコには伝えられていない多くのイエスの教えの言葉を収録して、その福音書を構成しています。しかしその最初に、ペトロら四人の漁師がイエスに召されて弟子として従ったこと、実は四人の漁師は復活されたイエスに出会ったのであることを、ほぼマルコを流用して、同じような記事で伝えています(マタイ四・一八〜二二)。

 さらにマタイ福音書では墓が空であることを見た女性は、弟子たちに報告するために走って帰りますが、その途中で復活されたイエスに出会い、「イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とされています。この「ひれ伏した」は、湖の上を歩いて来られたイエスを、舟の中の者は「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを「拝んだ」とされていますが、その「拝んだ」と同じ動詞です。この記事は明らかに、復活されたイエスとの出会いを報告しています。

復活されたイエスとの出会い ー ルカの場合

 では同じくマルコ福音書に基づいて、マルコにはない多くの伝承を加えてイエスの生涯を物語るルカ福音書では、この弟子たちの復活者イエスとの出会いはどのように伝えられているのでしょうか。その出会いは、ルカ福音書でも同じくガリラヤ湖畔での出来事として伝えられていますが、その様子はかなり違った形で伝えられています(ルカ五・一〜一一)。

 まずその出来事の状況が違います。マルコでは復活者イエスとペトロたちとの出会いは、イエスと彼らの他は誰もいない個人的な出会いです。ところがルカでは、イエスの言葉を聞こうとして集まってきた多くの群衆の中での出来事です(五・一〜三)。マルコでは漁のことは問題にされていませんが、ルカではイエスの指示に従って漁をしたところ、網が破れそうなほど多くの魚がかかります(五・四〜八)。この結果を見てペトロはイエスの足下にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったとされていますが、この記事はマルコにはありません(五・八〜九)。イエスが「人間をとる漁師になる」と言って召されたことと、彼らがすべてを捨ててイエスに従ったという結末は同じです(五・一〇〜一一)。

ルカ福音書のこの箇所でも最後の、イエスの「人間をとる漁師になる」というお言葉によって弟子たちがイエスに従っていったというところはマルコと同じですが、全体としては、もはやペトロが湖岸で復活されたイエスに出会って、すべてを捨てて従って行ったというペトロの召命ではなく、イエスのガリラヤでの宣教活動の一コマになって、イエスが大勢の群衆に語りかける場面になっていることです。この事実はルカ福音書が、出来事の当事者(ペトロ)自身が語ったことを聞いたマルコから、随分長い年月が経った頃に著作されたものであることを示しています。ルカはペトロの福音宣教活動を当然の事実として扱い、もはや彼の活動の根拠を語る必要を感じなかったのでしょう。事実、ルカ福音書は一世紀の末頃に書かれたようです。

復活されたイエスとの出会い ー ヨハネの場合

 イエスの弟子はほとんどがガリラヤ人ですから、イエスの働きを伝えるのもほとんどがガリラヤにおけるイエスの働きがその内容となります。ところがヨハネ福音書の著者は、エルサレムの人物と考えられます。それでもイエスはおもにガリラヤで活動されたのですからヨハネ福音書にもガリラヤでの働きが伝えられるのは当然ですが、ヨハネ福音書は共観福音書に較べるとエルサレムおよびその近郊での記事が圧倒的に多くなります。二章のエルサレム神殿の事件、三章のニコデモとの対話、四章のサマリアの女、五章のベトザタの池での癒やしなど、ガリラヤ以外の場所(四章のサマリア以外はすべてエルサレム)が舞台となります。そして七章で秋の仮庵祭にエルサレムに上られた記事以降はすべてエルサレムまたはその近郊での物語です。

ヨハネ福音書の成立の事情については、拙著『対話編・永遠の命ーヨハネ福音書講解U』の後半に収めた「附論『もう一人の弟子』の物語ーヨハネ福音書の成立についてー」を参照してください。

 このようにエルサレム中心のヨハネ福音書が、イエスの復活についてもエルサレムでの顕現の記事で終わるのも当然と考えられます。この福音書の最後の章となる二〇章で(二一章のことは後述)、復活されたイエスは週の初めの日(日曜日)の早朝、まず墓のすぐ外でマグダラのマリアに現れておられます(ヨハネ二〇・一一〜一八)。そしてその日の夕方には、ユダヤ人を恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっている弟子たちに、「シャローム」と声をかけて現れておられます(ヨハネ二〇・一九〜二三)。また、その時に居合わせていなかったトマスに、八日後トマスが他の弟子たちと一緒にいたときに現れておられます(二〇・二四〜二九)。

 この二〇章でエルサレムでの三回の復活者イエス顕現を報じて、このヨハネ福音書は終わります(ヨハネ二〇・三〇〜三一)。ところが、福音書の本体が二〇章で完結した後、復活されたイエスのガリラヤ湖畔での顕現を内容とする二一章が付け加えられます。この補遺としての二一章がなぜ、どういう事情で付け加えられたのかは議論のあるところですが、とにかくまずその内容を見ておきましょう。  

二一章が「補遺」であることと、それが加えられた事情については、拙著『対話編・永遠の命ーヨハネ福音書講解U』247頁の「補遺としての二一章」を参照してください。

 このヨハネ福音書が伝えるガリラヤ湖畔での復活者イエス顕現の物語(ヨハネ二一・一〜一四)は、一読してこれがルカ福音書の五章(一〜一一節)の記事と同じような内容で、並行していることに気づきます。ガリラヤ湖のベテランの漁師が一晩漁をして何も取れなかった翌朝、浜辺に現れたイエスの指示に従って網を下ろしたところ、網が破れそうになるほどの魚がかかったという出来事です。

 これはイエスが復活してガリラヤ湖畔で弟子たちに現れたという伝承があり、これがヨハネ福音書で補遺として用いられたのですが、同じ伝承をルカはイエスのガリラヤ伝道活動の中での出来事として用いることになります。これはルカがその二部作をエルサレム中心の構想で著作したので、弟子たちがイエスの十字架の後ガリラヤに戻ったことを入れることができず、イエスの生前のガリラヤ伝道の時期のものとして語ったためであると考えられます。この復活者イエスの顕現の出来事は、ヨハネ福音書二一章の補遺が語るように、イエスの十字架の死の後、弟子たちがガリラヤに戻って漁師の仕事を再開していたときの出来事です。

湖上を歩くイエス

 マルコ福音書の六章(四五〜五二節)に、イエスが湖上を歩いて弟子たちの舟に来られたことを語る記事があります。この記事はマタイ福音書(一四・二二〜三三)にもヨハネ福音書(六・一六〜二一)にもあります。人間が水の上を歩くことは不可能ですから、この記事をどう説明するかは福音書講解の最大の難問の一つです。わたしはこの記事も、ペトロたちがイエスの十字架の直後にガリラヤに戻っていたこの時期に、復活されたイエスに出会った体験だと理解しています。

 ペトロらはガリラヤ湖の漁師なのですから、湖上で山おろしの突風にあったりした危険な体験は繰り返しあったことと思います。そういう時にも舟に同乗しておられた師イエスは、泰然と眠っておられたので、この方はいったいどういう方なのであろうかと思った経験は何度かあったことでしょう。イエスは怖がる弟子たちに「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言って、風と湖をお叱りになると、すっかり凪になったのです(マルコ四・三五〜四一、マタイ八・二三〜二七、ルカ八・二二〜二五)。

 しかし今回は違います。今回はイエスは舟に乗っておられません。漁に出ていたペトロら漁師たちは、吹き下ろす逆風に漕ぎ悩み、陸地に戻ることができません。その時、イエスが湖上を歩いて近づいてこられます。弟子たちは幽霊を見ているのだとおびえます。湖上を歩いて近づかれたイエスは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言って、舟に乗り込まれると、風は静まります。

この湖上を歩くイエスの記事については、拙著『マルコ福音書講解T』272頁以下の「35 湖上を歩くイエス」  を参照してください。そこでこの記事が「復活者の顕現」であることが詳しく議論されています。その上で、  その時イエスが発せられた「わたしだ」《「エゴー・エイミ》がイエスの自己啓示の宣言として、きわめて重要な発言であることも論じられています。

 このことを伝えているマタイ(一四・二二〜三三)は、弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを「拝んだ」と書いています(マタイ一四・三三)。ここで使われている動詞「拝む」は、イエスが復活された後、弟子たちがガリラヤに戻り、イエスが指示された山に登ってイエスに会い、そのイエスに「ひれ伏した」と描かれていますが、その「ひれ伏した」と同じ動詞です(マタイ二八・一七)。ここでも荒れる湖上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られたイエスは、復活されたイエス、復活によって神の子とされたイエスなのです。復活者であるならば、湖上に現れることも不思議ではありません。その神と同格の復活者イエスを弟子たちは「拝む」ことになります。

「三日目の復活」について

      このように、イエスが十字架刑で処刑された過越祭から次の巡礼祭の五旬祭までの五〇日は、「空白の五〇日」ではなく、福音の史的展開にとって実に重要な五〇日なのです。この期間に復活されたイエスがガリラヤでペトロらイエス生前の弟子であった者たちに現れて、彼らが復活されたイエスを世界の民に証言する働きによって「人間をとる漁師」になるように、すなわち神の民を呼び集める働きに召されていることを自覚し、その働きを始める準備をされる期間となるのです。この五〇日は、いわば福音によって生まれ出る神の民という生命体の胎動期ともいうべき時期になる重要な期間です。

 ところで、新約聖書の中で最初に文書として書かれたのはパウロ書簡ですが、そのパウロ書簡でパウロがこう言っています。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。

(コリントT一五・三〜五)


 ここでパウロは福音の「最も大切なこと」として、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと」と、「聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」をあげています。この「三日目に」という復活の期日については、イエスが十字架上に絶命された翌日の安息日を挟んで、その翌日の「週の初めの日」すなわち日曜日を指しているのだと考えられます。しかしその日に起こったことは、墓が空になっていたことで、弟子たちはまだ復活されたイエスに出会っていません。墓が空であった事実が何を意味するのか理解できず、周章狼狽するばかりでした。それで師のイエスが十字架上に亡くなられたことにすっかり落胆した弟子たちは、悄然とガリラヤに戻り、そこで復活されたイエスに出会うことになるのです。墓に現れた天使も、墓が空であることを知らせに走る女性たちに現れた方も、復活されたイエスに出会うのはガリラヤにおいてであると言っています(マルコ一六・七、マタイ二八・七)。ガリラヤこそ復活されたイエスが弟子たちにお会いしてくださる場所なのです。このように墓に関する出来事が明白に復活者との出会いがガリラヤで起こることを伝えているのに、その十字架以後のガリラヤの日々のことについて福音書も新約研究書もほとんど何も語らないで、イエスの刑死から「三日目」の「週の初めの日」の復活という伝承が一般に行われるようになったのは奇異なことです。

 事実、五旬祭の日に集まって祈っている弟子たちに聖霊が下って、一同が異言で神を賛美している記事(使徒二章)で、ペトロが立ち上がって集まってきた人々に、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させて、主とし、またメシアとされたのです」と叫んだとき、「三日目に」とか「三日の後に」ということは何も触れていません。ペトロが復活されたイエスと会ったのは、三日目ではなく、ここで見たようにガリラヤに戻ってからことです。では、この「三日目の復活」ということは、いつ、どこで、どうしてイエスの復活を宣べ伝える言葉につけられるようになったのでしょうか。

 ヨハネ福音書によると、イエスは洗礼者ヨハネのもとを去りガリラヤに戻られた後、カナでの婚礼に出席しておられます(ヨハネ二・一〜一二)。その後、過越祭が近づいたのでエルサレムに上り、その時神殿で商人を縄の鞭で追い出すという「宮清め」の激しい行動をされます(ヨハネ二・一三〜二二)。その時、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」というユダヤ人たちの詰問に対して、イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言っておられます。

 共観福音書では「宮清め」は、イエスがかなりの期間ガリラヤで病人を癒やし、神の国の福音を宣べ伝える活動をされた後、最後に過越祭に参加するためにエルサレムに上られた時になされた行為だとされています。その神殿を粛正する行為が直接の訴因となって、イエスは逮捕されて最高法院で裁判を受ける身となります(マルコ一四・五三〜六五)。ここでも偽証人が立って、「この男が、『わたしは人間の手が造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」と証言します。

 イエスはこの最高法院で神を冒涜した罪で死刑の判決を受け、ローマ総督ピラトの裁判を経て、十字架刑に処せられます。イエスが刑場のゴルゴタの丘で十字架の苦しみを味わっておられた時、通りすがりの人々は、「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者よ、十字架を降りて自分を救ってみろ」と罵ったと伝えられています(マルコ一五・二五〜三二)。

 このような伝承の中で、神は十字架上に死なれたイエスを、その死から「三日目」の週の初めの日に復活させた、という告知の言葉が形成されたようです。当時のユダヤ人社会では、「すぐに」とか「ごく短期間で」という意味を「三日で」と表現したので(J・エレミアス)、初代の福音告知は、イエスの復活を「三日目に」、すなわち「すぐ後に」とか「直ちに」神がなされた業として告知し、以後イエスは復活者キリストとして常に信じる者に出会ってくださるのだ、という福音を告知することになります。実際には、ペトロはイエスの十字架の死から何日も経ったガリラヤで復活者イエスに出会っているようです。そして復活者キリストは二千年後の今も、信じる者に現れ、働いてくださるのです。

「三日句」については、J・エレミアス『イエスの宣教ー新約聖書神学T』519頁の項目cを参照してください。

エルサレム移住の決意と準備

 ガリラヤの漁師の四人、シモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネについては、復活されたイエスがガリラヤ湖畔で現れて召されたことを、本章の最初の項目で語りました。彼らはすべてを捨てて、イエスに従うことを決意します。他の弟子たちもイスカリオテのユダ以外はみなガリラヤ人ですが、彼らについてはそのような復活者イエスの顕現の記事はありませんが、他の弟子たちも復活者イエスの顕現を体験しています(ヨハネ二一・一〜一四)。彼らもペトロの呼びかけに応えて、すべてを捨ててエルサレムで復活者イエスの証言をしなければと決意したのではないかと推察されます。

 ペトロはイエスが十字架される日に、三度までイエスを否定しています(マルコ一四・六六〜七二)。その時ペトロは外に出て激しく泣いたのでした。その深い悔悟の気持ちはガリラヤに戻っても続いていたことでしょう。現れたイエスに、ペトロが「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ってひれ伏したのも(ルカ五・八)、このことを示しているのでしょう。そのペトロを復活されたイエスはありのまま受け入れて、この復活されたイエスを宣べ伝えるために遣わされます。

 ペトロたちガリラヤのユダヤ人はみな敬虔なユダヤ教徒として、律法に規定されている年に三度の大祭、すなわち春の過越祭、過越祭から五〇日目の五旬祭、秋の仮庵祭には、神殿のあるエルサレムへ巡礼の旅に出ました。その春の過越祭の時に師のイエスは十字架上に息絶えられました。しかし落胆し意気消沈して帰郷したガリラヤで、弟子たちは復活されたイエスに出会ったのです。すべてを捨ててこの復活されたイエスの証言をしなければと決意したペトロは、次の大祭である五旬祭には、そこに集まる全イスラエルの民に証言しようと決意します。それはもやは巡礼として一時的に滞在するのではなく、神殿のあるユダヤ教信仰の中心地エルサレムに腰を据えて証言活動を続けることが必要です。神はイスラエルの全歴史の中で預言し約束されたことを、この復活されたイエスにおいて実現されたのです。ペトロは移住を決意します。

 この時ペトロが何歳ぐらいであったのか、資料がないので推察するほかはないのですが、おそらくイエスとほぼ同じ世代の壮年期とすると、三〇歳を超えた妻子ある家長の年代ではなかったかと推察されます。その年代の家長が故郷とそこでの家業を捨てて、よその地に移住することは大変な決意と勇気が要ります。最後の晩餐の時、イエスはペトロにこう言っておられます、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ二二・三一〜三二)。

 ペトロはガリラヤで復活されたイエスに出会い、神とイエスに対する信仰を取り戻し、立ち直ります。ペトロが復活の証人として立つ決意を固めるには、このようなイエスの祈りがあったのです。そして立ち直ったペトロは、兄弟たちを励まし、エルサレムに移住する準備を始めます。ペトロの励ましによってエルサレムに移住したのは、ペトロの家族だけでなく、他の弟子たちも、そして残されたイエスの家族も含みます。

「移住」という表現について。わたしたち現代において新約聖書を読む者は、ユダヤ人であるペトロはエルサレムが代表するイスラエルの土地の住人であって、ガリラヤからエルサレムに生活の場を移すことを「移住」とする実感はなく、巡礼者の移動の一部であるかのような感覚で読んでいるようです。しかし「使徒言行録」では、ペトロも他の仲間もエルサレムに住んでいることを当然のように描いています。福音書ではガリラヤの住民であるペトロは、イエスの十字架死の後ガリラヤで復活者イエスに出会った体験後にエルサレムに「移住した」と語らなければならいことになります。

 イエスには母のマリアと数人の兄弟と姉妹がありました(マルコ六・一〜六)。父親のヨセフはすでに亡くなっていたようです。母マリアと兄弟たちはペトロの呼びかけに呼応して移住を決意します、男の兄弟四人、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの全員が移住を決意したのかどうかはわかりませんが、ヤコブは母マリアと移住することを決意し、後にユダ書を書くことになるユダも移住を決意したと思われます。姉妹たちはすでに結婚していて、移住は考えられなかったことでしょう。イエスの遺族も母マリアを囲む数人がエルサレム移住を決意したようです。  こうして、ペトロの決意と呼びかけに応じて、弟のアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟、そしてイエスの弟子として従っていた者たちの数人、そしてイエスの家の母マリアと弟ヤコブらが、ペトロと共に、逮捕や命の危険があるエルサレムに移住することを決意します。しかし移住となると、その準備にかなりの日数がかかります。彼らはこの期間の最後の日々を忙しく過ごしたことでしょう。そして次の大祭である五旬祭は、巡礼者ではなくエルサレムの住人として迎えることができるように、その祭りのかなり前に出発することになります。

エルンスト・ローマイヤー著の『ガリラヤとエルサレム』(一九三六年)が辻学氏訳で、聖書学古典叢書の一冊として、「復活と顕現の場が示すもの」という副題を附して出ています。この書は、ガリラヤでの顕現とエルサレムでの顕現の記事を厳密に比較検討した上で、「最古のキリスト教会は、ガリラヤとエルサレムという二重の源泉から生まれ出たのである」と結論づけています(同書142頁)。しかしイエスが生前おもにガリラヤで活動されたのは事実であるとしても、そしてここで見たように復活者イエスの顕現が最初にガリラヤであったにせよ、復活後にガリラヤにキリスト信仰の民が存在した形跡はなく、ガリラヤにキリストの民の源泉を求めることは困難なようです。

空白の五十日か

 本章は題名に示したように、イエスの十字架の過越祭から、五十日目の五旬祭に弟子たちに聖霊が注がれてキリストの民がこの世に現れた日までの五十日間に、どのようなことが起こったのかを追求しました。その五十日は、イエスの十字架で終わる福音書と、ペンテコステの日に弟子たちが開始した福音告知の時を語る使徒言行録の隙間の時期として、福音の史的展開の空白時期として軽く扱われ、見過ごされてきました。しかし本章で見たように、この五十日はペトロら弟子たちが復活されたイエスに出会う体験をして、世界に復活者イエス・キリストの証言を打ち立てるのに重要な時期であったのです。もしペンテコステの日が地上にキリストの民が誕生した日とするならば、この五十日はその日を準備する貴重な懐胎期となったと見られます。この五十日の間にペトロはガリラヤで復活されたイエスに出会い、「人を漁る者」としての使命を受けたのです。

 この五十日の重要性は無視され、わたしの知る限り、綿密な研究がなされてきませんでした。しかし、もしこの期間に、本章が示したように、ペトロを初めとする弟子たちが復活されたイエスに出会い、その復活者イエスを救済者キリストとして宣べ伝える使命に召されたのであれば、その重要性は大変大きいと言わなければなりません。この小著がきっかけとなって、この期間の研究が進むようになれば、それは著者の喜びとするところです。今後の研究を期待して本章を終わります。