市川喜一著作集 > 第24巻 福音と宗教U > 第23講

第三節  日本の宗教史

T 日本宗教の基層

縄文時代

 日本列島に人間が生活するようになったのは二万年以上も昔であったと推察されます。その時期にも人間は道具として石器を使っていました(旧石器時代)。この時代にも宗教的な観念と営みはあったでしょうが、それを推察する手がかりはありません。ところが、紀元前八千年頃から(この時期には異論もあります)狩猟漁労採取経済段階の文化が起こり、人間は土器を製作して生活に用いるようになります。その土器の縄の紋様から、この採取経済段階の時代は縄文時代と呼ばれ、発掘された土器や住居跡からその時代の宗教が推察されることになります。
人間の宗教性は最初に死者の埋葬に見られます。墳墓は集落跡の近くにあり、大抵は屈葬で、土に埋めた土葬、甕に入れた甕棺墓、石で囲った墓がありました。玉や護符のような副葬品も発掘されており、死霊に対する恐れが見られます。縄文中期以降には、大きな石を並べた配石遺構(環状列石など)も見られ、何らかの祭儀に用いられたと推察されます。縄文時代には初期から、女性の乳房や腰を強調した多くの土偶があり、生殖力に対する信仰があったことがうかがわれます。土偶の怪奇な形は神秘的な力をあらわしており、わざと壊したのは人間の身代わりにする呪術が行われていたことを示しているようです。
このように日本列島におけるこの時代の宗教には、すべてのものにアニマ(霊)が宿っているとして、それを崇拝する宗教性(アニミズム)、あるものに人間の力を超えた神秘的な力が宿っているとする信仰(マナイズム)、自然崇拝、死霊崇拝などの宗教観念があったことは、世界の諸民族の原始宗教に広く見られるところと同じです(アニミズム、マナイズム、シャマニズム、呪術などの原始宗教については、拙著『福音と宗教T』の二二頁以下の「宗教の原初形態」の項を参照してください)。

弥生時代

 日本列島の原始社会は、紀元前三世紀から二世紀にかけて徐々に縄文文化の時代から弥生文化の時代に移行していきます。この列島にまで伝えられてきたイネ作りが九州北部からこの列島の各地に伝えられ、農耕社会の成立とともに、農耕儀礼を中心に縄文文化とは異質な新しい弥生文化が形成されることになります。人類史上の大きな変革となる農耕革命はこの時期に日本列島に及んできます。前一世紀には大規模な農耕集落があらわれ、川の下流の沖積平野に水田が広がります。東日本でも紀元後の二世紀には静岡県の登呂遺跡に見られるような大きな農耕集落があらわれます。弥生時代には稲作の伝来に伴って、大陸から青銅器や鉄器が伝えられ、金属器の使用と製作が始まります。弥生時代の遺跡からは青銅製の鏡、銅剣と銅戈(九州に多い)、銅鐸(近畿に多い)などが出土していますが、これらの金属器は宗教祭儀で用いられたと考えられます。集落の近くに共同墓地があり、土葬や甕棺墓も多く見られますが、この時代には大きな板石を石で支えた支石墓が見られるようになります。また周囲に四角く溝を巡らした方形周溝墓もあらわれています(福岡県の三雲遺跡)。これらの大きな墓には多くの大陸渡来の高級な副葬品が見られ、富と権力の集中がうかがわれます。
弥生時代の宗教は稲作の農耕儀礼を基本として発達しました。原始的な農作業は自然的な災害には無力であったので、神や霊が災いを防ぎ助けてくれるように、決まった時期に、決まった形で集団で祭りを行いました。稲作農業では春の耕作の開始と秋の収穫後の祭りが中心で、イネの霊や土地の神に献げ物を供えて、イネの実りを祈願する祭りを行いました。この弥生時代に始まった農耕祭祀は現代にも続いており、日本文化の基層となっています。このような農耕民の集落(ムラ)がいくつか統合されて一つの国(クニ)になっていきますが、その統合の仕方にはまず宗教による統合があったと考えられます。この時期の人間の生活はすべてが宗教によって支配されていたからです。弥生時代の国の統合を示している重要な遺跡に、北九州の吉野ケ里遺跡があります。この遺跡が示している大規模な環濠集落は、弥生時代の初期から始まり、中期と後期まで拡大を続け、後期には二重の環濠で囲まれ多くの建造物と墓地を有する大規模な集落になっています。防護柵をもつ環濠を二重にめぐらしている事実は、この時代には他のムラを武力で統合しようとする戦争があったことを物語っていますが、中央に最も重視されたと見られる建物の奥まった部屋には、神とか霊が降るとされる依代(ヨリシロ)の榊を立てて、シャマンとして巫女が神のお告げを受けている場面が模型で再現されています。この光景はわたしたちに、邪馬台国の女王卑弥呼(ヒミコ)を思い起こさせます。
二世紀の中頃に倭国で内乱があり、それを克服するために邪馬台国の卑弥呼が擁立されて王となり、三十余の小国の連合を統率します。卑弥呼は、神がかりして天にある神と交流し、神のお告げを伝えるシャマンであり、そばに仕える男性に補佐されて政治や軍事を統率していた巫王です。この女王は独身で、常に宮殿の奥まった部屋にいて姿を現わすことなく、飲食も一人の男性に委ねられ、原始国家によく見られる「幽閉された王」を思わせます。卑弥呼は二三九年に魏の明帝に使者を送って朝貢し、「親魏倭王」の称号を授けられました。亡くなった時には大きな墓が造られ、奴婢百人余りが殉葬されたといいます。この邪馬台国の例に見られるように、弥生時代の後期には、かなりの規模のクニが成立し、権力が大きくなり、統治者の墓も大きくなって、次の古墳時代に入っていきます。

古墳時代

 三世紀末から近畿地方を中心に各地に古墳が築かれるようになり、七世紀頃まで続きます。この時代には、イネを主とする農業生産が発展して、各地に豪族があらわれ、クニをつくります。古墳時代の後期(六〜七世紀)には各地の国々を支配するようになったヤマト政権が古代統一国家を形成するようになります。全国各地にある大規模な古墳は、このような大小の国々の支配者にために築かれたものです。この古墳時代の宗教は、そこに葬られた権力者のための副葬品や古墳を取り囲む位置で発掘される埴輪などから、またこの時代の各地の祭祀遺跡から推測されます。さらに当時の宗教観念は、この時代からの伝承が編纂された歴史書である『古事記』や『日本書紀』、ほぼ同じ時代に成立していた『風土記』『古語拾遺』『万葉集』から知ることができます。
古墳時代の宗教は、弥生時代の宗教を受け継いで、イネの農耕儀礼を中心に、それに祖霊崇拝が結びつき、太陽、月、大地、山岳、岩石、水などの自然物、また風、雨、雷などの自然現象を神として崇拝していました。この時代の日本人の宗教は、集団による祭りの宗教です。祭りの基本は、イネの実りを得るために行われる春の予祝祭トシゴイと秋の収穫祭ニイナメです。祖霊や自然、動植物の神の祭りも行われました。祭りはシメ(注連)などで聖別された場所に、サカキなどの依代(ヨリシロ)を立てて神を迎え、そこに降った神に土器に盛った飲食物の神饌(しんせん)を供え、玉、石、金属の器物や衣などの幣(へい)帛(はく)をささげました。次に祭りを取り仕切る祭司が祝詞(のりと)をささげ、祭る側の願望を伝え、イネの稔りと集団の繁栄に力を示すように神に祈願します。最後に神饌を全員で飲食するナオライ(直会)が行われ、祭具は砕かれて地に埋められます。この時代の祭りには、神社などの建物は造られていません。
祭られる神は、おもに土地の神です。土地神はイネを稔らせる農業神であり、集団を存続させ繁栄させる力をもつ神ですから、やがて集団の祖先神とされるようになります。他に山岳の神ヤマツミ、海の神ワタツミ、その他多種多様な自然物、自然現象、動植物が神とされました。産み育てる働きはムスビ、子を産む力はイザナギとイザナミ、腕力はタチカラオ、知力はオモイカネ、災害はマガツヒの神の働きとされます。神に仕えるには、人間は罪とか穢れを除いて清浄であることが必要であり、外から付着する穢れを払い落とすハライ(祓)、とくに水で洗い流すミソギ(禊)が行われました。さらに完全になるために一定期間禁忌(タブー)を守るイミ(忌)が求められました。この世と別の他界については、天には神々の世界である高天原がり、地上にはこの世のナカツクニ、地下には死者が住むヨモツクニがあるという考えが、ヤマト朝廷の進出とともに支配的になってきていましたが、この世のほかに海の彼方にはトコヨ(常世)があるという観念もありました。
この時代の理解には、この時代の宗教と文化に大きな影響を与えた渡来人の活動が欠かせません。四世紀の末頃から日本と朝鮮半島や中国大陸との交流が盛んになり、時には朝鮮の百済、新羅、高句麗とは戦争までしています。それらの地域から渡来して日本に定住する者も多く、彼らによって五世紀から六世紀にかけて儒教、道教、仏教などの宗教や、古代中国の思想や多くの新しい技術が伝えられます。中でも文字(漢字)の使用が始まったことは、その後の日本文化に巨大な影響を与えることになります。渡来人は畿内の地域に一定の居住地を与えられ、やがて氏族を形成し、各種の学芸や技術によって朝廷から一定の世襲職の地位を与えられます。この時代の最新技術は渡来人が独占していました。中でも文筆を専門とする諸氏は、徴税や出納の記録を担当して、ヤマト政権の行政技術と各方面の文化を飛躍的に高めます。とくに中国の文化を身につけた百済や高句麗からの渡来人の活躍は目覚ましく、大化革新の前後にかけて、中央集権的な国家と飛鳥文化の発展に大きく寄与しています。ところが六六三年の白村江の戦いで百済を救援したヤマト政権の水軍が唐の水軍に大敗して百済が滅びた時、百済からの多数の貴族や官人が日本に亡命し、その後しばらくして唐と連合した新羅によって滅ぼされた高句麗からも、王族を含む多数が日本に亡命してきています。これらの亡命渡来人が最後の波となって、八世紀には渡来人の影響は散発的になり、鑑真の渡来(七五三年)などの僅かなものになります。九世紀に入る頃には渡来人の独自の歴史的意義はなくなります。

基層宗教

 このように日本人が文字を使うことができるようになり、歴史の記録が始まる時代までの数千年の長い期間にこの列島で営まれてきた生活と、その共同体を統合する宗教が、日本人の霊性に深く刻み込まれて、その後の歴史において日本人の宗教と文化の基層となります。この時期の宗教は、後に儒教や道教や仏教などの外来の宗教から影響されて宗教としての形式をとり、「神道」と呼ばれるようになります。神道は諸宗教の一つとして時代と状況に応じて様々な形をとって現れます。しかし、歴史時代以前の長い時代に刻み込まれた民族の霊性は、国家とか各種の共同体がいかなる宗教形態をとっても、その基底とか基層となって、上層に重なってくる宗教と何らかの形で重なってきます。「三つ子の魂、百まで」という諺がありますが、それは日本の宗教史にも当てはまります。その典型的な形が、この日本の基層宗教と後に鎮護国家の宗教として朝廷に信奉されるようになる外来宗教の仏教との重なりです。この重なりが「神仏習合」と呼ばれて、日本の宗教史の軸となります。この重なりは、以下の諸項で見ることになります。

U 統一国家の形成と仏教伝来

統一国家の形成

 先に弥生時代と古墳時代の項でみたように、この時代には稲作農業が発展して、列島の各地に定住農民の集落ムラが作られ、富の蓄積によって多くのムラをまとめる豪族が現れてクニが形成されます。そうするとこの時代の後期(六〜七世紀)には、その国々を統合して支配しようとする動きが活発になります。その中で九州の日向の高千穂宮にいた一人(後に神武と呼ばれる人物)が兄と計い、全地を支配する地を求めて、はるばる東方を目指して軍を進め、宇佐、筑紫、安芸、吉備を経由して瀬戸内海を東進、難波に至ります。しかしその地の豪族の長髄彦(ナガスネヒコ)と戦い、兄の五瀬命(イツセノミコト)を失います。そこで南に回り、困難な旅をして熊野を北上、大和の宇陀に出て、そこの諸豪族を従わせて、大和平定を成し遂げます。彼は大和に成立した政権の初代の王として、後の子孫から神武天皇と呼ばれるようになります。この大和に成立した王権を中心にした一定の臣下の集団組織が大和朝廷となります。
神武が初代の天皇として即位した年代は、後述の古事記や日本書紀によれば、辛酉の年に天命が改まるとする古代中国の思想から、日本書紀はその成立から一千年以上も遡らせて、紀元前六六〇年の辛酉の年に橿原で即位したとしてますが、これは神武天皇をアマテラスの直系の子孫として権威づけるための神話であり、実際の神武東征は古墳時代の後期(六世紀)の頃であったと見られます。大和朝廷はまだ蘇我氏などの豪族の実権支配を克服できませんでしたが、藤原氏と組んだ中大兄皇子(後の天智天皇)が六四五年にクーデタを起こし、宮中で蘇我入鹿を暗殺、自分は皇太子として国政を掌握、年号を大化と改め、都を難波に移し、次々と中央集権的な改革を進めます(大化革新)。当時は中国に隋・唐の強大な中央集権国家が勢威を振るっていたので、皇子はこの国を中央集権国家として統一して対抗する必要があったのでしょう。六四六年には改新の詔勅を公布します。その根幹は、土地・人民をすべて公有化して国に登録させ、耕地を人民に公平に割り当てるための「班田収授」です。この律令(天皇が発する法令)による統治の天皇制中央集権国家が機能するまでにはなお長い年月がかかり、ほぼ半世紀後の大宝律令(七〇一年)をもってほぼ完成したと見られます。こうして大和政権は七世紀には各地の豪族を服属させて、この列島を一つの中央集権国家として形成します。大和政権が地方の豪族を服属させていく過程の一例として、出雲地方の豪族が大和朝廷の圧力に屈してその支配権を譲渡する過程が、後の記紀神話に大国主の国譲り神話として描かれています(後述)。
神武天皇の後、政権の所在地は変わりますが、推古天皇(即位五九二年)以後は飛鳥の各地を都としたので、奈良遷都(七一〇年)に至るまでの時代を飛鳥時代と呼んでいます。この間、難波や近江大津京への短期間の遷都もありましたが、桓武天皇(即位七八一年)が都を平安京に移すまで、都は平城京と呼ばれる奈良にあり、都が奈良にあった時代が奈良時代と呼ばれます。奈良時代は八世紀初頭からその末期まで続き、ほぼ八世紀の大半がこの時代になります。この時代は、それまでの日本文化が花開いた時代であり、その時代の中心になる聖武天皇の年号から天平文化とも呼ばれます。その文化の意義と問題は後続する項で概略を見ることになります。こうして神武以来の飛鳥時代と奈良時代は、古代日本の文化が文字の使用により明確な形をとって現れた時代であり、奈良平野は日本の古代国家の揺籃の地となります。国家という大きな集団を統制するためには、文字による記録が必要です。

記紀神話の確立

 都が奈良に移って国の統一がさらに進んだ奈良時代に、その後の日本の宗教に決定的な影響を及ぼす二つの大きな出来事が起こります。古事記と日本書紀という文書(合わせて記紀と呼ばれます)の出現と仏教の国教化です。仏教については次の項で概観することにして、ここでは古事記と日本書紀の成立の意義を見ておきます。  
 人間は古来、どの文化においても,太古に起こったとされる一連の出来事に関する物語によって,世界と人間の起源や,それぞれの文化の中で人間が順守しなければならない制度・習俗などの由来に説明を与えてきました。その物語が神話です。日本人も生業である狩猟や農耕の起源を語り、國の統一期に活躍した英雄たちの働きを物語るにさいして、それを神々の働きとして物語り、独自の神話、すなわち日本神話を形成していました。その神話は口頭で語り伝えられて、それぞれの共同体で当然従うべき規範となっていました。ところで先に渡来人の項で見たように、飛鳥時代には朝鮮半島経由で中国大陸の文化が流入して、文字(漢字)の使用が始まっていました。統一国家の形を整えようとした大和朝廷は、それまでに各地に伝えられてきた神話を集成して、自分たちの支配を根拠づけ、朝廷への服従を民衆の規範として確立しようとします。その重要な事業として、神話の文書化を試みます。
その試みは奈良遷都の前から始まっており、天武天皇(即位六七三年)は稗田阿礼(ヒエダノアレ)に各地の神話を誦させますが、それを文字で文書化することはできませんでした(稗田阿礼(ヒエダノアレ)は巫女であったと考えられます)。日本語の口頭伝承を漢字で書きあらわす困難な仕事は、三〇数年後に太安麻呂(オオノヤスマロ)によって完成し、奈良遷都の直後の七一二年に元明女帝に献呈されます。こうして出来た「古事記」は、上中下の三巻から成り、上巻は天地創成に始まり,伊邪那岐(イザナキ)・伊邪那美(イザナミ)二神による国生み神話,皇祖神にして日の神である天照大神(アマテラスオオカミ)の誕生,日神の天の岩屋戸(アマノイワヤド)がくれ,その弟素戔嗚尊(スサノオノミコト)の出雲での大蛇退治,天孫に国譲りする大国主(オオクニヌシ)の国譲り神話,アマテラスの孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨神話,隼人(はやと)服属の由縁を語る海幸(ウミサチ)・山幸(ヤマサチ)の話などからなっています。中巻は,ニニギノミコトの四代目の子孫神武天皇が大和に都を定め,続く各代が支配領域を広げ,英雄日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の活躍により東西の辺境の蛮族も平定されるという話などを収めています。そして,一五代天皇とされる応神が,母神功(ジングウ)皇后の胎内にありながら海の彼方の韓国まで服属させ、国家統一は成ったという話で終わります。下巻に入ると、天皇の代替わりごとの反乱の話しと、歌物語風の天皇の恋愛物語が続き、推古朝(五九二〜六二八年)で終わります。
一方、日本書紀は、奈良遷都前の天武期に皇子や廷臣が「上古諸事」の記録と編集を開始、約四〇年を経て舎人(トネリ)親王らが七二〇年に完成したと伝えられています。八年前に成立していた古事記は参考にせず、奈良遷都をした元明時代に、諸国の国司と群司を総動員して作成させ提出させた各地の地誌である「風土記」や墓記、地方伝承、寺院の縁起、朝鮮や中国の歴史書を参考にして、全三〇巻の編年体(年代順)の歴史書を完成します。巻一と二で神代、巻三を神武紀、以下の各巻を天皇ごとにまとめ、巻二八と二九を天武紀、巻三〇を持等紀としています。当時は中国の制度や文物を取り入れることに熱心な時代ですから、この書の文体も漢文による潤色が著しく、漢籍や仏典を写し取った部分もあります。歴史書と称していますが、その成立の事情に見られるように、これは各地に伝わる神話や伝承を、大和朝廷の正統性を確立するためにまとめた文書ですから、古事記と共に古代の日本の神話と伝承の集大成と見ることができます。事実、後代の歴史家は両書をまとめて「記紀」と呼んで、日本の古代の神話と伝承、および天皇家の歴史を知るための基礎資料として用いることになります。それだけでなく、両書(とくに古事記の上巻や中巻)は、古代日本の神話をまとめており、日本の基層宗教の姿を伝えています。この両書がその後の日本人の心情に及ぼした決定的な影響は、計り知れないものがあります。そして古代の基層宗教の継承者であると自任する神道が、この両書を典拠とするのも当然です。なお、大和朝廷によって諸地域のカミ信仰が統合されて古事記などに表現されるようになった時期の宗教を、「古代神道」と呼ぶこともあります。
古事記と日本書紀の成立と並んで、この時代に文字(漢字)を用いて記録された重要な文献に、「万葉集」と呼ばれる歌集があります。飛鳥・奈良時代の日本人は、その心情を歌にしてきました。日本の歌には五七五七七の五句からなる短歌と、五音と七音の句を基本として句数が七句をこえる長歌などがありますが、七〜八世紀に歌われた四五〇〇以上の歌が集められて、万葉集という大きな歌集が奈良時代に成立しています。音数で韻を踏む日本語の歌を漢字で書きあらわすことは困難な仕事でしたが、この歌集は漢字を表意文字として訓読する法と、漢字を表音文字としてその音を借りる法を合わせた「万葉仮名」を用いて表記されています。作者は、天智や天武、持等らの諸天皇や皇妃、皇子などの王族から、柿本人麻呂のような宮廷詩人、旅人や憶良などの宮廷人、さらに防人などの庶民に至るまでのあらゆる階層の人の歌を含み、古代世界では類を見ない詩歌集となっています。この歌集の最終的な編纂は、奈良時代の末期に高位の廷臣であった歌人の大伴家持によるとされています。家持は四八〇首ほどの最多の歌をこの歌集に残しています。この歌集では内容による類別が行われており、おもなものに雑歌(ゾウカ)、相聞(ソウモン)、恐歌(バンカ)の三つがあります。雑歌は宮廷祭式などの機会に歌われた公的な作、相聞は男女の恋歌を主とする贈答歌、恐歌は死者の葬送や哀愁の歌を指します。この歌集の歌は概して心情の率直で大らかな表現を感じさせます。この歌集は、その後の歴史で生まれた様々な歌集の原型となっただけではなく、基層宗教形成期の日本人の心情の表現として、現代に至るまで日本人の感性の基層をなしていると思われます。

仏教の伝来

 先に渡来人の項で見たように、四世紀の末頃から盛んになった朝鮮半島や中国大陸との交流によって渡来した人々によって、五世紀から六世紀にかけて儒教、道教、仏教が日本にも伝えられていました。しかし公式には、百済の聖明王が仏像と経典を朝廷に献上した五三八年が仏教公伝の時とされます(年代には異説があります)。その時、蘇我稲目は仏教の受容を、物部尾輿は排斥を主張し、豪族間の争いが起こります。当初仏教は圧迫されますが、蘇我氏を中心に渡来系氏族が多い飛鳥の地に根づくようになります。五九二年に当時勢力絶頂の蘇我馬子が崇峻天皇を殺害、推古女帝が即位し、幼名を「厩戸皇子」と呼ばれた太子(後の聖徳太子、太子のウマヤドノトヨトミミという幼名からキリスト教の影響を見る説もあります)を摂政とし、蘇我氏の路線の政策を進めます。太子は若き日に蘇我馬子の軍に加わり、排仏派の物部守屋を討っています。太子は摂政として、大陸の文物・制度を取り入れる蘇我氏の開明政策を推し進め、冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使の派遣、国史の編纂などの事業を成し遂げています。しかし何よりも太子がその後の日本に及ぼした大きな影響は太子の宗教性にあり、具体的には仏教の深い理解とその推進です。太子は深く仏教に帰依し、法華、勝鬘、維摩の三経の注釈書「三経義疏」を書き、十七条憲法でも「篤く三宝を敬え」と述べています。この古代日本の最高の宗教家は、後の時代には「聖徳太子」という尊称で崇められ、とくに仏教徒から日本仏教の基礎を置いた聖者として多くの伝説も加わり、超人的な霊威を有する信仰の対象となっていきます。
この時期の仏教は、蘇我氏が建てた日本最初の伽藍となる飛鳥寺、太子が建てた法隆寺などの豪族の私寺が中心になっていましたが、だんだんと天皇が仏教を受容するようになり、舒明、天智、天武、文武の時代には天皇が建て、そこで国家的行事が行われる官寺が多くなってきます。官寺で行われる法要は鎮護国家の法要です。奈良時代になると、都には朝廷によって東大寺、西大寺、法華寺、新薬師寺、唐招提寺などの太寺が建立され、仏教は国教的な扱いを受けるようになります。その頂点が聖武天皇による国分寺造営の詔(七四一年)と大仏造営発願の詔(七四三年)です。政局の動揺を克服するために、聖武天皇は全国の国ごとに立てた国分寺に護国の経典「金光明最勝王経」を置いて読経させ、国家の安定を祈願させます。当時の都の大寺は、雄大な七堂伽藍を擁し、燦然と輝く金色の仏像など、天皇や豪族の権勢と富を誇示する大陸文化の展示場でした。このように仏教は朝廷や権力者の帰依を受けて国教的な地位を享受しましたが、コンスタンティヌス以後のローマ帝国のようにキリスト教を国教として他の宗教を禁止するようなことはありませんでした。一般民衆はこれまでと同じで、多くの神々や祖霊を祀る儀礼を行い、古来の宗教(前述の基層宗教の項を参照)生活を送っていました。律令国家の重い課税に苦しむ庶民の中に入っていって、仏教信仰と同時に優れた土木技術で池や橋などを作たり孤児院のような社会事業的な働きを進めた行基のような私度僧が、民衆の帰依を受けて仏教を広めていました。大仏造営を発願した聖武天皇も、その資金を集めるのに行基を勧進役に起用し、彼を大僧正に任じるようになります。庶民の間に仏教が受け入れられていった様子は、「日本霊異記」などの説話文学で知られます。

顕密仏教体制

  平安時代に入ると、インドに起こり中国で発展した密教が日本にも伝えられてきます(密教については本書四五五頁を参照)。平安京に遷都した桓武天皇(在位七八一〜八〇六年)の末期、唐から帰国した留学僧の最澄によって天台密教が、空海によって真言密教が伝えられます。奈良仏教は「鎮護国家」、平安仏教は「護国仏教」と標語は異なっていましたが、両方とも古代国家の隆盛期に形成された仏教として、国家仏教の性格は共通しています。ただ、奈良仏教では大寺は都の中にあって、高位の僧はつねに中央政界に出入りして直接政治と関わっていましたが、平安仏教では天台は比叡山、真言は高野山を拠点とする山岳仏教に変わり、政治に一定の距離を置いて、宗門の独立を維持するようになります。この時代には「王法と仏法は車の両輪のごとし」という対等依存の思想が国家仏教の理念として唱えられるようになります。そして仏法は、顕教と密教の二種類ありますが、平安時代にはこの二つの形態の仏法が王法を支えるという国家仏教の体制がとられることになります。
 顕教とは、多くの経典などに見られるように、仏法の教えが言葉によって説かれているので、それを学び解釈するという仕方で目的に達しようとする仏教です。それに対して非公開の教団内部で、秘密の教義と儀礼を師資相伝で伝える秘密の仏教を「密教」と称します。唐留学僧の最澄は天台智から、空海は青竜寺の恵果からそれぞれその秘伝の教義と儀礼(修法)を受け継ぎ、それを日本に伝えて天台宗と真言宗を開きます。密教の修法は本来多分に呪術的な要素を含み、国土平穏や病気平癒など加持祈祷の効用を求める貴族に流行し、多くの法会が開かれることになります。平安時代の仏教は、奈良仏教以来の伝統的な顕教と新しい密教系の仏教が社会の体制となる時代、顕密仏教体制といえる時代となります。
 仏性を得ることを目的とする仏教で、法相宗を主流とする六宗の南都仏教(奈良仏教)では、その目的(成仏)は人間の素質によるとした三乗主義(大乗仏教には聴く人の素質に応じて三種類の乗り物があるという主義)に対して、天台・真言の平安仏教では素質や能力に関係なくすべての人が成仏できるという一乗主義、すなわち大乗という一つの乗り物があるだけだと説きます。この思想はすべてのものに仏性があるとする「悉皆仏性」の思想を含んでいます。その内なる仏性に気づいて悟りを開くのは、本来わが身に悟りが備わっているからだとして、それを「本覚」と呼んで、これが天台教学の基本路線となります。この本覚思想は、それから来る一乗主義によって東北地方を含む日本の全地に広まり、それ以後の日本仏教の基本思想となって、大きな影響を及ぼすことになります。
 天台仏教も密教も大乗仏教の中の運動ですが、比叡山で学んだ仏教徒も国家公認の正式の僧になるには東大寺など奈良仏教の戒壇で受戒しなければならないので、最澄は天台の教団形成には独自の戒壇が必要であるとして、比叡山に大乗戒壇の設立を志しますが、生存中は果たせず、八二二年の没後七日目に勅許が出て、正式に天台教団が発足します。

V 神仏習合の歴史 ー 日本宗教史の軸として

仏教と日本の基層宗教の重なり

先に見たように、五世紀から六世紀にかけて渡来人によってこの国にも仏教が伝えられ、七世紀に入る頃には聖徳太子らの活躍により仏教は支配層に浸透し、ついに古来の民族的な日本宗教の大祭司ともいうべき立場の天皇まで、仏教の力によって国を治めようとするところまで来ます。八世紀の聖武天皇の場合に見られるように、大陸の圧倒的な先進の文化を背景に、奈良時代の仏教は、この島国の宗教と文化を主導することになります。聖武天皇亡き後、その妃の光明皇后が寄進した天皇の遺品を中心に集められた正倉院の宝物は、盛唐文化の粋を伝えると共に、遠くペルシャの文様を伝える器物もあり、当時栄えていたシルクロードによる東西交流の波が、東端の日本にも及んでいたことが知られます。なお、聖武天皇の妃の光明皇后が仏教への信仰心が篤く、悲田院や施薬院など飢えた人や病人のための施設を作り、当時としては先進的な(仏教には希薄な)社会活動を進めたことは、すでに中国に伝わっていたキリスト教の影響を見る見方もあります。一〇〇年ほど前の七世紀半ばにはペルシャからキリスト教が長安に伝えられて、景教の寺院も建てられていたのですから、ありえないことではありません。神話や宗教の伝播は想像以上に広範囲なものです。
仏教の伝来と共に中国古来の道教と儒教も伝わってきて、その伝来は七世紀から八世紀にかけて本格的になります。道教の陰陽五行説、易、暦、医術、神仙説、呪術も伝わり、これが後に日本独特の陰陽道になります。儒教はすでに四世紀末に百済から阿直岐と王仁が『論語』や『千字文』を献じていますが、六世紀には儒教の経典とされる易経、書経、詩経、春秋、礼記の五教が本格的に学ばれるようになり、これらの知識と理念が古代の律令制国家の形成に大きな力となります。仏教、道教、儒教という中国の宗教文化が、大陸の圧倒的な文化的優位を背景に古代の日本に流入していたことは、平安時代の初めに空海が『三教指帰』を著して、この中国の三宗教を比較して仏教の優れていることを論じたことにも示されています。仏教が国教的な扱いを受けているので、外来の宗教文化と日本の基層宗教の重なりは「神仏習合」と呼ばれていますが、実態は先進の大陸の宗教文化の全体と日本の古来の神祗祭祀の重なりです。
天皇が仏教に帰依したといっても、神々の祭祀と政治を一体とする祭政一致の基本理念は保持され、仏教国家の形成と並行して、日本古来の神々の祭祀が重んじられ、日本独特の神祗制度がつくられ、八世紀初めの大宝令で体系化されます。太政官の上に神祗官が置かれ、全国各地にあった大小の神社が官幣社(神祗官の管轄)と国幣社(国司の管轄)に体系化されました。もともと日本古来の神々には社殿はありませんでしたが、仏教寺院の影響でこの時代では社殿で祭祀が行われるようになっていたのです。この神祗制度により大嘗祭や新嘗祭など宮中の祭祀は国家の祭祀として制度化され、皇室神道となります。この日本古来の祭政一致の理念が、伊勢神宮など皇室神道系の神社では僧尼を忌む建前となり、仏教的な要素を意図的に排除する動きもあり、時代の状況によっては明治期の廃物毀釈の運動になったりします。

奈良・平安時代の神仏習合

平安時代には仮名文字の使用など固有の文化が芽生え始めますが、中国宗教文化の圧倒的な影響は続きます。しかし米作農業を生業とするこの国の民衆は、古来の日本の神々を祭る宗教に生きていました。仏僧の中にも行基や空也のように民衆の中に入って仏法を説き、空海のようにその多才によって民衆の崇敬を集める者もいましたが、全体としては、この国の宗教は世界宗教である仏教と民族宗教であり基層宗教である古来の神々の祭祀が混在することになります。この列島に統一的な国家が成立する奈良時代と平安時代という時期に、その国家の指導層に信奉された仏教は、この国の宗教と文化に圧倒的な影響力を示します。そのことは、日本の成立とその理念を語り、大和朝廷の正統性を主張するための日本神話(記紀神話)の成立にも、仏教の思想が深く浸透している事実からもうかがわれます。後に神道と呼ばれるようになるこの国の基層宗教の上に仏教という世界宗教が重なってくる状態を、普通「神仏習合」と呼んでいますが、これは宗教学でいう宗教混淆(シンクレティズム)とは少し違った独特の様相を示しており、現代に至るまで日本の宗教史を貫く縦糸、または軸としてその理解を欠くことができません。
仏教と民族古来の神々との重なり方には様々な形態がありますが、奈良時代では天にいる日本の神々も、六道(天も地獄や餓鬼など六道の一つ)に輪廻する苦しみから脱していないのであるから、仏教による供養によって救われるという考えから、神社の傍に神宮寺を建てて読経などの供養を行いました。一方この時代では、インドで帝釈天や梵天などヴェーダの神々が仏教を護るものとされたのに倣って、日本でも八幡や稲荷の神々が仏教の保護神とされて崇められることになります。大仏建立に際しても聖武天皇は橘諸兄や行基を伊勢神宮に派遣して成就を祈らせ、天照大神と盧遮那仏(大日如来)は同体であるとの夢告を受けたと伝えられています。奈良末期の道鏡の場合に見られるように宇佐八幡宮は神託で著名でした。平安時代に入りますと、政治的陰謀によって不慮の死を遂げた人の怨霊を祀って、飢饉や疫病を鎮めようとする御霊信仰が行われるようになります。その代表的な事例が、菅原道眞を天神として祀った北野天満宮です。その祀りには仏教の密教儀礼が用いられます。

本地垂跡説

また平安時代には天台教学の影響によって、仏と日本の神々の関係について「本地垂迹」と呼ばれる理論が行われるようになります。天台では法華経を中心の経典として重視しますが、その法華経は前半が迹門と呼ばれ、後半が本門と呼ばれます。本門で説かれる永遠のブッダに対して、迹門で説法する地上の(歴史的な)ブッダはその仮の現れ(迹)であるとされます。その関係が仏と日本の神々との関係に適用されて、仏を本地、日本の神々を仏が仮の姿で現れた垂迹とする理論です。平安末期には、日吉は釈迦、伊勢は大日の垂迹というように本地と垂迹の関係が具体的に決められます。
この本地垂迹説は仏教と日本古来の宗教の重なりを説明する理論として、各時代の要請に応えて様々な形態をとって利用され、場合によっては逆の応用もなされます。本来は仏教が日本の神々をその体系の中に取り込んで支配する理論でした。ほとんどの神社で祭神の本地となる仏の名が定められて、仏が本地であり神はその垂迹であるとする思想が一般化していました。ところが鎌倉時代後の中世には、中国で釈尊が老子の仮の現れであるという逆転が起こったように、その逆転(反本地垂迹説)が起こります。鎌倉時代には伊勢神道が起こり、神が本門であり仏はその垂迹であるとする思想を提起します。室町時代には吉田神道が、仏法は万法の花実、儒教は万法の枝葉、神道は万法の根本とするに至ります。ここまで来て本地垂迹説は終わりますが、このように日本では基層宗教が外来の世界宗教によって理論化されて、両者の重なりが複雑な様相を示すことになります。

日本古来の山岳信仰(山を神々や祖霊の住む場所として畏敬する信仰)が外来の密教、道教、儒教などに影響されて、山岳修行(山伏)によって超自然の霊力を得ようとする呪術的な儀礼中心の宗教となり、平安末期に「修験道」が形成されます。その他、日本における基層宗教と外来の世界宗教との複雑な重なりは、以下の各項で必要に応じて触れることになりますが、その歴史の全体については、末木文美士『日本宗教史』(岩波新書)を参照してください。

W 鎌倉仏教 ― 日本における宗教改革

末法思想

平安時代には寺院造営や法会や加持祈祷が宮廷の貴族社会に盛んになり、平安仏教は次第に貴族仏教となっていきます。諸大寺は貴族から寄進される荘園をもつ大領主となり、僧兵という武力まで保持するようになります。しかし平安中期以後は、律令制中央政権国家体制が揺らぎ、そこに飢饉、疫病、地震、洪水などの災害が加わり、末法思想が広く貴族と庶民の人心を捉えるようになります。末法思想というのは、釈尊の滅後には正法五〇〇年(または一〇〇〇年)の後、一〇〇〇年の像法の時代があり、それから末法の時代となり、末法が一万年続いた後に仏法が滅尽するという仏教の漸衰滅亡を警告する歴史観です。正法の時代は教法、修行、その証果の三つが揃っている時代ですが、像法は教と行はあるが証果がない時代、末法は教だけが残って行も証もない時代です。すでに中国の隋の初め頃に正像末の歴史観に基づく末法仏教運動の「三階教」が活動していました。末法の時代はいつ始まるのかについては、依拠する仏典によって違いますが、日本では一〇五二年に始まると信じられて、平安中期頃から末法の時代にふさわしい仏教を求める末法仏教運動が盛んになります。
すでに平安中期の一〇世紀には空也が出ています。空也は皇室の出身と伝えられ、若き日に修行を積むと同時に橋を架け井戸を掘り死者を供養するなど庶民の間で活動し、辺地や京都の庶民に阿弥陀信仰を広めて、市聖と崇められています。もともと貴族社会は庶民の信仰に無関心でしたが、空也が鉦を叩いて念仏を高唱して布教し、庶民の間に浄土信仰が広まるにつれて、貴族の間にも浄土信仰が広まっていきます。天台宗の学僧源信は比叡山横川の僧堂にこもって『往生要集』を撰述し(一〇一七年)、念仏を勧め、その後の浄土信仰に決定的な方向を与えます。良忍(一一三二年没)は大原に隠棲、声明を学び念仏の合唱を作曲、融通念仏宗を開いています。このような念仏信仰は貴族の間にも広まり、藤原道長の子の頼道が宇治の平等院を建立(一〇五二年)、阿弥陀佛を本尊として念仏を唱えたことは有名です。そして鎌倉時代が始まる少し前の一一七五年には、法然が専修念仏を唱えて浄土宗を開宗するに至ります。

法然の専修念仏

平安時代に仏教の最高学府であった比叡山で学んでいた若き学僧の法然(一一三三年生まれ)は、十五歳で受戒して正式な出家僧となりますが、当時の比叡山の俗化に抵抗して十八歳で黒谷に隠棲、この末世の時代に苦しむ成道の機根(気根、能力)なき民衆を救う仏教を追い求めて、すなわち末法という時と機根なき民衆にふさわしい仏法を求めて苦闘し、一切経を五回も読破したと伝えられています。しかしそれを見出せず絶望の淵をさまよっていた四三歳のときに、法然は善導の『観経疏』の中の一句に出会い回心します。法然は源信の『往生要集』の研鑽の中で引用されている唐の善導の教学に傾倒していたのです。その一句とは「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住座臥に、時節の久近を問わず、念々に捨てざる、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆえに」という一文です。この句に出会い、「たちどころに余業をすて、ここに念仏に帰」したと、後に『選択本願念仏集』で述べています。余業の中には高度な念仏と考えられていた観相念仏も含まれます。法然は無知の大衆の方便とされていた口誦念仏を、弥陀の本願から出て万人に与えられた道として選び取ったのです。この話は、ニュートンがリンゴが樹から落ちるのを見て万有引力の法則を発見したという話を思い起こさせます。これは天才ニュートンがそれまで必死に万有引力について考えていたから起こったことで、凡人が何百回リンゴが落ちるのを見ても万有引力の法則に思い至りません。法然が経典の解釈書の一句に出会って回心に導かれたのも、黒谷隠棲の二五年の苦闘があればこそ彼の深い霊性に起こった変革です。その後、法然は「偏依善導」(ひとえに善導に依る)を標榜して、比叡山を下り西山の広谷を経て東山の大谷に移り、念仏を広める活動に乗り出します。この法然四三歳の年、一一七五年を浄土宗開宗の年としてよいでしょう。それから一〇年後に平家は壇ノ浦に滅亡、一一九二年には源頼朝の鎌倉幕府が開かれることになり、時代は大きく転換します。
布教を開始したと言っても、当初は廬を訪ねてくる人に念仏を説く程度でしたが、一〇年ほどして天台宗の顕真が大原の勝林院に、当時注目され始めていた法然を招き、既成仏教の学僧たちと討論する場を設けます。これが後に「大原問答」と呼ばれることになるのですが、その討論の模様を後に法然自身が、「諸宗の教え(聖道門)と専修念仏の教え(浄土門)は、教えの優劣の比較では互角だったが、その教えを実行する人の能力に関する議論では、私の方が優っていた」と振り返っています。相手側も法然の末法にふさわしい仏法議論を認め、顕真の勧めで阿弥陀仏の周囲を念仏を唱えて巡ったと伝えられています。この大原問答によって法然の存在は広く世間に知られるようになり、法然は多くの貴顕を教化していきます。関白藤原忠道の三男の九条兼実(一一九一年に関白)も、長男を若くして失い、たびたび法然を招いて受戒し、念仏の教えを聞いていています。このような階層への念仏の浸透には、法然の持戒の天台僧としての一面が説得的だったのでしょう(法然は持戒の僧としても著名で、生涯独身を通しています)。後に兼実は法然を師として出家し、円証と名乗っています。兼実のような人の帰依は、当時の異端的仏教者の法然に対する世間の評価を変えることになります。そして法然独自の救済論は、一一九〇年東大寺で行われた浄土三部経の講義に際して、兼実の要望で撰述された『選択本願念仏集』においてまとめられることになります。
法然は貴賎男女の別なく浄土の教えを説き、多くの人を念仏に導きます。戦争すなわち人を殺めることを仕事とする武士にも念仏を説いて回心に導いています。たとえば南都(奈良)の焼打ちを行い、仏法の敵として極悪人とされていた平重衡は、法然によって念仏に導かれ、後に平安のうちに処刑されたと伝えられています。また合戦で息子と同年の平敦盛を討ち取った熊谷直実は、慚愧の念に駆られて法然に会い、念仏に導かれて出家します。遊女も流罪で四国に向かう途中の法然に救われたという逸話が伝えられています。法然は罪の軽重、善悪の量とは無関係に、誰でも念仏によって救われると説いて弥陀の慈悲の場に導いたので、慈悲の場に生きる念仏者に働く慈悲の力を理解できず、無条件の赦しは発菩提心(悟りを求める道心)を阻害し悪を許容するものだとして、南都北嶺の旧仏教側から激しい非難を浴びることになります。これはルターの宗教改革運動にも起こった非難と同質です。最初、叡山三塔の僧侶が天台座主に念仏停止を訴えた時、法然は「七ヶ条起請文」を書いて、諸宗を批判し阿弥陀仏以外の仏菩薩を譏ることをやめるように門弟に命じています。次いで南都六宗に天台・真言を加えた八宗が同心の訴状として、念仏停止の「興福寺訴状」を上皇に提出し、勅許を得ずに勝手に浄土宗を開いていることを批判しますが、この時にも念仏停止は行われず、法然も処罰されませんでした。しかしその後、後鳥羽上皇の女官が、上皇の留守中に安楽と住蓮によって出家したことで、上皇の怒りをかって二人は処刑され、法然も還俗、土佐に配流されます(一二〇七年)。翌年には大赦を受けますが、入洛は許されず、摂津に四年間滞留、一二一一年にようやく帰洛がかない、大谷の小庵に住みます。そこで病に臥し、翌年に八十歳の生涯を閉じます。死後も墓が荒らされるなど、法然の後半生は旧仏教側からの激しい反対で苦難の生涯でした。亡くなる二日前に弟子の源智の求めに応じて、一枚の紙に自分の教えの要約を書き留めます。それが三〇〇文字ほどの「一枚起請文」です。法然は遺言として、念仏が唱えられるところがわが遺跡となるのだから、遺跡などを建てて念仏の場を限定しないようにと言っています。弥陀の慈愛を絶対とし、自我を無とした姿が最後まで貫かれます。

浄土信仰の進展

このように平安末期の源信の『往生要集』に方向づけを得た浄土信仰は、鎌倉時代初期の法然の活動によって浄土宗という明確な形をとり、その浄土信仰は親鸞、一遍に受け継がれて進展していきます。その浄土信仰の中核をなす念仏も、ますます徹底されて民衆に広まり、鎌倉仏教の大きな潮流となっていきます。ここで鎌倉時代の浄土信仰の展開を概観しておきましょう。
京都の有力貴族の家に生まれた親鸞は、九歳で出家し範宴と号します(一一八一年)。比叡山の堂僧として二〇年の学業と修行を積んで、なお悟りを得ずに苦悩していた範宴は、二九歳の時、京都の六角堂に参籠して救世観音に祈っていたとき聖徳太子の示現を得て、法然の門に入ったと伝えられています(一二〇一年)。彼は綽空という名で、法然の弟子として、師の法然への全面的な信頼で学びます。法然が「偏依善導」であれば、親鸞は「偏依法然」です。綽空はその優れた資質を認められて、入門五年で『選択本願念仏集』の書写を認められます(一二〇五年)。これは専修念仏を深く理解した高弟だけに認められているものです。しかし、そのころ旧仏教側からの非難は激しく、ついに一二〇七年には安楽・住蓮が処刑され、法然が土佐配流になります(前述)。このとき親鸞は越後に配流されます。親鸞が流罪になったのは、彼が法然教団で重要な位置を占めていたからですが、彼の結婚が破戒行為と見なされたという理由もあったようです。彼が結婚を決意したのは、仏道を修める者が宿縁によって女性と結ばれるとき、救世観音がその女性になりかわり、生涯仕え、死に臨んでは浄土へ導くであろうという六角堂救世観音の夢告によったと伝えられています。しかし法然の、現世を過ごすには念仏の妨げになるものはすべて捨てよとの意向、聖(ひじり、遁世の人)であって念仏ができなければ妻帯し、妻帯して念仏ができなければ聖になって念仏せよ、との意向によるものであったという面もあったようです。法然は独身を通して持戒の僧として念仏に徹し、親鸞は妻帯して戒律の外にあって念仏する道をとります。二人は、宗教的(この場合は戒律上の)価値や資格が、慈悲や恩恵の絶対性の前では無価値・無意味であることを実証しています。これはルターが妻帯して、修道院的な宗教価値観を打破したことと通じています。親鸞は還俗させられたので、もはや僧でなく、しかし俗人もないので「禿」を姓とし、愚者に徹して「愚禿親鸞」と名乗るようになります。
一二一一年に流罪を解かれた親鸞(三九歳)は、越後を出て、一二一四年(四二歳)頃から常陸に向かいます。その途中、上野国で浄土三部経の千部読誦を始めます。しかし、念仏者にとって余業は必要ではなく、念仏一つで救われるという信心こそ肝要であるという原点に立ち返って、千部読誦の行を中止、東国各地に念仏を説いて回ります。こうして約二〇年間、東国各地に布教して念仏教団を形成した親鸞は、一二三四年(六二歳)に京都に帰ります。当時、京都では念仏者は弾圧されていて、親鸞にとっても危険な状況であり、積極的な布教活動は困難であり、主として著述によって布教に努めます。その間、東国各地に残してきた念仏教団に書簡を送って、また親鸞を訪ねてきた信徒に答えたりして指導します。とくに子息の善鸞が異議を唱えて、教団を分裂させる危険を見た親鸞は、わが子を義絶して念仏信仰の純粋性を保ちます。京都で送った晩年には、東国布教の時代から書き進めてきた主著『教行信証』六巻を完成します。親鸞八五歳の一二四七年頃と考えられています。教巻では大無量寿経が浄土往生を説く主要経典であるとして、阿弥陀仏の本願が浄土の根拠であることを説いています。行巻では、名号には阿弥陀仏が行ったすべての行が含まれているので、「南無阿弥陀仏」の名号を唱える人は名号の力で仏になれることを説きます。信巻では、浄土に生まれるか否かは名号の力を信じるか否かによって定るという「信心正因」を力説しています。行巻の最後に出てくる「正信偈」は、念仏は阿弥陀仏の本願を信じて往生が決定した人が、その恩に感謝して唱える称名であるという「信心正因・称名報恩」が唱えられています。親鸞は九〇歳になって京都で没します。親鸞は法然を阿弥陀仏の化身として敬愛し、地獄に落ちても従うとまで言って、師の法然とは別の宗門を立てる意図は全然ありませんでしたが、著作には浄土のまことの教えという意味で「浄土真宗」という表現も用いていました。ところが後の十五世紀に、親鸞の信仰を受け継いで形成された本願寺派の蓮如が、その語を宗派名として用いて、当時一向宗と呼ばれていた教団を「浄土真宗」と呼ぶようになり、大きな教団組織に発展します。
親鸞に続いて鎌倉中期には一遍が出て、念仏をさらに広く民衆に普及します。一遍は伊予の有力武士の家に生まれ(一二三九年)ですが、幼くして寺に入り、浄土宗西山派で学び、浄土の信仰を深めます。信濃の善光寺の参籠で霊感を受け、伊予に戻って草庵に住み、その後遊行の旅に出て、四国、九州、近畿の霊場を巡ります。一二七四年には浄土に最も近いとされる熊野の本宮に参籠し、そこで一遍は、衆生の往生には信・不信、浄・不浄に関わりなく、ただ阿弥陀仏の名号によって定まったことであるという啓示的な体験をし、その時の偈から一遍と名乗り、「南無阿弥陀、決定六十万人」と書いた札を配る活動を始めます。この時を時宗(毎日を臨終の時として生きる臨終終時の教え)の開宗の時としてよいでしょう。一遍は一切を捨てて、念仏を説き、この名号札を配る活動を続け、四国、九州、山陽、京都の各地を巡ります。信濃で先師と仰ぐ空也の先例に倣って、踊り念仏を催したところ、それが大きな評判となり、その後一遍が行くところ、必ず踊り念仏が行われて、多くの庶民がその運動に加わるようになります。遊行は奥州、関東と続き、鎌倉入りは幕府に阻止されますが、一二八四年に京都に入った時には大歓迎を受けます。その後、山陰、摂津、播磨、備後、故郷の伊予、四国各地を巡り、一二八九年に摂津の和田岬(現在の神戸)で没します。
平安末期から鎌倉時代にかけて、比叡山の教学を批判する中で起こった鎌倉新仏教は、祖師の周囲に集まった人たちの活動によって徐々に社会の各層に浸透していきます。鎌倉新仏教の主流は浄土信仰ですが、法然はひたすら念仏を唱えようとする衆生の努力によって、また親鸞は阿弥陀如来の救いを信じる心が起こった時に救いが決まると説いたのに対して、一遍は衆生の努力や阿弥陀如来の力によるのではなく、救いは名号そのものにあるとし、ひたすら名号を唱えれば、阿弥陀仏と衆生と名号が一体となって、そこに救いが現前すると説きます。そこに他力念仏の一つの極致が見られます。一遍が配る名号札は救いの証拠として人々の心を捉えます。一遍はこの他力念仏と一種の終末論(臨終時の強調)、また札や踊りという手段で大衆の宗教的エネルギーを結集することに成功します。しかし、それまでの顕密仏教体制を批判する鎌倉新仏教は、旧体制側から激しい批判と迫害を受けることも避けられませんでした。鎌倉新仏教の主流は法然、親鸞、一遍らを祖師とする浄土念仏信仰ですが、すでに法然や親鸞は、先に見たように比叡山や旧仏教側から激しい反対と体制側から迫害を受けて流刑になっています。そして一遍が活動した鎌倉中期には、鎌倉新仏教自身からこの念仏に対して激しい反対運動が起こります。それは「念仏亡国」を唱えた日蓮の活動です。

日蓮の反念仏活動

日蓮は安房の九十九里浜近くの身分の低い家に生まれ(一二二二年)、一二歳で地元の天台宗清澄寺に入り、一六歳で僧となって、鎌倉、京都で学び、比叡山や高野山でも研鑽を重ね、密教、浄土教、禅を学びます。その中で天台が中心の経典とする法華経の至上を確信、天台復興を使命とするようになります。長期の修学の旅を終え、三二歳で清澄寺に帰った日蓮は、昇る太陽に向かって「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて、法華経に基づく信仰の確立を宣言します。日蓮は法華経に基づいて、阿弥陀仏だけを至上の仏として帰依し念仏を唱える浄土教を批判したため、浄土教の地頭や念仏信者から攻撃されて鎌倉に逃れます。鎌倉では草庵で法華経を説き、弟子も出来てきます。その頃諸国に飢饉が広がり餓死者が出ます(一二五九年)。これらの災厄は幕府も民衆も念仏に走り法華経を捨てたからであると、日蓮は辻説法で激しく批判します。一二六〇年には『立正安国論』を書いて幕府に提出します。このような行動で念仏信者の怒りを買い、草庵は焼き打ちされます。民心の動揺を恐れる幕府は日蓮を伊豆への流刑に処します。二年ほど経って、日蓮は赦されて鎌倉に戻ります。
この頃、元から国書が届いて(一二六八年)、幕府はその対応に苦慮します。日蓮は『立正安国論』で予告した他国からの侵略が実現しているとして、念仏や禅を退けて、自分を国師として用いるように幕府に上書します。この上書を理由に、幕府は日蓮と弟子たちを捕らえ、日蓮を佐渡への流刑に処します。この時、幕府は密かに日蓮を斬首しようとしますが、奇跡が起こって免れたという「竜ノ口法難」は、後世に造られた伝説と考えられます。佐渡での二年余りの厳しい流人の生活の中で、日蓮は末法の世に法華経を広める自分の使命をさらに深め、『開目誚抄』(書名の抄は金偏)などを書いて、その独自の教説を展開していきます。一二七四年に赦されて鎌倉に戻っていた日蓮は、元の侵攻に動揺する幕閣に面会し、蒙古調伏に密教儀礼を用いないように諌言します。そこでも自説を容れられなかった日蓮は、有力信徒の所領である甲斐の見延山に退き、久遠寺を開き、集まってきた弟子たちの教育と著作に専心します。
天台の教学では、法華経を中心に置きながら、他の経典も相応の価値があるとして学んでいきます。それに対して日蓮は、法華経だけが絶対の真理であるとして、それ以前の経典はブッダの仮の教えであるとして価値を拒否します。また、法華経信仰以外の宗派については、「念仏無限、禅天魔、真言亡国、律国賊」として激しく反対します。そして末法の時代の仏弟子が行うべき行は題目の流布だけであるとして、他の行を厳しく退けます。題目は真理そのものであり、そのまま全宇宙をあらわす曼荼羅であるとし、題目を中央に、周囲に諸仏、諸菩薩、日本の諸善神を配した曼荼羅を書いて本尊とし、弟子たちに与えます。法華経だけが真理であり正法であるのですから、政治もその正法に従わなければならないとして、王仏冥合を理想とし、その立場から天皇や幕府の政治を批判します。晩年の日蓮は、本尊と題目に並んで、国立の戒壇についても語るようになります。天皇や将軍の命令で戒壇が立てられることは、その宗派の国教化を意味することになるでしょう。一二八一年に弘安の役(元の来襲)があり、その翌年見延で健康を損なった日蓮は、湯治のために下山しますが、途中で六十年の波乱の生涯を閉じます。日蓮没後は六老僧と呼ばれる高弟たちが交代で久遠寺を守り、日蓮の信仰を継承します。
日蓮が見延の山中にこもってからは、高弟たちが実際の布教活動を進めていました。彼らはそれぞれ各地に拠点があり、有力な外護者がいたので、天台教学に対する姿勢の微妙な違いもあって、その勢力は各地に分散し、分裂も起こります。その中で注目すべきは六高弟の一人、日興の活躍です。日興は駿河の富士郡を地盤とし、地元の地頭の後援を得て最大の信徒集団を組織していました。法華経とその題目だけを正法とする排他的な信仰が組織されて教団となって現れると、その地を支配する権力はそれを弾圧して除こうとします。刈り取りの農事の紛争を口実に、権力側は日興の信徒集団の熱原の農民を逮捕するに至ります。裁判で念仏を唱えるように強制、拒否して題目を唱え続ける農民の代表を鎌倉に送って、三名を処刑、一七名を投獄します。この熱原の殉教事件は日蓮の存命中の一二七九年に起こっており、日蓮は殉教者たちを「法華経の行者」と呼んで賞賛しています。この日興が建てた大石寺(富士宮市)を拠点とし、その宗派は駿河から東方各地に伸び、後に日蓮正宗を名乗ることになります(創価学会もこの系統から出ています)。

禅仏教

鎌倉時代には法然、親鸞、一遍の浄土信仰が、それに対抗する日蓮の法華信仰を含めて、民衆の中の大きな流れとなって、奈良平安の旧国家仏教を改革しますが、それと並んでもう一つ別のタイプの仏教が盛んになります。それは中国から栄西と道元によってもたらされた禅の仏教です。禅は、他の宗派がどれかの経典に依拠して信仰と教義を立てるのに対して、禅は「不立文字」を掲げ、書かれた経典に依拠することなく、自分の霊性の中で直接ブッダの悟りに至ろうとする仏教です。
禅はすでに中国で盛んに行われていましが(中国における禅の展開については本書四五六〜四五七頁を参照)、宋の時代に栄えた天台山と天童山で臨濟禅を修めた栄西が、その禅を日本に持ち帰り、鎌倉幕府が開かれる前年の一一九一年に臨済宗を開きます。栄西は禅こそ末法の教えであるとして、禅による天台の復興を唱えますが、比叡山は彼を異端とし、朝廷は禅宗を禁じます。栄西は『興禅護国論』を著して、禅によって天台宗を復興し、新しい鎮護国家の仏教を打ち立てることを主張します。一一九九年に幕府から招かれて鎌倉に下った栄西は、公卿階級に対抗しようとする武士階級に歓迎され、幕府に支援された栄西は京都に戻って建仁寺を創建します。建仁寺は天台、密教、禅の三宗兼学の道場です。臨済禅は、師から出された公案を瞑想解決して悟りに至ろうとする禅で、栄西は鎌倉と京都に拠点を作って多くの弟子を育てました。栄西の没後も、臨済宗は幕府の保護を受け、武士層に大きな影響を与えることになります。幕府はその後も日宋交流を重視、来日した秀れた禅僧によって鎌倉には建長寺、円覚寺などが建てられ、室町時代には京都五山、鎌倉五山などの臨済宗の有力寺院を中心に、五山文化が栄え、日本の禅文化は大きく発展します。
栄西の臨済禅に続いて、道元が宋から曹洞禅を日本に伝えます。道元は内大臣の家に生まれますが(一二〇〇年)、幼くして両親を失い、一三歳で出家して比叡山に入ります。比叡山では天台を学びますが、仏法を極めるには宋で学ぶことが必要と考え、宋との交流の深い建仁寺に入ります。そこで師事した明全に従って宋に渡り、五年にわたり各地で禅を学びます。そして最後に天童山の如浄から曹洞禅を学び、帰国して建仁寺に戻り、曹洞の座禅を実践します。そこで『普勧坐禅儀』を著して禅こそ釈迦の正法であると強く主張したため、天台、密教、禅の三宗兼学の建仁寺で孤立し、比叡山からの批判もあって、宇治に隠棲します。道元は、理論にとらわれず、ひたすら座禅して悟りに到る道を説き、不立文字、只管打坐を唱えます。道元は、念仏も加持祈祷も否定、天台、真言、臨済、浄土(念仏)の諸宗を厳しく批判します。その後、寄進を受けて深草に興聖宝林禅寺を建て(一二三四年)、禅林の清規(規則)を定めて、座禅修行を指導します。臨済宗から懐奘らの集団入門もあって、その興聖寺教団は隆盛期を迎えますが、比叡山衆徒の攻撃も激しくなり、ついに一二四三年、弟子の豪族からの寄進を受けて、越前に永平寺を建てて移り、そこを曹洞第一道場として弟子の指導にあたります。その間、道元はすでに宇治の時代から書き始めていた主著『正法眼蔵』を書き続けます。この書名は、真理を見通す知恵の眼によって悟られる秘蔵の法蔵を意味しています。道元は、地上のあらゆる権力より上位にある仏法の権威を主張し、この世との交渉を避け、京都や鎌倉に行くことはほとんどありませんでした。しかし永平寺に入って一〇年ほどで病を発し、永平寺を高弟の懐奘に託して京都で療養、一二五三年に五四歳で没します。
道元は厳しい出家主義を主張しましたが、鎌倉末期で出た三代目の弟子の瑩山は、道元の出家主義と純粋禅の宗風を改め、大胆に伝統宗派の兼修や、地元の白山観音信仰との習合を進め、加持祈祷や葬儀など民衆に関わりの深い法要を整備、曹洞宗が大きく地方に進出することに成功、中興の祖と仰がれるようになります。曹洞宗は現在一五〇〇〇余りの末寺を有する大教団になっています。
 なお日本における禅の宗派には、鎌倉新仏教として出発した臨済宗と曹洞宗の他に、一七世紀(江戸時代初期)に明から来日した隠元によって開かれた黄檗山万福寺を本山とする黄檗宗があります。万福寺は伽藍や法要はすべて中国風を用いていますが、日本の黄檗宗の禅は念仏禅の禅風を掲げ、江戸時代に諸藩大名の支持を得て拡大、大きな勢力となります。

鎌倉仏教の革新性

鎌倉時代に起こった新仏教は、奈良平安時代の伝統的な旧仏教を改革する仏教として注目されます。鎌倉時代の新仏教としては、法然・親鸞の浄土信仰、それに反対する日蓮の法華信仰、および栄西と道元による禅仏教が代表的なものですが、それらの新仏教はほぼ例外なく、発足当初には旧仏教側から厳しく批判され迫害されています。その事実は、それらの新仏教が旧仏教にはない新しい主張であり、旧仏教には容認できない信仰であったからです。では、鎌倉新仏教はどういう点で、旧仏教側から批判と迫害を受けるほど革新的だったのでしょうか。
鎌倉新仏教の革新性は、まず第一にその庶民性にあります。奈良平安期の仏教は何よりもまず鎮護国家の仏教であり、統一国家の統治と安泰のための仏教であり、庶民の救済のための仏教ではありませんでした。それに対して鎌倉期に起こった法然・親鸞の阿弥陀信仰は、もはや国家のためではなく、庶民が一人ひとり念仏を唱えて浄土に救われるという民衆のための仏教でした。念仏に反対した日蓮の法華信仰も、題目を唱えることが法華の業であるとした点で、その庶民性は浄土宗と同じです。仏教が庶民の救済のためであるならば、鎮護国家の旧仏教はその存在理由を失います。その庶民性は末法思想の影響が大きいことは先に見ました。厳しい修行を要求するように見える禅宗も、膨大な経学の知識を必要とせず、直接釈尊の悟りの境地に至ろうとする点で、末法の時代の万人の仏教であることを標榜しています。鎌倉新仏教が仏教を庶民のものにしたという点に、その革新性を見ることは広く認められています。しかし、奈良平安の旧仏教にも、行基や空海さらに空也のように、広く旅して社会事業を行い、仏法を庶民に説いて幅広い尊崇を得た仏僧もいました。鎌倉仏教の庶民性は全く新しい革命的変革とは言えない面もあります。
鎌倉新仏教のもう一つの革新性は、その選択主義にあります。法然がその主著に「選択本願念仏集」という名をつけたことに示されているように、法然が諸仏の中の阿弥陀仏の一仏を選び、その阿弥陀仏の名号を唱える念仏だけを浄土に生まれる行として選び取ったこと、その「選択」を新しい宗門の基本原理とした選択主義が、旧仏教側の激しい反発を招くことになります。法然は口誦念仏だけを浄土に生まれる唯一の道とし、他のすべての聖道門の行を無意味として退けたので、既成仏教側から求道心を否定する宗門として激しく批判されることになります。旧仏教側が念仏禁止の勅令を求めて朝廷に出した訴状にも、念仏だけを認めて他の行を否定する法然の排他主義が非難されています。法然も教団の存続を考え、他宗やその行を非難しないように弟子たちに求めています。念仏に激しく反対した日蓮も、法華経だけを選び、その他の経典を拠り所とする他宗を邪教として否定し、「南無妙法蓮華経」という題目だけを真理としたので、その排他主義が他宗から激しく非難されることになります。禅宗もすべての経典をとそれに基づくすべての宗門を否定、座禅という一行だけを選びとる点で、選択主義を基本にとしているといえます。「法然と親鸞の手によって、仏教がその成立以来もっとも一神教に近い相貌を示すことになった」という見方も出てきます(佐藤弘夫『鎌倉仏教』ちくま学芸文庫、一一一頁「一神教理念の成立」を参照)。
しかし、一つの仏一つの行の選択と、その結果としての一神教的信仰の確立という鎌倉仏教の革新性は、祖師を継承した弟子たちが形成した教団では長く続きませんでした。法然は「念仏以外に救いはない」として、専修念仏を唱えます。その選択主義とそれに伴う排他性によって、法然の専修念仏は国家と結びついた伝統的な旧仏教側からその排他性を批判され禁圧されることになります。法然の信仰を継承し、その念仏の信仰によって教団を形成した弟子たちは、その教団が社会的に安定した地位を得て拡大するためには、伝統的仏教からその存在を認定してもらうことが不可欠になります。この問題に直面して弟子たちは、祖師の信仰を貫いて、迫害を覚悟して選択の原則を維持するか、念仏の他力信仰は維持しながら、選択主義は棚上げして他行(聖道問の諸行)も認めて、伝統仏教からの認可も得るという妥協の道をとるかの選択を迫られます。法然の教団でも、大多数は後者の妥協の道を選びます。法然の没後、弟子の証空(浄土宗西山派の祖、久我通親の養子)は当時の貴族社会での交友も広く、天台座主に慈円の庇護で流罪も免れています。証空は多くの上層貴族の帰依を受け、すべての衆生の往生はすでに確定しており、浄土往生とはそれを悟ることに他ならないとします。彼の浄土信仰は天台教学と融合、天台の本覚思想の影響を強く受けているといわれます。また法然の弟子の弁長は、聖道門も浄土門も釈迦の法門の一つであって、互いに批判してはならないと主張、浄土門は聖道門の行を行えない人を対象とした法門であるとして、住み分けによる妥協を図ります。これは法然が、末法の時代には聖道門はその効力を失うとした立場とは違ってきています。この弁長の弟子の良忠は、鎌倉に布教、鎌倉末期には京都に戻って、法然ゆかりの大谷の地を手中にして知恩院を建て、法然の正統な後継者を称します。
法然の門下で、このような妥協を排して選択主義の原則を維持し、念仏を唯一至上の法門とした少数派の代表が親鸞ですが、その親鸞の教団も三代目の孫の覚如やその子の存覚(本願寺派開祖)になると、「聖道門の修行に耐えられない人々のために、今易行の一道を設けて他力の往生を示す」と述べて、念仏は数ある救いの中の一つの選択肢となります。この本願寺派の八代目の蓮如が北陸の農村に勢力を拡大、今日では末寺二万を超える本願寺派の基礎をつくります。念仏に激しく反対、法華経とその題目だけを真の法門として他宗を邪教として切り捨てた日蓮の門弟の間でも、その選択主義を固持する日興(前述)は孤立し、多数派は妥協の道を選び、日蓮晩年の講義の筆録と称する偽書まで出て、天台の本覚思想に立って伝統仏教との融合が図れます。日蓮晩年の門弟の一人ひとり日像は、京都に出て布教、比叡山からの迫害でしばしば洛外追放処分を受けますが、それに屈せず布教して洛中の商工階層に信徒を獲得、ついに勅許を得て妙顕寺を設立、後醍醐天皇から勅願寺の一つに列せられます。こうして東国の小教団であった日蓮宗は、国家公認の宗派となり、全国に教線を伸ばすきっかけを得ます。悟りに至る行として座禅の一行だけを選び、厳しく出家主義を貫いた道元の曹洞禅も、三代目の弟子の瑩山によって他宗との兼修を認め、加持祈祷や葬儀などの法要を取り入れることで曹洞宗という大きな宗派となっていきます(前述)。こうして宗祖たちが掲げた選択主義の厳しさは、その教団が社会的認知を受けて成長する過程で失われ、鎌倉仏教の革新性は歴史の中で希薄になっていきます。
 鎌倉時代に起こった新仏教の中で、やはり法然・親鸞の浄土信仰がその後の日本の仏教の主要な流れになったという点で注目されますが、その革新性はここで見たような庶民性と選択主義に見られます。その革新性は教団としての歴史の中で希薄になっていったこともここで見たことですが、法然・親鸞の浄土信仰、専修念仏の主張には、人間の宗教性を根本から革新する革命性、すなわちヨーロッパのキリスト教が経験した宗教改革と同質の革新性があることを見逃すことができません。それは「恩恵の絶対性」による救済の信仰です。 本書第四章のキリスト教の歴史の宗教改革のところで見たように、ルターに代表される宗教改革の根本原理は「恩恵の絶対性」にあるとわたしは理解しています。キリスト教における宗教改革は、それまで西欧社会を支配していたカトリックの原則、すなわちカトリック教会の宗教であるキリスト教という宗教を忠実に行うこと(その教義の信奉や洗礼・聖餐などの儀礼への参加)によって救われるという原則に対して、改革者たちは「信仰によって救われる」ことを根本原則として掲げ、カトリック宗教の枠の外に出たのです。改革者たちのいう信仰とは、キリストにおいて与えられる神の恩恵への全存在的な委ねであって、それ以外の宗教的諸行は救済の必要条件ではないとしたのです。その主張は、パウロが律法の外での義、すなわちユダヤ教という宗教の枠の外で、ただキリスト信仰によって救われるとした主張と同じであること、すなわち宗教改革はパウロの福音と同質の改革であることは広く認められています。そしてパウロのキリスト信仰とは、キリストにおいて示された神の絶対無条件の恩恵への全面的な委ねであり、それはイエスの告知の中身であることは、わたしも前著『福音の史的展開』で述べました。
 法然・親鸞が阿弥陀仏の慈悲から出る衆生救済の本願を絶対として、その本願だけに自己を委ねる念仏だけを救いとしたことは、キリストにおける神の恩恵を絶対として、その無条件の恩恵に自分を委ねる信仰だけを救いとしたパウロの福音と、人間の側の信仰の姿勢は同質です。ただ阿弥陀仏は福音が示す天地万物を存在させる根源的な働きとしての創造者ではなく、その本願にイエス・キリストの出来事における贖罪の働きのような告知もありません。その点で福音とは違いますが、「恩恵の絶対性」を指し示している点で、法然・親鸞の浄土信仰は福音の先駆者的役割を果たしています。一二〇〇年前後の法然・親鸞の出現は、一六世紀の西欧の宗教改革の三〇〇年も前のことです。第五章のバルトのところで見たように(本書一九九頁)、バルトは法然・親鸞の浄土信仰による旧仏教の改革と西欧の宗教改革を比較して、その相似と相違を述べた上で、その出現を神の摂理だとも言っています。バルトが言うように、法然・親鸞の浄土信仰は、救済者の恩恵を絶対とする点で、「日本のプロテスタント主義」と言えるでしょう。

室町時代の宗教

鎌倉幕府が倒れたのち南北朝時代を経て、足利尊氏が政権の座に就き、京都の室町に幕府を開きます。この足利氏の室町幕府が統治した時代が室町時代と呼ばれますが、この時代は鎌倉時代の新仏教をめぐる諸宗教の進展の時代として、この鎌倉仏教を扱う項目Wの中でごく簡単にまとめておきます。
ヨーロッパに宗教改革が起こったとき、それに対抗してカトリック側にも対抗改革が起こったように、鎌倉室町時代には鎌倉新仏教に対抗して、奈良平安の旧仏教にも様々な形で改革が行われます。その一つひとつを詳述することはできませんが、その改革運動から多く秀れた仏僧が出て、その宗派や教団が独立して活動するようになります。鎌倉室町時代には天台宗や真言宗でも独立した宗派がそれぞれの本山寺院を建てて活動し、その宗派は現在に至るまで続いています。しかし鎌倉室町時代では、将軍家の保護を受けた禅の臨済宗が時代の宗教文化をリードします。鎌倉幕府は宋の制度に倣って、建長寺や円覚寺以下の臨済宗五寺を選んで官寺最高位の五山とし、それに続く位の十刹を定めました。尊氏は禅僧夢窓疎石によって天龍寺を建て、南北朝の戦乱の死者を弔うために全国に安国寺(後に全国の守護大名の菩提所)を建てます。以下の室町の歴代将軍は臨済宗を保護、南禅寺を五山の上、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺を京都五山とします。金閣・銀閣で有名な鹿苑寺と慈照寺も、将軍の別荘を改築した臨済宗の禅寺です。もともと禅宗は中国から伝えられた宗派ですから、臨済寺院では漢文と漢文学が学問の基本とされます。室町時代には明の中国との交流は禅僧が独占、禅僧の中から秀れた学者、文人、水墨画家が輩出し、禅の思想を文化の様々な領域に浸透させていきます。室町時代に発展した狂言、茶、立花、連歌などに、幽玄、わび、さびなどの禅特有の価値が取り入れられるようになり、この時代の禅寺の建築や庭園は日本文化を代表することになります。このような禅の土壌に花咲いた室町の宗教文化を「五山文化」と呼びます。
一方、鎌倉時代に成立した浄土系の真宗と法華信仰の日蓮宗は、室町時代には民衆の生活に根をおろして大きく発展します。小さな教団であった本願寺は、室町中期の一四五七年に蓮如が法主となって教団を率いるようになり、半世紀にわたる彼の活動によって大きな教団となって、門徒農民の一向一揆の大波を引き起こし、時代の転換の大きな力となっていきます。当時近畿や北陸の先進的な農村では名主を中心に農民の自主的な結合が生まれており、蓮如はまず近江湖南地方に門徒の組織を固め、天台宗から切り離しますが、僧兵たちの攻撃を受けて避難を余儀なくされます。次に応仁の乱のころに越前吉崎を拠点として北陸、信濃、東北に教線を伸ばします。しかし加賀の守護はその勢力を恐れ、吉崎の道場を焼き討ちにします。絶対他力の信仰で来世の救済を確信する門徒農民は、死を恐れず勇敢に守護の武士団と戦います。その頃一向宗と呼ばれた時宗の門徒が大挙して加わっていたので、また真宗門徒も念仏の一向専修を宗旨としていたので、彼らの武装蜂起が一向一揆と呼ばれるようになり、一四八八年に起こった二十万を超える加賀の一向一揆は、守護の富樫氏と戦って勝利し、加賀一国を支配するにいたります。蓮如は繰り返し封建領主の命令を尊重するように命じ、一揆を制止しようとしますが、火は燃え広がり、一向一揆は戦国時代には北陸、近畿、東海に及びます。蓮如は吉崎を去って、山科に本願寺を建て、門徒を指導しますが、七五歳で法主を子に譲り、大阪の石山に本願寺を建てて隠棲します。そして三年後の八五歳で山科で没します(一四九九年)。
石山本願寺は真宗の本拠地となり、門徒農民の貢納と隣接する堺の商人と結んだ日明交易で、強大な封建勢力となり、堀をめぐらした城郭のような広大な坊舎を中心に門前町が栄えます(これが大阪のはじまりです)。一〇代目法主の証如の時代に一向一揆は西国と東北に広がり、法主の力は破門によって信徒の来世を支配するまでになり、絶頂期を迎えています。一一代目の顕如の時代には、正親町天皇に即位礼の費用を献じ、門跡に列せられ、法主の貴族化が進みます。顕如は織田信長の天下統一に対抗、教団の総力を結集し、また戦国の武将と組んで、一五七〇年から十年にわたって織田軍と戦います。数次の講和を経て死闘を繰り広げ、ついに正親町天皇の仲介で講和、顕如は石山を退去し、石山本願寺は開城のさいの発火で焼失します。この石山戦争で一向一揆は終息することになります。その後、豊臣秀吉によって京都に西本願寺が建てられ浄土真宗本願寺派の本山となり、徳川家康によって東本願寺が建てられて真宗大谷派の本山となり、武士による統一政権に取り込まれていきます。
浄土信仰、とくに浄土真宗が農村に浸透したのに対して、日蓮の法華信仰は京都をはじめ西国の都市に進出、町衆の宗教として商工民に迎え入れられます。法華経が現世利益を強調し、政治に積極的に関わる日蓮宗の実践的な性格が、勃興しつつある商工民に歓迎されたのでしょう。応仁の乱の前夜には、京都の町衆の大半が法華信仰に帰したといわれています。宗内では法華経の解釈について教学論争が続き、布施について不信者から受けるべきか否か、布教の方法について水がしみ通るように説く摂受か、激しく説得する折伏かが争われます。室町末期には京都に二一の本山が立ち並び勢威を誇ります。一五三二年に京都の上層町衆、近畿の有力武士団、郷村の支配層によって指導された法華一揆が起こり、京都を天台宗などの旧仏教勢力と一向一揆から守ろうとします。しかし比叡山は僧兵の大軍を出動させて、日蓮宗の二一の本山を破壊、法華一揆を砕きます。京都の日蓮宗は一時堺に本拠を移し、戦国時代末から復興に向かうことになります。
鎌倉室町時代には神道にも新しい動きがあり、伊勢神道と吉田神道という新しい形態とることになります。先に神仏習合の本地垂跡説のところで触れたように、仏教が国教的な地位を占めていた奈良平安時代には仏教が理論的にはリードして、仏が本地であり日本の神々はその垂迹(仮の現れ)とする理論が行われており、神道の各神社はその祭神を仏教的な起源で説明していました。ところが、元寇の国難によって高まった国家意識は、日本を天皇を中心とする神の国だとする神国思想になっていきます。鎌倉時代には王朝勢力の衰退とともに、伊勢神宮もその基盤を朝廷から封建領主や庶民に移し、御師と呼ばれる下級神職が全地方の各階層に呼びかけ伊勢参宮の風習を広め、武士や僧侶の参宮も多くなっていました。鎌倉中期に半世紀にわたって外宮の神職団のトップであった度会(わたらい)行忠は、外宮の祭神が水の神、食物の神であることから、この神を万物の創生者である神と同体であるとして、外宮優位の神道説(外宮神道、度会神道)を展開します。伊勢神道は古代王朝の回復によって、かっての伊勢神宮の地位を回復しようとする立場ですから、天皇の宗教的権威を神道の理論と歴史によって強調します。この伊勢神道の中から、南朝の武将北畠親房の『神皇正統記』が出ます。この書は「大日本は神国なり」と書き起こすことになります。この書では、三種の神器が皇統の根拠とされ、天皇の徳と政治理念を表すものとして理論化されています。
室町末期に吉田神社の吉田兼倶(一五一一年没)が新しい神道(卜部神道、唯一神道)を唱えます。吉田家はもともと卜占をもって仕える卜部氏が京都の吉田神社を預かり、吉田を称した家柄です。吉田家は神祗伯下位の立場でしたが、神祗伯世襲の白川氏を凌駕して、吉田神社の下で全国の神社を統合するために、代々学者を出してきた卜部家に伝わる神道説を総動員して、独自の神道教義を作り上げます。その教説は主著『唯一神道名法要集』に見られます。これまで垂迹説によって仏教と習合してきた神道を批判、それに代わって卜部氏だけが伝えてきた唯一至高の神道である元本宗源神道を説くと称します。この神道は、天地の根源、万物の霊性の顕現、常住恒存の大元尊神に発し、顕露教と隠幽教の二面を持つとします(これは明らかに仏教の顕教と密教に倣っています)。顕露教は古事記や日本書記に基づく神道であるが、隠幽教は実際には存在しない三つの経典を典拠にして、密教の加持や祈祷をして内と外の清浄を実現するなどと主張、かなり強引な仕方で自説を立てています。兼倶は策略を弄して幕府にとりいり、吉田神社の南に大元宮と称する神殿を建て、伊勢神宮をはじめ全国三千余の神々を勧請、神祗長上を自称し、全国の神社に位階を授けたり、各種の免状を発行したりして神官を傘下に収めていきます。兼倶が唱えた吉田神道は、仏教、儒教、道教の三教に対して神道の至上性と唯一純粋性を主張しましたが、実際は仏教、老荘、道教、陰陽五行説など様々な信仰を取り入れたものでした。江戸時代になると幕府は吉田家を神道家元と認めています。

X キリシタン史 ー 日本と西欧の接触

ザビエルとイエズス会の布教活動

一五四九年のフランシスコ・ザビエルの来日から一六一四年の江戸幕府の禁教令までの六五年間に、イエズス会を先頭に行われたカトリック・キリスト教の布教活動は大きく進展し、禁教令が出た時には三七万人のキリシタン信者がいたと推定されています。日本史で「キリシタン史」とは、ザビエルの来日から島原の乱の後に出された鎖国令(一六三九年)までの約一世紀の歴史を指していますが、禁教の時期には多くの殉教者がその信仰を言い表しています。戦国の混乱期に行われたカトリック・キリスト教の布教が、なぜこれほど急速に日本で受け入れられたのか、また禁教期には多くの殉教者を出すほどの激しい抵抗をすることができたのか、ここでその歴史を概観しておきましょう。
諸国の大名たちが領地の保全と拡大のために命がけで戦った戦国時代は、人間の世界は極めて不安定で不安に満ち、神仏の加護や来世の確実さを求める宗教心が高揚した時代でした。仏教や神道の宗教的権威が大名や武将、農民や都市の庶民の心を捉えていました。大名や武士たちは戦場で神仏の名や名号・題目などを旗印に掲げて神仏の加護を祈り、本願寺は一向一揆に見られるようにその一声で農民を動員することができました。そのような戦国時代の不安が一層深刻な庶民に、より確かな拠り所を求めさせ、キリスト教に向かわせたと考えられます。
この時代の日本にキリスト教をもたらしたザビエルはイエズス会の有力な会士です。イエズス会の成立やその性格と活動については先に見ましたが(本書一一六頁)、それはローマカトリック教会の修道会の一つで、教皇に忠誠を誓い、ローマカトリック教会のために戦う先兵的組織です。また、宗教改革後の対抗改革の一つとして、カトリック教会の世界伝道についても先に触れましたが(本書一一九頁)、まさにザビエルの日本伝道はカトリック教会の世界伝道の先端に位置します。宗教改革の波はピレネーを超えてイベリア半島には及びませんでしたから、スペインとポルトガルのイベリア二国はカトリック教会の強固な基盤となります。イエズス会はロヨラやザビエルらのスペイン出身者が多いのですが、スペインでは認可されずポルトガルの認可を受けていたので、ポルトガル系の修道会とみなされ、ザビエルもイエズス会士として(後述の布教保護権によって)インドに派遣されることになります。
当時カトリック教会の世界伝道は、カトリック教会の布教保護権の下に行われていました。布教保護権というのは、ある国や王室が異教徒世界への教会の布教活動を援助すると、その国や王室に現地での植民地経営のための航海、征服、領有、貿易を行う権限を教皇が認めるという制度です。大航海時代にスペインは西に向かい南北アメリカの新大陸に進出、ポルトガルは喜望峰を経て東に向かいインド航路を開拓していました。教皇は大西洋上の経線によって地球を二分し、西側をスペインに、東側をポルトガルに、その布教保護権を与えました(ただ両国間の条約でその経線の西のブラジルにはポルトガルの布教保護権が認められました)。この布教保護権によって大航海時代の海洋大国であったスペインとポルトガルの両イベリア・カトリック教国が世界を二分して、カトリック・キリスト教の布教と植民地獲得を一体として推し進め、競合することになります。
東回りのポルトガルはインドのゴアに植民地を作り、インドと東アジアの布教と植民地経営の拠点としていました。ゴアをポルトガル領インドの首都として、ポルトガルはマラッカを制圧し、中国を目指しますが、中国は受け入れなかったので、非合法な貿易活動をしている倭寇と接触します。その中でゴアを拠点として活動していたザビエルは日本人アンジローと出会い、日本についての情報を得ることになり、日本布教を決意するにいたります。ザビエルが日本に到着する少し前の一五四二年には種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝わり、戦国時代の戦争に大きな影響を与えています。ポルトガルを通して日本と西欧の接触は始まっていました。おそらくこれは、中国がすでに開拓していたインドにいたる海上交通路にポルトガルが入り込んできていたからであると考えられます。
ザビエルはイエズス会のトーレス、フェルナンデスの両名とアンジローと共に中国船で日本に向かってマラッカを出航、一五四九年の八月、アンジローに案内されてザビエル一行は鹿児島に上陸、藩主島津貴久に謁見しています。イエズス会はまず領主にキリスト教を説いて改宗させ、その領地の民に働きかける方針で布教していましたから、ザビエルも最初に藩主に会ったのですが、島津貴久はキリスト教に関心を示さなかったので、ザビエルは平戸に向かいます。平戸領主の松浦隆信はザビエル一向を歓迎したので、ザビエルはトーレスとフェルナンデスを平戸に残して後を託し、自身は山口に赴き、領主の大内義隆に謁見、続いて天皇から日本布教の認可を受けるために京都に向かいます。一五五一年一月に京都に到着しますが、応仁の乱以後の京都は荒廃していて、天皇には権力がないことが分かり、京都布教は断念して平戸に戻り、布教の拠点を作るために再度大内義隆に謁見、進物を贈呈、布教許可を受けます。さらに豊後国主の大友宗麟に会って、キリスト教を説いています。宗麟はポルトガル貿易の利益からキリスト教を庇護していますが、家中などの事情もあって受洗・改宗までには至っていません。イエズス会の布教方針によって領主たちに働きかけが行われ、ポルトガル貿易の利益を合わせてキリスト教を勧めています。何人かの大名が改宗してキリシタン大名が生まれましたが、そのことについては項を改めて述べることにして、ここではザビエルの足跡を追うことにします。
ザビエルは大友宗麟の招きで豊後府内へ向かい、山口にはトーレスとフェルナンデスを残しています。しかしザビエルは一五五一年の十一月に日本を離れ、一旦マラッカに帰還します。日本には二年三ヶ月いたことになります。その間に千人ほどの日本人を改宗させ、日本布教の開拓者として大きな足跡を残します。しかしザビエルは日本滞在の初期から、日本人が宗教と思想や学芸において深く中国の文物を尊敬して学んでいることを見て、中国にキリスト教を伝える必要を痛感しており、ひそかに中国布教の決意をしていたことが彼の書簡からうかがえます。マラッカでは司令官からの妨害と確執があり、鎖国状態の明に入国する困難から中国行きの船を確保することが困難でした。ザビエルはフェレイラと案内の中国人一人を従えて、単身広東省の上川島に上陸しますが、そこで熱病に罹り、一五五二年の十二月に四六歳で没します。遺体は一時上川島に埋葬されますが、三ヶ月後に掘り起こされた時、腐敗も損傷もなく、ミイラ化した状態でマラッカを経てゴアに運ばれ、ゴアの教会に保管されます。ザビエルの死去を知らなかったロヨラは、ザビエルをイエズス会総長の後任として期待してローマに呼び戻そうとしていたことが、当時の彼の書簡からうかがえます。ザビエルは一六二二年に列聖され、「カトリック布教の保護聖人」とされます。

キリシタン大名の出現

ザビエルと弟子たちによる熱烈な布教活動とポルトガル貿易の利益を求める動機が重なって、戦国時代の大名の中にもキリスト教を受け入れ、カトリックの洗礼名をもつ者が現れます。いわゆる「キリシタン大名」の出現です。大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、高山右近、小西行長らが著名です。その二、三の事例をここで簡単に見ておきましょう。
戦国大名の最大の関心事は領国の維持と覇権の拡大であり、そのための戦いを有利に進めることでした。戦いに際しては、神仏の加護を祈り、家中の者たちの士気を高め、強く団結することが必要でした。そのため個人的にはいくらキリスト教を受け入れていても家臣団の神仏信仰を無視できず、改宗は極めて困難でした。たとえば豊後の領主大友宗麟の場合、若くしてキリスト教に接し、ザビエルにも会っています。ポルトガル側が貿易の条件とした布教活動の許可を積極的に行って、イエズス会の宣教師を優遇しています。宗麟は南蛮貿易に期待し、ゴアのインド副王との交易を望んでいました。しかし伝統宗教の家臣団の反対によって改宗には踏み切れません。彼が受洗、すなわち改宗に踏み切ったのは、晩年に所領豊後を嫡子に委ね、救援を依頼された日向に侵攻する直前です。救援の戦いには破れますが、隠居領の津久見に全領民を改宗させてキリシタン領主としての支配を実現します。豊後を譲られた嫡子義統は、僧侶を憎み寺院を破壊し寺領を家臣にに与えるなどし、それをイエズス会の論理を模して織田信長の社寺破壊を引き合いに出して正当化したので、家臣団から抗議を受けています。
肥前の大村を拠点とする武将大村純忠は、有馬家からの養子ですが、実子をいただく反抗勢力と戦うためにイエズス会の力に依存、開戦前に自身も受洗して改宗(一五六三年)、領地の横瀬浦を貿易港として寄進し、軍旗や衣装に十字架を用いています。横瀬浦が戦乱で焼失したので、後に長崎港を寄進しています。同じく肥前有馬の領主有馬晴信は、対抗する龍造寺家と戦うためにキリシタン大名の大村純忠と同盟、苦心して家中を説得、自らも洗礼を受け、イエズス会も籠城する有馬方の諸城に武器や兵糧を送って援助します。こうしてイエズス会の力で領地を維持して大名でありえた有馬晴信の家中では、イエズス会の権威は絶大となり、晴信を上回ることもありました。イエズス会宣教師の要請で日本の少年少女を進物としてインド副王に送ったことで領民の反発を招き、司祭たちの要求に従って社寺を破壊したことを、後にそれは本意ではなかったと反省しています。
高山右近は摂津高山の飛騨守の家に生まれ(一五五二年)、一二歳で受洗、二一歳で高槻城城主となっています。荒木村重に属していましたが、村重が信長に反すると信長にも忠節を示し、山崎合戦では秀吉に就き、その後の諸国平定で武勲をたてて、明石に領地を得ています。その間、高槻、京都、安土などで教会堂を建設、領民の改宗に尽力、その高潔な人柄で小西行長、黒田孝高、蒲生氏郷らの有力武将をキリシタン信仰に導いています。右近は茶人で利休の弟子であり、同じく茶人の友人細川忠興に教えを説きますが、それによって彼の妻(明智光秀の娘)が信仰に入って細川ガラシャとなります。後に伴天連追放令を発した秀吉から、直前に棄教を迫られますが拒否したため、領内の社寺を破壊し、家臣に信仰を強要したという理由で、所領を没収されることになります。さらに江戸幕府の禁教令によって、フィリピンに追放されて、そこで没します(一六一五年)。

巡察師ヴァリニャーノ

ザビエル亡き後も日本の布教はイエズス会の主導の下に進められますが、フランシスコ会などの托鉢修道会なども参加して、複雑な様相を見せるようになります。イエズス会はイタリア出身の会士ヴァリニャーノを東インド巡察師として派遣、日本を含む東アジアの布教活動を統括してリードします。ヴァリニャーノはマカオを拠点として日本にも三回来て、困難な時期を迎えていた日本での布教や教育をイエズス会の方針に従って再建しています。彼は東アジアの布教全般を主導しており、来日前にマカオで中国布教の開始を指示し、マテオ・リッチらはマカオで中国語を学習し、中国布教の準備をしています。
一五七九年の第一次巡察の時は、大村純忠と協議して長崎港の寄進を受け、長崎をイエズス会領としています。以後イエズス会は長崎を拠点として活動します。またヴァリニャーノはセミナリオやコレジオなどの教育機関を設立、日本人聖職者の要請を開始します。そしてセミナリオに学ぶ少年をヨーロッパに派遣することを企画し、離日に際して使節団をインドまで引率しています。ヴァリニャーノは日本におけるイエズス会の布教の成果を教皇に見せるために、この企画を立てたのでしょう。九州のキリシタン大名の大友・大村・有馬の三氏がその代理として四人の少年を選びます。これが「天正少年使節」または「天正遣欧使節」と呼ばれ、日本とヨーロッパの接触開始の象徴となります。一行は長崎を発ち、マカオ、マラッカ、ゴアを経てリスボンに到着し、ポルトガルを巡回してマドリードでフィリペ二世に謁見、さらにスペインを巡回、ローマで教皇に謁見することになります。この使節団はヨーロッパのキリスト教国の威容に圧倒されて帰国しますが、その時にグーテンベルグ式の活版印刷機をもたらしています。
一五九〇年の第二次巡察の時は、少し前に秀吉が伴天連追放令(一五八七年)を出していたので、表向きはインド副王の使節として来日しています。この時の最大の課題はこの追放令に対処することでしたが、同時に数次の教会会議を開いてイエズス会の布教方針を確立するために奔走しています。異教国の日本ではヨーロッパにおける倫理をそのまま適用できず、身分制度を認めるなど日本向けの倫理を確立する必要があるとして、日本の現状に「適応」するように努力しています。一五九八年の第三次巡察では、日本・中国の巡察師としての来日であり、主教区に昇格した日本管区に着任したセルケイラ司教と協力して、日本布教の進展に努めています。その中で注目すべき点を二、三取り上げておきます。
長崎がイエズス会に寄進されてからは、長崎がイエズス会の活動拠点となりましたが、長崎は貿易港としてマカオ・長崎間の生糸貿易をほとんど独占します。日本布教の莫大な経費をまかなうのに、本国からの送金では到底足りないので、不足を補うためにイエズス会もその貿易に関わるようになりますが、その際ポルトガルとスペインの利害が対立することもありました。さらに日本布教のためにまず日本を軍事的に征服すべきかどうかが議論され、おもにスペイン系のイエズス会士が長崎を要塞化して日本を軍事征服することを主張します。イタリア出身のヴァリニャーノは、常にポルトガル系とスペイン系の会士のバランスを図ってきましたが、この時も慎重論を唱えて軍事行動を思いとどまらせています。

禁教令と鎖国

戦国の時代は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康によって統一政権の樹立に向かいます。その過程でキリシタンに対する姿勢も変化し、優遇から禁止・弾圧となり、ついに鎖国に至ります。その過程をここで瞥見しておきましょう。
信長は革新的であり、新しくヨーロッパから来たキリシタンに好意的であったというイメージが一般に定着しています。たしかに信長はキリシタン宣教師には好意的であり、安土に屋敷を与えたり、フロイスを身近に置いてヨーロッパの文化に関心を示し、ヴァリニャーノを謁見し、彼を本能寺に泊まらせたりしています。信長は石山本願寺の一向一揆とは戦いましたが、キリシタンは危険な宗教とは見ていなかったようです。信長は比叡山延暦寺を焼打ちしていますが、これは比叡山が敵方の浅井氏らについて信長に敵対したからであって、信長の戦略の一部でした。延暦寺に代表される伝統的宗教全体を壊滅させて、宗教支配の体制を覆し、近代的な支配体制を打ち立てようとするような性格のものではなかったようです。荒木村重が信長に背いた時、その臣下の高山右近を味方につけようとしてイエズス会宣教師を派遣して説得しますが、その際、従うなら布教の公認、拒否ならばキリシタン宗門の断絶と迫っています。信長にとって宗教勢力は天下威武の実現のための手段であったようです。信長は晩年には安土城を建て、自分をキリスト教の神のような絶対的主権者になろうとして自己神格化を図ったと、イエズス会側から批判されています。信長は本能寺の変に倒れ、秀吉の政権に受け継がれます。
政権の座についた秀吉は、一五八七年に島津義久を下して九州を平定、直後に博多で突然伴天連追放令を発し、翌年には教会領長崎を没収して直轄領とします。これは長崎貿易を独占するためです。貿易の利益は欲しいが、キリスト教は要らないということでしょう。伴天連追放令は、日本は神国でありキリシタン国より邪法を授けることはよくないとして、伴天連(宣教師)に退去を命じています。しかし交易と個人のキリシタン信仰は認めています。イエズス会の宣教師たちは一時的にマカオに退避、国内では潜伏して活動します。秀吉は探索したり処罰することはありませんでした。貿易を認めている以上、イエズス会を完全に追放することはできませんでした。しかしその後、一五九六年にスペイン船サン・フェリペ号事件が起こります。遭難した同船が土佐に漂着します。積み荷を没収して取り調べた奉行に船員が、スペインはまず修道士を派遣し、その後に軍隊を引き込んでその国を征服するのだと述べたことが秀吉に伝わり、秀吉を激怒させます。秀吉はポルトガルやスペインやキリシタン教会に強い警戒心を抱き、一五九七年にはフランシスコ会士六名を含む二六人が長崎に護送されて磔刑に処せられます。彼らは後に列聖されて、長崎の二六聖人と呼ばれます。
秀吉は九州を制圧した後、朝鮮国王に朝貢を求めます。それは朝鮮を明征服の足がかりとするためです。秀吉はポルトガル領インドの副王に、貿易は許可するがキリスト教の布教は禁止すると通告、スペイン領となっていたフィリピンの服属と朝貢を要求する使者を派遣しています。晩年の秀吉は自らを日輪の子と称して、アジアの盟主となる野心を実行しようとします。秀吉は明征服の先兵として期待した朝鮮側の対応を不満として、軍事的制圧を計画、一五九二年に小西行長、加藤清正、黒田長政らが指揮する軍隊を送ります。これが文禄の役です。日本軍は朝鮮国王を敗走させ、石田三成を奉行に任命して統治しますが、救援に入った明の軍勢には破れ苦境に陥り和議を結びます。しかし秀吉は和議の条件を不服として、一五九七年に第二次出兵(慶長の役)を行いますが、一五九八年の秀吉の死によって終了します。朝鮮に出兵した小西行長の従軍司祭として同行したスペイン人のイエズス会士が、朝鮮に入った最初のヨーロッパ人とされますが、秀吉の禁令もあって布教活動はしていないようです。二次にわたる戦争は朝鮮を相手としての戦争であり、多くの朝鮮人捕虜が日本に送られてきて、その中にはキリシタンに改宗する者も出てきます。韓国のキリスト教はこのような日本での改宗者から始まったする見方もあります。実際には清の時代の中国からキリスト教が韓国に入ってきて教会を形成しています。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て政権は家康に移ります。家康は朱印船貿易を推進、スペイン人有力神父や日本司教を謁見したり、イギリス人アダムズ(三浦按針)らを外交顧問にしたりして、対外貿易に積極的な関心を示しています。しかし一方、秀吉の伴天連追放令は撤回せず、その後の重大事件の関連者がキリシタンであったことから、また秀吉の家臣にキリシタン大名がいたことから、豊臣家とキリシタンの関係を危惧して、禁教へ傾きます。はじめ江戸や京都に禁教令を出しますが、一六一四年に江戸幕府は全国に禁教令を発布し、翌年には江戸において二七名のキリシタンを処刑することで、禁教令の厳格な施行を内外に宣明します。しかし幕府の禁教令の直前には、仙台藩主伊達政宗は南蛮貿易を企画し、支倉常長をメキシコ経由でスペインに派遣しています。しかしこの慶長遣欧使節団はスペイン系とポルトガル系の対立や、直後の幕府の禁教令などによって成果なく終わります。
一六一六年に家康が没し秀忠が後を継ぎますが、秀忠の政権は禁教令を厳しく実行し、元和の大殉教と呼ばれる三回の大規模な殉教を引き起こしています。一六一九年の京都の大殉教は日本人の一般信徒五二人を十字架刑や火刑で処刑、一六二二年の長崎の大殉教はポルトガル・スペインの聖職者や日本人のキリシタン数十人を火刑や斬首で処刑、その迫害は全国に波及します。一六二三年の江戸の大殉教では二回にわたり四〇人五〇人の規模で火刑によって処刑され、江戸にいる大名たちに見せつけ、各藩でもキリシタン弾圧が厳しく行われるようになります。伊達政宗もこれを見て、帰藩後にキリシタン弾圧を開始しています。当時のイエズス会の書簡は、江戸幕府の国是によってキリシタンが弾圧にさらされていることを報告しています。幕閣は、キリスト教は日本を征服するための手段であると考えたようです。殉教は信仰告白と無抵抗の受難で認められるのですから、当時では日本が唯一の殉教の地となり、ヨーロッパの修道士の間の殉教願望が禁教令の日本に潜入させることになったという面もあります。
江戸幕府は禁教を実現するために、キリスト教への対策として寺請制度を創設、すべての人を特定の仏教寺院の檀家として登録させます。この制度から宗門改め役が置かれ、寺請による宗門改帳の作成が進みます。この過程で、キリシタンでないことの確認として踏み絵が長崎で行われるようになります。三代将軍の家光は外国貿易に関心がなく、当時外国貿易は朱印船貿易から奉書船に変わっていましたが、その奉書船制度も廃止します(一六三三年)。これによって家康の頃には盛んであった東南アジアの日本人町(アユタヤの山田長政など)は衰退します。またポルトガル人の勾留地としていた長崎の出島を、ポルトガル人追放の後幕府はオランダ人に貸与、貿易をオランダ貿易に限定します。これは幕末まで続きます。幕府の政策はこの貿易統制とキリシタン禁令から一切の海外渡航の禁止(一六三九年)という鎖国へと進んでいきます。この決定的な鎖国に至る直前に島原の乱が起こり(一六三七年)、幕府に鎖国を決心させています。島原の乱は天草一揆とも呼ばれ、天草の農民が圧政に耐えかねて代官を殺した事件から始まります。天草四郎に率いられた一揆勢は島原の原城に籠り、幕府が派遣した大軍と善戦、幕府軍は数次の戦いの後ようやく鎮圧します。幕府は天草四郎をはじめ一揆の中心はキリシタンであると考え、キリシタンの取り締まりを強化し、決定的な鎖国に至ります。その後はキリシタン信徒はヨーロッパ諸国からの指導や援助を一切失い、平戸などに潜伏して隠れキリシタンとして、信徒組織を作り、地元の伝統宗教の体裁の陰に隠れてキリシタン信仰を維持します。

結び

 先に見たように、鎌倉室町期の仏教や神道において専修一仏への信仰や原理追求の中で根源神の探求が行われて、一神教的精神風土が形成されていたのがキリスト教を受け容れる備えとなっていたのですが、宗教勢力が天下統一の妨げになることを恐れた政権による弾圧が鎖国にまで行かせることになります。キリシタン史は、日本がそれまでまったく知らなかった西欧と本格的に接触した最初の時代ですが、この鎖国によって日本は世界史の大きな流れから国全体を閉め出してしまいます。
 ここで一神教に向かう精神的風土が形成されていたことを示す指標として、戦国の時代に「天道」という理念が広く行われていたいたことをあげることができます。太陽や月がその道(軌道)から離れないで運行しているように、神道、仏教、儒教などの諸宗教の神仏を超えて、人間界を永遠に支配している究極の法則や摂理があるという信仰です。おそらく中国の「天」の思想から来ているのでしょうが、各宗教が争う戦国の武将たちは「天道」を拠り所にして正義を主張し、その加護を祈っています。キリスト教の宣教師たちも初期には、ラテン語の《デウス》を天道と訳していたことが、当時のポルトガル語の辞書にも出てきます。
ところで、ここに見たキリシタン史の時代の布教活動は、イエズス会を先頭としてカトリックの修道会が行なったローマ・カトリックのキリスト教の布教活動でした。しかし、そのキリスト教布教の中に日本の霊性はキリストの福音を聞き取り、それを信受してキリストの救いにあずかり、キリストの命に生きるキリスト者が起こり、多くの殉教者を出すまでに強い勢力となりました。その短期間の成果は驚くべきものです。そこに神の恵みの働きを認めなくてはなりません。しかし布教する側はあくまでカトリック教会の権威と勢力の確立を目指す布教活動でしたから、政権の反発を招き、日本に禁教と鎖国の道をとらせます。日本が、西欧の歴史的産物であるキリスト教宗教ではなく、その源泉であるキリストの福音そのものを受容するには、明治維新以後の近代化し、自由の原理に立つ日本での苦闘を経なければなりませんでした。

Y 幕藩体制下の宗教

檀家制度による仏教の統制

江戸の幕府によって諸国の諸藩大名を統制することで全国を統一する幕藩体制は、キリスト教の禁教と鎖国によって、家康、秀忠、家光の時代に確立します。その幕藩体制下の江戸時代の宗教について、ここでごく簡単にまとめておきます。
幕府はキリスト教を禁圧するために仏教を用います。当時仏教諸派は全国各地に寺院をもち、死者の供養と祖霊祭祀を通じて家と結びつき、菩提寺と檀家の関係が広範に成立していました。幕府はその檀家制度を法制化することで、宗教を統制下に置きます。幕府は家光時代の一六三五年に宗門改めと寺請制度を作ります。寺請というのは、禁教の時代にキリシタン摘発のために密告が奨励されていましたが、ある人が密告された場合、寺の住職がこの人は自分の寺の檀家でありキリシタンではないことを請け合う証文を出して保証するという制度です。幕府は全国のすべての民にそれぞれの菩提寺に檀家であることを登録するように命じます。この寺請制度により、仏教寺院は役場の戸籍係と墓地管理を兼ねることになり、幕府の統制の下部組織になることによって、運営の安定と引き換えに、幕府の統制を受ける立場に置かれます。幕府は寺社奉行を置き、各宗派にそれぞれ法度を下し、本山を通して末寺を規制します。こうした幕府の保護と統制の下で、江戸時代の仏教は葬式仏教化し、外見は繁栄しますが魂の救済のための宗教としては活力を失っていきます。
厳しい幕府の統制下において仏教の各宗派は公儀への忠、家での孝を説いて、その上にその宗派の信仰に励むように勧めます。たとえば浄土系の宗派で最大の教団となっていた本願寺派の法主は、全門徒にあてた消息(指令)で、「世の中の掟に背かず、孝行と忠義の道を守り、真宗の信心を受けつぐことがたいせつである」と教えています。この忠・孝・信を兼ね備えた理想の念仏者を「妙高人」と呼んで、その伝記を出して顕彰し、教団がもはや一向一揆のような反体制宗派でないことを強調しています。しかし念仏を禁止する藩(たとえば薩摩藩)や本願寺教団の形式化や締め付けに反発して、教団とは別に隠れて念仏の信仰に生きる民衆の運動、「隠れ念仏」が各地に起こります。また日蓮宗では、他宗を厳しく批判して宗論を挑み折伏活動を行う不施不受派は、反体制的であるとして弾圧されます。不施不受というのは、法華経を信じないで誹謗する他派からの布施は受けず、他派の活動に参加しないという立場で、秀吉の方広寺の大仏建立に際して行なった千僧供養に参加を拒否した日奥から始まっています。この派の信者は、不受派に対する幕府側からの弾圧に対して、この原則こそ宗祖の教えであるとして、地下活動を続けます。いわば隠れ題目の地下活動です。この地下に潜ることを余儀なくされた不施不受派に対して、日蓮宗の大勢は受派が占めることになり、檀家制度の保護の下に、また摂受による布教で大名や武士の帰依を得て、日蓮宗は繁栄します。
禅宗は、幕府の官学となった儒教との親近性から(共にその時代の中国から学んでいます)、幕府と良好な関係を維持、大名や有力者の帰依を得るなど恵まれた環境で進展しています。江戸初期の一六五四年に明の臨済僧隠元が弟子と共に来日、幕府の許可を得て宇治に黄檗山満福寺を本山として活動します。満福寺はその生活様式から伽藍や僧衣まで中国風で、日本の禅宗に大陸禅の新風を吹き込み、日本の臨済や曹洞の僧もその門下に集まるようになり、その流派が黄檗宗となります。隠元の孫弟子になる鉄眼が黄檗版大蔵経を完成して、山内の宝蔵院に収めたことは有名です。曹洞宗でも、大きな教団となって弛緩した法脈を正そうと、宗祖道元の禅風の回復の動きが起こり、正法眼蔵の研究が盛んになります。江戸の曹洞宗の学問所には多くの修行僧が集まり、幕府の昌平坂学問所と勢いを競っています。一方、江戸時代の曹洞宗の禅僧には、草庵に隠れ托鉢の旅を続ける名僧も多くいました。その代表格が江戸後期に出た越後の良寛です。名主の子の良寛は、出家して禅寺で学び、道元に傾倒、その原始仏教の理念を実践します。托鉢遊行の後、越後の草庵に籠り、子供と戯れ、どのような身分の人とも差別なく、慈愛温顔で交わり、多くの人を感化します。和歌と書を良くし、その遺稿や遺筆がその霊性と人柄を伝えています。臨済宗では、大徳寺と妙心寺を本山として、沢庵、愚堂、至道、盤珪らの多くの禅僧を出しています。なかでも九州で活動した古月と駿河の松蔭寺の白隠は、江戸中期の妙心寺派を代表します。白隠は深く学問し、臨済録や碧厳録などを講じ、臨済禅正統を復興しています。それと並んで平易な仮名法語を出して民衆の教化に努め、大衆に親しまれる近代禅の道を開いています。

儒教による統治

江戸幕府の宗教政策の基本は儒教の尊重と官学化です。この事実を無視して江戸時代の宗教を語ることはできません。ところが少し前の日本宗教史の著述で、江戸時代の宗教を扱う章で儒教のことがほとんど扱われていないものがあります(たとえば山川出版社の『日本宗教史』)。これは、これまで儒教は道徳とか社会倫理の思想であって宗教でなないという考えが一般的であったからでしょう。しかし、本書(四五二〜四五五頁)で述べたように、儒教は長年中国の体制宗教となった立派な宗教です(加地伸行『儒教とは何か』中公新書)。儒教は漢の時代から各王朝で国教とされ、それぞれの時代に新しく解釈されて時代の指導的な思想となってきました。宋の時代に行われた経学(儒教文典の解釈学)を集大成した朱子学や、明の時代の陽明学という儒教の解釈が中国の宗教思想を主導します。江戸幕府はこの儒教、とくに朱子学の解釈をその統治の基本理念として採用、支配階級の武士に学ばせ、幕府の官学とします。江戸には湯島に昌平坂学問所を置いて幕臣の子弟を教育、諸藩も藩校を設置、武士の子弟に儒学を学ばせます。儒教は君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の五倫、それを支える仁、義、礼、智、信の五常を中心とする宗教思想であり、身分制度の上に立つ幕藩体制の統治原理としてもっとも適切な宗教思想とされたのでしょう。ここで江戸時代の儒教の進展とその主要な担い手を見ておきましょう。
江戸初期の藤原惺窩は相国寺で禅と儒学を学び、後に僧衣を脱いで儒者として活動します。彼は宋の儒者の説に従って四書五経を訓読して研究、朱子学の基礎を作ります。その門下の林羅山は若き日に建仁寺で漢籍を学び、出家はせず独学で経学を学び、藤原惺窩に会って朱子学に進み、惺窩の勧めで家康に会い、その後秀忠、家光、家綱の四代にわたって徳川家に仕えています。家光には侍講として仕え、後の昌平坂学問所の基をつくり、武家諸法度などの作成、また伊勢神宮参拝典礼、朝鮮への国書起草、朝鮮使節応接など、創業期の幕府の法制の整備など内政だけでなく、典礼や外交にも幅広く活躍しています。羅山の子孫の林家は幕府のお抱え顧問のような地位を受け継ぎます。羅山の学説は朱子学ですから、朱子学は幕府の官学として扱われ、松平定信の寛政異学の禁(一七九〇年)によって朱子学が唯一の幕府公認の学とされ、官学としての地位を確立します。朱子学では本然の性と気質の性があるとして、本然の性は純粋に善であるが(孟子の性善説)、物欲によって人には気質の性が生じるのであるから、それを克服するために人には修徳の工夫が必要であるとし、書を学び敬を保つという内面と外面の修養に励まなければならないとします。
官学として朱子学が江戸時代の儒教の主流となりますが、すでに江戸時代の初期から朱子学に対抗する儒教の学派として陽明学が行われるようになります。朱子学は宋の時代の解釈学でしたが、科挙に用いられたことで中国に学術思想の主流となっていました。それに対して明の時代に出た王陽明が、朱子学の心性論が自力救済を主張したのに対して、その挫折体験から朱子学から訣別、万人が持っている本来完全な自己実現の能力を「良知」と呼んで、外からの権威や伝統的規範に依存しない、知行合一説を唱えます。この王陽明の儒教理解を日本にもたらしたのは、近江聖人と呼ばれる中江藤樹です。藤樹は近江の高島郡に生まれますが、米子藩の家臣であった祖父の家で育ち、朱子学の儒教に傾倒します。彼は若き日に老母を養うために近江に帰り、そこで陽明学の書に出会って次第に没入、その立場で儒教と医学を講じ、熊沢蕃山、淵岡山、大塩中斎(平八郎)らの多くの門人を育てます。その知行合一の高い徳行から近隣の農民を含む多くの人を感化、岡山藩主池田光政の尊信を受けています。内村鑑三も理想的教育者として『代表的日本人』の一人として取り上げています。なお、江戸前期には伊藤仁斎が朱子学を批判、直接論語や孟子の本文を読解して、聖人の原意を追求することを主張する古義派を起こしています。古義派は道徳の基準を人情に置くことで、元禄期の町人文化を代表し、仁斎の生家の京都から全国に広がります。
江戸中期の元禄時代に、荻生徂徠が出て儒教を初期の内面道徳から後期の外面的な政治理論への方向転換の舵を切ります。徂徠は言葉の意味が時代によって変遷する事実に着目、古代中国の古文辞で表現された儒教経典を正しく理解するために、古文辞の客観的で厳密な研究を行い(古文辞派)、理想とされる古代王朝の政治理念を回復しようとします。内面の道徳性の強調より、政治的に有効な制度の確立によって人間性の完成を目指す儒教を追求します。この政治志向と内面道徳を論じないという方向から、人間性への寛容という側面をもち、詩文と文学は道徳から解放されて自由に発展することになります。この古文辞派の主張が本居宣長の古事記研究の方法理念となります。
また江戸中期には木下順庵の弟子の新井白石が六代将軍家宣に仕え、家宣を中国古代の聖人のような理想的君主にしようとして講義に努め、幕政の改善を図り、礼楽の振興に力を尽くし、仁愛の精神で民に臨むように補佐、次の幼い将軍家継をもよく補佐して通貨改良、貿易制限、司法改革に励みます。この時期は「正徳の治」と呼ばれますが、次の将軍吉宗からは遠ざけられ、不遇の中で著作に励みます。白石は朱子学派に属しますが、漢籍だけでなく日本の文献にも造詣が深く、それを実証的に検証、多くの歴史書や地誌を書いています。またイタリア人宣教師の尋問によって得た知識で「西洋紀聞」を書き、鎖国下の日本に世界情勢を紹介しています。白石は和文に長じ、その和文による自叙伝「折りたく柴の記」を残しています。
江戸中期から後期にかけての儒学は、朱子学の官学化に伴い、表向きは朱子学の枠内に止まりながら、陽明学や徂徠学の影響で様々な方向に向い、人々は主体的に儒教と関わるようになっていきます。自然哲学の三浦梅園、医師・思想家で平等主義を唱えた安藤昌益、大阪の思想史家の富永仲基らが出ます。この富永仲基は、仏教はインドの、儒教は中国の文化の中の聖教であるとして相対化し、大乗仏教は釈尊の教えに自説を「加上」したものであるとして大乗非仏説を唱えて、仏教界に衝撃を与えています(富永仲基については後述)。また、商家で儒学を勉強した石田梅岩は、京都で商人を集めて心学的な商業道徳を説き、石門心学を全国的に展開、武士階級にも波及します。陽明学者の大塩中斎(平八郎)は大阪の天満に学塾を開き、貧農の救済を志し、私財を売り払って救援し、一八三七年ついに檄文を回して近隣の農民数百人と蜂起するにいたります。彼は飢饉に苦しむ農民を放置して江戸回米を行い不正を行う奉行と暴利を貪る豪商を襲撃、鎮圧の幕府軍に敗れて自害します。そこまでは行かないでも、朱子学と陽明学を学んだ西郷隆盛や高杉晋作は幕末の政治に関与、徂徠学から洋学に向かった西周、西洋の自然科学を受け入れた儒学者佐久間象山など、多彩な方向を取るようになります。
なお江戸中期から幕末にかけての宗教思想については、蘭学の興隆に触れなければなりません。蘭学は宗教ではありませんが、その担い手の多くは儒者ですから、蘭学は時代の体制宗教に大きな影響を与えることになります。日本はキリシタン時代に西洋の宗教と思想に触れていますが、幕府の鎖国政策によってその接触は閉ざされ、ただ長崎の出島に置かれたオランダ商館だけが、西欧の文化学術を知る唯一の窓口となり、そこから得られた知識が蘭学と呼ばれて、鎖国日本が世界を知る唯一の手段となります。殖産興業のために実学を奨励した吉宗によって一七二〇年に洋学の制限が緩和されると、オランダ語と蘭書の研究が盛んになり、青木昆陽のオランダ語研究は前野良沢と杉田玄白の『解体新書』に結実、蘭学者らの活動が活発になります。玄白が晩年に著した『蘭学事始』が初期の蘭学者たちの苦労が偲ばれます。ここであげた名が示しているように、蘭学は医学の分野で始まりますが、西欧の富強の原動力となっている科学技術の諸分野に及んでいきます。しかし体制側も思想統制を強め、寛政異学の禁を発令、一七九二年の海防を論じた林子平の処罰を機に蘭学の統制に乗り出します。一八三九年には渡辺華山や高野長英らが海防問題で幕府の方針に反したとして投獄される「蛮社の獄」が発生します。しかし一八四〇年に起こったアヘン戦争に衝撃を受けた幕府は方針を転換、西洋軍事科学の研究移植に熱心になります。この風潮の中で江戸や大阪の民間の蘭学塾も多くの門弟を集めて盛んになります。医師の緒方洪庵が開いた適塾は大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内らを育てています。こうして蓄積された蘭学による西欧理解が、ペリー来航によって突きつけられた開国の要求に対応する準備をすることになります。

神道とナショナリズム

儒教は幕府の官学となり、支配階級の武士の間に行われますが、庶民には浸透せず、民間では仏教と神道が広く行われておりました。とくに仏教は檀家制によって民衆の葬儀を担当、その勢力は安定し繁栄していました。そこで儒教と仏教および神道の三宗教の関係が問題になってきます。当初、儒教は仏教とくに禅宗と親近性があり、儒仏の融合が見られました。江戸時代の儒教は中国から学びますが、当時漢文をよくしたのは五山の禅僧ですから、藤原惺窩の場合に見られるように禅僧から儒者になる者が出て、江戸時代の儒教が始まることになります。初期の儒者には禅寺で学んだ者が多かったようです。しかし仏教も儒教も共に外来宗教です。日本には古代から民族の基層宗教としての神道があります。幕府も吉田家を神道家元と認め、当時全国の神社を統合していた吉田神道を宗教統制に利用します。儒者も伊勢神道を認め、林羅山のように伊勢神宮参拝典礼を定め、新しい神道説(理当心地神道)を唱えたりしています。
すでに江戸初期に山崎闇斎が儒教と神道の融合を唱えて、垂加神道説を提唱しています。山崎闇斎(別号は垂加)は妙心寺の僧でしたが、儒学に転じて朱子学を学び、君臣関係の絶対性を重視、江戸に出て諸大名ら武家社会で講じ、会津藩主保科正之の信任を得ています。闇斎は朱子学の大成者(闇斎学)であると共に、中国の儒教と日本の神道の根本における冥合一致を確信、神道諸伝の総合を志し、秘伝的な神道説(垂加神道)を唱えています。彼の朱子学も神道説もその弟子たちによって継承されて、江戸時代の宗教思想に影響を及ぼしています。
もともと現世的な神道は、伝統的な神仏習合を克服するために、新興の儒教と結びつく傾向があり、とくに武士の間では仏教を排して儒教と神道を結びつける傾向が強まります。このような仏教を排斥した神儒一体論は、藩によっては実際の仏教排除の政策となって実行されます。水戸藩では『大日本史』の徳川光圀が、岡山藩では池田光政が、会津藩では闇斎に傾倒した保科正之が、それぞれの領内の寺院整理を行っています。庶民の間では幕府の支持を受けた神仏習合が主流であったのに対して、神仏分離と排仏の底流が武士階級にあり、それがやがて水戸学や復古神道になって現れることになります。
その流れの中に、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の国学が出てきます。本居宣長は徂徠の古文辞研究の方法によって神道経典の古事記を研究、「漢意(からごころ)・儒意を、清く濯ぎ去て、やまと魂をかたくする事」を道、すなわち自らの生き方としています。宣長は仏教や儒教以前にある日本人の基層を純化しようとしたと言えるでしょう。宣長の後を受けて、平田篤胤は東西の文献を読み漁って、日本の優越性を証明しようとします。これは吉田兼倶の唯一神道が、仏法は万法の花実、儒教は万法の枝葉、神道は万法の根本とした神道優位説の固執にすぎませんが、宣長とは異なり『鬼神新論』を書いて国学を宗教化、宇宙開闢論、幽冥信仰、因果応報思想も取り入れた神秘的な神学体系を作り上げます。これが平田神道、あるいは復古神道と呼ばれるようになります。
古事記を聖典とした宣長にも、天照大神の子孫である天皇信仰が見られますが、平田篤胤の復古神道はそれを宗教化し、水戸学などと共に、後に天皇による祭政一致によって西欧の侵略に対して防衛しようとする「尊王攘夷」思想の源流となります。どの民族の民族宗教も自民族を世界の中心とする中華思想を伴いますが、このような神儒融合の幕末の日本型の中華思想が、明治以後のナショナリズムの源流となります。

Z 近代化された日本における宗教

開国と明治新政府の宗教政策

来航したペリー提督から突きつけられた開国の要求に従って、幕府が勅許を得ずに通商条約を結んだことが、尊王攘夷の倒幕派に火をつけて、天皇の権威(錦の御旗)を背負った薩長の連合軍に敗れ、幕府は大政奉還に至ります。こうして成立した薩長連合の明治新政府は二つの目標を実現しようとします。一つは尊王攘夷理念の実現としての天皇親政による祭政一致の国家形成です。もう一つは富国強兵の国家形成です。開国によって日本は、当時新しい植民地獲得によって勢力の拡大を追求していたヨーロッパ近代国家群の競争の渦に巻き込まれることになり、国がヨーロッパ列強の植民地となることを防ぎ、自身がその列強と同列の国となることを目標にします。そのために富国強兵のスローガンを掲げて、経済的な富の蓄積と軍事力の強化を図ります。尊王攘夷の理念の内、尊皇は天皇親政と祭政一致の方向に進みますが、攘夷は夷狄であるヨーロッパ列強を目標としてそれに追いつくという方向に転換します。この方向の明治新政権の努力は一般の歴史書に詳しく記述されていますので、日本の宗教史を扱う本書では、第一の宗教的目標に限定して簡単に見ておくことになります。
一八六八年に成立した明治新政府は、復古神道の人物を登用、その年に神祇官を置いて神道の国教化を目指し、神仏分離令を次々と出して仏教を排除しようとします。仏教排除の動きはすでに江戸時代の数藩にもありましたが(本書五二一頁参照)、それが新政府の命令によって全国に及び、廃物毀釈の運動が起こります。神社内の仏像や仏号は廃止、僧は還俗させられ、時には寺院が破壊される場合も出てきます。この神仏分離令によって長い間続いていた神仏習合に終止符が打たれます。しかし廃仏の動きが激しくなると、真宗を中心に反対運動も高まり、農民一揆も起って、政府も行き過ぎを抑えるようになり、大規模な宗教施設の破壊は収まります。実際には社会的に大きな力をもっている仏教を無視して、神道を国教とすることは不可能であり、古代国家と同じく太政官と並ぶ位置の神祇官は維持できず、明治五年には太政官管轄下の教部省に格下げされて、やがてそれも解体されて神道国教化は挫折します。
この新政府の神道国教化の前に立ちふさがったのは真宗本願寺派僧の島地黙雷です。黙雷はヨーロッパ視察で政教分離と信教の自由の重要性を痛感、教部省の国家主導の宗教政策を批判、当時の啓蒙思想家と共に信教の自由を主張、教部省の構想から真宗の脱退を主張して教部省を解体に追い込みます。このような運動と自由民権運動の成果として、一八八九年(明治二二年)に公布された憲法にも信教の自由は明記されるに至ります。しかしながら、この信教の自由は「安寧秩序をさまたげず、臣民たるの義務に背かざる限りにおいて」認められている自由であって、神聖にして侵すべからずの天皇の支配に従順な臣民としての義務が負わされています。そしてその天皇の支配は、アマテラスから天皇への系譜を国家公認の神話として体系化、その国家神話と祭祀の体系(国家神道)は宗教ではないとして、臣民の義務として国民に強要します。信教の自由は国家神道の枠組みの中に取り込まれることになります。その強要を国民に徹底させるために、政府は憲法制定の翌年に教育勅語を発布、学校教育の基本原理とします。教育勅語は天皇が臣民に語りかける形で、萬世一系の天皇が統治する「国体の精華」を説き、臣民に天皇への忠節と孝を中心とする家庭道徳を求める内容になっています。それは神儒混淆の産物であり、まさに国家神道の教典です。著者の世代の日本人は皆小学校でこの教育勅語を繰り返し聞かされ叩き込まれた経験をもちます。

キリスト教諸派の伝来

このように明治新政府が国家神道による天皇親政の方向に邁進している時期に、開国によって欧米の近代世界に門戸を開いたのですから、そこから流入してくる近代ヨーロッパ文明の奔流との間に激しい軋轢を生み出すことになります。その軋轢はまず欧米の近代文明の源流であるキリスト教との間に起こります。先にキリシタン史のところで見たように、日本はヨーロッパのキリスト教世界との接触をすでに一度は経験していました。しかしその結果は厳しい禁教と鎖国、それに続くと徳川幕藩体制の確立でした。当時世界伝道の意欲に燃えていたヨーロッパのキリスト教諸国は(本書一六五頁以下参照)、開国した日本に待っていましたとばかりにキリスト教布教の宣教師を送り込んできます。当時の欧米のキリスト教は(本論の第四章で見たように)、ロシア正教に担われている東方キリスト教と、西方ではローマカトリック教会とプロテスタント諸教会に分かれている三つの流れがありますが、そのそれぞれが開国した日本に宣教師を送り、布教活動を進めます。
鎖国以前に大きな成果を上げていたカトリック教会は、安政五年(一八五八年)に日仏条約ができると直ちにパリ外国宣教会を通してフランス人聖職者を派遣、横浜と長崎に天主堂を建てます。その長崎の天主堂を訪れた浦上の隠れキリシタン数名が信仰を示したので、司祭は浦上村で秘密裡にミサを行います。信仰を言い表した村民は寺との縁を切って寺請制度を否定しようとします。肥前藩は一八六七年にこれらのキリシタンを検挙(浦上四番崩れ)、この問題を引き継いだ維新政府は神道国教化政策の下で、一八六八年(明治一年)に「キリシタン邪宗門の禁制」を発令、幕府以上に厳しい処分で臨み、浦上村民三千人あまりを各藩預けの流刑に処します。各藩で拷問が行われ、多くの殉教者が出ます。とくに国学の盛んな津和野での殉教は有名です。ヨーロッパのキリスト教諸国からの圧力を受けた明治新政府は、一八七一年に宗門改を廃止、一八七三年(明治五年)に禁制の高札を撤去、浦上の信者を釈放します。これでキリシタン禁制は終息します。その後のカトリック教会は開港地や大都市に宣教師を派遣、教会堂を建てるだけでなく、各種の修道会も学校の設立などの教育活動をはじめ、各地で開拓、救貧、孤児、医療活動を進め、日本布教を前進させます。一八九一年(明治二四年)には東京に首都大司教座が置かれ、長崎、大阪、函館には司教が置かれ、カトリック教会の体制が整います。
東方キリスト教のロシア・ハリストス正教会からは、一八六一年に函館の領事館付司祭としてニコライが赴任、日本での布教活動を開始します。ニコライは最初函館の神社の神官三名を改宗に導き、彼らを通して仙台藩士数名を正教に入信させます。一八七二年(明治五年)にはニコライは東京に出て、全国への布教を図ります。戊辰戦争に敗れ、国家の革新を人心の改造、宗教の改革に求めた旧伊達藩士らが熱烈な伝道者となり、体制側からの迫害を耐えて布教を進め、東北から関東、東海、京都、大阪から全国に及びます。しかし一九〇四年の日露戦争以来、ロシアを敵視する風潮の中、教勢は停滞、本国からの援助も減少、危機を憂いつつ一九一二にニコライは没します。後を継いだセルギィは精力的に活動、教勢を伸展させますが、一九一七年に起こったロシア革命によって母教会からの送金は途絶、事実上の独立を強いられます。セルギィは震災で壊れた大聖堂を再建するために国外までに奔走し、ようやく一九二九年に再建しますが、その頃には日本には第二次大戦にいたる暗雲が立ち込め、教勢は停滞、信徒数は日露戦争時の半分にまで落ち込みます。ニコライが開教した日本ハリストス正教会は、明治初期の活況も束の間、日露戦争とロシア革命の打撃によって、日本における社会的影響力を失っています。
明治の開国によって到来したキリスト教の中で、プロテスタント・キリスト教の活動開始は、先のキリシタン時代のカトリックの布教と違って、日本の近代化に一層大きな影響力を発揮します。それは、プロテスタント・キリスト教が近代の導入に大きな力となった啓蒙思想をより一層大きく含んでいたからではないかと考えられます(啓蒙思想については本書一二四頁以下を参照)。一八五八年(安政五年)の日米修好条約が締結されて、アメリカ人宣教師の来日が可能になり、当時海外伝道の機運が高まっていたアメリカから宣教師が続々と来日します(本書一四八頁参照)。まだキリシタン禁制の高札が立っていた日本に六〇人の宣教師が来ています。それらの宣教師による個々の改宗受洗のケースもありましたが、横浜、熊本、札幌における青年たちの集団的改宗は、それぞれ横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドと呼ばれて、以後のプロテスタントの伝道活動に大きな活躍をする人材を輩出します。
横浜バンドは宣教師バラの英学校学生たちの祈祷会から始まり、バラやブラウンから学んだ植村正久、小川義綏らが一八八七年に長老主義の教会制度をもつ一番町教会(後の富士見町教会)を立ち上げています。後に植村はキリスト教内外の諸問題について論陣を張り、明治大正期のキリスト教界の指導的論客として活躍しますが、とくに日本のプロテスタント教会が外国のミッション所属の教派教会となることを憂いて、当初に構想した日本基督公会の無教派的伝統の継承を唱え、日本の教会の精神的・経済的自立、日本人伝道者の養成に努めています。
熊本では熊本洋学校でジェーンズの感化を受けた小崎弘道や海老名弾正らの三五名が、すでに一八七六年に奉教趣意書に署名しますが、直後に起こった神道派士族による神風連の乱のため廃校となり、翌年には大挙して京都に開学したばかりの同志社英学校に入学します。同志社は、幕末にアメリカに密航、アメリカのアマースト大学などで学んだ新島襄が、アメリカンボード(本書一四八頁参照)の大会で日本でのキリスト教主義の大学の必要を訴え、帰国して一八七五年に京都に設立した英学校で、設立翌年の熊本バンドの青年たちの入学で同志社教育と日本組合教会の基礎を確立することになります。新島はキリスト教を徳育の基本とし、自由自治の精神で、高度な学問を追求する総合大学の設立を目指しますが、政府からの圧迫と伝道者養成だけを意図するアメリカンボードの圧力で苦慮します。彼は大学設立を目指して奔走しますが、その途上で病死します(一八九〇年)。海老名は後にその同志社大学の総長を務めることになります。
札幌では北海道開拓の構想に基づいて設置された札幌農学校で、教頭クラークの感化の下でキリスト教と科学的精神を受け継いで入信した第一期と第二期の学生、新渡戸稲造、大島正健、宮部金吾、内村鑑三らは明治期の宗教界と教育界で活躍します。新渡戸は南部藩出身、アメリカやドイツの諸大学で農業経済を学び、京大や東大で植民政策の講座を担当、一高校長、東京女子大学学長も務めています。一九二〇年から一九二六年まで国際連盟事務局次長に就任、国際的な活動をしています。彼はクエーカー教徒として信仰を深め、クエーカーの神秘主義的な「内なる光」は宇宙生命の一体を説く東洋思想と通じるものがあるとして、武士道で日本の精神的伝統を代表させ、東西文明の交流を図り、英文で『武士道 ー日本の魂』を出して、国際社会に日本を紹介しています。内村鑑三は水産研究を志しますが、信仰に悩んでアメリカに渡りアマースト大学に学んだ時、総長シーリーの感化で回心を体験して帰国、一高の教員となります。その時に教育勅語に敬礼を拒んだことが不敬事件(一八九一年)として騒がれ、世から追われる苦悩を体験し、そこから『キリスト信徒の慰め』『求安録』『代表的日本人』などの名著が生まれています。その後、内村は「萬朝報」や「東京独立雑誌」で社会問題に評論の筆を振るい、日露戦争に際しては非戦論を唱えています。晩年は聖書講義に集中、『羅馬書の研究』など多くの優れた注解を著し、その門下から塚本虎二、黒崎幸吉、藤井武、矢内原忠雄、三谷隆正、前田多聞、南原繁ら、その後日本の学会や思想界で活躍する多くの人材を輩出しています。内村が聖書への沈潜から唱えるに至った無教会主義は、日本の教会史に大きなインパクトを与えただけでなく、世界のキリスト教史に深い意義をもつと考えられます(内村鑑三とその無教会主義については後述)。

明治期日本におけるキリスト教の受容

開国にともなうキリスト教各派、とくにプロテスタント・キリスト教の流入に際して、そのキリスト教を受け入れた日本人の事情を見ると、ある種の共通性があることに気づきます。まず最初に気づくことは、ここに名をあげたキリスト教を受け入れた人たちの大部分は佐幕派の武士階級出身者です。薩長連合政権の下で志を得なかった旧佐幕派の諸藩の武士たちは、国の将来と自己の存立の土台を外来の新しい宗教であるキリスト教に見出したのです。もちろん唯一の創造者なる神の存在とかキリストによる贖罪の教義とか、キリスト教教義の高貴さに圧倒されたのも事実でしょうが、維新の変革に際してそれまで自分を支えてきた神道、儒教、仏教などの宗教が音をたてて崩れるのを体験し、その他のところに拠り所を求める姿勢を取らせた結果であると見られます。改宗者の大部分が青年であったことも、世の価値観の激変が多感な青年の心を古い価値の拒否と新しい価値の追求を促した結果でしょう。武士階級の儒教的教養が(その儒教には仏教や神道の混合があります)、キリスト教を知的・道義的に理解する方向に進ませ、霊的体験や民衆の生活上の必要や困窮を顧慮することが十分ではなかった面もあったのではないかと思われます。
聖霊による新生というような霊的体験はキリスト信仰の土台ですが、それは個々の体験として称揚されますが、一般のプロテスタント教会では教義の正統性と高度な道徳性が強調されていました。その日本のプロテスタント教会にも、多数の信徒や求道者が一挙に霊的覚醒を体験する信仰覚醒(リバイバル)運動が起こっています。一八八〇年代には全国各地の諸教会合同の集会にリバイバルが起こり、教会活動が活発になり、信仰の内面的深化は見られるようになっています。しかしこのようなリバイバル運動も一時的で、プロテスタント教会全体としては知的・道徳的な聖書理解の枠の中にとどまっています。これは明治期のキリスト教が文明開化の一つの入口として受け取られていた結果でしょう。明治期の日本、とくにプロテスタント・キリスト教の担い手の中産知識階級は、西欧諸国の高い文明に魅了され、それに追いつくために西欧の啓蒙主義・合理主義を積極的に取り入れていました。そのために西欧文明の源泉となっているキリスト教を知的・思想的・道義的に理解することを努めていた結果であると考えられます。一方、文明開化・富国強兵の路線を進める政策に取り残された下層の民衆には、イギリスの産業革命時代に起こったブースの救世軍運動(本書一二七頁を参照)を日本に取り入れた山室軍平の救世軍や、賀川豊彦の貧民街伝道が手を差し伸べています。賀川もアメリカ人宣教師から洗礼を受け、学生時代から神戸の貧民街に住んで伝道、アメリカ留学の後も貧民街に戻って活動、その体験から一九二〇年に『死線を越えて』を出版して有名になります。その後、労働運動、農民運動、協同組合運動などの各種の社会運動を起こしています。同時に地域教会や「イエスの友会」、「神の国」運動を立ち上げ、大衆伝道者として活躍します。賀川の伝道活動は民衆に向かう福音活動の典型として貴重な実例を提供しています。賀川は外国まで及ぶ多くの講演活動や著作によって、世界的にもっとも有名な日本人キリスト者となります。
こうして開国してキリスト教を受容した明治期以後の日本は、宗教上は神道、仏教、儒教、キリスト教の勢力が競い合って近代史を形成していくことになります。しかし儒教は江戸時代に国民道徳となっており、特定の祭儀を執り行う宗教とは意識されなくなっていたので、明治期以降の宗教は神道、仏教、キリスト教の三宗教間の問題となって議論され、精神上の主導権を争うことになります。ここで日本が日中戦争から第二次世界大戦に入り、敗戦によって新しい時代を迎えるまでの三宗教の動向を見ておきましょう。

国家神道の確立

先に見たように、尊王攘夷の精神によって成立した明治新政府は、尊皇思想を天皇による祭政一致の形で実現しようとして様々な指令を出します。その神道国教化政策の中で、神仏分離の指令が廃仏毀釈の騒動を引き起こし、政府は行き過ぎを抑えて方針を転換、神職と僧侶だけでなく民間の有力者も動員、教部省の宣教使または教導職として国民教化に当たらせます。その教化の基本大綱として敬神愛国、天理人道、皇上奉戴・朝旨遵守の三教条をあげ、天皇に従順な臣民の育成に努めます。この教化運動に対して森有礼は、これは信教の自由を認めないで新しい宗教を国が押し付けるものだと批判、島地黙雷も三教条を批判して真宗四派は離脱を表明、神道国教化は挫折します。神道側では、神社神道を国家の宗祀として一般宗教から分離し、国教的な地位を確保しようとする意見が強くなり、政府もそれに応じて神社神道を国家神道として育成しようとします。政府は神社局を設置、その下で全国の神社を官国幣社と府県社・郷社の系列に統合、神社の支配体制を整えます。
官国幣社は、律令制古代国家で神祇官から例幣を受ける神社の官幣社、国司から受ける國幣社の両方を合わせた呼称で、アマテラスを祭神とする伊勢神宮を頂点にいただく神社の系列であり、その経費は国庫から支給されます。神道側が待ち望んでいた国庫からの全面支援は、日露戦争で国民の神社崇敬が高揚した明治三九年(一九〇六年)に実現します。府県社は道府県または市町村から神饌幣帛料の費用を受ける神社です。官国幣社は国家権力に支えられた官社ですが、府県社や郷社は地域民衆の共同生活と深く結びついている民社です。民社は膨大な数に上りますので、政府は統制上一町村に一社を目標に合祀統合しようとしますが、地域の生活に密着した民社では無理で、神社の合祀整理は一部に止まります。しかし官社を中心にして民社でも原理的に行われた、国家権力による神社の支援と統制の体制(日本版コンスタンティヌス体制)が出来上がり、神道は国家神道となり、神道の国教化は事実上実現します。
官社の中には明治維新以後に国家権力によって創建された社がかなりあります。近代天皇制国家のための戦没者を祀る東京招魂社(後の靖国神社)、南朝の忠臣楠正成を祀る湊川神社など実に多くあります。また開拓地や新しい植民地などに日本人地域社会の統合の中心として札幌神社、台湾神社、朝鮮神宮などが建立されています。これらの外地の神社は、日本の国家神道が外国の民にも国家神道の天皇崇拝を及ぼそうとした日本ナショナリズムの現れです。その国家権力による新しい神社の創建の中で、国家神道の確立を象徴する記念碑的な存在が明治神宮です。明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする明治神宮は、東京市内の広大な敷地に巨額の経費と六年の歳月をかけて建造されます。創建の発議は明治天皇歿後直ちに始まっていますが、完成は皇太后歿後の大正期です。天皇を現人神として神格化する国家神道は、その後各地に天皇を祭神とする神社を建てていきます。京都遷都の桓武天皇と最後の孝明天皇を祀る平安神宮も明治期の創立です。国家神道は神社神道から宗教的機能を切り捨てて、その儀礼を国家祭儀として国民に強要するものです。国家神道は、国民の国家に対する儀礼であるから、他の宗教と同列の一宗教ではなく、宗教を超えるものであるという論理で、近代国家が要請する政教分離の原則をすり抜けます。その強要は地方に広がり、国家神道の教典である教育勅語の教育現場における徹底、神社の例祭日に生徒児童を引率して参拝させるなどの動きが起こってきます。こうして国家が強要する国家神道が、明治から大正にかけて制度的な完成を見せ、昭和初期には天皇制ファシズムを成立させ、日本を破滅的な戦争に駆り立てます。日中戦争中の一九四〇年には神話に基づく皇紀二六〇〇年の祝祭が行われ、神祇省廃止後七〇年で神社を統率する神祇院が設立されて、国家神道は絶頂期を迎えます。

近代社会における仏教

明治初期の神仏分離令による廃仏毀釈運動の時期に、政府は神社と寺院の領地をすべて官有地とします(一八七〇年)。政府の支援を受けるようになる神道とは違って、寺領に依存する仏教各派は大きな打撃を受けます。しかし徳川幕藩体制下で寺請に基づく檀家制度によって形成された仏教と民衆の結びつきは、政府の指令ですぐに解消されるものではなく、多くの仏教寺院は葬式と先祖供養の法要で檀信徒とつながり、日本社会の古い体質を温存することになります。先に見たように、この事実を無視した明治初期の性急な神道国教化の試みは挫折し、教部省の国民教化運動も仏教僧侶の主導に帰していきます。仏教にはもともと鎮護国家の面がありますから、明治期の仏教は国家の方針に協力しながらその存立を維持しますが、全体としては教化活動は不活発で停滞し、多くの僧侶は儀礼の執行者となります。
このような情勢の中で、寺領に依存することの少ない真宗と在家運動が盛んな日蓮宗には、活発な信仰の活動が見られます。真宗の本願寺派は、宗教貴族となった法主を絶対化する古い体質を残しながらも、下部には改革運動が芽生えてきます。明治中期以降には日本仏教界にも批判精神が高まり、村上専精は、加上説で仏典の歴史的成立を説明した富永仲基を高く評価、『大乗仏説論批判』を出しています(一九〇三年)。この大乗非仏説論争を機に、仏教を歴史的に理解して教理を自由に研究する新仏教運動が起こります。西本願寺の改革運動から境野黄洋らによってピューリタン的改革をモデルにしたような「仏教清徒同志会」が結成され、すべての政治上の保護干渉を斥け、宗教的制度と儀礼の必要を否定、他宗との自由討究を認めることによって、仏教の根本義を明らかにしようとする運動が進められています。東本願寺派では東大哲学科で学んだ清沢満之が、その後の厳しい禁欲生活の中で発した結核の療養中に、「歎異抄」などから他力の信仰への回心を体験、当時財政本位の宗政を教学中心に改めさせようとしますが、本山から除名処分を受けて挫折します。その後、真宗大学(大谷大学の前身)の学監を経て、その卒業生らと浩々洞を開き、雑誌「精神界」を発刊して、真宗が親鸞に回帰する道として「精神主義」を提唱しています。その後継者として曽我量深や金子大栄らが出ています。一方、真宗大谷派の仏教哲学者の井上円了は、東大哲学科を出て東京湯島に哲学館(東洋大学の前身)を創設(一九八七年)、明治期の国粋主義に共鳴、雑誌「東洋精神」などを発行、キリスト教を批判して仏教を顕彰、文筆活動や政教社の創立など、この時期の仏教に影響を与えています。
日蓮系では田中智学の国家主義的な日蓮主義運動が目立ちます。田中は日蓮宗の僧でしたが、当時の日蓮宗の主流が天台教学中心で、教団が教義の穏やかな浸透を図る摂受派であることに飽き足らず、一九歳で脱宗還俗して、他宗を論破して日蓮の信仰を広める折伏中心の運動を進めます。彼は人間の救いを禅や念仏のように個人の主観的な心の世界に求めるのではなく、社会的状況の浄化に求めて天下国家の変革のための活動に集中します。彼は還俗の翌年に蓮華会を起こして在家仏教運動を開始、続いて立正安国会を立ち上げ、さらに一九一四年には国柱会をを発足させています。この国柱会には石原莞爾や宮沢賢治らが参加、会は純正日蓮主義を唱え、明治憲法を王仏冥合の実現だとして、国体主義を唱える国家主義的な運動ととなり、ファシズムに大きな影響を与えます。

国家神道による宗教弾圧

一八八九年の明治憲法が信教の自由を認めた時、キリスト教は教派神道、仏教と並んではじめて公認宗教としての扱いを受けることになりましたが、その唯一神信仰と近代的個人主義倫理は、天皇を現人神とする国家神道の国教化の中で支配層からは反発され、また江戸時代に叩き込まれた耶蘇嫌いの風潮の中で民衆に浸透せず、中産知識階級の支持にとどまり、広く国民の生活に溶け込むことはできませんでした。現在にいたるもカトリックとプロテスタントを合わせて人口の一パーセント程度の少数派にとどまりますが、その教育事業や社会事業における活発な活動は、日本社会の近代化に大きく貢献しています。日中戦争から太平洋戦争の時期に宗教への統制が強化された時、プロテスタントのほとんどの諸派は日本基督教団に統合され、政府の統制下に置かれ、戦争協力を余儀なくされます。その中で批判的な姿勢のキリスト教徒は弾圧され、殉教者も出ます。ホーリネスなど一部の教派はキリスト再臨を唱えて、天皇を至上とする国体に反するとして厳しい弾圧を受けることになります。
仏教は全体としてはいつも国策に忠実でしたが、少数ながら戦争に反対する仏教者も出て弾圧を受けています。しかし国家神道が確立し敗戦によって崩壊するまで、その理念の実現を目指した政府の宗教弾圧の典型は大本教の弾圧です。その大本教弾圧の法的根拠になったのが刑法の不敬罪の条文であり、キリスト者の弾圧を含め、国家神道を推進する政府の宗教政策の武器となる法律ですから、ここでまず不敬罪について手短に説明しておきます。不敬罪は一八八〇年に公布された旧刑法の「皇室に対する罪」の中に登場し、「天皇三后皇太子ニ対シ、マタ皇陵ニ対シ、不敬ノ所爲アル者」に懲役刑を含む重い刑を課しています。内村鑑三の不敬事件はこの刑法の成立後です。そして一九四七年の新憲法の施行に伴って廃止されるまで、七〇年近くにわたって、新興宗教団体の弾圧だけでなく、広く思想・学問・言論の抑圧と萎縮に猛威を振るいます。不敬の行為の要件は拡大され、現天皇だけでなく、皇室の祖先、さらに萬世一系という神話への批判も不敬とされるようになり、日記のような非公開の文書まで対象となります。この時代の政権が天皇制という国体の護持に極めて神経質であったことがうかがわれます。社会主義や共産主義の天皇制批判にも発動されますが、この方面の発動は、ずっと強力な治安維持法(一九二五年)の登場からは、かえって減少します。この不敬罪を武器とする新宗教や思想への弾圧は、西欧キリスト教世界での正統派による異端狩りを連想させます。
江戸末期から明治にかけての変動期に、生きる苦悩が既成の仏教や神道では救われない底辺の民衆の間に、霊感を受けて霊界からの言葉を語った(多くは女性の)シャマン的な憑依者の教えを、身近な男性がシステム化して新しい宗教が数多く生まれてきます。その代表的なものが金光教と天理教です。これらの新宗教は現代まで続き、とくに敗戦後の日本で発展しますが、それは次項の「戦後日本の宗教」でまとめることにして、ここではそれらの新宗教に対して、国家神道のイデオロギーと不敬罪で武装した政府の弾圧について、この国家神道の項で先に述べておきます。
このような性質の弾圧の典型が大本教の一九二一年(大正一〇年)と一九三五年(昭和一〇年)の二回にわたる大弾圧です。大本教は、京都綾部の大工の未亡人で貧困のどん底にあった出口なおが、娘の発狂をいやされたのが機縁となって金光教に入信、その後「うしとらの金神」を名乗る霊に憑依して、その霊が語り出す「世の立替え」の言葉を「筆先」に書き綴ります。なおは初め金光教の布教師でしたが、後に独立、自らを「うしとらの金神」として病気いやしの宗教活動を始めます。その頃なおは、やはり農民出身の神秘体験者で神道系の霊能者出口王仁三郎と出会い、王仁三郎は教祖なおの筆先を教義化して、習合神道系の大本教の教団形成に協力します。王仁三郎は戦争によって富を蓄積する資本家や地主に憤り、民を不幸にする戦争を強く否定し続けます。大本教は、王政復古の明治維新に続いて、神政復古の大正維新を予言、軍人や知識層の信者を増やし、大正初期には全国的に進出して教勢を伸ばします。一九一八年に教祖なおは死去、王仁三郎が教団の指導者となって、亀岡城址を本部とし、大阪の新聞社を買収して宣伝するなどして大々的に活動します。戦争に反対するなど政府に批判的な言動の大本教を潰すために、政府は不敬罪で多くの幹部を起訴します。なおの墓も天皇陵に似ているとし、不敬罪を理由に破壊されます。これが第一次の弾圧です。その後、大本教は現状打破の主張を後退させ、万教同根や人類愛善を主張、農村救済の政治革新を唱えて昭和神聖会を結成します。しかし政府は、なおも活動を続ける大本教を国家神道と相容れない異端の邪教として、二回目の弾圧に踏み切り、綾部と亀岡の教団の全施設を爆破、王仁三郎には不敬罪と治安維持法違反で無期懲役の判決を下します。この大本教の弾圧は、近代史上、最大の宗教弾圧事件となります。
なお他にも、国家神道の強化に突き進む政府が、不敬罪を武器として新宗教を弾圧した例は多くあります。「ほんみち」教団は、天理教教師の大西愛治郎が、国家神道を受け入れて教義を改変した天理教を批判、その教義で天皇は天徳がなく日本統治の資格がないと明言しために、昭和三年と一三年の二回にわたって徹底的に弾圧されます。また、神道系の新宗教「ひとのみち」教団は、天皇崇拝と国家神道に忠実で、昭和初期には信者百万人を称するほど発展していましたが、アマテラスを太陽であるとしたり、教育勅語に卑俗な解釈を加えたとして、昭和一一年に徹底的な弾圧を受けています。日蓮正宗の信者団体である創価教育学会(後の創価学会)は、末法に神社を拝むことを謗法とする教義から、伊勢神宮の大麻(神札)を祀ることを拒否して弾圧され、会長の牧口常三郎は敗戦の前年に獄死しています。

結び

この項目Zの「近代化された日本における宗教」では、開国して世界の歴史の奔流の中に投げ込まれた日本が、明治維新の以後の時代に、高度に近代化した欧米諸国に追いつき、自国の植民地化を避けるために、文明開化・殖産興業・富国強兵に努める一方、中央集権国家の統一のために天皇親政による祭政一致を目指して国家神道の確立の方向に向い、思想や宗教の自由を抑圧、政府を批判する思想や宗教を弾圧する歴史を概観しました。このような状況の中で、開国によって活動を始めたキリスト教諸派は、日本社会への浸透を阻まれて少数派にとどまります。しかし、目標とする欧米諸国の近代化の源泉としてキリスト教を受け入れた中産知識階級は、国家神道への批判勢力となって、この国の近代化に大きな影響を及ぼすことになります。全体としては、国家権力と癒着した国家神道が、権力も国民も熱狂させ、皇国史観の「八紘一宇」の独善的使命感となって、アジア諸国への侵略戦争に突入させます。

「八紘一宇」というのは、日本の優れた「国体」を全世界に及ぼそうという主張です。これは、日本の歴史を優れた国体の顕現発展ととらえ、一九三〇年代以降に確立、全盛期を迎える皇国史観の必然的な帰結です。皇国史観とは、日本は神国であり、皇祖天照大神の神勅を奉じる万世一系の天皇が統治する国柄(国体)であるとし、天皇の神性とその統治の正統性と永遠性を主張する歴史観です。この国体、すなわち神性を有する天皇の支配を諸国に及ぼすという(まったく独善的な)使命感を国民に押し付け、欧米の植民地支配からの解放を大義名分として、「大東亜共栄圏」の建設を旗印に、日本はアジアへの侵略戦争を開始します。そしてドイツ・イタリアのファシスト国と同盟、自由主義と民主主義を死守しようとするイギリス・フランスとアメリカを中心とする連合国と戦う第二次世界大戦に入っていきます。

[ 戦後日本の宗教

国家神道の解体と信教の自由

一九三一年に起こった満州事変から始まった日中間の対立は、一九三七年の盧溝橋事件で全面戦争となり、日中戦争が始まります。この日中戦争は予想に反して長期化して泥沼化します。その間、一九三九年にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発、ドイツは短期間でフランスなどに進撃し、ヨーロッパに戦禍が広がります。日本は一九四〇年に結ばれた日独伊三国と同盟関係に入っていたので、一九四一年にアメリカとイギリスに向かって開戦して太平洋戦争に突入した時、その戦争は欧米とアジアを覆う世界戦争となります。この第二次世界大戦は、一九四五年のドイツの降伏と日本の降伏によって終結します。この日中戦争と太平洋戦争は、アジアの諸国に大きな戦争被害を与え、日本には膨大な戦死者と原爆投下を含む空爆による国土(とくに大都市)の壊滅的な被害を受けて、無条件降伏の悲惨な結果に終わります。この日本の歴史で未曾有の体験の後の時代、すなわち、われわれが生きている現代に、日本の宗教はどの方向に向かったのでしょうか。本節「日本の宗教史」の最後に、それを見ておきたいと思います。
敗戦後の日本の宗教に起こった最初の衝撃は、連合国総司令部から発せられた「神道指令」と、天皇自身による人間宣言による国家神道の解体です。戦争終結の年の一二月に、総司令部は「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督、弘布の廃止に関する件」という指令を発して、国家と神社神道との完全な分離を命じます。これは国家神道の解体指令です。これは国家神道が日本を戦争に追い込んだ歴史を知る連合国が、ポッダム宣言に盛り込まれている政教分離の原則に従って発した指令であって、神社神道という宗教を禁止したのではありません。この指令は、国家と宗教の分離の指令、「国教分離指令」ですが、「神道指令」と通称されています。翌年の元日に天皇が詔勅を出して、天皇は現人神ではないと神格を否定します。これが天皇の「人間宣言」と呼ばれることになります。この神道指令と天皇の人間宣言によって、国民を戦争に動員した国家神道は解体され、一九四六年一一月に公布された憲法に信教の自由と政教分離の原則が明記されるにいたります(憲法二〇条、八九条参照)。
連合国は一九四六年に極東国際軍事裁判(東京裁判)を開き、この戦争を指導した立場の二八名をA級戦犯として起訴して、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」などで七名を絞首刑、他を禁固刑に処しました。その際、裁判を主導したアメリカの高度な政治的判断から天皇を訴追しませんでした。天皇は敗戦国の最高責任者として起訴されず、天皇制は存続しましたが、新しく制定された日本国憲法は天皇主権を否定、天皇はもはや「神聖にして侵すべからざる統治者」ではなく、国民統合の象徴であり、国政に関する権能を持たず、その地位は国民の総意に基づくと規定、主権が国民にあることを明記します。国家神道の時代には国家祭儀とされていた数種の神道祭儀も、天皇家の私的祭儀となります。政教分離の憲法下で、国家神道は存在しませんが、神社神道は神社本庁に統合された一つの宗教法人として、その存続を認められております。民間の宗教団体として神社本庁が設置され、伊勢神宮を本宗として大半の神社を組織します。敗戦によって大きな打撃を受けた諸神社も、日本の経済が復興すると共に再建復旧されて、民族信仰としての神道の根強さを見せています。神宮皇學館も大学として再建されます。各地の神社は地域社会の伝統の核として維持され、その祭礼は郷土愛の結集点として氏子によって盛大に行われています。しかし、神道の教理とか思想が広く国民の宗教性とか霊性を育てる使命を果たしているとは見受けられません。近年では靖国神社問題に見られるように、国家神道的ないし皇国史観的な底流が折に触れて顔をのぞかせています。
既成の伝統的仏教教団は、江戸時代以来の檀家制度の惰性で、大きな宗教勢力であることを続けていますが、戦後の混乱期に国民の精神的拠り所となって活動することは少なく、もっぱら葬儀を中心とする宗教儀礼の執行によって国民生活と結びついてきました。戦後の農地改革や家族構造の変化により農村の社会構造は激変、さらに朝鮮戦争による特需などで始まった経済復興期以後の都市部への人口流出によって、農村を基盤とする真宗など仏教教団は大きく動揺します。都市では生活が流動化して、もはや家単位の菩提寺・檀家意識はなくなります。その中から一九六一年の宗祖の遠忌などを機縁として、同朋運動、おてつぎ運動、一隅を照らす運動など、「家の宗教から個人の信仰へ」を共通のスローガンとして、仏教の近代化を目指す改革運動が始まってきます。
キリスト教は、それまでの敵意と偏見や迫害がなくなり、戦後にはキリスト教の連合国、とくにアメリカからの援助物資や宣教師たちの活発な活動によって活気づき、一種のキリスト教ブームといった現象が起こります。敗戦の翌年にプロテスタント諸派が合同した日本基督教団は、賀川豊彦らを先頭に「新日本建設キリスト教運動」を開始、三年で信徒数を倍以上に伸ばしています。その間、米国聖書協会から二四〇万部の聖書の寄贈があり、書物に飢えていた知識人と青年に信徒を増やしています。敗戦二年後の一九四七年には社会党が第一党となり、キリスト教徒の片山哲の内閣が出現しています。カトリックも地味な布教活動を続けますが、日本が経済復興期に入ると、神道と仏教の伝統的宗教が息を吹き返してキリスト教は退潮、プロテスタントとカトリックを合わせて日本総人口の一パーセント程度に止まります。しかし中産知識層を担い手とする宗教として、その後の日本の学術や思想に大きな影響を及ぼし、戦後日本の発展に貢献しています。

新宗教の展開ー 神道系新宗教について

経済復興を成し遂げた日本は人口が大都市に集中、現代都市の世俗化と人口の流動化の結果、宗教も変容していきます(本書二一七頁以下のコックス『世俗都市』についての項を参照)。現代都市において世俗化と社会構造の変化によって伸びなやむ伝統的既成宗教に代わって、日本では新興宗教と呼ばれる新宗教が大いに発展します。新宗教といっても天理教や金光教のように江戸末期から明治時代にかけて活動しているものから、戦後に開教したものまで、また神道系や仏教系など様々です。しかしそれらの新宗教の目覚ましい進展が、戦後日本の宗教の特色となっています。ここでそれらの新宗教の代表的なものを取り上げて、その概略とその宗教史的意義を見ておきましょう。
前述した国家神道の形成過程で、国家の祭祀となった神社神道とは区別された神道系の諸宗教を、教派神道とか宗派神道といいますが、それが一三ありましたので神道一三派ともいいます。その宗教は特定の個人が唱えた創唱宗教であり、国家神道とは異なる民衆の宗教でもあります。国家神道の体制下では、仏教、キリスト教と並んで公認された宗教として、神仏基の三教として国の宗教統制に取り込まれることになります。しかし戦後に国家神道が解体されると、これらの教派神道はそれぞれ独立の宗教としての活動を開始します。その中で注目すべきは天理教と金光教でしょう。
天理教は、江戸末期の一八三八年に、現在の奈良県天理市あたりの地主の婦人、中山みきが開教しています。神道系の新宗教の中では一八一四年開教の黒住教に次いで古いものです。みきは浄土宗の信徒でしたが、長男の病気治癒のために山伏と祈祷を共にしたとき、神がかりして「天の神、てんりんおうが三千世界のたすけのために天降った」と宣言します。そして近隣の農民たちに病気なおしのたすけによって「親神てんりんおう」の信仰を広めていきます。みきは既成の寺院、神社、山伏から圧迫されますが、それに対抗して神道化を進め、幕末の慶応三年に神道家元の吉田家から「天輪王明神」として公認されます。明治維新後、病気なおしの活動で河内や大阪に信者が急増、各地に講社組織ができてきます。明治新政府の国民教化政策の下に厳しい弾圧を受け、礼拝所の「かんろだい」を破壊されたりしますが、みきは信仰は政治支配に優越するとして、政府に屈服しませんでした。みきは教義歌の「おふでさき」を書き、独自の創造神話「こふき(泥海古記)」をまとめます。
一八八七年(明治二〇年)にみきが没した後、大工出身の飯降伊蔵が本席となり、神がかりして「おさしづ」を出して教団を指導、その後には中山家の当主が「真柱」として教団を統率、現在に至っています。天理教の教義は、天理王命を一神教的な親神とし、独自の創造神話をもち、神が人間を創造した聖地が中山家の地「おやさと」であり、さらに、神は時が来て教祖を神の社として世界の救済を行うという、独特の救済論を持っています。神はすべての人間が豊かで平和な「陽気ぐらし」を願っているので、人間は欲などの悪い心を捨て、自らを神からの借りものであるとして、神への奉仕に励むように求めています。天理教は人間本位で現世的な民衆宗教であり、世直しの志向が極めて強い宗教です。しかし、明治初期に国家神道を目指す政府によって弾圧された経験から、日清・日露戦争時には政府の公認を得るために、本来の民衆宗教の平和主義や平等観の上に無理に天皇崇拝の国家神道的教義を重ねたために、矛盾を孕んだ教義構造となっていました。戦後には、この人為的な教義を変えて本来の教祖の信仰に帰ろうとする復元運動が進められます。この全期間を通じて、天理教は真柱の統率の下に大教会、分教会、宣教所の組織を整え、海外にも進出して大教団に発展し、天理大学や病院・図書館などの文化設備も整えて、戦後の新宗教のモデルとなっています。
天理教より少し遅れて、幕末ペリー来航数年後の一八五九年に、備中の川手文治郎が金神のお示しを受けたとして「金光大神」と名乗り、天地金乃神を説く活動を始め、布教の公許を得るために一八六七年(慶応三年)に白川家から金神社神主の補任状を受けています。金光大神こと文治郎が説く天地金乃神は、もはや江戸時代の祟り神としての金神ではなく、大地の神、愛の神であり、世界の総氏神とされ、最高神的な救済神としての性格をもつ神です。誠実勤勉に生きた農民文治郎が、祟り神の金神が実は大祖神であり救済者であることを体験し、その神を天地金乃神として説いたところから始まった新宗教です。文治郎は旧来の宗教から来ている日柄や方位などの俗信や禁忌を否定、「実意丁寧神信心」の信仰生活を説き勧め、病気や出産から農事に至るまでの相談を受け、その神に取り次いで布教します。教線は岡山から瀬戸内、大阪、京都へと伸び東京に至ります。一八八三年 の文治郎没には、後継者たちによって教義の整備がなされ、一九〇〇年に政府から独立を公認されるにいたります。
金光教の布教師であった出口なおが大本教を開き、その大本教が国家神道の政府から厳しい弾圧を受けたことは、先に触れました。その他にも、天理教から分かれた「ほんみち」教団とか大本教から出た世界救世教とか生長の家とか多くの神道系の新宗教が出ています。仏教系ではとくに法華信仰の新宗教が盛んで、霊友会とそこから出た立正佼成会、また創価学会の活動が目立っています。新宗教はすでに戦前から活動していましたが、戦争が終わるまでは、戦争に積極的に協力した霊友会とか生長の家などを例外として、多くは国家神道に立つ国家から抑圧・弾圧を受けて活動を抑えられていました。戦後の日本国憲法によって信教の自由が保証され、一九五一年に宗教法人法が施行されると、多くの新宗教が宗教法人となって、国からの干渉を受けることなく独立の布教活動を活発に進めるようになります。戦後の日本は神道、仏教、キリスト教の既成の伝統的な宗教の諸宗派と並んで多数の新宗教が乱立、宗教の博覧会の様相を呈するようになります。新宗教は神道系、仏教系、その他の諸教に分かれますが、その中から代表的な例を取り上げて見ておきましょう。
神道系の新宗教では、老舗の天理教と金光教は戦前の国家神道的な教義を上乗せするような妥協を強いられましたが、戦後はそれを除いて本来の姿を取り戻し発展しています。大本教は王仁三郎を苑主として愛善苑として復活しています。大本教から分かれた谷口雅春が始めた生長の家は、神仏基の三宗教と西欧の学説を総合すると称して、宇宙を「生命の実相」であるとし、病気治しと出版で教勢を伸ばします。戦時には天皇絶対と聖戦遂行を唱えて、戦争に積極的に協力していました。大本教からは岡田茂吉が出て、世界救世教を開宗しています。「ひとのみち」教団は、大阪で元黄檗僧の御木徳一と子の御木徳近が開いた新宗教で、太陽神・天照大神信仰を掲げ、教育勅語を教典とし天皇崇拝を説きましたが、その解釈が異端的だとして政府から弾圧され解散します。しかし戦後は神道色を取り除いて転身、名称を「パーフェクト・リバティー」(PL)と改称、人生の幸福を追求する活動を組織して、大きな教団に成長します。

新宗教の展開 ー 仏教系新宗教について

戦後の新宗教の中では仏教系、とくに法華系の新宗教が目立ちます。すでに大正期に久保角太郎が法華行者西田利蔵の万霊供養の法華信仰を受け継いで、その義姉(久保の実兄の妻)で神がかりが起こる小谷喜美を教祖として、法華経の功徳と先祖供養を結びつけた教義をととのえ、「大日本霊友会」を立ち上げます。その教義によると、あらゆる霊は父方と母方の先祖の霊によって友としてつながっており、人は先祖の霊を手あつく供養し、家族一同が懺悔滅罪することで、悪い因縁が切れ、神とか霊の加護を受けて、家と国家の安泰と幸福を得ることができるとします。昭和初期の皇国史観の中で日本を天皇を中心とする家族と見る家族国家観が高まると、家中心の信仰と自己抑制の倫理を説いて、都市の家庭婦人の間に広まり、やがて農村部にも拡大していきます。戦時中に霊友会は戦争に積極的に協力し、東京を中心に大きく発展し、そこから孝道教団や立正佼成会の創立者が出たように、戦後の新宗教の母体となっています。
立正佼成会は、霊友会から分かれた庭野日敬が霊能者の長沼妙佼と組んではじめた法華系在家仏教の教団です。日敬は霊友会の先祖の成仏と人格の完成を求める信仰を受け継ぎながら、法華経への帰依を鮮明にして、一九三八年に「大日本立正公成会」を出発させます(後に立正佼成会と改名)。日敬は法華信仰から因縁を強調、様々な民間信仰や姓名判断を取り入れて教義をととのえ、信者が少人数のサークルで信仰体験を話しあい教義を学ぶ場としての法座を中心に活発な布教活動を進め、さらにその法座を地域ブロックに組織して、組織の近代化と会員の急増に成功、全国に二百数十の教会を有する大教団にします。東京に本部を置き、周辺に学校、病院、出版社などを設立、さらに財団を設立して国際的な宗教協力を通じて平和運動に貢献した人物に賞を贈って、あらゆる宗教の協力を唱え、宗教者の国際会議を開催するなど、戦後の新宗教界を主導しています。
創価学会も日蓮系の新宗教です。一九三〇年に牧口常三郎と戸田城聖が創価教育学会を創立し、法華経を唯一の経典として他宗を排撃、戦時中は大麻(神宮神札)の奉斎を拒否して弾圧され、牧口と戸田は投獄されます。戦後に出獄した戸田は、獄死した牧口の志を生かすべく、一九四六年に「創価学会」を発足させ、第二代会長として活動します。戸田は機関紙「聖教新聞」を創刊、広宣流布による折伏大行進運動を展開します。創価学会は日蓮正宗の在家信徒団体ですが、本山の大石寺から本尊を受けて宗教としての自主性を確立、一方で大御本尊を幸福製造機と呼んで現世利益を掲げる折伏活動を進め、大きな教団になっていきます。学会は一九五五年からその組織力を活かして政界に進出、一九六七年には衆議院議員を出すにいたります。戸田は「王仏冥合論」を発表、国立戒壇を建てて日蓮正宗を国教にすることを目指します。一九六〇年に池田大作が会長に就任、その指導で学会は宗教政党の公明党をつくり、政権獲得の構想を立てます。しかし日蓮正宗を国教にしようとする創価学会の政教一致路線は、政教分離の憲法下で活動する公明党の方向とは矛盾し、創価学会は国立戒壇の主張を取り下げ、一九七〇年に公明党との分離を表明します。創価学会は信者を少人数の座談会に組織、また青年部や婦人部の組織力を整え、その並外れた行動力で海外にも進出、強い組織を持つ日本最大の宗教団体に発展します。創価学会はもともと日蓮正宗の在家信者団体でしたが、一九九一年に日蓮正宗が創価学会を破門することで決裂、創価学会は既成仏教の信者団体から一つの新宗教として再出発します。
仏教系の新宗教には、法華系の新宗教だけでなく、根本仏教を標榜する新宗教もあります。桐山靖雄が一九七八年に開宗した「阿含宗」は、ブッダの純粋な教説は最初期のパーリ語の阿含経にあるとして、阿含経を基本聖典としていますが、その宗旨の表現あるいは実行を大規模な護摩法要によって誇示しています。その護摩焚きは大乗仏教の一つである密教の秘法の一つですから、阿含宗は小乗の中心経典である阿含経と大乗の密教行法の奇妙な混合であると言えます。阿含宗は「真正仏舎利を本尊とし、釈尊直説の成仏法を修行する」ことを宗旨としており、チベットからもたらされた本物のシャカの遺骨とされる一片を本尊とし、因縁からの解脱のために阿含経の修行法を説いています。そして成仏していない先祖の霊が家庭に霊障をもたらしているとして先祖霊を供養する法要を要求するなど、霊友会系の新仏教であることを示しています。
一九八六年に大川隆法が設立した新宗教「幸福の科学」は、エル・カンターレと呼ばれる至高霊を本尊とし、仏法真理の流布による人類幸福を目指すとしています。孔子や日蓮、さらにイエスやムハンマドまで霊界にいる歴史上の人物と交流して、その霊言を受けたとして多くの霊言集の著作を出し、会の経典「正心法語」や「太陽の法」などを出して会の基本方針を確立、説法活動を展開します。国内と海外に多くの支部や精舎を有し、信者は公称一〇〇〇万人(経典「正心法語」の累計発行部数)となっています。しかし半数以上(創立メンバーも含む)が脱会しているとの報告もあります。会は政界への進出を図り、選挙の度ごとに候補者を立てていますが、創価学会のように国会に議員を出すまでには行っていません。この新宗教は人間を霊的存在とすることを第一の真理として、その幸福を与える宗教としながら、本来合理性を本質として霊界のような超合理世界の根拠にはなり得ない科学を結びつけて「幸福の科学」と名乗るところに、科学万能の現代につけこもうとする異様さを感じます。もっともキリスト教にも「クリスチャン・サイエンス」という一派もありましが、両者の内容はかなり違うようです。

オウム神理教事件の衝撃

戦後日本の新宗教の歴史で、新宗教の一つオウム真理教が引き起こしたテロ事件が日本社会全体に大きな衝撃を与えます。麻原彰晃(本名、松本智津夫)は、一九八七年にヨーガ教室「オウム神仙の会」を改称して「オウム真理教」という宗教団体を発足させます。自身を神秘能力を持つ者と顕示して、神秘体験に憧れる若者を引きつけ、ダライ・ラマを利用した巧妙な宣伝で教団を拡張します。自身をヒンドゥー教の最高神の中の破壊神であるシバ神とかチベット密教の怒りの神マハーカーラの化身として自分を絶対化、この神の名で目的のためには手段を選ばず、暴力も肯定する方向に向かいます。信者に修行と称して個室に閉じ込めたり脳に人為的な操作を施すなど、教祖への絶対服従を強要すようになり、教団の拡張に手段を選ばないで暴走するようになります。創価学会には対抗意識が強く、一九九〇年には真理党を結成、衆議院選挙に麻原をはじめ多くの候補者を立てますが、全員落選して惨敗します。その年には日本シャンバラ化計画を立てて、阿蘇に土地を購入、反対する地元から得た九億円を超える和解金を資金として活動、ロシアにまで宣伝放送を行なって支部を造っていきます。
麻原は世界の終わりに起こるとされる(ヨハネ黙示録の)ハルマゲドンの戦いが近いことを予言するなど、奇妙な終末予言をするようになり、教団の武装化を図り、サリンなどの化学兵器の研究や武器の準備などを秘密裡に進めます。そのために信者らに対する献金の要求は激しくなり、暴力的強要から被害者もでます。これらの被害者をオウム教団から救出するための運動に対しても、すでに一九八八年には坂本弁護士一家を殺害するなど、暴力的体質をむき出しにして暴走しだします。麻原は王として日本を支配することを空想、幹部を大臣に任命、兵器の密造や化学兵器の製造を進めます。サリン完成後の一九九三年にはサリンによる池田会長暗殺未遂事件も起こし、一九九四年には松本市に進出しようとした教団が、立ち退き裁判担当の裁判官殺害のためにサリン使用を実験、住宅地にサリンを噴霧して八人を死亡、六六〇人を負傷させます。そして教団への操作の撹乱と首都圏の混乱を策謀して、一九九五年の三月に東京の地下鉄五両の車両にサリンを散布、一二名の死者と六〇〇〇人以上の負傷者を出すにいたります。このオウム教団によるサリン事件は日本社会だけでなく、化学兵器による最初のテロ事件として世界を震撼させます。警察は一連の殺人事件の容疑者として幹部を逮捕、同年の五月には富士山麓にあるサティアンと称するオウムの施設に化学防護服の警官隊が突入、隠れていた麻原を逮捕します。この一連のオウム事件の裁判は長引き、二〇一一年に麻原と幹部実行犯一三人に死刑、五人に無期懲役の判決が確定します(死刑は二〇一六年現在だれにも執行されていません)。
戦後五〇年という節目の年に起こったこのオウム真理教事件は、戦後日本の新宗教の進展に深刻な反省を求めることになります。戦後の日本に活動した新宗教は、時代の要請と社会の変動に応えて、民衆の不安をいやし霊的渇望を満たすために大きな影響力を見せてきました。それに対して伝統的な既成宗教は、古い時代の体制宗教としての体質から、伝統的な教義や祭儀などの形式に安住して、民衆の現実的な必要に応えることが僅かでした。しかし両者を比べるとき、伝統的な既成宗教は長い歴史の検証を経ているのに対して、新宗教は活力には満ちていますが、まだ歴史の検証を受けていないという問題点があります。既成の古い宗教・宗派も、それが起こった時代では新宗教であったのです。その新宗教が時代の変化に対応しつつ自己変革を成し遂げ、社会全体の求めに応じてきました。この過程が長い歴史の中で、一つの宗教を歴史によって認証された宗教としています。
宗教の世界、すなわち人間の霊的必要に応えようとする営みには、神の目的実現のために仕える働く霊的な力もあれば、神の目的を妨げようとする霊的な力、すなわち悪霊も働いています。人間は悪霊の誘惑に弱いものです。オウム真理教の場合も、支配欲とか妄想というような教祖の人間的な弱さが、宗教の場面で暴走させた結果だと見ることができます。多くの新宗教は、これからの社会の変容に対応しつつ、長い歴史の検証に耐えていかなければなりません。これらの新宗教が長い歴史の検証に耐えて社会に定着するとすれば、神道系の新宗教は神道の新宗派に、仏教系の新宗教は仏教の新宗派となって、落ち着くのかもしれません。
日本の戦後に発展拡大した新宗教には仏教系のものが多いようです。いづれも真の仏教の回復とか根本仏教への回帰などを掲げています。しかしその活動の中に教団の拡大を追求するあまり、人間の弱さや権力への渇望から、宗教としての本来の使命から逸脱してしまうものも出てきます。その中で、その宗教の歴史的な展開を厳密に辿ることによって、その宗教の根本精神にいたろうとする地道な方向をとる努力もなされています。その方向の努力として、たとえば仏教系の宗教活動の中で、中村元の東方学院の活動をあげることができます。インド哲学・仏教学専攻の中村元は、東大退官後、東方学院を設立、あらゆる階層の人たちに仏教の基本思想を説く寺子屋式の啓蒙活動を始めます。その東方学院は「東洋思想の研究およびその成果の普及」を目的とする文部科学省所管の特例民法法人となって、多くの研究者を養成、公開講座や講演会を開くようになっています。中村元は仏教思想を運ぶ用語を日本語に定着させるために、生涯をかけて数種の仏教辞典を編纂または監修しています。このような地道な仏教の歴史的研究とその普及が、仏教の様々な新しい形態を歴史的検証の場に置いて健全に育てると考えられます。その中村は仏教の到達点を「慈愛のこころ」に見出しています。

現代日本の宗教事情

戦後の日本は敗戦による荒廃の中から奇跡的な復興を成し遂げ、経済の発展により人口は都市に集中、家族も核家族化して都市の中で孤立し、社会の構成が大きく変化しました。檀家制度や氏子制度と地域社会の伝統に安住していた既成宗教がその変動に対応できなくて茫然としている間に、孤立した家族や個人の不安と渇望に応えて、多くの新宗教が生まれて民衆を組織化、大きな勢力となりました。宗教が伝統や体制の宗教から民衆の宗教になったという点では、現代は鎌倉時代の仏教が支配階級の宗教から民衆の宗教になったのと共通の面があるのかもしれません。鎌倉時代は貴族支配の律令制社会が崩壊、中世の封建社会に移行する変動期でした。その社会構造の激変と飢饉などの自然災害で苦しむ民衆の救済を志し、膨大な仏教経典の中から阿弥陀の一仏とその本願への帰依という一行を選択、一仏一行の専修念仏を唱えた法然と、その南無阿弥陀仏の信仰を民衆の間に広めた親鸞や一遍の浄土信仰は、信仰だけによる救済と宗教の民衆化という点で、日本の宗教史における宗教改革だと言えます。現代の日本も一種の宗教改革を経験しているのかもしれませんが、現代の新宗教には現世救済と世直し的な志向が強く、信者がはたらく万人祭司的な面があります。その将来は、先に述べたように、歴史の検証を経なければなりません。
戦後日本の新宗教の発展を特色とする宗教状況は、世界の世俗化という現代の大きな潮流の中で見なければなりません。先に本書本論の「第六章 現代の宗教問題」の「第二節 世俗化の問題」で見たように、現代世界は世俗化の時代を迎えています。ヨーロッパ近代における啓蒙思想の進展によって、伝統的な教会の教義と権威は疑問視され、人間理性の検証を経た科学が生活を便利にして向上させました。産業の発達とともに人口は都市に集中、伝統的宗教の権威から離脱して流動化した都市の人口に、新宗教が彼らの不安と拠り所を求める霊性に働きかけて、大きな教団を形成していきます。人間の霊性は科学が関与できない分野です。それで新宗教の働きかけにはつねに人間のスピリチュアルな面を問題とするスピリチュアリズムが見られることになります。新宗教は創唱宗教であり、創唱者(教祖)の霊的体験に参与する(または参与しようとする)信者の自発的な共同体、宗教学でいうセクト型の宗教集団ですが、それが政教分離の原則を確立している社会で、既成宗教と対立または並立する一つの宗教として成立します。国教的な体制が確立しているところでは、このような宗教集団は異端として批判と弾圧の対象となります。日本でも国家神道が国教的な地位にあった時には新宗教は弾圧されました。しかし戦後に国家神道が解体され、政教分離が確立しますと新宗教が活躍して、多くの新宗教が既成の神社神道、仏教各宗派、キリスト教と並立する宗教状況が出現しました。わたしたちは、このような宗教事情の日本における福音告知の活動がどのように進められるのか、また進められるべきなのかを、次章の「日本における福音の将来」で論じることになります。

東アジア仏教圏の成立 ― 第一章への結び

この「第一章 アジアにおける諸宗教」では、アジアにおける宗教の歴史で中心的な位置を占めるインドと中国の宗教史を概観した上で、わたしたちが現に生きている日本の宗教の歴史を見てきました。その全体を俯瞰しますと、それぞれの地域の文化圏に成立していた民族宗教の上に、世界宗教としての仏教が重なって、それぞれの地域に複雑な宗教文化を形成していたことが見えてきます。インドの民族宗教はヒンドゥー教です。そのヒンドゥー教の歴史の中にシャカが現れ、悟りを開いてブッダとなって教えを説き、仏教を開きます。その仏教の歴史の中でブッダから数世紀後に成立した大乗仏教が、北伝して中国に伝えられてきます。中国固有の宗教は儒教と道教です。そこにインドの大乗仏教が入ってきて、漢字文化の儒教・道教の中国文化圏に漢訳の仏教が重なって、複雑な宗教文化を形成します。その漢訳大乗仏教が朝鮮経由で、また直接中国で学んだ僧によって日本に入ってきて、民族宗教として形成されていた神道と重なり、神仏習合の複雑な宗教の歴史を生み出します。そこに大航海時代以降には、西欧のキリスト教がアジアの各地に伝えられて、インド、中国、日本の宗教史をさらに複雑にしています。
ユーラシア大陸の東部、普通アジアと呼ばれている地域には、南部のインドと東部の中国を中心に広大な陸地が広がっています。インドの北には中央アジアと呼ばれる内陸地(チベットを含む)と、東南地域には多くの島嶼を含む東南アジアがあります。南アジアのインドと中央アジアや東南アジアにはイスラムの到達や支配もあって、極めて複雑な歴史をたどっており、それぞれ別に扱わなければなりませんが、中国、朝鮮、日本の東アジア圏は、中国の漢字文化の上に共通の文化圏を形成してきており、それぞれの民族宗教の上に仏教という共通の世界宗教が重ねられて、一括して扱える面があります。すなわち「東アジア仏教圏」と呼べる宗教文化圏が成立します。東アジアに伝えられた仏教は大乗仏教ですから、厳密にいうと「東アジア大乗仏教圏」というべき一つの宗教文化圏が形成されることになります。日本はこの大乗仏教圏の重要な、そしてその歴史の最初期から現代に至るまでの全期間にわたって大乗仏教を保持してきた代表的な国です。
ここでは仏教という共通の世界宗教が重なることによって形成される「東アジア仏教圏」の地域に福音を告知する働きを進めるにあたって、福音が遭遇する仏教という宗教に対する、わたしたちキリスト者の理解と姿勢を考えなければなりません。附論の二章でこの問題を考察することになりますが、本書の基本姿勢である宗教相対化の視点から考察を進めていくことになります。著者は新約聖書の各巻を研究して、キリストの福音が新約聖書時代と呼べる最初の一世紀にとった証言を歴史的に検証して、前著『福音の史的展開』にまとめました。そしてその終章において、キリストの福音がキリスト教という一つの新しい宗教を地中海地域のギリシア・ローマ世界に形成した経緯を追跡することで、そのキリスト教も一つの宗教として他の諸宗教と同じく、絶対的なものではなく相対的なものであることを、とくにパウロに学びつつ明らかにしました。それは、人類への神からの語りかけの言葉としての福音の絶対性を確立するためです。この宗教相対主義の視点から東アジア仏教圏への福音告知の意義を考えてみたいと思います。
その際、考察の範囲を日本における福音と宗教の遭遇に止め、インド、中国、チベット、朝鮮での出会いは触れません。著者はそれらの諸国における民族宗教と仏教の歴史の詳細は知りませんので、その問題を議論する資格はありません。しかし、東アジア仏教圏の仏教はみな大乗仏教ですから、その宗教文化代表する日本での福音と仏教との出会いを考察して、その基本的な問題を理解すれば、その理解は他の東アジア大乗仏教圏 の諸国における福音と仏教の関係にも適用できると考えられます。 もちろん各国の特殊な事情は考慮されなけれななりませんが、ここでは日本での出会いの考察に限らざるをえません。本書では、比較的状況をよく知っている日本での場合を考察して理解を深め、そこで得られた原理で各国のキリスト者が仏教との出会いを考えてくださることを期待して、その考察を提供することに限定します。