市川喜一著作集 > 第28巻 復活者キリスト ― コリント書におけるパウロの福音 > 第6講

終 章  宗教の外の復活者キリスト


 敵であったときでさえ御子の死によってわたしたちは神と和解させていただいたのですから、和解させていただいている今は、なおさら御子のいのちによってわたしたちは救われることになるのです。

(ローマの信徒への手紙 五章一〇節 私訳)


T 和解・変容・復活 ー コリント書におけるパウロの救済論

和解の場で

 本章の冒頭に掲げた聖句は、コリント書の後に書かれたローマ書の中の一文です。しかもそれはローマ書の全内容を要約するような重要な箇所に用いられている一文です。その重要な箇所というのはローマ書の五章の一節から一一節までの部分ですが、この一段はパウロがユダヤ教徒を念頭に置いて書いたローマ書で、「信仰による義」の論述を終えて、その議論を要約しつつ次の主要部となる「救いに至らせる神の働き」への序言となるような位置に置かれた段落です(詳しくは拙著「ローマ書講解T」の第三章第三節を参照してください)。

 直前で「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」(ローマ五・九)と言って、ユダヤ教徒にとって馴染み深い「義とされる」という表現で神との関わりの土台を語りましたが、パウロはすぐに続いて異邦人の世界で普通に用いられている「和解」 という語を用いて、神と和解した者の受ける神の救いの働きを語ります。神から背き去った人類に対する神の救いの働きは、和解の場でのみ行われます。そして和解の場で為される神の救いの働きが、コリント書簡では《メタモルフォーシス》(変容)なのです。

 パウロは「パウロによる福音書」とも言うべき最後の書簡「ローマ書」を、コリントに滞在中に書いています。このコリント滞在は、エーゲ海域の異邦人諸集会から集めたエルサレム共同体への献金を届けるために、コリントで春の船便の再開を待って越冬していたときの滞在であって、多分先のコリントでの福音活動のさい世話になったティティオ・ユスト・ガイウスの屋敷で、この重要な手紙を書いたと推察されます(ローマ一六・二三)。そこでパウロが以前コリントの集会に書き送った自分の手紙を見て、ローマ書ではほとんど用いられていない「和解」という語を使ったということも考えられます。コリント書では神の救済の働きは、この和解の場で行われます。

 パウロはコリントの集会にあてた第一の手紙の最初で、「兄弟たち、わたしはそちらに行ったとき、神の奥義《ミュステーリオン》を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」と語っています(T二・一〜二)。本書の「第一章 十字架の形の復活者キリスト」で述べたように、この「十字架につけられた姿の復活者キリスト」《クリストス・エスタウローメノス》こそ、パウロが福音として宣べ伝えたキリストに他なりません。そして、その章でも書きましたように、この《クリストス・エスタウローメノス》こそが、背いていた人間、敵対していた人間と和解して、神が救いの働きを為してくださる唯一の場なのです。

聖霊による変容

 キリストにあって神との和解の場に入ってきた者に、神は聖霊を与えて、聖霊によってその者を主キリストの形姿《フォルメー》に《メタモルフォー》、すなわち変容してくださいます。パウロは聖書(旧約聖書)が読まれるとき、ユダヤ教徒たちの心には覆いが掛かっていると断じたあと、「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」と言って、「ここでいう主とは御霊のことです」と説明し、「主の霊のおられるところには、解放があります」と言っています(U三・一五〜一七 一部私訳 一七節の《エレウセリア》は「自由」より「解放」の方がよいと思います)。

 御霊が働いてくださる場には、人間を束縛している様々な制約からの解放があります。その様々な制約の中で最も大きな制約が「宗教」です。ユダヤ人にはユダヤ教という宗教が彼らの顔を覆い、彼らに復活者キリストの栄光を見えなくしています。パウロが福音に対して律法というとき、それはユダヤ教という宗教の諸規定を指しています。割礼や安息日や食物などのすべての宗教規定を順守することで神との関わりを維持しようとすると、それらの宗教規定はわたしたちを外から拘束する束縛となります。しかしわたしたちが「宗教」ではなく、キリストの内に働く御霊に身を委ねるならば、人間を拘束している様々な束縛から解放されて、復活者キリストに輝く神の栄光を見ることができるのです。

 パウロは「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて(変容されて)いきます」と言って、その後に「これは主の霊の働きによることです」と付け加えています。このことを語るコリント第二書簡の三章一八節は、コリント二書簡で取り扱われた様々な問題について為された質問に対するパウロの回答の要約とも言える一文です。

 本書第三章の「聖霊でバプテスマする復活者キリスト」では、コリント集会に与えられている様々な賜物《カリスマ》について触れましたが、その中で「キリストの姿に造りかえる聖霊の働き」(77頁)こそ、神がキリストに来た者に与えられる様々な働きを集約した最も大切な働きです。

復活の希望

「パウロによる福音書」とも言うべきローマ書においても、パウロはその救済論の頂点をなすと言える八章において、キリスト者の復活の希望を語っています。パウロはそこで、「イエスを死者の中から復活させた方の御霊があなたがたの内に宿っているならば、キリストを死者たちの中から復活させた方は、あなたがたの内に住んでいてくださる御霊によって、あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださいます」と、明確に語っています(ローマ八・一一 私訳)。キリスト者の内に働く御霊は、ここでは「初穂」と呼ばれています(ローマ八・二三)。御霊という初穂をいただいているキリスト者は、復活によって世界が救済されることを呻き待ち望み、全被造物と共に呻き、共に産みの苦しみを味わっているのです(ローマ八・一八〜二三)。

 わたしたちキリストにある者は、このような希望へと救われているのです。新共同訳は二四節前半を「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」と訳しています。しかしこの文の文頭にある三格(与格)の「希望」は、「希望によって」ではなく、「希望へ」と理解すべき三格です(「によって」を意味する前置詞などはありません)。わたしたちキリストにある者は、信仰によって救われて、(その結果)このような希望に生きているのです。わたしたちも呻き苦しんでいる被造物と産みの苦しみを共にしてはいますが、信仰によって救われた結果、このような復活の希望がありますから「希望によって救われている」と言うこともできるのかもしれません。

パウロは「わたしたちは、このような希望へと救われているのです」と言った後に、「ところで、見える希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰が希望するでしょうか。わたしたちは見ていないものを希望するのですから、忍耐をもって切に待ち望むのです」と、希望を持つということの意味を述べています(ローマ八・二四後半〜二五)。本書では「第二章 初穂としての復活者キリスト」で詳しく語ったように、復活は死後のことですから「見えないもの」です。死後の世界は、それを見て語った者は誰もいません。その「見ていないもの、見えないもの」を、「苦難の中で、忍耐をもって切に待ち望む」ことができるのは、それが神の約束の言葉であるからです。

 神は御子イエス・キリストによって決定的・最終的に語られました。復活者キリストこそ、この世界を創造された神、世界を最終的に完成される神が、世界に語られた決定的な言葉なのです。わたしたちキリストにある者は、この復活者キリストこそ神の最終的・決定的な言葉であることを知っています。それでわたしたちは、復活という見えないものに目を注ぎ、この悲惨な苦悩に満ちた世界の中で、忍耐をもって待ち望むのです。神は信実です。神の言葉は空しくなることはありません。神は語られたことを成し遂げられます。この神の言葉を聞いた使徒たちが、その聞いた神の言葉を証言してくれました。それが新約聖書です。復活については、使徒パウロがとくにこのコリント書簡で詳しく語ってくれました。本書では、第一書簡の一五章とか、第二書簡の四章から五章(一〇節にかけて)を、パウロの復活証言として取り扱いました。わたしたちはその復活の証言を聞いて、見えないものに目を注ぎ、復活の日を待ち望むのです。

U 宗教の外での復活者キリスト

ユダヤ教の外のキリストの福音

パウロはキリストの福音を世界に確立するために、ユダヤ教という宗教の枠の外に出て行く努力と戦いを生涯にわたって戦った人でした。その戦いのもっとも具体的な表現は、異邦人(ユダヤ教から見た異教徒)が福音を信じてキリストに従う者になったときには、その異教徒に割礼を受けさせてユダヤ教に改宗させるべきだという一部のユダヤ人信者からの要求に対するパウロの反対です。熱心なユダヤ教徒にとって、神がユダヤ教の外で、救いを与えて御自身の民を持たれるというようなことは考えられないことでした。異教徒がキリストを信じて神の民になるというのであれば、まずその異教徒に割礼を施してユダヤ教に改宗させ、ユダヤ教の中で神はその民を救われるというユダヤ教の根本原則を貫くべきだ、というユダヤ教の要求です。この要求は、どの宗教も体質として内に秘めている宗教絶対主義の要求です。その宗教の外に救いとか人間の救済とか完成はありえないのであるから、人はみなこの宗教に帰すべきであるという主張です。どの宗教にも、隠れた形でこの自分の宗教を絶対化する体質があります。ユダヤ教も例外ではありませんでした。とくに一神教宗教ではその体質が強くなります。

 ユダヤ教徒は自分たちの宗教、ユダヤ教を《トーラー》と呼んでいました。このヘブライ語は日本語訳聖書では「律法」と訳されています。それでわたしたちが新約聖書を読むときには、「律法」という言葉は、個々の戒律を指すこともありますが、とくにパウロが福音に対して「律法」という時は、ユダヤ教の全体を指していることに留意しなければなりません。パウロ書簡においては「律法」はユダヤ教の全体を指して用いられています。このことを留意した上で、パウロ書簡の中でこの「律法」という語の用例を見ますと、ローマ書で約五〇回、ずっと短いガラテヤ書で約半数の二二回用いられています。これは当然です。ローマ書もガラテヤ書も、キリストの福音がユダヤ教という宗教の外で、ユダヤ教という宗教とは無関係に現れたことを主題にした書簡であるのですから当然です。その主題は、ローマ書の中心とされる次のパウロの宣言によく示されています。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(ローマ三・二一)。

 それに対してコリント書簡ではこの「律法」《ノモス》という語がほとんど出てきません。第一書簡に七回用いられていますが、そのうち四回はパウロが自分の使徒としての立場を弁証している九章に出てきます。パウロはこう言っています、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです」(T九・二〇〜二一)。他にその章の八〜九節の二回です。九章以外では、一四章と一五章で三回用いています(T一四・二一、三四、一五・五六)。第二書簡には一度も用いられていません。

このようにコリント書簡では「律法」という語の用例がきわめて少ないのは、パウロがコリントでの福音活動においては、ユダヤ教をほとんど問題にしていないことを指し示しています。パウロはコリントでユダヤ教とは関係なく復活者キリストを宣べ伝え、ユダヤ教の規定や知識と関係なく集会員のキリスト信仰者を導いたのでした。この方向、すなわちユダヤ教という宗教とは関係なく、そして時代の諸宗教体制とも関係なく、復活者キリストを告知し、その復活者キリストにあって生きる生き方を指導するというパウロの方向は、次の世代のキリスト者にも受け継がれ、パウロの名で書かれたコロサイ書やエフェソ書を生み出すことになります。この両書には、コリント書簡と同じように、もはや「律法」という用語は出てきません。エフェソ書(二・一五)に、「キリストは規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」と、ユダヤ教を指す律法がきわめて消極的な用例に一回出てくるだけです。

宗教の外の復活者キリスト

パウロはユダヤ教の外で復活者キリストを宣べ伝え、ユダヤ教と関係なく信仰者を導きました。現代のわれわれもパウロのように、「キリスト教の外で」復活者キリストを証言し、「キリスト教と関係なく」キリスト者の生き方を追求しなければなりません。

 キリスト教はユダヤ教とは違います。しかし宗教であるという点では同じです。パウロが律法について、すなわちユダヤ教について言ったことを、わたしたちはキリスト教について語り、キリスト教の外で、そしてすべての宗教の枠の外で、一人の人間として、人間存在の意義を語り、人間としての生き方を追求しなければならないと思います。そうすると、その営みは哲学と倫理の問題となるのでしょうけれども、キリスト者の場合は、あくまでも復活者キリストにあってその課題を追求するという特定の場が与えられていることが違います。

 世界にはユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教など多くの宗教が、それぞれその教祖(提唱者)の霊性の深さ、その教えの内容の立派さ、その歴史の古さを誇っています。しかし復活によってキリスト(救済者)とされたと告知されているのはイエスだけです。イエスを復活者キリストとして告知する福音を信じるということは、これらの宗教の中の一つを選んで、その宗教の信徒となり、その宗教の儀礼にあずかり、その規定を守って生活するということと違います。

 では、復活者キリストとの関わりの場でその人生の課題を追求するとは、どのような形あるいは内容となるのか、それをパウロのコリント書簡という文書によって、わたしが理解するところを語ってみました。しかしその課題は各人がその人生で追求すべき課題であるのですから、これはあくまでわたしの理解を語って参考に供するという性質のものです。わたしはパウロを、復活者キリストの働きとその意義を証言するために、神からこの世界に派遣された使徒であると信じて新約聖書を学んで来た者ですから、本書の各章でパウロが語る「復活者キリスト」の重要な姿を語ってきました。その証言によって「復活者キリストにあって」生きることの意義をよく考えて、読者のお一人ひとりが、復活者キリストを信じて従う者になり、そこで語られている「永遠の命」を体験されることを切に願って本書をお届けする次第です。