市川喜一著作集 > 第24巻 福音と宗教U > 第31講

結び ー 統合への祈り

宗教相対主義の立場

本書『福音と宗教』は上下二巻にまたがりましたが、キリストの福音を世界に告知しようとする者の立場から世界の諸宗教の事実、すなわち世界の宗教史を見渡し、その諸宗教の中で福音を告知する働きの意義を確認しようと努めてきました。本書がこの課題にどの程度応えることができているかは、読者諸氏の賢察と歴史の審判に委ねなければなりませんが、本書の著作にあたっての著者の切なる願い、本書にこめた著者の祈りを書き添えて、本書の結びとさせていただきます。
著者は若き日の求道生活の中で、復活の主キリストに出会い、そのキリストから聖霊のバプテスマを受けて、このキリストの証人として立つように召されていることを知り、行き先を知らずに、その小さい生涯をキリストの福音を宣べ伝える独立伝道を開始しました。小さい器が成し遂げた成果はまことに微々たるものでしたが、その生涯にわたって「福音とは何か」という問いを問い続け、その答えを求めて聖書、とくに新約聖書を学び続けてきました。その生涯の後半、独立伝道を支えるために従事してきたこの世の職業を辞めて、聖書の学びに専心できるようになり、新約聖書各巻の学びから得たことを、各文書の講解という形で個人福音誌「天旅」に発表するようになりました。この福音誌は一九八六年に刊行がはじまり、一六〇号を重ねて二〇一二年に終刊しました。著者は新約聖書をキリスト教の教理や信条また儀礼の典拠としてではなく、福音の証言と理解して、その証言活動の歴史的展開を跡づけることで「福音とは何か」という問いに答えを与えられたと確信するに至りました。その内容は前著『福音の史的展開』上下二巻にまとめておきました。そして、その書の終章「キリストの福音からキリスト教へ」で、キリスト教という宗教は古代ローマ帝国の地中海世界に成立した一つの歴史的宗教であり、歴史的産物である以上、それは相対的なものであって、絶対的・普遍的な妥当性を主張することができないことに気づきました。
このキリストの福音とキリスト教という歴史的宗教の関係は、キリスト教以外の他の歴史的諸宗教の相対性をも気づかせます。宗教が一つの社会の統合原理として体制宗教となると、自己を絶対化して、その宗教の諸規定への服従を強要します。そのような宗教の下では、宗教は人間を上から拘束する軛となります。宗教は人間に課せられた重荷となります。キリストが来られたのは、新しい宗教をもたらすためではなく、人間を宗教の軛から解き放つためであったのです。人間はどの宗教の中にいても、自分の霊性の深みに沈潜していけば、その宗教の儀礼や教条の外面性や歴史性に気づくことができて、その宗教の相対性に気づくことができるはずですが、実際にはそのような自己の宗教の相対性の自覚は稀です。
キリストの福音はどの宗教に対しても、その宗教の軛の下にある者を軛から解放して、自由にします。そうすることによって、その宗教の相対性を自覚させます。解放された者はもはや、相対的な宗教の諸規定の支配の下にはいません。キリストの福音がそのような解放の働きをするのは、福音を信じる者にキリストにおける神の恩恵が注がれて、神の霊がその人の霊性の深みに働くからです。本書は、このように地上の歴史的な諸宗教がすべて相対的なものであるという「宗教相対主義」の立場から、すなわちどの宗教をも相対化する福音の立場から、世界の宗教史を見てきました。世界には実に多くの宗教があります。その一つ一つについて、その相対化の実際を検証することはとうていできません。本書では、本論でおもに福音と西方の一神教宗教を代表するキリスト教との関係について論じましたので、東方アジアの宗教性を代表する仏教との関係を附論として取り上げ、「附論 福音と仏教」を加えることにしました。

宗教間対話の必要

古代と中世まではそれぞれの宗教文化圏がそれ自体で完結した世界を形成していましたが、近代に入ると西欧キリスト教世界に生まれた啓蒙思想の土壌に、科学的な思考とそれに基づく技術が芽生えて急速に進み、その科学技術による交通と通信の急速で革新的な発達、それに伴う産業や通商、さらに戦争技術をも含む急速な発達によって、世界は狭くなり、今までは別箇に形成されてきた宗教文化圏も孤立して存在できなくなりました。一つの文化圏を形成する土台となってきた宗教も、他の宗教、自分とはまったく違う宗教とも向かい合うことを迫られるようになりました。宗教はもともと自分が形成してきた文化圏では、自己を絶対化してその文化生活圏に君臨してきました。宗教には独りよがりの体質があります。しかし現代ではそれは許されません。対話を拒否して自己の独りよがりを押し通そうとする、すなわち自己の絶対性を他に押し付けようとすることは許されません。それを武力を用いて押し付ける宗教は世界に惨禍をもたらし、破綻します。現代世界ではドイツのナチズム(という擬似宗教)、日本の国家神道、イスラム過激主義などがそれです。
戦争に明け暮れた現代世界は、主権国家の間で、異なる文化圏の間で、そして体質の違う宗教の間で対話が必要であることをよく理解しています。ヨーロッパの諸国が戦った第一次世界大戦の後に国際聯盟が組織されて、戦争を防ぎ平和を維持するための対話が行われましたが、各民族国家がその主権の絶対性を主張して、短時日で終わりました。その後に起こった第二次世界大戦の後には国際連合が成立し、世界の平和を維持するために話し合いが行われるようになりました。この国際連合には世界中の国や地方が参加しており、平和の維持のために安全保障理事会を中心に、また世界の文化の発展のために各文化圏の代表が対話を進めています。この国連の対話の活動はきわめて重要だと思われますが、この安全保障理事会の組織が第二次世界大戦の戦勝国が常任理事国として拒否権を持つ機構であるために、限界を感じさせています。しかしその中で、世界の大部分の国が参加するこの人類の対話機関が、異なる文明や文化の間の対話を促進し、人類普遍の価値の確立に貢献してきました。たとえば、最近核兵器禁止条約が採決されたことは朗報でした。核兵器を人類に許されない絶対悪と規定し、その開発、保有、行使、威嚇を禁じる条約が採決されたことは、核保有国が参加していないので実効性には問題がありますが、将来世界に核兵器を人類に許されない絶対悪とする人類共有の価値観と思想が広がる希望を与えます。
わたしは、国連が世界に与えられた重要な対話の機構であると思います。しかし、そこに宗教間の対話の場が確立していないことを不審に思っています。世界は宗教(擬似宗教を含む)における絶対化の主張がいかに危険であるかを知っているはずです。国連は世界の諸宗教の代表者を集めて対話を進める場を設定し、その対話を推進すべきです。わたしは、国連こそ宗教間の対話を積極的に推し進めるのに最も適した場ではないかと思います。宗教間の対話は比叡山の仏教寺院とかヨーロッパのキリスト教修道院とかで私的に行われていますが、わたしは宗教間の対話こそが人類の統合と世界の平和にとって必要であり、その基礎となるものであると考え、それが世界の対話のための公の機関で行われて公開されることを期待します。それは宗教の相対性の自覚を広げ、宗教の絶対化から生じる惨禍を防ぎ、宗教の軛から脱した人類の統合を進めるからです。
宗教間の対話は異なる宗教の宗教統合とか融和を目指すものではありません。世界の諸宗教を統合して一つの宗教にまとめることは不可能ですし、また目指すべきものでもありません。世界の諸宗教は歴史の産物であって、現実の諸宗教を否定することは歴史を否定することであり、なすべきことではありません。世界は諸宗教がそれぞれの歴史の中で練り上げてきた叡知を尊重して、そこから学ばなくてはなりません。歴史の中で形成されてきた各民族の言語を否定して、人為的な共通の言語にまとめようとすることが不可能であるように、異なる文化圏でその歴史の中で形成されてきた諸宗教は人為的に統合して一つの宗教を造り出すことはできません。それでも諸宗教間の対話が必要であるのは、異なる宗教の間で相手の存在と価値を認めつつ、自己の在り方を反省することによって、自分の宗教の相対性に気づき、世界の諸宗教の相対性を確認するためです。本来は人が自分の霊性の深みに沈潜して、そこから社会的に体制宗教となっている宗教の外面性と形式性に気づいて、その歴史的相対性を自覚すべきなのですが、それはきわめて稀です。むしろ現代世界の急速なグローバル化によって、どの国も、またどの文化圏も、そしてどの宗教も、否応なく他の国や文化や宗教に直面して、対話せざるをえなくなっています。この外からの圧力が宗教間の対話をうながし、各宗教が自己の相対性に気づく機運を促進します。

人類の統合

諸宗教が統合されえないのであれば、人類の統合はどこに求めるべきなのでしょうか。結論からいうと、わたしは福音を告げ知らせる活動が人類の統合を目指す運動になると考えています。福音はキリストを証言し、キリストを世界の各宗教の民に宣べ伝えますが、そのキリストは一つの新しい別の宗教、歴史的な世界の諸宗教を統合するような新しい宗教をもたらすために来られたのではありません。そうではなく、キリストは諸宗教を相対化して、人間を宗教の軛から解放し、宗教の外で、人間としての共通の場で人類の共同体を建てあげるために、この世界に来られたのです。
キリストを宣べ伝える者は、キリストの出来事において、天地の万物を存在させている根源的な働きである神が、すべての人間の救済のための働きを成し遂げてくださったことを宣べ伝えているのです。キリストの出来事というのは、今から二千年ほど前にユダヤに現れ十字架につけられて殺されたナザレのイエスを、神は復活させて人類の救済者キリストとされたという出来事です。このキリストとしてのイエスの十字架の死と復活という出来事において、神はすべての人間の神への背きの罪を赦し、キリストであるイエスを信じる者に神自身の霊、聖霊を与えてご自分の子とされたという報知です。その人間がどの宗教に属し、その宗教の規定をどれほど忠実に行ってきたかにはまったく関係なく、無条件に子として受け入れ、ご自分に属す民とされたという知らせです。そうであれば、その人がどの宗教のものであるか、その宗教をどれほど忠実に行ったかは関係がありません。どの宗教も救済の条件ではなくなり、宗教は相対化され、人は宗教が課す条件から解放されたのです。
諸宗教が相対化された世界では、人間は宗教が与える価値観ではなく、宗教の違いを超えて、人間としての共通の価値観によって統合されます。古代では各民族はその民族が生み出した民族宗教によって統合され、異なる民族の宗教の間には統合はなく、民と民との争いや戦いは民族の神々の名の下で戦われました。中世では世界宗教の出現により、キリスト教で統合されたヨーロッパ世界と、イスラム教によって統合されたアラブ世界が争い、その宗教の名で死闘を繰り返しました(十字軍)。近代に入ると啓蒙思想の浸透により、とくに欧米のキリスト教圏において、科学的思考と技術の発展が著しく、宗教が支配する領域は狭められて世俗化し、現代世界のグローバル化によって宗教も多元化して、現代世界は諸宗教の枠を超えた人類共通の価値観を模索しています。その宗教を超えた人間としての価値観の確立には、欧米のキリスト教諸国が先進的で、主導的な役割を果たしてきました。
キリスト教文化圏では、キリスト教思想の普及によって、すべての人間は唯一の創造者なる神によって造られた被造者であり、神は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、人はみな平等であり、人は生まれながらに自由であるという確信があります。この点はユダヤ教もイスラム教も同じでしょうが、キリスト教にはその神のキリストにおける無条件の恩恵の信仰があり、その神の愛に応じる愛の共同体の完成への基礎と希望があります。しかしながら、愛は隣人に悪を行うことはないというのに、そのキリスト教諸国の間で戦争という最大の悪が起こるという矛盾に直面して、宗教の非力さを自覚し、宗教を超える価値と目標を求めて、キリスト教諸国はその歴史の中で模索し、苦闘してきました。その結果、権力の身勝手な暴走を防ぐ人民主権、立憲主義、三権分立、政教分離、万人の平等と自由、各人の生まれながらの人権というような思想を生み出しました。そのような理念は先進諸国の憲法にも明記され、世界中の国民を統合しようとする国連の理念になっています。
世界にはなお多くの国や地域で、伝統的な古い宗教や新興の擬似宗教が、その宗教理念を押し付けて支配しています。そのようなところでは人間にとって固有の人権や平等が抑圧されており、世界はそのような抑圧との戦いを強いられています。その戦いを成し遂げて、宗教や文化の枠の外で人間であるがゆえにお互いに認め合える価値を共有して、人類の統合を達成しなければなりません。歴史の中の諸宗教は自己の相対性を認識して、人間が人間であるゆえにもつ固有の価値の上に成り立つ統合を達成するために祈るのがその使命です。わたしたちキリスト者は、キリストであるイエスが地上の最後の夜に祈られた祈り、ヨハネ福音書の一七章(二〇〜二三節)が伝えているイエスの祈りを共に祈りつつ、キリストの福音を世界に宣べ伝えます。その祈りにおいて、イエスはすべての人が一つとなるように祈られました。その祈り、人類の統合がわたしたちの祈りです。
わたしは本書『福音と宗教』において、福音が諸宗教を相対化する力であることを語ってきました。諸宗教を相対化することによって、人間が人間として与えられている価値に基づいて、統合されることを祈ってきました。地上の歴史的な宗教の絶対化が、「隔ての壁」として人類の統合を妨げています。キリストはわたしたち、諸宗教で分断された人類の平和です(エフェソ一・一三〜一四)。キリスト教という宗教ではなく、キリストが統合される人類の頭(かしら)ですが、その統合に至るまでには、多くの時代を経て、神の時(カイロス)が満ちるのを待たなければなならないでしょうが、わたしたちは忍耐を尽くし、それぞれの地上の使命を尽くして、働きとしての神がキリストにおいてその働きを完成してくださる時を待ち望みます(エフェソ一・一〇)。