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第 十 講  歴史の中に働く神


神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。

(ヘブライ人への手紙一章一〜二節)


 前講(第九講)においてわたしは創造者としての神について論じ、「神」という言葉は天界(霊的存在界)とか地上界(物質界)のある一つの存在ではないことを強調しました。そうではなく、「神」という語は存在しないものを存在へと呼び出す根源的な働きであるのです。人間の創造については、聖書は「神は自分のかたちに人を創造された」と述べています(創世記一・二七)。神は霊です、したがって神のかたちに従って創られた人間も霊的な存在です。人間の霊は身体の中に住んでいます。そしてその身体は他の動物の身体と同じです。人間の身体は進化の原則に従うことになります。

 数々の人属の中で「ホモ・サピエンス」と呼ばれる小さなグループが生き残って、地上の全土を覆うに至りました。この身体的にはむしろか弱い人間のグループが生き残って全地に満ちるようになった最も重要な要素は、この種族が言葉をもって互いに理解し助け合って、他の種族よりも大きな共同体を形成する能力にあると言われています。共同体を形成する上で最も強力な結合力になったのは「宗教」、すなわち見えない世界に対する共通の信仰です。宗教は「ホモ・サピエンス」と同じ古さがあります。

 先に第七講で述べたように、人間の本性には二つの側面があります。すなわち、「聖なる」側面、われわれ人間の能力と日常経験の限界を超えるものに関わる面、そして「俗なる」側面、われれの日常生活と人間の能力の限界内にあるものに関わる面、この二つです。わたしたちは日常生活の中で、人間の理解や能力を超えた、何か奇妙で不思議な出来事に遭遇することがよくあります。わたしたち、この生の神秘を「聖なるもの」として扱うことになります。宗教を「聖なるもの」に対する人間の態度、感謝とか賛美、不安とか恐怖などの態度だと定義することができるかもしれません。

 原始的な社会では人々の生活のすべての面に「聖なるもの」がしみ込んでいました。彼らの生活すべてが宗教的でした。宗教的規範に従うことが彼らの行動の決定的な規準でした。その宗教的な禁止である諸々のタブーが、禁じられた行動に対する最も強力な抑止力でした。それで宗教的な指導者、たいていは祭司たちが、同時に共同体の指導者の地位を占めることになります。宗教と政治は、人類の歴史を通じてずっと絡み合い、区別できないものとなりました。ごく最近までそうでした。

 このような原始の時代でも、神はその被造物である人々の中に働いておられたのです。けれども人間はこの働きを「聖なるもの」の働きの現れだと理解して、複雑な神話を作り出すことになりました。その神話の中では彼らの日常体験の様々な局面が神々の働きに帰せられることになるのです。その結果、人間の体験は断片的なものですから、それに対応して数多くの神々が現れてくることになります。たとえば、ギリシア人は予測できない雷の現象にジュピターという神の名を与え、大地の生産力にデメテールという神の名を与えるというように。人々はこれらの「聖なるもの」の現れに対して捧げものを伴う宗教的な儀礼をもって拝んだのです。人間の宗教は必然的に多神教になりました。

 小さな共同体が共通の言語と文化をもつ一層大きな共同体である国民を形成したとき、それぞれの宗教も統合されて、それぞれの小さな共同体が体験してきた様々な「聖なるもの」の顕現を含むようになります。こうして地上に、多神教的な宗教をもつ多くの国民が出現します。しかし彼らの創造者である唯一の神が、それらの諸国民の中に様々な姿で働いておられたのです。創造者なる神は人間を御自身の形に創造され、彼らを愛されたのです。神は、神に背き神から遠く離れ去った者たちを御自身のもとに呼び戻すために、そのような人たちの中に働き続けてこられたのです。しかしすべての国民は自分の創造者である神を認めるに至らず、「聖なるもの」の現れを自分に都合のよい神々として拝んできたのです。

 地上のすべての国民の中から神はイスラエルと呼ばれる小さな民を選ばれました。この民は自分に語られた神の言葉を信じたアブラハムの子孫です。神はその御計画をその民に知らせていかれました。それは背き去ったすべての人類を御自身のもとに引き戻すためです。神はその民に様々な方法で語られました。イスラエルがエジプト王の支配の下に抑圧されていたとき、神はモーセを遣わして彼らをエジプトから救出されました。その道具であるモーセによって、神はイスラエルの民に神に敵対する諸勢力からの最終的な解放がとる形を提示されたのです。イスラエルがアッシリヤとかバビロンなど周辺の諸帝国から来る危機を体験したとき、神は多くの預言者たちを送って、彼らを警告し、慰め、その解放を預言されました。神はイスラエルの歴史の中で、預言者たちという姿で民に語りかけ、その御計画を成し遂げて行かれたのです。

 聖書の神は、人類の救いのために歴史の中に働かれる神です。聖書は「救済の歴史」の書です。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られた」のです(ヘブライ書一・一)。預言者たちは、神はこの終わりの時代の中でその最後の働きを完成しようとしておられるのだと、人々に語りました。神は約束されたように行動されました。神はその最終的な言葉を語られました。「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」(ヘブライ書一・二)。天と地を創造された神は、キリストとしてのイエスにおいて、その最終的な言葉を語られたのです。初期の信仰者たちは、このキリストとしてのイエスを「御子」と呼びました。それは新約聖書に「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」とある通りです。キリストとしてのイエスの出来事全体において語られた言葉こそ、創造者の最終的で決定的な言葉なのです。

 イエスは歴史上の人物です。彼はユダヤに生まれ、一世紀の前半に生きました。彼は敬虔なユダヤ教徒でしたが、その最高法院で死刑の判決を受け、十字架上の死を遂げました。しかし彼の弟子たちは、神が彼を三日目に死者の中から復活させたと証言し、彼を神から油注がれた世界の救済者キリストとされたのだと宣べ伝えました。神はキリストとしてのイエスの歴史的状況の中で働き、そうすることで彼において人類に対する最終的な言葉を語られたのです。イエスはその地上の生涯において、病める人たちに対する力ある善き業により、またその教えによって神が人類に何を望んでおられるのかを語ることによって、神を指し示してこられました。確かに彼の中に神が働いておられたのです。

 しかし人類に対する最終の決定的な神の言葉は、キリストとしてのイエスの出来事全体の中で語られた言葉です。十字架上に死なれ、三日目に死者の中から復活されたキリストとしてのイエスの歴史の中で、神はわたしたちにどう語っておられるのでしょうか。これが次の講話の主題になります。