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第 四 講  神の信に生きよ


イエスは彼らに言われた、「神の信を持て」。

(マルコ福音書一一章二二節 直訳)


 講壇から説教者はわたしたちにいつも呼びかけます、「神を信じなさい。キリストを信じなさい」と。確かにわたしたちは、パウロが言うように、宗教的な諸行為によってではなく、神とイエス・キリストへの信仰によって救われるのです。イエスも「神の信を持て」と言われます。このイエスの言葉はふつう、「神を信じなさい」と訳されています。しかしこの節の逐語訳は、「神の《ピスティス》を持て」ということになります。この句の中の《ピスティス》というギリシア語は、信実、誠実、正直という意味であり、ここではその後ろに「神の」という所有格を伴っています。

 では、「神の《ピスティス》を持て」という表現は何を意味しているのでしょうか。普通この所有格は《ピスティス》の目的語であると理解されて、「神を信じなさい」と翻訳されています。この訳では神はわたしたちの信仰の対象を指しています。しかしわたしは、この「神の」という所有格は主格であると理解すべきであり、ここのイエスの言葉は文字通りに「神の信を持て」と訳すべきであると確信しております。

 イエスの言葉は、ヘブライ語聖書に記述されているようなユダヤ的宗教心の文脈で理解され、また解釈されるべきだと、わたしは考えます。ヘブライ語聖書では、イスラエルの神ヤハウェはイスラエルの民の歴史を通じ、預言者たちを用いて御自身を恵み深く誠実な解放者として顕してこられました。それに対してイスラエルの人々は、詩編に示されているように、賛美と祈りで応えてきました。とくに彼らの感謝と賛美は、詩編二六・三や一一七・一〜二その他の多くの詩編に見られるように、「ヘセド」というヘブライ語で指す神の恵み深さと、「エムナー」とか「エメス」という語で示す神の誠実さに対して捧げられました。神の誠実さと頼りがいは、申命記三二・一〜四で、不動で測りがたい大きな岩にたとえられています。わたしは新約聖書がどうして神の信実とか頼りがいを、神の恵みとか慈愛と同じように強調しないのか、ずっと不審に思ってきました。多分、神の真実、神の完全、神の内面とその言葉の一体性などは、全宇宙の存在に当然のこととして前提されていて、改めて言及する必要はないとされたのでしょうか。

 わたしたちはあなたがたに、自分の信仰を放棄あるいは投げ捨てて、ただ神の信実にだけに寄り頼んで生きるように勧めます。わたしたちは信仰の理解においてコペルニクス的変革を必要としています。わたしたちは宗教的生の拠り所を、自分の信仰から神の信実に切り換えなければなりません。われわれ自身の信仰は弱くて移ろいやすいものです。わたしたちは初めイエスに従い神を固く信じる決意をしますが、やがてすぐに疑いに陥り、自分の意志の弱さを痛感します。わたしたちは自分の信仰がいかに弱いものに過ぎないかを実感します。この弱さは人間の本性に根ざしたものです。わたしたちの生が依り頼むべき唯一の岩は神の信実なのです。

 イエスが弟子たちに「神の信実を持て!」と言われたのは、われわれが自分自身の信仰を投げ捨てて、自分の霊的生をただ神の信実と確かさだけに委ねるようにと言われたのです。わたしたちの実生活の中からの例を考えて見ましょう。わたしたちは交易にさいして、交易の相手は誠実かつ確実に行動してくれるであろうという想定に依存して行動します。わたしたち自身の信念や誠実さに基づいて行動するのではありません。わたしたちが商品を誰かに送るときは、相手方は契約に忠実に、相当する金額を支払ってくれるであろうと想定しています。この場合、あなた自身の誠実さや確実さは登場しません。神を信じる場合も同じです。ただ神の信実に依り頼んで、わたしたちは神の言葉を行う、あるいは相手方である神の言葉に基づいて行動するのです。この過程において人の信仰とか確かさは無関係です。

 神の信をこのように理解すると、マルコ福音書一一章二二〜二四節のイエスの解りにくい言葉も、解釈しやすくなると思います。イエスはそこでこう言っておられます、「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」。このイエスの言葉は、わたしたちが神を信じる限り、神に成し得ないことは何もないということを示しています。ということは、わたしたちが神の信だけに依り頼んで神の言葉を生きかつ行うとき、神の言葉がわたしたちの中に成し遂げられるのだ、ということを意味しています。わたしたちは人生において乗り越えられないような試練に遭遇しますが、それでもわたしたちはただ神の信だけに依り頼んで神の言葉に従って行動しようと務めます。そしてキリストの福音は世界の創造者である神の最終的な言葉なのですから、わたしたちが神の召しに応えて、福音に啓示された神の言葉に従うとき、わたしたちに成し遂げることができないことは何もないのです。たとえば終わりの日における死者たちの復活というようなことは考えられないことですが、パウロがそうしたように(フィリピ書三・二〇〜二一)、わたしたちはこのあり得ないような現実を目指して、わたしたちの全人生を生きていくことができるのです。

 最後にもう一度、あなた自身の信仰は投げ捨てるように勧めます。それはもともと弱くて神との関わりの根拠にはなりえないものなのです。神の信を持ってください! あなたの全生涯をただ神の信実と神の確実さに委ねて生きてください。そうすれば神の言葉があなたの人生において成し遂げられます。神にはできないことはないのですから。