市川喜一著作集 > 第24巻 > 第22講

第二節  中国の宗教史

はじめに

ユーラシア大陸の地図を開きますと、この地球上最大の大陸の中央部の南に逆三角形の形でインド洋に突き出たインド亜大陸があり、その東、すなわちユーラシア大陸の東部には黄河と長江(揚子江)流域の広大な平原を中心に、その西のチベットや北のモンゴルの山岳砂漠地帯、東には朝鮮半島と島国の日本、南にはインドシナ半島や南方の島々があります。前項Tではインドの宗教事情を概観しましたので、本項Uでは中国を中心に東アジアの宗教状況を概観し、そこに進出した福音とキリスト教の意義を見ておきたいと思います。その際、日本も当然この地域に含まれるのですが、先にもお断りしたように、節を改めて次の第三節でやや詳しく扱います。

中国の体制宗教としての儒教

中国人は儒教の民です。その政治形態や国家形態は様々に変わってきました。しかし儒教が中国の歴史の初めから現代に至るまで、中国人の生き方、思想、文化の基礎になってきました。儒教は単なる一時代の道徳とか倫理の思想ではなく、中国を統合し、中国の歴史を形成してきた、中国の体制宗教です。この儒教を一つの宗教として理解する見方は、儒教を一つの道徳とか倫理思想と見るこれまでの通説とは違いますが、儒教を古代中国に生まれた民族宗教として、しかも中国社会の体制となった宗教として理解しないと、儒教が中国の長い全歴史を貫いて生きてきた事実を説明することができません。
儒教は普通孔子から始まるとされています。確かに孔子は儒教を大成しました。孔子がいなければ、儒教はあり得なかったでしょう。しかし後に儒教となる宗教は孔子の前からあったのであり、孔子はその昔からの宗教を壮大なシステムとして大成して、儒教として確立し、後代に伝えたのです。孔子以前にも中国には「儒」と呼ばれる人たちがいて活動していました。彼らは シャマン(巫者)です。すなわち霊界にいる諸存在と地上にいる人間との交流を仲介する霊能者です。このような働きをするするシャマンによる宗教は、世界のどこにでも見られ、その社会の中で時には指導的な役割を果たしていました(日本のヒミコ)。このようなシャマンは、中国では「儒」と呼ばれていました。このような儒に霊界との交流を依頼する者は、大抵はすでにこの世にいない先祖たちとの交流を依頼するので、儒たちは家族の祖霊礼拝で重要な役割を担うことになります。儒たちが祖霊礼拝の儀礼を取り仕切るようになって、彼らは中国人にとって最も重要な儀礼の次第、すなわちその「礼」の専門家となっていきます。孔子以前にこのような儒たちが活動した時代は、儒教の先駆時代であり、「原儒の時代」と呼ばれます。
このような儒たちが活動した時代に孔子が現れて、彼らが集成した礼の専門知識をシステム化して、儒教という宗教を古代中国にもたらします。孔子(前五五一〜四七九)は、周王朝の滅亡から秦による統一までの春秋戦国時代に出た思想家で、自分が到達した徳治主義の政治的理想を説いて各国を巡回しますが受け入れられず、晩年は古典の学識を駆使して、「礼」を中心とするそれまでの儒たちの宗教を大成する使命と、それを受け継ぐ弟子たちの教育に専心します。この孔子によって前の時代の儒たちの呪術的活動は儒教というシステム化された宗教として成立することになります。それで孔子の出現から儒教という宗教の成立の時代を「儒教成立の時代」と呼ぶことになります。この時代に成立した儒教は、儒教を国教とした漢の武帝に頃から盛んになった「経学の時代」の儒教と区別して、「原始儒教」と呼ばれることもあります。この時代の儒教は、戦国の時代を制して中国を初めて統一した秦の始皇帝(皇帝在位、前二二二〜二一〇年)の反儒教政策によって「焚書坑儒」の迫害もあったとされていますが(その歴史的真偽は議論されています)、秦の後に起こって中国を統一した漢王朝の武帝(在位前一四〇〜八七)によって儒教が国教と定められ、その国教としての地位は、辛亥革命によって最後の王朝となった清王朝が倒れるまでのすべての王朝に引き継がれ、儒教が中国の体制宗教となります。すなわち中国社会は儒教という宗教によって民族の結合と統一が保証される社会となります。これはコンスタンティヌス体制のよってヨーロッパの歴史がキリスト教による統合によって成り立ってきた事実に対応します。
さて、孔子の思想を継承発展させた儒家には、前三〇〇年頃に孟子が出て、人間本性の性善説に立って習慣法重視の徳治を唱えます。しかし少し後の荀子は性悪説に立って道徳の上に成文法を置き、法による統治を説きます。その流れから韓非子らの法家が登場します。戦国時代を勝ち抜き中国を統一して中央集権的国家の皇帝となった秦の始皇帝は、この法家の思想を中央集権的国家の基礎に置き、儒家を弾圧します。秦は短命に終わり、漢王朝が秦の群県制を修正した群国制の中央集権国家を形成します。儒家もその変化に対応してその主張を少しづつ変化させ、儒教の基本典籍となっている「詩」や「書」などの古典を解釈する「経」学が発展します。とくに漢の武帝によって儒教が国教となると、漢は五経博士を置いて、儒教の経典となる詩経、易経、書経、礼記、春秋の五経を学ばせ、その中で優秀な人材を中央集権的国家の中枢部を形成する中央官僚として登用します。この制度がその後の各王朝の「科挙」となって、中国の支配的知識階級を儒教色に染め上げます。こうして儒教は「経学の時代」を迎えることになります。しかし地方の群国以下の社会では古来の家や氏族という血縁共同体が支配体制として温存されます。

儒教の中心としての「孝」

儒教は宗教ではなく、個人や国家などの社会規範としての道徳とか倫理の体系としての理解されることが多く、その根拠として『論語』に伝えられている次のような孔子の言葉がよく引用されます。弟子の子路が鬼神に仕える仕方をたずねたとき、孔子は「いまだ人に事うる能わず。いずくんぞ能く鬼(神)に事えんや」と答えています。そして子路がさらに「敢えて死を問う」たとき、孔子は「いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らんや」と答えます。このように孔子は地上の生について教えたのであり、死とか死後のこと、鬼神などの霊界のことについては語らなかったという理解が広く行われています。しかし、これは誤解です。儒教がいかに深く宗教とかかわり、宗教として理解されて、中国の体制宗教として扱われてきたかは、中国の歴史が物語っています。儒教には二つの層があり、下の基層にはシャマニズム的な祖霊礼拝とその儀礼としての宗教的な層があり、その上に長い経学の時代に形成された社会倫理とかイデオロギーとしての層があります。ところが儒教というと上層の倫理とか道徳という面だけが見られていて、基層の宗教としての面が見過ごされています。それが宗教であるゆえに、儒教は中国民衆の魂として、様々な形の社会体制の下で生き延びてきたのです。近代国家、とくに社会主義革命後の中国では、儒教は旧体制の残骸として厳しく批判されますが、それは経学の時代に孝を君主に対する忠にまで拡大した上層のイデオロギーとしての儒教であって、宗教としての儒教が中国人の紐帯となっている事実は変わりません。
では、その宗教としての儒教の中心はどこにあるのでしょうか。さきに儒教の成立のところで見たように、孔子は中国の古典となっている「書」(歴史)や「詩」(詩文)や「礼」(宗教儀礼)の該博な知識によって、原儒たちが集積している祖霊礼拝の儀礼をシステム化して、儒教という「礼」の体系化を成し遂げました。そしてその祖霊礼拝の宗教儀礼の内容を「孝」という概念で表現しました。孝というとわれわれは親に対するよき態度を思い浮かべますが、孔子において「孝」とは、地上の両親だけではなく、先祖全体に対する儀礼の実行と、自分も祖霊として祀ってくれる子孫という生命の連続を希求する儀礼の全体です。ですから『論語』の中で孔子は親とか先祖についてこう言っています。「生には、これに事うるに礼をもってし、死には、これを葬るに礼をもってし、(鬼神には)これを祭るに礼をもってす」。これは親に仕える仕方の全体について言っているのです。儒教は先祖から子孫へと続く生命の連続をその宗教の中心に据えているのです。中国人はきわめて現世的で、何よりもこの世の生を楽しむことを願います。自分も先祖たちもこの世での生を楽しむことを希求し、それを礼の形式で表現しているのです。儒教が中国人のこの希求を宗教の形にしているので、民族と歴史の全体に受け入れられて、中国の体制宗教となりえているのです。仏教が輪廻という地上の苦しい生への回帰からの解脱を目標とし、キリスト教が来るべき神の国での命としての永遠の命を目標としているのと対照的です。

老荘思想と道教

中国にもこの儒教を批判し、儒教と対立する宗教や思想が出てきます。そのような儒教を批判する思想の最初は、孔子と同じく始皇帝の統一以前の戦国時代に出た老子や荘子によって唱えられた「老荘思想」です。老子は彼が残したと伝えられる短い箴言集のような著作『老子』によって知られるだけで、確実なことは分からず、その実在が問題視されています。『史記』によれば楚の人で、孔子より少し後の前四〇〇年頃の人とされています。その伝記の曖昧さから、後漢時代には道教の成立とともに、その始祖として「太上老君」として神格化されるに至ります。老子の思想の根本概念は、一切万物を生成消滅させながら、それ自身は生滅を超えた超感覚的な実在ないし宇宙天地の理法としての「道」(タオ)です。その道(タオ)の在り方を示すのが「無為自然」であり、それを体得した人物が聖人と呼ばれます。この思想は、礼を重んじて人為的に構成された世界を極める人を聖人とする儒教と対立し、自然に即し人為を遠ざける生き方を理想として、後に仙人思想を広めることになります。しかしその老子も形而上学的な「タオ」を説く一方、現実世界で成功するために、処世とか政治の具体的な方策を説いています。世人には外界にあるがままに順応する因循主義や、統治者には人為的な制度によらず民に支配を意識させない無為無事の政治を説いて献策しています。この現実的成功主義が老子の思想の一面にあり、それが後に老子が神格化されて道教という宗教になったとき、中国古来の現世利益を祈る民族宗教を取り込み、道教を広く民衆に広げ、儒教と並ぶ国民的宗教とします。
この老子の思想を継承する荘子は多くの著作があり、道家思想を大成した思想家であり、その思想は「老荘思想」と呼ばれることになります。おそらく孟子とほぼ同じく前四世紀後半に活躍した人と見られます。中でも『逍遥遊篇』と『斎物論篇』の二篇は荘子の真筆と見られ、道家の基礎文献として重視されています。後者では、道(タオ)の絶対性の前では現実世界の対立差別の諸相が止揚されて、個が個としての価値を回復し、何ものにもとらわれない絶対自由の境地に至ることを説いています。そして前者で、この「タオ」を体得して何にもとらわれない自由の境地に到達した「至人」を、儒教の聖人と対立させています。この至人の境地にいたるために、人為的作為を捨てて、天地自然の理にあるがままに従うという「因循主義」の処世を説いています。
もう一つ、儒教に対立する宗教思想として、秦による統一以前の時代に、魯に生まれ宋に仕えたといわれる墨子が、儒教を厳しく批判しています。墨子は儒教が説く礼説が煩瑣で、礼のために財を尽くし民を貧しくするのを批判、礼楽を軽視して勤労と節約を説きます。墨子の思想で中国思想の枠を超えて重要な思想は、彼の「兼愛」の思想です。兼愛とは無差別の人間愛であり、親疎や遠近の区別をしない一視同仁の愛です。これは儒教が至高の徳とする仁が、なお自己を中心とする血縁共同体を基盤としているのに対して、墨子の兼愛思想は、家族愛や愛国心を乗り越えて人類愛という普遍的目標を掲げています。この兼愛の思想を掲げて墨子は戦乱の時代に、為政者に非攻(戦争反対)、節葬(葬儀の簡略化)、非楽(礼楽贅沢の廃止)を説いて回り、働かざる者は食うべからずと主張します。墨家は戦国末までは儒家と思想界を二分する勢力をもちますが、秦・漢の統一時代に入ると急速に衰退し、儒教が国教的な地位を得るとともに、再び中国の有力な思想にはなりえませんでした。
一方、老荘思想は、後に(三世紀ごろ)盛んにになった「玄学」(老子、荘子、易経を三玄と呼んでその研究をした学風)の時代に重視されて、すでに国教的な立場にある儒教と並んで、深く中国思想に浸透します。ところで中国には古くから「仙人」の神話とか言い伝えがあります。人間でありながら永遠の生命を獲得して、長生不死の境にいる者を指し、「神仙」とも呼ばれます。この神話は古代の伝説的な理想の黄帝から出ているようで、秦による統一以前の戦国時代から広く行われていました。孟子にも「神人」とか「真人」、「至人」などの表現が使われ、『山海経』(古代の地理書で、その基層部は戦国時代の成立、中国神話研究の基礎資料)には「不死の薬」、「不死の民」、「不死の国」、「不死の山」という伝説が語られています。このような神仙とか仙人の領域(仙境)は高い山(蓬莱山など)とか東海の島にあるとされ、始皇帝が不死の薬を求めて東海の島に部下を派遣したのは有名です。儒教を官学としたあの漢の武帝も仙人のいる神山伝説を信じていたようです。この仙人神話が老荘思想と結びついて、後漢末から(三世紀初頭の)六朝時代にかけて、神仙を神々として崇敬する宗教、「道教」が成立します。そこでは老子が神格化されて拝まれることになります。道教の最終目標は不死の獲得です。人間は原初の「気」(元気)によって動かされ、陰陽、男女、天地と分かれていく宇宙の模像です。道教ではこの「元気」を保ち養う方法を具体的に教えています。その中には食餌法や呼吸法や房中法も含まれ、不死の薬を作り出す秘法として錬金術的な方法も追及されています。
道教が成立する時期よりも前に、すでに後漢の時代にインドから仏教が伝わってきています。一三〇年ごろには長安に仏教の存在が確認されています。当初、仏教は道思想の異質な一派と見られていましたが、五世紀に現れた大翻訳家クマラジーヴァ(鳩摩羅什)によって、正確に仏教の本質が理解されるようになり、仏教は中国で独自の発展を遂げますが、それは次の「中国仏教の展開」の項に委ね、ここでは道教成立期の三教(儒教、道教、仏教)の関係について簡単に見ておきましょう。当然、各宗教は信者を増やしてその勢力を拡大しようとして働きかけますが、人々の間では三教の比較論が流行します。空海が『三教指帰』(七九七年)を書いて、儒教や道教でなく仏教を選んで出家する宣言にしたのも、中国における三教比較論の流行の影響とされています。その三教の盛衰は、社会の統治者が帰依するか反対するかという姿勢によって大きく変ります。漢王朝以来国教的な地位を保ってきた儒教は保護されることが普通で、また民族的・民俗的な要素の強い道教も民衆に根を下ろしていて、比較的迫害されることは少なかったようです(稀に仏教に帰依した支配者が道教を迫害しています)が、外来の宗教である仏教は、統治者の帰依を得た時は保護されて発展しますが、その活力と繁栄が土着の宗教の反発を受け、弾圧されることになります。八四〇年代には激しい弾圧が生じ、仏教は禁止、寺院は破壊され、僧侶は還俗を強いられたりしています。このように社会的勢力としては三宗教間に消長はありますが、総じて知識階級は三教の知的総合を追求しています。明代の儒者、林兆恩は三教の合同を図っていますが、同じく明代の陽明学以降においては、三教を相対化した上で一致を説くことも始まっています。

中国仏教の展開

前五世紀前後にインドに起こった仏教は、前一世紀には大乗仏教を成立させ、「般若経」「法華経」「華厳経」「阿弥陀経」など多くの大乗仏典を生み出しています。その大乗仏教が北に伝わり、一世紀には中央アジア(中国から見て西域)を経て、後漢時代の中国に伝わります(北伝仏教、本書一六七頁参照)。その後インドでこの大乗仏教の思想はナーガルジュナ(龍樹)、アサンガ(無著)、バスバンドゥ(世親)らによって体系化されて大成し、五世紀初頭に中国入りしたクマーラジーバ(鳩摩羅什)によって多くの大乗仏典と龍樹の『中論』 などが正確に漢訳されて、大乗仏教が中国に行われることになります。以後、中国に展開し漢文で表現された仏教が広く行われて、別ルートで伝えられたチベット仏教とともに、中国仏教が伝えられた朝鮮半島と日本を含む東アジア仏教文化圏を築くことになります。ここで国教的な立場にある儒教に対抗する宗教として、道教と並ぶ中国仏教の進展の概略を見ておきましょう。もちろん、その膨大な歴史の全容は専門書に委ねるほかはありませんが。
中国に仏教が伝えられたのは後漢の明帝(在位五七〜七五年)の時代です。明帝は国内では儒教の普及に努めていますが、対外的には西域諸国を制圧して、クチャに西域都護を置いています。その明帝があるとき夢の中で光明を放つ金人の姿を見て、二人のインド僧を洛陽に招きます。二人は「四十二章経」や仏像、仏教儀礼を伝えます。その経典の序に仏教伝来の言い伝えが語られているのですが、それによると上記の夢の伝承や帝が洛陽に最初の仏教寺院となる白馬寺を建てて仏を拝したことが伝えられています。実際、彼の義弟が熱心な仏教徒として、仏教の普及に努めています。中国への仏教の伝来は、西への主要通商路であるシルクロードの開設と深く関わっています。大乗仏教の無量寿仏や西方浄土の信仰も、道教の神仙信仰の土壌で受け入れられます。
漢の末期以後、華北は五胡十六国と呼ばれる匈奴などの北方の遊牧騎馬民族諸国の支配下にありましたが、その権力者たちは競って仏教を利用して国の伝統を統一しようとし、仏教の普及に努めます。クチャから華北に来た仏図澄は、特異な霊能によって華北に多くの寺院を建て、漢人の僧を養成、中国仏教の基礎を築きます。その弟子の釈道安の弟子の一人慧遠(四一六年没)は、「般舟三昧経」(空中に立つ阿弥陀仏の姿に集中することを説く仏典)を典拠とし、同志と共に阿弥陀仏像の前で念仏実践の誓約を立て(白蓮社の念仏)、念仏を広めて中国浄土教の始祖と仰がれるようになります。慧遠はあの翻訳家のインド僧のクマーラジーバとも親交があり、書簡によって経典や教義を質していたようです。またこの時代の華北の仏教は造寺造像に熱中し、すでにインドや中央アジアに見られる石窟寺院に倣って、敦煌、大同、洛陽龍門の各地に巨大な石窟寺が開削されることになります。
こうして中国に伝来した仏教は、様々な周辺民族や時代が異なる民衆に受け入れられ、儒教や道教というような中国古来の伝統文化とは異なり、またかってのインド仏教とも異なる独自の漢訳仏教となり、他の民族や時代にも適応できる世界宗教としての性格を獲得していきます。この漢訳仏教は、儒教や道教に対抗して、教祖釈尊の年代をできるだけ古いものにして、伝えられたすべての大乗・小乗(上座部)の仏典を教祖釈尊一代の教示として提供します。この一切経は、当時の発達した中国の印刷技術で印刷されて「大蔵経」となり、朝鮮や日本に伝えられて新しい宗教と文明を起こしていきます。またインドと中国の間にあるチベットの初期仏教は、唐代の中国仏教を輸入することで始まりますが、やがてタントラ仏教的要素を含むインド仏教を取り入れて総合し、中国ともインドとも異なるチベット密教(ラマ教)を成立させます。こうして中国を中心にチベットと朝鮮・日本を含む東アジア仏教圏を形成することになります。
その後の中国の仏教史は複雑で概観することも難しいので、隋・唐と宋・明王朝の統一国家時代(元朝や清朝の異民族王朝はここでは除きます)の中国仏教の特色を示す密教と禅宗の成立に触れるだけにとどめます。その前に仏教伝来以来、中国大乗仏教の中心にあった浄土教の進展を担った僧たちの名前だけあげておきます。前述の慧遠(四一六年没)に続いて、曇鸞(五四二年没)、道綽(六四五年没)、善導(六八一年没)などの七世紀の高僧たちが、般若経や浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)をそれぞれ典拠として、それらの注解書を書き、他力信仰や念仏称名を説き、また実践して浄土教を広めています。とくに善導が唱えた称名主義は日本の平安時代の浄土教に大きな影響を与え、鎌倉仏教では法然が「偏依善導」(ひとえに善導に依る)として、称名(アミダ仏の名号を唱える)だけで浄土に行くと唱えて浄土宗を開いたことは日本の宗教史の画期的な出来事です。
この浄土系の仏教に対して、唐の時代には密教が伝わり、中国でも盛んになります。広く民衆に明瞭な言葉で説く「顕教」に対して、非公開の教団内部で秘密の教義と儀礼を師資相伝で伝える秘密の仏教を「密教」と称します。密教はすでにインドで成立、「大日経」や「金剛頂経」という両部大経を生み出していますが、これは古来の除災招福などの現世利益を目的とした儀礼や呪術に大乗仏教の思想性が加わり、タントラ仏教の影響も加わって、修法の目的が「成仏」(仏性の完成)に変化し、教主が釈尊から大日如来となって成立した仏教です。密教では如来の一つ大日如来を中心本尊とし、これを毘盧遮那(ビルシャナ)仏と称して、一切を照らす知恵の光明、永遠不滅の慈悲の根源として拝します。すべての諸仏諸菩薩はこの如来より出生したとされ、大日経に説く胎蔵大日如来と、金剛頂経に説く金剛界大日如来の二種があり、それぞれの大日から生まれる諸仏諸菩薩の体系が胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の二種の曼荼羅に図像的に表示されます。密教に対しては、大乗よりも優れたという意味で金剛乗という呼称が用いられています。
そのインド密教が八世紀に唐代の中国に入って来ます。中国ではすでに六世紀、隋の時代に天台山の智が天台宗を開いています。これは大乗仏典の一つクマーラジーバ訳の法華経に基づく智の注解書「法華玄義」などを聖典として、密教も加えて中国仏教を再編成したもので、天台法華宗とも呼ばれています。その中国にインド僧の善無畏(七三五年没) が、七一六年にインドから長安に来て、唐の玄宗の帰依を受けて密教を中国に伝えます。彼は「大日経」を伝え、弟子の金剛智は「金剛頂経」を訳して紹介しています。その弟子の不空(七七四年没)は、金剛頂系の多くの密教経典を訳し、玄宗以下唐朝三代の皇帝の帰依を受けて、密教を国家仏教の地位に引き上げます。その弟子の恵果(八〇五年没)は大日経系の密教と金剛頂系の密教を統一して、真言密教を成立させ、それを留学僧空海に伝え、空海は高野山を真言密教の聖地として、日本仏教全体に巨大な影響を与えることになります。同時に唐に留学した最澄は、止観を含む天台智の系統の仏教を伝えて、比叡山に天台宗を起こしています。中国では「大日教」系の密教が栄えますが、次第に主導的な地位を道教に奪われるようになります。
禅はインドに始まりますが、禅宗は中国から始まります。宗教的修業法の一つとして瞑想や座禅は、古くはインダス文明にも見られ座禅する神像も発掘され、古代インドのバラモン教文献のウパニシャッドや一世紀の詩史バガバッドギータなどにも坐法や心構えが説かれています。禅は古代インドで広く行われた精神統一の技術であるヨーガから発達し、仏教でその知的側面を深め、独自の禅定思想を生み出します。一世紀に仏教が中国に伝えられたときから、中国古来の神仙信仰や老荘思想によく似た禅は中国の土壌に定着し、初めは習禅に伴う超能力の獲得に向かいますが、やがて涅槃、法華、維摩、涅槃、華厳などの大乗仏典の研究によって、仏教思想の深化の重要な修道の方法となっていきます。その方向は、隋の時代、六世紀の初めの智の天台宗に見られますが、ほぼ同じ時代に西域から華北に来たインド僧ボディーダールマ(菩提達磨)によって、インドの禅仏教が中国に伝えられます。智が法華経に拠って大乗の諸教義と実践を総合する止観を説き、具体的に座禅の仕方を指導したのに対して、達磨は仏が経典の外に説き残した正法を伝える者として、不立文字(文字によらないで)、教外別伝(経典の外に伝えられる)、直指人心(人の内面を直接人に伝え)、見性成仏(それを見て各人が仏性を完成)を説きます。
こうして始まった禅仏教は、中国では禅宗という形態をとって発展していきます。本来禅は一人の師から直接弟子に伝えられるのですから、その悟りの境地の内容は無数にあるわけですが、その中で主要な内容をそれを説いた祖師の名によって宗派の名とし、唐から宋の時代にかけて「五家七流」となります。唐代の禅仏教は大別すると、漸悟(禅定修業による悟り)を説く神秀の北宗禅と頓悟(戒律や禅定によらず直ちに本来清浄な自性の目覚める禅)を説く慧能の南宗禅に分かれますが、北宗禅は早く衰微し、慧能が達磨の禅を大成した南宗禅は多くの優れた人材を輩出して、曹洞、雲門、法眼、臨濟、為仰の五宗派が生まれます。これを五家と称し、その臨濟宗の中に生じた黄竜派と揚岐派の二派を加えて「五家七流」と称します。慧能(七一三年没)は禅の各派が始祖と仰ぐ達磨から六代目になる唐代盛期の禅僧で、彼が大成した達磨禅は宋の時代に幅広い階層、とくに支配階級に属する士大夫(家柄による名門貴族と科挙による官僚)の階層に受け入れられ、中国民族自身の宗教として、学問、文学、工芸などの分野に大きな影響を与え、中国独自の禅文化を開花させます。モンゴル族支配の元王朝を挟んで、再び漢民族の支配となった明朝でも禅の各宗は栄えて、浄土教と並んで中国仏教の中核を形成します。この宋と明の時代の中国独自の禅仏教とそれが他の文化領域に大きな影響を及ぼして形成した中国文化が、室町時代以降の日本の宗教と文化に与えた影響は周知の事実ですが、それは項を改めて扱うことになります。
明の後、東北地方(満州)を統一した満州族の清が、一六四四年には長城を越えて中国本土に入ってきて、都を北京に移し、全中国を統治する征服王朝となります。この清王朝は一九一二年の辛亥革命によって滅亡、長い中国史で最後の王朝となります。この始皇帝の統一以来長く続いた王朝時代の中国は、これまでに概観したように儒教が国教的な地位を保ちながら、中国固有の道教と外来の仏教が並存し、権力者の意向によって盛衰を繰り返します。中国では支配階級も一般市民も、建前としては儒教の民として国家の統一を保ちますが、実際の生活では道教や仏教の生活をするという形で、儒・道・仏の三宗教が並存することになります。上層の知識階級からは儒道仏三教の統合論も出ていましたが、全体としては三教の並存状況は変わらないままでした。しかしその中国も辛亥革命と社会主義革命を経て近代的共和国となり大きく変容しますが、その現代中国の現状は最後に触れることにして、その前に中国におけるキリスト教について見ておくことにします。

中国におけるキリスト教

中国にはすでに唐の太宗の時代(六三五年)にキリスト教が入って来ていました。 カルケドン公会議でネストリウス派が異端として追放された四五一年から二〇〇年足らずで、キリスト教はそのネストリウス派の伝道者に担われてユーラシア大陸の東端に達していたのです。ビザンティン帝国の国教会体制から締め出されたネストリウス派キリスト教は、東に向かいペルシャに勢力を確立し、そこからさらに東に向かい中国に達するのです。中国にはペルシャの修道士アラホンが率いる伝道団が長安にキリスト教を伝え、太宗の好意と勅許を得て、経典の翻訳を行い寺院と修道院を建てています。聖書を翻訳するときに神を指すのに「景」の字を使ったのは、中国では宇宙の根源を指す大日の「日」に、人知を超えた大きいものを指す「京」を添えたのではないかと推察されます。次の高宗もアラホンを鎮国大法主に任じ発展し、次の則天武后が仏教に傾いたために少し衰えますが、その次の玄宗の時代には再び保護を受けて教勢をを伸ばします。こうして景教はその後の歴代皇帝に優遇されて、七世紀から八世紀にかけて大いに発展します。
その宗教はペルシャから伝えられたので初め波斯教、その寺院は波斯寺とも呼ばれていましたが、もとはさらに西の大秦(多分ローマ帝国を指す)から来たことを知り、後にこの新しい宗教が中国に広く行われたことを証言するために建てられた碑文は「大秦景教流行中国碑」(七八〇年代)と名付けられています。しかしその後、唐の武宗が八四五年に「会昌の廃仏」を行って、他の外来宗教も一律に禁止したので、景教も迫害されて急速に衰え、次の宋の時代には中国本土には景教徒はいなくなります。しかし西北辺境や中央アジアではその信仰が維持され、キリスト教徒の活動が続いています。十一世紀にはトルコ・タタール系の有力なケレイト族がキリスト教に改宗し、首都カラコルムにネストリウス派の教会堂が建てられます。実はチンギス・ハーン(一二二七年没)はケレイト族の女性を妻としており、その女性がキリスト教徒であったので、彼の被征服民に対する宗教政策が寛容になったと言われています。モンゴルがその騎馬軍団の威力で各地を制覇して帝国を築いたとき、彼らはケレイト族の進んだキリスト教文化を取り入れていたので、被征服民の宗教に対して寛大であったと言われています。十三世紀の後半にモンゴルが中国を支配して元王朝時代を迎えたとき、崇福司という役所が設けられてキリスト教徒の管理に当たらせています。元の時代にはネストリウス派キリスト教は中国各地で活動し、揚子江下流地域にもキリスト教会が建てられています。しかし十四世紀後半に明の時代になると、その排外政策によって中国のキリスト教は消滅します(本書四二頁以下の「キリスト教の東漸」の項を参照)。
次の十七世紀から十九世紀まで続く清王朝の時代は、西欧諸国が大航海時代から始まった植民地獲得のための熾烈な競争を繰り広げた時代と重なり、中国もその渦に巻き込まれることになります。すでに直前の明の末期には、対抗改革の先兵となったイエズス会のザビエルが一五五二に中国伝道を志し、上陸直前に亡くなっています。その後一五八二年に同じイエズス会のマテオ・リッチがマカオに上陸、明代の中国にキリスト教の伝道活動を始めています。一六〇一年には帝から布教の許可を得て、多くのイエズス会の宣教師が渡来します。リッチは布教にはヨーロッパ科学の紹介が必須であると考え、優れた科学知識をもつ宣教師とヨーロッパの天文学や数学の書を漢訳して、中国の近代化に道を開いています。しかしそれは上層の知識階級の一部にとどまり、民衆の宗教にはなりえませんでした。明に続く満州族支配の清王朝は、古来の儒教・道教・仏教の三教のバランスの上に長期政権を維持しましたが、一八四〇年のアヘン戦争から始まる西欧諸国の干渉によって、鎖国政策が崩され開国を余儀なくされます。アヘンの輸入をめぐってイギリスと戦った清朝の軍は敗れ、一八四二年の南京条約で清は開国を余儀なくされ、その後はフランスとアメリカとも不平等な通商条約で強制的に世界市場に引き込まれます。
この南京条約による開国のほぼ一〇年後の一八五一年に、南京に太平天国の民衆政権が樹立され、中国は内戦状態に陥ります。その政権の母体は洪秀全が起こした拝上帝教という宗教団体です。客家(移住者として土着民から差別されている漢族、華僑に多い)出身の洪秀全が、病中に見た幻をキリスト教文書で解釈、自分を天の上帝からこの国を偽りの神、偶像から解放する使命を与えられた者と確信、天下の民はすべて差別対立抗争のない大家族となるべきだと唱えて、客家の農民に共鳴者を多く獲得、旧秩序の代表者である清の支配者階級と衝突して、革命的軍事行動に至ります。民衆の支持と厳しい軍規と宗教的情熱で清の軍事力に打ち勝ち、南京を占領して建都したときには、数十万のよく統制された軍隊になっていました。この政権は洪秀全を天王、国名を太平天国として、土地の私有を禁止、「天朝田畝制度」で男女に差別なく土地を与え、余剰産物を貧窮者に与えるなどユートピア的政策を進め、纏足、売春、アヘン、酒を禁止するなどの積年の旧弊を改めます。しかしあまりにユートピア的で急激な改革は旧来の伝統的儒教秩序の擁護を主張する地主や儒者の反発、各地の軍事力の統合者(諸王)の内紛によってその勢力は衰えます。そこに第二次アヘン戦争と北京条約によって、清朝をその対華政策の支柱として再編したイギリス以下の西欧列強は、それまでの中立を捨て清軍を援け、太平軍を攻撃するようになります。一八六四年に洪秀全は病死、天京(南京)は陥落、このキリスト教的革命政権の太平天国は滅亡します。
太平天国は短期間の革命政権でしたが、高度に組織された民衆の軍隊(多くの女性を含む)によって、中国内部の封建勢力と外来の植民地資本主義勢力と戦い、近代の中国革命の源流となります。孫文は第二の洪秀全と自称したとも伝えられています。その短命とその後の歴史に及ぼした大きな影響から、ヨーロッパにおけるピューリタン革命にも比すこともできるのかもしれません。この太平天国の乱を鎮圧し、その後は清の実権を掌握した李鴻章が、一八九四年の日清戦争の敗北で下関条約を締結、それを起点として植民地主義的な資本輸出が中国に集中、中国はかってない半植民地化の危機に陥ります。この時期には列強の勢力を背景に、清朝の保護も受けたキリスト教会が農村内部にも入って、伝統的な農村社会の伝統や経済に分裂を引き起こします。そのため華北一帯に起こった外国資本主義の搾取に対する民衆の反抗運動が、「減洋仇教」を掲げる反キリスト教運動となります。この民衆の反体制的反抗運動は、宋の時代から清の時代まで連綿と続く白蓮教とどういう関係にあるのかは議論を残しています。白蓮教は念仏教団の一派で、民衆の間に浸透して、しばしば民衆の反体制的な反抗運動の拠り所となっています。この中国が半植民地化されることに反対した民衆の運動は、各地に拳法などの武術で武装した民衆の集団を生み出し、それらは義和団と呼ばれれて、武力闘争を引き起こします。これらの義和団の集団は太平天国のような統一的な指導機関を持たずに散発的でしたが、鎮圧に来た清の軍隊を破って意気があがり、大きな勢力となってついに北京を占領するにいたります。ここに至って列強の連合軍(ヨーロッパ諸国に日本も加わった連合軍)は武力をもって義和団を攻撃、清朝に列強の駐兵権や反帝運動の鎮圧を義務づけるなどして、中国の半植民地化を完了します。この義和団事件は民族の覚醒を促し、辛亥革命以降の中国近代化の引き金となります。その後、清は一八九四年の日清戦争に敗れ、清朝はますますその権威を失うことになります。

中華人民共和国の成立とキリスト教

一九一一年(辛亥の年)に革命(辛亥革命)が起こり清朝は倒れます。二〇〇〇年に及ぶ中国の王朝支配を終わらせたこの革命は、中国の近代化を志したキリスト教医師の孫文に率いられた革命です。孫文は一八九五年の最初の武装蜂起に失敗して日本や欧米に亡命、その間に練った民族主義・民権主義・民生主義の三民主義を掲げて、革命運動を主導します。一九一一年の蜂起が成功して南京に革命政権が成立したとき、アメリカから帰国して臨時大総統に選ばれ、中華民国を発足させます。しかし、なお華北の軍事力を掌握している清の総理大臣の袁世凱と交渉、清帝の退位を条件に、袁世凱が発足した中華民国の大総統に就任することを認めます。ここに中国の王朝支配は終わります。孫文は国民党を率いて、その後に独裁化した袁世凱に対抗、第二、第三の革命運動を起こして、袁世凱の復古帝制運動を挫折させます。孫文は中華民国の創始者、国父と称されます。
孫文はロシア革命の成功を見てソビエト革命に共鳴、そのころ創設されていた中国共産党との共闘を容認、孫文が率いる国民党は一九二四年の党大会で容共に転換、国共合作で革命の徹底を進めます。孫文は一九二五年に病没しますが、国共合作で抗日戦争に勝利した一九四五年以後には、国民党と共産党が主導権を争って死闘を繰り広げ、毛沢東が率いる共産党軍が蒋介石率いる国民党を台湾に追い落として中国本土を制圧、一九四九年に北京で中華人民共和国の建国を宣言するにいたります。この東アジアで最大の人口を有する中国に共産主義政権が誕生したことは、その後の世界史に巨大な影響を与えることになります。しかしここではその共産党政権下の現代中国におけるキリスト教について略述するにとどめます。
中華人民共和国は共産党政権が一党支配する国家です。その政権の宗教に対する政策は、基本的には無神論的な共産主義イデオロギーから出ますが、実際上は反帝国主義、反封建主義を貫くには宗教的な生活を送る民衆を味方につけて共闘しなけれななりません。共産党政権もその建国時から、仏教、キリスト教、イスラム教など各派の宗教の存在と人民の宗教信仰の自由を保障しています。しかし国家主席の毛沢東と総理の周恩来との間にはその宗教政策で微妙な差もありました。毛沢東は「宣教はすでに侵略政策の実施の一つ」と述べており、「帝国主義的文化事業を払拭する」としています(確かに清朝期のキリスト教宣教が中国への欧米列強の植民地活動の中で行われた不幸な事実がありました)。それに対して周恩来は「宗教にその本来の面目を取り戻させる」と言って、宗教の社会的現実の諸相を分析し、宗教的真理は社会主義の真理と両立しうると述べています。一九六六年に始まった毛沢東の奪権闘争としての文化大革命において、毛沢東の語録を絶対化した紅衛兵たち極左の勢力は、その滅ぼすべき四つの旧思想のトップに宗教をあげて「徹底的に一切の宗教を滅ぼそう」と叫び、聖職者を追放、寺院や教会などの宗教施設を破壊します。その中で宗教の重要性と国際性を理解している周恩来は、様々な面(人事や施設など)でよく宗教を保護し、そのために時には軍を用いています。一九七六年に死去した周恩来を追悼するために集まった民衆に軍が発砲したのをきっかけに起こった天安門事件、さらに極左の四人組が逮捕されて、この文化大革命も終息します。
こうして文化大革命後の一九八〇年代に始まった「改革開放時代」の中国は、その巨大な人口がもつ労働力と巨大市場の力で驚異的な経済発展を遂げ、グローバル化した現代世界で大きな存在となっています。共産党の一党支配の中国も一九八二年の新憲法では、それまでの「無神論を宣伝する自由」の規定を削除、人民の信教の自由を保障し、国家による信仰また不信仰の強制を排除しています。宗教に対する政策も、宗教を保護し援助する方向に舵を切っています。しかし宗教への援助といっても、それは政府公認の宗教に対してであって、非公認の宗教活動に対しては厳しい統制と圧力を加えています。諸宗教の中でも近代のキリスト教諸国の中国半植民地化の不幸な歴史がありますから、共産党政権はとくにキリスト教諸団体の動向には神経質のようです。キリスト教側でも共産党政府の下で生き残るために、一九五〇年代の愛国運動を機に、外国の宗教というレッテルを返上するために自発的に、プロテスタントは「中国三自愛国運動」を、カトリックは「中国カトリック愛国協会」(そこで叙任された司教をバチカンは認めていません)を立ち上げています。この場合の愛国とは中国共産党への忠誠を意味し、共産党政府はこれらのキリスト教会を公認し援助しています。しかし共産党を「偉大な救世主」と認めることはできず、愛国運動への参加を拒否する信者は、政府公認の愛国教会とは別に「家庭教会」とか「地下教会」を形成、共産党政府からの監視と圧迫を受けることになります。現在の中国のキリスト教徒の人口はどのぐらいになるのかについては、確かな数字は出せません。多くが地下の非公認の教会員で、登録されていないからです。二〇一〇年現在で、中国社会科学院の公式の発表ではおおよそ三〇〇〇万人、北米の福音派Christianity Today誌の推定では一億三〇〇〇万人、アメリカの無党派シンクタンクの予想では六七〇〇万人(人口の五%)となっています。中国の印刷会社の聖書出荷部数から、少なくとも八〇〇〇万冊の聖書が中国人キリスト教徒によって用いられていると推定されます。
このような家庭教会とか地下教会は、中国民衆の民間信仰や現世利益的な宗教心が混入しているなど質的な問題が残っていますが、これほど大きなキリスト教人口を抱えている国はありません。東アジアにおける中国の中心的な位置を考えると、これからの世界的福音告知の活動にとって中国キリスト教の動向から目が離せません。紀元三千年紀を迎える時期の教皇が言ったと伝えられる言葉が印象的です。「第一千年紀にヨーロッパで、第二千年紀にアメリカ大陸とアフリカで十字架の教えが根を下ろしたように、第三千年紀は躍動する広大なアジア大陸で信仰という豊かな実が刈り取られるであろう」。