市川喜一著作集 > 第28巻 復活者キリスト ― コリント書におけるパウロの福音 > 第2講

第一章 十字架の形の復活者キリスト


兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の奥義を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。

(コリントの信徒への第一の手紙 二章一〜二節)


T 十字架された姿の復活者キリスト

コリントでのパウロの福音活動

 パウロは、当時すでに大都市であったアカイア州の州都コリントに到着した時、いつものようにまずユダヤ教徒が集まるユダヤ教会堂に入って、イエスがメシアであることを宣べ伝えます。しかし、大部分のユダヤ人から激しい反対を受けます。それで会堂と決別し、すぐ隣の異教徒ティティオ・ユストの家に移って、そこでユダヤ教徒ではない異邦人に福音を宣べ伝えます。この異邦人ユストの家でのパウロの力強いキリストの証言活動によって、多くのコリントの人々が信仰に入り、コリントに異邦人を主体とする信徒の群れが成立します。コリントでのパウロの福音活動は、ルカが使徒言行録一八章(一〜一七節)で伝えています。

 コリントでのパウロの福音活動はかなりの成功を収め、パウロはコリントに一年半も滞在して活動を続けます。これは次から次へと都市を移動して福音を伝えるパウロの伝道生涯では、(次のエフェソでの滞在と並んで)異例の長期滞在です。ユダヤ人は全体としてはパウロに反対しますが、かなりの数のユダヤ人が信仰に入ったようです。コリントでは会堂長のクリスポも一家こぞってイエスを信じるようになっています。コリントではユダヤ人と異邦人は別の集会を形成するのではなく、一緒に集まって共同の食卓の交わりを持ったようです。

 しかしパウロの福音活動に反対するユダヤ人の一団がパウロを襲い、時のローマ総督ガリオンに訴えますが、総督はそれをユダヤ教内の宗教問題として受け付けませんでした。こうして少し前のマケドニア州の州都テサロニケと同じように、コリントでもユダヤ教徒が引き起こした争乱によって、パウロは福音活動を続けることができず、コリントを去ることになります。こうして、パウロの福音活動はユダヤ人の宗教からの激しい反対を受けて妨げられます。

パウロのキリスト告知

 このコリントでパウロが宣べ伝えたのは復活者キリストです。序章で見たように、イエスが為された力ある働き(奇蹟)や教えられた言葉の数々を伝えて、イエスを信じて従うようにとは言いませんでした。パウロは自分が出会った復活者キリスト、今も自分の内に働く復活者キリストを宣べ伝えたのです。もちろん十字架にかけられて死なれたが三日目に復活されたイエスがそのキリストなのです。「イエス・キリスト」なのです。

 しかしパウロは「あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言います。パウロがコリントで宣べ伝えたキリストは「十字架につけられたキリスト」なのです。ここでパウロがコリントで宣べ伝えたキリストは復活者キリストであることを思い起こしてください。パウロは、イエスが過越祭の前の日にゴルゴタの丘で十字架刑に処せられたという歴史的事実を言っているのではなく、復活者キリストが十字架された姿で現れておられるのだということを言っているのです。

 この「十字架につけられたキリスト」と訳されている原語は、《クリストス・エスタウローメノス》です。ここで《クリストス》を説明している《エスタウローメノス》という語は、「十字架につける」《スタウロオー》という動詞の現在完了の受動態分詞形です。すなわち、「現在十字架につけられたままの状態の」という意味です。「十字架につけられたキリスト」という表現は、キリストという人物がいつかどこかで十字架にかけられたという歴史上の出来事を連想させる表現だと感じさせます。しかしパウロが《クリストス・エスタウローメノス》と言うとき、そのような出来事を言っているのではなく、現在自分が出会っている復活者キリストの姿を指しているのです。

 パウロはコリントの人たちの間にいるときには「イエス・キリスト、それも十字架された姿の復活者キリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」のです。ということは、パウロがコリントで福音を告げ知らせたときは、この《クリストス・エスタウローメノス》を告知したのです。「十字架された姿の復活者キリスト」を告げ知らせたのです。パウロはガラテヤでもこのキリストを宣べ伝えています。彼はこう言っています、「あなたがたの目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(ガラテヤ三・一)。パウロはコリントでもガラテヤでも復活者キリスト、しかも「十字架された姿の復活者キリスト」を宣べ伝えたのです。

U 十字架の言葉

洗礼ではなく福音を

 パウロの指導を求めてきた人たちに託した手紙で、パウロは最初にコリントの集会の分派問題を取り上げます。パウロはコリント集会の各員が、めいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことを聞き及びます。たぶん彼らは自分に洗礼(バプテスマ)を施した指導者の派に所属することを誇り、他の派の集会員を軽んじていたのでしょう。そのような集会の状況に対してパウロははっきりと言います、「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼(バプテスマ)を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」(T一・一七)。

 現代のキリスト教会は異教徒をキリスト教に改宗させるために懸命の努力をしています。そしてキリスト教への改宗は洗礼を授けることで確認されます。洗礼を受けて教会員となり、教会で行われる聖餐の儀礼に与って、忠実に教会生活を送ることが、神の救いに与る道だと、教会は教えています。このキリスト教が自明のこととしている原則に異を唱えて、内村鑑三が無教会主義を唱えました。内村は、人は洗礼を受けて教会に所属しなくても、キリストにあって神を信じて救いの道を歩むことができるのだ、と主張しました。わたしもパウロと共に、「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼(バプテスマ)を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」と言います。このように自分の使命はバプテスマを授けることではなく、福音を告げ知らせることだと明言した後、それに続いてパウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と言います(T一・一八)。

神の力としての「十字架の言葉」

 パウロは自分が宣べ伝えている福音を「十字架の言葉」と呼んでいます。パウロはイエスの出来事を報告しているのではありません。パウロは自分が体験している復活者キリストを証言しているのです。その復活者は《クリストス・エスタウローメノス》なのです。「十字架された姿の復活者」なのです。復活者キリストは「わたしはあなたのために死んだ」と語る、十字の形をした強烈な光として現れるのです。この《クリストス・エスタウローメノス》を証言する言葉が「十字架の言葉」なのです。

 この言葉は「滅んでいく者にとっては愚かなもの」です。自分の命の源泉に帰ろうとしない者、やがて滅び去る生まれながらの自分に固執している者には、この十字架の言葉は、不条理で無意味な言葉に過ぎません。しかしわたしたち、すなわちキリストにあって歩んでいる者にとっては、「救いに至らせる神の力」なのです。パウロはこのコリント書簡の後に書かれたローマの信徒にあてた最後の手紙でも、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」と書いています(ローマ一・一六)。

 十字架の言葉は和解の言葉です。神はこの《クリストス・エスタウローメノス》にあってこの世と和解しておられるのです(U五・一九)。この点は後述の項目Wで詳しく論じますが、ここでは「救いに至らせる神の力」は、神が人と和解して、神と人との交わりが回復した場で働くこと、「十字架の言葉」が受け容れられている和解の場だけで働くことを指摘しておきます。

V 神の知恵としてのキリスト

ケリュグマの愚かさによって

 パウロは「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」と言った後、「しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためである」と付け加えています(T一・一七)。福音を告げ知らせるといっても、それを言葉の知恵によってするのであれば、それは福音を実力のない、内実のない空虚なものにしてしまうのだと言っているのです。現代では新約聖書が福音を証言しているのだからとして、学問的知識を総動員して新約聖書の各文書の内容を説明し、それで福音を世界に告げ知らせているのだとしています。しかしそれは「言葉の知恵によって」福音を語っていますが、福音の実質を与えていない空虚なことをしているのではないでしょうか。福音の実質とは、後の各章で見るように、神との交わりの中で聖霊の働きによってなされる人間性の根本的な変革による救いの過程です。

 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。「そこで神は、《ケーリュグマ》の愚かさによって、信じる者を救うことをよしとされたのです」(T一・二一 私訳)。《ケーリュグマ》というギリシア語は、《ケーリュッソー》(布告する、告知する)という動詞の名詞形で、告知する行為と告知された内容の両方を意味します。パウロは回心以来、地中海世界の各地に福音を告知する働きを進めてきました。その働きもパウロの《ケーリュグマ》ですが、その際告知した内容も《ケーリュグマ》と呼ばれます。現代の神学では普通告知された内容を《ケーリュグマ》と呼んでいます。さきに福音の告知に二つのタイプがあることを紹介しましたが、イエスがなさった働きや教えの言葉を伝えるタイプよりも、パウロが告知したイエス・キリストの十字架と復活の事実とその意義を語る短い告知の内容が《ケーリュグマ》と呼ばれています。日本語では普通「ケリュグマ」と表記されます。

 確かにある出来事を告知するという行為は、知恵をもって教え導く働きと較べると、単純で愚かなものです。しかし告知の内容、イエス・キリストの十字架と復活の事実とその意義を語る短い告知の内容は、深遠な哲学や人生の知恵を語る学識の言葉からすると、あまりにも簡潔で単純、さらに「愚かな」ものです。福音はそれを宣べ伝える行為も、その内容も、言葉の知恵による教化に較べると単純で愚かなものです。しかし神はその単純な福音を信じる者を救うことをよしとされたのです。福音はキリストを告知します。パウロにとって福音とは「十字架された姿の復活者キリスト」の告知です。神はこの福音を信じる者にご自身の霊、聖霊を与えて救いに至らせるのです。聖霊こそ「救いに至らせる神の力」です。

神の知恵としての《クリストス・エスタウローメノス》

 パウロはこう書いています、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリスト《クリストス・エスタウローメノス》を宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(T一・二二〜二五)。
 ユダヤ人はメシヤ(キリスト)を待ち望んでいました。神の民を異教徒の支配から救い出して神の国、神の支配を打ち立てるメシヤを待ち望んでいました。そのユダヤ人にとって、異教徒に十字架につけられて殺されたメシアなど、つまずきそのものです。一方、ギリシア人は知恵《ソフィア》を追求します。それによって人間が現実の苦悩や悪また虚無から解放されて、本来の在り方に到達するための理解力《ソフィア》を追求します。そのユダヤ人にもギリシア人にも、パウロは《クリストス・エスタウローメノス》を宣べ伝えるのです。
 たしかに《クリストス・エスタウローメノス》はユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人(ギリシア人)には愚かなものですが、救いに召された者には、救いに至らせる神の力であり、神の知恵だ、とパウロは言います。それが神の力であることは、先に述べました。ここではそれが神の知恵であることを見ましょう。
 「神の知恵」というのは、神から来る知恵のことで、「人の知恵」とか「世の知恵」と対立します。「世は知恵によって神を認めるには至らなかった」のです(T一・二一)。人間の知識と知恵を総動員した学問や科学も、神を認識することはできませんでした。そこで神は「ケリュグマの愚かさ」によって、信じる者を救い、神を知るようにされたのです。このことをパウロは、「神の愚かさは人よりも賢い」と言うのです。人はその知恵で神を知るに至りませんでしたが、神は愚かと見えるケリュグマで神を知るようにされたのですから、「神の愚かさは人よりも賢い」と言われるのです。

隠されていた奥義としての神の知恵

   先に「ケリュグマの愚かさによって」の項の最後で、「神はこの福音を信じる者にご自身の霊、聖霊を与えて救いに至らせるのです。聖霊こそ救いに至らせる神の力です」と書きました。神の力について語ったのと同じことが、神の知恵についても言えます。神の力の実質が聖霊の働きであったように、神の知恵も聖霊の働きによって身に受けることができるのです。その消息をパウロは第一の手紙の二章(六〜一六節)で語っています。

 聖書は「隠された奥義《ミュステーリオン》としての神の知恵」を語ります。それは「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」のであり、その奥義《ミュステーリオン》を神は預言者たちや使徒たちに啓示されたので、それを書きとどめた聖書が成立したのです。そして聖書が語る《ミュステーリオン》を語り伝えるにも、使徒は「人に教えられた知恵の言葉によらず、御霊に教えられた知恵の言葉によって、霊の人々に霊のことを説明するのです」。

 わたしたちキリスト者は世の霊ではなく、神の霊を受けました。神の霊を受けたことで、わたしたちは神から恩恵として与えられたものを知りました。世の人々は世の霊に駆られて、自分が成し遂げた価値を誇り、それに頼って生きています。しかし神からの霊を受けたキリスト者は、いま自分が持っているものはすべて恩恵として神から無代価で与えられたものであることを知っています。キリストに属する者は、自分を無とする場で生きています。そのような場で、神から無代価で与えられたものは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった」神の栄光の御国の光景です。
 

W 神の和解の場としての「十字架の形の復活者キリスト」

神の和解

 パウロはコリントの信徒にあてた第二の手紙で、「神はキリストの中におられて、世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちに委ねられたのです」と言っています(U五・一九 私訳)。この文の最初でパウロは、「神はキリストの中におられた」と書いて、その後ろに「世をご自分と和解させつつ」という説明の句を置いています。神は復活者キリストの中におられて、その「キリストにおいて」という場で働き、ご自分に背いたわたしたち人間の責任を問うことなく、世と和解されて、和解の言葉をパウロら使徒たちにお委ねになったのです。「十字架の言葉」は神からの和解の言葉なのです。新約聖書はその証言です。その言葉を世に伝えることを委ねられたパウロは、切々たる言葉で神の願いを伝えます、「ですから、神がわたしたちを通して勧められておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方にあって神の義となるためです」(U五・二〇〜二一)。

神はこの世界の中に「和解の場」を設定されました。それは「キリストにある in Christ 」 という場です。人がもし福音を信じて、福音が告知するキリストに自分のすべてを投入して、「キリストにある」という場に来るならば、そこで神はわたしたちと和解して、わたしたちと交わり、わたしたちの中に働いてくださるのです。そのように、わたしたちの内に働いてくださる神を「聖霊」と呼びます。聖霊はわたしたちの中で神の知恵となって聖書を理解させ、救いへ至らせる神の力となって、わたしたちを神の国の現実(リアリティー)の中へと導いてくださいます。

神の肯定

 キリストにあって神と和解している場に入ると、世界の様相が一変します。わたしの場合、自分の存在の無意味さという否定の壁に取り囲まれて、何をしても空しいという否定の霊に苦しんでいた青年期に、ゲーテのファウストの中で悪魔のメフィストフェレスが、「わたしは一切を否定する霊だ」と言ったところを読んで大きな衝撃を受けました。そして、海のように一切を自分の中に抱き込んで肯定する世界を求めて、聖書をむさぼり読みました。その過程はここで記述することはできませんが、神の恵みの導きによってイエス・キリストを知るに至ったとき、わたしを閉じこめていた否定の壁は打ち破られました。キリストを信じることによって与えられた霊は、わたしの中ですべてを肯定する霊となりました。パウロがコリント書簡(U一・一九)で言っているように、「この方(イエス・キリスト)において『然り』が実現した」のです。
 
人生に苦労や悩みがなくなったわけではありません。しかし、どのような苦しみの中でも、神はすべてを用いて善を実現されるという確信をもつことができるようになりました。それはキリストにあって、正確には十字架された姿のキリスト《クリストス・エスタウローメノス》において、神の絶対無条件の愛を知ったからです。この天地の万物を創造された神は、すべてを見て「善し」とされたのです。その神は、御自身から背き去った世界に向かって、虚無の滅びから救い、命の充満の大肯定に至らせるために働いておられます。この悲惨な世界も創造者の大いなる約束、善なる神が善を実現してくださるという大いなる約束の下にあります。そしてこの神の約束はこの方、《クリストス・エスタウローメノス》において『然り』となるのです。わたしたちはこの方によって「アーメン」と唱えて、神に栄光を帰するのです。