市川喜一著作集 > 第27巻 宗教の外のキリスト > 第2講

第 二 講 終わりの日の救済


それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

(ルカ福音書 一〇章二三〜二四節)



 聖書はわたしたちに、神の救いの働きは終わりの日に顕されると告げています。ここで「聖書」というのは、ヘブライ語の聖書、すなわちイスラエルの民の歴史を書き記した歴史、旧約聖書を指しています。最初の五つの書は「トーラー(律法)」と呼ばれており、モーセがイスラエルの民を王が支配するエジプトの束縛から解放する歴史物語と、その際イスラエルと解放者である神ヤハウェとの間に結ばれた契約を記述しています。この《トーラー》こそイスラエルの宗教、すなわちユダヤ教の最も重要で、最も基礎的な部分と見なされてきました。第二の部分は「預言者」と呼ばれます。それはイスラエルの民の歴史の中で、とくにバビロン捕囚前後の悲惨な時期に、ヤハウェの言葉を受けた預言者たちの使信と書物の集成です。この第二の部分も第一の部分と同じように重要視されて、イエスの時代の前にはこの二つの部分が聖書の主要部と見なされていました。「諸書」と呼ばれる第三部は、イスラエルの重要な宗教的文書類(たとえば詩編)の集成であって、後に聖なる書に加えられました。

 聖書は一冊の書籍ではなく、一つの図書館です。それはイスラエルの長い歴史の中で集められた多くの記録や書物の集合です。しかしながら、様々な種類の多くの書を一貫して一つの主題が響いています。すなわち、イスラエルの歴史を貫いて神がその民を救われる働きとそのための神の熱意です。われわれはそれを、ドイツの学者が「Heilsgeschichite(救済の歴史)」と呼んでいるように、「救済史」と呼んでもよいでしょう。けれども旧約聖書では救済はまだ達せられていませんでした。確かに《トーラー》(モーセ五書)ではエジプト王の支配とエジプト宗教からのイスラエルの解放を語ることによって、ヤハウェの救いの力は示されていました。しかし、預言者たちはその規模と壮大さでイスラエルのエジプト支配からの解放を超える将来の救済を予告していました。たとえばエレミヤは、神が来たるべき日にその民と新しい契約を結ばれること、すなわち、神がイスラエルをエジプトの支配から解放されたときにシナイで結ばれたものにまさる、究極の契約を結ばれるであろうと預言しました(エレミヤ書三一・三一〜三四)。

 イスラエルの預言者たちはその民に繰り返し、彼らの神ヤハウェは「終わりの日に」または「来たるべき日に」決定的な救済を示し、神の最終的な支配を打ち立てるであろうと語ってきました。この預言においてしばしば、ダビデの王国が神の王国の象徴として用いられました。かれらの預言では、ダビデがイスラエルの歴史では最も広くて輝かしい王国をもたらしたように、最後に神に油注がれたメシアが終わりの日に神の王国を打ち立てるであろうと語られていました。このメシア的な希望は、「預言者」の正典が閉じられた後、たとえば旧約聖書の中で最も遅い時期の書のダニエル書のような黙示文学において、強調されるようになりました。この黙示文学の中では、メシアはしばしば「人の子」という言い方で指され、天から降ってきて神の最終的な救いの力と永遠の支配を示す方とされています(ダニエル書七・一三〜一四)。人の子は、神に敵対する諸力がなお力を振るっている現在の「アイオーン」(歴史時代)の終わりに新しい「アイオーン」(永遠の時代)をもたらすであろうとされています。

 ナザレのイエスがイスラエルに現れたとき、彼は神の国を宣べ伝え、周りの多くの病人を癒やされました(マタイ福音書四・二三)。イスラエルの民はイエスを喜び迎え、イエスの回りに集まりました。けれどもユダヤ教の指導者たちやトーラーの学者たちは、イエスがユダヤ教の聖なる掟、特に安息日の掟を無視しているのではないかと疑いました。最後には、彼らはイエスを逮捕して、ユダヤ教の最高法院で死刑の判決を下します。ユダヤ教の最高法院は当時死刑執行の権限がありませんでしたので、イエスは当地の支配者であるローマ総督によって十字架刑に処せられます。イエスはユダヤ教の過越祭の期間の金曜日に十字架につけられたのですが、三日の後に、すなわち翌週の最初の日に、イエスは弟子たちに現れて、自分が生きていることを示されました。やがて弟子たちはユダヤ人たちに、「あなたがたはイエスを十字架につけて殺した。しかし神はイエスを死者の中から復活させて、彼をキリスト、救済者とされた」と宣べ伝え始めました。かれらの使信は地中海世界の多くの民に到達します。

 福音、すなわちキリスト(救済者)としてのイエスにおいてなされた神の働きの使信の本質的な中心点は、それが神がイスラエルの預言者たちを通じて語られた終わり日の救済のための最終的で決定的な働きであるということです。神は初めに天と地を創造されましたが、終わりには救いの業を完了されるということです。神が十字架されたイエスを死者の中から復活させてキリストとされた時、神はそのメシア、油注がれた者によって歴史における救いの働きを完成されたのです。福音を信じてキリストの内に生きている者は、終わりの日における神の救いの力を体験しているのです。終わりの日はすでに始まっており、わたしたちはそのような時代に生きているのです。しかしその日はまだ終わっていません。終わりの日はキリストが死者の中から復活されたときに始まり、神がキリストにあるその民を死者の中から呼び起こす時に終わります。キリストあって存在しているわたしたちは、神の救いの働きのこの二つの決定的な時の間に生きているのです。

 さて、終わりの日の現実はどこに見いだすことができるのでしょうか。その現実は人間の霊的次元に神の霊が働いておられるところに見ることができます。預言者たちは歴史を通して民に、神は終わりの日にはすべての人に御自身の霊を注ぐと語ってこられました(ヨエル書三・一〜五)。イエスがガリラヤで神の国を宣べ伝え始められたとき、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を告げ知らせるためである」と宣言されました(ルカ福音書四・一八)。イエスは聖霊に満たされて、その聖霊によってご自分の中に来ている神の国の現実を宣べ伝え始められたのです。イスラエルの民がイエスの神の国到来の宣言を聞き、イエスの癒やしの働きを見た時、預言者たちの言葉が実現し、終わりの日がかれらのところに到来したのです(ルカ福音書四・二一)。かれらは聖霊によるイエスの貧しい者たちへの神の無条件の恩恵の告知に、終わりの日の現実を見たのです。

 キリストの福音が聖霊の力によって宣べ伝えられている所では同じことが起こっています。ペトロがペンテコステの日に聖霊に満たされた弟子たちを代表して、ユダヤ人がローマ人に引き渡して十字架につけて殺したイエスを神が復活させた時、終わりの日が到来し、預言は成就したのだと告知しました(使徒言行録二・四〜三九)。復活者キリストはその事実の証人を使者として世界の各地に派遣されます。たとえばルカ福音書一〇章(一〜二三節)に見られるように、七〇人の弟子が送り出されて帰還しました。ガリラヤでは使者たちはしばしば退けられ、それらの村や町はその不信仰を責められていますが、使者たちは彼らの復活の主から祝福されています。この講の最初に引用されているイエスの言葉は、彼らは終わりの日の現実、イスラエルの預言者たちや王たちが知りえなかった現実、見ることも聞くことも許されなかった現実を与えられたことを語っています。今や使者だけでなくキリストを信じ聖霊によって神の救いの力を体験した者は、終わりの現実に生きているのです。キリストにあって生きる者は《エスカトン(終末)》の現実に生きているのです。

 福音は宣言します、「律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理は、イエス・キリストを通して現れたのである」(ヨハネ福音書一・一七)。この文において「律法」というギリシア語はヘブライ語の《トーラー》を指し、ユダヤ人にとってこの《トーラー》という語はユダヤ教全体を指すのです。それでこの句によってヨハネは、ユダヤ教という宗教はモーセによって与えられたが、恩恵と現実はイエス・キリストから来たのであると言っているのです。ユダヤ教という宗教は民に対する神の要求ですが、要求に対して恩恵はすべての者に無条件で良いものを与える神の贈り物です。では、その恩恵によって何が与えられたのでしょうか。それは《アレーセイア》であるとヨハネは言います。このギリシア語は普通「真理」と訳されますが、この語は律法すなわち象徴の体系としての宗教との対比で、「リアリティ(現実)」とか「実体」と訳すべきだ、とわたしは考えます。

 宗教は常に、人間の理解や能力を超えるものを指し示す象徴の体系です。アブラハム、モーセ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言者たちによって形成された宗教であるユダヤ教も、終わりの日における神の救いの働きを指し示してきました。今や福音はその終わりの日がキリストにおいて来たのであり、キリストを信じる者はキリストにおいて賜る神の恩恵により神の国の現実を与えられるのだと宣言します。そしてイエスが聖霊に満たされて神の国を宣べ伝えられたように、キリストにあって生きる者たちは、聖霊によって終わりの日の現実に参与することを許されるのです。キリストにおける神の恩恵によって導き入れられる現実については、次の講で語ることになります。