市川喜一著作集 > 第28巻 復活者キリスト ― コリント書におけるパウロの福音 > 第1講

序 章  復活者キリスト

はじめに ー ローマ書と較べて


 パウロ書簡を用いてパウロが宣べ伝えた「キリストの福音」の内容と質を追求しようとするとき、コリント二書簡(第一書簡と第二書簡)はもっとも重要な資料です。パウロの福音の提示としてはローマ書がもっとも包括的で体系的ですから、「パウロによるキリストの福音」を提示するのに、ローマ書の講解という形をとることが多いようです。事実、わたしの著作集の「パウロによるキリストの福音」シリーズにおいても、最後に「パウロによる福音書ーローマ書講解」を置いて、パウロが宣べ伝えたキリストの福音の全体像をまとめています。また、著作集完成後に「パウロによる福音書ーローマ書を読む」という小冊子を刊行して、ローマ書をパウロが書いた福音書として紹介しています。

 しかし、そのローマ書も特定の状況の下で、特定の目的のために書かれた書簡であるという制約を免れていません。もちろん、このコリント二書簡も特定の状況の下で特定の目的のために書かれた書簡であるという点では同じです。しかし、両者を比較すると、その状況の違いから、コリント書簡の方が、包括的で体系的と言われるローマ書よりも、かえってパウロの福音の全体像をより具体的に生き生きと伝えている面があります。たしかに、コリント書簡はローマ書のように体系的ではありません。コリントの集会に起こった様々な実際的な問題に対処するために書かれたものですから、雑多な内容が並んでいるだけという印象を受けます。しかし、問題が具体的であるだけに、そこに現れるキリストの姿も鮮明です。とくに、異邦諸民族への福音という視点から見ますと、このコリント書簡の方がローマ書よりも重要です。その理由を簡単に見ておきます。

 ローマ書がどのような状況でどのような目的をもって書かれた書簡であるか、詳しくはローマ書講解に譲らなければなりませんが、コリント書簡と比較するために一つだけその特色をあげておきます。ローマ書は異邦人信徒を多く含むローマの諸集会に宛てられていますが、その議論の対象としてはユダヤ人信徒が強く意識されています。エルサレムこそローマ書の隠された宛先であるという見方、すなわち、パウロはこれから訪問しようとしているエルサレム教団のユダヤ人信徒たちに、自分の福音を理解してもらいたいと願って、ローマ書を書いたのだという見方もあるくらいです。そのためローマ書では、ユダヤ教の律法主義的体質を克服しようとして、「信仰による義」というような主題が中心的な位置を占め、ガラテヤ書と相通じる性格の書簡となっています。それに対して、コリント書簡は異邦人特有の諸問題に対処するために書かれているので、「信仰による義」というようなユダヤ教を意識した議論が中心的位置を占めることはなく、ユダヤ教律法と関係がない異邦人信徒がキリストにあって生きるとはどういう事態であるかが、詳しく展開されることになります。「義」という名詞と「義とする」という動詞の用例を合わせた回数は、ローマ書で四三回、短いガラテヤ書で一〇回であるのに対して、ローマ書とほぼ同じ長さのコリント第一書簡では僅か三回です。コリント第二書簡では四回出てきますが、「義」とか「義とされる」というユダヤ教の中心的な概念が、「和解」という世俗的用語で語られるようになっています。

 そのさい、コリントの集会が実に多岐多様な問題を抱えていたので、キリストとの関わりが実に多様な視点から取り上げられることとなります。その結果、キリストの提示(それが福音です)が、具体的であると同時に、多様多彩で包括的になっています。コリントの人たちには苦悩である問題が多かったことが、この書簡におけるキリストの提示を具体的かつ包括的にしており、現代のわたしたちに幸いな結果となっています。これは、テサロニケの集会での問題がキリストの来臨の問題に集中していたために、使徒のテサロニケ書簡が「キリストの来臨《パルーシア》」だけを語っているような印象を与えるのと対照的です。

 コリントにおける個々の問題と、それに対処するパウロの仕方、その中に現れるキリストの福音の質は、著作集の「パウロによるキリストの福音」UとVのコリント二書簡の講解で詳しく見てきました。本書では、それらの諸問題に対処するパウロの仕方の中に現れる「キリスト」の姿に焦点を当てて、キリストを世界に告知する「キリストの福音」とはどういう現実であるのかを見ていきたいと思います。

T 「キリスト」という称号

称号としての「キリスト」

 キリスト者とは「イエス・キリスト」を信じて生きている者です。ところが世間では、この「イエス・キリスト」という名が一人の人の姓名のように扱われて、キリストという姓のイエスという名の人を指す名前だと理解されています。そうではありません。「キリスト」という言葉は本来一人の人の名前ではなく、ある人の身分とか地位を表す称号なのです。大統領であるケネディ氏を「大統領ケネディ」とか「ケネディ大統領」と呼ぶように、イエスをキリストという地位の方、キリストとしての働きを為してくださる方として、「キリスト・イエス」とか「イエス・キリスト」と呼んでいるのです。

 「キリスト」という日本語は、《クリストス》というギリシア語の日本語表記ですが、このギリシア語はもともと「油を注がれた者」という意味の語であって、ヘブライ語の「メシア(油注がれた者)」から来ています。イスラエルでは祭司とか預言者とか王は、油を注がれてその地位に任ぜられ、その任務を行うことが委ねられました。そのような伝統の中で、将来苦難の中からイスラエルを救い出して解放すると期待される人物が、神から油を注がれてその地位に任ぜられ、その解放の任務を委ねられた者として、イスラエルで「メシア」と呼ばれたのです。

ナザレのイエス

 今から二千年ほど前のユダヤ民族の中に、ナザレという町の出身者で、「ナザレのイエス」と呼ばれる一人の人物が現れ、民衆の間で多くの病人をいやし、目が見えない人を見えるようにしたり、耳の聴こえない人を聴こえるようにするなど、神の力によって多くの不思議な働きをされたので、その方の周囲には各地から多くの民が集まり、その方が説く神への信仰の言葉に耳を傾けました。ところが、その方が説く教えの言葉が、その民の宗教であるユダヤ教の基本原則に反するという理由で、その時代のユダヤ教の最高裁判所である最高法院に訴えられ、異端の罪で死刑判決を受けます。当時ユダヤの地はローマ帝国の支配下にありましたので、イエスはローマ総督の法廷での裁判を経て、ローマの処刑方法である十字架刑で処刑されます。

 イエスが十字架上に息を引き取られたのは、ユダヤ教の安息日である土曜日の前日、金曜日でした。すべてのユダヤ人が神殿や会堂、あるいは自宅で静かに神を礼拝する安息日には、イエスの遺体は墓室の冷たい石の上に横たわっていました。当時のユダヤ人の埋葬の習慣では、山腹に小さな墓室を掘り、そこに数日遺体を置いて、近親者が遺体を取り囲んで嘆き祈りを捧げた後、遺体を墓室に続いて掘られた横穴に入れて塞ぎ、一両年の後、遺骨を取り出して石灰の骨箱に入れて、定められた場所に安置するのでした。

イエスの復活

 ところが神は墓に葬られたイエスを復活させられたのです。その安息日の翌日の日曜日、すなわち週の初めの日の早朝、イエスを慕う数人の女性たちが遺体に香料を添えるために墓を訪れたとき、墓所を塞ぐ大きな石は取り除かれており、墓室は空だったのです。復活されたイエスは、その日から弟子たちに現れて、ご自分が生きていることをお示しになります。墓に行った女性たちに、部屋に閉じこもっていた弟子たちに、そして近くのエマオへ帰る弟子に、復活されたイエスは現れておられます。そしてまた、ガリラヤ湖の岸辺で、また漁に戻った弟子たちの舟の近くの湖上でも現れておられます。

 復活されたイエスに出会った弟子たちは、周囲のユダヤ人たちに証言します。イエスが十字架上に死なれたのは、ユダヤ教の過越祭の時期でした。それから七週後の七週祭(=五旬節)のとき、多くの人たちが集まるエルサレムで、復活して生きておられるイエスに出会った弟子たちを代表してペトロが叫びます、「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させて主とし、またメシア(=キリスト)とされたのです」(使徒二・三六)。いま福音は世界に告知します、「十字架上に死なれたイエスを、神は復活させてキリストとされた」と。十字架上に死なれたナザレのイエスを、神は復活させて救済者キリストとされた、と福音は宣べ伝えます。

 「キリスト」とは人を救う方の称号です。死に定められた人間を救うのは、死を克服して今も生きている者、復活者だけです。神はイエスを復活させて「キリスト」とされたのです。「キリスト」という称号は、復活者を指します。「復活者キリスト」というのは同語反復です。しかし、「キリスト」という言葉が現代では一人の人の氏名の一部のようになってしまっているので、キリストとは復活者を意味することを強調するために、わたしはあえて「復活者キリスト」という表現を用います。世界の歴史には多くの偉人哲人が出て、人々の師として仰がれ、教祖となりました。しかし復活してキリストとして宣べ伝えられ、世界の人々にキリストとして信じられて、世界史上最大の宗教(キリスト教)で信仰の対象となったのはイエスです。

U パウロのダマスコ体験

ギリシア語を話すユダヤ人の会堂での事件

 十字架上で絶命して墓に葬られたイエスが、復活して現れてくださったことを体験した弟子たちは、エルサレムに戻ってきます。そして過越祭の次の巡礼祭である七週祭に集まってきた群衆に、ペトロが代表して、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させてキリストとされた」と声を上げます。これを聞いて多くのユダヤ人が、イエスを拒否した罪を悔い改めてイエスを信じます。こうしてエルサレムにイエスをキリストと信じるユダヤ人の共同体が成立します。

 当時のエルサレムではユダヤ人にも区分があって、パレスチナで生まれ育ってアラム語を話すユダヤ人と、(パレスチナ以外の)離散の地で生まれ育って、時代の共通語であるギリシア語を話すユダヤ人で聖都エルサレムに来住している者たちの区分です。聖書では「ヘブライ語を話すユダヤ人」と「ギリシア語を話すユダヤ人」と言われています(使徒六・一)。この二つのグループのユダヤ人は、その使用言語の違いから安息日ごとに集まる会堂も違っていました。このギリシア語を話すユダヤ人の会堂で事件が起こります。このギリシア語を話すユダヤ人の会堂で、イエスをキリストと信じるグループの指導的な人物であるステファノが、キリストであるイエスはモーセ律法を超える教えをもたらしたとか、エルサレム神殿で行われる聖なる祭儀をおとしめる発言をしたとして訴えられ、激昂した群衆に「都の外に引きずり出されて石を投げられて」殺されます(使徒七・五七〜八・一)。この場面で本書の主人公になるパウロが登場します。

パウロの登場

 パウロは初めはイエスを信じるユダヤ人を迫害する立場の人間でした。パウロは当時ユダヤ名の「サウロ」と呼ばれるファリサイ派の律法学者であり、エルサレムにあるギリシア語を話すユダヤ人の会堂で、聖書を教える活動をしていたと考えられます。両親はキリキア州の州都タルソに住むディアスポラ(離散のユダヤ人)であり、サウロは熱心なユダヤ教徒の両親のもとでギリシア語で育ちますが、青年期にエルサレムに出て、おそらく高名な律法学者ガマリエルのもとで、律法(ユダヤ教)の学習に励みます。後にパウロはこの時期を回顧して、「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」と言っています(ガラテヤ一・一四)。おそらくこの時期にアラム語も習得して、二言語に通じていたと考えられます。

 その頃、エルサレムのギリシア語を話すユダヤ人の会堂で、ステファノの事件が起こります(使徒六〜七章)。ギリシア語を話すユダヤ人の間で、イエスをメシア・キリストと信じる人たちを指導するステファノが、聖なるモーセ律法や神殿を軽んじる言動をしたとして会堂の法廷となる衆議所に訴えられます。当時、会堂(シナゴーグ)はユダヤ教徒の社会の営みを統合するセンターであって、宗教行事だけでなく、教育や行政・司法の権限を行使していました。その衆議所の裁判でステファノは律法に背く者として石打ちの刑を宣告されます。その法廷の一員であったサウロはその判決に賛成します(使徒八・一)。ステファノは、石打ちの刑の規定に従って、都の外に引きずり出されて高いところから突き落とされ、裁判で有罪の証人となった者から石を投げられて死に至らせられます。この場面で、「証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」とあり、サウロが登場します(使徒七・五八)。

ダマスコでの出来事

 サウロは熱烈な気鋭のユダヤ教律法学者ですから、イエスを信じるユダヤ教徒がモーセ律法(ユダヤ教の諸規定)や神殿の祭儀を軽んじることが許せませんでした。「サウロは家から家へと押し入って、男女を問わず引き出して牢に送って」いました(使徒八・三ー牢というのは衆議所の裁判に訴えられた者を監禁する室)。さらにエルサレムからかなり北にある大都市ダマスコでもイエスを信じる者がいると聞いて、彼らを逮捕するために、大祭司からダマスコの諸会堂あての手紙を出してもらって、ダマスコに急ぎます。ところがダマスコに近づいた時、サウロは天からの強烈な光に打たれて地に倒れ伏し、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きます(サウルというのは呼びかける時の形です)。その光に圧倒的な人格的な迫りを感じたサウロは思わず、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねます。すると「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という言葉が返ってきます。サウロはそれまでイエスを信じるユダヤ教徒を迫害していました。しかし実は彼らの中にいますイエスを迫害していたのです。そのイエスが今も生きておられる主として、迫害者サウロに圧倒的な光の中に現れて彼を打ち倒されたのです。

 サウロはその強烈な光に打たれて地に倒れ伏し、目が見えなくなり周囲の人たちに手を引かれてダマスコの市街に入り、予定されていた家に到着しますが、あまりの衝撃の大きさに圧倒されて、三日間、目が見えず、食べることも飲むこともできませんでした。その頃、イエスはダマスコ在住のアナニアという弟子に現れて、サウロのところに行って祈るように命じられます。アナニアが指示されたとおり、サウロに手を置いて祈ると、目から鱗のようなものが落ちて、サウロは見えるようになり、聖霊に満たされます。その時、サウロはアナニアを通して、自分がイスラエルの民と異邦の諸国民にキリストを宣べ伝える使命に召されたことを知ります。

 これが「パウロのダマスコ体験」として知られている出来事です。この体験によって、イエスをキリストと信じる者を迫害してきたファリサイ派の律法学者サウロは、生涯イエスに仕える僕(しもべ)となり、イエスをキリストとして地の果てまでも宣べ伝える使徒パウロに激変するのです。それまでのサウロは、ユダヤ教の規定を守り行うことが神に受け容れられる唯一の道だとして励んできました。この体験以後は、ユダヤ教規定の順守は関係がなく、キリストである復活者イエスを信じて自分の一切を委ねて従うことだけが、神に受け容れられる道であるとして、イエスの僕(しもべ)パウロとして苦難の生涯を送ります。
  

ダマスコからアンティオキアへ

 ダマスコでイエスを迫害する者からイエスの僕(しもべ)として仕える者になったサウロは、ダマスコの諸会堂でイエスこそキリストであると宣べ伝え始めます。イエスをキリストと告白する者を逮捕するために来たと恐れられていたサウロが、イエスをキリストと宣べ伝えたのですから、ダマスコのユダヤ人たちは混乱します。しばらくしてサウロはダマスコを去ってアラビアに出て行きます。回心直後の行動についてパウロ自身がガラテヤ書(一・一七)で、「わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに出て行って、そこから再びダマスコに戻ったのでした」と言っています。アラビアに行ったのは、ユダヤ人の会堂がある首都ペトラでイエス・キリストを証言するためであったと考えられます(このアラビア行きについては著作集「パウロによるキリストの福音T」二一九頁以下を参照)。

 ダマスコに戻ったサウロはますます力強くイエスがキリストであることを証言したので、ダマスコのユダヤ人は混乱し、信じないユダヤ人はサウロを生かしておけない者として、殺害の陰謀を企て、土地の代官に訴え出ます。サウロの証言を信じた人たちはサウロを救うために、窓から篭で城壁伝いにつり降ろしてサウロを逃します。後にパウロもこう言っています、「ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から篭で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした」(コリントU一一・三二〜三三)。

 ダマスコを脱出したサウロはエルサレムに向かいます。後にパウロ自身が、「それから(回心から)三年後、ケファ(ペトロ)と知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しました」と言っています(ガラテヤ一・一八)。イエスを信じる者を逮捕するために送り出されたギリシア語系の会堂から裏切り者として追求され、命の危険さえ覚悟しなければならないエルサレムに上ってペトロに会おうとしたのは、自分がキリストとして宣べ伝えているイエスとは、どういう人物であったのか、その教えの言葉とか、その働き、生涯の出来事を詳しく聞くためであったでしょう。それと共に、敬虔なユダヤ教徒であるサウロにとって、エルサレムこそ神の働きの中心である聖なる都であり、そこでこそキリストの証言を立てなければならないという思いもあったことでしょう。

 覚悟していた通り、ギリシア語系会堂のユダヤ人たちはサウロに激しく反発し、その裏切りをなじり、彼を殺そうとします。それを知った仲間たちは、サウロをカイサリアまで秘かに送り、おそらく船便でサウロの故郷であるキリキア州のタルソへ出発させます(使徒九・二九〜三〇)。生まれ故郷のタルソでサウロがどう過ごしたかは、一切記録や言及がなく推察する他はありませんが、回心後ただちにダマスコやエルサレムで活発な福音活動をしていることや、少し後の使徒書簡がキリキア州の信徒たちにも宛てられていることを見ますと(使徒一五・二三)、サウロはタルソでも活発なキリスト証言の活動をしていたと推察されます。

 一方、ステファノの事件で起こった迫害で散らされた人々は、フェニキア、キプロス、シリア州の州都アンティオキアまで行き、イエス・キリストを宣べ伝えたので、それらの地域にイエスをキリストと信じるユダヤ人と異邦人から成る信者の共同体が成立します。とくにアンティオキアは当時ローマ、アレキサンドリアに次ぐ重要なヘレニズム文化の大都市であり、多くのユダヤ人と異邦人が自由に交わってイエスの信者の共同体を形作っていました。アンティオキアにかなりの規模の信者の共同体ができたことを知ったエルサレムの共同体は、その中の優れた人物のバルナバを派遣して、新しく形成されたアンティオキア共同体に、イエス伝承を伝え、共同体を指導させます(使徒一一・一九〜二四)。バルナバはキプロス系のユダヤ人家族の生まれですが、エルサレムに長年暮らしてアラム語をよくしたので、ヘブライ語系の会堂に所属し、ステファノのことで起こった迫害のとき、使徒たちと共にエルサレムに残ることができたのでしょう。

 バルナバはアンティオキアに成立した異邦人を多く含む信仰者の共同体を指導するのに、ギリシア語系会堂の指導者であったサウロが必要と考え、タルソに帰っていたサウロを探し出して、アンティオキアにつれてきます(使徒一一・二五〜二六)。アンティオキア共同体の指導者の名簿にバルナバとサウロの名が見えます(使徒一三・一)。二人はアンティオキアの信仰者の共同体で指導的な働きをしますが、ある時期に、アンティオキア共同体から、キプロス島やアナトリア半島(小アジア)中部のピシディア州の諸都市にキリストを伝える働きに送り出されます。この二人の伝道活動の詳細は使徒言行録の一三章から一四章に伝えられていますのでそれに委ねて、ここではパウロがバルナバやアンティオキア共同体から離れて、独立自給の体制でエーゲ海地域に福音を宣べ伝えた時期に急ぎます。(このキプロスの記事でサウロはギリシア語名である「パウロ」と呼ばれるようになりますので、本書でも以後「パウロ」という名を用います。)

 しかしその前に、パウロが盟友であったバルナバとも別れ、長年その一員であったアンティオキア共同体からも独立して、その福音活動を始めなければならなくなった事情を、簡単に見ておきましょう。ルカはその事情を、マルコを連れて行くかどうかで意見が食い違ったためだとしていますが(使徒一五・三六〜四一)、状況はそれほど簡単ではなかったようです。パウロは先の福音宣教で、キプロスやアナトリアの諸都市で大きな成果を挙げ、イエスを信じた異邦人に割礼を行わないままで受け容れ、その中に聖霊の働きを見ていました。しかし、信仰に入った異邦人に割礼を受けてユダヤ教に改宗することを要求するエルサレム共同体からの圧力があり、パウロはその圧力と妥協するアンティオキア共同体の活動の一部として福音活動を進めることはできないと判断したものと考えられます。

V 復活者キリストの告知

福音告知の二つのタイプ

 パウロはその生涯の後半、アンティオキア共同体から独立して自給の福音活動を始め、地中海の一部であるエーゲ海沿岸の諸都市にキリストの福音を宣べ伝えました。エーゲ海はギリシア本土とアナトリア半島の間に広がる海であり、ギリシア人が活躍した舞台です。その北岸は、当時ローマ帝国のマケドニア州、西岸はアカイア州、東岸はアジア州となります。パウロはそれぞれの州都となる大都市に福音を宣べ伝え、イエスをキリストと信じる者たちの共同体を形成します。その中でアカイア州の州都コリントには一年半も滞在して、多くの信徒を得て活発な集会を形成します。その様子はルカが使徒言行録の一八章(一〜一七節)で伝えてくれています。そのコリントのキリスト者の集会が、パウロがコリントを去って東岸のアジア州の州都エフェソに滞在している時に、さまざまな問題を抱えるようになって、パウロの指導を求めるようになります。その求めに応じて長い手紙を書いたり、時には心配のあまり直接遠くのコリントまで出向いたりして、その諸問題への対応に苦心します。そういう苦労の中でコリントの集会にあてて書かれた手紙であるコリント書簡が本書の主題になります。

 パウロがこのエーゲ海周辺の諸都市に宣べ伝えたのは「復活者キリスト」でした。パウロはもちろんイエスを知っています。パウロは生前のイエスの弟子として、イエスと一緒にいて直接イエスの働きを見て、イエスの教えの言葉を聞いたわけではありません。しかし、イエスが復活してキリストとされたのですから、イエスがどのような方であり、どのような働きをされたのか、またどのような言葉で教えられたのかを、弟子としてイエスに付き従ってきたペトロから詳しく聞いています。パウロが危険を冒してエルサレムに行って、ペトロと会い十五日間も一緒にいたのは、そのためでした(ガラテヤ一・一八)。しかしパウロは異邦諸国民に福音を宣べ伝えたとき、イエスはこのような奇蹟を行われたとか、このような言葉で教えられたということはほとんど語ることはなく、十字架につけられて死なれたイエスを神は復活させてキリストとされたことと、その復活者キリストは信じる者にどのような働きをしてくださるのかということだけを宣べ伝えたのです。パウロは復活者キリストを福音として告知したのです。では、どうしてパウロの福音告知が、地上のイエスの働きの告知ではなく、復活者キリストの告知となったのでしょうか。それはパウロがイエス・キリストを知った体験、その知り方によります。

 キリストの福音を告知する仕方に二つのタイプがあります。一つは、ナザレのイエスが地上で為された数々の力ある働き、病人を癒やし、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにしたり、死んだ人を生き返らせるなど、神の力をもって為された奇蹟の働きを報告し、そのイエスが教えられた言葉を詳しく伝えて神への信仰を励まし、その上でこのような神の人であるイエスが十字架につけられて死なれたが、三日目に神はイエスを復活させてキリストとされたのだ、と伝えるタイプです。これはイエスの生前、弟子としてイエスに付き従い、イエスが為される神の力ある働きを見たり、、イエスの語られる教えの言葉を直接身近に聞き、イエスの十字架の死と復活の現実に触れた者たち、すなわちペトロが代表するイエスの弟子たちがした福音告知の仕方です。新約聖書にある三つの共観福音書はこのような形で福音を告知し、「福音書」と呼ばれています。

 もう一つのタイプはこれと異なり、イエスの十字架と復活の事実を告知して、地上のイエスの働きや言葉に触れることなく、キリストとしてのイエスが十字架上に死なれた事実がわたしたちに対して何を意味するのか、復活されたキリストはわたしたちに何をしてくださるのかだけを告知するタイプです。まさにパウロが代表するタイプです。長年のキリスト教会の伝統から、イエスの生涯の事実を語っていないパウロ書簡を「福音書」と呼ぶことを神学者は拒否しますが、パウロは自分が宣べ伝えてきた復活者キリストの告知を「福音」と呼んでいるのですから、彼の生涯の最後に書かれた体系的な福音の提示であるローマ書を、わたしは「パウロによる福音書」と呼んでいます。これは年代的に最初に書かれた福音書となりますので、わたしはこれを「第一福音書」と呼んでもよいと考えています。

 実は新約聖書時代のもっとも後期に成立したヨハネ福音書は、この二つのタイプを兼ね備えた福音書です。イエスの地上の働きを伝えているという点では他の福音書と同じですが、それと重ねて復活者としてのイエス、すなわちキリストが語られるという二重性が貫かれています。この二重性がヨハネ福音書を新約聖書を代表する福音の書として、多くの信仰者から重要視される理由です。

パウロへのキリストの啓示

 パウロがその晩年に独立でエーゲ海沿岸の諸都市に福音を宣べ伝えたとき、第一のタイプの福音告知ではなく、第二のタイプ、すなわち十字架上に死なれたが、復活して今も生きて働いておられるキリストを宣べ伝えたのです。パウロがそのよう形で福音を告知したのは、パウロが最初に体験したキリストの啓示が、復活されたイエスとの遭遇であったからです。パウロが最初にイエスに出会ったのは、あのダマスコ体験のイエス、強烈な光としてパウロに現れたイエスでした。パウロはこの復活して今も生きて働くイエスこそがキリストであることを悟ります。パウロはこの復活者イエス・キリストを福音として諸国民に宣べ伝えるのです。

 パウロもあのダマスコ体験から三年後にエルサレムにペトロを訪ね、十五日間も一緒にいてイエスのことを詳しく聞いております。イエスの働きや教えの言葉の主要なことは知っています。しかしパウロがその後期にエーゲ海地方で福音を告知したときには、イエスの働きや教えの言葉に触れることはありません。復活者キリストを宣べ伝え、そのキリストを信じてキリストに自分のすべてを委ねる者に、復活者キリストはどのような働きをしてくださるのかを宣べ伝えたのです。

 その際パウロは、キリストを信じた者が従うべき規準として、イエスの教えの言葉を引用することはありません。イエスが地上におられる時にはこう語られたのであるから、あなた方もこういう場合にはこのイエスの言葉に従ってこうしなさい、というようにはパウロは教えていません。ではなぜパウロは、イエスの働きや教えの言葉に触れなかったのでしょうか。それは、パウロが知っているイエスの働きや教えの言葉は、「又聞き」、他の人から伝え聞いた知識であったからです。パウロは自分が体験して直接に知っているキリストを証言してきました。そのキリストを信じてキリストに従う者たちにその歩み方を勧告するときには、自分がキリストにあって聖霊の導きによって歩んできたように、聖霊が与えてくださる歩みをするように勧告するのです。「御霊の導きに従って歩みなさい」というガラテヤ五・一六〜二六の勧告が典型的な実例です。

 このようにパウロが聖霊によって勧告するキリスト者の生き方は、イエスが語られた言葉と同質なものになります。たとえば、パウロが愛について語るところ(ローマ一二・九〜二一)は、イエスが敵を愛するように教えられた言葉(ルカ六・二七〜三六)と響き合います。わたしたちキリストにある者は、この二つの箇所で同じ神の霊がわたしたちに語りかけていることを感じます。パウロは又聞きの言葉を規範にするのではなく、直接復活者キリストから賜る聖霊の導きに従うように説き勧めるのです。

コリント書簡における福音

 本章冒頭の「はじめにーローマ書と較べて」で述べましたように、コリント二書簡(第一と第二)はコリントの集会に起こった具体的な様々な問題を扱っていますので、福音の体系的な提示とは言えません。福音の体系的な提示という点では、ローマ書の方が優れています。しかしコリント二書簡は信仰生活に起こる各種の具体的な問題を扱っているだけに、それらの諸問題に対してパウロが対処する仕方の中に、パウロの内に働いておられる復活者キリストの姿が一層鮮明に現れてくるという特色が出てきます。それに手紙の長さの点でも、コリント二書簡を合わせた長さはローマ書の二倍近くあります。それだけに福音が告知する復活者キリストの姿の様々な面が詳しく取り扱われているという、現代のわれわれには有難い面もあります。

 コリントの集会に起こった様々な問題に対処するパウロの仕方は、先に刊行した「パウロによるキリストの福音」のUとVで説明していますので、それを見ていただくことにして、本書ではその諸問題に対処するパウロ書簡の文面に表れた復活者キリストの姿に焦点をあてて、復活者キリストとはどういう方であり、信じる者にどのような働きをしてくださるのか、わたしが体験し理解した限り、述べてみたいと願っています。従って本書はコリント二書簡の講解ではなく、コリント二書簡に現れる復活者キリストの姿に迫ろうとする一つの試みです。著者のこの小さな試みが、主イエス・キリストにあって歩む方々に、復活者キリストの姿をすこしでも鮮明にすることに役立つことを祈って、お手元に届ける次第です。

【追 記】

 使徒パウロがコリントにおいて行った福音活動の実際については、拙著『パウロによるキリストの福音 U』の第一章第一節「ユダヤ人にもギリシア人にも」をご覧ください。


                              (一九八六年一号)