市川喜一著作集 > 第24巻 福音と宗教U > 第28講

附論 第三章 日本における福音の将来

はじめに

わたしたちが福音を宣べ伝えようとする日本はどのような宗教的状況にあるのかは、先に第一章で日本の宗教史を概観するという形で見ました。そこで見たように、日本の民族や国が生まれる時に民族や国を統合した民族固有の神々の礼拝(後の神道)の上に、中国を通して伝えられた仏教が重なって、「神仏習合」と呼ばれる宗教形態がこの国の民を支配してきました。神道が土着的な民族宗教であるのに対して、インドで発生し中国で漢訳された仏教は、高度な宗教理論をもつ宗教であり、東アジア諸国に伝えられて「東アジア仏教圏」を形成した世界宗教です。国家の形成期以来、政治面でも文化面でも中国を模範としてきた日本は、漢訳仏教を受け入れます。仏教は宗教としての完成度では土着の民族宗教を凌駕し、その民族宗教の大祭司であり国の統率者である天皇も仏教の信奉者となるにいたって、日本は仏教国としての歴史を歩むことになります。
それで、この日本で福音活動を進めるには、福音と仏教の関わりが問題になってきます。福音が形成したキリスト教という宗教の思想内容と、仏教という世界宗教の思想内容の比較検討は、宗教哲学の重要問題です。唯一の神を信じるキリスト教と、神を立てることなく人間の内面的な悟りとか洞察に基づく仏教とでは、その立場が根本的に違っています。この二つの世界宗教が遭遇することは、これからの世界宗教史の大問題です。その宗教思想の比較検討は宗教哲学の専門家に委ねて、ここでは仏教が支配的な国の民に福音を宣べ伝える活動を進めようとする立場で、仏教という宗教にどう対処すべきかを考察しようと思います。それがこの第三章の主題ですが、その際、キリストの福音が成立する場である唯一の神への信仰が、本書の本論終章で述べたように、「働きとしての神」への信仰であるので、この第三章の内容は「働きとしての神」と仏教の関係を主題とすることになります。



第一節 日本における宗教相対主義の先駆者

はじめに

 本書はこれまで地上の歴史的宗教(複数形の諸宗教)はキリスト教自身を含めて相対化すべきことを主張してきましたが、日本の宗教史の中で宗教相対主義の主張を掲げた二人の先駆者を取り上げて、その主張と思想、その働きを見ておきたいと思います。その一人は江戸中期の大阪に現れ、三二歳の若さで亡くなった夭折の天才儒学者、富永仲基です。もう一人は明治から昭和にかけての独立伝道者、内村鑑三です。富永仲基は仏教を相対化し、内村鑑三はキリスト教を相対化しました。

T 富永仲(なか)基(もと)

大阪の町人学者

 富永仲基は大阪北浜で醤油醸造業を営む富裕な商人富永吉左衛門の三男として一七一五年に生まれ、将軍徳川吉宗(在職一七一六〜一七四五年)の時代に生きた儒学者です。父の吉左衛門は商人ですが、教養を高めることに努め、有志の仲間の商人たちと私塾「懐徳堂」を設立、当時著名な儒学者の三宅石庵を招いて師事し、子供たちもその私塾で学ばせています。時の将軍吉宗は緊縮財政による享保の改革で有名ですが、文化面では和漢の法制の研究や、古典・古文書の収集などに熱心で、オランダ人を通してヨーロッパの学術や知識の吸収に努め、一七二〇年には漢訳洋書の輸入制限を緩和するなど、実用的で実証的な学問の振興を図っています。また社会秩序維持のためにと庶民教育にも熱心に取り組み、その教科書として儒教の解説書を刊行させています。吉左衛門は懐徳堂の設立に当たって隠居所の敷地を提供したり、懐徳堂を官許の学問所とするための出願に江戸まで行っています。こうして商都大阪に官許の学問所が活動し、一八世紀末の四代目の学主中井竹山の頃に全盛期を迎え、その名声は天下に高くなり、その学校は明治二年まで続きます。
富永仲基は一〇歳頃に懐徳堂に入って石庵に師事して儒学を学びますが、早熟の天才ぶりを発揮、おそらく一五歳頃に「説蔽(せつへい)」と題する書を著しています。この書は現存せず、その内容を正確に知ることはできませんが、晩年に刊行された『翁の文』という著作で、仲基自身が解説しているところから、その概要を知ることができます。それによるとこの書は、仲基の独創的な「加上説」によって儒教の成立を論じるもので、経典や儒書の各文書の成立を歴史的な流れの中に位置づけて、その内容を批判的に理解しようとします。加上説というのは、後代に生まれた学説はその正当性を示すために、先行する学説を追い越そうとして、先行学説が依拠する時代よりも一層古い時代に自説の起源を求めるという考え方です。古代中国の春秋時代では覇者の斉の桓公や晋の文公に依拠して説を立てていたので、加上説によって仲基は、孔子はより古い時代の周の周公らを尊敬の対象として説を立てたとします。孔子の後に登場した墨子は周よりもさらに古い禹を、そして墨子の後の孟子は禹よりも古い堯・舜を持ち出します。さらに後代には黄帝とか神農が登場、時代が下るほど学説の内容が古代に遡っていきます。人の性についても、世子が人の本性には善も悪もあると言い、告子は人間本性には善悪の区別はないと主張、その後孟子が出て、すべての人の本性は善であるという性善説を唱えます。その後の荀子が人の性は本来悪いものだとする性悪説を唱えたのも、すべて加上によるものであるのに、仁斎も徂徠もそれに気づかず末節のことを議論していると、仲基は批判しています。
「説蔽」は儒教を非難したり否定したものではなく、古代中国の思想史を概観して、儒教を思想の発展史の中に位置づけて、絶対的な思想ではなく諸子百家の中の一つであることを明らかにして、儒教を相対化したと言えます。この儒教の相対化が、儒教を絶対的な権威としている江戸時代の儒学者の反発を招くことになります。仲基はこの書が原因で、師の石庵から破門されて懐徳堂を去ったと伝えられていますが、それが事実かどうかは分かりません。懐徳堂の事業と家業を継いだ長男との不仲で去ったという説もあります。懐徳堂を出た仲基は、家を出て大阪のどこかに住み、個人教授や著作に従事していたと言われています。

*『翁の文』と次の項で取り上げる『出定後語』の両書は、中央公論社刊の中公バックスの『日本の名著18』の「富永仲基・石田梅岩」に現代語訳で収められています。ここにあげた儒教の相対化については、同書の六七頁を参照してください。そこに、以上に述べた儒教の相対化の説が『説蔽』という書に詳しく書かれていると述べられています。仲基が唱えた「大乗非仏説」論も同書の六六頁に簡潔にまとめられていますが、詳しくは『出定後語』を見るように指示されています。仲基の主著『出定後語』は一七四四年、彼が二九歳の時に書かれ、一七四六年に刊行されています。実は『翁の文』は一七三八年、二三歳という驚異の若さで書かれていましたが、刊行は一七四六年に『出定後語』の後になります。その両書の刊行後ほどなくして、彼は三一歳の若さでこの世を去ります。『翁の文』で仲基は、すでに加上説の理論を用いて、儒教、仏教、神道を批判、その絶対性を否定しています。加上説は彼の二〇歳前後から持論になっていたようで、それをもって膨大な仏教経典の成立を歴史的に批判、『出定後語』を書き上げ、仏教の相対化を成し遂げます。

『翁(おきな)の文(ふみ)』に見る神仏儒三教の相対化

『翁の文』の序において著者は、この書は名も知らぬ好学の思慮深い翁から聞いた富永仲基という友人が伝えてくれたことを書きとどめた書だと断って、「翁の文」と称していますが、これは仲基自身言いたいことを翁に託して述べたことは明らかです。この書は一六の節からなり、平易な和文で書かれています。一六の節からなる全体は四部に分けることができるようです。
第一部では第一節で、仏教、儒教、神道はそれぞれインド、中国、日本の道であることを述べて、仏教と儒教は外国の道であり、神道は昔の道であるから、今の日本人が行うべき誠の道となりえないという主張を掲げています。そして第二節で、仏教の僧はすべてインドに倣い、この国にふさわしくないことばかりして、梵語(サンスクリット)などを使って説法をするので、誰も会得したことがないと批判しています。第三節では、日本の儒者は何事も中国の風習に似せようとして、わが国では通用しないことばかりしているとして、まことの儒道とは見当はずれだと批判します。また第四節で、神道は昔のことを尊んでいると称しているのに、今の人は衣服も風習も言葉も違ったものを用いているではないかと指摘しています。総じて今の世の道は、みな神事・儒事・仏事の「戯れごと」ばかりで、誠の神道・儒道・仏道というものではないと、宗教の儀式化を嘆いています。
こうして一節から四節までの第一部で仏儒神の三教が今の日本で行われる「誠の道」ではないことを述べた後を受けて、五節から八節の第二部で、その「誠の道、つまり今の日本で実践されるべき道」とは何かを述べます。第五節でごく近い土地の風俗も、またごく近い昔の風習も真似ることができないことを引き合いに出して、神仏儒の三教も今の日本で実践さるべき必然性がなく、実践されないような道は本来の道ではないのだから、誠の道ではないと切り捨てられます。そして第六節で、その誠の道の具体的な内容が、すでに儒仏の書に書かれていることだと断り書きをつけて例示されます。それは、当然になすべきことをつとめ、現在の仕事に生活の根拠をおき、心を素直に、品行を良くし、言葉使いを柔らかく、立居振舞を慎み、よく親に孝養することですと総論が置かれます。それから、主君に心を尽くし、よく子供を教え、夫に従い、先祖のことを忘れないで、一家の親しみをおろそかにしないことと家庭訓が続きます。さらに誠意をつくすとか怒らないようにとか、人と交際する心得が細かく説かれます。続いて社会人としての心得が、盗まず、偽らず、不当なものは塵一つも受けず、惜しまず与え、衣食も分相応にするようになどと具体的にあげられています。最後に「今の文字を書き、今の言葉を使い、今の食物を食べ、今の衣服を着て、今の習慣に従い、今の掟を守り、いろいろな悪いことをせず、よいことを実践するのを誠の道という」と書いて、それが今現在の実践道であることを強調しています。そして続く第七節で、その誠の道は遠いインドや中国から、また日本のはるか昔の時代から来たものではなく、ごくあたりまえの人がなすべきことで、こうすれば人が喜び、自分もこころよく、すべてがよく治まる道であると論じています。最後の第八節で、この誠の道は釈迦の五戒、十善、三毒の教えや、孔子の仁・義・礼・知・信の五常や忠孝の教えにかなうものであり、神道の清浄・質素・正直にもかなうものだ言って、この誠の道の主張が三教を否定するものではなく、その価値を認めていることを述べています。すなわち、翁は三教を相対化していることになります。
そして第九節から第一二節にいたる第三部で、仲基は加上説を展開してみせます。まず第九節で、「翁としてのわたしの主張が一つだけある」として仲基独自の主張である加上説の説明文を掲げます。仲基はこう説明しています。「おおよそ古代以来、道について説き、法を立てようとするものは、必ずそれぞれの主張に対して、それ以前の誰かを祖にかこつけ(祖を引き合いにして、根拠にして)、そのものの主張すること(前説)よりも、さらに秀れたことを述べようとする」。加上とは上に付け加えるというよりは、「さらに秀れたこと」の主張であり、「その上を行く、凌ぐ」という意味に理解する方が説得力があると思います。この要旨を以下の三節で、仏教、儒教、神道のそれぞれに適用してみせます。
まず第一〇節で、釈迦の教説の以前の六仏がそれぞれ前説の上に出て自説を秀れたものと主張しますが、釈迦の教えも六仏を祖として、その上に出たものであることが論じられています。仏教の内部でも、迦葉を中心とする人たちが阿含部の小乗経典を作って「有」を説いたのに対して、文殊菩薩を信奉するものたちが般若部の大乗経典を作って「空」を説いたのも、小乗の上に出るためです。さらに普賢菩薩を信奉するものたちが、法華経などを作って「不空実相」を説いたのも、それがブッダが悟りを開いてから四〇余年後の説法であるという根拠づけをして、文殊の説の「空」の上に出ようとしたものであるとします。さらに華厳経や涅槃経が出たのも法華の上に出ようとし、また禅が不立文字を言い出したのもすべての経典の上に出るためです。このことを知らないで経典の違いを説明するのは大いなる誤解であるとします。この簡潔な説明から、仏教界を揺るがす「大乗非仏説」の主張が唱えられています(後述)。そして最後に、このことを詳しく知るには『出定後語』という本を見るがよいと付け加えています。
次に第一一節で、孔子の教説である儒教の成立も加上によるものであり、その孔子の儒教が八つに分かれたのも人の性についての学説が加上によって分かれた結果であるとし、先に述べた説明をして『説蔽』という書を見るように指示しています(本書 五九七頁の『説蔽』についての説明を参照)。そして最後の第一二節で神道の諸派も加上で説明します。神道諸派は中古の人たちが神代の昔にかこつけて、これが日本の道だと名付けて儒や仏の上に出たものです。最初が儒と仏を合わせた両部習合、次に仏教徒が神道を仏教の中に落しこんだ本迹縁起が説かれ、さらに次に儒仏の道を離れ、ただ純一の神道を説いた唯一宗源が出てきます。 最近には「王道がすなわち神道である」と説く王道神道を説くものが出てきています。こうしたものは神代の昔になかったものだが、説を加え、かこつけて互いにその上に出ようとしたものであるとしています。
最後に、第一三節で「三教にはそれぞれよくない特徴がある」として、それをよく知って迷わないように注意する第四部を始めます。まず第一四節で「仏道の特徴は幻術である」と言って、インドは幻術が好きな国だから、道を説くにも幻術をまじえて説かないと誰も信じないことになります。それで釈迦も六年間山に入って幻術を修行したのです。経典にも神変・神通のことが記されているが、これは人を信じさせる方便です。次に第一五節で、「儒道の特徴は文辞(文章の言葉、弁舌)である」と言っています。たとえば、もともとは冠婚葬祭の礼式を指す礼を「人の子たるの礼」などといって、礼を人の道としたり、楽しみのためにする楽(音楽)を「楽は天地の和なり」と言っている。聖ももとは知恵のある人を指す言葉であるのに、それを拡大して、人間の最上のもので神変さえあるかのように言っているのです。孔子が仁、曾子が仁義、子思が誠、「孝経」が孝、「大学」が好悪、「易経」が乾坤を説いているが、ほんとうはそれほどでもない、ごくたやすいことを、弁舌も大げさに説き出して、人に面白く思わせ信じさせるための方便です。中国の文辞は、インドの幻術と同様に、日本では必要のないものだとしています。最後に第一六節で、「神道の特徴は、神秘・秘伝・伝授などと言って、ただ物をかくしてばかりいることである」と言っています。かくすことは偽りや盗みの始まりであるのに、偽りや盗みの多いこの末の世に、神道が悪を擁護するようなことは、道理にもとることだと批判します。日本の伝統である猿楽(能)や茶の湯にいたるまで、ひたすらかくして容易に伝授せず、伝授するときには値段をつけるような道は、すべて誠の道ではないとします。
このように『翁の文』で、仲基は加上説を用いて時代の規範となっている神仏儒の三教を批判して、彼の主張である誠の道を分かりやすい和文で説いています。しかし厳密な議論は、仲基が数年の年月をかけて仏典を精読した後、仏教をその加上説で批判した『出定後語』においてみることができます。

『出定後語(しゆつじようごご)』に見る仏教の相対化

仲基が懐徳堂を去ってからの消息を伝える確実な資料はなく、よく分かりません。しかしその期間に仏典をよく読み仏教を研究したことは確かでしょう。彼自身が『出定後語』の自序に、「わたしは幼いころ、ひまであったから、儒教の典籍を読むことができた。そして少しく長ずるに及んで、またひまがあったから、仏教の典籍を読むことができた」と書いています。一説に、仲基は黄檗山にこもって、そこに収蔵されている一切経の校合に従事したとされていますが、それは確認できません。仲基の母方の実家が、黄檗宗の一寺を建立するほどの大和の素封家であったと伝えられており、ありうることと推察させます。とにかく黄檗僧の鉄眼が一六七八年に大蔵経(一切経)の版木を完成して、黄檗山の宝蔵院に収めているのですから、仲基の時代には印刷された黄檗版一切経を大阪でも比較的容易に読むことができたはずです。事実、『出定後語』には実に多くの仏典が引用されていて、本居宣長が『玉勝間』でこの書に触れて、仏教各宗のものしりの僧でも及ばないほどだと感心し、この書を読むのは「めさむるここちする」ことだと言って賞賛しています。『出定後語』は上下二巻から成り、全部で二五章にわたって、仏教の経典の成立とその内容を論じています。この書には仏教経典とその内容を解説する仏教の専門語が実に多く出てきて、仏教の専門家でない者がそのすべてを追跡することは困難ですが、ここではその書によって仲基の歴史的批判の方法である「加上説」を中心に、彼が仏教を相対化していく流れをたどってみたいと思います。

仲基が無数の仏教経典を歴史的に批判する方法が「加上」です。それまでの仏教研究の手法は「教相判釈」でした。これは、あらゆる経典をその形式と内容にしたがって分析・分類し、最もすぐれたもの、それに次ぐものなどと位階をつける方法です。これは特に中国仏教で発展します。インド仏教の多様な小乗・大乗の諸経典を仏説として受容した中国の仏教者は、クマーラジーバが伝えた大乗仏教を受け入れるために、仏説の順序次第を確立しようとする教相判釈が発達します。日本では、最澄がもたらした天台宗で天台智の説により法華経が最上の経典とされ、空海も『十住心論』を著して、真言密教の大日経や金剛頂経を最高としています。このように経典の内容と仏説における順序から位階をつける「教相判釈」に対して、日本では先に鎌倉仏教で見たように、法然が自己のたましいの救済という、まったく主体的観点から、経典・仏説の中から自己に最もふさわしいものを選択するという方法、すなわち「選択」をとり、それが有力になりました。日蓮の法華宗もこの選択の結果です。
この二つの伝統的な方法である「教相判釈」と「選択」とは異なり、仲基の「加上」は合理的批判的な歴史的方法であって、仏教だけでなくあらゆる思想史研究に用いることができる普遍的な方法です。仲基は『出定後語』の「第一章 仏教興起の前後」で、釈迦が唱えた仏教もそれまでのバラモン教に加上したものであるとします。バラモン教が天を崇拝して、天に生まれることを至上としますが、後の者が前説の天に勝る天を唱えたので、天は二八天から三三天へ増加します。そこで釈迦はそれ以上の天を加えないで仏という新しい思想を加えて、バラモンの上に行ったのです。仏の教えはバラモンの天に加上した教説です。
その仏教の内部でも、加上によって新しい教説が積み重ねられていきます。もともと仏教は釈迦の入滅後に、弟子たちが口頭で伝えていった釈迦の教えを、後代の弟子が経典として書き記して自派の典拠としたものであって、仏教という宗教はそのような宗派の全体を指す総称です。仏教経典の多くは「如是我聞」、すなわち「私はこのように伝え聞いた」という言葉で始まっていますが、これは後世に説をなす者が、その口伝えの伝承をわたしはこのように理解して書き記したということを指しています。四世紀末にインドを巡った法顕も、律を書写して持ち帰ろうとして探したが、教えは師から弟子に口伝えで伝えられるので書かれた書はない、と言われたと言っています(高僧法顕伝)。仲基は『大智度論』を引用して、経説の多くは仏の滅後五百年ごろの人が作ったものであるから、経説には五百という言葉が多いのであると言っています。

*仲基はその立論に当たってしばしば『大智度論』から引用していますが、この膨大な量の大乗仏典の注釈書はむしろ大乗仏教の百科全書であって、原始仏典から部派仏教の論書と初期大乗仏典まで 幅広く引用しています。著者は龍樹であるとされていますが、クマーラジーバの漢訳だけが現存しています。

ブッダ(悟りを開いた人)の滅後長い間、定まった教説はなく、拠り所としてよい典籍もなく、すべての人が順次に加上して作り変えて、口伝えに伝授してきたので、仲基は一切の経説がいずれもその相違に耐え得ないのも当然であるとしています。ところが後世の学者はみな、いたずらに諸教・諸経典はみなブッダの金口から親しく説かれたものだとして、その時期によって優劣を競っています。たとえば阿含経も釈迦の教説を伝え「有」を建前としていますが(小乗)、その後に文殊を奉じる一派が『般若経』を作ってこれに加上します。般若経典群は、その精髄である『般若心経』に示されているように、「空」を現実の姿と捉えています。仲基はその教説は正しくて深みがあるとします。この仏教が大乗仏教です。その中に法華経編集者の説がおこり、ブッダは初めは方便の教えを説き、四〇年後にすべてのもののありのままの真実の姿(諸法実相)を見極める最上の経である法華経を説き出されたとします。さらにその後に華厳経、涅槃経、大日経が続きます。これらの諸派が興って分かれたのはみな本来、順次に加上したことによるのであり、そうでなければ教えが拡大し分かれることはないはずです。ところが後世の学者はみな、いたずらに諸教はすべてブッダの金口から親しく説かれたもので、阿難が親しく伝えたものだ、と思っているのです。仲基はこのような誤りを正すことができるのは筆者(出定如来)だけだと自負しています。
この加上の原則の他に、仲基は「異部名字は和会しがたし」という原則を唱えています。これは、一つの事実を伝えるのに違った学派が違った風に伝えていると、その違った学派の違った伝え方(異部名字)から、元の事実の同一性を確認することは困難であるという原則です。伝説時代のことは事実を決められないとした方がよいのに、歴史家はどれか一つを事実として、そのほかは誤りまたは偽りとしたいので、かえって事実を失っていると批判しています。ただ釈迦出現の年代については、様々な説の中で趙伯林の著が信頼できるとして、釈迦の出現を孔子や老子よりも数百年後に置いた説をとっています(第二三章)。この釈迦出現の年代についての仲基の説は、彼が仏教に積極的に貢献した唯一の説だとする仏教側の指摘もあります。
仲基はまた『出定後語』の第一一章で、「言葉には三物がある」と主張しています。言葉は、その言葉を用いる人、それが用いられる世(時代)、それが用いられる類(用法)の三つに条件づけられているという主張です。最初の「言に人あり」というのは、同じことでもそれを伝える人によって言い方や解釈も違ってくることを指しています。伝える人の立場によって同じことも違った内容で伝えられることになります。第二の「言に世あり」というのは、同じことを伝える言葉が時代によって違ってくることを指しています。たとえば玄奘三蔵はサンスクリットの仏教語を翻訳する際に、クマラジーバの旧訳を誤りとして退けて新訳を用いましたが、旧訳から数百年後の玄奘の時代には言葉の意味も変わっているのだから、旧訳を誤りとは言えません。言葉の内容は時代に制約されます。第三の「言に類あり」というのは、言葉の用法に種類があるとの主張で、仲基は五種類の用い方のそれぞれに一字の漢字を当てていますが、現在では用いられていませんので内容の説明だけにしておきます。一つは意味の拡張です。何か一つの名前とか思念が、それを含む全体を指す名詞となる用例です。第二は、ある事柄を激しく表現して言う言い方です。第三はある言葉を反対の意味に使って表現する使い方です。第四は誇張、すなわち今までの意味を大袈裟に表現することです。たとえば成仏というのは本来情を有するものについて言われることですが、仏教は山川草木悉皆成仏と非情のものまで成仏の概念を拡大誇張するようになります。第五は意味を転じて用いる例です。言葉は、サンスクリットに限らず中国語もすべて多義であって、一義に定めることはできないということを、仲基は言葉の「三物五類」と呼んで、正しい主張を確立するための法則としています。
「出定後語」というのは、釈迦が禅定の悟りの境地から出て通常の意識に戻った時に、すなわち出定の後に弟子たちと交わした問答を指しています。弟子たちは様々な自分の考え方を述べて優位を競いますが、釈迦はそのどれをも是認したというのが本来の仏教の意味ですが、仲基はこれを釈迦涅槃以後の仏教の展開過程に転用して、経典や新しい思想的文書が次々に登場するプロセスを説明します。そのプロセスを説明する原理が、以上に述べた「加上」です。仲基はこの原理を、二〇歳頃から抱いており、すでに二三歳頃にこの原理を用いて、時代の体制宗教である儒教、仏教、神道をそれぞれ異なる民族とそれぞれの時代に生じたものであると相対化して、『翁の文』を書いています。その後、大蔵経(一切経)を読破してえた知識を動員して、あらゆる仏典の成立をその加上の原理で歴史的に批判説明する『出定後語』を著し、仏教という宗教そのものを相対化したと言えるでしょう。

「大乗非仏説」論の衝撃

仲基は加上説によって仏教経典の成立を歴史的に批判し、言葉の三物五類の分析によって、密林のような仏教思想の世界を縦横に駆け巡って見せました。一八世紀初頭、新井白石や荻生徂徠の時代、日本の思想は開明期を迎えようとしていました。日本における第一次啓蒙時代とも呼ばれるこの時代の特徴は、理性に対する確信とそれを担う自己にたいする信頼とにもとづいて、従来の伝統的考え方や価値観を疑い、相対化し、そして批判するような精神的態度の興隆です。ヨーロッパではすでに一六世紀以来啓蒙主義の時代に入っていましたが、厳しい鎖国の体制下、まだ蘭学の影響もこれからという時代に(本書五二〇頁参照)、仲基のような仏教に対する歴史的批判の書が生まれたことは、本居宣長に「目から鱗のような心地だ」といわせたように、驚嘆に値します。彼の仏教に対する歴史的文献批判の衝撃がいかに大きかったかは、彼がその加上説の当然の帰結として唱えた「大乗非仏説」論の衝撃の大きさからもうかがえます。
「大乗非仏説」論というのは、大乗仏教はブッダが唱えた教説ではないという主張です。ブッダの教説(仏教)は、その初期には彼の戒律を守る少人数の出家者の集団において、直弟子たちが語り伝える口伝えの伝承によって伝えられていました。しかしその初期仏教も分裂を重ねて、多くの部派に分かれていましたが(部派仏教の時代)、釈迦入滅後数百年を経た紀元前後の時代に、主として仏塔を中心に集まった在家信者を中心に、ブッダへの信仰を大衆に広める新しい信仰復興の運動が起こります。彼らは自分たちの信仰と思想を表明する手段として、般若経、法華経、華厳経、阿弥陀経などの新しい経典を次々に作り出していきます。彼らは従来の仏教を出家者だけの小さい乗り物(小乗)だと批判、自らの新しい仏教運動を「あらゆる人々の救いを目指す大きな乗り物」として「大乗」と称します。この北インドに起こった大乗仏教が東漸して中国に伝えられ、さらに日本に伝えられて東アジア仏教圏(実は大乗仏教圏)を形成した歴史は、補論第一章で述べた通りです。
その大乗仏教の日本において、富永仲基がはじめて加上説という歴史的文献批判の方法を用いて、大乗仏教はブッダ自身の教えではないと言ったのですから、その衝撃はきわめて大きなものでした。仲基は決して「大乗は仏教ではない」とか「大乗仏教は間違っている」と言ったのではありません。大乗仏教について「それは深くて正しい」とさえ言っています。大乗は仏教内部の出来事です。仏教のすべての経典の成立を加上説で解明して、ほとんどすべての仏教経典が釈迦入滅以後の後の時代の加上による成立だとした仲基からすれば、大乗仏典もその一例にすぎません。しかし、仏教といえば大乗仏教のことであり、しかも仏教はすべてブッダの口から出た至高の教説であるとしている日本において、大乗仏教はブッダの教説でないという仲基の主張は、仏教の価値を否定する冒?に聞こえたとしても無理ありません。
仲基の『出定後語』はまず仏教側から猛烈な非難を浴びることになります。仲基の後の文化文政時代は仲基の悪口が盛んに行われて、真宗の僧侶からは、黄檗山で一切経の校合の仕事を与えられて仏教を学ぶという恩を仇で返した恩知らずとか、そのせいで病気になって死んだとか、口汚く罵られています。仲基は弟子もなく、仏教側からの批判の中にその著作は埋もれていましたが、先に見たように一八世紀も末になって本居宣長に見出されて賞賛され、識者に読まれるようになります。古文辞学を目指した宣長は仲基の文献の歴史的批判と時代に即した語句の理解方法に感服したのでしょうが、彼の自称弟子で復古神道の提唱者となる平田篤胤になると、仲基の著作は仏教批判ないし仏教否定の格好の材料とされ、『出定笑話』というような著作を生むことになります。
明治期以後には、言語学などを駆使した近代的文献学研究が行われるようになり、学術的には大乗仏教の諸経典が釈迦入滅後数百年経った紀元前一世紀以後の成立であることは広く認められるようになり、大乗非仏説論は近代的学問からも裏付けられています。伝統的な仏教教学からも村上専精の『大乗非仏説論』なども出るようになります。しかし、これらの議論は教学上の問題で、大乗仏教の日本的発展形態である日本の伝統的仏教諸派では、法然、親鸞、日蓮、道元など、それぞれの宗祖の宗教体験の継承が主要関心事で、信徒の間では仏典の成立過程というような問題はほとんど意識されることなく、前述したような形で江戸期以来の社会の体制宗教として歩んでいます。

富永仲基による仏教、儒教、神道の相対化

明治大正期の東洋史学の先駆者ともいうべき内藤湖南が、富永仲基の研究方法を高く評価して、仲基を大天才と称揚した「大阪の町人学者富永仲基」という講演で、その内容を紹介しています(一九二五年)。仲基の天才は、あの厳しい鎖国の時代に、西欧からの影響を受けないで、まったく独自に近代的な学問の研究方法を開拓したことにあります。湖南は『出定後語』によって仲基の批判の方法である加上説や三物五類の説を説明し、仲基が仏教の相対化を成し遂げていることを紹介しています。しかし仲基がすでに何年も前に、おそらく二三歳頃に書いていた『翁の文』(一七二八年)の現物は、その講演の前年ぐらいにやっと見つけたようです。先に述べたように、仲基はその『翁の文』でやさしい和文を用いて簡潔に、彼の加上説をもって時代の体制宗教である儒教をはじめ仏教も神道も批判し相対化して、今の時代に自分たちが依拠すべき道ではないとしています。その上で、彼は今の時代の自分たちが踏み行うべき「当たり前の理」として「誠の道」を提唱しました。
近年、宗教学者の島薗進が『宗教学の名著三〇』(ちくま新書)で、空海の『三教指帰』やマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』らと並んで、富永仲基の『翁の文』を、「仏教・儒教・神道の諸宗教、およびその典拠とされる経典や教義論書を相対化する解体論的な視座を提示した」名著としてあげています。たしかに湖南が称揚したように、二十数歳の若さで、これだけ近代的で明確な方法論を用いて、時代の諸宗教を相対化したのは、日本が生んだ大天才ということができるでしょう。ただ、仲基が神仏儒の三教を一挙に相対化して、その対案として提唱した「誠の道」が、前述したように(本書五九八頁参照)、当時の儒教道徳をその時代に適用するだけのものに終わっていることに、時代の制約を感じざるをえません。体制宗教を相対化して人間に絶対的な拠り所を与える力は、福音の告知を待たなければならないことを思わせます。しかし、富永仲基という若き天才が、すでに徳川前期という時代に諸宗教を相対化する一つの視点を明確にしたことは、宗教相対主義の先駆者として名をあげなければならないと思います。

U 内村鑑三

内村鑑三の回心

内村鑑三は一八六一年に江戸在住の高崎藩士内村宣之の長男として生まれています。ペリー来航が一八五三年で、翌年に日米和親条約締結、一八五九年にはヘボンらのアメリカ人宣教師が来日、そして一八六七年に大政奉還、明治の新しい時代が始まっていますから、内村鑑三は日本が広く欧米諸国に門戸を開いて、世界の歴史の中に組み込まれていった最初期に、その幼年時代を送ったことになります。この時代には欧米諸国からキリスト教が流入することになりますが、とくにはじめて欧米のプロテスタント・キリスト教が日本にもたらされたことが大きな意味を持つことになります。その中でも、この明治の最初期に日本に来た宣教師の大部分は、ピューリタンの信仰と伝統を受け継ぐアメリカのプロテスタンティズムの各派の宣教師たちでした。新時代に対応するために開かれた英学校や農学校で宣教師や信仰熱心な教師たちに導かれて、多くの日本人青年が集団改宗し、その横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドが明治期のキリスト教指導者を生み出したことは、先に見た通りです(本書五二四頁以下、とくに五二七頁を参照)。
内村鑑三は英学校で学んだ後、一六歳で札幌農学校の二期生として入学します。在学中、熱烈な信仰者であるクラーク教頭の指導と直前に受洗していた上級の一期生からの強い圧力によって「イエスを信じる者の誓約」に署名、宣教師ハリスから洗礼を受けています。この時期の内村の信仰は、八(や)百(お)万(よろず)の日本の神々を恐れたり礼拝を捧げる義務から解放されて、唯一の神に祈る信仰に帰したことを喜ぶというほどのものであったようです。卒業後は水産研究に携わり、かなりの成果をあげて東京に戻り、官吏としての生活に入ります。首都の信徒大会にも出席して、発足したばかりのプロテスタント教会の大集会に出席して、リバイバル的な高揚も体験しています。しかし神の前の自己の空虚さを埋めることができず、またその期間に始まった家庭生活も破綻して、その霊的苦悶の解決のためにも、憧れのキリスト教國アメリカへの留学を志し、蓄えた金額で往路の船賃だけをもってアメリカに旅立ちます。一八八四年、二三歳の秋でした。
アメリカに到着した内村は、キリスト教國アメリカに充満する拝金主義と人種差別の罪深さに驚き、アメリカを痛烈に批判します。しかし一方、アメリカの慈善家たちの伝記を読んで社会事業を志していた内村は、ペンシルバニア州の精神障害児施設に志願して看護人として採用され、そこで典型的な慈善家の院長とユニテリアン信者である夫人の親切に支えられて八ヶ月勤務します。しかし給料のためではなく、修道院に入ったルターのように、苦悶する魂の救済のために入った内村は、ついにそこでは解決を見出すことができず、その後新島襄の紹介を得て、ニューイングランド州のアマースト大学に入ります。内村はこの大学の総理シーリーの著書を読んで深く尊敬していたので、彼の説教や講義に熱心に耳を傾け、自分の弱さや罪深さを包み込む神の恩恵に身を委ねることを学びます。後に内村はこの時期を回想してこう書いています。「重い心をいだいて入学した私は、わが救い主なる主の勝利の栄光を得て、そこを去ったのである。・・・・・故国で洗礼を受けてからほぼ十年後に、私はニューイングランドで本当の回心をした。すなわち向きが変わったのである」。彼は自分の内にある弱さも努力も放棄して、ただ十字架された復活者キリストに現れた神の恩恵に委ねるという存在の向きを変えることを経験したのです。
二年の選科生ながら本科生と同じ待遇でアマースト大学を卒業した内村は、日本での伝道活動の準備としてハートフォード神学校に入学します。日本では僧職を忌み嫌い、アメリカでも牧師職や説教が金品で評価される現実を見て、神学校入学を躊躇しますが、絶対に聖職免許を受けないと神に誓って入学を決断します。内村はアメリカ留学の期間中に、アメリカのキリスト教の海外伝道の光と陰の両面を体験し、宣教師の伝道の不遜と愚かさを痛烈に批判しています。彼は自分が目指す伝道と、神学校での外面的な神学授業の距離に絶望して、四ヶ月で退学、一八八八年の春、帰国の途につきます。内村は後年、誕生からアメリカ留学帰国までの時期を振り返って、自伝的な著作『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』を出版していますが、その最後の章「キリスト教國の正味の印象 ― 帰国」において、三年半の留学でキリスト教國アメリカで受けた率直な印象とそれに対する厳しい批判を、かなり詳しく書いています。それによると、三年半に及ぶアメリカ滞在の印象は、きわめて悪いものです。内村はシーリーやベルなど生涯にわたって親密な交友を持ち、アメリカを自分の信仰の故郷として敬愛していますが、キリスト教國を標榜するアメリカの拝金主義と人種差別にまみれた現世主義や海外伝道における偽善の一面に深く落胆して、アメリカを激しく批判しています。しかし、その激しい批判は尊敬するアメリカを愛すればこそ、キリスト者として直言しないではおれない彼の正直さからの批判であることを見落としてはなりません。

『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、帰国後第一高等中学校の教員時代に起こった内村鑑三不敬事件(後述)によって、東京を出て各地を転々としていた時、一八九三年に熊本で書き始められ、翌年京都で脱稿しています。アメリカ滞在中にしばしば求められた異教徒の回心録をアメリカで出版するつもりで英文で書かれましたが、激しいアメリカ批判のため出版はできず、結局当時有力なキリスト教書籍出版で、すでに著者の『キリスト信徒のなぐさめ』や『求安録』を出していた警醒社書店からその日本版が一八九五年に出版されます。この書はアメリカやイギリスなどの英語圏では無視されますが、一九〇四年に本書のドイツ語訳が出るや、大きな反響を呼び、ヨーロッパ大陸ではフランス語を始め多くの言語に翻訳されて、大いに読まれて有名になります。その初版の印税が送られてきて、非戦論で万朝報社を辞した著者の家族と「聖書之研究」誌の危急を救うことになります(後述)。

独立伝道者・内村鑑三

内村は帰国後すぐに、キリスト教主義の新潟の北越学館から招聘されて仮教頭として赴任します。しかし学院を運営する宣教師団と衝突、異教徒、ユニテリアン(三位一体の正統教理を否定する者)と呼ばれて、わずか四ヶ月で辞職、東京に戻ります。先に見たように、かねてからアメリカのキリスト教信仰の質と日本における宣教師の態度に疑問を持っていた内村には、避けられない衝突だったのでしょう。このとき以来、内村は宣教師との関係を一切絶って、外国からの援助を受けない独立の道を歩むことになります。東京に戻った内村は、一八九〇年九月に第一高等中学校(一高の前身)の嘱託教員となりますが、同年一〇月に発布されたばかりの教育勅語の奉戴式が、翌年一月に講堂で行われます。その際、天皇の宸署にふさわしい敬礼をしなかったとして、不敬の指弾を受けることになります。この不敬事件によって職を追われ、重病にかかって生死の境をさまよい、妻を失うという不幸も重なります。彼は不敬の輩、国賊と罵られて、国中に枕するところのない立場に陥ります。この不敬事件が内村をただ神の言葉だけに依り頼む孤高の預言者の道を歩ませることになります。この不敬事件は、国家神道の形成を目指す明治新政府の宗教政策(本書五二三頁以下を参照)と、開国によって伝えられたプロテスタント・キリスト教の福音主義が衝突した最初の事例として重要です。
一八九一年に不敬事件で東京を追われてから一九〇〇年に「聖書之研究」誌を発刊するまで、内村三一歳から四〇歳までの約十年の期間は、彼にとって苦難と波乱の時代でした。不敬事件の翌年に熊本バンド出身で大阪で牧師をしていた宮川経輝の泰西学院に招かれて大阪に移り、そこで再婚します。しかし翌年には宮川と意見が合わず、泰西学院を辞して熊本の英学校で客員として教鞭をとり、やがて再婚した妻の実家のある京都に移って、著述生活に入ります(一八九三年)。実は大阪で最初の著作『キリスト信徒のなぐさめ』を書き、熊本で『求安録』を著しています。この両書はキリスト教書籍出版の警醒社から出版されて、大きな反響を呼び起こします。とくに前者は大成功で、発売後三週間目には第二版が出ています。この書はキリスト教徒だけでなく、人生の苦難に苦しむすべての人にとって深い慰めと生きる勇気を与える書として、広く読まれ(後に岩波文庫に入れられています)、彼の文名を高めます。内村はこの処女作の成功によって、著述家として立つ決意を固めます。しかし、熊本で起稿し京都で脱稿した自伝的大作の『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、アメリカで読まれることを期待して英文で書かれますが、先に見たように著者のあまりに率直なアメリカ・キリスト教の批判と宣教師批判によって無視され、結局日本語版が警醒社から刊行されただけで、著述家として立とうとする内村の計画を挫きます。
京都には三年留まり、一八九六年に名古屋に移り、英和学校の教師として勤めます。その間にも『後世への最大遺物』、『代表的日本人』、『伝道の精神』、『地人論』を著し、徳富蘇峰の『国民之友』に文学論文を寄稿して 、同誌の評判を高くするなど、活発な文筆活動を続けます。ところが名古屋に移った翌年に、「万朝報」主筆の黒岩涙香の訪問を受け、同紙の英文欄主筆になるように懇請されます。「万朝報」は、あの不敬事件が起こった一八九二年に黒岩涙香によって創刊された大衆新聞で、内村の名古屋時代には内村をはじめ幸徳秋水や堺利彦らを入社させて社会改良を目指すようになっていました。内村は黒岩の懇請に応じて入社、日英の両文で健筆を振るい、彼の筆名をさらに高めます。ところが、その頃満州と朝鮮半島をめぐる日本とロシアの関係が悪化、国論は開戦と非戦に割れ、内村、幸徳、堺は非戦論を唱えて、開戦に傾く「万朝報」を退社するに至ります。一八九八年、一年余りで同社を辞めた内村は「東京独立雑誌」を創刊、日本社会の政治、教育、社会に関する辛辣な批判と分析を行い、日本の現状を激しく攻撃します。その激しさは同人たちの反発を招き、同誌は内部崩壊し、一九〇〇年に二年ほどで廃刊されます。後に同誌の短文を集めた『独立短言』序文で、内村自身がこう反省しています。「余ははたしてかかるものを書きしか。かかるものを書きし余は狂気であった。愚頑であった。・・・・・・ねがう、読者のこの書によって時代と現世との、吾人の希望をみたすにたらざるを知り、平静の幸福をキリストの福音において求むるに至らんことを」。

『聖書之研究』誌の刊行にかけた生涯

 一八九八年にいったん万朝報を退きますが、内村は幸徳や堺と「理想団」を結成、日本社会の改良事業を継続します。内村は東京独立雑誌を出して、独自の社会批判を続けますが、一方伝道活動への志を深め、一九〇〇年には『宗教座談』を出版しています。同じ一九〇〇年に東京独立雑誌を廃刊し『聖書之研究』誌を創刊するに至ります。この刊行と同時に、内村は万朝報社の客員として迎えられて、再び政治、社会、時事問題に健筆を振います。この頃、内村は黒岩や幸徳と一緒に足尾鉱山鉱毒事件の視察や批判に奔走しています。当時ますます関係が悪化していたロシアに対抗して、一九〇二年に日英同盟が締結され、翌一九〇三年には開戦準備が進み、一九〇四年初頭から日露戦争が始まります。開戦の世論が沸騰した一九〇三年に幸徳と堺は万朝報社を退社、「平民新聞」を出して社会主義の立場から非戦論を唱えますが、同時に内村も非戦論に殉じて万朝報社を退社、すでに刊行を開始していた『聖書之研究』誌によって聖書の研究に徹し、それによってキリストの福音をこの国に伝えることだけに専心することを決意します。この決意は、一九三〇年に七〇歳で没するまでいささかも動揺することなく貫かれます。四〇歳になる年の一九〇〇年の『聖書之研究』誌の発刊が、内村の生涯をそれまでの前半生と、それ以後の後半生に分けることになります。
内村が接したキリスト教はピューリタンの伝統を受け継ぐニューイングランドのキリスト教でした。札幌農学校で青年たちにキリスト教を伝えたクラークは軍人であり農学者であって、神学者とか宣教師ではありませんでした。彼は学生たちに農学を教える傍ら英語の旧新約聖書を与え、この聖書を神の言葉として信じて徹底的に学ぶように教えました。はじめ内村は聖書と自分の現実との乖離に苦しみますが、この聖書信仰の土台となる十字架の贖罪をアメリカ留学中に身をもって学び(回心を体験し)、帰国後はこの実験的(体験的)キリスト教を祖国日本に証言することを使命として、その全能力を捧げたのでした。ところが先に見たように、帰国後の十年余りは、宣教師への批判によって教会から異端視され、不敬事件によって日本社会からの排斥が重なって孤立、その激しい文筆活動で道を開く努力をしますが、ついに社会の現実問題からは手を引いて、聖書の研究とその真理の証言に専心することになります。当時、聖書だけを主題とする雑誌の発行は向こう見ずの冒険であり、内村は餓死を覚悟で決行したと述懐しています。事実、『聖書之研究』誌の発行は数年にして財政的に行き詰まり、一家は路頭に迷う危機に陥りますが、先に見たように、英語圏で無視されていた彼の英文の著作『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』がドイツ語に翻訳されてヨーロッパで評判になり、その印税が送られてきて危機を脱します。
『聖書之研究』は一九〇〇年に創刊され、一九三〇年三月に没するまで(正確には前年一二月まで)三〇年間刊行が続けられ、三五三号に達します。その間、内村は講演会や家庭集会で、また個人的に伝えた福音によって信仰に入った教友たちに、この雑誌によって聖書の講義を続け、信仰の交わりを形成していきます。自身は東京近郊の角筈に隠棲して聖書研究に没頭、自宅に少数の青年を集めて聖書講義を行うという、世間との交際を絶ったような活動に入ったので、それまでの彼の華やかな社会的活動や文筆活動を知る人たちから「角筈の隠者」とか「角筈聖人」などと呼ばれるようになります。しかし、内村はこの『聖書之研究』誌上に自分のすべてを投げ入れて、これを彼自身の「後世への最大遺物」としてこの国に残したのです。事実、没後内村の生涯と全業績を保存すべく岩波書店から刊行された『内村鑑三全集』四〇巻(最終配本は一九八四年)は、内村の生涯にわたる著作、講演、日記、手紙を網羅していますが、その大部分は『聖書之研究』誌上に発表されたものです。
内村の聖書講解は、旧約聖書の主要な巻と新約聖書のすべての巻を含んでおり、一人の人物の業績として驚くべき偉大な業績です。しかもそれが近代化し始めたばかりの日本にキリスト教が伝えられた最初期になされたことを考えると、ますますその偉大さに驚嘆します。しかし内村の聖書講解の偉大さは、その量とか学術的正確さにあるのではなく、それに接する者の魂を揺さぶる力にあります。内村自身が繰り返し強調しているように、内村の聖書注解とか講解は「実験的」です。すなわち、聖書の言葉や内容を歴史的に説明するだけでなく、その言葉を自分が実際の信仰生活において体験して理解したかぎりのことを、聖書の言葉の内容として解き明かしていくのです。この姿勢が、聖書を信じてキリストの内に生きようとする者の魂を揺さぶるのです。わたしたちが生きている時代は内村が生きた時代とは違う面もありますが、キリストの内に生きようとする志は同じです。この志が内村の聖書注解を魅力的なものにします。
内村はその聖書講義の形での伝道活動を、その後半においては角筈の自宅から東京市内の公の会館の講堂に移して、広く市民が参加できるものにしています。第一次世界大戦(一九一四〜一九一八年)後に日本のキリスト教会に起こった再臨運動に内村も参加して(後述)、東京で大きな講演会が開かれますが、その後内村は一九一九年に大手町の衛生会館の講堂を会場として東京聖書研究会を進めます。この衛生会館講堂で一九二〇年の一月から翌年にかけて六〇回にわたってなされたローマ書の講義の筆記が、一九二四年に単行本『ロマ書の研究』として刊行されるに至ります。この書は、内村の聖書研究の集大成として、内村が身をもって生きたキリストの福音の内容を見事に提示しており、世評も高く、後に岩波文庫をはじめ各種文庫にも収録されて、読書界の古典として著名になります。さらに晩年の一九二三年、関東大震災によって衛生会館が使えなくなってからは、聖書研究会を今井館附属聖書講堂に移して、そこを集会の拠点として活動します。その前後の時期になされた「キリスト伝研究」が『聖書之研究』誌上に発表され、それがまとめられて『ガリラヤの道』(一九二五年)と『十字架の道』(一九二八年)の二著作として出版されます。この両書はおもにマタイ福音書の講解の形で書かれたキリスト伝で、この二著も『ロマ書の研究』と並んで、内村の代表的著作に数えられます。

内村鑑三の全業績は、本文中で述べたように、岩波書店刊行の『内村鑑三全集』に収められています。この全集は内村鑑三の著作(単行本)、聖書注解、雑誌掲載論稿、日記、手紙の全文書が年代順に編集されており、その中で「聖書之研究」誌に発表された文章が大きな部分を占めています。ところがこの全集は、内村鑑三の明治期の文語文をそのまま用い、また聖書のある書巻や同一の主題が年代順に編集された『聖書之研究』誌上の数号にわたって散らばっているために、現代において内村の著述を学ぼうとする者に、使用しづらい面があります。それで戦後になって現代の読者向けに、内村美代子(長男内村裕之夫人)による現代文に書き換えた本文を用い、聖書の書巻別にまとめた『内村鑑三聖書注解全集』一七巻、信仰内容の主題別にまとめた『内村鑑三信仰著作全集』二四巻、『日記、書簡集』八巻が、山本泰次郎の解説付きで、教文館から発行されています。現代の読者、研究者にはこの三つの全集が便利だと思われます。

内村鑑三の無教会キリスト教

内村の聖書注解の力強さは、彼のキリスト信仰の実際の経験から聖書の言葉を理解し、それを率直簡潔に述べた点にあること、すなわち信仰の体験的・告白的な性格にあることを先に述べました。しかしそれは内村の聖書解釈がまったく主観的で個人的であるということを意味するものではありません。内村は彼の時代の最高水準の注解書や神学書(おもに英語圏のもの)を広く読んで理解し、彼が受け取ったピューリタン・キリスト教の正統信仰の枠の中で解釈しています。ところがキリスト教神学も聖書各巻についての歴史的状況の理解も、内村の時代から一世紀以上たって大きく進歩あるいは変化してきています。それで内村の聖書解釈にも時代の制約を感じることがあります。現代のわれわれが内村のキリスト教理解について、その意義の重大さをさらに深めなければならないのは、彼の「無教会キリスト教」の主張です。彼の「無教会キリスト教」の主張が、日本のキリスト教の歴史においていかに重要な意義を担う運動であったかは、彼の弟子たちの聖書研究や働きが日本のキリスト教史の重要な一翼を担うようになった事実と、日本の近代化に指導的な役割を果たしたという事実によって、かなり広く認められるようになっています。しかし本項では、内村の「無教会キリスト教」の主張が世界のキリスト教史において果たす役割と、世界の宗教史においてもつ重要な意義について考察しておきたいと願っています。
内村の独立志向は彼の生涯を貫く顕著な事実ですが、それはまず何よりも宣教師からの独立、ひいては彼らを送り出しているアメリカの教派教会からの独立を意味していました。内村は彼の聖書理解とキリスト信仰の証言を貫くために、宣教師を通して与えられる援助と引き換えに強要されるその教派の教会形成を拒否し、自分の証言にふさわしい形の活動形態を主張します。それが欧米のキリスト教会の不可欠の構成要素となっている洗礼と聖餐の否定となって、彼の「無教会キリスト教」の主張となります。内村はアメリカ留学から帰国後、伝道を志しますが、先に見たように早々に宣教師団と衝突、その後英語教師や新聞記者などをしながら、その優れた文才を発揮して、政治や社会問題に取り組みますが、一九〇〇年にキリスト教の伝道に専心する決意で『聖書之研究』誌を刊行するに至ります。その時にはすでに「無教会キリスト教」の路線は決定されており、同年に「洗礼晩餐廃止論」を誌上に発表、翌年には『無教会』という雑誌を発行し、その旗印を鮮明にしています。
「洗礼晩餐廃止論」は、内村が若き日にその設立に加わった札幌独立教会に洗礼晩餐の存続問題が起こり、意見を求められて書いたものです。内村はこの質問に対して八箇条の理由をあげて、洗礼と晩餐を不要とする意見を述べています。大要をまとめると、洗礼と晩餐は新約聖書にその記述があり、正しく理解して用いると有益なものであり尊敬すべきものであるが、「洗礼を受けず、教会の晩餐式に列ならなければ救われない」という主張には、聖書に従って断固として反対すると断言し、これに与るもよし、与らぬもよしとしています。すなわち、この儀礼の価値とか意義を認めつつ、それを救済の条件とすることを断固拒否するという態度です。そして結論として、「断固として聖式不必要論を実行して、形式に誇る者に主の恩恵のますます豊かなるを知らしめよ。我らは信じる、聖式に付着する多くの迷想誤信を排し、これが再び真正の効果を発揮するようになるために、一度これを廃して、霊の力のみに頼り、その後に(聖式が)その霊の実力の表彰であることを知らせることが、われら独立教会の使命ではなかろうか」と述べています。
内村はこの提言の通り、自分の証言を聞いてイエス・キリストを信じるようになった人たちに洗礼を授けて自分が司牧する教会に入れ、聖餐式を行なってそれに参加させるという、当時の「教会」の常識に反する形で伝道活動を進めていきました。彼はキリストを説いても洗礼を授けることなく、聖餐式を執り行うこともなく、ただひたすら聖書講義に専心していきます。その旗印として翌年の一九〇一年に『無教会』という雑誌を発行して、彼の主張を明確にしています。その巻頭の社説で、無教会の「無」は教会を否定するものではなく、「教会の無い者の教会」であるとして、そこには洗礼も晩餐式もなく、聖職者もなく、煉瓦造りの会堂もなく、ただ自然の中にある信仰者の交わりであると宣言しています。内村はこの社説で「都の中には神殿を見なかった」というヨハネ黙示録を引用して、教会というのはこの世限りのことであって、「かしこには洗礼もなければ晩餐式もありません」と言っています。内村自身も後に、無教会主義はこの世で実現できるものではなく、終末的な主張であることを認めていますが、それでも彼はこの世の福音の証の働きの中で、洗礼と聖餐の儀礼を救いの条件としているこの世の「教会」の中にとどまることができず、その外に出てしまったのです。

この『無教会』という雑誌は、教友の間の交流機関として発行されたもので、内村はこれを「紙上の教会」と呼んで、教友たちの投稿を呼びかけています。しかし原稿が思うようには集まらなかったのか、二年たらずで一九〇二年に廃刊されています。

内村は生涯「無教会キリスト教」という看板を掲げて、聖書だけに基づくキリスト教への信仰を説いています。しかしその「無教会キリスト教」という看板は矛盾を含んでいます。というのは、キリスト教という宗教はキリスト教会という制度の中の宗教であって、キリスト教会の外にはキリスト教という宗教は無いのです。教会は洗礼という儀式によって入会し、聖餐儀礼に与ることによって会員であることを継続する宗教団体です。資格のある聖職者が執行するこれらの儀礼に与る者がキリスト教徒であり、救いを保証され、神に所属する民となるのです。もし人が洗礼を受けず、聖餐にも与らなければ、その人は教会員ではなく、神の民でもありません。「教会の外に救いはない」のです。実はこのような教会の中にあるキリスト教という宗教は、キリストの出来事が使徒たちによって広く地中海世界に宣べ伝えられ(これがキリストの福音です)、ギリシア文化の上に築かれたローマ社会に受け入れられ、キリストを信じた人たちによって二世紀から五世紀にかけて形成された一つの歴史的・制度的な宗教であるのです。その形成は、ローマ帝国がキリスト教を受け入れ、キリスト教を帝国の国教とするに至り、その過程でギリシア文化の先鋒である主教(各教会の指導者)の公会議によって三位一体の教義が決定されて完成します。この形成過程でもっとも大きな役割を果たしたコンスタンティヌス大帝の名によって、わたしはこの時期に形成された制度的キリスト教会の体制を「コンスタンティヌス体制」と呼んでいます(拙著『福音と宗教U』第四章第一節「コンスタンティヌス体制下のキリスト教と福音」参照)。
欧米のキリスト教は、四世紀にコンスタンティヌス体制の下で統一されて以来、今日に至るまで一八〇〇年の長きにわたってその体制の中で歩んできました。その体制下のキリスト教も、西ローマ帝国の滅亡にともなって、東方キリスト教と西方キリスト教は別れて別の道を歩み、西方キリスト教ではゲルマン諸族をキリスト教によって統合したローマ教会を頂点とするローマ・カトリック教会がキリスト教ヨーロッパの中世を形成します。しかし十六世紀に宗教改革が起こり、西方キリスト教はローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会に分裂します。ルターらの改革者は、パウロの「信仰による義」を再発見して、ローマ・カトリック教会の外に出ました。しかしキリスト教という宗教の外に出たわけではありません。ルター派や改革派のプロテスタント諸教会も、公会議が決めた三位一体などの諸教義を信奉し、聖職者による洗礼と聖餐式という儀礼の執行をキリスト教の当然の前提としています。その前提がいかに強くヨーロッパのキリスト教世界を枠づけていたかは、再洗礼派の歴史が物語っています。再洗礼派は自覚的な成人の信仰による洗礼だけが、罪の赦しを与え人を義とする真の洗礼だとして、すでに洗礼を受けているキリスト教徒に再洗礼を求めたのでした。彼らは宗教改革を徹底しようとした人たちですが、それを洗礼というキリスト教の枠内で行なっています。ヨーロッパの人たちにとってキリスト教は、誰もそこから出ることを想像することができない文明の枠組であったのです。
内村鑑三は明確に「人は洗礼を受けることはなくても、そのキリスト信仰によって救われる」と主張したのです。洗礼を受けるということは、キリスト教徒でない人がキリスト教に改宗することを意味します。内村はキリスト教という宗教に入らなくても、すなわちキリスト教の外にいても、キリスト信仰者でありうると言っていることになります。内村はキリスト教信者とキリスト信仰を区別していることになります。この区別は、キリスト教という宗教をキリストの出来事を伝える「キリストの福音」から生まれた一つの歴史的制度的な産物であると理解して、キリスト教とキリストの福音を区別するところから出てきます。わたしは、内村の「無教会キリスト教」という主張は「教会外キリスト信仰」あるいは「キリスト教外キリスト信仰」と称したほうが正確ではないかと考えます。ところが一八〇〇年の長きにわたってキリスト教だけで形成されてきた欧米のキリスト教文明の世界では、この区別ができなくなってきており、キリスト教という歴史的制度的宗教が普遍化・絶対化されて、キリスト教以外に真理はなく、キリスト教が人類を進歩させ、完成するかのように信奉されることになります。このようなキリスト教世界から伝えられたキリスト教伝来のごく初期に、内村がキリスト教の外でも人間がキリスト信仰によって真理に生きうることを主張したことは、小さな一歩であるように見えて、人類の宗教史において実に大きな一歩であったのです。ルターを尊敬していた内村は、宗教改革の徹底を追求して、キリスト教そのもの、コンスタンティヌス体制の欧米キリスト教そのものの枠の外へ一歩踏み出したのです。

内村の終末信仰

内村の「無教会キリスト教」は、内村自身も認めているように、この世のものではなく「来るべき世」のものです。ヨハネが示された天から降ってくる都にはもはや神殿を見なかったという黙示録(二一・二二)の記述は、終末的な現実を指し示しています。内村がその『洗礼晩餐廃止論』で述べているように、「聖式に付着する多くの迷想誤信を排し、これが再び真正の効果を発揮するようになるために、一度これを廃して、霊の力のみに頼り、その後に(聖式が)その霊の実力の表彰であることを知らせる」必要があるのではないでしょうか。内村が見ていたように、洗礼も聖餐式もなくてキリスト信仰に生きる、あるいはキリストに合わせられて生きるという現実は、「御霊の働きだけに」に依存します。御霊の働きがなければ、聖書講義の集会は知性に訴えるだけのただの講演会となり、洗礼と聖餐はただの外面的形式的儀礼となって、その講演会や礼拝式に参加する者の霊性に何の変化も起こりません。御霊の働きだけが人の霊を生かすのです。
内村は自身の信仰の生涯に三回の大きな転機があったと告白しています。第一の転機は一八七八年、札幌農学校でクラークの指導でキリスト教に改宗、聖書が示す唯一の神への信仰に転じた体験です。第二の転機は一八八六年、アメリカ留学中にアマースト大学の寮でキリストの十字架による罪の贖いの事実を体験した「回心」です。そして第三の転機が一九一八年、第一次世界大戦によって動揺していた時に、キリストの再臨の信仰に到達した時に訪れます。一八八八年に帰国して活動を始めてからすでに三〇年という長い年月が経っています。とくに一九〇〇年に『聖書之研究』誌を出して、聖書研究と聖書信仰の普及に没頭してから二十年近い歳月が流れ、多くの教友を指導する立場に立っています。しかし第一次世界大戦の勃発(一九一四年)、とくにアメリカの参戦は内村に大きなショックを与えます。同じキリスト教國同士が、同じ神に戦勝を祈って、互いに殺し合っているのです。この事実に衝撃を受けた内村は、キリスト教に疑問をもち、『聖書之研究』誌の廃刊も考えるにいたります。その頃、アメリカ留学以来の信仰の友であった銀行家のベルから送られてきた書に触発されて、内村はゴードンの『見よ、彼来り給う』を再読、その書に導かれて聖書がキリスト再臨《パルーシア》を告知していることを確信、再臨信仰に到達します。内村はこれを欠けていた部分が補われて、自分の信仰の円環が完成した出来事と呼んでいます。その出来事は、友人のベルが三〇年間一日も休まず内村の再臨信仰のために祈っていた祈りの結果だとしています。
大戦の期間中にキリスト再臨の確信に達していた内村は、ホーリネスの中田重治らと一緒に、大戦終了の一九一八年に、堰を切ったように東京をはじめ全国の教会や講堂で演説会を開き、「再臨運動」を展開します。その講演会は大きな反響を呼び、多くの聴衆が集まります。内村がキリストの再臨を叫んだ講演の大部分は一九一八年に集中しています。翌年の前半では何回か再臨についての講演を行っていますが、一九一九年の五月に中田らと行なった再臨信仰による教会改革を唱えた講演によって、それまで使用してきた東京基督教青年会から講堂の使用を拒否されて、聖書研究会を丸の内の衛生会館に移し、もはや再臨問題を講じることなく、内村の「再臨運動」は収束します。その衛生会館において内村は元の聖書研究会に戻り、ヨブ記やダニエル書を講じた後、一九二一年から二年にわたりローマ書の講義を行います。この講義はその筆記がただちに『聖書之研究』誌上に掲載され、一九二四年には単行本として出版されて、内村のパウロ的な福音理解をもっともよく証言している主著と見られ、彼の著作の中でもっとも有名な書となります。この書が、内村自身が信仰の円環が完成されたと自覚した第三の転機、再臨の信仰に達した後の時期の著作であることに留意しなければなりません。
内村の再臨信仰の高唱は弟子たちの一部に奇異の感を抱かせたようです。教会の逐語霊感説的な再臨信者の中に、再臨接近を強調するあまり、健全な信仰生活から逸脱する傾向も見られたからです。それで内村は再臨運動開始早々、『聖書之研究』誌上に「余がキリストの再臨について信ぜざる事ども」を発表、以下の三点を指摘しています。第一に、世界に起こる事件を再臨の「時のしるし」として、再臨の日時を推測することです。キリストがいつ来られるかを知る者は誰もないのです(マタイ二四・三六)。第二に黙示録(二〇・六)を根拠にして、再臨前に千年にわたってキリストが地上で権力を掌握して支配されるという「千年王国」信仰を退けています。これはピューリタン運動において千年王国の信仰が大きな原動力になっていたことを見る時、内村の聖書信仰の質の健全さをよく示しています。第三に再臨信者に見受けられる「神癒」は否定しています。内村も熱烈な信仰と祈りによる奇跡は否定していません。しかし科学的な医療行為を不信仰の業、悪魔の所業とする姿勢は拒否しています。このように人間の働きの結果としての理想の実現、進歩の理想に絶望して、ただ神の働きの実現としての再臨による完成を信じると同時に、その中でなお科学的な姿勢を失わない科学者内村の面目が貫かれています。
もう一つ、内村の再臨信仰で重要な一面は、再臨信仰と復活信仰の結びつきです。内村は一九一二年一月に娘のルツ子の死に直面、キリストに結ばれて死んだ者は復活するという死者の復活の信仰に目覚めています。以後内村は地上のことに関心を失い、来るべき世、来世に望みを託し、来世のことを語ることが多くなります。内村はすでにルツ子の死から二年後の一九一四年に、『聖書之研究』誌上に「復活とその状態」を発表、その中の「信者の復活」の項で、イエスの復活を信じるキリスト者はイエスを復活させた御霊の力により終わりの日に死者の中から復活することを明言しています。時は熟していたのです。内村がベルの祈りと働きかけによって、再臨に関する聖書の箇所を読み直して再臨信仰に到達し、一九一八年に再臨を声高に叫ぶようになったのは、熟した果実が地に落ちた結果でした。内村は第二の転機以来、十字架上のキリストの贖罪を信仰の根底に据えていたのですから、この再臨運動においても「十字架と再臨」という講演をしたのは当然です。しかしそれ以前に「復活と再臨」と題して講演し、イエスの復活を根拠にして、イエスをキリストと信じる者は再臨と死者の中からの復活を共に信じるように求めています。一九一八年四月の『聖書之研究』誌上には、短い「贖罪と再臨」と長い「復活と再臨」の二つの文章が同時に掲載されています。
内村の再臨理解の重要な神学的側面が、再臨運動収束後の一九二〇年に行われた「キリスト再臨の二方面」と題する講演によく示されています。内村は「再臨には内外の二方面がある」として、一つは神の子が天の万軍を率い、その栄光をもってこの地に来り臨み給うことを外的再臨とし、これは聖書に記されている約束の言葉を信じることによる信仰であるとして、テサロニケ第一書簡の四章をあげています。もう一つは内的再臨と呼ぶべき再臨で、これは信者の中にすでに起こっている霊の働きが外に現れることを指し、ローマ書の八章十一節をあげて、信者の心霊内に築かれるものだとしています。この理解では、聖霊が将来の栄光の「保証」とか「手付け」として内に与えられていることになります(コリントU一・二二)。聖霊は内なる復活の保証であり、再臨の証明です。
わたしはパウロにおけるこの終末信仰の内外の二面を、用語の違いから見ることができると思います。最初期のエルサレム共同体やアンティオキア共同体は、天に登られたキリストが栄光の中にこの世界に来られることを熱烈に待望していました。その終わりの日の出来事を彼らは《パルーシア》(来臨)と呼び、その待望を福音の重要な部分として語り伝えました。その伝承がマルコ福音書の一三章とマタイとルカの並行箇所に伝えられている「人の子の来臨」の記事です。このような待望は当時のユダヤ教黙示思想の信仰であり、イエスご自身もこのような「人の子」の栄光の来臨という表象を用いて将来の栄光をお語りになったとユダヤ人弟子たちから伝えられて、最初期の信仰伝承となりました。パウロもその福音をエルサレム共同体やアンティオキア共同体から受けて、初期の福音活動のテサロニケではその《パルーシア》(来臨)信仰を宣べ伝えました。この機会に申し添えておくと、新約聖書には「再臨」という表現はありません。キリストが今まで知らない栄光の輝きをもって来られるのですから、それはすでに一度経験した到来の再度の繰り返しではなく、まったく新しい姿での到来ですから、「再臨」ではなく、「来臨」という別の用語で指し示されます。
 しかしパウロはアンティオキア共同体から離れて、独立してエーゲ海沿いの諸地域に福音を宣べ伝え、異邦人(非ユダヤ人)の集会を形成するようになってからは、この世界へのキリストの到来を語るのにもはや《パルーシア》(来臨)を使うことなく、もっぱら《アポカリュプシス》(顕現)を用いるようになっています。この時期にコリントの集会に宛てた手紙で、パウロはコリントの集会に「わたしたちの主イエス・キリストの《アポカリュプシス》(現れ)を待ち望んでいる」者たちの共同体として挨拶しています(コリントT一・七)。信者が「キリストの日」と呼んで待ち望んでいる終わりの日とは、今は世界におられないキリストが突然別の世界から来臨されるのではなく、すでに聖霊が信じる者たちの内に隠された形で始めておられる働きが露わな姿で現れる時であるのです。パウロがローマ書八章(とくに一八節以下)でキリスト者の希望を語るとき、現れるという動詞か、その名詞形の顕現という語を用いて語っています。内村はこの《パルーシア》を外的再臨、《アポカリュプシス》を内的再臨と呼んで、聖書には再臨の二つの面があるとしたのです。しかし、再臨運動の後に発表した『ローマ書の研究』からすれば、内村は黙示思想的《パルーシア》(来臨)信仰よりは、パウロの《アポカリュプシス》(顕現)待望の場に立って、聖霊の現実を重視していた、すなわち外的再臨よりも内的再臨を重視していたと言えます。終末の現実は聖霊によって信じる者の内に、聖霊によってすでに始まっているのです。この聖霊の現実が内村に「無教会主義」という来世的な主張をすることを可能にしたのです。

無教会信仰の根拠としてのキリスト信仰

わたしは先に「無教会キリスト教」という表現は矛盾であると言いました。それはキリスト教という宗教はキリスト教会の宗教であって、キリスト教会を離れてはキリスト教という宗教はないからです。キリスト教という歴史的制度的宗教は、二世紀から四世紀にローマ世界に形成されたキリスト教会の中に現れた一つの歴史的宗教形態です。キリスト教会の外にはキリスト教はないのです。ですから内村が洗礼を受けなくてもキリストを信じる者でありうると主張したとき、すなわちキリスト教会の外でキリストに生きる者でありうると主張したとき、その信仰はもはやキリスト教信仰、キリスト教という宗教の中でキリストを信じる信仰ではなく、キリスト教という宗教の外で、キリスト教とは関係なく、キリストに合わせられて生きるという、パウロが言う「キリストの信仰」《ピスティス・クリストゥ》そのものであったのです。それはキリスト教という宗教の成立以前にあって、キリスト信仰の共同体である《エクレーシア》を成立させていた信仰です。パウロが「人は律法(モーセ律法、ユダヤ教)規定の順守によってではなく、キリストの信仰によって義とされるのである」と主張したときの「キリストの信仰」です。
これは邦訳によく見られるような「キリストを信じる信仰」というような、キリストを対象とする信仰ではなく、キリストと合わせられキリストの中に生きる信仰です。パウロはこの事態を「キリストにあって」と表現しています。わたしはこの信仰を「キリスト信仰」と訳しています。「キリストにある」者は、割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、キリストにおける神の無条件絶対の恩恵によって義とされ、神の民として受け入れられているのだというのが、パウロの「無割礼の福音」です。内村が洗礼を受けてキリスト教徒になり、キリスト教の聖餐儀礼に与り、正統信条を告白していなくても、神の民、キリストの民でありうると主張したとき、すなわち「無洗礼の福音」を唱えたとき、それはパウロの「無割礼の福音」を現代に再現しているのです。パウロがユダヤ教の外にも神の民がありうると主張したように、内村はキリスト教の外にもキリスト信仰はありうると主張し、キリスト信仰をキリスト教と区別していることになります。内村は実質的には、「キリスト教の外のキリスト信仰」がありうることを主張しているのです。ところが内村はこのキリスト信仰をキリスト教と表現しているので、「無教会キリスト教」という矛盾した表現になってしまいます。キリスト教とキリスト信仰が区別されなくなったのは、長年のキリスト教支配の歴史の中で、欧米のキリスト教文明では両者の区別が見失われ、英語では "christian faith" という表現が両方を指すことになり、両者の区別が意識されなくなったからではないかと考えられます。
内村は無教会主義について語るとき、繰り返してこれは教会を否定したり教会は無くてもよいと主張しているものではなく、教会の働きとその歴史を尊重していることを語り、また実際にキリスト教会の歴史から熱心に学んでいます。教会は有益であり、神の御心によってこの世界に存在するものであることを語っています。しかし教会が「教会の外には救いはない」と主張して、教会とその宗教であるキリスト教を救いの条件とするとき、内村はそのキリスト教の絶対化を断固拒否して、教会の外でも、すなわちキリスト教の外でも救いはありうると主張します。内村はキリスト教を相対化しているのです。その価値を認め、その有益なるを知りながら、教会やキリスト教は自己を絶対化して、教会やキリスト教に加入することを救いの条件とすること、とくにある教派がその教派の形の儀礼や信条を受け入れることを救いの条件として絶対化することに激しく反対します。
教会や宗教を相対化するには、それに代わる絶対的な救いの根拠が必要です。その根拠を見出したときに、それまでは絶対に必要であった教会とか宗教が、あってもよいし無くてもよいと相対化されるのです。パウロは「キリストにあって」神の無条件絶対の恩恵を体験したので、ユダヤ教徒の特典はあってもよいし無くてもよいと、ユダヤ教を相対化したのです。内村も若き日に回心を体験、自分の決意とか信仰の強さではなく、自分に関係なくキリストにおける神の働きだけに委ねることを学んでいたので、当時ではキリスト信仰の唯一の形であった欧米のキリスト教を相対化して、その外にキリスト信仰がありうることを主張することができたのです。内村の無教会キリスト教は、キリストにおける神の絶対恩恵を根拠にして、歴史的なキリスト教を相対化した、宗教史上きわめて重要な出来事であったと考えられます。