市川喜一著作集 > 第24巻 福音と宗教U > 第25講

附論 第二章 働きとしての神と仏教

第一節 仏教の基本的性格

T 仏教の成立と歴史的展開

仏教国としての日本
この国が仏教を主要な宗教としていることは、葬儀の風習を見ればわかります。社会でどのような立場で活躍していても、亡くなればその家族は当然のように仏教式で葬儀を行います。葬儀は仏教の僧侶が取り仕切って、仏教各派の形式と習慣に従って行われます。家ごとに仏壇が置かれ、そこで先祖の一員として祀られ、仏教の習慣に従って法事が執り行われます。実際の葬儀には、先祖を祀る儒教の思想が色濃く取り込まれているようですが、すべて仏教の儀礼として執り行われます。実際の葬儀を担当する葬儀会社には、仏教式の葬儀の他にキリスト教式の葬儀や神道式の葬儀も用意されていますが、やはり仏教式の葬儀が圧倒的に多いようです。生前キリスト教会に所属していた人の葬儀は、その教会で牧師や神父の司式で行われますが、キリスト教徒の数が一パーセントという日本ではごく少数です。また、日本の各地に神社は数多くあり、古くからの地域社会の伝統を表現する祭りによって、日本人の多くは地域の伝統や結合を体験してきました。しかし神道式で葬儀をするのは、天皇家とか神職の家など、ごく限られた立場の人だけのようです。
現代の日本の葬儀がこのように圧倒的に仏教によるものとなり、それが当然のようになっているのは、江戸時代の幕藩体制が全国に強制した「檀家制」によります。江戸幕府はキリシタンを禁圧するために檀家制を設け、すべての家と人を特定の仏教寺院に登録することを命じました。ある人が密告されたりしてキリシタンと疑われたとき、檀家寺の僧が自分の寺の檀家であってキリシタンでないと証明する「寺請制」を設けました。この檀家制によって仏教寺院は檀家の葬儀を司ることが当然となり、寺は全住民の生前と死後の戸籍係となり、経営は安定しますが、幕府の統制下に服すことになります。この檀家制による仏教寺院と住民の結びつきは明治以後も続き、第二次大戦後の憲法によって信教の自由が保証された時代にも、何の根拠もなく惰性的に続くことになります。
では、このように全住民の死生を司る仏教は、人間が生きる意味と死や死後の問題について、どう教えているのでしょうか。この仏教の教義や思想の影響下にある仏教国日本の人々にキリストの福音を告知する働きは、仏教という宗教に対してどのように関わっていくことになるでしょうか。この問題を考察する前提として、仏教という宗教が何をどう説いているのかを、できる限り簡潔にまとめてみたいと思います。

仏教の成立とその基本的性格

仏教については本書附論第一章の第一節で、インドにおける仏教の成立とその発展としての大乗仏教の成立についてごく簡単に触れました(本書四四〇?四四一頁)。またその第二節で、その大乗仏教が西域を経由して中国に伝えられ、中国の歴史の中で展開して、漢訳の中国仏教を形成したことも略述しました(本書四五九頁以下)。そのインドで成立し、中国の長い歴史の中での展開を経た大乗仏教が日本に伝えられて、日本の歴史時代のほぼ全体を貫く主流の宗教となり、日本を大乗仏教の国とした歴史については、本書附論第一章第三節の「日本の宗教史」でやや詳しく見てきました(本書四七〇頁以下)。ではこの仏教という宗教が、とくに大乗仏教が何をどう教えているのかを見たいと思いますが、仏教は前五世紀に成立して以来、二五〇〇年に及ぶ長い歴史の中で実に様々な経典を生み出し、複雑な発展をしてきた宗教であって、その方面の専門家ですらその全容を見ることが困難な対象ですから、浅学非才の門外漢が取り組める相手ではありません。しかしこれからこのような仏教によって形成されてきた東アジアの仏教圏にキリストの福音の告知がなされる必要がある以上、その宗教の基本的な性格と、それに対応する福音活動の在り方を考えなければなりません。
仏教はもともと神を立てない宗教だと言われています。仏教の創始者、インドの釈迦は神が在るとか無いというような形而上の議論を戒め、もっぱら人間が輪廻とか煩悩の苦悩から脱する道を追求し、過ぎゆくものに對するあらゆる愛着の炎を断ち切った境地、「ニルヴァーナ」(涅槃)に達して、それを悟りとして説きました。そして、その境地に達するための実践として、禁欲の苦行と快楽の追求という両極端を避け、中道をいく「八正道」を説いたと伝えられています。釈迦の悟りの境地とその実践的な教えは、多くの人たちに信奉されて、釈迦は悟りを開いた人として「ブッダ」と呼ばれるようになり、ブッダの教えに従って出家して修行する弟子の集団、「サンガ」が成立します。出家して修行することは、インドでは通常の宗教的求道の形であり、釈迦もその一人であり、弟子たちも出家してサンガ(出家集団)を作ります。ブッダが到達し、弟子たちがサンガで追求した悟りとは、真実をありのままに見ることであり、真理の直観です。この真理が「ダールマ」(法)とよばれ、ブッダの教えはその真理を内容とするので「ダールマ」と呼ばれます。こうして悟った者を指すブッダが創始した宗教が、ブディズム(仏教)と呼ばれ、その宗教の信者がブディスト(仏教徒)と呼ばれることになります。

仏教の歴史的展開

仏教教団は出家信者の共同体であるサンガと在家の信者とから成り立ちますが、サンガを構成する出家者の男女(比丘と比丘尼)には厳しい戒律が多数課せられます。在家信者の男女は、入信に際して仏(ブッダ)・法(ダールマ)・僧(サンガ)の三宝への帰依とごく基本的な五戒の順守を誓わせる他は、特別の戒律はありません。初期の仏教教団には書かれた経典とか信条などはなく、信者の集まりで口頭で伝えられたブッダの教えの言葉が伝承されて、悟りへの導きとなっていたようです。仏教教団はブッダの入滅後の一〇〇年ほどは統一を保っていましたが、その後信者の集まりで上座を占める保守派と、進歩的改革派の大衆との間に対立が生じ分裂し、上座部と大衆部となります(根本分裂)。その後の二、三百年にわたって二つの部派内にさらに分裂が生じて、仏教教団は二〇の部派に分かれます。この時代の仏教を部派仏教の時代と呼びますが、この時期の仏教は部派ごとに教理の研究(アビダルマ)を競ったので、アビダルマ仏教とも呼ばれます。
釈迦は生前、自らの使命を病に応じて薬を施す医者にたとえて、人々の苦悩を観察し、その由来を突き止め、それを断つ方法を教えることであるとしていました。釈迦は苦の原因を過ぎゆくものへの愛着であるとして、その愛着の炎を消し去るニルヴァーナ(涅槃)の境地を説いたのですが、釈迦の入滅後は状況が徐々に変わっていきます。イエスは復活によってキリストとされたのですが、釈迦は悟りによってブッダ(悟った者)となり、後世の弟子たちによって理想化され、神格化されるようになります。悟りは存在の実相をあるがままに直観すること、すなわち真理を悟ることとなり、それを悟って説いたブッダが理想像となり、その教えが部派ごとに詳しく研究(アビダルマ)されて、様々な教説となってアビダルマ仏教の時代を迎えることになります。存在の実相は「縁起」の法によるものであることがブッダが説くところですが、この「縁起」については後で触れることになります。
この部派仏教の時代に起こった注目すべき出来事は、アショーカ王の仏教帰依と王による仏教の拡大です。アショーカ王は古代インドのウマリヤ朝三代目の王で、前三世紀の半ばに三十五年ほどの長きにわたって在位します。彼は父王の死後、兄弟と争って王位を継承、武力によってインド亜大陸の大部分を統一します。しかしその過程における戦いで多くの犠牲者を出し、それを悔いて仏教に帰依したと伝えられています。彼は武力征服政策を放棄、ダールマ(法)に基づく統治を進めます。彼は仏教を厚く保護し、ブッダの遺骨を納める仏塔を各地に建て、経典の編集事業を援助、さらに辺境への伝道活動を進めます。王子によって南のスリランカに仏教を伝え、この時以来スリランカは上座部仏教(大乗仏教以前の仏教)の国となります。アショーカ王は西の辺境にも伝道者を派遣しています。少し後に(前二世紀中頃)、インド北西部の支配者となっていたギリシア人の王メナンドロスが仏教の長老ナーガセーナと交わした問答が「ミリンダ王の問い」(ミリンダ経)という形で記録され、メナンドロスは問答の結果、仏教に帰依したと伝えられています。仏教の西方への拡大によって、ヘレニズム文化の中心地アレクサンドリアにも仏教が伝えられ、後にキリスト教の形成に影響を与えたという説も出てきます。

『ミリンダ王の問い』は、「インドとギリシアの対決」という副題をつけて、中村元・早島鏡正訳で平凡社の東洋文庫に収められています。これは詳しい注をつけた経典の翻訳で、一般の読書家には通読が困難ですが、読みやすくまとめた書として、森祖道・浪花宣明共著『ミリンダ王 ー 仏教に帰依したギリシア人』(清水書院)があります。古代におけるインド宗教とギリシア思想の接触の記録として、興味深い文献です。

大乗仏教の成立とその展開

釈迦の入滅後に起こった変化の一つは、火葬された釈迦の遺骨が分けられて、各地の信者がその遺骨(シャリ)を納める仏塔(ストゥーパ)を中心に集まり、ブッダを神格化して、信仰の対象とする動きが生じてきたことです。これはおもにブッダを讃仰する在家の信者、大衆部の中に起こった動きですが、これが大乗仏教運動となって、仏教に大きな変革を引き起こすことになります。
部派仏教の時代には部派ごとに発達した複雑な議論による教説アビダルマによって仏教は哲学化し、煩雑な議論に没頭して宗教的生命の枯渇を招くようになっていました。それに対抗して、仏塔を中心に集まっていたブッダ讃仰の在家の信者たちは、仏教を出家者の小さい集団に限定することなく、広く一般大衆が近づける宗教にしようとして、前一世紀頃から新しい信仰運動を開始します。彼らは自分たちの信仰運動を、あらゆる人々の救いを目指す大きな乗り物という意味で「大乗」と称し、これまでの旧仏教を限られた出家者だけの小さい乗り物という意味の「小乗」と呼んで批判、蔑視します。この改革的な信仰運動は急速に広まり、二世紀頃までに彼らの主張を盛った多くの著作や文書を、新しい信仰の規範として生み出します。これが般若経、法華経、華厳経、阿弥陀経などの大乗経典群です。これらの経典はみなブッダが語った教えの言葉としていますが、実際はブッダから五〇〇年ほども後の時代に、大乗仏教運動が生み出した文書です。
この大乗経典の作成には、この運動に賛同した一部の出家修行僧も参加し、運動の理論的指導者となって、釈迦の遺骨よりも経典を崇拝するように説き、大乗仏教に経典信仰を普及させます。大乗仏典は紀元後の二世紀間ほどに成立した文書であり、歴史的事実としてはブッダの教説(仏説)を直接書き記した文書ではありませんが、ブッダが言うべくして説かなかった真意が示されていると唱え、それらの経典を仏説として信受するように求めています。大乗仏典は、キリスト教における聖書信仰のような経典信仰の性格を仏教にもたらします。大乗仏教では、悟りを得るための真実の智慧、あらゆるものごとを見通す見識を意味する「般若」が求道の根底として重視され、すべての実在世界が「空」であることを知る智慧を説く各種の般若経が出ました。その中で簡潔に要約された般若心経が一般に広く用いられるようになります。三世紀前半に出たナーガルジュナ(龍樹)が、般若経群の空の思想を哲学的に基礎づけて『中論』を著し、後世の仏教思想に大きな影響を与え、「八宗の祖師」と仰がれるようになります。その後にも四世紀のインドにはアサンガ(無著)とバスバンドゥ(世親)兄弟のような学者が、大乗経典を解説して、大乗仏教の進展に貢献しています。
大乗仏教の基本的理念は、慈悲に裏打ちされた空の立場にあります。空というのは、理論的にはあらゆるものはそれ自体の固有の実体をもたないものであるという認識であり、それゆえ実践的にはなにものにもとらわれない心で行動する無執着な者であれ、ということになります。また、ブッダに絶対的に帰依し、かつ自己のうちにブッダとなりうる可能性(仏性)を認め、それを体現することを目ざします。そのためには般若の智慧と、方便の慈悲とを兼ね備えることを目ざし,とくに他人に対する善きはからい(利他行)を第一の眼目と考えます。
ナーガルジュナ以後も大乗経典の作成は続き、如来蔵経、勝鬘経 、涅槃経などを生み出し、「大乗起信論」などの大乗を総合する論説も出ています。しかしこれらの経典に明示された教説(顕教)が精密に理論化されるようになったとき、民衆の宗教的な欲求に応える新しい宗教運動として、五世紀頃から大乗仏教の中に密教(教団には秘匿された教説や行法があるとする教派)が行われるようになり、その中で七世紀には大日経や金剛頂経が生まれます(密教については本書四六一頁参照)。密教には、ベーダ以来のインド的な言葉がもつ呪力に対する崇拝の要素が仏教に加えられています。真言(マントラ)はもともとバラモンが独占したベーダ宗教の呪力をもつ言葉のことです。
大乗仏教が後に中国と日本に伝えられて、両国の宗教史に大きな影響を与えたことは、すでに見ましたので繰り返しは避けます。その歴史から見て注目されるのは、このインドでの大乗仏教成立の際、浄土信仰が生まれて阿弥陀経などの経典を生み出したことです。大乗仏教運動が少数の出家者の仏教から多くの在家の人たちの仏教にしようとした運動ですから、当然といえば当然の結果でしょう。しかしこの浄土信仰の成立とその歴史的進展は、人間の宗教的な営みが福音に向かうことを指し示す歴史的な指標として重要です。次節で浄土信仰の成立が何を意味するのかを振り返って見たいと思いますが、その前に仏教で一般的に広く用いられる仏像について考察しておきます。。

U 仏教における仏像

はじめに ー 仏像の問題

欧米のキリスト教諸国からキリストの福音を宣べ伝えるためにアジアの仏教諸国に来た宣教師が最初に直面するのは、寺院に詣で仏像の前に拝跪して礼拝を捧げる民衆の姿ではないでしょうか。仏教国には寺院と仏像が満ちています。仏教が体制宗教となっている国や地域では、仏教と仏像は切り離せません。この附論「福音と仏教」では、これまで仏教の教理や思想の特質を見てきましたが、実際の宗教としての仏教は、その深遠な人間理解の思想ではなく、仏像を拝む宗教だと誤解されても仕方がないような状況ではないかと思います。アジアの仏教国にキリストの福音を宣べ伝えようとする者は、仏教における仏像のもつ意味を正確に理解しておく必要があると思います。そのために仏像の起源からその形態まで、その宗教的意義についてごく簡単にまとめておきましょう。

仏像の起源

仏教は悟りを開いてブッダとなった釈迦の布教活動から始まります。釈迦は悟りを開いてから八十歳で入滅するまで四十年余り、現在のネパールを含むインド各地に布教、その教えに従って悟りの境地を追い求める多くの弟子を集めます。釈迦の没後弟子たちは、出家して修行に励む出家修行者の集団である《サンガ》(僧)を中心に、《ブッダ》(仏)が説く《ダールマ》(法)を追求する在家の求道者を含む宗教運動を展開します。インドのヒンドゥー教社会に起こったこの特別の宗教運動が「仏教」と呼ばれるのですが、この仏教の初期の段階では仏像はありませんでした。仏・法・僧の三つを「三宝」として敬う内面的な宗教運動であり、ヒンドゥー教の四姓制(カースト制度)を克服する革新的な宗教運動でした。この段階では、釈迦を敬う気持ちから、その教え(法)を車輪の形で象徴して図像にしたり(法輪図)、釈迦の足跡を掘った石を仏足石として崇めたりしていました。
ところが釈迦の没後数百年後に起こった大乗仏教運動は、前述したように、釈迦の遺骨を分けて収めた各地の《ストゥーパ》(仏塔)を中心に集まった大衆部の弟子たちの間に起こった、仏教の大改革運動でした。大乗仏教運動は、出家して修行することができる少数のエリートのための仏教ではなく、現実の世に生活する多くの人たちに救済を約束する仏教を追求したのでした。この大乗仏教運動は、修道僧のルターがただ信仰だけで神に義とされて受け入れられる恩恵の場を見出して、修道院から出て妻帯し、一般の社会生活の場で神の恩恵の場に生きることを唱えた、あの十六世紀ヨーロッパの宗教改革を予告する運動であった面があります。その大乗仏教運動では、釈迦はもはや悟った者《ブッダ》として、修行して悟りの境地にいたる方法を教える教師ではなく、その悟りを追求するすべての求道者を慈悲をもって顧みて救済する大悲大能の救済者、すなわち如来(ほとけ)でなければなりません。大乗仏教運動で、釈迦は「釈迦如来」として神格化されて、人間の《バクティ》(帰依)を受ける対象となります。
大乗仏教運動が進展した一世紀から三世紀のインドは、クシャーナ朝の支配下にありました。この王朝は一世紀半ばから三世紀前半にわたる期間、インド北部から中央アジアにかけての広い領域を支配した古代王朝で、その支配地域にはインド系、イラン系、ギリシア系、中央アジア系の諸民族が住んでいました。その王朝の三代目のカニシカ王は二世紀前半に在位、ガンダーラ地方(現パキスタン北西部)を本拠として中央アジアからインド中部にまで支配を広げ、この王朝の最盛期を築き上げます。カニシカ王の時代のインドには小乗仏教とともに大乗仏教も広く行われるようになっていました。王の部族はもともとペルシャ・イラン系の神々を信じていましたが、カニシカ王は仏教を信じるようになり、首都(現パキスタンのペシャワール)の郊外に大きな仏塔を立てたり、仏教経典の編集を援助したりして、仏教を手厚く保護するようになります。この王朝の領地にはギリシア系の民族もいましたが、彼らは信じる神々の像を作ることを当然とする民族ですから(ギリシア人の諸都市には神々の像が満ち溢れています)、彼らの造形美術の志向と技量が、ブッダ自身をはじめ仏教信仰において神格化されて民衆の帰依を受けていた如来やほとけの像を作らせたのは自然の勢いでしょう。仏像にギリシア風の容貌が見受けられるのも、このような事情からでしょうか。このように仏像はガンダーラ地方から始まりますが、クシャーナ朝がその支配をインド中部まで広げるにおよんで、その拠点となったマトゥラー(ニューデリーの東南)でも仏像製作が行われるようになります。このマトゥラー仏像はその地の赤色砂岩を素材にしているので、容易に判別できるとのことです。
仏像が製作されるようになったのが、インドに大乗仏教運動が進展する時代と重なっているので、大乗仏教と仏像の起源との間にどういう関係があるのかが問題になります。釈迦を神格化する傾向はすでに小乗仏教の時代に始まっていましたが、釈迦を単なる悟りへ導く師としてではなく、帰依すべき大慈大能の如来(ほとけ)として仰ぐ大乗仏教では、その帰依の対象として礼拝と供物を捧げる仏像を必要としたのではないかと考えられます。大乗仏教が仏像の直接の起源になったのではないかもしれませんが、ブッダを教師としてではなく救済者としてバクティ(帰依、信愛)を捧げるヒンドゥー教徒の宗教的環境が、クシャーナ時代のギリシア人の造形美術の感覚と合わせられて、釈迦如来像を生み出したのでしょう。ガンダーラ仏像には、痩せ細った苦行時代の釈迦の像から、如来として輝く威光の中に現れる釈迦如来像まで、多くの釈迦像が現れます。やはり大乗仏教運動と仏像出現との間には、深い関わりがあると思われます。

仏像の種類

仏像には多くの種類がありますが、その種類の間には序列があります。最初に現れ、最上の位にあるのは釈迦如来像です。最上位には悟りを開いて永遠の智慧を体現する「如来」(ほとけ)の像がきます。その次に、衆生を救済するために悟りの境地を求めて励む求道者、大乗仏教の理想の人間像である利他で衆生のために働く「菩薩」の像がきます。その下に力ずくで人々を仏教に導く各種の「明王」、さらにその下に古代インドの神々が仏教に取り入れられて、諸々の「天」と呼ばれるようになったものの像がきます。こうして仏像には、如来、菩薩、明王、天の四つのランク、位階があるようです。
最高位の如来像には、釈迦如来像の他に阿弥陀如来、薬師如来、大日如来の像などがあります。阿弥陀如来については次節で述べるように、大衆を来世の浄土に導く救済者として広く民衆の帰依を受けて、その像が多くの大乗仏教の寺院に祀られることになります。薬師如来は、薬師瑠璃光如来とも呼ばれて、東方の浄瑠璃世界の主となっている「ほとけ」です。その菩薩の時代に、自分の名を聞く者を病気から救うなど十二の願を立てて如来となり、日光菩薩と月光菩薩を従えて現れるほとけです。薬師如来像を祀ることは、日本でもすでに聖徳太子の法隆寺金堂に見られ、その後も聖武天皇の薬師寺建立など古くから行われていました。病気治癒の願いがいかに強かったかがうかがわれます。大日如来については先に密教のところで見たように、全宇宙を神格化した「ほとけ」であり、宇宙の果てまですべてを救う如来です。大日というのは、インドでは「偉大な太陽」を意味し、すべてを照らして救うほとけです。すべての如来と菩薩はこの大日如来から生まれ、この如来はすべてのほとけを統合する原理として拝されます。ただ大日如来の中に統合される如来や菩薩が多くて彫像では表現しにくいせいか、密教では諸仏と諸菩薩が大日を取り囲むような図像で表現されることになります。この図像(仏画)が「マンダラ」と呼ばれて、密教の世界を表現することになります。
如来に続くランクの菩薩像には、観音菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、文殊菩薩などの像があります。菩薩は如来の意志に従って衆生の救済のために働くのですが、観音菩薩は世の人々の訴えの声を広く聴き取り、様々な状況で働きうるように多くの姿に変身した像があります。たとえば頭部にさらに小さい頭部を多く持つ十一面観音や、多くの手を持つ千手観音などの像があります。地蔵菩薩は六道を巡って、そこで苦しむ人々を救う菩薩として僧形をしています。とくに賽の河原の子供を救う菩薩として親しまれています。虚空蔵菩薩は知恵を授ける働きの菩薩として崇められています。虚空とは無限に広がる空間のことですが、この菩薩は人の記憶力を増し加えて、宇宙を理解する知恵にいたらせる菩薩です。菩薩像は王冠をいただき、宝剣や宝珠を持っている場合があります。
一般に如来は悟りを開いてこの世を超えているのですから、如来像は単純な僧衣をゆるやかにまとっているだけですが、菩薩は現世と関わって働いているのですから、菩薩像には宝冠や装身具をつけた華やかな衣装の像が多いようです。これは、この世で力があるインドの王侯貴族のイメージが投影されているのでしょう。仏像は単体でも祀られますが、三体並んで祀られることも多いようです。その場合は、中央に本尊の如来像がきて、その両横に脇侍として菩薩像が置かれるのが普通です。如来像と菩薩像はすでに悟りの世界にいる者として金色に輝く姿に作られました。如来像と菩薩像には、立像、坐像、半跏像などの姿勢や、差し出した両手の形、また持ち物の種類などによって、その仏像が語ろうとしている言葉や働きが示唆されています。
明王というのは、如来が通常の姿では教化し難い衆生を屈服させて教化するために、忿怒の姿に変身して現れたものを指す密教特有の用語です。密教では明王は大日如来の化身です。明王には、仏法に敵対する者を論破する鋭い剣とすべての煩悩を縛る縄を持ち、恐ろしい怒りの形相、怒りに満ちた赤い体、炎の光背をもつ不動明王、愛欲を悟りへのエネルギーに変えて、生身の人間の愛欲の悩みから救う愛染明王、すべての煩悩を食い尽くす金色の孔雀に乗り、菩薩の慈悲深い女性の姿で現れる孔雀明王など、様々な姿の明王があります。
天というのは、古代インドの神話に出てくるヒンドゥー教の神々が仏教の守護神として取り入れられたもので、その像は武人や女性の像、半人半獣の変わった像など様々な形があります。ヒンドゥー教の神々も、仏教に取り込まれた漢語の名前で日本でも親しまれているものが多いようです。たとえば弁財天(もともとは弁舌と才能の女神)、帝釈天、韋駄天、大黒天(もともとは大いなる黒の意で、カーリ神の滅ぼす力を指す。日本では大国主と融合)、梵天(ブラフマー神)、吉祥天(容貌と衣裳の美しさで有名)などがあります。東西南北の四つの方角にいて仏法を守る武将の持国天、広目天、多聞天、増長天の四天王も仏教寺院によく見られます。
以上にあげた四つのクラスの仏像の他に、仏教寺院にはよく羅漢の図像が見受けられます。羅漢とは、サンスクリットの「アルハット」(尊敬・布施を受けるべき人)の漢訳「阿羅漢」の略称で、釈迦の直弟子の舎利弗、木蓮、迦葉らと、悟りに達した最高位の仏弟子を指します。しかし大乗仏教では、自己の悟りだけを目指す阿羅漢よりも、衆生の救済を目指す菩薩が尊ばれて、阿羅漢はその下位に置かれます。

象徴か偶像か

このような各種の仏像の前で礼拝を捧げる仏教徒は、仏像を彼らの宗教行為の中でどのように位置付けている、あるいは意味づけているのでしょうか。仏教各派にはそれぞれの宗派の立場からの意味づけや解説があるでしょうが、ここでは仏教がその宗教礼拝に仏像を用いている事実を、宗教学の見地からその意義を考えてみたいと思います。
そもそも宗教とは、人間が人間以上の、人間の能力や理解が及ばない世界から働きかけを体験し、その働きとか力を畏怖しながらも依存して、その力とか働きとの関わりを維持しようとする営みです。この別世界からの働きかけや力を、オットーは「聖なるもの」と呼び、それは人間にとって「戦慄させ、かつ魅了する秘義(神秘)」であると説明しました(拙著『福音と宗教T』第一章「宗教とは何か」の第三節を参照)。宗教の理解は、神の概念(それはすでに合理的です)から始めるのではなく、この非合理な「聖なるもの」の体験から始めるべきことは、今や宗教学の常識です。エリアーデも、その「聖なるもの」の顕現(ヒエロファニー)に接した人間の体験の歴史を『世界宗教史』という膨大な著作にまとめました(前出の章の第五節)。人間が体験する「聖なるもの」は非合理な神秘なのですから、その体験を直接言語によって表現し伝達することはできません。言語で表現しようとすれば、言語が表現できる何か合理的で具体的な事物を用いて、非合理な体験を指し示して示唆する他はありません。この目に見えない世界の現実や神秘を指し示す具体的な事物とか事象が「象徴」(シンボル)です。こうして、人間が宗教を語るときは象徴を用いるほかありません。
象徴について語った機会に、宗教におけるもう一つの重要な表現形式である神話について語っておかなければなりません。古代においては人間の共同社会は宗教の共有によって統合されていました。部族や民族は共通の宗教によって統合され、宗教がその共同体の起源や使命など、その存在の意義を語り、その成員にその宗教によって生きるように命じていました。そのために共有される象徴による物語が用いられ、その物語が「神話」となって、共同体の存在の意義や目的や使命を指し示します。現に目の前にある天地の総体も、その生成が様々な形で物語られて創造神話が形成され、その中で自分たちの共同体の存在の意義や目的、あるいは統治者の権威が象徴をもって物語られます。その物語は歴史的な事実の叙述ではなく、その共同体が共有している神話、象徴的物語です。各民族が形成した神話は、その民族の宗教であって、歴史的事実、科学的事実ではありません。そのことを確認した上で、神話によって人間の宗教の姿を探求しなければなりません。
象徴は宗教以外の領域でも広く用いられています。たとえば日の丸の旗は日本という国の象徴であり、天皇は日本国民統合の象徴です。しかしとくに宗教の世界は象徴で満ちており、象徴は宗教の言語だといえます。たとえば聖書の宗教では、オリーブの枝をくわえた鳩は平和の象徴であり、出エジプトの出来事は終末的な人類救済の象徴、十字架は神の贖罪の働きの象徴、パンとぶどう酒はイエスの死の象徴です。象徴はこのような事物だけではなく、行為も象徴としての意味をもち、多くの宗教的儀礼とそれにあずかる行為は、見えない神秘的な霊的体験を象徴することになります。たとえばキリスト教で洗礼はキリストの死に合わせられることの象徴であり、聖餐はキリストの命にあずかることの象徴です。言語による教義的な表現も象徴的意義をもっています。神、キリスト、創造、贖い、神の国というような概念とそれを用いた諸々の命題も、象徴としての働きをしています。教会の諸信条はラテン語で「シュンボールム」と呼ばれます。
ところが見えない霊的現実を指し示すために象徴として用いられた具体的な見える事物が、それ自体が人間を超えた力をもつものとして礼拝され、宗教的な供犠をもって崇拝され、信仰の対象となるとき、象徴は偶像となり、その宗教は偶像崇拝となります。古代の多くの民族は、自分たちの神の像を造り、それを神殿に祀り、その神像に生贄や供物を捧げて盛大な祭りを行い、その神像によって戦勝などの神的な加護や豊作などの祝福を受けるものと信じていました。このような神像礼拝の宗教は偶像崇拝だといわなければなりません。では、仏教における仏像の使用はどうでしょうか。仏像の前で行われる読誦や法要などの宗教行事は偶像崇拝でしょうか。それとも、仏像とかその前での礼拝行為は、ブッダの教説の象徴、あるいは救済者である「ほとけ」への帰依を示す象徴行為なのでしょうか。
確かに仏像は、仏教徒がその霊性において体験している悟りとか智惠あるいは帰依とか信仰心の表現として、象徴としての意味をもっています。また、仏像は仏法の人体的表現(法身)の表現であり、その目は全てを見通す智惠、その耳はすべての訴えを聞く能力、その手はすべての状況に差し伸べられた働きを象徴するとか説明されます。しかし仏教がある歴史的な社会の体制宗教となり、寺院に祀られた仏像の前での供養とか法要などの礼拝行為に参加することが仏教徒であることの条件となっているならば、それは仏教という宗教の絶対化、仏像の偶像化となります。そのように偶像化した仏像の存在は、個人や部族などの特定のグループが特定の仏像を大切に供養しているならば、その仏像またはその背後にある不可思議な力によって加護やご利益があると信じて拝んでいるような場合によく現れています。奈良時代と平安時代に天皇や貴族ら支配階級の行う寺院仏教には、それによって鎮護国家の利益を目的とする偶像礼拝的な一面もありました。また、身近な日本の仏教の現実では、仏像の柔和な表情とか姿やその姿の美しさや威厳など、見る人の感性に訴えて、仏像が表現している仏教に引きつける役割を果たしています。このように、仏像は宗教を語る言語としての象徴、美的価値によって感性に訴える芸術的作品、この世的利益を保証する礼拝行為の対象としての偶像などとして、多義的な意義をもつ仏教文化圏特有の宗教文化の産物です。
なお宗教的象徴は、ティリッヒが述べているように(本書二七〇頁以下の「宗教の象徴」の講演を参照)、単なる記号とは違い、象徴として用いられる有限な具体的事物と象徴される見えない無限の現実との相互の間に「参与」(participation)という内的なつながりがあります。象徴は、人が象徴の力によって象徴される霊的現実に参入して、象徴の力を体験する間は生きていますが、その力がなくなると象徴はその機能を失い死滅します。ティリッヒは「宗教史は死んだ象徴の墓場であり、新しい象徴の沃野である」と言っています。キリスト教では創造、キリスト、神の国が主要な象徴ですが、福音は信じる者に恩恵によって聖霊を与え、その象徴(影)が指し示している霊的現実(本体)に参入させます。キリストによってその恩恵と真理(本体)が来たのです(ヨハネ一・一七)。キリスト教と仏教は、その象徴の違いとか対立ではなく、象徴が参入させる霊的現実の対比として比較されなければなりません。その時、聖霊が与える象徴への参与がどのような比較と対話をもたらすのかは、将来の課題です。しかしこの課題については、本書でもこの章の最後に少しは触れてみたいと思います。

福音と仏教文化

パレスチナから地中海地域に展開したユダヤ教の神は、その神の像を造ることを厳しく禁じました。イスラエルの民を奴隷の家エジプトから救い出した神は、自分を働きとしての神であるとの啓示を与えた上で(本書三六五頁「ハーヤーする方」の項を参照)、救出したご自分の民イスラエルに、「わたしはあなたの神、ヤハウェであって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者(働きとして神)である。あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」と厳しく命じられました(モーセ十戒の序言と第一、第二戒、出エジプト記二〇・二〜四)。この戒律の上に形成された後代のユダヤ教と、そのユダヤ教を継承した地中海地域のギリシア文化の民のキリスト教、およびそのユダヤ教のアラブ版であるイスラム教の一神教宗教は、神の像を造ることを厳しく禁じ、その宗教が偶像崇拝の宗教となることを避けてきました。
このような一神教宗教の民から見れば、仏教文化圏の仏像に満ちた宗教は偶像崇拝の宗教だと見られても仕方ありません。しかし、福音が告知する唯一の神を一つの存在として理解するのではなく、すべての存在を存在させている根源的な働きとして理解するのであれば、一切の実体的な存在を否定して、宇宙の原理を空とか無の原理で理解しようとする仏教と矛盾するものではなく、対話が可能になるのではないでしょうか。今まで仏教とキリスト教の対話は、その宗教を絶対的な真理として、相手を改宗させようとする議論になっていたのではないでしょうか。神を根源的な存在として理解するキリスト教と、一切の実体的存在を否定して空を原理とする仏教とは、実在の有と無をめぐる対立、有神論と無神論の概念的対立で身動きが取れなくなっているのではないでしょうか。
仏教が宇宙の原理として空とか無を主張し、現実はすべて縁起の法によって起こっているとしても、起こるという現実の変化にはある力とか働きが現れているのであり、仏教もそこに人知を超えた働きがあること、存在としてではなく働きとしての神の働きを否定することはできないのではないでしょうか。それだからこそ、空の知恵を標榜する仏教の中に、超越者の慈悲と救済への意志(本願)に帰依する大乗仏教が成立したのではないでしょうか。インドで成立した大乗仏教が中国や日本に伝わり、東アジアに大乗仏教圏が形成されたことは先に見た通りです。その大乗仏教圏において、救済者として働く如来や菩薩などの「ほとけ」たちの観念やその哲学的・思想的教説、その「ほとけ」に対する人間の帰依を表現する信条や名号、さらにその「ほとけ」の働きを象徴する仏像が造られて寺院に祭られ、それらの象徴の全体のシステムが仏教の宗教文化を形成しています(宗教文化については本書四二〇頁の「福音と宗教文化」の項を参照)。
このような仏教文化圏にも福音は宣べ伝えられなければなりません。パウロがユダヤ教文化圏を超えて福音を異教文化圏に宣べ伝えたように、わたしたちはこのキリストの福音を仏教文化圏に告知しなければなりません。その際、キリストの福音は仏教文化を否定しません。仏教はキリスト教とは違う象徴、違う宗教言語を用いて語っていますが、大乗仏教は阿弥陀仏や大日如来の象徴や仏像の象徴をもって、根源的な働きとしての神の救済の働きを待ち望んでいるのです。仏教はその象徴体系である宗教によって、仏教文化圏の人々を霊的な深みへ教え導いていたのです。その霊性の深みは、体制的・形式的なキリスト教の枠の中にとどまっているキリスト教文化圏の人たちよりも深いものがあり、キリスト教国で仏教に帰依する人がかなり出てきています。
キリストの福音は、このような深みのある仏教文化を否定することなく、その文化的営みを尊重しつつ、キリストにおいて成し遂げられた根源的な働きとしての神の救済の働きを告知します。それがどのような形をとることになるのかは将来の課題ですが、本書でも以下の項でその一端を述べることになります。