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東アジア仏教圏の成立 ― 第一章への結び

この「第一章 アジアにおける諸宗教」では、アジアにおける宗教の歴史で中心的な位置を占めるインドと中国の宗教史を概観した上で、わたしたちが現に生きている日本の宗教の歴史を見てきました。その全体を俯瞰しますと、それぞれの地域の文化圏に成立していた民族宗教の上に、世界宗教としての仏教が重なって、それぞれの地域に複雑な宗教文化を形成していたことが見えてきます。インドの民族宗教はヒンドゥー教です。そのヒンドゥー教の歴史の中にシャカが現れ、悟りを開いてブッダとなって教えを説き、仏教を開きます。その仏教の歴史の中でブッダから数世紀後に成立した大乗仏教が、北伝して中国に伝えられてきます。中国固有の宗教は儒教と道教です。そこにインドの大乗仏教が入ってきて、漢字文化の儒教・道教の中国文化圏に漢訳の仏教が重なって、複雑な宗教文化を形成します。その漢訳大乗仏教が朝鮮経由で、また直接中国で学んだ僧によって日本に入ってきて、民族宗教として形成されていた神道と重なり、神仏習合の複雑な宗教の歴史を生み出します。そこに大航海時代以降には、西欧のキリスト教がアジアの各地に伝えられて、インド、中国、日本の宗教史をさらに複雑にしています。
ユーラシア大陸の東部、普通アジアと呼ばれている地域には、南部のインドと東部の中国を中心に広大な陸地が広がっています。インドの北には中央アジアと呼ばれる内陸地(チベットを含む)と、東南地域には多くの島嶼を含む東南アジアがあります。南アジアのインドと中央アジアや東南アジアにはイスラムの到達や支配もあって、極めて複雑な歴史をたどっており、それぞれ別に扱わなければなりませんが、中国、朝鮮、日本の東アジア圏は、中国の漢字文化の上に共通の文化圏を形成してきており、それぞれの民族宗教の上に仏教という共通の世界宗教が重ねられて、一括して扱える面があります。すなわち「東アジア仏教圏」と呼べる宗教文化圏が成立します。東アジアに伝えられた仏教は大乗仏教ですから、厳密にいうと「東アジア大乗仏教圏」というべき一つの宗教文化圏が形成されることになります。日本はこの大乗仏教圏の重要な、そしてその歴史の最初期から現代に至るまでの全期間にわたって大乗仏教を保持してきた代表的な国です。
ここでは仏教という共通の世界宗教が重なることによって形成される「東アジア仏教圏」の地域に福音を告知する働きを進めるにあたって、福音が遭遇する仏教という宗教に対する、わたしたちキリスト者の理解と姿勢を考えなければなりません。附論の二章でこの問題を考察することになりますが、本書の基本姿勢である宗教相対化の視点から考察を進めていくことになります。著者は新約聖書の各巻を研究して、キリストの福音が新約聖書時代と呼べる最初の一世紀にとった証言を歴史的に検証して、前著『福音の史的展開』にまとめました。そしてその終章において、キリストの福音がキリスト教という一つの新しい宗教を地中海地域のギリシア・ローマ世界に形成した経緯を追跡することで、そのキリスト教も一つの宗教として他の諸宗教と同じく、絶対的なものではなく相対的なものであることを、とくにパウロに学びつつ明らかにしました。それは、人類への神からの語りかけの言葉としての福音の絶対性を確立するためです。この宗教相対主義の視点から東アジア仏教圏への福音告知の意義を考えてみたいと思います。
その際、考察の範囲を日本における福音と宗教の遭遇に止め、インド、中国、チベット、朝鮮での出会いは触れません。著者はそれらの諸国における民族宗教と仏教の歴史の詳細は知りませんので、その問題を議論する資格はありません。しかし、東アジア仏教圏の仏教はみな大乗仏教ですから、その宗教文化代表する日本での福音と仏教との出会いを考察して、その基本的な問題を理解すれば、その理解は他の東アジア大乗仏教圏 の諸国における福音と仏教の関係にも適用できると考えられます。 もちろん各国の特殊な事情は考慮されなけれななりませんが、ここでは日本での出会いの考察に限らざるをえません。本書では、比較的状況をよく知っている日本での場合を考察して理解を深め、そこで得られた原理で各国のキリスト者が仏教との出会いを考えてくださることを期待して、その考察を提供することに限定します。