市川喜一著作集 > 第28巻 復活者キリスト ― コリント書におけるパウロの福音 > 第3講

第二章 初穂としての復活者キリスト


 しかし今や、キリストは眠りについた人たちの初穂として
  死者の中から復活されたのです。

(コリントの信徒への第一の手紙 一五章二〇節 私訳)


T 福音の再確認

復活の章

   熱烈なユダヤ教徒であったパウロが、ダマスコ途上で復活されたイエスと遭遇して回心、熱烈なキリストの福音の宣教者となった経緯は、「序章 復活者キリスト」で述べました。そしてそのパウロが後年エーゲ海地域で福音を告げ知らせる活動を進め、コリントに有力な集会を形成

、そのコリントでのパウロの宣べ伝えた福音が「十字架された姿のキリスト」《クリストス・エスタウローメノス》であったという特徴は、前章の「第一章 十字架の形の復活者キリスト」で語りました。それに続いて本章では、福音のもう一つの本質的であり最重要な使信である復活について、パウロがこのコリント書簡で語っているところを聞いてみたいと思います。この復活の告知が「本質的」であるというのは、それがなければ福音が福音としての質を失うという意味であり、福音が福音であるために欠くことができない質であるということです。

 パウロはこのコリント二書簡で繰り返し復活について語っていますが、とくに第一の手紙の一五章で、「死者の復活」を否定することはキリストの復活を否定し、福音そのものを空しい偽りの報知とする重大な誤りであるとして、一つの主題を論じる章としては例外的に長い議論を展開しています。このことから「死者の復活」を否定することが、いかに重要な問題であるかが窺われます。それでこの章は「復活の章」と呼ばれて、新約聖書神学では大きく取り扱われています。しかし翻って現代のキリスト教会の実情を見るとき、この「死者の復活」の信仰は、信条には「我は身体のよみがえりを信ず」と明記されて保持されているにもかかわらず、実際の信仰生活ではほとんど無意味の条項になっているのではないでしょうか。そのような実情は、現代のキリスト教会は実質的に「死者の復活」を否定しているように見られます。現代のキリスト教会はこの「復活の章」を真剣に読み直さなければなりません。

パウロが宣べ伝えた福音

 この書簡の最後の長大で重要な章の最初で、パウロは自分がコリントで宣べ伝えた福音の基本的な内容を再確認しています。最初にパウロはこう言っています。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」(T一五・一)。パウロはコリントで宣べ伝えた福音を、「ここでもう一度知らせます」と言って、自分がコリントの人たちに伝え、彼らが受け入れ、自分たちの新しい生き方の根拠としてきた福音を確認しています。そしてその福音こそが、「しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」という福音なのです。 ただここで「覚えていれば」という訳語は、パウロの言いたいことを伝えていないように思われます。ここで用いられている《カテコー》という動詞は、捉える、縛る、確保する、というような意味の語で、「かってパウロから聞いた言葉を忘れないで記憶しているなら」というような意味ではありません。パウロはここで、「その福音の言葉につかみ取られて」、その言葉を拠り所として生きているならばという意味で言っているのです。わたしはこの箇所を、「その言葉をしっかりと保持しておれば」と訳していますが、それでもまだ弱いようです。

パウロは「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(T一五・三)と言って、以下にその内容を伝えています。その内容は先に《ケーリュグマ》として紹介したものに他なりません。パウロはそれをこうまとめています、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(T一五・三〜五)。これはパウロがあのダマスコ体験から三年後にエルサレムでペトロに会って聞いた形でしょう。おそらくその頃までにエルサレムの共同体で、このような形の《ケーリュグマ》が成立していたと考えられます。

 こう言った後、パウロは復活されたイエスが弟子たちに現れた出来事を、パウロ自身への顕現も含めて列挙し、最後に「とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした」と締め括っています(T一五・一一)。しかしパウロは回心から三年も、ダマスコ途上で遭遇した復活者イエスをキリストとして宣べ伝える福音活動をしてきているのですから、これはそのキリストを宣べ伝える定型的な形を受け継いだということでしょう。しかしここでパウロは、この福音を「わたしも受けたものです」と言っています。福音という生命体は、受けて伝えるという流れの中で生きる生命体であり、福音を聞いてそれを自分の中だけに保存しておけるものではありません。パウロはこの受けた福音を、彼の人生を賭けて諸国民に与え続けたのです。

救済史の論理

 コリントの集会の中の一部の者が、「死者の復活などはない」と言っていることを伝え聞いたパウロは、死者の復活を否定することはキリストの復活を否定することであり、福音を宣べ伝える使徒たちは偽証人であり、キリスト信仰も実体のない空虚なものになると激しく反発します(T一五・一二〜一九)。この一段でパウロは、死者の復活を否定することはキリストの復活を否定することだ、と二度も繰り返しています(一三節と一六節)。この「死者が復活しないのであれば、キリストも復活しなかったはずだ」という議論は、普通「人間は一度死んでしまえば、再び身体が機能を回復して生き返るということはありえない」という医学的また生物学的常識とか理論の表現であるとされ、その論理で現実の人間であるイエスの復活も否定することになり、福音を受け容れない根拠とされています。

 しかしパウロはそんな論理で「死者が復活しないのであれば、キリストも復活しなかったはずだ」と言っているのではありません。パウロは、「もし神がご自分に属する人たちを死者の中から復活させて、御自身の業を完成されるのでなければ、神の民を代表するキリストを復活させることがあろうか。神は御自身の民を死者の中から復活させて、神の国を完成されるのであるから、その民を代表するキリストを復活させて、その業を始められたのだ」という救済史の論理で、死者(複数形)の復活を否定することは、キリストの復活を否定することだという議論をしているのです。そしてその救済史の論理で、以下の死者の復活の議論を進めていきます。

 救済史というのは、天地の万物を創造された神が、離反した人間の中から御自分に所属する民を選び別けて、その中で救済の働きを為し、最終的に人類の中に御自身の支配あるいは神の国を完成し、その栄光を示される過程です。聖書はそのような観点から見た神の救済の働きの記録として、その全体が理解されるべきだという立場で聖書理解がなされます。旧約聖書はイスラエルの民の中になされた神の救済の働きを記述し、新約聖書は神がイスラエルの中に派遣された世界の救済者キリストと、そのキリストに所属する民の中になされた救済の働きを証言する書と理解され、全体が創造者なる神の世界救済の歴史を証言していると理解されます。

U 初穂としてのキリストの復活

初穂キリスト

 「しかし今や、キリストは眠りについた人たちの初穂として、死者の中から復活されたのです」(T一五・二〇 私訳)。「しかし今や」という句は、救済史が新しい時代に入ったことを示す重要な句です。ローマ書(三・二一)ではこの句が、律法が支配していた時代が終わり、律法とは関係なく信仰によって義が与えられる時代が到来したことを告げる句として、深い感慨をもって用いられています。このコリント書では、死の向こう側に希望をもてなかった人類に、死を克服する新しい出来事が起こったこと、救済史の神がまったく新しい時代を始められたことが 、大きな驚きと感慨をこめてこの句が叫ばれます。

 ここでパウロは、キリストが復活されたことを「眠りについた人たちの初穂として」の復活だと位置づけています。「眠りについた人たち」というのは、すでに死んで亡くなった人を指すキリスト者の用語です。イエスは会堂長ヤイロの娘が亡くなったとき、イエスが「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われたことから、キリストにあって復活を信じるキリスト者の間では、死んで亡くなった人を「眠りについた人」と呼んだのです。この用例に従って、パウロはすでに死んで亡くなった人を「眠りについた人」と呼ぶのです。

 キリストが復活されたのは、キリストという特別な方に起こった特別の奇蹟の出来事ではない、それはすべてキリストにあって亡くなった人々の初穂としての復活なのだ、とパウロは言うのです。「初穂」という語が指している内容は、皆よく知っています。日本の神事でも田畑の収穫の初穂を捧げて神々を祭ります。イスラエルのヤハウェ礼拝においても家畜の初子や畑の初物が捧げられました。捧げられた初物は全体を代表しています。人々は初物を捧げて、収穫の全部を神に捧げて礼拝していることを表現しているのです。

 キリストが復活されたのは、やがてキリストにあって眠りについた死者たちが復活することを、初穂が全収穫を代表しているように、将来の死者の復活を先取りし、代表しているのです。その代表関係を、パウロは救済史で人類を代表するアダムとキリストという二人の人によってこう語ります。「死が人によって来たのだから、死者の復活も人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(T一五・二一〜二二、二一節のギリシア語原文には「一人の」という語はありません)。

《アダーム》というヘブライ語は「人」という意味の名詞です。創世記の初めの三章はアダムを主人公とする物語ですが、実はその物語は「人」の物語、人間の物語なのです。アダムが禁じられた木の実を食べたために楽園を追放された物語は、実は人が神に背いたために神との交わりという本来の生から切り離されて死すべきものになったことを物語っているのです。この事実を指して、パウロはそれを死者の復活の根拠として、「死が人によって来たのだから、死者の復活も人によって来るのです」と言います。その物語のアダム、すなわち人によって死が来たのであるから、復活も人、すなわちキリストによって来るのだと、キリストによって復活が来たことを聖書によって根拠づけます。

 人であるアダムにあって、すなわち人が生まれながらの人である限り、死に定められています。しかし人がキリスト、終わりのアダムであるキリストにある限り、死から復活するのです。キリストは「終わりのアダム」であるので(T一五・四五)、「死がアダム(人)によって来たように、復活もアダム(人)によって来る」と言えるのです。「アダムにある」という場では、すべての人は死にます。しかし「キリストにある」という場では、すべての人が生かされることになるのです。

二つの復活の間で

 キリスト者は二つの時の間に生きています。二つの時というのは、キリストの復活の時と死者の復活の時のことです。初穂としてのキリストの復活とキリストに属する者たちの死者からの復活という二つの復活の間に生きているのです。そのような二つの復活の間に生きるキリスト者は、復活者キリストから受ける聖霊によって、今現在の生に復活に至る質の命に歩むことになります。

 ですから、キリスト者の復活信仰には三つの相が一体となって構成されることになります。すでに起こった初穂としてのキリストの復活への信仰、将来自分が死者の復活に与るという希望、そして賜っている聖霊によって復活の質の命を現在に生きている、という三つの相です。この三相は一体としてキリストにある者の復活信仰を構成しています。この三相一体の復活信仰の具体的な姿については、項目Wの「復活信仰の具体相」で述べることになります。しかし、その前に項目Vで「死者の復活」というキリストにある者の希望について、もう少しパウロの語る所を聞きましょう。

V 死者の復活の希望

見えないものに目を注ぐ

 パウロはコリントの信徒への第二の手紙でこう言っています、「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(U四・一六〜一八)。

 パウロはキリストにある者の生涯を「外なる人」と「内なる人」の二重の視点から見ています。すなわち、わたしたちの「外なる人」は衰え、やがて滅んでいきますが、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされ、ついには栄光に達するのだと見ています。ここの「外なる人」と「内なる人」は、人間の外的・身体的側面と内的・精神的側面の区別ではありません。年と共に身体は衰えるが、精神はますます新たにされて強くなる、という意味ではありません。ここの「外なる人」とは、身体も精神も含む生まれながらの人間全体を指しています。この生まれながらの自然の命に生きる人間は、年齢と労苦の中で身体も精神も、体力も気力も共に衰えていきます。それに対して「内なる人」というのは、この「外なる人」の中に、福音という神の言葉と信仰によって新しく生まれた「わたし」です。十字架の言葉にひれ伏し、復活の約束を喜ぶ新しい「わたし」です。この「内なる人」は、神の言葉と聖霊の働きによって、苦難の中で御言に対する信頼を日々強められて成長していきます。歳と共に衰えることはありません。

 この「内なる人」が、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と言うのです。この世で信仰の故に受ける艱難は、キリストと共に来るべき世であずかる栄光の保証です。やがて現される栄光を現在の生の根底として見つめている「内なる人」にとって、この世の艱難や苦労は、それがどのような種類であれ、また「外なる人」の目にはどのように深刻なものであっても、「一時の軽い艱難」なのです。「内なる人」は「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」からです。

 「見えるもの」とは、この世のすべての現象、またわたしたちがこの世で体験するすべての出来事です。それに対して「見えないもの」とは、永遠界に属する事柄であり、来るべき世の栄光であって、わたしたちが直接五感で感じたり体験することはできません。それに「目を注ぐ」とは、それを究極の関心事として、それに自分のすべてを投入して生きることです。「見えるもの」か「見えないもの」か、どちらに目を注ぐかによって、人生はまったく違ってきますし、世界は全然別の様相を示します。

 ところで、ここで「見えないものに目を注ぐ」と言うとき、パウロは漠然と永遠界のことを語っているのではなく、文脈から見て、とくに復活のことを念頭において語っていると見なければなりません。この段落(U四・一六〜一八)は復活を語る二つの段落(U四・七〜一五と五・一〜一〇)に挟まれています。パウロは、この三つの段落全体(U四・七〜五・一〇)を通して、死に直面している状況で自分を支えている復活信仰を語っているのです。復活信仰については、すでに第一書簡の一五章で詳しく論じていましたが、それは反対者に対する論争でした。それに対してここでは、復活信仰が生死の境界に立つ一人の人間を支える具体的な相で現れています。復活信仰の内容を確立するための論争も重要ですが、死に定められた人間の中に働いて希望を持たせる現実の力となる「復活信仰の具体相」はさらに重要です。

 「死者の復活」は「見えないもの」です。「外なる人」の五感や理解力や経験で把握できるものではありません。それは福音という神の言葉によって約束され、信仰によって望む将来です。キリストの十字架と復活の出来事に含まれた将来であり、恩恵として賜る聖霊のいのちによって「内なる人」が身を乗り出して待ち望み、それに向かって走り続けざるをえない将来です。「内なる人」はこう言わざるをえないのです。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿に合わせられ、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ三・一〇〜一一 一部私訳、以下一二〜二一節も参照)。

天にある住みか

 復活という「見えないもの」を語るには比喩を用いざるをえません。パウロは、「内なる人」が与えられる身体(からだ)について、幕屋とか住まいという建物の比喩を用いて語ります。

 「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」(U五・一〜四)。

 その建物の比喩の中に「着る」とか「脱ぐ」という衣服に関する用語が入り込んでいます。パウロは、来たるべき「死者の復活」における「わたし」自身とからだの関係を、建物と衣服という二重の比喩で語っていることになります。

 地上の身体は、その中に現在「わたし」が住んでいる住まいですが、それは時と共に古び、やがては滅んでいく定めにありますから、年月と共に古びやがては折り畳まれて撤去される「幕屋(テント)」という比喩で語られます。それに対して、終わりの日に神から与えられる住まいは「建物」と呼ばれています。それは、テントのように古びたり折り畳まれて撤去されることなく、石造りの建造物のようにいつまでも存続する「永遠の住まい」です。現在の身体は地上にあり、地を構成するものと同じ素材で造られていますから、見たり触れたりすることができ、ある程度理解することもできます。それに対して、かの時に与えられる身体は別次元の「天にある」ので、現在のわたしたちの感覚や理解は到達できず、「天に隠されている」と言えます。その身体が「人の手で造られたものではない」と言われているのは(地上の身体も人の手で造られたものではないのは同じですが)、創造者なる神が新しく創造して与えてくださる身体であることを言おうとしています。

 ここでパウロは「身体《ソーマ》」という語は用いていませんが、「幕屋」とか「建物」という比喩で身体《ソーマ》のことが語られているのは明らかです。《ソーマ》はわたし自身ではありませんが、わたしの「住まい」であり、わたしと一体です。身体なきわたしはありえません。ただ、「外なる人」としてのわたしには「外なる人」にふさわしい身体、すなわちこの地上の身体があり、「内なる人」としてのわたしには「内なる人」にふさわしい身体が備えられているのです。

 このことを「わたしたちは知っている」とパウロは言います。このような別種の身体があることを知る(理解する)ことができないので、「死者の復活」を信じようとしない人たちに対して、パウロはすでに第一書簡(一五・三五以下)で、この新しい種類の身体について詳しく論じています。「外なる人」には「自然の命のからだ」があるように、「内なる人」には「霊の命のからだ」が新しく創造して与えられるのだと説いています。

 わたしたちの身体を「幕屋」とか「建物」という比喩で語り始めたパウロは、「脱ぐ」とか「着る」という衣服について用いる動詞を使って、その身体についての切なる思いを語っていきます(U五章二〜四節)。身体をわたしの「住みか」と見る意識は続いているので、「住みかを脱ぐ」とか「住みかを着る」という、やや奇妙な表現になっていますが、この「住みか」はわたしたちの身体を指していることは明らかです。

 着るとか脱ぐという比喩で注目すべき点は、パウロはその中で苦しんでいる地上の身体を脱ぎ捨てることを願ってはおらず、ただ天からの身体を「上に着る」ことを呻き待ち望んでいることです。この弱くて卑しい身体をもって苦難の多い地上の生を続けることは辛いから、早くこの身体を脱ぎ捨てて、安らかな眠りにつきたいとは願っていません。むしろ、「天からの住まいを上に着る」ことで、いまその中で呻いている地上の住まい(身体)が永遠の住まいに変えられることを願っているのです。パウロは、地上に生きている間に主の来臨を迎えて、この身体が「変えられる」ことを切望しているのです。パウロは直前の第一書簡で、「わたしたちは皆が眠りにつくわけではなく、わたしたちは皆、最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに、今とは異なる状態に変えられるのです」(T一五・五一〜五二 私訳)と言っています。パウロは地上にいる間にこの「一瞬」を迎えることを期待していますが、それと同じことを第二書簡のここでは、「上に着る」という表現で語っているのです。

 しかし、第一書簡執筆の後エフェソで入獄し、死の危険に直面したことは、主の来臨を迎える前に自分がこの世を去ることになる可能性をパウロに強く意識させたのでしょう。パウロは地上の住まいを脱ぎ捨てないで、その上に天からの住まいを着ることを切望する文(五章二節と四節)の中に、「たとえもし脱いでも」という自分の死を示唆する文(三節)を入れています。条件また仮定は強調されていて、「たとえもし脱ぐようなことがあるとしても」となっています。もちろん、この地上の住まい(身体)を脱ぐこと、すなわち死が語られているのです。

 衣服を脱ぐと、裸になります。しかし、パウロは、たとえ今この地上の体を脱ぎ捨てる(すなわち死ぬ)ことになっても、「裸のままでいることはない(未来形)」と言います。ここでもパウロは、終末の時に「天にある永遠の住まい」が着せられることを知っているので、こう言うことができるのです。では、地上の体を脱ぎ捨てた後、新しい霊の体を着せられるまでの間はどうなるのか、その間は裸ではないのか、という問いは成り立ちません。死の彼方の世界も終末の出来事もともに時間を超えた次元のことで、その間の時間の経過は問題にならないからです。

 むしろここで重要なことは、「裸でいない」という確信です。裸とは、体を持たない人間存在を指す比喩です。体を持たない人間存在を考えることはできない、救われるのも滅びるのも体を持った人間、具体的な人間(体を具(そな)えた人間)であるというのは、ユダヤ教の確固とした伝統です。それに対してギリシアの宗教思想では、人間を霊魂と肉体に二分して、霊魂は永遠であるが肉体は朽ち果て滅びるもの、霊魂には神的原理が宿るが、肉体は物質界の卑しい原理で存在するものとしていました。それで、救いとは、肉体の中にいることで物質界の卑しい原理に捕らわれている霊魂が、その牢獄である肉体から解放されて、光である神的世界に到達することであるとする傾向がありました。ギリシアの宗教思想では、人間は身体のない裸の霊魂として救いに達するのです。

W 復活信仰の具体相

御霊の保証

 復活信仰に生きているパウロは言います、「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として御霊を与えてくださったのです。それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(U五・五〜一〇)。

 「このようになる」というのは、天からの住まいを上に着せられること、すなわち死者の復活にあずかることです。復活にあずかるのに「ふさわしい者」となるのは、わたしたちの努力や精進でできることではありません。神が福音によってわたしたちを招き、キリストにあってわたしたちを造り変えて「ふさわしい者」にしてくださるのです。そして、わたしたちがかの日に復活にあずかることの保証として、御霊を与えてくださるのです。

 「保証」《アラボーン》という語は、商業取引関係で用いられる法律用語で、将来の全額の支払いを保証する手付け金を指します(他にもう一カ所、U一・二二でも同じ意味で用いられています)。キリストにあって賜る神の御霊は、将来わたしたちがあずかる復活の栄光を、現在地上で前味として味わわせる質の命です。あるいは、将来復活に至る質の生命と言ってもよいでしょう。同じことをパウロは、少し後のローマ書(八・二三)では「初穂」《アパルケー》という農作物の比喩を用いて語っています。「初穂」とか「最初の実」は将来の全収穫を代表しているのです。

 聖霊は将来の栄光を現在信じる者の内に現実とする力であるという理解は、パウロの終末論の基本的な構造をなしています。パウロは聖霊の現実に生きることによって、終末を現在化し、それをもっとも明確に語った使徒です。「現在化された終末論」の源流です。共観福音書に見られるように、なおユダヤ教黙示思想の終末論の色彩を色濃く残すパレスチナの福音宣教を、内在化し現在化してヨハネ福音書のような現在終末論に変えたのは、パウロのこの終末論であったと考えられます。

いつも心強い

 このように御霊の保証を内に宿して歩んでいるので、目に見える状況がどのように惨憺たる姿であろうと、「わたしたちはいつも心強いのです」。U五章六節は「わたしたちは体を住みかとしているかぎり、主から離れていることを知っていますが、それでもいつも心強いのです」(NRSV)と読むべきでしょう。そして、いつも心強い理由が、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」と続きます。信仰は、神の言葉とか約束という見えないものを現実とする全存在をかけた姿勢です。

 この六節から始まる九節までの一段には、「内にいる」と「離れている」という二つの対称形の動詞が交差的に繰り返されています(前段の「脱ぐ」と「着る」のように)。「体の内にいるかぎり、主から離れている」という表現には、ギリシア思想またはグノーシス思想の傾向が感じられますので、この点では「たしかにそういう一面はあるが」と論敵の主張を一応認めて、その上で「見えるものによらないで、信仰によって歩んでいるので心強いのだ」と、この身体に内在する原理を克服する生き方を主張していると解釈する可能性もあります。しかし、パウロ自身、主がすでに「体から離れた」次元におられるので、自分も「体から離れた」次元に入る方が、よりいっそう主に近くあることができると信じていると見る方が自然でしょう(フィリピ一・二三)。

 いずれにせよ、パウロ自身が「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいる」のですが、これは(グノーシス主義者のように)肉体を霊魂の牢獄と蔑視して身体から離れることを願っているのではなく、迫っている死も「主の傍にいる」ようになるための入り口としてむしろ歓迎している心情を告白しているのです。普通は絶対的な矛盾として互いに相容れない生と死が、パウロにおいては相対化されていることを示しています。すなわち、キリストに生きるという、さらに本質的で絶対的な価値の前に、生と死がどちらでもよいものになっている、むしろいっそう主に近くいることができるので死の方が望ましいものになっているのです。そのことは、この時期にエフェソの獄中で書かれたと見られるフィリピ書(一・二一〜二四)にさらに明確に告白されています。

 パウロにとって、そしてキリストにあって生きるわたしたちにとって、「体の内にいても体を離れているにしても」、すなわち、この地上に生きているときも世を去ってかの世界に移っても、主と共に生きる者であることが唯一の価値であり、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」が唯一の願いになるのです。この主と共に生きること、主に喜ばれる生き方をすることが、人間にとって唯一の価値であることを、パウロは「すべての人はキリストの裁きの座の前に立つ」ことになるという終末論的表象で表現して、この一段を締め括ります。

 「キリストの裁きの座」と訳されている句は、原文では「キリストの座」です。「座」《ベーマ》は、王や裁判官が主権者として公に行為するときに着座する場所です。復活して高く上げられ《キュリオス》とされたキリストは、終わりの日に主権者としての座に着座してその支配を現されることになります。黙示文書における「最後の審判」は、キリストの支配という形で実現するのです。そのことを新約聖書は、「父は裁きを行う権能を子にお与えになった」(ヨハネ五・二七)とか、「神は(復活させた)この方によって、この世を正しく裁く日をお決めになった」(使徒一七・三一)と表現するのです。

 この時受ける報いは、どれだけ主キリストの御旨に従って生きたかによります。そして、この世でもかの世でも同じキリストが主として共にいてくださるという確信は、この地上で体を住みかとしていたときの生きざまがかの日に主から受ける報いを決めるという理解を含んでいます。グノーシス主義のように、この体ですることは霊の世界に何の関わりもないとはなりません。復活信仰は、今の体とは別種の「霊の体」が着せられることを待ち望んでいますが、着せられるわたしは同じです。この体を住まいとしていたときのわたしが報いを受けるのです(T六・一四とその前後を参照)。