市川喜一著作集 > 第24巻 福音と宗教U > 第19講

終章への結び


 この終章「働きとしての神」では、その働きの局面を創造、救済、内住の三つに分けて論じてきました。その働きの全体は結局、創造の完成を目指す働きということになります。創造者は無目的で働いているわけではありません。働きには目指す目標があります。その目標は何か。「働きとしての神」の神学を語るこの終章の結びとして、その働きの目標について語ることにします。
 神学する人間、すなわち神について語るわれわれ人間の立場からすれば、その目標は愛の完成です。神は霊であり、愛です。創造の完成は愛の完成です。働きとしての神の働きは愛の完成を目指しています。神が天地の万物を創造し、その中に天と地に満ちるすべての被造物を統合するために人間を置かれたのは、神と人間の間に愛を完成し、完成された神と人間の愛の交わりの中で被造物全体がその存在の意義を完成するためです。
 神は人間をご自分の像(かたち)に創造されました。それは、霊である人間が神の愛を受けて、自分も他者を愛することができる者、神が人を愛したように神を愛することができる相手方、すなわちご自分の愛の対象として創造されたということです。その意味で人間は神の子です。ところが、その人間が神に背いたのです。自分を愛する創造者に背を向けて離れ去ったのです。この事実を聖書はアダム(それは人間という意味の語です)の物語という形で冒頭に置き、そこから神の働きを語り始めます。聖書は、現実の人間の苦しみ、生きるさいの苦悩と死の苦しみは、すべて人間が創造者にして愛そのものである働き、すなわち神に背いた結果であると語ります。人間に働きかけて、創造者に背かせる霊的な力が働いているのです。聖書はそれを「サタン」と呼んでいます。人間は生まれながらにこの創造者に背かせる力の支配下にあって、神の愛から離れ去り、神の栄光を受けられなくなっているのです。神の子としての実質を失っているのです。
 しかし、神は愛です。自分から背き去った人間を引き戻し、背きを赦し、愛の交わりを完成するための働きを成し遂げてくださいました。人間の歴史のただ中で成し遂げてくださいました。すなわち、「わたしたちがまだ罪人(神に背く者)であったときに、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ五・八)。神はキリストにおいて愛を示されたのです。神はご自分の子であるイエスを、選ばれた民であるユダヤ民族の中に送り、十字架の上に死なれたそのイエスを復活させてキリストとしてお立てになりました。神は「十字架につけられたキリスト」という人間の思いと理解を超える出来事において、背く人間を赦し、無条件に受け容れ、神の子としての栄光を与え、創造の目的である愛の交わりの完成を成し遂げてくださるのです。このキリストにおける神の愛を受けた者は、「神は世を愛して、そのひとり子を与えてくださった。それは、すべて彼を信じる者が滅びることなく、永遠の命をもつようになるためである」と叫びます(ヨハネ三・一六)。この「十字架につけられたキリスト」における救いの働きを、ローマ書で詳しく語ったパウロは、その頂点とも言うべき箇所で、「わたしは確信しています。死も生も、御使いたちも支配者たちも、現在のものも将来のものも、いかなる力も、高いところのものであれ深いところのものであれ、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです」と、生死を超えさせるキリストにおける神の愛を賛美します(ローマ八・三八〜三九)。
 愛を完成するという神の働きは途上にあります。キリストにおいて示された神の愛の働きは、聖霊によって人間の内に続けられています。その働きは十字架されたキリストの復活によって開始されました。神はすでにキリストにおいてその愛を示されました。今、福音によって告知されるキリストに自分を投げ入れてキリストの内に来る者、すなわち「キリストにある」者は、キリストにおける神の贖いの働きによってその背きを赦され、無条件に受け容れられて、神の霊、聖霊を受けて神の子としての実質を与えられます。聖霊によって神の愛がわたしたちの心の中に注がれます(ローマ五・五)。キリストの内に入ってくると、世界の姿が変わります。霊眼が開かれて、世界が別の姿で見えてきます。
 その聖霊の働きは途上にあり、終わりの日に神がキリストにある者を復活させる時に完成します。神には死はありません。神の国は復活者の共同体です。永遠の命に生きる者の共同体です。キリストに属する者、キリストにあって神の霊に従って生きている者はすべて、どの民族、どの宗教の者であれ、神の子です。神の霊によって生きている者は、神の子として現在すでに神の国の命、復活者の共同体における命、永遠の命を生きているのです。新約聖書はこのような命に生きる者の共同体を「エクレシア」と呼び、本書はこれを「福音共同体」と呼んでいますが、それはキリスト共同体、キリストにおける神の愛によって形成される人間の共同体です。
 この共同体は、どの民族、どの宗教の中にもあります。そして、地上のどれかの宗教の中だけにあるのではありません。キリスト教という宗教の中に限られるものではありません。神は地上の人間を差別せず、愛を注がれます。キリストにおける神の愛は、人を宗教、民族、文化、教養、階級など、いかなる差別もなく注がれます。道徳的な善悪の差異も超え、死刑囚にも注がれます。神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせる働きです。
 神は働きです。その働きは愛から出て、愛の共同体を目指します。ですからキリスト者の倫理(人間関係)は、神の愛を土台とし、その目標とします。イエスはその愛を生き、山上の説教で敵を愛する愛を説かれました(マタイ五・二三〜四八)。パウロは善をもって悪に打つ勝つ愛を語りました(ローマ一二・九〜二一)。ヨハネは神から生まれた者は互いに愛することを当然としました(四・七〜二一)。働きとしての神の働きのすべては、愛から出て、愛の共同体の完成、神の国を目指します。神が愛であること、この天地の万物を存在させている働きが愛から出て愛を目指していることを体験することは、人間にとって至上の歓びです。