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第二章 「パウロによる福音書」としてのローマ書

T 福音書としてのローマ書

使徒パウロの福音提示の仕方

イエスを復活したキリストとして告知する運動も、それがユダヤ教の枠の内に留まっている限り、たとえ異邦人に向かったとしても、それはユダヤ教への改宗運動であって、すべての民の救いの福音とはなりえません。その告知をユダヤ教の枠の外にまで及ぼし、ユダヤ教の外で救済を宣べ伝える活動になって初めて、復活されたイエスの告知が万民を救うキリストの福音となりうるのです。前章ではこの福音告知の運動を進めた人たちの代表者として、使徒パウロの働きを見ました。本章ではこの使徒パウロがこの福音をどのような内容のものとして提示したのかを見ることになります。
使徒パウロがユダヤ教の枠を超えてキリストの福音を諸国民に伝えた働きの概要は前章で見ましたが、その働きを見たり体験した弟子たちがそれを語り伝え、さらにそれをルカが一つの著述にまとめて「使徒言行録」の中でそれを書き残しました。とくに使徒言行録の後半はパウロの一人舞台になっています。その中ではパウロの働きだけでなく、その福音を告知したさいの言葉(説教とか演説)もまとめられて報告されています。しかし、そのさい報告者のルカの思想が色濃く滲んでいることも見ました。ルカの考えとか思想(神学思想)を知ることも重要な意味がありますが、ここでわれわれが知りたいのは使徒パウロが世界に告知したキリストの福音の内容です。幸い、パウロはその福音告知の活動の中で多くの手紙を書いています。その手紙はほとんどすべてが、自分が伝えているキリストの福音とはどういうものかという福音の提示と、その福音を受け入れている者たちは、その福音に従うにはどのように生きていけばよいかの問題に集中しています。それでわたしたちは、ルカが伝えてくれているパウロの教説などの言葉を参考にしながらも、おもにパウロの手紙の中の言葉に基づいて、パウロが世に伝えた福音の内容を知ることになります。
パウロは在世中に多くの手紙を書いたと思われますが、その中で七通の手紙が新約聖書に保存されて伝えられています。新約聖書にはパウロの名で書かれた十三通の手紙が保存されていますが、その中の六通はパウロの弟子筋の人物が、パウロの名をつかって、パウロ以後の時代に書いたものと推察されます。この六通の「パウロの名による手紙」も重要な意義をもつので、別の著作でやや詳しく見ていますが、本書ではパウロ自らが書いた手紙から、パウロが告知した福音の中身を探りたいと思っています。パウロ真筆の七通とは、ほぼ年代順にあげると、テサロニケ第一、ガラテア書、コリント第一、コリント第二、フィリピ書、フィレモン書、ローマ書の七書簡です。この中で中程のガラテア書からフィレモン書の五書簡はエフェソ滞在中に書かれ、テサロニケ第一は少し前、ローマ書は少し後に書かれていますが、その写しはエフェソに保管され、エフェソがパウロの活動の最後の拠点基地となると同時に、パウロ書簡集の集積地となります。後にパウロの名によって書かれた三書簡(テサロニケ第二、コロサイ書、エフェソ書)も加えられ、一世紀の終わり頃には、一〇書簡から成る「パウロ書簡集」が形成されて流布することになります。牧会書簡と呼ばれる三書簡(テトス書とテモテ第一、テモテ第二)は二世紀に入ってから書かれて新約聖書に加えられたものです。ただ、テモテ第二には最晩年のパウロ自身が書いた文が含まれており、パウロの真正書簡に数える説もあります。
パウロ自身が書いたことが確実な真正七書簡の中で、最後に書かれたローマ書がもっとも包括的で体系的にキリストの福音を提示していると見られます。もしキリストの福音を提示する書を福音書と呼ぶとすれば、パウロが福音活動の最後に書いたこのローマ書こそ「福音書」と呼ばれるのにもっともふさわしい書であり、第一福音書とか基礎福音書と呼んでもよい、とわたしは考えています。本書では、それまでの書簡に示されたパウロの言説を参照しながら、このローマ書に基づいてパウロが世界に告知したキリストの福音を提示してみたいと考えています。

本書ではパウロのローマ書に依拠して、パウロが宣べ伝えたキリストの福音をまとめることになり、その内容はローマ書の要約となります。ローマ書の個々の内容の詳細については、拙著『パウロによる福音書 ー ローマ書講解T、U』を参照してください。

ローマ書の発信人と宛先

 ローマ書は手紙であり、当時の手紙の様式で書かれています。最初に発信人の名前と立場、次に宛先の人たちと挨拶の言葉が来ます。そして用件を書いて、最後に再び挨拶の言葉を置いて手紙を結びます。主題であるキリストの福音の内容を明らかにするのが本書の目的ですが、はじめに本体部分の前後に置かれた手紙の前置きと結びの部分を見て、この書簡が誰から誰に宛てられた手紙であるのかを理解しておくことが、本体部を理解するにも必要です。本論に入る前にこの前書きと結びの部分を簡単に見ておきます。
 発信人のパウロについては、前章の「パウロの生涯とその働き」で見た通りです。このローマ書ではパウロ自身が次のように書いています。

 「キリスト・イエスの僕(しもべ)、使徒として召され、神の福音のために聖別されたパウロから」。(一・一)

 パウロはペトロら十二人の弟子のように、地上のイエスが選ばれた直接の弟子ではありませんでした。むしろイエスに敵対し、イエスの弟子たちを迫害した者でした。そのパウロ(当時ではサウロ)がダマスコへの途上で復活されたイエスと遭遇し、そのイエスにひれ伏して降参し、以後はそのイエスをキリスト(救済者)として仕える僕(しもべ)(奴隷)となったのです。パウロはイエスに直接師事したのではありませんから、他の使徒のように地上のイエスの言動について伝えることはあまりありません。おもにキリストとしてのイエスが今現在信じる者になして下さる働きについて語ります。そのようなキリストの働きを告げ知らせる「使徒」(使者)として聖別されて(選ばれて)諸国民に遣わされたのです。
 パウロは「神の福音」を告げ知らせるために遣わされた使者です。「福音」という語には二つの使い方があります。「よい知らせ」という使信の内容を指す場合と、使信を伝える活動とか働きを指す場合の二つです。ここでは両方を含んでいます。パウロが宣べ伝える告知の内容は神から出たものです。それは神からの言葉です。同時にパウロがそれを世界に宣べ伝えている働きは、世界をそれによって救おうとされる神の働きです。パウロはこの働きを成し遂げるために遣わされた神の使者なのです。わたしは最近パウロがこの「神の福音」という一言にどれだけの思いを込めているかを強く感じるようになりました。パウロはその生涯をこの福音のために捧げてきました。その報知は人間界の出来事を伝える報知ではありません。「神の福音」です。すなわち、人間の存在と命の根底である方からの語りかけです。しかも、その根底から背き去っている人間に対する和解の呼びかけ、人間を再び自分の栄光にあずからせるための呼びかけ、救済の呼びかけです。キリストの出来事はこの神の最終的な呼びかけであり、これを聴いた者は生涯をかけてこの告知を伝えないではおれません。自分が伝えているこの告知の活動は、神が人間の救済のためになしておられる働きを身をもって行っていることになります。そのすべてを、パウロはこの一語に込めて「神の福音」と言っています。
 その告知の内容が二節から六節で要約されて引用されています。その告知は決してパウロ一人のものではなく、キリストであるイエスを信じる者の共同体が言い表し宣べ伝えている「福音」の引用です。この要約はおそらく最初期のエルサレム共同体とかアンティオキア共同体で形成されたもので、パウロはそれを継承しているのですが、その内容は強くユダヤ教由来のものであることを示しています。このキリストとしてのイエスを告白する文は、「肉によればダビデの子孫から生まれ」と、「聖なる御霊によれば死者たちの復活によって大能の座にある神の子と公示された」という相、すなわち地上の人間としての相と復活者の相という二段構えで語られています。キリストの出来事としては復活が先で、その後に人間の相が来ます(この順序はテモテU二・八のギリシア語原文に痕跡をとどめています)。ところがこの福音告知が形を整えていく過程で、出来事の順序として先にイエスの人間としての出生が語られ、次に復活の出来事が続くようになったと見られます。そして、キリストはダビデの家系から出て、ダビデへの神の約束を成就する者として待ち望まれていたユダヤ人のメシア信仰と、復活を語る用語もユダヤ教の用語を用いているなど、この信仰告白がユダヤ教由来の者であることを示しています。しかしパウロがこの書の本体部で非ユダヤ教徒の人に語るときは、ユダヤ教的な表現は一般的な社会通念で理解できる表現に言い換えて語っています。
 手紙の宛先は「ローマ在住の神の愛される方々、召された聖徒一同へ」となっています(一・七)。パウロは世界の諸国民に福音を伝えるために選ばれ使徒であり、ローマ帝国の首都のキリスト者たちは異邦人福音共同体を代表しています。ただローマの信仰者たちはまだ監督によって統合された共同体にはなっていなかったようで、パウロは他の共同体に書き送る時に用いた「どこそこの地にある《エクレーシア》へ」という表現を用いていません。一六章に見られるように、ローマの信仰者たちは小さなグループごとに集まっていたようで、この書簡もその集会に回覧されたものと考えられます。むしろこの書簡を書いた時のパウロの状況からすると、パウロはこの書簡で書いていることをユダヤ人の信仰者に理解してほしいと願っていたことがうかがえます。パウロは非ユダヤ人の異邦人がキリストを信じて救われるのに割礼を受けてユダヤ教に改宗しなくてもよいと説いたので、ユダヤ教を絶対視するユダヤ教徒の働き人から執拗な反パウロの妨害活動を受けていました。彼らはエルサレム共同体の権威を後ろ盾にしていました。そのエルサレム共同体に、パウロは今献金を届けるために行こうとして春の船便の再開をコリントで待っているのです。そのコリント滞在中にこのローマ書を口述筆記で書いたのです。

執筆の状況―手紙のあとがきから

 この異邦人諸集会から集めた献金はエルサレム共同体の依頼によるものでした(ガラテア二・一〇)。しかしヤコブが代表するようになってからユダヤ教律法順守の傾向を強めているエルサレム共同体に、異邦人集会からの献金が受け入れられるかどうかについて、パウロは確信がなく心配しています。しかしこの献金は異邦人集会とユダヤ人集会が一体となって一つの《エクレーシア》を形成するために必要です。パウロは西に向かいローマを経てイスパニアに向かう伝道計画より先に、今は東に向かいエルサレムに献金を届ける旅に出ようとしているのです(一五・二二〜三三)。事実、この献金を受け取ることは拒否されて、パウロは神殿での騒乱に巻き込まれ、逮捕されて裁判を受ける身になり、ついに処刑されることになります。このような状況を考えると、パウロがエルサレム行きを前にして書いたこのローマ書が、エルサレムを「隠れた宛先」としていることが理解できます。

ローマ書の構成と主題

はじめにこのような福音提示の書がどのような構想で書かれたのか、その主題はどのように提示されているかを見ておきます。まずその全体を見渡すと、この書の本論部は大きく四つの部分に分かれているように思います。本論の前に主題を提示する導入の部分と、本論の後には今後の計画と個人的挨拶を含む結びを置いていますが、本論はほぼ同じ長さの四つの部分に区切られるようです。はじめに各部の主題を添えてその四部構成を見ておきましょう(以下の本節の論述で数字だけの引用はローマ書の章節を指し、テキストには拙著「ローマ書講解」の私訳を用います)。

一 信仰による義 ー 神の恩恵の場に入るための入口 一・一八〜五・一一
二 御霊による新しい命 ー 恩恵の場における、救いに至らせる神の働き 五・一二〜八・三九
三 イスラエルの民の救い ー 恩恵による選民イスラエルの民の扱い方 九・一〜一一・三六
四 実践的勧告 ー 恩恵の場に生きる者の社会生活の仕方 一二・一〜一五・一三

世界の諸国民にキリストの福音を告知した使徒パウロは、このような構想をもってその福音を語っている、とわたしは理解しています。その構想については後でやや詳しく触れることにして、その前にこのローマ書の主題を提示するパウロの宣言を聞いておきましょう。パウロは、ローマ帝国の一属州民として十字架刑に処せられて死んだイエスをキリストとして告知する福音を恥じないとその心情を述べたあと、その理由を次のように断言します。

 「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、すべて信じる者には、救いに至らせる神の力だからです」(ローマ一・一六)。

わたしは、このパウロの福音の定義、「福音は神の力である」という定義ほど重要で基本的な定義は他にないと思います。神の力とは神の働きです。福音は人間の言葉で告知されます。しかし、それは単なる情報伝達の言葉ではありません。それを神の言葉として聞く者には、神からの人格的な語りかけの言葉となり、そのように聞く者には「救いに至らせる働き、力」となるのです(テサロニケT二・一三)。そこには聞く者の資格とか状況は何の関係もありません。男であろうが女であろうが、自由人であろうが奴隷であろうが、道徳的にどれだけ立派であろうがヤクザな者であろうが、関係ありません。その人間の資格の違いの中でもっとも重要な違いとして、パウロは「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが」という宗教的な違いをあげています。すなわち、ユダヤ教徒であろうが他の宗教の民であろうが関係はない、ということです(当時のユダヤ人はユダヤ教徒以外の民をギリシア人と総称していました)。ユダヤ教において立派な義人であろうが、どの宗教でどのように功績を認められていようが、無宗教であろうが関係ありません。この人間の側の違いには関係なく、全く無差別であることが福音の基本的な性格です。この無差別平等の神の働きの根拠として、使徒は次の節を続けます。

 「福音には神の義が現れており、信仰から始まり信仰へと至らせるのです。『義人は信仰によって生きる』と書かれているとおりです」(ローマ一・一七)。

原文では「というのは、それに神の義が現れているからである」という形で、この文が前節の根拠になっています。ただ、「それに」という語形が「その事柄(福音)において」と「その者(全て信じる者)において」の二つが同型になるために解釈が別れています。ルター以来「福音において」と解釈されてきましたが(わたしのローマ書講解もその訳)、「すべて信じる者において」という理解も可能です(久野晋良訳)。「それにおいて」という関係詞が説明する先行詞は直前の「すべて信じる者」であるとする方が、かなり離れている「福音」を指すとするより、文法的には適切です。確かに、パウロはこのローマ書において「信じる者が義とされる」ということを繰り返し強調しており、それをローマ書の主題とすることは正しいことです。しかし、この関係詞で始まる一七節は、あくまで主文である一六節を説明する従属文ですから、主文の「福音は神の力である」の「すべて信じる者には」という部分を説明しているのであり、一六〜一七節の主題提示の文は、義でない者を義として無条件に受け入れる「神の義」は、「信じる」の対象である福音において掲示されているとする(ルター以来の)伝統的解釈も、意味の上では十分適切な理解であると言えると考えられます。両方とも十分に成り立ちますが、それぞれの場合重点の置き所が変わってきます。両者の場合、それぞれ現される「神の義」とはどういう事態であるのかが問われます。さらに、この表現の聖書的根拠を示す引用が、ユダヤ教律法学者らしい仕方でハバクク書(二・四)からなされています。

三楽章か四楽章か

このように福音を「救いに至らせる神の働き、神の力」と定義した上で、パウロはこの書でその神の力、神の働きとしての福音を部門別に提示していきます。そのさい、わたしはパウロの福音を先に区分したように四つの部門に分けて聞いていますが、欧米の神学では(そしてそれを受け継いだ日本でも)三つの部門に分けて聞いている場合が多いようです。音楽にたとえれば、壮大な交響曲を聞くのに、三楽章で聴くのか四楽章で聴くのかの違いです。わたしは四楽章で聴いていますが、ここでその理由を述べておきます。
ローマ書の中で、神による選民イスラエルの扱い方を論じる九章から一一章が一つの部門を占めること、および一二章以下がキリストにある者の実際的な生活の仕方を扱う独立した部門であることには、ほとんどの研究者の間で異論はありません。問題は一章から八章までの人間の救済を扱う箇所の扱い方です。これを一つの部門としてローマ書の使信を聞く人が多いのですが、わたしはそれを二つの部門に分けて聞いています。これを一つのまとまりとして聞く人は、音楽にたとえれば、ローマ書という大交響曲を長大な第一楽章と、長さは約半分の第二楽章と第三楽章の三楽章で聴いていることになります。それに対してこれを二つの部門として分けて聞く者は、ローマ書という交響曲を四楽章で聴いていることになります。この聴き方の違いは、どちらでもよいことではなく、パウロがローマ書で告知している福音の聞き方の違いをもたらします。
音楽家は一つの主題を聴かせるのに楽章毎に調性とかテンポを変えて提示します。ローマ書の主題は、先に四つの部門をあげた時に示したように、「恩恵」です。パウロはこの書でキリストにおける神の恩恵を提示しようとしています。パウロは恩恵《カリス》の使徒です。《カリス》は新約聖書の中でパウロ書簡にもっとも多く用いられています。この一つの主題を奏でるのに、パウロは四つの楽章でそれぞれの特性を示しています。もしこのそれぞれの特性をも主題というのであれば、その主題は第三部門ではイスラエルの救い、第四部門では実践的勧告とかになります。問題は一章から八章をひとまとまりとして聴く人は、その主題に「信仰義認」という名称をつけて、ローマ書の三章後半(二一〜二二節、またはそれ以降)をテーゼ(主題提示)として掲げます。わたしはこれを二つに分けて前半と後半を別の楽章として聴き、全体を四楽章で聴いています(その分け方については後述)。信仰義認という主題はあくまで前半の主題であり、後半は別の主題になっているという聞き方です。この聞き方については、次の第三章「恩恵の場における神の働き」でやや詳しく見ることになります
ローマ書は口述筆記で書かれています(一六・二二)。ここにはパウロの肉声があります。書斎の机上で書かれた論文ではありません。ユダヤ教の会堂で、都市の市場で、アテネのアレオパゴスで、個人の家で、伝道者パウロが声をからし、汗を流して叫んできたキリストの福音を、まだ見ぬローマの信仰者たちに語りかけています。人間の悲惨な状況に沈痛な気分で始まった口調も、キリストにおいて示された神の恩恵を告知して、その救いの働きを説いていくうちに、自分の内に働く聖霊の力と喜びに溢れ、勝利の凱歌で終わるのが常だったでしょう。このローマ書にも伝道者パウロの魂の高揚を垣間見させる箇所があります。人間の救済を扱った八章までの全体に対してキリストにおける神の愛を賛美する賛歌(八・二一〜三九)、イスラエルの救済に示された限りない神の知恵への賛美(一一・三三〜三六)などはパウロの魂の高揚を示しています。では、第一部の終わりに来る高揚を示す部分はどこになるのでしょうか。わたしはこれを五章の一〜一一節に見ることができると思います。この部分でパウロは第一部で語った信仰による義の結果を要約した上で、第二部で語ろうとする復活されたキリストによる新しいいのちの世界への導入としています。この箇所はローマ書の一つの高揚である、とわたしは感じています。
このように四部に分けると、各部はほぼ同じ長さになり、これが一回の口述筆記で書ける量になるのかとも推察されます。音楽では調性やテンポの変化で楽章が変わったことを知りますが、ローマ書は文書ですから用いられている用語の変化を見る必要があります。第一部では信仰、信じる、義とされるという用語が繰り返され、明らかに信仰によって義とされることが主題になっています。ところが第二部ではこれらの用語は影を潜め、第一部にはほとんど出てこなかった《プニューマ》(霊、御霊)、《エン・クリストー》(キリストにあって)、《ゾーエー》(いのち)というような語が頻出します。第二部では「キリストにあって」という場に働く御霊のいのちが主題になっています。パウロが諸国民に告げ知らせたかったのはこのことであり、第一部はその恩恵の働く場に入るための入り口です。この二つの部分を一つとして扱う聞き方では、信仰による義を主題とするため、後半(ここで言う第二部)では解釈に無理が生じるようです。

U ローマ書本文 ― 市川訳

はじめに

 本書は、「まえがき」にも書きましたように、長大な神学的論説と言ってもよいこのローマ書の内容を要約して、現代の人々に分かりやすく提示することを目的としています。それで第三章に置きました「ローマ書の使信」を提示することが目的ですので、この長いローマ書の本文は、もし読者がすでに本文をどの訳であれ繰り返し読んでおられる方であれば、省略してその使信の提示である第三章だけをお読みいただければよいことになります。しかし、ローマ書の本文を読んだことがない方には、それがどのような書(手紙)であるのかを示す必要があります。それにパウロが言おうとすることを少しでも正確に現代の日本人に伝えるために、かなり思い切った個人訳をつけた箇所もありますので、著者の私訳を掲載しておきます。時間の許す方はこの私訳を他の訳と対照して、著者のパウロ理解をご承知くださることも有益かと存じます。

手紙の前置き

1 挨拶 (1章 1〜7節)

 1 キリスト・イエスの僕、使徒として召され、神の福音のために聖別されたパウロから ―― 2この福音は、神がご自身の預言者たちを通して聖なる諸書の中で前もって約束されていたものであり、3 ご自身の御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、4 聖なる御霊によれば死者たちの復活によって大能の座にある神の子と公示された方、すなわち、わたしたちの主(キュリオス)であるイエス・キリストです。5 わたしたちはこの方を通して、その御名のゆえにすべての異邦諸民族を信仰の聴従へと至らせるために、恵みと使徒職を受けたのです。6 その異邦諸民族の中にあって、あなたがたもイエス・キリストのものとなるように召されたのです。―― 7 ローマ在住の神の愛される方々、召された聖徒たち一同に。わたしたちの父である神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。

2 ローマ訪問の願い (1章 8〜15節)

 8 まず初めに、あなたがた一同について、わたしはイエス・キリストによってわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い広められているからです。9 実際、わたしがその方の御子の福音のために働くことによって、わたしの霊において仕えている神が証人となってくださることですが、わたしは絶えずあなたがたのことを覚えており、10 祈るときにはいつも、神の御心にかなって、何とかして、ついにはあなたがたのところに行くことに道が開けるように願い求めています。
 11 わたしがあなたがたに会うことを熱望しているのは、あなたがたに御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強めたいからです。12 いやむしろ、あなたがたの中で、お互いの信仰、すなわち、あなたがたの信仰とわたしの信仰によって、共に励まされたいからです。 13 兄弟たちよ、わたしはあなたがたが知らないままでいてもらいたくないのです。わたしは、他の異邦諸民族で得たと同じように、あなたがたの間でもいくばくかの実を得ようとして、あなたがたのところに行くことを何回も企てたのですが、今日まで妨げられてきたのです。
14 わたしは、ギリシャ人にも未開の人たちにも、知恵ある人にも無知の人にも、責任を負っている者です。15 このように、わたしとしての熱望は、ローマにいるあなたがたにも福音を告げ知らせることなのです。

3 神の力としての福音 (1章 16〜17節)

 16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、すべて信じる者には、救いに至らせる神の力だからです。 17 福音には神の義が現れており、信仰から始まり信仰へと至らせるのです。「義人は信仰によって生きる」と書かれているとおりです。


第一部 信仰による義

     ー 神の恩恵の場に入るための入口 1章18節〜5章11節

4 神への背きと その結果 (1章 18〜32節)

 18 おおよそ、不義によって真理を押さえつける人間のあらゆる形の不信心と不義に対して、神の怒りが天から現れます。19 神について知りうる事柄は、彼らには明らかであるからです。神が彼らにそれを示しておられるのです。20 見えない神の事柄、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物によって理解され、神は明らかに認識されるのですから、彼らには弁明の余地はありません。21 彼らは神を知りながら、神としての栄光を帰することをせず、感謝することもなく、かえって、彼らはその思考において空しくされ、理解なき心は暗くされたのです。22 彼らは自ら知者であると称しながら、愚かになり、23 不朽の神の栄光を、朽ちる人間や鳥や四つ足の獣や地を這うものに似せた像に変えたのです。
 24 そこで神は、彼らが心の欲望のままに、互いにその体を辱めるという汚辱に、彼らを引き渡されたのです。25 彼らは神の真理を偽りと取り替え、創造者に反抗して被造物を崇拝し、また礼拝したのです。創造者こそ永遠に誉め讃えられるべきです。アーメン。
 26 それゆえ神は、彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。彼らの中の女たちは、自然な性の交わりを自然に反するものに変え、27 同じく男たちも、女との自然な性の交わりを捨てて、互いに情欲に燃え、男と男の間で恥ずべき行為をして、その迷いにふさわしい報いを自分たち自身に受けているのです。
 28 そして、彼らは認識の中に神を入れようとしなかったので、神も彼らを無益な思いに引き渡し、してはならないことをするにまかされたのです。29 その結果、彼らはあらゆる不義、邪悪、貪欲、悪意に満たされ、妬み、殺意、争い、欺き、邪念にあふれ、中傷する者、30 そしる者、神を憎む者、人を侮る者、高慢な者、大言を吐く者、悪事を企む者、親に逆らう者、 31 無感覚な者、不誠実な者、非情な者、無慈悲な者になっています。32 このようなことを行う者が死に値するという神の正しい定めを知りながら、彼らは自らそのようなことを行うだけでなく、それを行う者たちを是認しているのです。

5 神の正しい裁き (2章 1〜16節)

 1 だから、すべて人を裁く者よ、あなたは弁解の余地がない。あなたは他の人を裁くことによって、自分を裁いているのです。裁いているあなたが同じことを行っているからです。 2 このようなことを行う者たちの上に、真理に従って神の裁きがあることを、わたしたちは知っています。 3 このようなことを行う者たちを裁きながら自分も同じことをする者よ、自分は神の裁きを免れるとでも考えているのですか。 4 それとも、神の慈愛はあなたを悔い改めに導くものであることを知らないで、神の慈愛と寛容と忍耐の豊かさを軽んじるのですか。 5 あなたの頑なさと悔い改めのない心のゆえに、神の正しい裁きが現れる怒りの日に向かって、あなたは神の怒りを自分の上に蓄えているのです。
 6 神はその人のしたことに従って、各人に報われるのです。 7 すなわち神は、忍耐強く善を行って栄光と誉れと不滅を追求する者たちには永遠の命を与え、 8 自我心にかられた者たちや、真理に従わず不義に耳を傾ける者たちには、怒りと憤りが注がれます。 9 誰であれすべて悪を行う人間の魂には、ユダヤ人をはじめギリシア人にもまた、患難と苦悩が下り、 10 善を行う人には、ユダヤ人をはじめギリシア人にもまた、栄光と誉れと平和が与えられます。 11 神には人を偏り見ることはないからです。
  12 律法と関係なく罪にある者は皆、律法と関係なく滅び、律法の中にあって罪にある者は皆、律法によって裁かれます。 13 律法を聴いているだけの者が神の前に義であるのではなく、律法を行う者が義とされるからです。 14 律法を持たない異邦人が、律法が求めるところを自然に行うならば、律法を持っていなくても、自分自身が律法なのです。 15 このような者たちは、律法の求める行為が自分たちの心に記されていることを実証しているのです。彼らの良心も共に証しして、心の思いが互いに責めたり弁明したりしています。 16 このことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたところを裁かれる日に明らかになります。

6 ユダヤ人と律法 (2章 17〜29節)

 17 ところで、もしあなたが自らをユダヤ人と称し、律法を拠り所とし、神との関係を誇り、 18 律法に教えられて御心を知り、何をなすべきかをわきまえ、 19 自分を盲人の導き手、闇の中にいる者たちの光、 20 無知な者たちの教育者、未熟な者たちの教師であると確信し、それを律法の中に知識と真理を具体的な形で持っているからだとするのであれば、 21 他人を教えるあなたが、どうして自分自身を教えないのですか。「盗むな」と説くあなたが、盗むのですか。 22 「姦淫するな」と言っているあなたが、姦淫するのですか。偶像を忌み嫌っているあなたが、宮の物を盗むのですか。 23 律法を誇っているあなたが、律法に違反することで、神を辱めているのです。 24 実際、「神の名は、あなたがたのゆえに異邦人たちの中で汚されている」と書いてあるとおりです。
 25 割礼は、もしあなたが律法を行うなら、たしかに有効です。けれども、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼となっているのです。 26 だから、もし無割礼の者が律法の義の要求を守るならば、彼の無割礼は割礼と算定されることになるのではありませんか。 27 それで、生まれながら無割礼であるが律法を満たしている者が、律法の文字と割礼を持っていながら律法の違反者であるあなたを裁くことになるのです。 28 外見上のユダヤ人がユダヤ人であるのではなく、肉に施された外見上の割礼が割礼ではないからです。 29 むしろ、隠れたところにおけるユダヤ人こそユダヤ人であり、文字ではなく御霊による心の割礼こそ割礼なのです。そのような人の誉れは、人からではなく神から来るのです。

7 ユダヤ人からの抗議 (3章 1〜8節)

 1 「では、ユダヤ人の優れた点は何か。また、割礼の益は何か」。 2 それはすべての面で多くあります。まず第一に、神のもろもろの言葉が信託されたことです。3 「ではどうなるのか。ある者たちが信じないのであれば、彼らの不信実が神の信実を無効にするのではないか」。 4 決してそんなことはありません。すべての人を偽り者として、神が真実とされますように。あなたは、あなたのもろもろの言葉において正しいとされ、あなたが裁きを受けるとき勝利を得るであろう、と書かれているとおりです。
 5 「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするのであれば、いったいどう言ったらよいのか。怒りを注ぐ神は不義ではないのか」 ――わたしは人間の論法に従って語っているのです。 6 決してそうではありません。そうだとしたら、どうして神は世を裁くことができましょう。
 7 「ところで、もしわたしの偽りによって神の真実が溢れ出て、神の栄光となるのであれば、なぜわたしはなおも罪人として裁かれねばならないのか」。8 わたしたちは中傷され、わたしたちが「善を来たらせるために、悪をしようではないか」と言っていると、ある者たちが噂しているが、そのような者が断罪されるのは当然です。

8 義人は一人もいない (3章 9〜20節)

 9 では、どうなのか。わたしたちには優れたところがあるのでしょうか。全くありません。わたしたちはすでに、ユダヤ人もギリシャ人もすべて罪の下にあると告発しました。
 10 次のように書かれているとおりです。
  「義人はいない。一人もいない。
 11 悟る者はなく、神を求める者もいない。
 12 すべての者は迷い出て、共に無益な者となった。
   慈愛を行う者はいない。一人もいない。
 13 彼らののどは開いた墓であり、
   彼らは舌で人を欺き、
   彼らの唇の下にはまむしの毒がある。
 14 その口は呪いと苦さに満ち、
 15 彼らの足は血を流すのに速く、
 16 彼らの道には破壊と悲惨ばかりがあり、
 17 彼らは平和の道を知らない。
 18 彼らの目には神への畏れがない」。
 19 ところで、律法が言うことはすべて律法の下にいる者たちに向かって語っているのだということを、わたしたちは知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためです。20 それゆえ、律法の実行によっては、だれ一人神の前に義とされることはないのです。律法によって罪の認識が生じるのですから。

9 信仰による義 (3章 21〜31節)

 21 しかし今や、律法とは無関係に、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が現されています。
22 すなわち、イエス・キリスト信仰による神の義であり、すべて信じる者に与えられるのです。 そこには何の差別もないからです。 23 人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失っており、 24 ただ、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより、無代価で義とされるのです。 25 神はこのキリストを、信実によって、その血による贖いの場としてお立てになったのです。それは、これまでになされた諸々の罪を免責してこられたために、御自身の義を示すためでした。 26 その免責は神の忍耐によるものでしたが、ついに今この時に、自ら義であり、かつイエス信仰の者を義とする者となるために、御自身の義を示されたのです。
 27 では、誇りはどこにあるのですか。誇りは排除されてしまっています。どのような律法によるのですか。行いの律法によるのですか。そうではありません。信仰の律法によるのです。 28 わたしたちは、人が義とされるのは、律法の行いとは無関係に、信仰によると判断するからです。 29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。たしかに、異邦人の神でもあります。 30 神は唯一である以上、神は割礼の者たちを信仰によって義とし、無割礼の者たちをも信仰によって義とされるのです。 31 では、わたしたちは信仰によって律法を無効にするのでしょうか。決してそうではありません。むしろ、律法を確立するのです。

10 アブラハムの範例 (4章 1〜25節)

 1 では、わたしたちの先祖アブラハムは肉によって何を得たと言えるのでしょうか。 2 もしアブラハムが行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができますが、神の前ではできません。 3 というのは、聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼に義と認められた」とあるからです。 4 ところで、働く者に対しては、報酬は恵みによるものではなく、当然の支払いと見なされます。 5 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とする方を信じる者は、その信仰が義と認められるのです。 6 同じようにダビデもまた、行いがなくても神が義と認められる人の幸いをこう語っています。
  7「不法が赦され、罪が覆われた人たちは幸いである。
  8 主がその罪を認めない人は幸いである」。
9 では、この幸いは、割礼の者に及ぶのでしょうか、それとも無割礼の者にも及ぶのでしょうか。わたしたちは言います。「アブラハムには信仰が義と認められた」のです。 10 では、どのような時にそう認められたのでしょうか。割礼を受けている時ですか、それとも無割礼の時ですか。それは、割礼を受けている時ではなく、無割礼の時です。 11 アブラハムは、無割礼の時に信仰によって義とされた証として、割礼というしるしを受けたのです。こうして彼は、無割礼の状態で信じて義と認められるすべての人々の父となり、 12 また、割礼の者たちの父、すなわち、割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが無割礼の時にもっていた信仰の模範に従う者たちの父となったのです。
 13 世界を相続する者となるという約束がアブラハムに、あるいは彼の子孫になされたが、それは律法によるものではなく、信仰の義によるものなのです。 14 もし律法による者たちが相続人であるならば、信仰は無意味となり、約束は破棄されたことになります。 15 そもそも律法とは怒りを引き起こすものです。だが律法のないところには違反もありません。
 16 従って相続は信仰に基づくことになるのですが、それは恵みによって約束がすべての子孫、つまり、律法に基づく者だけでなく、アブラハムの信仰に立つ者にも実現するためです。アブラハムはわたしたちすべての者たちの父なのです。 17 わたしはあなたを多くの民の父として立てた」と書かれているとおりです。アブラハムは死者を生かし、存在しないものを存在へと呼び出す神を信じ、その神のみ前でわたしたちの父となったのです。
 18 アブラハムは希望に逆らいつつ希望に立って信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となったのです。 19 彼はおよそ百歳になっていて、自分の体がすでに死んでしまっていることと、サラの胎が不妊であることを知りながらも、信仰が弱くなることはありませんでした。 20 彼は不信仰によって神の約束を疑うことなく、信仰によって強められて、神に栄光を帰し、 21 神は約束されたことを成し遂げることもできると、完全に委ねたのです。22 だから、それが彼に義と認められたのです。
  23 しかし、それが彼に義と認められたのは、彼のためだけではなく、 24 わたしたちのためでもあるのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じるわたしたちも、義と認められることになるのです。 25 主イエスは、わたしたちの罪過のために渡され、わたしたちの義のために復活させられたのです。

11 義とされた者の歓び (5章 1〜11節)

 1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより神との和を得ています。 2 さらにまた、この方により、わたしたちがいま現に立っている恵みに導き入れられ、神の栄光にあずかる希望をもって歓んでいます。 3 それだけでなく、苦難の中にあっても歓んでいます。わたしたちは、苦難は忍耐を生み、 4 忍耐は練達を生み、練達は希望を生み、 5 希望は失望に終わることがないことを知っているのです。それは、わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心の中に注ぎ出されているからです。
 6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったときに、時いたってわたしたち不信心な者たちのために死なれたのです。 7 正しい人のために死ぬ者はまずありません。恩人のためにであれば、あるいはあえて死を引き受ける者があるかもしれません。 8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったときに、キリストがわたしたちのために死なれたことによって、神はわたしたちに対する御自身の愛を示しておられるのです。 9 今やキリストの血によって義とされているのですから、なおさら御怒りから救われることになります。 10 敵であったときでさえ御子の死によって神と和解させていただいたのですから、和解させていただいている今は、なおさら御子のいのちによって救われることになるはずです。 11 それだけでなく、今や和解を得させてくださったわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神と結ばれて勝ち誇って歓ぶのです。


第二部 御霊による新しい命

     ー 恩恵の場における、救いに至らせる神の働き 5章12節〜8章39節

12 罪の支配と恵みの支配 (5章 12〜21節)

 12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込み、こうして、すべての人が罪に陥ったので死がすべての人に及んだように ――  13 律法までの時期にも罪は世にあったのですが、律法がなければ、罪は罪と認められないのです。 14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人々に対しても死が支配しました。このアダムは来るべき者の型なのです。
  15 しかし、恵みの賜物はあの違反とは比較になりません。一人の違反によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは多くの人に溢れたからです。 16 この賜物は一人の罪による場合のようなものではありません。裁きにおいては一つの罪過が処罰をもたらしますが、恵みの賜物の場合は、多くの罪過があっても、義をもたらすのです。 17 一人の違反によって、その一人を通して死が支配したとすれば、なおさら、溢れる恵みと義の賜物を受けている者たちは、一人のイエス・キリストによって命の領域で支配することになるのです。
  18 こうして、一つの違反によってすべての人に断罪がもたらされたように、一つの義の行為によってすべての人に命に至らせる義がもたらされるのです。 19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の人の従順によって多くの人が義なる者とされるのです。 20 律法が入り込んで来たのは、罪過が増し加わるためでした。しかし、罪が増したところでは、恵みはさらにいっそう満ちあふれたのです。 21 それは、罪が死の領域で支配したように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストによって永遠の命に至らせるためです。

13 罪に死にキリストに生きる (6章 1〜14節)

 1 では、わたしたちはどう言うべきなのか。恵みが増し加わるために罪にとどまるべきでしょうか。 2 決してそうではない。 罪に死んだわたしたちが、どうしてなお罪の中に生きることができるでしょうか。 3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスの中にバプテスマされた者は、キリストの死の中にバプテスマされたのです。 4 死の中にバプテスマされることによって、わたしたちはキリストと共に葬られたのです。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた命の新しい次元に歩むようになるためです。 5 もしわたしたちがキリストの死の形に合わせられたのであれば、その復活の形にも合わせられることになるからです。
  6 わたしたちの古い人はキリストと共に十字架につけられたことを、わたしたちは知っています。それは、罪のからだが滅ぼされて、わたしたちがもう奴隷として罪に仕えることがないようになるためです。 7 死んだ者は罪から放免されているからです。 8 もしキリストと共に死んだのであれば、キリストと共に生きるようになることをわたしたちは信じています。 9 キリストは死者の中から復活して、もう死ぬことなく、死はもはやキリストを支配しないことを知っているからです。 10 キリストが死なれた死は、ただ一度罪に死なれたのであり、キリストが生きておられる生は、神に生きておられるからです。 11 そのように、あなたがたも自分が、キリスト・イエスにあって、罪には死んだ者であり、神に生きている者であることを認めなさい。
  12 それゆえに、罪があなたがたの死ぬべきからだを支配して、その結果、からだの欲求にあなたがたが従うということにならないようにしなさい。 13 あなたがたの肢体を不義のための武具として罪に委ねてはなりません。むしろ、死者の中から生き返った者として自分自身を神に委ね、あなたがたの肢体を義のための武具として神に委ねなさい。 14 それは、あなたがたは律法の下ではなく恵みの下にいるので、もはや罪があなたがたを支配することはないからです。

14 義の奴隷 (6章 15〜23節)

 15 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいのでしょうか。決してそうではない。16 あなたがたは知らないのですか。あなたがたは、だれかに従うために自分を奴隷として委ねるならば、あなたがたが従っている人の奴隷なのであって、罪の奴隷として死に至るか、従順の奴隷として義に至るか、どちらかなのです。17 しかし、神に感謝します。あなたがたはかっては罪の奴隷でしたが、あなたがたが引き渡された教えの型に心から従い、18 罪から解放され、義に仕える奴隷になりました。
 19 わたしは、あなたがたの肉の弱さのゆえに、人間的な表現で語っているのです。あなたがたの肢体を奴隷として汚れと不法に委ね、不法の中に陥っていたように、今はあなたがたの肢体を奴隷として義に委ね、清くなりなさい。20 あなたがたが罪の奴隷であったとき、あなたがたは義には責務のない者でした。21 その時、あなたがたはどのような実を得ましたか。今では恥じるようなものではありませんか。そのようなものの終局は死です。22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕える者となり、あなたがたの実を清くしています。その終局は永遠のいのちです。23 罪の報酬は死です。それに対して、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにあって賜る永遠のいのちなのです。

15 結婚の比喩 (7章 1〜6節)

 1 それとも、兄弟たちよ、あなたがたは知らないのですか。わたしは律法を知っている人たちに話しているのですが、律法とは、人が生きている間だけ支配するものではありませんか。 2 結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結びつけられていますが、夫が死ねば、夫の律法から解放されているのです。 3 それで、夫が生きている間に、他の男と一緒になれば、姦通の女として扱われますが、夫が死んでいるのであれば、律法から解放されているので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。
 4 わたしの兄弟たちよ、このようにあなたがたもキリストのからだを通して律法に死んだのです。それは、あなたがたが他の者、すなわち死者の中から復活された方と一緒になり、神のために実を結ぶようになるためです。 5 わたしたちが肉のうちにあったときには、もろもろの罪の情欲が律法を通してわたしたちの肢体の中に働き、死のために実を結んでいました。 6 しかし今や、わたしたちは自分を縛っていたものに死んだので、律法から解放されたのです。それは、わたしたちが文字という古い次元ではなく、御霊という新しい次元において仕えるようになるためなのです。

16 律法により現れる罪の正体 (7章 7〜13節)

 7 では、わたしたちはどう言うのか。律法は罪であるのか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知りませんでした。律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったのです。 8 ところが、罪はその戒めによって機会をとらえ、わたしの内にあらゆる種類のむさぼりを引き起こしました。 実際、律法がなければ罪は死んでいます。 9 わたしはかって律法とは無関係に生きていました。ところが、戒めが来たとき、罪は生き返り、 10 わたしは死にました。そして、いのちに導くはずの戒めがかえって死に導くものであることが分かりました。 11 実に、罪が戒めにより機会をとらえ、わたしを欺き、戒めによりわたしを殺したのです。 12 こうして、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、善いものです。
 13 では、善いものがわたしにとって死となったのでしょうか。決してそうではありません。実は、罪が善いものによってわたしに死をもたらすことで、その正体を現しました。その結果、罪は戒めによって限りなく邪悪なものになるのです。

17 人間の内にある罪 (7章 14〜25節)

 14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉に属する者であり、罪の支配の下に売り渡されています。 15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が欲することは行わず、自分が憎むことをしているからです。 16 もしわたしが欲しないことをしているとすれば、わたしは律法が善いものであると認めていることになります。 17 だがそうだとすると、それを行うのはもはやわたしではなく、わたしの内に住んでいる罪なのです。
 18 わたしは、自分の中には、すなわちわたしの肉の中には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、実際は善をしていないからです。 19 わたしは自分が欲する善はしないで、欲しない悪を行っているのです。 20 それで、もしわたしが自分の欲しないことをしているのであれば、それを行っているのはもはやわたしではなく、わたしの内に住んでいる罪なのです。
 21 そこでわたしは、善をなそうと欲しているわたしに、悪が住みついているという律法に気づきます。 22 わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいますが、 23 わたしの肢体の内に別の律法があってわたしの理性の律法と戦い、わたしの肢体の内にある罪の律法の中にわたしを閉じこめているのを見ます。
 24 わたしはなんと惨めな人間でしょう。この死のからだから誰がわたしを救い出してくれるのでしょうか。 25 わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します。
 こうして、わたし自身は理性では神の律法に仕えていますが、肉によって罪の律法に仕えているのです。

18 御霊によるいのち (8章 1〜11節)

 1 このゆえに、キリスト・イエスにある者に断罪はありません。2 キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。3 肉のために弱くなっているので律法がなしえなかったことを、神はなしとげてくださったのです。すなわち、神はご自身の子を罪の肉と同じ姿で、かつ罪のために遣わして、肉にある罪を断罪されました。4 それは、律法の正しい要求が、肉に従ってではなく御霊に従って歩むわたしたちにおいて満たされるためです。
 5 肉に従っている者たちは肉のことを志向し、御霊に従っている者たちは御霊のことを志向します。6 肉の志向は死ですが、御霊の志向は命であり、平和です。7 肉の志向は神に敵対し、神の定めに従わないし、そもそも従うことができないからです。8 肉にある者たちは神を喜ばすことはできません。9 ところで、あなたがたは、神の御霊があなたがたの内に宿っているかぎり、肉の次元にいるのではなく御霊の次元にいます。キリストの御霊を持たない者はキリストに属する者ではありません。10 キリストがあなたがたの内にいますならば、体は罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえに命であるのです。11 イエスを死者たちの中から復活させた方の御霊があなた方の内に宿っているならば、キリストを死者たちの中から復活させた方は、あなたがたの内に住んでいてくださる御霊によって、あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださいます。

19 子とする御霊 (8章 12〜17節)

 12 それで、兄弟たちよ、わたしたちは肉に従って生きる責任を肉に対して負っている者ではありません。13 もし肉に従って生きるならば、あなたがたは死にます。しかし、御霊によって体の働きを殺すなら、あなたがたは生きるようになります。14 神の御霊に導かれている者はみな、神の子です。15 あなたがたは、再び恐れに陥れる奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、わたしたちは「アッバ、父よ」と叫ぶのです。16 この御霊ご自身が、わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊に証ししてくださいます。17 子であるなら相続人でもあります。神の相続人であり、キリストと共に栄光にあずかるためにキリストと共に苦しむかぎり、キリストと共同の相続人です。

20 やがて現される栄光 (8章 18〜25節)

 18 今の時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとしている栄光の前では、取るに足りないとわたしは見なしています。 19 被造物は首をのばして神の子たちの顕現を待ち望んでいます。 20 被造物は虚無に服させられていますが、それは自分からではなく、希望の中に虚無に服させた者によるのです。 21 すなわち、被造物自身もまた滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光への解放にあずかるようになるという希望です。
 22 すべての被造物が今に至るまで、共に嘆き、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている者たち、すなわち、わたしたち自身もまた、自分の内でうめきながら、子とされること、つまり、わたしたちの体の贖いを切に待ち望んでいます。 24 わたしたちは救われて、このような希望を持つにいたったのです。ところで、見える希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰が希望するでしょうか。 25 わたしたちが見ていないものを希望するのであれば、忍耐をもって切に待ち望むのです。

21 御霊の執り成し (8章 26〜30節)

 26 同様に、御霊もわたしたちの弱さに寄り添って助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、御霊ご自身が言葉にならないうめきをもって執り成してくださるのです。 27 心を見通す方は、御霊が志向されるところを知っておられます。御霊は聖徒たちのために、神の御心に従って祈り求めてくださるからです。
 28 ところで、わたしたちは知っていますが、神を愛する者たち、すなわち、御計画に従って召された者たちには、すべてのことが共に働いて善にいたるのです。 29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の像(かたち)と同じ形になるようにあらかじめ定めてくださいました。それは、御子が多くの兄弟たちの中で最初に生まれた者となるためです。 30 さらに、あらかじめ定めた者たちを召し、召した者たちを義とし、義とした者たちを栄光ある者とされたのです。

22 神の愛による勝利 (8章 31〜39節)

 31 それでは、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対することができるでしょうか。 32 御自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に引き渡された方は、御子と共に万物をわたしたちに賜らないことがあるでしょうか。 33 誰が神に選ばれた者たちを訴えることができるでしょうか。彼らを義とする者は神なのです。 34 断罪する者は誰か。わたしたちのために死んだ方、いやむしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右にいまして、執り成してくださっているのです。
 35 誰がわたしたちをキリストの愛から引き離すことができようか。患難か、それとも困窮か、それとも迫害か、それとも飢えか、それとも裸か、それとも危険か、それとも剣か。36 次のように書かれているとおりです。
   「あなたのために、わたしたちは一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」。
37 しかし、わたしたちはこれらすべてのことにおいて、わたしたちを愛してくださった方によって勝ちえて余りがあります。 38 わたしは確信しています。死も生も、御使いたちも支配者たちも、現在のものも将来のものも、いかなる力も、 39 高いところのものであれ深いところのものであれ、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです。


第三部 イスラエルの民の救い

     ー 恩恵による選民イスラエルの民の扱い方 9章1節〜11章36節

23 パウロの痛み (9章 1〜5節)

 1 わたしはキリストにあって真実を語り、偽りは言っていません。わたしの良心も聖霊によってわたしに証をしています。 2 すなわち、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶えざる痛みがあります。 3 わたしの兄弟、すなわち肉による同胞のためであるなら、わたし自身は神に呪われた者となり,キリストから離されてもよいとさえ願っているのです。 4 彼らはイスラエルの民であり、子としての身分も、栄光も、諸々の契約も、律法授与も、礼拝も、諸々の約束もみな彼らのものです。 5 父祖たちも彼らのものであり、キリストも肉によれば彼らから出られたのです。すべてのものの上にいます神は、永遠に誉むべき方である。アーメン。

24 神の自由な選び (9章 6〜18節)

 6 ところで、神の言葉が無効になったのではありません。イスラエルから出た者がみなイスラエルではないからです。 7 アブラハムの子孫がみなその子ではなく、「イサクがあなたの子孫と呼ばれるようになる」のです。 8 すなわち、肉の子が神の子であるのではなく、約束の子が子孫と認められるのです。 9 約束の言葉とはこうです。「この時期にわたしは来るであろう。そして、サラに息子が生まれているであろう」。 10 それだけでなく、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもったリベカの場合も同じです。 11 というのは、子供がまだ生まれてもおらず、善も悪もまだ何もしていない時に、選びによる神のご計画が貫かれるために、 12 すなわち、人の働きによるのではなく、召された方によってご計画が貫かれるために、リベカにこう告げられたのでした。「兄は弟に仕えるであろう」。 13 こう書かれています。「わたしはヤコブを愛した。しかし、エサウを憎んだ」。
 14 では、わたしたちは何と言おうか。神に不義があるのではないか。決してそうではない。 15 神はモーセに言っておられます。「わたしは自分が憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむであろう」。 16 従って、意志する者や努力する者ではなく、憐れまれる神によるのです。 17 聖書はファラオにこう言っています。「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全地に告げ知らせるためである」。 18 こうして、神は御自身が欲する者を憐れみ、欲する者を頑なにされるのです。

25 憐れみの器と怒りの器 (9章 19〜29節)

 19 すると、あなたはわたしに言うでしょう。「では、なぜ神はなおも人を責めるのか。誰が神の意向に逆らうことができようか」。 20 ああ、人よ。神に言い逆らっているあなたは、いったい何者なのか。形作られたものは、形作った者に対して、「なぜわたしをこのように形作ったのか」とは言わないであろう。 21 粘土を用いる陶器師は、同じ塊から一つを尊いことに用いる器に、一つを卑しいことに用いる器に造る権限を持たないでしょうか。 22 ところで、もし神が怒りを示し、御自身の力を知らせようと欲しつつも、滅びに定められた怒りの器を大いなる寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、 23 それも、栄光のために準備された憐れみの器に御自身の栄光の豊かさを知らせるためであったとすれば、どうでしょうか。24 この憐れみの器として、神はわたしたちをユダヤ人からだけではなく異邦人からも召されたのです。 25 ホセアによって神が言われた通りです。
「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
26『お前たちはわたしの民ではない』と彼らに言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる」。
27 ところで、イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。
「イスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われることになる。
28 主は御言葉を完成しつつ、切りつめて地上に行われるからである」。
29 また、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。
「もし万軍の主が子孫をわたしたちに残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、
  ゴモラのようにされたことであろう」。

26 イスラエルのつまずき (9章30節〜10章4節)

 30 では何と言おうか。義を追求しなかった異邦人が義を得ました。すなわち信仰による義です。 31 ところが、義の律法を追求したイスラエルは律法に到達しませんでした。 32 なぜですか。信仰によらず行いによって到達することができるかのように求めたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。 33 「見よ、わたしはシオンにつまずきの石、妨げの岩を置く。これに信頼する者は恥を受けることはない」と書かれているとおりです。
10・1 兄弟たちよ、わたしは彼らのために救いを心から願い、神に祈っています。 2 わたしは彼らが神に対して熱心であることは証しします。しかし、その熱心は知識に従っていないのです。 3 神の義を理解せず、自分の義を立てることを追求して、神の義に従わなかったのです。 4 キリストは、律法の終わりであり、すべて信じる者にとって義となられたのです。

27 信仰による義 (10章 5〜13節)

 5 モーセは律法による義について、「この戒めを行う者は、この戒めによって生きるであろう」と書いています。 6 ところが、信仰による義はこう言っています。「あなたは心の中で『だれが天に昇るであろうか』と言ってはならない」。それはキリストを引き降ろすことです。 7 また、「『だれが陰府に下るであろうか』と言ってはならない」。それはキリストを死者の中から引き上げることです。 8 では何と言っていますか。「御言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」。これがわたしたちの宣べ伝えている信仰の言葉です。 9 すなわち、あなたの口で主イエスを言い表し、あなたの心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じるなら、救われるからです。 10 人は心に信じて義とされ、口で言い表して救われるのです。 11 聖書もこう言っています。「だれでも彼を信じる者は恥を受けることはない」。 12 ユダヤ人とギリシャ人の区別はない。同じ主がすべての人の主であり、御自分を呼び求めるすべての者に恵み豊かであるからです。 13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」からです。

28 イスラエルの拒否 (10章14〜21節)

 14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたこともない方を、どうして信じられよう。宣べ伝える者がなければ、どうして聞くことができよう。 15 遣わされることがなければ、どうして宣べ伝えることができよう。「良いことを告げ知らせる者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
 16 しかし、すべての者が福音に聴き従ったのではありません。イザヤも「主よ、わたしたちの聞いたことを誰が信じたのでしょうか」と言っています。 17 実際、信仰は聞くことにより、しかも聞くことはキリストの言葉によるのです。 18 だが、わたしは言います。彼らは聞かなかったのでしょうか。そんなことはありません。「その声は全地に至り、その言葉は世界の果てに及んだ」のです。 19 だが、わたしは言います。イスラエルは理解しなかったのでしょうか。まず、モーセがこう言っています。「わたしは民でない者のことで、あなたがたにねたみを起こさせ、悟りのない民のことで、あなたがたに怒りを起こさせる」。 20 イザヤも大胆で、こう言っています。「わたしは、わたしを捜さなかった者たちに見出され、わたしを尋ねなかった者たちに現れた」。 21 しかし、イスラエルについてはこう言っています。「わたしは、従わず反抗する民に、一日中手を差し伸べた」。

29 イスラエルの残りの者 (11章 1〜10節)

 1 そこで、わたしは言います。神は御自分の民を捨てられたのでしょうか。決してそうではない。わたし自身もイスラエル人であって、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。 2 神は、前もって知っておられた御自分の民を捨てることはなさいませんでした。それとも、あなたがたは聖書がエリヤについて言っていることを知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えて、こう言っています。 3 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています」。 4 しかし、神のお告げは彼に何と言っていますか。「わたしは、バールに膝をかがめない者七千人を自分のために残しておいた」。 5 同じように、現に今も、恵みの選びによって残りの者が残されています。 6 恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。恵みが恵みでなくなるからです。
 7 では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者が得たのです。他の者はかたくなにされたのです。 8 こう書かれている通りです。「神は彼らに、今日にいたるまで、麻痺の霊、見えない目、聞こえない耳をお与えになった」。 9 ダビデもまたこう言っています。「彼らの食卓は罠となり、網となるように。また、つまずきとなり、仕返しとなるように。 10 彼らの目は暗くされ、見えなくなるように。彼らの背はいつも曲がっているように」。

30 救済計画におけるイスラエルと異邦人 (11章 11〜24節)

 11 そこでわたしは言う。彼らはつまずいて倒れてしまったのでしょうか。決してそうではない。かえって、彼らの過ちによって救いが異邦人に及び、彼らを奮起させるためであったのです。 12 もし彼らの過ちが世の富となり、彼らの脱落が異邦人の富となったのであれば、彼らの数が満ちることはどれほどの富となることでしょうか。
 13 だが、わたしは異邦人であるあなたがたに言います。たしかに、わたし自身は異邦人への使徒であるかぎり、わたしの務めを誇りにしていますが、 14 それは何とかしてわたしの骨肉を奮起させて、彼らの中の幾ばくかを救いたいからです。 15 彼らが捨てられることが世の和解となったのであれば、受け入れられることは死者たちからの命のようではありませんか。16 初穂が聖であれば練り粉も聖であり、根が聖であれば枝も聖なのです。 17 ところで、一部の枝が切り取られて、野生のオリーブであるあなたが代わりに接ぎ木され、オリーブの根の養分にあずかる者になったとしても、 18 その枝に対して誇ってはなりません。誇っても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
 19 あなたは言うでしょう、その枝が切り取られたのはわたしが接ぎ木されるためであったと。 20 その通りです。彼らは不信仰によって切り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。高ぶった思いを持つことなく、恐れなさい。 21 神が自然の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたを惜しまれることもないからです。 22 ですから、神の慈愛と峻厳を見なさい。倒れた者に峻厳が向けられ、あなたには神の慈愛が向けられています。それはあなたが慈愛に留まるかぎりであって、そうでないなら、あなたも切り取られます。 23 しかし、彼らもまた不信仰を続けなければ接ぎ木されることになります。神は彼らを再び接ぎ木することができる方です。 24 もしあなたがもともと野生オリーブの木から切り取られて、自然の性質に反して栽培オリーブに接ぎ木されたとすれば、まして、もともとからの枝は元のオリーブに接ぎ木されないことがあるでしょうか。

31 イスラエルの回復 (11章 25〜36節)

 25 兄弟たちよ、あなたがたが自分で自分を賢い者であるとすることがないように、この奥義について無知でいてもらいたくありません。すなわち、イスラエルの一部がかたくなになったのは、入ってくる異邦人の数が満ちるまでであり、 26 こうして全イスラエルが救われることになるのです。こう書かれているとおりです。「あがなう者がシオンから来て、ヤコブから不信心を取り除くであろう。 27 そして、これは彼らに対するわたしからの契約となる、わたしが彼らの罪を取り除くであろうときに」。
 28 福音については、彼らはあなたがたのために敵となっていますが、選びについては父祖たちのゆえに愛されている者たちです。 29 神の賜物と召しは取り消されることはないからです。 30 あなたがたはかって神に対して不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けました。 31 それと同じように、彼らは今はあなたがたが受けている憐れみに対して不従順になっていますが、それは、彼らもまた憐れみを受けるようになるためです。32 神はすべての者を不従順の中に閉じこめましたが、それはすべての者を憐れむためであったのです。
 33 ああ、神の富と知恵と知識の深さよ。なんと神のさばきは究めがたく、その道は探りがたいことか。
34 「だれが主の思いを知っていたか。または、だれが主の助言者になったか。
35 または、だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。
36 すべては神から出て、神により、神に向かう。栄光が永遠に神にありますように! アーメン。


第四部 実践的勧告

     ー 恩恵の場に生きる者の社会生活の仕方 12章1節〜15章13節

A 一般的な勧告 (12章と13章)

32 霊的礼拝 (12章 1〜2節)

 1 そこで、兄弟たちよ、わたしは神の憐れみによってあなたがたに勧めます。あなたがたの身体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げなさい。それがあなたがたの霊的な礼拝です。 2 あなたがたは、この世と同じかたちになることなく、かたちを変えられて、意識を新たにし、何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

33 一つのからだの肢体として (12章 3〜8節)

 3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがたの中の一人一人に言います。分を超えて考えることなく、むしろ神が各人に分け与えた信仰の度合いに応じて、慎み深く考えなさい。 4 というのは、わたしたちは一つの体に多くの肢体を持っていますが、その肢体すべては同じ働きをしていないように、 5 わたしたちは多くいても、キリストにあって一つの体であり、各自はお互いの肢体なのです。 6 わたしたちに与えられた恵みによって異なった賜物を持っているのですから、それが預言であるなら、信仰に正しく対応して、 7 それが奉仕であれば奉仕において、教える者であれば教えることにおいて、 8 勧めをする者であれば勧めのわざにおいて、その賜物を用いなさい。施しをする者は純粋に、援助する者は熱心に、慈善を施す者は喜びをもって、それを行いなさい。

34 愛の道 (12章 9〜21節)

 9 愛には偽りがありません。悪を憎み、善に固着し、 10 兄弟愛をもって互いに慈しみ、尊敬を示すことにおいて互いに他に先んじ、 11 勤勉で怠けることなく、霊に燃えて、主に仕え、12 希望によって喜び、患難を耐え忍び、祈りにおいて絶え間なく、13 聖徒たちの窮乏を分かち合い、旅にある者をもてなします。
 14 あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません。 15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。 16 互いに同じ思いを抱き、高ぶった思いを持つことなく、低い境遇の者たちと共に歩みなさい。自分で賢い者とならないようにしなさい。 17 誰に対しても悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮するようにしなさい。 18 あなたがたから出ることでできるならば、すべての人たちと平和に過ごしなさい。 19 愛する人たちよ、自ら復讐しないで、御怒りに場所を譲りなさい。書かれているように、「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」と主が言われるからです。 20 むしろ、あなたの敵が飢えているなら食べさせなさい。彼が渇いているなら飲ませなさい。そうすることで、彼の頭に燃える炭を積み上げるのです。 21 悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい。

35 権威への服従 (13章 1〜7節)

 1 すべての人間は上にある権威に服従しなさい。神によらない権威はなく、現にある権威は神によって立てられたものだからです。 2 それゆえ、権威に逆らう者は神の定めに反抗したのであり、反抗した者はその身に裁きを招くことになるのです。 3 支配者たちは善をなす者には怖れではなく、悪をなす者に怖れとなるのです。ところで、あなたは権威を怖れないことを願っています。では、善を行いなさい。そうすれば権威から賞賛を得ることになります。 4 権威はあなたにとって善のために神に仕える者なのです。しかし、悪を行うのであれば怖れなさい。権威は無意味に剣を帯びているのではないのですから。神に仕える者として、悪にたずさわる者に怒りをもって報いるのです。 5 それゆえ、怒りのためだけでなく良心のためにも服従しなさい。 6 そのためにあなたがたは税金も納めているのですから。彼らは神の奉仕者として、まさにこのことのために日夜励んでいるのです。 7 あなたがたはすべての人に負債を返しなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、怖るべき人は怖れ、敬意を表すべき人には敬意を表しなさい。

36 愛は律法を満たす(13章8〜10節)

 8 誰にも負債がないようにしなさい。もっとも互いに愛し合うという負債は別ですが。人を愛する者は律法を満たしたのです。 9 姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、その他どんな戒めがあっても、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉に要約されます。10 愛は隣人に悪を行うことはありません。だから愛は律法を満たすのです。

37 時をわきまえて (13章 11〜14節)

 11 あなたがたは時をわきまえて、以上のことをしなさい。あなたがたが眠りから覚めるべき時がすでに来ているからです。今やわたしたちの救いは、わたしたちが信仰に入った時よりも近づいているのです。 12 夜は更け、日は近づいたのです。それゆえ、わたしたちは暗闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身につけようではありませんか。 13 わたしたちは、日中に歩く者としてふさわしく歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみに歩むことはないように。 14 むしろ、主イエス・キリストを身にまとい、欲望を満たすために肉に心を向けないようにしなさい。

B 実践的勧告 ― 強い者と弱い者 (14章と15章)

38 互いに受け入れよ (14章1〜12節)

 1 確信の弱い人を受け入れなさい。意見の違いについての論争に陥らないように。 2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べます。 3 食べる人は食べない人を軽蔑してはなりません。食べない人は食べる人を裁いてはなりません。神はその人を受け入れておられるからです。 4 他人の召使いを裁くあなたは、いったい何者ですか。彼が立つのも倒れるのも、彼の主人によるのです。彼は立たせられるでしょう。主は彼を立たせることができるからです。
 5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もあれば、すべての日を同じであると判断する人もいます。それは、各自が自分の心に確信しているべきことです。 6 日を重んじる人は、主によって重んじるのです。食べる人は主によって食べるのです。その人は神に感謝しているからです。食べない人は主によって食べないで、神に感謝するのです。 7 わたしたちの中では、だれ一人自分で生きる者はなく、だれ1人自分で死ぬ者はありません。 8 わたしたちは、生きるとすれば主によって生き、死ぬとすれば主によって死ぬのです。従って、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのです。9 キリストが死に、また生きておられるのは、まさに死せる者たちにも生きている者たちにも主となるためなのです。10 それなのに、なぜあなたは兄弟を裁くのですか。また、なぜあなたは兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の座の前に立つことになるのです。 11 こう書かれています。主は言われる。「わたしは生きている。すべての膝はわたしの前にかがみ、すべての舌は神に言い表すことになる」。 12 このように、わたしたちは一人ひとり神に自分のことを申し述べることになります。

39 兄弟をつまずかせるな (14章 13〜23節)

 13 それゆえに、これからはわたしたちは互いに裁かないようにしよう。むしろ、兄弟の前に妨げやつまずきを置かないように決心しなさい。 14 わたしは主イエスにあって、それ自体で汚れたものは何もないことを知っており、またそう確信しています。何かを汚れていると考えるならば、それはそう考える人にとって汚れたものになるのです。 15 食べ物のことであなたの兄弟が傷つけられるならば、あなたはもはや愛によって歩んでいません。あなたの食べ物で兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死なれたのです。 16 ですから、あなたがたにとって善いことがそしられないようにしなさい。 17 神の国は食べることや飲むことではなく、聖霊による義と平和と喜びです。 18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々から認められるのです。
 19 だから、わたしたちは平和に関わることやお互いを建て上げることを追求しようではありませんか。 20 食べ物のことで神のわざを壊してはなりません。たしかにすべてのものは清いのです。しかし、つまずきを感じながら食べる人には悪いものになります。 21 肉を食べず、酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことを何もしないことが良いのです。 22 あなたは、自分が抱いている確信を、自分で神の前に持ち続けなさい。自分が承認することで自分を裁かない人は幸いです。 23 食べるときに疑っている人は裁かれているのです。確信から出ていないからです。確信から出ていないことはすべて罪です。

40 隣人を喜ばせる(15章 1〜6節)

 1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであって、自分自身を喜ばすべきではありません。 2 わたしたちはそれぞれ、隣人を喜ばせ、その人を建て上げるのに益となるようにすべきです。 3 キリストでさえ御自分を喜ばせることはされませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。 4 以前に書かれたものはすべて、わたしたちを教えるために書かれたのであって、それは聖書が与える忍耐と慰めによって、わたしたちが希望を持つようになるためです。 5 どうか忍耐と慰めの神があなたがたに、キリストにならって、互いに同じ思いを与えてくださり、 6 一つの心で声をあわせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神を讃えさせてくださるように。

41 ユダヤ人と異邦人のためのキリスト(15章 7〜13節)

 7 だから、キリストもあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたは神の栄光のために互いに相手を受け入れなさい。 8 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために割礼の者たちに仕える者となられたが、それは父祖たちへの約束を確立するためであり、 9 他方、異邦人が憐れみを受けて神を讃美するようになるためです。このように書かれています。「このゆえに、わたしは異邦人の中であなたを讃え、あなたの名をほめ歌おう」。 10 そして、さらにこう言っている。「あなたがた異邦人よ、主の民と共に喜べ」。 11 さらにこう言う。「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民よ、主を讃美せよ」。 12 そして、さらにイザヤも言っている。「エッサイの根が生えいで、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みを置く」。
 13 どうか希望の神が、信じることによるあらゆる喜びと平和であなたがたを満たしてくださり、あなたがたが聖霊の力によって希望に溢れますように。

手紙の結び

42 宣教者パウロの使命(15章 14〜21節)

 14 わたしの兄弟がたよ、あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うこともできると、わたしの方もまた、あなたがたについては確信しています。 15 しかし、わたしはところどころ、あなたがたに記憶を新たにしてもらおうと、かなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みを賜って 16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の務めを果たしているからです。祭司の務めというのは、異邦人が聖霊によって聖なるものとされ、神に喜ばれる献げ物となるための務めにほかなりません。 17 だから、わたしは神に仕えることについては、キリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。 18 異邦人を従順に導くために、キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、わたしはあえて語ろうとは思いません。キリストが言葉とわざにおいて、 19 しるしと不思議を現す力により、御霊の力によって働かれたのです。こうして、わたしはエルサレムから始まり、孤を描いてイリリコン州に至るまで、キリストの福音を満たしてきました。 20 このように、キリストの名がまだ知られていない所で福音を宣べ伝えることを熱心に追求してきました。それは、他人の土台の上に建てるようなことはしないためです。 21 「彼について告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう」と書かれているとおりです。

43 ローマ訪問の計画 (15章 22〜33節)

 22 こういうわけで、わたしはこれまで幾度もあなたがたのところに行くことを妨げられてきました。 23 しかし今や、この地域にはもはや余地がないので、また、わたしは永年あなたがたのところへ行くことを切望してきたので、 24 イスパニアに行くようになる場合には、途中であなたがたに会い、まず幾分でもあなたがたとの交わりが満たされたならば、あなたがたによってイスパニアに送り出してもらうことを願っています。
 25 しかし今は、聖徒たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。 26 マケドニア州とアカイア州の人たちが、エルサレムの聖徒たちの貧しい人々に幾分かの援助をするように、進んで同意したからです。 27 たしかに彼らは進んで同意しましたが、彼らには聖徒たちに負い目もあるのです。異邦人が聖徒たちの霊的なものに与ったとするならば、異邦人は肉のもので聖徒たちに奉仕する負い目があるからです。 28 このことを成し遂げ、この実を確実に手渡した後、わたしはあなたがたのところを経由してイスパニアへ行きます。 29 あなたがたのところに行くときには、キリストの溢れる祝福を持って行くことになると思っています。
 30 兄弟がたよ、わたしたちの主イエス・キリストにより、また御霊の愛によってお願いします。わたしと一緒に力を尽くして、わたしのために神に祈っていただきたい。 31 すなわち、わたしがユダヤの不信の者たちから救われ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなるように、 32 そして、神の御心によって喜びをもってあなたがたのところに到着し、あなたがたと共に憩うことができるように祈ってもらいたい。 33 平和の神があなたがた一同と共にいてくださるように。アーメン。

44 個人的な挨拶 (16章 1〜16節)

 1 わたしたちの姉妹フェベを紹介します。 この人はケンクレアイの集会の奉仕者です。 2 どうか、主にあって聖徒たちにふさわしく彼女を迎え入れ、彼女があなたがたの助けを必要とするときには、どんなことでも助けてあげてください。彼女自身多くの人の援助者となり、とくにわたしの援助者となってくれた人ですから。
 3 キリスト・イエスにあってわたしの協力者であるプリスカとアキラによろしく伝えてください。4 この二人は、わたしの命のために自分たちの首を差し出してくれたのです。この二人には、わたしだけでなく、異邦人のすべての集会が感謝しています。 5 また、二人の家に集まる集会にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく伝えてください。彼はキリストに捧げられたアジア州の初穂です。 6 あなたがたのために一方ならず苦労したマリアによろしく伝えてください。 7 わたしの同国人であり同囚の仲間であったアンドロニコとユニアによろしく伝えてください。二人は使徒たちの中で際だっており、わたしよりも先にキリストにある者となった人たちです。 8 主にあってわたしの愛するアンプリアトによろしく伝えてください。 9 キリストにあるわたしの同労者ウルバノと、わたしの愛するスタキスによろしく伝えてください。 10 キリストにあって熟達したアペレによろしく伝えてください。アリストブロの家の者たちによろしく伝えてください。 11 同胞のヘロディオンによろしく伝えてください。ナルキソの家の中で主にある者たちによろしく伝えてください。 12 主にあって労しているトリファイナとトリフォサによろしく伝えてください。主にあって多く労した、愛するペルシスによろしく伝えてください。 13 主にあって選ばれたルフォスと彼の母によろしく伝えてください。彼の母はわたしの母でもあるのです。 14 アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく伝えてください。 15 フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖徒たち一同によろしく伝えてください。 16 お互いに聖なる口づけをもって挨拶をかわしなさい。すべてのキリストの集会からあなたがたに挨拶を送ります。

45 警戒しなさい(16章 17〜20節)

 17 兄弟たちよ、あなたがたに勧めます。あなたがたが学んだ教えに反して、分裂やつまずきをひき起こす人たちを警戒し、そのような人たちから遠ざかりなさい。 18 このような人たちは、わたしたちの主キリストに仕えているのではなく、自分の腹に仕えているのです。そして、甘い言葉やへつらいの言葉で純真な人々の心を欺いているのです。 19 あなたがたの従順は皆に知られており、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。それでもなお、わたしはあなたがたが善にはさとく、悪には染まないでいてほしいのです。 20 平和の神が速やかにサタンをあなたがたの足の下に打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。

46 同行者からの挨拶 (16章 21〜23節)

 21 わたしの同労者テモテ、また、わたしの同胞であるルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。 22 この手紙を筆記したわたしテルティオが、主にあって挨拶を送ります。 23 わたしと集会全体が世話になっている家の主人ガイオがあなたがたによろしくと言っています。市の会計係のエラストと兄弟のクアルトがあなたがたによろしくと言っています。 [24 わたしたちの主イエス・キリストの恵みがあなたがた一同と共にあるように。]

47 結びの頌栄(16章 25〜27節)

 [25 あなたがたを堅く立てることができる方に、すなわち、わたしの福音とイエス・キリストの宣教によって、また、世々にわたって封印されてきたが、 26 今や預言の書を通して、永遠の神の命令により、すべての民を信仰の従順に至らせるために明らかにされるにいたった奥義の啓示により、あなたがたを堅く立てることができる方、 27 すなわち、唯一の知恵ある神に、イエス・キリストをとおして、栄光がとこしえにあるように。アーメン]