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第 八 講  福音における復活


しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

(コリント第一書 一五章二〇〜二二節)


 パウロが広く地中海世界に宣べ伝えた福音は、彼の書簡の中で次のように要約されています、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです(コリント第一書一五・三〜五)。ここではキリストに起こったことが、死んだ、葬られた、復活した、現れたという四つの動詞で記述されていますが、しかし要約すれば、「キリストは死んだ、そしてキリストは復活した」と二つにまとめることができるでしょう。この二つは「聖書に書いてあるとおり」起こったのです。神は、前もって預言者たちによって語り、聖書に証言されていたとおり、キリストによって働かれたのです。

 神がキリストにおいて現されたこの二つの救いの働きの中で、キリストの死は「わたしたちの罪のため」の償いとして、明確にわれわれに関連づけられています。キリストはわたしたち罪人を神と和解させるために死なれたのです。わたしたちはみな神に背を向け離れ去っていたのですから、和解なしでは神との交わりを回復することはできません。この神への背反が、パウロが常に単数形で語る「罪」なのです。確かにこの和解、聖書の用語では「贖い」とか「罪の赦し」と呼ばれていますが、この和解は福音のもっとも重要な中心主題です。しかし今は、神がキリストを死者の中から復活させたというもう一つの中心主題を強調しなければなりません。このことはどういうことを意味しているのでしょうか。

 第一の意味は、神はこの復活させた者をキリスト、世界の救済者であると指し示されたということです。ナザレのイエスは十字架の上に死なれましたが、神はこのイエスを死者の中から復活させることによって、世界の救済者キリストと指名されたのです(「ローマ書一・三〜四)。しかしイエスが死者の中から復活されたという事実は、もう一つの意味があります。神は御自身の民を復活させるということをわたしたちに語るために、イエスを死者の中から復活させたのです。イエスの復活は、「キリストにある」神の民の復活を告知しているのです。コリントの信者のある者たちが死者の復活などはないと言っていることを知ったパウロは、ショックを受けて、彼らの深刻な誤りを正すために手紙を書いたのです。パウロはコリントの人たちにあてた最初の手紙の中で、長い一章をこの問題に当てています。それが一五章です。その第一部(一〜一一節)で、彼自身を含め、復活されたキリストの顕現を証言する多くの証人を挙げています。そして第二部(一二〜一九)で「死者の復活がないのであれば、キリストも復活しなかった」ことを強調します。

 この宣言は普通次のように解釈されています。人間は死んだ後にまた生きることはあり得ないのだから、文字どおりキリストが復活したというのは不可能だというのです。しかしパウロの宣言は物質的な世界に関わるものではなく、神の救済史に関わるのです。もし世界の創造者であり歴史の完成者である神が、御自身の民を死者の中から復活させてその救済計画を完成するのでなければ、その民の代表者であるキリストを死者の中から復活させることもなかったはずだということです。しかし今やキリストは死者の中から復活されたのですから、その事実は、神はキリストに属する彼の民を、その救済計画の最終段階で死者の中から復活させることを指し示しています

 キリストの復活とその民の復活との関係は、まず初穂という比喩で説明されます(二〇節)。初穂について起こることは、収穫全体について起こることを予告しています。神はキリストを死者の中から復活させましたが、それは神はキリストにある自分の民を死者の中から復活させてくださることを意味しています。復活の真理は次の節でさらに語られます(二一〜二二節)。ここではアダムとキリストは人類の二つのタイプあるいは二つの領域を代表する者です。アダムは生まれながらのままの本性に従って生きている人間を代表しています。キリストは、キリストを信じて聖霊の働きによって新しくされた人たち、すなわちキリストにある者たちを代表しています。わたしたち人間が存在し生きていくのに、アダムにあるかキリストにあるか、二つの状況あるいは領域があります。もしわたしたちがアダムにあって、すなわち生まれながらの性(さが)にしたがって生きていくのであれば、死ぬほかありません。死は人間性の宿命です。われわれはこの宿命から逃れることはできせん。アダムにあっては、すべての人は死にます。

 もしわたしたちがキリストにあるならば、すなわち福音を信じてキリストに自分自身を委ねていくならば、わたしたちの内に働く聖霊によって「命を与えられる」のです。キリストにあって神はわたしたちの罪、わたしたちの存在の根底である神から離れ去っていた罪を赦し、聖霊を注ぐことによってご自分の命を与えてくださっているのです。それはわたしたちの死に定められた命の中に来た永遠の命です。それは、死に定められた身体の中で復活に向かって生きている命です。わたしたちの身体は期限切れになります。けれどもわたしたちは、神がその救済の働きを完成される時には死者の中からの復活に与ることになることを知っています。現在わたしたちは、キリストの復活とわたしたち自身の復活という、二つの復活の間に生きているのです。第一の復活は、第二の復活に先行し、かつ保証しているのです。このようなものとしてわたしたちに与えられてわたしたちの中に働く聖霊が「御霊の初穂」と呼ばれるのです(ローマ書八・二三)。

 ここでパウロは「生かす」という表現を受動態で用いています。「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(コリント第一書一五・二二)。この「生かす」という表現は単に「復活させる」というより深い意味をもっているようです。この表現は「命がないところに命を与える」という意味ですから、ヨハネ福音書五・二一では「復活させる」と同じ意味で用いられています。しかしローマ書八・一一の「イエスを死者たちの中から復活させた方の御霊があなた方の内に宿っているならば、キリストを死者たちの中から復活させた方は、あなたがたの内に住んでいてくださる御霊によって、あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださるのです」では、二つの動詞は少し違った意味合いで用いられています。パウロは神がイエスを死者の中から復活させた働きを「復活させる」という語で表現していますが、わたしたちの内における聖霊の働きを記述するときには「生かす」という表現を使っています。神の霊はわたしたちの死ぬべき身体に命を与えますが、それは死者の中からのわたしたちの復活を指すのに、「復活させる」という動詞を残したのでしょう。

 新約聖書では、地上の命と永遠の命という二種類の命が語られ対比されています。地上の命というのは、この身体の中に生きている命です。それは生まれたときに始まり、死ぬときに終わります。わたしたちの存在のこの面は、わたしたちに親しいものです。しかしわたしたちは死後の生については何も知りません。しかし新約聖書はもう一つの種類の命について、すなわちわたしたちの身体の死で終わらない命について語り、さらにわたしたちはイエスは神の子キリストであると信じることで、この種類の命(ギリシア語の《ゾーエー》)に達するのだと主張します(ヨハネ福音書二〇・三一)。様々な新約聖書の文書の中で、ヨハネ福音書はこの一点に焦点をあてています。

 さてもう一方の種類の命、すなわち永遠の命は、聖霊の働きによって人が新しく生まれた時から始まります。このことはヨハネは福音書の最初の部分(三章)で、イエスがニコデモに語っておられます。イエスはこのことを宗教の専門家であるニコデモに、こう語っておられます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ福音書三・三)。ここで「新たに」と訳されているギリシア語は《アノーセン》ですが、その語には「上から」という意味もあります。 おそらくイエスはこの意味で用いられたのであり、「人は上から生まれなければ、すなわち神の働きによって生まれなければ、神の領域の実体を経験することも理解することもできないのだ」と言おうとされたものと思われます。しかしニコデモはイエスの言葉を誤解して、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言っています。ニコデモはイエスの言葉を「二度目に生まれる」ことだと理解して、驚き当惑するのです。

 わたしたちは上からの神の霊の働きによって新しく生まれるのです。わたしたちが福音を信じ、自分をキリストに投げ入れ、聖霊によって神の救いを得た者は、その時から永遠の命を持っているのです。これは本当です。しかし他方、わたしたちは死に定められており、この現時の命には必ず終わりが来ることを知っています。わたしたちはこの永遠の命を死ぬべき身体の中で生きているのです。

 ここでわたしたちは、ローマ書八章一一節の「イエスを死者たちの中から復活させた方の御霊があなた方の内に宿っているならば、キリストを死者たちの中から復活させた方は、あなたがたの内に住んでいてくださる御霊によって、あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださるのです」というパウロの宣言を、もう一度考慮しなければなりません。キリストにあってわたしたちに賜った聖霊は、死に定められたわたしたちの身体をも「生かして」くださるでしょう。この動詞形は、神はキリストにあって、初めに永遠の命を備えてくださり、救いをもたらし、死者の中から復活させてくださることを示すために用いられています。それで、わたしたちが死すべき身体の中で生きているかぎり、永遠の命はやがて到来する復活への希望という形をとることになります。パウロの終末的な希望は、死者の中からの復活に集中しています(コリント第二書四・一四、フィリピ三・一〇、ローマ書八・二三〜二五)。

 ヨハネ音書はその全体で現在の時における永遠の命の現実を強調しています。その福音書でさえ、終わりの日に神が死者を復活させることを述べています。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ福音書六・四〇、他にも同章三九、四四、五〇節を参照)。この福音書は、イエスが墓から呼び起こされたラザロの物語を究極の最大のしるしとして提示しています(ヨハネ福音書一一章)。現在における永遠の命の現実は死者の中からの復活の希望を邪魔するものであってはなりません。むしろ逆に、聖霊によって生み出された永遠の命の現実は、将来に対するわたしたちの希望を強めます。「わたしたちはこの希望へと救われているのです」(ローマ書八・二四)。

 パウロは復活の章の最後(コリント第一書十五章の五四節最終行から五五節)で、死に対する勝利を歌い上げていますが、その中で「死は勝利に飲み込まれた」という最初の言葉は、将来神がその民を死者の中から復活させてくださる時に成就するでしょう(イザヤ書二五・八を参照)。しかし、キリストにあって希望へと救われている者たちは、今「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の刺はどこにあるのか」と、死に対する勝利を叫ぶことができるのです。キリストにあって救われ希望に生きている者たちに対して、死はその支配力を失っているのです。