市川喜一著作集 > 第25巻 福音書としてのローマ書 > 第1講

第一章 諸国民への使徒・パウロの生涯

T ユダヤ教徒パウロ

タルソのパウロ

パウロはイエスと同じ一世紀のユダヤ人です。ただイエスやその十二弟子はみなパレスチナのユダヤ人でしたが、パウロはディアスポラのユダヤ人であることが大きな違いです。ディアスポラ(離散)のユダヤ人というのは、前六世紀のバビロン捕囚以来、故国の地パレスチナを追われて、ヘレニズム世界の各地の都市に散らばって住んでいたユダヤ人のことです。イエスの時代には、パレスチナ・ユダヤ人は約五〇万から七〇万人で、ディアスポラ・ユダヤ人は約四五〇万人ですから、ユダヤ人の圧倒的多数はディアスポラのユダヤ人であったことになります。
パウロの両親はヘレニズム世界有数の大都市タルソ(現在のトルコ領東部の地中海に面した港湾都市)の住人で、タルソ名産のテント生地の生産や販売を職業としており、かなり富裕な階層の人のようでした。そのことはパウロの父親がローマ市民権を持っていたことからも推察されます。当時は財力で市民権を獲得することもできたようで、市民権は子に引き継がれます。後にパウロはローマ市民権を主張しています(使徒二二・二二〜二九)。父親はイスラエル初代の王サウルの血統に属するベニアミン族のユダヤ人で、その一族はいつの時かタルソに移住してきたのでしょう。後にパウロは自分が生粋のユダヤ人であること、すなわち成人してから割礼を受けたユダヤ教徒でなく、生後八日目に割礼を受けた生まれながらのユダヤ教徒であることを誇りにしています(フィリピ三・五)。タルソ出身のパウロは生涯「タルソのパウロ」と呼ばれることになります。
パウロは幼年期にはヘレニズム都市に住む家族の一員としてギリシア語を母語として育ち、ギリシア語やギリシア文学の教育を受け、ギリシア文化の教養はかなり高かったと推察されます。しかし、両親は熱心なユダヤ教徒であり、出来のよい息子をエルサレムに留学させます。ユダヤ教徒にとって最高の学問は律法に関する学問であり、両親は彼を律法学者にしようとします。当時、律法の専門教育を受けることができるのはエルサレムだけであったとされていました。彼が何歳の時にエルサレムに行ったのかは確認できませんが、若い時からエルサレムの高名な律法学者(おそらくヒレル)の門下で学び、認可を受けて律法学者としての仕事についたと考えられます。聖書はヘブライ語で書かれており、イスラエルの宗教的伝統とユダヤ教の神学に通じるためには、ヘブライ語の習得は不可欠です。パウロは幼い時にすでに両親から、また会堂でヘブライ語聖書は学んでいたでしょうが、エルサレムではヘブライ語の学習を深め、師から「父祖たちの言い伝え」(先輩律法学者たちのそれぞれの時代の聖書解釈の学説)の伝授を受け、同世代の若者よりも人一倍熱心に学び取ったと言っています(ガラテア一・一四)。パウロが属する当時のユダヤ教主流のファリサイ派ユダヤ教では、そのような「父祖たちの言い伝え」も不文律法として、すなわちユダヤ教徒が順守すべき律法として、書かれた律法(聖書)と同等の扱いを受けていましたから、その勉学の全体をパウロは「人一倍ユダヤ教に熱心であった」と振り返ることができました。パウロは長年のエルサレムでの生活と活動を通じて、多数派である地元のパレスチナ・ユダヤ人が日常に使うアラム語(ヘブライ語と同系の日常語)も習得していたので、パウロはギリシア語とヘブライ・アラム語の両方に通じているバイリンガルであったといえます。当時のエルサレムはヘブライ・アラム語とギリシア語の両方が使われているバイリンガルな国際都市でした。

迫害者パウロ

住民は大部分がアラム語を話すパレスチナ・ユダヤ人ですが、一部はギリシア語を話すユダヤ人もいますので、ユダヤ教徒の宗教生活の拠点となるシナゴーグ(会堂)も、アラム語を使うシナゴーグとギリシア語を使うシナゴーグに分かれていました(使徒六・一〜六はその分離を少し違う問題の結果だとしています)。パウロはギリシア語を使うシナゴーグで、ファリサイ派の新進気鋭の律法の教師として活動していたと考えられます。その中には、ディアスポラのユダヤ人で故国に戻りエルサレムに住むようになった人や、ユダヤ人ではないが「神を敬う者」として会堂に集う人たちに律法(聖書)を教えていたのでしょう。彼らを改宗に導き、割礼を受けるまで導くことも彼の仕事だったことでしょう。
ところが、そのシナゴーグに重大な問題が起こります。最近エルサレムで始まった新しい信仰運動に走った者たちは、周囲の正統的なユダヤ教徒と問題を起こすようになっていました。辺境のガリラヤから来た少数の人々が、少し前に最高法院で民を迷わす異端の教師として死刑の判決を受け、ローマ総督ピラトによって十字架で処刑されたナザレのイエスという預言者が、三日目に復活し、神からイスラエルを救うメシアとして立てられたと宣べ伝えており、その報知を信じてシナゴーグのユダヤ教徒との間に波紋を起こしていたのです。熱烈なファリサイ派の教師であるパウロには、また新しいメシア運動が始まったのかと苦々しい思いであったのでしょう。尊敬するファリサイ派の長老教師で最高法院にも議席があるガマリエルが、「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」(使徒五・三三〜四〇)と議会に助言していたので、パウロもこの厄介なメシア運動をしばらくは静観していたと思われます。
しかし、もはや静観していられなくなる事態が起こりました。この新しいメシア信仰のユダヤ人も、ガリラヤから来たペトロたちイエスの弟子たちが率いるアラム語系ユダヤ人のシナゴーグと、新しく信仰に入ったディアスポラのギリシア語系のユダヤ人シナゴーグに分かれていましたが(使徒六・一〜六)、パウロが所属するギリシア語系のシナゴーグの新信仰のユダヤ人の指導的人物が、「あのナザレの人イエスは、この場所(神殿)を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習(モーセ律法)を変えるだろう」(使徒六・一四)と唱えていると聞いて、ファリサイ派の律法教師としてはもはや手をこまねいて見過ごすことはできなくなりました。彼らの指導者であるステファノがシナゴーグの長老会議(それはユダヤ人の裁判所でもありました)にかけられて有罪の判決が下されたとき、パウロは有罪の判定に賛成し、ステファノが石打にされた時には、石を投げる執行人の上着を預かるなどの役割を果たしました。
それからのパウロは、ユダヤ教の中心である神殿をないがしろにし、聖なる神の律法の順守を無視するような言動を弄するイエスの信者を放置することはできず、この異端的な信仰を絶滅しなければならないとして、激しい反対運動の先頭に立ちます。ルカが描くところでは、「サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」ということになります(使徒八・三)。エルサレムの北にある古い大都市ダマスコ(そこにはユダヤ人が多く住んでいました)にも、イエスを信じるものが多くなっていることを知ったパウロは、ダマスコでこのメシア信仰の者を逮捕して裁判のために連行する権限を与えるとの書簡を大祭司に請求して書いてもらい、神殿警備の警官を引き連れてダマスコに向かいます。

U パウロの回心と初期の働き

ダマスコ途上の回心

ダマスコに向かう途上で事件が起こります。パウロの一行がダマスコに向かっている時、突然強烈な光が照り輝いて、パウロは地に倒れ伏してしまいます。パウロはその光の中から自分に呼びかける声を聞きます、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」。当時パウロはユダヤ名の「サウル」で名を呼ばれていました。その光が単に物理的な光ではなく、圧倒的な人格的な迫りであることを感じたパウロは、思わず「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねます。それに対して「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という言葉が返ってきます。パウロはそれまでイエスを信じるユダヤ人を迫害していました。しかし、それは彼らの中におられるイエスを迫害していたのです。そのイエスは今も生きて働いておられることを、迫害者パウロに現れて示されたのです。パウロは地に倒れ伏して、起き上がっても何も見えなくなっていました。パウロは周囲の人たちに手を引かれて、ダマスコの街に入ります。あまりの衝撃の大きさに圧倒されて、パウロは三日間、目が見えず、食べることも飲むこともありませんでした。パウロの事跡を伝えるルカはこのように語っています(使徒九・一〜九)。
ルカは続けて、そのダマスコで起こったことを伝えています(使徒九・一〇〜一九)。それによると、イエスはダマスコ在住のアナニアという弟子をパウロのもとに遣わして、彼がパウロに手を置いて祈ったとき、パウロを聖霊で満たし、目から鱗のようなものが落ちて再び見えるようにされます。この出来事が「パウロの回心」と呼ばれます。これは改宗ではありません。パウロがユダヤ教から何か他の宗教に変わったわけではありません。そのときにはまだキリスト教という宗教は存在しません。パウロはこの出来事の後も、ユダヤ教徒のままです。しかし、そのユダヤ教の中で神との関わり方が根底からひっくり返ったのです。それまでのパウロは、律法すなわちユダヤ教という宗教の諸規定を忠実に順守することによって神に受け入れられる者になる、すなわち義とされることを必死に追求する人間でした。しかし、この体験によってパウロの神との関わり方が根底から変わりました。ユダヤ教律法を誰よりも熱心に守ったパウロが、復活して神から遣わされた救い主であるキリストを迫害したのです。神が遣わされたキリストを信じて、このキリストに合わせられて生きること、すなわちキリスト信仰だけが神の霊(聖霊)に満たされて、人を救うのであることを悟ります。これが「回心」、コンバージョン、人間の根底的な変革です。この出来事はイエスの復活の三年ぐらい後の三三年であったと考えられます。

回心直後の福音活動

このダマスコ途上の出来事は、その後キリストの福音を宣べ伝える働きを進めるようになった時にも、パウロは折に触れて語っています。その典型的な場合がガラテア書(一・一一〜一七)にあります。それによると、パウロはこの回心の体験の時に、同時にこの福音を異邦人に、すなわちユダヤ教徒以外の諸国民に宣べ伝えるように召されたのであることを語っています。ルカはそれを回心の時にアナニアを通して告げられた召命とし、その後にも繰り返し、パウロがその使命を顕現された復活の主から同時に与えられたことを語っています(使徒九・一五)。ガラテア書のパウロ自身の証言によると、パウロはこの回心体験の後、エルサレムの使徒たちのもとには行かないで、「アラビアに出て行き、そこから再びダマスコに戻った」のでした。
これは二〇年ほど後に書かれた回想ですから一行で済ませていますが、この時アラビアに行ったのは何のためだったのでしょうか。多くの訳は「アラビアに退いて」と訳していますが、これは人跡稀なアラビアの荒れ地で祈りと瞑想にふけるためという解釈からの訳でしょう。実際はまだ福音が伝えられていない地に伝えるために、誰も行っていない東の隣国、おそらくユダヤ人が多く住むナバテア王国の首都ペトラに行ったと考えられます。しかし、この東に向かうパウロの活動は、その頃にナバテア王国のアレタス王がユダヤ人と戦争を始めたために退去を余儀なくされて、何の成果もなくパウロはダマスコに戻ります。
ダマスコでのパウロの福音活動はルカが比較的詳しく伝えることになります(使徒九・一九〜二五)。パウロは自分の回心体験から、イエスこそキリストであって、ユダヤ教律法の実行ではなく、キリストであるイエスを信じることが救いであると宣べ伝えたために、迫害者として恐れていたユダヤ人共同体の中に激しい論争と騒乱が起こります。この事実からも、パウロはごく初期から「律法(ユダヤ教)とは別に現された神の義」を宣べ伝えていたことが確認できます。ユダヤ教徒たちはこの頃ダマスコを支配していたアレタス王の代官に訴えてパウロを殺そうとしますが、パウロは城壁から籠で釣り降ろされてダマスコを脱出します。後にパウロ自身がこの出来事を回想して報告しています(コリントU一一・三二〜三三)。
ダマスコを脱出したパウロは、この時初めてエルサレムに上ってペトロと会います。エルサレムでも、モーセ律法の順守を軽視してユダヤ教に背く者として、まさに回心前のパウロが迫害していたのと同じ理由で、ギリシア語系のユダヤ人から命を狙われることになります。パウロは身を隠し、秘かにペトロの家に十五日の間にわたってかくまわれ、ペトロからイエスの言動についての伝承(イエス伝承)やエルサレム共同体が宣べ伝えている告知の内容(ケリュグマ)を詳しく聞いたことでしょう。そして、パウロの身の安全を心配する人たちに送られてカイサリアに逃れ、そこから(おそらく船便で)故郷のタルソに戻ります。このエルサレム訪問についてはパウロ自身の証言(ガラテア一・一八〜二四)がありますが、ルカはパウロとエルサレムの使徒たちとの交流を描くために、かなり脚色して伝えています(使徒九・二六〜三〇)。
故郷のタルソに戻ったパウロは、そこで休養したのではなく、キリキア州の総督府所在地で故郷のヘレニズム大都市のタルソとその周辺地域で活発に福音活動を進め、かなりの規模の異邦人の集会を形成したと考えられます。そのことは、しばらく後にエルサレムの使徒たちから出た手紙の宛先に「アンティオキア州とキリキア州に住む異邦人の兄弟たち」(使徒一五・二三)とあることや、約二〇〇年後の公会議にタルソの司教の名が出て来ることからも十分推察されます。

V アンティオキア時代のパウロ

アンティオキア共同体の成立

パウロもその先鋒となったエルサレムのイエスの信徒たちへの迫害は、ギリシア語を話すユダヤ人の会堂での出来事であって、ペトロたちが指導するアラム語を使うパレスチナ・ユダヤ人の共同体は迫害されることなく、イエスを信じるユダヤ教徒としてエルサレムに残っていました(使徒八・一の「使徒たちのほかは」はこの意味)。この迫害でエルサレムから追われたギリシア語系の信仰者は、ユダヤとサマリアの地方に散らされます。その散らされた人たちの一人フィリポが、サマリアで福音を宣べ伝えた後、地中海の沿岸地方に行って活動し、総督府があるカイサリアに至るまで、沿岸部の諸都市に集会を形成します(使徒八・四〜四〇)。
別の者は北方の大都市アンティオキアまで行って福音を宣べ伝えます。散らされて行った人はユダヤ人であり、当然彼らはユダヤ人の会堂がある地方や都市に行って福音を伝えるので、どの集会も中核はユダヤ人です。エルサレムでの迫害で散らされたギリシア語系のディアスポラ・ユダヤ人のある者たちが、アンティオキアで初めてユダヤ教徒ではないギリシア人(異邦人)に福音を語り、多くの異邦人を信仰に導きます(使徒一一・一九〜二四)。シリア州の首都でローマとアレクサンドリアに次ぐヘレニズム大都市であり、東西貿易で栄えたアンティオキアでは、ユダヤ人共同体は異邦人との交流も比較的自由でした。その結果、アンティオキアにはユダヤ人と異邦人から成る福音共同体が成立します。
これはアンティオキアのユダヤ人が異邦人との交流に積極的であったから実現した革新的な出来事です。ユダヤ人が異邦人と食卓を共にして神を礼拝することは、ユダヤ教の諸規定を忠実に行おうとする保守的なユダヤ人には考えられないことでした。その難しさは、ルカが使徒言行録(一〇・一〜一一・一八)で詳しく書いています。ペトロがエルサレム共同体から派遣されて新しく信仰に入った地中海沿岸の諸都市の集会を指導するために訪れていた時、カイサリアに駐屯するローマの百人隊長の一人コルネリウスが、近くに来ているペトロを招いて話を聞くようにという神からの示しを受けて、ペトロを招く使者を送ります。このコルネリウスというローマの百人隊長は異邦人ですが、ユダヤ教の唯一の神の宗教に惹かれて、その教えを聞くためにユダヤ教会堂に集う「神を敬う人」でした。それと同じ時、空腹を覚えて祈っているペトロは幻を見ます。天から布のような入れ物に、ユダヤ教の食物規定で食べることが禁じられている獣や鳥が入っていて、ペトロにそれを屠って食べるように命じます。ペトロは、そのような禁じられている汚れたものは食べられませんと拒否しますが、天からの声が「神が清めた物を清くないなどと言ってはならない」と言うのが聞こえます。この押し問答が三度繰り返されて、幻は消えます。
このようなことがあったので、ペトロはコルネリウスの招きに応じてその家を訪れて、彼とその一族にイエスの出来事を語り、復活したこの方をキリストとして信じて受け入れるように勧めます。ペトロがこのように福音を語り、説き勧めている言葉が終わらないうちに、聞いている者一同の上に聖霊が降り、異言を語り、神を賛美します。それはペンテコステの日にユダヤ人に聖霊が降った時と同じでした。この出来事を見たユダヤ人たちは、ユダヤ教徒でない者たちに聖霊が与えられた事実に大いに驚きます。このことをエルサレムに戻った時に報告したペトロに対して、エルサレム共同体の長老会議は、ペトロが無割礼の異邦人と食事を共にしたことを律法違反として咎めます。ペトロは自分が見た幻のことと異邦人に聖霊が降った事実を述べて、イエスを信じる異邦人を自分たちの仲間(共同体)に受け入れるべきことを主張します。
このようにルカがコルネリウスのことに大きなページを割いて詳しく報告するのは、割礼を受けていない非ユダヤ教徒に聖霊が与えられることと、その事実を見ていても異邦人を福音共同体に受け入れることは、幻という神の非常手段を必要とするほど、ユダヤ教徒にとっては理解困難であることを強調し、同時にその困難を最初に克服したのがペトロであることを伝えて、無割礼の福音を宣べ伝えたパウロとエルサレム共同体の使徒たちとの一致を印象づけるためであったと考えられます。

バルナバとパウロのキプロスと南ガラテア地方伝道

アンティオキアに成立した信仰者の共同体は、エルサレムから使徒や預言者たちを迎えて信仰上の指導を受けていました。最初にエルサレムから来て、エルサレム共同体が保持するイエス伝承や、エルサレム共同体で形成された《ケリュグマ》伝承を伝えて指導した預言者がバルナバでした。バルナバはキプロスのユダヤ人一族の一人で、ディアスポラ系のユダヤ人ですがエルサレムで生まれ育ったので、ギリシア語だけでなくヘブライ・アラム語にも堪能であったのでしょう。エルサレムでアラム語系の集会とギリシア語系の集会が分かれたとき、ギリシア語系の七人の指導者には含まれず、十二使徒たちのもとに残り、キプロスの資産を売って共同体に寄付したと伝えられています(使徒四・三六〜三七)。バルナバはギリシア語もよくしたので、ユダヤ教徒と異邦人の両方を成員とするアンティオキア共同体の信仰の指導をよくしたのでしょう。
アンティオキア共同体には、共同体を指導した預言者また教師として、バルナバの他にシメオン、ルキオ、マナエン、サウロの名が挙げられています(使徒一三・一)。サウロはパウロのユダヤ名で、パウロも新しく歩み始めたアンティオキア共同体の有力な一員として活躍していたことが分かります。実は、最初にアンティオキアに派遣されたバルナバは、故郷のタルソに帰っていたパウロを探して出して、アンティオキアに連れて来ていたのでした。この頃のアンティオキア共同体の様子は使徒言行録の一一・一九〜二六に記録されていますが、バルナバがパウロをアンティオキアに連れてきたのはいつであったのか確定できませんが、おそらく四十年前後ではなかったかと推察されています。その後「二人は丸一年の間そこの集会にいて多くの人を教えた」とあるのは、どういうことを意味しているのか議論がありますが、おそらく二人はアンティオキア周辺の地方に伝道に出かけることが多かったのですが、少なくとも丸一年は外に出かけることなく、アンティオキアに腰を落ち着けて教える活動に専心したのでしょう。
その周辺地域への福音活動の一つとして、バルナバとパウロの二人が西に向った活動が、使徒言行録の十三章から十四章で詳しく報告されています。この二章には、二人が最初にキプロス島で活動して総督を信仰に導き、その後アナトリアの大陸に戻って中央部のガラテア州南部の諸都市に福音を伝えた活動が詳しく記録されています。とくにピシディア地方の中心都市であるアンティオキアの会堂でパウロが語った福音の告知が詳しく伝えられています(使徒一三章)。これはパウロが告知した福音の典型として重要です。その他の諸都市で多く異邦人に福音を宣べ伝えてキリストに導きますが、「モーセの律法(ユダヤ教)では義とされなかったのに、信じる者は皆(異教徒でも)、この方によって義とされるのです」という告知がユダヤ人を怒らせ、パウロを石打にするという事件も起こります。この伝道活動がルカによってとくに詳しく記録されているのは、その西に向かうパウロの福音活動が、福音のローマ到達を描こうとするルカの使徒言行録記述の目的にかない、パウロの最初の伝道旅行とすることができたからでしょう。しかしこの伝道旅行は、アンティオキア共同体から送り出され最後にはそこに戻って来て報告していることから(使徒一三・一〜三と一四・二一-二八)、アンティオキア共同体の福音活動の一部であり、一六章以下で詳細に報告されることになるパウロのエーゲ海地域を巡る独立の福音活動と同列に扱うことには疑問があります。

アンティオキア共同体とエルサレム共同体の折衝

アンティオキアはアレクサンドリアと肩を並べるヘレニズム世界の大都市で、人口は約三〇万と推定され、東西交易で栄え富裕な階層も多かったようです。それに比べるとエルサレムは人口は約五万から十万と推定される地方都市でした。しかし、エルサレムは壮麗な神殿を持つ宗教都市であり、ヘレニズム世界の諸都市に散らされて住むディアスポラ・ユダヤ人の魂の故郷として多くの参拝者を引きつけていました。この神殿の華麗な装飾や維持にはアンティオキア在住のユダヤ人共同体からの寄進が大きく寄与していたと言われています。そのアンティオキアにかなりの規模の福音共同体ができて活発に活動し、多くの異邦人信者を含むようになっていました。先に見たように、最初期の福音活動において中心的な役割を果たしていたのはエルサレム共同体であり、アンティオキア共同体もエルサレムから使徒や預言者を送ってもらって、信仰の指導を受けていました。
アンティオキアは繁栄した商業都市で、そこのユダヤ人共同体はもともと異邦人と自由に交流していました。その地に成立した福音共同体もユダヤ人と異邦人の交流に自由な傾向があり、キリストの復活を記念して聖日の朝に集まり食卓を共にして神を礼拝する時も、一緒にしていたようです。ところがこのユダヤ人と異邦人信者の食卓での自由な交流が問題になります。一世紀前半のパレスチナは、六年のガリラヤのユダの蜂起以来、熱心党と呼ばれる反ローマの運動が盛り上がり、律法順守の風潮が強くなり、律法への熱心さを競う「熱心の時代」と呼ばれるようになります。このような風潮の中で、四十年代初頭のヘロデ・アグリッパ王の使徒たちへの弾圧が強まり、ゼベダイの子のヤコブが処刑され、ペトロも投獄されます。ペトロは辛うじて助けられますが、ペトロや他の使徒たちもエルサレムから離れます。その後は長老会議の議長であり律法への忠実さで有名な「主の兄弟ヤコブ」がエルサレム共同体を代表するようになります。ヤコブに率いられるエルサレム共同体はますますユダヤ教律法への熱心を増し加えて行ったことでしょう。
このような風潮の中で、聖なる「イスラエルの地」に属すとされているアンティオキアでユダヤ教徒と異教徒が食卓を共にして神を礼拝している事実が伝わってきて、エルサレム共同体は周囲のユダヤ人からその律法違反を疑われて窮地に追い込まれます。それでエルサレム共同体の一部の者がアンティオキアに来て、イエスを信じる異邦人は割礼を受けてユダヤ教に改宗すれば問題は解決するとして、異邦人信者が割礼を受けることを求めます。それでアンティオキアの共同体はパウロとバルナバを派遣して、エルサレム共同体との折衝に入ります(使徒一五・一〜五)。この時の折衝はパウロがガラテア書の二章(一〜一〇節)で触れていますが、ルカが使徒言行録十五章でも同じ会談のことを報告していると考えられています(異説については後述)。しかしルカの報告は、ルカの著述意図が強く色づけていますので、当事者であるパウロの記事に従うべきであると考えられます。
それによると、パウロとバルナバはこの時エルサレム共同体の柱と目される主だった人たち(エルサレム共同体を主宰する主の兄弟ヤコブ、居合わせたペトロ、ヨハネの三人)と会い、自分たちが異邦人に福音を伝えたところ、信じる異邦人に聖霊が、ユダヤ人に対して働いたのと同様に力強く働き、異邦人の多くが信仰に入った事実を語ります。それを聞いた彼ら三人は神の恵みを讃えてパウロとバルナバの働きを認め、エルサレム共同体は割礼の者たち(ユダヤ人)に、アンティオキア共同体は割礼を受けていない異邦人に福音を告知する務めが委ねられていることを認めます。無割礼の異邦人であるテトスにも割礼を施すことは強いられませんでした。ただその時、パウロたちが異邦人に福音を告知したとき、その異邦人集会が「貧しい者たち」を忘れないことが求められます。この「貧しい者たち」はエルサレム共同体を指しており、間近に迫っている《パルーシア》(来臨)を待ち望んで資産を売払い、その寄付された資産で生活していたエルサレム共同体の運営は、その頃には行き詰っていました。パウロはこの要請を受けて、エルサレム共同体への援助の献金集めに奔走し、誤解を受けて苦労しながら集めた献金をエルサレムに届けることになります(この献金活動については後述)。

食卓問題での衝突

ペトロは四十年初頭のヘロデ・アグリッパ王による迫害の後はエルサレムを離れ(使徒一二・一二〜一七 )、各地にみ言葉を宣べ伝える働きを進めていたと考えられます。とくにアンティオキアには腰を据えて活動していたようです。先に見たように、アンティオキの共同体はユダヤ人と異邦人の交流が比較的自由で、礼拝の食卓も共にしていました。ペトロもその共同の食卓で神を礼拝して、食事を一緒にしていました。それを伝え聞いたエルサレム共同体の人たちは、それは放置できない問題として、使節を遣わしてペトロに異邦人と食卓を共にして、モーセ律法の規定に反するようなことは止めるように求めます。ペトロは苦慮したでしょうが、結局共同の食卓から身を引きます。おそらく自分の行動がエルサレム共同体を窮地に追い込むことを心配したのでしょう。
その時のことをパウロはガラテア書(二・一一〜一四)で報告しています。それによると、はじめパウロはペトロと「面と向かって」(一対一で面談して)反対し、そうしないように説得します。しかしペトロは共同の食卓から身を引き、盟友のバルナバまでペトロと行動を共にします。二人とも周囲の「割礼の者たち」(ユダヤ教徒)から律法違反を疑われているエルサレム共同体の窮状を配慮したのでしょう。しかしこの行動はパウロからすれば、ユダヤ教の枠を超えた「福音の真理」に従っていない振舞いです。この時パウロがいう福音の真理とは、「人が律法(ユダヤ教)の実行ではなく、ただイエス・キリストの信仰によって義とされる」ことです(ガラテア一五・一六)。パウロはこの文をこの時のパウロの主張の根拠として、ローマ書よりも何年も前のガラテア書ですでに明言しています。アンティオキア共同体を代表するバルナバまでもペトロと行動を共にしたので、パウロは孤立し、少し後にはアンティオキアを去ることになります。ペトロはアンティオキアにとどまり、その影響はその地域全体に広まり、八〇年代にアンティオキアで成立したと見られるマタイ福音書(一六・一八)では、ペトロがエクレシア全体の土台の岩とされることになります。

W 独立の福音活動による異邦人集会の形成

アナトリア縦断の旅

孤立したパウロはアンティオキアにはおれなくなって、福音活動の場を外に求めます。食卓問題でパウロの立場に立ったユダヤ人のシラスを仲間として選び、新しい伝道旅行に旅立ちます。パウロがバルナバとは別の福音活動を始めるようになった経緯について、ルカはマルコを連れて行くかどうかで意見の相違があったからだとしています(使徒一五・三六〜四一)。しかし、これは真相を覆い隠す記事であって、この時以後の伝道活動はもはや以前のようにアンティオキア共同体から送り出されて(サポートされて)するのではなく、パウロの独立自給の活動となります。これ以後のパウロは身につけた天幕造りの仕事に従事して、福音活動と生活に必要な費用を自分で準備する態勢で進めます。アンティオキア共同体との決裂はパウロにとってよほど辛いことであったらしく、その後のパウロの手紙にはアンティオキアという名は(一回だけの例外を除いて)全然出てこなくなります。
アンティオキアを出発したパウロとシラスは、シリア州やキリキア州(その州都がタルソ)の集会を巡回した後、「キリキア門」と呼ばれる山峡経由でタウルス山脈を越え、アナトリアの高地に入ります。そして前回バルナバと一緒に福音を伝えて形成した諸都市の集会、すなわちデルベやリストラを東から西へ逆の方向で歴訪します。リストラでは、前回の伝道の時に信仰に入ったテモテという評判の高い青年を仲間に加えます。おそらくパウロの一行はイコニオンに入って、それからピシディアのアンティオキアを経て、すぐ西隣にあるアジア州に入って福音を語ることを目指したのでしょう。エフェソを州都とするアジア州西岸は、昔からギリシア人の植民活動が盛んで、イオニアと呼ばれるその地域はギリシア文化の先進地であり中心地でした(タレスなどイオニア学派の哲学はギリシア思想の源流です)。パウロはそのギリシア文化の中心地で福音の確立を目指したのでしょう。ところが、一行はアジア州に入ることを断念して進路を北に変え、フリギア・ガラテア地方を通って、北西端のトロアスに着きます。この進路の変更は、使徒言行録(一六・六〜八) でごく簡単に触れられていて、その理由として「聖霊から禁じられた」とか「イエスの霊が許さなかった」とだけ述べています。しかし実際は、前回と同様にキプロスを経てピシディアのアンティオキアに来るかもしれないバルナバの一行と出会うことを避けたのかもしれません。
ルカはパウロの一行がガラテア地方を通ったとだけ伝えていますが、実はこの時パウロ一行はガラテアで越冬したのではないかと考えられます。大陸と言ってもよい大きなアナトリア半島を、東のキリキア門から入って高地を縦断し西端のトロアスに至る旅は、日本で言えば北海道から九州に至る距離に相当し、それを徒歩で縦断する旅の困難は想像を超えることです。病を抱えたパウロが冬をここで過ごして休養したとしても当然です。しかしパウロ一行は休むだけでなく、このガラテア地方で福音を宣べ伝える活動をして、この地方に信じる者の集会を形成したと考えられます。ガラテア地方というのは、現在のアンカラの周辺の地域で、以前にケルト系の住民がガラテア王国を作っていました。その王国がローマによって倒され、南の地域と併せて属州のガラテア州とされました。パウロが先にバルナバと一緒に伝道したアンティオキア、イコニオン、リストラなどの諸都市はガラテア州南部の別の名で呼ばれる地域の諸都市であって、この時に伝道したガラテア地方の諸集会と区別しなければなりません(ガラテア州とガラテア地方は違います)。パウロが後に「ガラテア人たちよ」と呼びかけて書いた手紙(ガラテア書)はこの北方のガラテア地方の諸集会宛てであったと考えられます。ルカがこの時のパウロのガラテア地方の伝道活動に触れないのは、パウロとガラテア地方の諸集会の関係の悪化を知っているからではないかと推察されます。

トロアスの幻

港町のトロアスでパウロは不思議な幻を見ます。狭い海峡を隔てた向こう側はヨーロッパに含まれるマケドニア州です。そのマケドニアの人が幻に現れて、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と願うのです。パウロはこの幻は神が召されているのだと確信して、すぐにマケドニア州に渡ります(使徒一六・九〜一〇)。この出来事は福音がヨーロッパに入る機縁となります。
この記事の背後に実はマケドニア人のルカがトロアスでパウロに会って、マケドニアの状況を語ったという出来事があるのではないかと推察されます。この使徒言行録の著者のルカがどこの出身であるのか諸説があって確定していませんが、トロアスからマケドニアに出航するところから「われら章句」(使徒言行録で主語に《わたしたちは》が用いられている部分)が始まっていて、それがフィリピまで続くところから、ルカをフィリピの人だとする推察が可能になります。この「われら章句」はフィリピで一旦消えますが、パウロが献金を届けるためにコリントからエルサレムに向かう途中のフィリピへの言及から再開し(使徒二〇・五〜六)、パウロのローマでの最後の日まで続きます。著者のルカはパウロの最後の伝道旅行に同行して、パウロの福音活動に身近に接し、その働きを使徒言行録の後半で詳しく伝えたパウロの弟子であったと考えられます。

マケドニア州での福音活動

トロアスから出航したパウロの一行は対岸のネアポリスの港に着き、エグナティア街道を一路西へ、マケドニア州の州都テサロニケを目指します。途中、マケドニア州第一区のローマの植民都市フィリピに四日間滞在します。マケドニア州は四区に区切られていましたが、フィリピはその第一区にある植民都市でした。植民都市というのは、ローマが退役軍人たちを入植させ、ローマ市と同じような様々な特権を与えたローマの飛び地のような性格の都市です。そこにはユダヤ人の会堂はなかったようで、パウロの一行は祈りの場所を求めて川岸に行き、そこで数人の女性たちに会い福音を語ります。その中の一人にテアティラ市出身の紫布商人リディアという夫人がいて、パウロの話を熱心に聞いて福音を信じます。そしてパウロ一行を自分の家に迎えて泊まらせます。リディアはユダヤ人ではありませんが、聖書の神を信じる「神を敬う者」の一人でした。パウロが告知する福音は、ユダヤ人の会堂に集うユダヤ教徒やこのような「神を敬う」異邦人の信仰者を通して、いろいろな宗教の人たちに伝えられていきます。フィリピにもリディアの家に信仰者の集会ができて、リディアはその後パウロの福音活動に大きな意味を持つことになるフィリピ集会で指導的な役割を果たすことになります。
このフィリピで事件が起こります。ある日パウロが、占いの霊に憑かれて占いをし、商人たちに利益をもたらしていた女から、占いの霊を追い出します。占いから利益を受けていた商人はパウロを恨んで、パウロをローマの宗教に反する活動をする者として訴え、群衆を扇動して騒ぎを起こします。植民都市フィリピを統治していた二人の都市政務官は、騒乱の中で裁判もしないでパウロを逮捕し、裸にして広場で鞭打たせ、牢に入れます。パウロはローマ市民権に訴えて政務官に謝罪させ、その依頼によって退去したことになっています。この笞打ちと投獄は実際にあったことで、パウロはすぐ後に訪れたテサロニケの集会にこの事実を書き送っています(テサロニケT二・二)。しかしルカはこの出来事を、ペトロの奇跡的な脱出(使徒一二章)とバランスを取るためでしょうか、大きな地震が起こって牢の扉が開いたので、囚人が逃げたと思い自殺しようとした看守を信仰に導いた、と劇的な脱出物語にして伝えています(使徒一六・一六〜四〇)。
フィリピを出たパウロは州都の大都市テサロニケに到着し、そこではかなりの期間滞在してユダヤ人の会堂で福音を語る活動を進めます。少し後でテサロニケに書き送った手紙で、パウロは一行の生活と活動に必要な経費を「だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら神の福音をあなたがたに宣べ伝えた」(テサロニケT二・九)と言っていることからも、その活動期間がかなりの長期であったことが推察されます。その活動の姿はパウロがテサロニケを去って間もなく書き送ったテサロニケ第一書簡に生き生きと描かれています。その結果、多くの異邦人が信仰を持って集会に来るようになりまたしたが、ユダヤ人は激しく反発します。このテサロニケの会堂でも、パウロはピシディアのアンティオキアの会堂でしたのと同じように(使徒一三章)、「モーセの律法では義とされない」のであるからキリストを信じるように説いたことがユダヤ人を激高させます。ユダヤ人はパウロを放逐するためにヘレニズム都市の権力者に訴えますが、その時にはいつもパウロを政治的反逆者として訴えます。ユダヤ人たちはパウロ一行が泊まっていたヤソンというユダヤ人の家を襲いますが、パウロを見つけられなかったのでヤソンを捕らえて訴えています。しかしヤソンには処罰する根拠がないので、当局者は保証金をとって釈放します(使徒一七・一〜九)。パウロはテサロニケでのユダヤ人の反対運動を激しく弾劾しています(テサロニケT二・一〇〜一六)。
このようにテサロニケでは危険が迫ってきたので、集会の人たちはパウロを夜秘かに少し西にある港町ベレアに送り出します。ベレアでもパウロは会堂でユダヤ人に福音を告げ知らせます。ここのユダヤ人は聖書をよく調べてパウロを信じる者もあり、異邦人も多くが信じるようになります。しかしパウロを激しく憎むユダヤ人たちがテサロニケからやってきてパウロを探すので、人々はシラスとテモテを残し、パウロを(おそらく海路で)アテネまで連れて行きます。こうしてマケドニア州では州都のテサロニケを中心に、その東にフィリピ、西にベレアの三都市に福音共同体が形成されます。ベレアで追われたパウロは、南に隣接するアカイア州に向かうことになります。

アカイア州での福音活動

アテネは言うまでもなく古代ギリシアの都市国家文明の中心的都市であり、ギリシア文化の精華の保持者です。アテネに着いたパウロは、シラスとテモテが追って到着するのを待つ間、会堂ではユダヤ人に、街の広場などでは居合わせたギリシア人にキリストを宣べ伝えます。議論好きのアテネの人たちとは激しい議論になったことでしょう。ルカは当時ギリシアで盛んであった「エピクロス派やストア派」の哲学者とも議論したと伝えています。ついにアテネの人たちはパウロをアレオパゴスに連れて行きます。「アレオパゴス」というのはアレス(軍神)のパゴス(丘)という意味で、アテネの中心にそびえるアクロポリスの丘のパルテノン神殿のごく近くにある小さな岩山です。そこには貴族階級から選ばれる評議員《アレオパギテース》がアテネの統治や司法を決定する重要機関がありました。パウロがそこに連れて行かれたのは、外国の神を持ち込んだことで裁判を受けるためであるのか(多くの教父)、またはただパウロの語ることをじっくりと聴くためであったのかは争われています。ここでパウロが告知した福音の言葉のギリシア語全文(使徒一七・二二〜三一)は金属製の銘板に刻まれてこの岩山にはめ込まれ、キリストの福音とギリシア文明の遭遇の記念碑とされています。
この福音告知の中で、パウロは創造者である神は人の手が造った神殿には住んでおられないこと、選ばれたイエスを復活させて、この方によって世界を裁かれることを告知します。ギリシア人は死者の復活を愚かなこととし、パウロが《アナスタシア》という新しい女神を宣べ伝えているのだと考えます(復活はギリシア語で《アナスタシス》と言います)。この時の福音告知では信仰に入った人はいなかったようで、パウロの手紙は次のコリントで信仰に入った人を「アカイア州の初穂」としています(コリントT一六・一五)。ルカがあげているアレオパゴスの議員《アレオパギテース》のディオニシオは、後に信仰に入ってアテネの集会を代表した人物と考えられます(使徒一七・三四)。アテネでは手応えのなかったパウロは、アカイア州都のコリントに向かいます。

 コリントはギリシア本土とプロポネソス半島をつなぐ狭い地峡に位置し、北の外港レカイオンは西のイタリア方面に向かい、南の外港ケンクレアイは東の小アジア方面に開けています。このような地理的位置から東西物流の中継地として、パウロの時代にはヘレニズム世界で最も富み栄えた都市の一つでした。コリントに入ったパウロは、最近のユダヤ人追放令(四九年)でローマからコリントに来ていたアキラとプリスキラというユダヤ人夫妻と出会い、彼らと同じテント造りの職業に携わって生活を支え、ユダヤ人の会堂で福音活動を進めます。しかしシラスとテモテがマケドニア州から到着しますと、手仕事をやめて広く福音活動に専心し、多くの異邦人市民を信仰に導きます。二人はマケドニアの集会からの献金を届けたものと考えられます。後にパウロはフィリピの集会に福音活動への支援に感謝の手紙を書いています(フィリピ四・一〇〜二〇)。ここでもユダヤ人はパウロが説く「モーセ律法(ユダヤ教)では義とされない」という立場に激しく反対してパウロを退けたので、パウロは異邦人に向かい、ティティオ・ユストという人の邸宅でユダヤ人と異邦人が一緒に神を礼拝する集会を続けます。その家はユダヤ教会堂の隣にあり、会堂を代表するクリスポまでが一家をあげて信仰に入ったので、ユダヤ人のパウロへの憎しみは増し加わり、ついに集団を組んでパウロを襲い、総督ガリオンに突き出して訴えます。ガリオンはローマはユダヤ教内部の宗教問題には関わらないとして、賢明にもこの訴えを門前払にします。
パウロの一行はコリントに一年半も留まって福音活動に専心したので、コリントにはユダヤ人と異邦人の両方を含むかなりの規模の福音共同体が成立し、活発に活動することになります。しかし、聖霊の賜物が豊かに注がれていたこの混成のコリント集会には様々な信仰上の問題が起こりましたので、少し後にエーゲ海を隔てた対岸のエフェソに滞在中のパウロに手紙を書いて、パウロの指導を仰いでいます。パウロもこの集会の問題にはかなり苦労して書き送っています。このコリントの集会に書き送ったパウロの手紙は、新約聖書のコリント第一書簡とコリント第第二書簡の二つに保存されて、最初期の福音告知の内容や福音共同体の姿を知る上で、ローマ書と同じように極めて貴重な資料となっています(この問題は拙著『福音と宗教』第三章第二節の項目V「パウロのエクレシア形成の努力」で扱っていますので参照してください)。

この総督ガリオンの裁判で釈放された後、しばらくしてパウロは不思議な行動に出ます。これまでアンティオキアを出てから西へ西へと向かって帝国の首都ローマを目指していたパウロが、ここで突然東に向かいエルサレムに行くのです(使徒一八・一八〜二二)。この時の長旅の目的を、ルカは「教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り」と一句で済ませています。当時の旅の困難さを考えると、よほど重要な問題がなければエーゲ海のコリントからエルサレム共同体を訪ねることはないはずです。パウロは何の目的でエルサレムに向かったのかが、現代の神学者の間で熱い議論になります。先に見たエルサレム共同体とアンティオキア共同体の間でなされた福音告知の対象の確認のための合意の後も、キリストを信じた異邦人に割礼を施してユダヤ教に改宗させることを要求する者たちが、パウロの福音告知の内容に反対する活動を執拗に繰りかえしてきました。彼らの対抗運動に差し迫った福音への危険を感じたパウロが、急遽エルサレムに上って彼らが拠り所とするエルサレム共同体を説得しなければならないと感じたからではないかと推察されます。彼ら割礼を要求する者たちに対するパウロの激しい怒りは、ガラテア書に見られます。

アジア州、とくにエフェソでの福音活動

この時エルサレムでどのような話し合いがなされたのか、ルカは何も伝えていません。ルカの沈黙はこの話し合いの結果がパウロの望むようなものでなかったからでしょう。パウロはアンティオキアで冬を越した後、再びキリキア門を経てアナトリアの高地に入り、ガリラヤやフリギアの地方の諸集会を訪れて信仰を励ます旅を続け、やっとエフェソに到着します。ルカはこの旅を「内陸の地方を通ってエフェソに下って来た」と一行で記述していますが、アナトリア半島中央部の高地地帯を縦断することがいかに困難な旅であるかは、先にも少し見ました。この時にパウロはカパドキア地方で福音活動をした可能性があります。少し後に書かれた手紙にはカパドキアにも信じる者の集会があることが書かれています(ペトロT一・一)。
パウロは再びアナトリア半島の高地地帯を縦断します。前回は直接アジア州に入ることを妨げられましたが、今回はアナトリア中央部山地の後背地から直接西端のアジア州に入り、州都エフェソに到着します。エフェソではパウロはじっくりと腰を落ち着けて福音活動に励みます。エフェソはパウロの目的地であったようで、先にコリントからエルサレムに向う急ぎの旅でも、同行者のアキラ夫妻をエフェソに残して、パウロの福音活動の道備えをするように配慮しています(使徒一八・一九はこの意味)。アキラ夫妻の家にはある程度の集会ができていて、パウロも彼らの家に泊り活動の拠点としたことでしょう。
他の都市と同じように、パウロははじめは会堂に入って、そこに集まるユダヤ人と「神を敬う」異邦人に福音を伝えます。ところが会堂のユダヤ人たちは激しくパウロに反対して、集会ができなくなります。それでパウロは「ティラノの講堂」で毎日集会を開いて、そこに集まるエフェソの市民たちに福音を語り続けます。エフェソはローマの東方アジア支配の重要拠点であり、アウグストゥス帝もこの都市の建設には力を注ぎ、総督などローマの有力者たちも競って講堂や図書館などを建てたようです。現代でもエフェソの遺跡では「ケルソスの図書館」の堂々たる遺構を見ることができます。パウロはその中の一つでティラノという人が建てた講堂で毎日福音を語ります。エフェソのような暑い土地では、労働者は午前中に仕事を済ませて、午後には休息したようで、パウロも午前中はテント造りの仕事をして、午後には講堂に駆けつけて語ったのではないかと推察されます (使徒一九・八〜一〇)。
ルカは使徒言行録の十九章で、エフェソにおけるパウロの活動を重視して、やや詳しく伝えています。その働きでは、他の都市でもしたのでしょうが、とくにエフェソではパウロが多くの力ある業(奇跡)をしたことが強調されています。パウロは毎日公共の講堂で福音を語ると同時に、イエスがされたように、病人に手を置いて祈り、多くのいやしの働きをします。その評判を聞いて多くの人が押し寄せ、「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てる」と癒され、悪霊が追い出されるまでになりました。また、それまで魔術(まじないや占い)をしていた者も、それが信仰に反することに気づき、魔術に関する高価な書物を公衆の面前で焼き捨てます(使徒一九・一一〜二〇)。すべてはキリストの働きです。パウロも少し後に書いた手紙で、「…キリストが言葉とわざにおいて、しるしと不思議を現す力により、御霊の力によって働かれたのです。…」と書いています(ローマ一五・一七〜一九)。
もう一つ、パウロのエフェソでの働きでルカが特筆している重要な点は、エフェソの信者で聖霊のことを聞いていなかった人たちに、パウロが聖霊のバプテスマのことを教え、聖霊によるバプテスマを授けたことです(使徒一八・二四〜一九・七)。パウロがコリントから急遽エルサレムに行ったことは先に見ました。それからエフェソに来るまでに一年ほどかかったと思われますが、その間にアレクサンドリア出身の聖書学者で雄弁家のアポロというユダヤ人がエフェソに来て、会堂でイエスのことを熱心に伝えていました。
ナイル川河口のエジプトの首都アレクサンドリアは、ヘレニズム世界屈指の大都市で 、有名なアレクサンドリアの図書館にヘレニズム世界の膨大な文献を所蔵するギリシア文化の中心地でした。アレクサンドリアには大きなユダヤ人の共同体があり、彼らは自分たちのユダヤ教の伝統をギリシア人に紹介することに熱心で、聖書をギリシア語に訳して七十人訳聖書を作って、ディアスポラのユダヤ人や周囲のギリシア人に提供したり、ユダヤ教の伝統とギリシア文学の両方に秀でた哲学者フィロン生み出していました。少し後の二世紀にはアレクサンドリアはキリスト教思想と神学の中心地となります。おそらくアポロはその系統の学者であり、パレスチナに行って洗礼者ヨハネのバプテスマを受け、その後のイエスの教えに深く傾倒して、各地のディアスポラのユダヤ人会堂でイエスのことを宣べ伝えていたのだと考えられます。
会堂に居合わせたアキラ夫妻は、何か足りないものがあると感じてアポロを自宅に招き、「もっと正確に神の道を説明」します。それは、アポロが「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」からです。アキラ夫妻はアポロに、復活によってキリストとされたイエスが施す聖霊によるバプテスマこそが、人を救う神の道、神の力であることを解き明かしたことでしょう。パウロがエフェソに来た時、エフェソのイエスの信者の一部に、終わりの時に約束されていた聖霊が下っていることを聞いていなかったのは、おそらくアポロからイエスのことを聞いて信じていた人たちだったのでしょう。パウロがヨハネの水のバプテスマの意義と復活のキリストが授ける聖霊のバプテスマの違いを説明し、手を置いて祈ると彼らに聖霊が降り、異言を語り預言したりします。
このエフェソでの聖霊のバプテスマの記事は、ルカの使徒言行録では重要な意義を持っています。ルカは復活活動の最初にイエスに従う一群のユダヤ教徒に聖霊のバプテスマが行われたことを報告しました(使徒言行録二章)。さらにサマリア教徒にも与えられます(使徒八章)。次にペトロがコルネリウスの一族に福音を伝えて、聞いている「神を敬う」異邦人にも、ユダヤ人の場合と同じように聖霊のバプテスマが与えられたことを語っていました(使徒十章)。今ここでまったくの異邦人が、パウロの福音告知の結果、聖霊のバプテスマを受けたのです。こうしてルカは使徒言行録の全体で、聖霊のバプテスマは「ユダヤ人はじめギリシア人(非ユダヤ教)にも、すべて信じる者」に与えられて、聖霊が人を救いに至らせる神の力となる、という福音の真理を歴史的に叙述したのです。
エフェソではこのようなパウロの福音活動が二年も続いたのですから、エフェソに住むすべての人が福音を聞いただけでなく、エフェソ周辺のアジア州の諸都市にも広く福音が伝えられることになります。エパフラスのようにエフェソでパウロの福音に接し、パウロの協力者として福音を生まれ故郷のコロサイに伝えた熱心な信仰者も多くいたことでしょう(コロサイ二・七)。パウロ自身がどこまで行ったのかは確認できませんが、エフェソ周辺の多くの都市に福音集会が形成されます。エフェソはパウロの福音活動の拠点となり、一大中心地となります。こうして、パウロの労苦に満ちた独立自給の活動によって、エーゲ海を取り囲む地域、すなわち北岸のマケドニア州、西岸のアカイア州、そして今東岸のアジア州の各州に、それぞれの州都テサロニケ、コリント、エフェソを中心に力強く活動する福音共同体が形成されることになります。

パウロの福音活動の最後の拠点となったエフェソは、現代の我々にとっても重要な意味を持つ都市です。それはこのエフェソでパウロの書簡集が集成されたからです。 パウロはエフェソで多くの手紙を書き、自分が形成したエーゲ海地域の諸集会を指導しました。最初に書いたとされるテサロニケ第一書簡は、パウロがマケドニア州からアカイア州に入ってコリントにいるときに書かれましたが、ガラテア書、コリント宛の第一書簡と第二書簡、フィリピ書、フィレモン書はエフェソで書かれました。エフェソの集会は使徒の手紙の写しを大切に保管したことと考えられます。すぐ次に見るように、パウロのもっとも重要な書簡になるローマ書は、エフェソを去ってすぐ後にコリントで書かれましたが、パウロの福音活動の基地であったエフェソにその写しが届けられたと考えられます。パウロの生前、すでにローマ書とコリント宛の二書簡とガラテア書の四書簡は、キリストの使徒にして大切な指導者であるパウロの書簡として集会で朗読されていたと考えられます。そしてパウロなき後、 エフェソの獄中で書かれたフィリピ書やフィレモン書(後述 )、さらにパウロの名で書かれていたコロサイ書やテサロニケ第二書簡も含めて集められ、その集成をパウロ四書簡に加えるに際して、パウロ神学思想の要約としてエフェソ書が加えられてパウロ四書簡の後ろに置かれたと考えられます。この十書簡を集めたパウロ書簡集は一世紀末までにはできていたと考えられます。牧会書簡と呼ばれるテモテ宛の二書簡とテトス書は、二世紀に入ってから成立し、後にパウロ書簡集に入れられます(パウロ書簡集の集成につて詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音V』第五章第二節「パウロ書簡集とオネシモ」を参照してください)。

X ローマ書執筆の前後

エフェソでの騒乱とパウロの投獄

パウロはエフェソに腰を据えて二年余りも福音活動を進めますが、そのエフェソでパウロの活動に反対する異邦人勢力が騒乱を引き起こします。エフェソは東西の交流と貿易で栄えたイオニア地方の中心都市でしたが、同時にアルテミス女神を祀る大神殿があり、多くの巡礼者を惹きつける宗教都市でした。このアルテミス神殿の銀細工模型を作って信者や巡礼者に売って大きな利益を上げていた銀細工人のデメトリオが、偶像礼拝に反対して人々をアルテミス神殿から引き離すような活動を続けるパウロ一行の活動に危機感を抱き、同業者を扇動して市民の集会所になっている円形劇場に呼び集め、「エフェソ人のアルテミスは偉大なり」と叫んで大集会を開きます。この集会の混乱は、騒乱を恐れる市の書記官が総督に訴えるなり議会で解決すべきことを説いて説得し、ようやく収まります(使徒一九・二三〜四〇)。
使徒言行録は、パウロがこの騒乱には巻き込まれないで無事だったと伝えていますが、パウロ自身の手紙を仔細に検討すると、パウロはこの騒乱の責任を問われて逮捕され投獄されたと考えられます(この検討の詳細については、拙著『パウロによるキリストの福音V』一八〇頁の「獄中書簡」の項を参照してください)。エフェソ遺跡にはパウロが投獄された場所として、港を見下ろす城塞跡があります。フィリピ書とフィレモン書はこの獄中で書かれた「獄中書簡」と考えられます。ルカはその護教的動機からこの投獄については沈黙しているので詳細は分かりませんが、おそらくパウロは裁判で市からの追放処分を受けることになり、エフェソを去ります。少し後にエルサレムに向かう船で近くのミレトスに寄港していますが、エフェソには入ることはなく、人を遣わしてエフェソの長老を呼び、ミレトスで別れを告げています(使徒二〇・一七〜三八)。パウロはエフェソに入ることができなくなっていたからだと考えられます。
エフェソを去ったパウロは海路ではなく陸路を選び、アナトリア半島西岸の諸都市を歴訪してトロアスに至ります。トロアスでは福音の働きのために門戸が開かれていましたが、パウロは一刻も早くコリントから戻ってくるはずの弟子のテトスに会いたくて、対岸のマケドニア州に渡ります(コリントU二・一二〜一三)。パウロがそれほどテトスに会うことを急いだのは、コリント集会のパウロに対する姿勢に深刻な懸念を抱き、その後の成り行きを心配していたからです。コリントの集会は聖霊の賜物に豊かに恵まれ、活発に活動する有力な集会でした。しかしその中に派閥があり(コリントT一・一〇〜一七 )、さらに様々な「働き人」がやって来るので、パウロが使徒であることを疑う者もいました。コリント集会との関係の悪化については、パウロも大いに悩み弟子を派遣したり、時には自分で乗り込んで行って説得したりしています。説得に失敗して帰ってきた時には「涙の手紙」を書き送っています(コリントU 一〇章〜一三章一〇節がそれだといわれています)。その心配事の一つにコリントでの募金活動についての心配がありました。パウロが苦心したその募金活動については、その時に書いた手紙がコリント第二書簡の八章と九章に保存されています。パウロが陸路を選んだのも、各地の集会を歴訪して、呼びかけておいた献金を集めるためであったと考えられます。ここでパウロの募金活動について、振り返っておきます。

パウロの募金活動

パウロが「無割礼の福音」を宣べ伝え、異邦人が信仰に入る時に割礼を受けてユダヤ教に改宗しなくてもよいとしたのに対抗して、ユダヤ教を絶対視してキリストの救いは割礼を受けているユダヤ教徒だけに与えられるとする一部ユダヤ人たちの反パウロ運動が執拗に続きます。パウロは彼らの本拠地になっているエルサレムに乗り込んで、エルサレム共同体のおもだった人たちと直接談判して、異邦人信徒が無割礼のままでキリストの民でありうることを認めさせました(本書一六頁の「アンティオキア共同体とエルサレム共同体の折衝」の項を参照)。この折衝がいつ行われたかは、新約聖書研究の謎の一つです。通説では、使徒言行録が記録しているように、パウロのアンティオキア時代のキプロス・南ガラテア伝道旅行の後ですが、その後のパウロの独立伝道旅行の途中、コリントにいたとき異邦人信徒に割礼を求める対抗運動がパウロ系の諸集会に及んできたことを知ったので、急遽予定を変えてエルサレムに行って談判したという説も有力です(使徒一八・一八〜二二)。このような会談が複数回あった可能性もあります。
この会談でパウロは異邦人が無割礼のままで神の民であることをエルサレム共同体に認めさせますが、そのときに異邦人の諸集会が貧しいエルサレム共同体を支援するように求められます。パウロはこの要請に応えて、その福音活動と並行して真剣に募金活動を続けます。様々な誤解もあって大変な苦労をしますが、とくにコリントの集会においてはパウロの動機に疑問を持つ者もいて、苦労が多かったようです。実はパウロの一行がコリントから急にエルサレムに行ったのも、このエルサレム共同体への献金を渡すためだったのですが、ルカは使徒言行録でこの献金のことには一切触れていません。この献金問題に関する沈黙は、使徒言行録の大きな謎です。おそらくルカは使徒言行録で、パウロが形成した異邦人集会とエルサレム共同体との一致を印象づけるために、パウロとペトロを同等に描いていますが、そのような動機からこの献金活動が不成功に終わったことを隠すために、パウロの募金活動そのものに全然触れなかったと考えられます。

パウロのコリント滞在とローマ書の執筆

パウロの一行はマケドニア州の諸集会での募金活動を終えた後、以前のように南下してアカイア州に入らず、さらに西に向かってイリリコン州に入り、アドリア海に出て南下してコリントに着いたのではないかと推察されます。パウロがすぐ後に書いたローマ書(ローマ一五・一九)でイリリコン州にも福音を伝えたと言っていますが、それはこの時であった考えられます。またアドリア海側の大都市ニコポリスにも早くから集会があったことも知られています(テトス三・一二)。
テトスからコリントの集会がパウロに心を開いているとの知らせを聞いて、パウロは深く喜び「和解の手紙」を書いています(コリントT一・一〜二・一三、七・五〜一六、一三・一一〜一三に保存されていると見られています)。コリントではパウロの一行はガイオの邸宅に滞在して世話になったようです(ローマ一六・二三)。コリントにはエルサレム共同体に届ける献金を携えた各地の集会の代表者たちが、春の航路再開を待ちます。パウロは献金を届ける人たちに同行してエルサレムにいくかどうか決めていなかった時期もありましたが、今は行く決意をしています。献金が受け入れられるかどうかも心配しなければならない状況になっていること、また無割礼の福音が誤解されて、多くのユダヤ教徒から憎まれていることを知って、パウロは身の安全も心配しています(ローマ一五・三〇〜三二)。それでもエルサレムに行くのは、異邦人に福音を伝え、異邦人を選ばれたイスラエルに加えるために、すなわち異邦人を神の民として献げる祭司の務めを果たすために、この献金を手渡すことが必要だと考えているからです(ローマ一五・一五〜一六)。
パウロの一行は春の航路再開を待ってひと冬を過ごします。その冬は五五年から五六年にかけての冬になります。その三ヶ月ほどの間に、パウロはまだ訪れたことのない帝国の首都ローマのキリスト者たちに手紙を書きます。それが今わたしたちが読もうとしているローマ書です。この手紙で使徒パウロは、これまで自分が宣べ伝えてきたキリストの福音とはどういう告知であるのか、その内容とその意味するところを包括的に、かつ体系的に伝えようとしています。ローマにいる人たちに自分をよく理解してもらって交わりを深め、同志としてのローマの集会に送り出されて、帝国の西の果てのイスパニア(今のスペイン)まで福音を伝えたいのです。時は迫っています。時が満ちるまでに、この福音を世界の果てにまで伝えておかなければなりません。パウロはこの大きなビジョンを抱いて生涯を走り切ります。
しかし今は反対方向にあるエルサレムに行かなければなりません。パウロは誰よりも自分の信仰の出身地とも言うべきエルサレムの人たちに、自分が宣べ伝えている福音を理解してもらいたいのです。選ばれた神の民と異邦人の両方を包摂するキリストの福音をユダヤ人にこそ理解して欲しいのです。パウロはエルサレムを「隠れた宛先」として、自分が世界に告知している福音、特に無割礼の福音を全存在をかけて語り出します。それがこの手紙です。
パウロはこの手紙を口述筆記で書き取らせています(ローマ一六・二二)。ローマ書は机に向かって書かれた神学論文ではありません。パウロがユダヤ教会堂で、ヘレニズム都市のアゴラ(広場)で声を枯らして叫んできた福音の提示です。ここにはパウロの肉声があります。あの時代の手紙の口述筆記がどのくらいの時間を要したのかは知りませんが、わたしが主要区分とした四つの部分(後述)は、それぞれ一気に口述されたのではないかと想像しています。人間の悲惨な現実から始まり、語り進める内に聖霊に満たされ、歓喜に満ちた神への賛美に終わったのではないかと推察しています。それにしては、用語も文意も驚くべき正確さと鋭どさを示していることに驚嘆します。書き上がった手紙はケンクレアイの集会の世話をしていた女性のフェベに持たせて届けます(ローマ一六・一〜二)。ケンクレアイはコリント近くの外港で、ローマとの交通に便利な港でした。このローマ書以降にはパウロのまとまった文書はありませんので、このローマ書がパウロの最後の文書となり、「パウロの遺言書」と呼ばれるようになります。

エルサレムでの逮捕と最後の日々

この本の主題であるローマ書を書いたパウロという人物がどういう人物であるのかを理解していただくために、ローマ書執筆に至るまでのキリストの使徒パウロの生涯を要約してみましたが、それ以後のパウロの生涯もお伝えしておくことも、この書の味読に有益であろうと思いますので、その概略を書いておきます。
こうしてパウロは自分が形成した異邦人の諸集会から集めた献金を、各集会の代表者たちとエルサレム共同体に届けます。現代のような送金制度はありませんし、パウロのメシアとしてのイエスの告知に反対する者たちの襲撃の危険もある中で、エルサレム共同体に現金で援助を届けることは命がけの仕事です。パウロがその危険を予感していることは、先にローマ書の後書きにも述べていました。パウロの一行は衣服の内側に金貨を縫いこんで旅をした、と推察する研究者もいます。ルカはこの旅にも同行したようで、その旅程を詳しく書いています(使徒二〇・一〜二一・二六)。ルカはこの旅をパウロが各集会に別れを告げる旅として描いています。その典型的な例は、エフェソの集会の長老たちをミレトスに来させて告げた別れの言葉です(使徒二〇・一七〜三八)。これはルカがその後間もなくパウロが殉教の死を遂げることを知っていたからでしょう。
エルサレムに着いたパウロは早速共同体を代表するヤコブと会い献金を渡そうとしますが、パウロが心配していたように、エルサレム共同体の長老会はその献金を受け取ることを拒否したと考えられます。ルカはこのようにパウロが命がけで持ってきた献金について何も書いていません。これは使徒言行録の最大の謎ですが、パウロが形成した異邦人諸集会とエルサレム共同体の一致を美しく描こうとするルカにとって、献金の不成功はもっとも知らせたくない出来事だったのでしょう。拒否の理由はルカが示唆を与えています。当時エルサレム共同体は律法に忠実なヤコブの統率の下で、ますますユダヤ教律法の順守に励んでいたことと推察されますが、そこにパウロがその福音活動で異邦人で信仰に入る者に割礼は必要ないとしたことが、パウロは割礼を否定していると伝えられていたようです。エルサレム共同体は、異邦人は汚れているとして食事も共にしないユダヤ教厳格派が多かったのでしょう。律法を知らない異邦人が稼いだ汚れた金を受け取ることを拒否したのではないかと考えられます(使徒二〇・二〇〜二一)。
おそらくヤコブが解決策として勧めたことが、パウロの逮捕という結果になってしまいます。ヤコブはパウロに、律法に忠実であることをエルサレム共同体の人たちに示すために、誓願(おそらくナザレ人の誓願)を立てている者のため、清めの儀式の費用を負担してやり、一緒に神殿で清めの儀式に参加するように勧めます。ところがパウロがその勧めに従って彼らと一緒に神殿に入り、七日の期間が終わった時に、アジア州(おそらくエフェソ)から来ていたユダヤ人が、パウロが異邦人を神殿に連れ込んだと騒ぎ立て、ユダヤ人群衆を扇動してパウロを殺そうとします(使徒二一・二七〜三〇)。異邦人はエルサレム神殿の「異邦人の庭」まで入ることは許されていましたが、聖なる神殿域に入ることは死刑になるという警告文を掲げて禁止されていました。
神殿での騒乱の発生を聞きつけたローマの軍隊が出動してパウロを逮捕し、兵営に連行します。隊長がパウロの鞭打ちを命じた時、パウロはローマ市民権を持ち出して隊長を恐れさせています(使徒二二・二二〜二九)。これ以後、パウロは騒乱の責任を問われて、ローマの法廷で裁判を受ける身となりますます。裁判は長引きます。その間、最高法院での取り調べ、パウロを殺そうと誓ったユダヤ人の陰謀、それを避けて総統府があるカイサリアに護送されて総督フェリクスの裁判、二年間の拘束、次の総督フェストゥスの裁判、皇帝への上訴、ユダヤ人の王ヘロデ・アグリッパの前での弁明など、ルカは使徒言行録の二二章から二六章までを使って詳しく報告しています。そしてその後二七章から二八章で、皇帝に上訴したパウロがローマまで護送される旅で、遭難してマルタ島に流されるなどの後、ローマに到着するまでの旅程を事細かに報告しています。
今ここではエルサレムでの出来事からローマ到着までを詳しくたどることはできませんが、ローマまで同行してパウロの身に起こった出来事を伝えているルカの記事の中で注目すべき一句を上げておきます。パウロがエルサレムで逮捕されて、最高法院で裁判を受けた夜に、主が現れてパウロにこう言われたと、ルカは書いています(使徒二三・一一)。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。パウロはエルサレムで復活されたイエス、すなわちキリストとしてのイエスを力強く証ししました。それと同じようにローマでも証しすることになるのだから勇気を出せ、という言葉です。この文で、「証しをする」という語には《マルテュレオー》という同系の動詞が使われています。この動詞は「証言する」という原意の他に、生涯、命をかけて証言する、すなわち「殉教する」という意味にも用いられる動詞です。その名詞形の《マルテュス》は証人または殉教者を指します。エルサレムでの《マルテュレオー》はすでになされたことですが、ローマでの《マルテュレオー》はこれからのことであり、その動詞には《デイ》という必然を示す助動詞がついています。ここでルカはパウロのローマでの殉教を知っているので、こういう表現を使ったものと推察されます。
ローマに到着したパウロは「自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」という報告で、この長い使徒言行録を終わっています(使徒二八・三〇〜三一)。パウロが皇帝に上訴してローマに到着したのが五八年ですから、皇帝ネロ(在位五四〜六八年)の裁判を受けたことになります。 ネロもその統治の前半はセネカらの賢明な補佐を受けて有能な皇帝でしたが、後半は猜疑心が嵩じ、側近の有能な政治家を粛清し、母親までも殺すという暴君ぶりを見せるようになります。ネロはローマの大火の責任をローマのキリスト教徒に負わせて、残忍な仕方で殺したので、最初の迫害皇帝として「悪名高き皇帝」となります。パウロの裁判がどのような結果になったのか、無罪となって釈放されたのか、有罪となって処刑されたのか、ルカは何も触れていません。エルサレムからローマへの福音の進展を描くことが使徒言行録を著したルカの目的でしたから、とにかくパウロがローマに到着して、そこで自由に福音を宣べ伝えたことを書けば、すなわち福音が帝国の首都に達したことを書けば、それで著述の目標は達せられました。しかしルカは「二年後」のことを知っているはずです。これまでにも見てきたように、ルカはローマにおけるパウロの殉教の死を知っているようです。ローマ到着の二年後には、皇帝に訴え出たユダヤ人の告訴が認められて、パウロは有罪となり、ローマ市民への処刑である斬首の刑を受けて、殉教したと考えられます。そうするとパウロの殉教は六〇年頃ということになります。ローマにはパウロの殉教を記念して建てられた教会堂があります。またローマに入った後のパウロの行跡は、確実にたどれるものは何もありません。