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第二節 キリストを必要とする仏教

阿弥陀仏と浄土の信仰

大乗仏教では、ブッダの前世における呼称である「菩薩」(悟りを求める者を意味するボーディサットバの漢訳)を理想的な人間像としました。そのような理想を追求する菩薩の信仰集団は、出家僧の集団の「サンガ」に対して、「菩薩ガナ」と呼ばれます。その中で生まれた経典「無量寿経」によると、その菩薩の一人の法蔵比丘が過去世に世自在如来のもとで四八の誓願をたて、長期間の修行を果たして阿弥陀仏となり、極楽浄土の主となっています。そして阿弥陀仏はその浄土への往生を願う衆生をそこに摂取するという信仰が表明されています。その四八の誓願のうちの第一八願は、阿弥陀仏を念ずれば極楽往生ができるというもので、後世の中国や日本の仏教では称名念仏の根拠とされるようになります。この阿弥陀仏は、サンスクリット語では amita-bha(無量光)、amita-yus(無量寿)として現れますが、この名の前半部のamita(無量、無限)がこのアミダ(阿弥陀仏)の語源と考えられます。
大乗仏教では、釈迦が悟りを開いたブッダとして崇拝され、釈迦如来として神格化されて、その人間を超えた本性を指し示す様々な様相がその像に附されて拝まれます。「如来」というのは「そのようなもの(如、真理そのもの)として来たる者」という意味のサンスクリットの漢訳で、ほぼブッダ(悟りに達した者)と同じ意味です。そして大乗の様々な信仰内容を表現する様々な如来が、信仰の対象として拝されることになります。大乗仏教では釈迦如来の他にも様々な如来が神格化されて拝まれることになりますが、その中で代表的なものは、ここであげる阿弥陀如来(阿弥陀仏)と、密教で中心になる大日如来でしょう。大日如来(そのサンスクリットの音訳がマカビルシャナ仏、または略してビルシャナ仏)は、その智慧の光明が一切に及び、慈悲の活動が永遠不滅とされ、すべての諸仏諸菩薩はこの如来から出生するとされます。
大乗仏教の主要な流れを形成することになる阿弥陀仏への信仰はインドで形成されるのですが、その形成は一世紀から三世紀にかけてインドから中央アジアの広い地域を支配したクシャーナ朝の時代ではないかと推察されます。クシャーナ朝はその三代目の王カニシカが都をガンダーラ地方の現ペシャワール(パキスタン北部)に置き、仏教を厚く保護したことで有名ですが、その支配地はインド系、イラン系、ギリシア系、中央アジア系の諸民族が住み、民族と文化の融合が進み、その貨幣にはそれらの民族の文字や神々の像が用いられたということです。クシャーナ朝の時代のインド西北部では上座部(小乗)仏教が行われていましたが、新たに起こった大乗仏教もこの地の諸民族に受け入れられ、大乗仏典も多く編集され(大乗仏典の多くは二世紀から三世紀の時期に成立しています)、ギリシアの造形思想と技術によってこのガンダーラ地方で仏像が造られるようになります(仏像については前節を参照)。この王朝の領地にはゾロアスター教が広まっており、イランのメシア思想も加わって、衆生を救済する仏として無量光の阿弥陀仏がイメージされるようになったのでしょう。

阿弥陀仏信仰を説く阿弥陀経と無量寿経は、クシャーナ朝の時代、一世紀の中頃までに北インドで成立したと推定されています。この時代には金貨が多く鋳造されて流布し、金に対する憧憬が普及、または宝石類に対する願望も強く、本来静寂な極楽は、この時代の富裕層の願望を反映してか、金銀宝玉の極彩色で描かれることになります。この阿弥陀経と無量寿経および少し後に成立した観無量寿経の三書は、日本では「浄土三部経」と呼ばれて、浄土信仰の基本聖典とされています。そのサンスクリット原文からの邦訳および漢訳とその漢文書き下ろし文は、岩波文庫の『浄土三部経』上下二巻(中村元、早島鏡正、紀野一義訳)にあります。下巻の巻末には中村元の詳しい解説が付されています。

紀元一世紀に北インドで成立したと推定される阿弥陀経は、まず阿弥陀仏がいる極楽の素晴らしさを説き、次にその極楽に生まれるために阿弥陀仏の名号を保持することを勧め、最後に諸仏がこの説を賛嘆することを述べて、阿弥陀仏を信じ帰依するように説き勧めます。浄土とはもともとブッダが住む清浄な仏国土を指し、汚れた凡夫が住む穢土と対比されます。インドには宗教的理想郷を浄土として表現することはありませんでしたが、仏教が中国に伝わると、中国仏教では阿弥陀仏の仏国土である極楽が釈迦如来の仏国土と同一視されて、極楽浄土という表現で仏教信仰の到達点を指すようになったようです。中国では他にも浄土を説く経典が多く流布するようになります。最初は未来仏のミロク菩薩のミロク浄土の信仰が現れ、次に浄土経典として東方のアシュク仏の浄土を説くものが現れます。それに次いで西方のアミダ仏の浄土としての極楽を説く浄土経典が現れます。それには般舟三昧経、無量寿経、阿弥陀経、観無量寿経などがあります。浄土経典は、浄土の美しさと素晴らしさを蓮池や華麗な衣装や宝石などで描いていますが、女性もいるアシュク仏の東方の浄土もあれば、男性だけが生まれる(女性は男性に生まれ代わる)アミダ仏の西方浄土もあるというように、浄土にも様々あるようです。中国で浄土信仰が広く流布するようになると、本来は浄土思想と関連がない法華経に基づいて、その経が説かれたとされる霊鷲山の霊山浄土が説かれるようになり、さらに華厳経によって東北の文殊浄土や南方の補陀落山の観音浄土が説かれるようになります。

救済者への帰依(バクティ)と他力信仰

先にインドの宗教史を扱ったところで、ヒンドゥー教には「バクティ」と呼ばれる宗教的伝統があることに触れました(本書四三九頁の「インドの宗教 ー ヒンドゥー教の歴史」と四四三頁の「ヒンドゥー教における信愛(バクティ)」の項を参照)。バクティは普通「信愛」と訳されています。ヒンドゥー教は多神教であり、多くの神々が信仰されていますが、その中で宇宙の創造者であるブラフマー神、その宇宙を維持するビシュヌ神、それを破壊し再生させるシバ神の三神が、主要神格として崇められます。しかしブラフマー神はあまりにも尊くて遠い神、無為の神として敬遠され、実際に公の場や家庭で供物を捧げて礼拝されるのはビシュヌ神とシバ神の二神となります。
前述したように(本書四四一頁)、四世紀に全インドを統一したグプタ朝はインドの民族主義的傾向の強い王朝で、インド民族の宗教であるヒンドゥー教を奨励し仏教を抑圧したので、この王朝期には仏教は衰退に向かいます。この王朝の初期に成立した二つの長編叙事詩「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」は、それまでの古代インドに伝承されてきた多くの神話、伝説、物語、詩歌、そして宗教詩などを集大成したもので、インドの国民文学の代表的な作品として最高のインド古典となっています。とくに前者の「マハーバーラタ」は当時のヒンドゥー教の百科全書的な作品となり、ヒンドゥー教の法制や民俗や宗教思想を理解する上で重要な資料となっています。その長大な叙事詩の第六巻の中に「バガヴァッド・ギーター」と呼ばれる宗教詩が含まれています。「バガヴァッド・ギーター」というのは「尊い神の歌」という意味の表題で、元来はある部族の英雄神クリシュナを信仰する非バラモン的宗派、バーガバタ派の聖典であったようです。バーガバタ派がクリシュナをビシュヌ神の権化(化身)の一つと位置づけていたので,正統バラモン文化の中に吸収され,その聖典が「マハーバーラタ」の一部として取り入れられることになります。「バガヴァッド・ギーター」の部分は「マハーバーラタ」の中でも比較的早い時期に成立したとされ、一世紀ころの成立と考えられています。
この詩編は,親族同士が殺し合う大戦が始まろうとするとき、最強の戦士アルジュナは敵方にいる親族,朋友を見て動揺し戦意を失うという場面で、この戦士アルジュナに対し,その馬車の馭者の姿で現れたクリシュナが、何事も顧みることなく自分の本分を尽くすべきことを説き,彼に戦闘を決意させようとする言葉として歌われています。クリシュナは、人間の本体すなわち個我は永遠不滅であり、肉体のみが生滅するのだから、殺すとか殺されるとかの相対に煩わされることはないと説きます。そして、自らの欲望からではなく、また事の成否や報酬の有無などを顧みることなく、各人の本務を行うなら、それは解脱への道であるとも説きます。アルジュナはクシャトリ(王族、戦士)であるのだから、その本務は戦うことであると諭し、さらにその無欲の行動をだれにも可能なものとする神への信愛(バクティ)の道,すなわち神に帰依し,結果は神にゆだねて行動するように説き、戦士アルジュナを励まします。このようにこの詩篇には、ヒンドゥー教の基本的な身分制である四種姓(カースト制、バルナ)を前提にして、一神教的なバクティ、すなわち自分が至高の人格神とする神への信愛、帰依を説く言葉が溢れています。煩雑な哲学的教義やこの世ばなれした苦行ではなく、このようなバクティがすべての人を解脱へ導くのですから、この詩篇「バガヴァッド・ギーター」はヒンドゥー教の各派の人たちに広く受け入れられて、ヒンドゥー教の敬虔を代表する詩篇となります。

「バガヴァッド・ギーター」の邦訳には、岩波文庫に上村勝彦訳で『バガヴァッド・ギーター』があります。その邦訳には訳者による詳しい注と解説も加えられています。なお、このバガヴァッド・ギーターがインドにおける大乗仏教の成立に与えた影響については、この訳者による別著『バガヴァッド・ギーターの世界 ー ヒンドゥー教の救済』(上村勝彦著、ちくま学芸文庫)が、大乗仏典の多くの箇所にバガヴァッド・ギーターの詩句や思想が引照されていることを指摘しており、たいへん示唆的です。

阿弥陀経や無量寿経などの大乗仏教の経典が一世紀に成立したということは、それ以前に大乗仏教の運動がインド社会に進展していたという事実を指し示しています。一方、「バガヴァッド・ギーター」も一世紀には成立していたとすれば、それ以前にインド民衆の宗教に「バクティ」(神への信愛、帰依)の気風が浸透していたことが考えられます。両方とも、複雑な宗教教理の論争や出家修業者の禁欲的苦行を避けて、この現実の世界に生きる多くの民衆に生きる宗教的根拠を与えようとする運動であり、自分を超える神的存在への依存によって救済を追求している点、すなわち自分を超える他者の存在とか働きに救済を求める他力信仰である点で共通しています。大乗仏教の成立の機縁には諸説がありますが、「バガヴァッド・ギーター」に代表される一世紀前後のインド人の「バクティ」の宗教的地盤が、仏教徒のインド人に大乗仏教運動を引き起こさせたのでないかと考えられます。大乗仏教はブッダの教えではないとする「大乗非仏説」論は、大乗仏教運動の当初から繰り返し現れ、初めから大乗仏教の国である日本でも江戸時代になって富永仲基によって唱えられたことは先に紹介した通りです。しかしブッダとなった釈迦の教えがどのようなものであったにせよ、仏教が広く一般社会の大衆を救済する宗教を目指す限り、救済者としての「ほとけ」を立てるようになることが必然的であったことは、先に附論第一章で見た通り、インド、中国、日本の宗教史がよく示しています。

立川武蔵『ブッダからほとけへ ー 原典から読み解く日本の仏教思想』(岩波書店 2013年)は、インドに起こり中国や日本など東アジアに広まった仏教という世界宗教の中身と性格を、その歴史的展開を追うことで、二〇〇頁ほどの小著ながらよくまとめています。その内容は「ブッダからほとけへ」という表題が指し示しているように、悟りへの教師としてのブッダから、救済者としての「ほとけ」が生まれてくる必然性をよく描いています。紀元前五世紀頃という昔にインドの釈迦が苦しみの中にいる人間がその苦しみから脱出(解脱)する方法(道)を見出して悟った者(ブッダ)となり、その道を周囲の人たちに説いて多くの追随者を得て、同じように修行する者たちの集団、すなわち「サンガ」を形成します。初期にはブッダは出家した修行者たちのモデルとして尊敬されていたのですが、数百年後の前一世紀ごろから、少数の修行者たちだけが到達しうる悟りの境地よりも、この現実世界に生きる大衆の救済を重視する大乗仏教の運動が起こり、ブッダがもはや単なる出家修行者の師ではなく、神聖化されて信仰の対象として崇められるようになります。ブッダが説いた真理を体現する超自然の存在が「如来」ですが、その如来が人間を救う「ほとけ」として礼拝されるようになります。大乗仏教ではその宗教思想を表現する多くの経典が生み出され、そこでは釈迦は釈迦如来として礼拝され、他にも信仰の対象としての多くの如来(ほとけ)が信仰されるようになります。その代表的な「ほとけ」が阿弥陀如来(阿弥陀仏)です。この阿弥陀仏を信じ、そのほとけを信じる者を迎える清浄な仏国土を信じる浄土信仰が大乗仏教の大きな流れとなります。さらに、その後に起った密教が大日如来を中心にすべての「ほとけ」をシステム化して「マンダラ」と呼ばれる「ほとけ」の宇宙空間を現出させます。この『ブッダからほとけへ』という著作は、こうした悟りの師としての「ブッダ」から信仰の対象としての「ほとけ」へ移行していく仏教の姿をよくまとめていると思います。

キリストを要請する阿弥陀仏信仰

以上に見たように、仏教が万人の救済を目指す以上、阿弥陀仏のような救済者を必要とし、阿弥陀仏によって救済された者の共同体、浄土を目標とするようになります。もし「キリスト」を人類の救済者を指す称号であるとすれば、阿弥陀仏は仏教におけるキリストです。しかしこの仏教におけるキリストである阿弥陀仏は、人間の思想の中にあるキリストです。人間はそのような超越者とその働きを前提することによって、その超越者の慈悲とか本願を自分の救済の根拠とすることができるのです。そのようなことができるのは、救済を受けるためには自分では何もできないのだという自覚、無の立場で超越者の慈悲を受けるほかはないのだという自覚をもって、その超越者の慈悲と本願を受け取る者だけです。この超越者の慈悲とか本願を無条件に、そして全身的に受け取る人間のあり方が「信仰」であり、救済者である阿弥陀仏への「帰依」となります。仏教ではこの阿弥陀仏への帰依を「南無阿弥陀仏」という名号で表現することになります。
このように阿弥陀仏による救済を可能にするのは信仰です。インドで成立した大乗仏教とその経典は中国に伝えられ、中国の仏教史の中で展開した大乗仏教各派の仏教が日本にも伝えられます。奈良時代に伝えられ平安時代に発展した日本の仏教は鎮護国家の宗教でした。しかし鎌倉時代に入ると仏教は大きく変革され、それまでの国家宗教から個々人の救済を中心主題とする宗教に変わっていきます。先に附論第一章の第三節「日本の宗教史」で見たように、平安末期の末法思想を経て日本の仏教に源信や法然の浄土信仰が現れ、鎌倉期には親鸞や一遍の布教により時代の大きな潮流になっていきます。その革新された仏教の基本路線は、法然の『選択本願念仏集』によって定められたといえるでしょう。法然は、末法乱世の現実世界で苦悩する庶民のすべてに救いを与えるにはどうすればよいのかに苦悩し、仏教に現れる多くの「ほとけ」の中から阿弥陀仏だけを選びとり、その一仏に対して「念仏」の一行を貫くことが救いであるとする易行の道を見出したのです。これはまさに大乗仏教運動の基本的動機にほかなりません。この一仏一行の選択は親鸞らによって継承され徹底されることになります。一仏一行を選択して、その唯一の超越者に無条件に帰依する信仰の宗教となった鎌倉仏教は、日本の仏教が一神教宗教にもっとも近づいた時代であったと評する学者もいます。
法然の専修念仏にはまだ観相の念仏という面が残っていました。観相というのは、対象に思いを凝らし、その姿を想い描くことを意味しますが、とくに浄土教では阿弥陀仏や浄土の具体的様相を想起する念仏(阿弥陀仏への心の集中)を指します。観念とも言います。法然の浄土信仰を継承した親鸞は、東国における農民たちへの布教の経験からか、易行の道をさらに徹底して、口称念仏だけで救われるとしました。それは、ほかに何の行がなくても、ただ口で「南無阿弥陀仏」と唱える念仏によって、その信仰が阿弥陀仏の本願にかない、浄土に迎えられるとしたのです。親鸞は、煩悩にまみれ苦悩の中にある自分を直視して、そのような無価値の人間を無量無限の慈悲から浄土に迎え入れる阿弥陀仏の本願だけを救済の根拠としたのです。その本願に全存在を委ねる「信」だけを救済の道としたのです。親鸞晩年の主著『教行信証』でも第六巻の信巻が中心です。弟子の唯円もその著『歎異抄』で親鸞の言葉として、「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」という言葉を伝えています。有名な悪人正機の説です。このような信仰だけによる救済は、まさにイエスやパウロが告知した恩恵だけによる救済の福音の核心です。親鸞はこの核心に到達していたのです。
ただこの信仰による救済が根拠としている阿弥陀仏の無量無限の慈悲とか本願は、それを信じる者の内面の思念にあるだけで、人間の存在と歴史の中にその働きの確固たる実現をもっていませんでした。仏教におけるキリストである阿弥陀仏は、キリストの必要を指し示していましたが、人間の歴史の中に現れたキリスト、すなわちキリストとして現れたナザレのイエスを知るに至っていませんでした。たしかにアジアの仏教圏の諸国にもキリスト教は伝えられてきました。中国には、先に見たように、すでに七世紀には景教という形でキリスト教が伝えられています。しかしアジア諸国では民族宗教の国家あるいは制度化して体制宗教となった仏教教団によって、キリスト教は外来宗教として排除されてきました。キリスト教という宗教は排除されても、キリスト出現を告知する福音は、歴史がある限り世界の諸国民に伝えられなければなりません。