市川喜一著作集 > 第24巻 福音と宗教U > 第17講

第三節 人の内に働く神

はじめに

前節「救済の働きとしての神」では、キリストにおいて働かれた神について語りました。では、その働きはわれわれ人間の中ではどのように働くのでしょうか。本節では、天地の万物を存在させていると同時に「キリストにあって」人間の贖いを成し遂げた方が、その働きを人間世界の中になされる働きを見ておこうと思います。その働きは、人間社会に働いて歴史を形成する働きと、人間一人ひとりの霊性の中になされる働きに分けて考察するのが適切ではないかと考えます。最初に歴史の中に働かれる神についてまとめ(A 歴史に働く神)、その後で個人の内に働かれる神について考察しようと思います(B 霊性の深みに働く神)。その両面は最終的には一つに統合されなければなりません。人間は社会的生物であり、集団をなして生きているのですから、集団の歴史が個人を形成し、個人は歴史から離れて存在しえないからです。集団は人間が作り上げた成果を保存して伝えることで文化を作り上げ、その継承が歴史を形成します。その歴史の中にいる人間の深みにある霊性に、神の働きはどう働くのでしょうか。

A 歴史に働く神

救済史としての歴史

天地の万物を存在させている創造者の働きは、歴史の中に働いて「救済史」となります。創造者は同時に救済者として人類の歴史の中に働いてこられたからです。その働きは、人間が人間となった時から、すなわち太古の昔から始まっていました。人間はホモ・レリギオーススとしてその歴史の初めから宗教的な営みをしてきました。その宗教的崇拝の対象である「聖なるもの」は、いかに断片的であり、名称はさまざまであっても、また歪曲され、時にはグロテスクなものであっても、人間には共同体を形成する根拠として不可欠のものでした。先に(本書第一部第一章で)見たように、どのような原始的人間共同体にも啓示体験はあり、創造者はご自身を啓示しておられるのであり、その啓示の宗教現象が人間の共同体形成の土台となります。
先にこの終章の第一節「万物を存在させている神」で述べたように、すべての存在は、それが存在すること自体がそれを存在させている根底の働きがそこにあることを示しているのです。もしそのすべての存在を存在させている働きを神というならば、万物が存在するところには神がいますのです。これは汎神論ではありません。万物の存在が直ちに神であるのではなく、万物を存在させている働きが神なのです。自然界はそのままが神であるのではなく、それを存在させている働きが神なのです。われわれはその働きを見ることはできません。しかし天地の万物が存在することが神が働いていることを示しています。昔の人はその働きを「生ける神」と呼びました。わたしはスピノザを勉強したわけではなく詳しくは知りませんが、ユダヤ教ラビの家系の生粋のユダヤ教徒のスピノザが、おそらくこのように神を存在者ではなく、万物を存在させている働きを神としたので、神を存在者として理解している有神論のユダヤ教会堂から「もっとも巧妙で悪質な無神論者」というレッテルを貼られ破門されることになったのではないかと思います。
自然界のすべての出来事が創造者なる神の働きの結果であるように、人間界のすべての出来事にも創造者なる神、生ける神の働きが根底にあります。この地上の生物が進化して何万年か前にアフリカで発生した現在のホモ・サピエンスが地球上の各地に移動して、それぞれの集団生活を形成します。人間がそれぞれの地でそれぞれの言語を発達させて共同で生きる「民族」を形成して生きるようになった時、人間が自然界に働きかけて形成した文化は、それぞれの民族固有の文化となり、その民族の伝統と個性となります。たとえば、かなり遅く日本列島に定着した日本民族は、漁猟の採集経済の縄文文化、農耕経済の弥生文化、そして大和朝廷による統一国家の時代を経て、日本の古代文化を形成します。この時期に形成された日本人の在り方が、「三つ子の魂、百まで」と言われるように、その後の日本民族の宗教を含むあらゆる文化の基層をなして、日本の歴史を決定します。その歴史の中にも生ける神は働いておられたのです。どの民族にもそれぞれ固有の文化と伝統があり、それは生ける神の働きの結果です。神は歴史に働く神です。
どの民族も独自の文化を形成して、それを伝承するという形で歴史を歩みます。その民族独自の文化の中で、その共同体の宗教的な営みも民族固有の独自な形態をとり、民族宗教を形成します。それぞれの民族宗教は、ある立場から見れば極めて異常でグロテスクなものであっても、その民族にとっては神の礼拝であり、共同体の土台です。そこにもすべての存在の根底的な働きとしての神、生ける神は働いておられるのです。このことは宗教の本質に迫った西欧の宗教学者たちも気づいていました。たとえば、本書第一章第二節で紹介したゼーデルブロムもその一人でした。彼はその最後の著作『生ける神』を出した頃にこう言ったと伝えられています。「神が生きておられることを私は知っている。私はこのことを宗教史によって証明することができる」(拙著『福音と宗教T』四二頁)。彼はルター派神学の立場から、各民族の宗教の現実の現象形態を確認して、その中に生ける神の働きを見たのでした。このように世界の諸民族の宗教は歴史に働く神を指し示していますが、その中でアブラハムの子孫の歴史は、特別な意味でその神の働きの質を指し示す意味をもつ歴史となります。それが本書の第二章第一節「聖書の神」で述べましたイスラエルの民の宗教、ユダヤ教の形成となります。

救済史の担い手

イスラエルの民は自分たちをエジプトの支配者から解放する働きとして神を体験し、その解放の働きをヤハウェとして礼拝する宗教、ユダヤ教を形成します。イスラエルの民はその歴史の中で体験したヤハウェの救済の働きを証言する諸文書を集めて、彼らの宗教の拠り所となる文書、すなわち正典、聖書とします。聖書は救済史の証言となります。救済史の担い手はイスラエルの民、ユダヤ民族となります。その証言である聖書については本書第二章第一節の「聖書の神」で概説しました。そして、その民の歴史の中に出現したナザレのイエスを神は復活させてキリストとされたのです。このキリスト出現後は、このキリストを告知する福音によって諸民族から集められたキリストの民、福音共同体が救済史の担い手となります。この民はキリストを復活させて、キリストにあって信じる者を救われる方を神とする民です。この民は神の霊の働きによって力強く成長し、その証言として新約聖書を生み出し、地中海世界を支配するローマ帝国の中に新しい宗教であるキリスト教を出現させ、そのキリスト教がついにローマ帝国の国教となります。その間の事情は拙著『福音の史的展開』にまとめておきました。今や救済史の担い手はキリスト教会となったのです。そのキリスト教の歴史については本書の第四章「キリスト教史における福音」にその概要をまとめておきました。
救済史の新しい担い手が歴史の中に出現しました。しかし古い担い手が退場したわけではありません。新しく担い手となったキリストの民に、福音によってキリストの民を呼び集めた使徒パウロは、古い担い手であるイスラエルについての神の選び、神の賜物、神の招きは取り消されないものだと言っています(ローマ書九〜一一章)。このことを理解した新しい担い手は、古い担い手の証言を、自分たちの証言である新約聖書と並んで旧約聖書として受け入れ、両方を自分たちの正典、すなわち信仰の拠り所、聖書としました。旧約聖書と新約聖書が一つの聖書となっていることが象徴しているように、イスラエルの民とキリストの民は一体として神の人類救済の働きの証人、救済史の担い手とならなければならないのに、この二つの共同体の関わりの歴史はまことに悲惨なものとなりました。これは信仰が制度的体制的宗教となったゆえの悲劇です。これも第四章で触れています。
世界には実に多くの宗教があります。宗教学上の分類として、一つの特定の民族の中で信奉されていて、その民族共同体の統合の基礎となっている宗教すなわち「民族宗教」と、他の民族にも伝えられて、他の民族の中でも成立しうる宗教、すなわち「世界宗教」とがあります。福音はすべての民族に宣べ伝えられて、どの民族の中でも信じられるべきものですから、福音はその本質からして普遍的なものです。ですから、その信仰が一つの特定の民族に限られる民族宗教は普遍性を持ち得ず、福音をその中に保持する宗教とはなりえません。福音は一つの民族宗教の枠内ではその生命を維持できません。パウロがあれほど強く、キリスト信仰をユダヤ教の枠内にとどめようとしたユダヤ主義者に反対したのも必然的です。ユダヤ教はあくまでユダヤ民族の宗教にとどまることによって、福音の担い手ではありえませんでした。キリスト信仰の民は、キリストをすべての民族に証言して宣べ伝えることを使命としたので福音の担い手となり、そのキリストの民が形成したキリスト教は、その中に福音を保持する宗教となることができたのです(第四章第四節「エキュメニカル運動と福音」を参照)。

救済史におけるイスラム

もう一つ、救済史の担い手として考慮しなければならない重要な問題があります。それはイスラムの問題です。キリストの福音の告知から六〇〇年ほど経った七世紀に、メッカの商人ムハンマドが神の啓示を受けるという霊的体験をして、偶像礼拝に満ちていたアラブの諸族に彼に現れた唯一の神に従うように説きます。彼はもともとユダヤ教徒やキリスト教徒との交流を通じて一神教宗教に惹かれていた「ハニーム」と呼ばれる人の中の一人であったようです。彼は六一〇年に洞窟で体験した神秘体験と、それ以後の生涯に受けた啓示をコーランに書き記して、アラブの諸族にその神の啓示に従うように求めます。啓示はムハンマドの母語であるアラビア語で聞かれ、コーランにアラビア語で書き記されます。その啓示において神はアラビア語で「アッラー」と呼ばれます。「アッラー」という名称は、アラビア語の神(イラーフ)に定冠詞がついた形だそうです。天地万物の創造者であるアッラーは、自然界にはその秩序を与え、人間には順守すべき規範を与えます。その規範が「シャリーア」と呼ばれ、そのアッラーの規範(定め)に絶対的に服従することが「イスラーム」、服従する人が「ムスリム」と呼ばれます。ムハンマドはメッカで有力氏族の反対を受けて、六二二年に僅かの信者を連れてメディナに逃れ(ヘジラ)、そこでムスリムの共同体(ウンマ)を結成します。この年をイスラム暦の元年として、そこからイスラム勢力は急速に周辺地域に広がり始めます。
イスラムには、イエスが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マタイ二二・二一)と言われたような、政治と宗教の区別はありません。従って政治権力(おもに武力)による国家と信仰共同体のウンマは重なっています。もともとイスラム教という宗教は、ムハンマドのもとに結集した戦士たちがメッカの対立勢力に勝利したので成立した宗教です。その後も、イスラム教集団が征服した諸氏族や諸民族を支配するとき、その政治的支配が同時に宗教的支配となっていきます。歴史過程としては、イスラムの支配者は民衆全員のムスリム化を強制したのではなく、ユダヤ教徒やキリスト教徒は「経典の民」としてそれぞれの宗教に生きる自由を認めましたが、重い税金などによって差別して支配し、イスラム化を促しています。ある時は征服した地域に帝国を建設、イスラム法の支配地域とします。現在イスラムは、西アジアのアラブ諸国(シリア、ヨルダン、イラクなど)と非アラブ諸国(トルコやイランなど)、アフリカのアラビア語国(エジプトやスーダンなど)とアラビア語を国語としないアフリカ諸国、インド亜大陸(パキスタンなど)、東南アジア(インドネシアなど)、旧ソ連、中国のウイグルなどの地域に拡大し、世界のイスラム教徒の総数は六億人に達すると推定されています。一民族の中に止まらず、世界の諸民族に伝わり信奉される宗教として、イスラム教はキリスト教と仏教に並ぶ三大世界宗教に数えられます。その総数からするとイスラム教は、約九億人と推定されるキリスト教に次ぐ世界宗教ということになります。このイスラム教の成立と拡大も歴史における生ける神の働きです。もっともその歴史には、他の宗教の歴史と同じく、人間から出る大きな間違いもありますが。
ここではイスラム教の歴史を取り上げる場所ではありませんので、救済史の担い手としての視点からイスラム教史の意義を考察しておきます。もう一つの世界宗教である仏教の場合については、別の章(または別論)で取り上げることにします。イスラムの根本信条は、「唯一の神アッラーが天地の万物を創造した。ムハンマドはその神の最後の預言者である」ということになります。アラブの遠い先祖のアブラハムとその子のイシュマエルはメッカにカーバを建設してアッラーに献上、その子孫から使徒を遣わすように祈願します。アッラーは人類を導くために、モーセによって律法の書(旧約聖書)を、そしてイエスによって福音の書(新約聖書)という啓示の書を与えましたが、人類はそれに従わなかったので、アッラーはムハンマドを最終的な預言者として起こし、人類が従うべき規範シャリーアを与えて、アブラハムから始まる唯一神信仰を完成させた、ということになります。ムハンマドは、アブラハム、モーセ、イザヤ、エレミヤ、預言者としてのイエスの系列に属するイスラエル預言者の流れにある預言者であり、イスラム教は預言者宗教の代表格ユダヤ教のアラブ版という性格の宗教と考えられます。ユダヤ教があくまでユダヤ人の民族宗教にとどまったのに比べて、イスラムはアラブの諸族から他の民族に広まり、世界宗教的な性格を帯びるようになります。果たしてこのイスラム宗教は神の救済史においてどのような位置にあるのでしょうか。
結論から言うと、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの一神教宗教は、唯一の同じ神を指し示す点において、人類が到達した貴重な宗教的業績です。しかし、それが宗教である限り、その唯一の神の救済の働きの担い手とは言えません。救済史の担い手とは、唯一の神の救いを現実に身に受けて、神の救いの働きを体現している者たちの共同体です。共同体ですから歴史があり、その歴史が救済史です。ですから、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という宗教の歴史が直ちに救済史であるのではなく、それぞれの宗教の中で、この唯一の神の救済の働きを身に受けて、その神の働きを証言する共同体が救済史の担い手と言えます。その担い手の共同体は目に見えない共同体、制度的でない共同体となるでしょう。というのは、神の救いの働きは人間の内面の深みにある霊性において行われるので、外面的な区別で限定することはできません。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という宗教の枠で限定することはできません。救済史の担い手は、どれかの宗教の中だけにあるとは言えません。神の救済の働きを特定の宗教の中に限定することは大きな間違いであることを、わたしたちはパウロから学びました。パウロは神の救済の働きは、無条件であり、民族や宗教の枠を超えていること、具体的にはユダヤ教という枠を超えていることを命がけで主張したのでした。同じ原理はキリスト教やイスラム教という宗教についても言えます。キリスト教やイスラム教がいかに優れた宗教であっても、それが宗教である限りは相対的です。神の絶対無条件の働きを、宗教の枠で限定することはできません。ところが自分を絶対化するキリスト教は、イエスがキリストであることを拒むイスラム教と対立して、武力でキリスト教の絶対性を押し通そうとして、十字軍という大きな過ちを犯すことになります。これも第四章で述べたところです。
では、救済史の担い手はどこにいるのでしょうか。それは福音が告知されて、イエスを復活者キリストとして受け入れ、キリストにあって神の霊による救済の働きを受けている者たちの共同体、本書でいう「福音共同体」がその担い手です。その福音を委ねられて内に保管し、それを世界に告知しているのはキリスト教会ですから、キリスト教会が自分を絶対的あるいは普遍的宗教であるとするのはやむをえないことかもしれませんが、それは誤りであること、キリスト教も一つの宗教として相対的なものであることは、これまで本書で繰り返し強調してきました。キリスト教を絶対化するとき、福音の告知はキリスト教への改宗運動となり、福音が福音でなくなります。ユダヤ教内キリスト信仰がありえたように、イスラム教内キリスト信仰や仏教内キリスト信仰もありえます。すべての宗教は相対的なものですから、理論的にはどの宗教の中にもキリスト信仰はありえます。しかし、実際にはユダヤ教もイスラム教も他の諸宗教も、教義としてはイエスがキリストであることを否定していますので、ユダヤ教内キリスト信仰やイスラム教内キリスト信仰はかなり困難を伴うでしょう。ただ、現代ではユダヤ教の中にイエスをキリストと信じる「メシアニック・ジュウ」と呼ばれるユダヤ人がかなりおり、イスラム教の中にも福音が告知されてイエスに従うムスリムが出てきているという報告もあります。まだユダヤ教とイスラム教は公式にはイエスがキリストであることを拒否していますから、宗教としてキリスト教と共に救済史の担い手である福音共同体の容れ物になることは困難ですが、その草の根の信徒の間に神の霊の働きにより福音共同体が形成されている事実が始まっています。仏教については附論の「福音と仏教」で扱うこになると思います。われわれはその福音共同体がユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教の枠を超えて拡大することを祈り、ひたすらどの宗教の民にも福音だけを告知するのみです。

B 霊性の深みに働く神

人間の霊性に働きかける神

働きとしての神が人間の間に働くときは、人間存在の奥底にあって、神の働きかけに応答する部分、すなわち人間の霊性に働きかけます。人間は身体をもって生きていますが、その内側には身体で体験する外界を認識して理解する知性、また様々な感情を起こし表現する感性を持っています。そして、その知性と感性のさらに奥底に人間を超えた働きかけに応答する能力を持っています。人間はそのように造られています。その能力が霊性です。創造者が人間を自分の像に創造したというのは、霊なる神は人間を霊の働きに応答する能力、霊性を持つものとして造ったということです。ですから、神が、すなわちすべて(その中には人間自身も含まれます)を存在させている働きが人間に働きかけるときは、人間の霊性に働きかけます。その働きかけは知性をもつ人間には、おもに言葉をもって語りかけるという形をとります。時には幻などの形象を用いて示したり、直接身体に働きかけるという形をとる場合もありますが、一般的にはまず霊性に働きかけます。知性はすべてを言葉によって理解し、表象し、伝えるのですから、神が人間に働きかけるときは言葉によってなされます。神が「光あれ」と言って光を創造されたとあるのは、神が光を創造されたという働きを言葉によって理解し表象した人間の霊性と知性の表現です。ですから神の働きを証言したイスラエルの民は、聖書(旧約聖書)のいたるところで神の言葉《ダーバール》を万物存在の根元(創世記一章)、すべての出来事と歴史の原因としています(預言書)。預言者は「獅子が吠える。誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる。誰が預言せずにいられようか」と言って(アモス三・七〜八)、これから起こる出来事を神の言葉に帰しました。新約聖書ではヨハネ福音書がその冒頭で「原初に言葉《ロゴス》があった」と述べています(ヨハネ一・一)。
神が人間に語りかけるときは、「わたしはあなたを」という人格的な関わりを示す形で行われます。主語は神で、人間は働きの対象です。神はアブラハムを選んでご自分の民とされた時、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」と言われ(創世記一二・二)、その言葉に従って、アブラハムの子孫の民(イスラエル)を祝福し、人類救済の基とされたのです。その民がエジプトの地で苦しめられた時、神はモーセを選んで現れ、「わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルをエジプトから連れ出すのだ」と語りかけ(出エジプト記三・一〇)、その言葉を実現されます。イザヤやエレミヤなどバビロン捕囚の前後に現れたイスラエルの預言者たちは、神からの語りかけを受けて、その言葉を「ヤハウェはこう言われる」と言って、神の言葉をイスラエルの民に告げ知らせ、民を叱責し、また励ましました。こうしてイスラエルの宗教は、預言者たちに与えられた神の言葉によって形成された預言者宗教であり、イザヤやエレミヤなどの預言者だけでなくアブラハムもモーセも預言者としてイスラエルの宗教の形成者です。
霊なる神は選ばれたご自分の民を代表する人物の霊性に働きかけ、その言葉によって民を形成し、その歴史を導かれます。神の働きは民族という共同体に向かって行われます。その際、神の言葉を与えるという働きは、その共同体を代表する特別に選ばれた預言者に与えられますが、それはすべて神の霊、ヤハウェの霊の働きです。しかし、預言者たちの霊性に与えられた神の言葉も、一つの民族共同体の宗教となって固定し、その共同体の体制となると祭儀という外面的な人間の行為によって神の行為を縛るという倒錯が起こり、預言者の激しい批判を招くことになります(本書の序章を参照)。預言者は、神の人間への働きが特別の人に限られることなく、すべての人に向かい、すべての人が内なる霊性に神の働きを受けて、神を知るようになる時が来ることを預言しました(エレミヤ三一・三一〜三七)はそれを「律法が内に置かれる」と表現しました)。それは「終わりの日」の出来事、終末的な事態です。エゼキエルは終わりの日に神の霊が人間に吹き込まれて、「枯れた骨」の人間が生き返ることを身体的な表象で語りました(エゼキエル三七・一〜一四)。預言者ヨエルはその終わりの日における神の働きを明瞭な言葉で語りました、「神は言われる。終わりの時に、わたしはわたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ」(ヨエル三・一〜二)。
このイスラエル預言者の預言は、イエスが復活してキリストとされた時に成就しました。終わりの日が来たのです。イスラエル預言者の最後に位置する洗礼者ヨハネは、自分の後に現れるキリストは、神の子羊として民の罪を背負うとともに、聖霊によってバプテスマする方であると預言しました。実に十字架の上に民の罪を背負って「神の贖い」を成し遂げ、復活してキリストとして立てられたイエス・キリストは、信じる者は誰でも聖霊によってバプテスマして、聖霊の働きを内に受ける者とされました。イスラエルの預言はキリストとしてのイエスによって実現したのです。それはイエス自身が証言されたように、主の霊がイエスに注がれたからです(ルカ四・一八)。

聖霊によってバプテスマするキリスト

キリストは水でバプテスマする方ではありません。それは洗礼者ヨハネの役割です。復活者キリストは聖霊によってバプテスマする方です。最初期の復活告知において、どの宗教の民にも福音を宣べ伝えて信仰に導いた使徒パウロは、福音を聞いて信仰に入った者は聖霊を受けていることを前提にして語っています。パウロはガラテヤの人たちに、ユダヤ教に改宗してその諸規定(律法)を順守したから聖霊を受けたのではなく、十字架されたキリストを告知する福音を聞いて信じたから、異邦人のままで聖霊を受けた事実を思い起こさせています(ガラテヤ書三・一〜二)。パウロはまたほとんど水のバプテスマを施していないコリントの集会に向かって(コリントT一・一四〜一六)、その集会が聖霊の働きに溢れていることを感謝しています(コリントT一二〜一四章)。パウロは、使徒の役割は洗礼を授けること(後にはキリスト教に改宗させること)ではなく、福音を告知して聖霊を受けるようにすることであると自覚しています(コリントT一・一七)。聖霊のバプテスマが水のバプテスマに先立つことは、コルネリウスが福音を聞いている最中に聖霊が降り、彼はその後で水のバプテスマを受けて教団に受け入れられたというルカの記事にも反映しています(使徒一〇・四四〜一一・一八)。パウロの時代にはまだキリスト教という宗教は存在していませんでした。福音によって信仰に入った者は水の洗礼を受けてキリストの民に加えられるという慣行は、使徒時代の後の福音書成立の時代のものです。おそらくその使徒後時代のごく初期に成立したと見られるマルコ福音書には、キリストが聖霊によってバプテスマする方であるという洗礼者ヨハネの証言(マルコ一・八)でキリストの働きを要約し、イエスが弟子たちに水のバプテスマを施すことを命じられたという記事はありません。ヨハネ福音書でも、イエスは水ではなく聖霊によってバプテスマする方であることが宣べ伝えられていますが(ヨハネ一・三二〜三四)、弟子たちに水でバプテスマするようにお命じなった記事はありません(ヨハネ福音書の「イエス」は復活者キリストと重なっています)。
だから水でバプテスマすることは不要であるとか間違いであると主張しているのではありません。新約聖書の後期の文書には水のバプテスマを求めたり命じたりする記事が出てきます。たとえばルカは、ペトロがペンテコステの日に祭りで集まったユダヤ人にキリストを告げ知らせた最初の説教で、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれは、賜物として聖霊を受けます」と言っています(使徒二・三八)。マタイは復活されたイエスが弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じておられます(マタイ二八・一九〜二〇)。マタイやルカが著述したのは、新約聖書の諸文書が成立した時代(新約聖書時代)の最後期になり、その頃には福音によって召し集められた民(福音共同体)が、新しい宗教によって形成される教団、後にキリスト教会となる宗教教団となる方向に向かっていました(拙著『福音の史的展開』を参照)。そのような宗教教団の形成にはバプテスマというイニシエイション(入会儀礼)が必要となります。ルカやマタイの記述はそのような時期の状況から出ていることを理解し、パウロらの初期の証言からキリストのバプテスマ、すなわち聖霊のバプテスマこそが福音が与える本来のバプテスマであることを理解する必要があります。
今やキリストにある者は、誰であっても、どの民族や宗教であっても、神の霊を直接その霊性に受けることができるのです。聖霊を受けて力を与えられたペトロは、ペンテコステの日に立ち上がって、「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことである」と力強く証言しました(使徒二・一四〜二一)。パウロはその手紙で繰り返し、キリストにある者はその霊性に直接神の働きかけを受けていることを強調し、それを内にいます聖霊の働きとしています。ヨハネもモーセによって与えられた宗教がキリストによって現実となること、影の本体が到来したことを賛美しています(ヨハネ一・一七)。旧約聖書では預言者たちに語ったのは「ヤハウェの霊」とか「神の霊」と呼ばれていますが、新約聖書になると「御霊」とか「聖霊」と呼ばれるようになります。今や神がすべてキリストにある者に聖霊によって直接働く終わりの日が来ているのです。キリストにある者は終末の現実に生きているのです。本書の著者もこれまでのすべての著作で新約聖書に証言されている聖霊の働きを語ってきましたが、この終章で神が聖霊として人間の霊性に働きかけてなされる働きの要点を三つに絞ってまとめておきましょう。その働きは、解放、変容、完成の三つのキーワードでまとめられると思います。

1 既に成し遂げられている解放

パウロが世界に告知したキリストの福音の内容は、ローマ書においてもっとも包括的・体系的に語られていますが、その中で八章が中心あるいは頂点であることは広く認められています。その八章は、それまでの議論をまとめて「キリスト・イエスにある命の御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです」という宣言で始まり(ローマ書八・二 私訳)、キリストにある者の聖霊による命の質(生命と生涯という意味を含む英語のライフの全体)を語り、その命に生きる喜びと神への感謝と賛美を歌い上げています。ここで用いられている「あなたを解放した」という動詞は過去形です。解放はすでに起こったのです。神は復活者であるキリストが十字架の死を負って生きておられる(十字架されたままのキリスト)という出来事、キリストの出来事においてわたしたちの解放、聖書的な用語では「贖い」をすでに成し遂げってくださったのです。
その解放の働きの主語は「キリスト・イエスにある御霊の律法」です。わたしはここでパウロが用いている《ノモス》という語を、当時のユダヤ人が用いていた主要な用法であえて「律法」と訳していますが、ユダヤ人にとっては律法《トーラー》はユダヤ教という宗教の全体です。ユダヤ教の本来の目的は、霊なる神ヤハウェがご自分の民イスラエルになそうとしておられる霊なる働きを指し示すものですが、その実体あるいは実現(ヨハネがいう真理《アレーテイア》)がキリストであるイエスにおいて到来したのです。その実現がここで、神の霊が直接人間の霊性に働いて実現する神と人との関わり方を指す「御霊の宗教」という表現になっています。その御霊の宗教は、キリストが御霊によってバプテスマするという形で実現しているのです。今や神は御霊として直接すべての人間の霊性に働いて人間と関わってくださっています。そのような宗教、すなわち神と人間の新しい関わりが、今までわたしたち人間を「罪と死の宗教」と呼ばれる宗教、罪と死の支配下に閉じ込めていた宗教から解放したのです。形式的規定で外からわたしたちを拘束するだけで、罪と死の支配から解放する力のない宗教から解放したのです。それは、イエスが重荷を負っている者を休ませようと語られた時の「重荷」からの解放です(マタイ一一・二八)。
神はその解放の場をすでに用意しておられます。すなわち、十字架されたキリストを「贖いの場」として立てておられます(ローマ書三・二四〜二五)。誰でも福音を信受してキリストのもとに来て、キリストに合わせられてその中に留まる者には、キリストという場に働く神の霊の働きによって、その霊性に解放を受け、神の御霊の命に生きるようになります。ローマ書八章の最初の段落(一〜一一節)は、この御霊の命に生きることの意味を示しています。最初にパウロは、キリストの十字架によるこの贖い(解放)の出来事は、神の非常手段であることを語っています(ローマ書八・三〜四)。神は人間に宗教を与えて、人が神の命に歩むように計らわれました。しかし、宗教はその目的を達成することができませんでした。それは人間の本性的な弱さのためでした。パウロはその人間の本性を「肉」と呼んでいます。人間はみな身体を持って生きています。パウロが肉というのは身体そのものではなく、人間が生まれた時から本性的に持っている自己中心の性質です。この自己中心の本性が社会的には支配欲となって現れ、人に対しては少しでも多くの他人を支配する支配欲、権力欲となり、物に対しては少しでも多くの物を自由に支配しようとする限度のない所有欲となります。宗教的には自己義認の欲求、すなわち自分を存在させている根源的な働きに背を向けて、自分の価値と力だけで存在しようとするようになります。人間がこのような本性の中にいるために、いくら高度な宗教を与えても、宗教が目指す神と交わり、神の命に生きるという宗教の目的に達することはできませんでした。そこで神はその人間本性に巣食う罪、自己中心の支配欲を十字架されたキリストの姿で断罪するという非常手段をとられたのです。それはキリストに合わせられた人間が、自己を十字架されて死んだ者、自己を無とすることで神の御霊を受け、「肉に従ってではなく、御霊に従って歩む」ことによって、宗教が目指していた目的を成就するためでした。
イエスは、人間が本性的に追い求めるものを富という一語でまとめて、「人は神と富とに兼ね仕えることはできない」と喝破されました(マタイ六・二四)。パウロはそれを「御霊の志向」と「肉の志向」という表現で語ります(ローマ書八・五〜八)。人間本性が追い求めるところと御霊が追い求めるところは逆方向にありますから、人間本性に従って生きる者は、万物存在の根底の働きとは逆方向に向かっており、その根底の働きに添うことができません。それは神との平和がないことであり、神の命に参与できない、すなわち命に達することができないことを示しています。では、御霊が志向する目標は何でしょうか。それは御霊が人間の霊性にもたらす信仰と愛と希望です。この三つの内容については、次の「変容」の項で触れることにして、ここでは項目をあげるだけにとどめ、解放された者は御霊によって歩むことの必要と重要性を確認しておきましょう。宗教の目的は、人間本性に従って歩む者においては成就せず、御霊に従って歩む者において実現するのですから(ローマ書八・四)。
キリストにある者に起こった「罪と死の律法(宗教)」からの解放は、キリストにあるいのちの御霊の働きによって起こったことです。キリストにある者はこの御霊の働きの中に生きています(ローマ書八・九〜一〇)。この事実をパウロは「神の御霊があなたがたの内に宿っている」とか「キリストの御霊(キリストを通して受ける神の霊)を持つ」と表現していますが、本来神の霊は人間が所有できる対象ではありません。人間はその霊性に神の御霊の働きを受ける立場です。その御霊の働きを受けて生きているとき、わたしたちは「霊の場にいる」あるいは「霊の次元にいる」のです。この事実をパウロは「キリストがあなたがたの内にいます」とも表現しています。「神の御霊があなたがたの内に宿っている」とか「キリストの御霊を持つ」、すなわち御霊の働きを身に受けることなしに、キリストとの相互内住というようなことを言っても、それは中身のない理論に過ぎません。聖霊が内に働いていることが「キリストにある」ということの実質です。御霊の働きを受けることなく、人間本性だけで生きている者(アダムにある者)はキリストに属する者ではありません。人間本性が宿る場である身体は、死に定められており、やがて死にます。しかし神の霊の働きの場にある者の霊性は、神の恩恵によって賜っている義によって、神の命、永遠の命に生きていることを知っています。この死の身体の中で永遠の命に生きる生き方が、キリストに属する者の復活信仰というキリスト者独自の希望となります(ローマ書八・一一)。このことは「完成」の項で後述することになります。

2 現在進められている変容

パウロの書簡には、「これは主の御霊の働きによることです」と言って、御霊の働きを直裁に述べているところがあります。それは「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の御霊の働きによることです」というコリント第二書簡の三章十八節です。ここで明確に語られているように、主の御霊の働きはキリストに属する者を主と同じ姿に「造りかえる」ことです。この文章では「わたしたちは皆」が主語になっているので、「造りかえられる」という受動態になっています。主語の「わたしたち皆」は、ユダヤ人と異邦人を含むキリストに属する者たちの全員を指しています。これは、直前の数節(一二〜一七節)で描かれているキリストを信じないために顔に覆いをかけたままのユダヤ人と対照されていて、キリストとしてのイエスを信じた者の全員です。今はイエスを信じないユダヤ人も、霊なる主キリストに向き直れば、覆いを取り除かれてモーセ律法(ユダヤ教)と自分の真実の姿を見ることができるのです。ここでパウロは「主の霊がいますところには解放があります」と言っています(十七節私訳)。わたしたちキリストに属す者は皆、霊なる主キリストに向き直った者(キリストにある者)として、すでに罪の支配という覆いから解放され(前述)、覆いを取り除かれた鏡のように、主であるキリストの栄光を映し出しているのです。
鏡の比喩はここまでです。地上の鏡は対象の映像を反映して写し出すだけですが、キリストの栄光を映し出すキリスト者は、御霊によって映し出すキリストの栄光に向って、自分が「造りかえられていく」のです。そして「造りかえる」働きをする主体が「これは御霊の主の働きです」と明確に指し示されています。この受動態の動詞は現在形で、その働きはは現に進行中であり、これからも続いていく働きを指し示しています。ここで用いられている《メタモルフォオー》という動詞は、もともと背後にある《メタ》真実の形《モルフェー》(姿、形)に変えるという意味の動詞です。イエスが山上で姿が変わられたときに、そのイエスの変容を指すのに用いられている動詞です。ここで御霊がわたしたちの霊性に働いて、わたしたちの霊性の形がその本来の姿に変えられることを変容《メタモルフォーシス》と呼ぶと、御霊の個々のキリスト者への働きは「変容」と呼ぶことができるでしょう。
では、聖霊がわたしたちの霊性に働くとき、わたしたちの霊性はどのような姿に変容されるのでしょうか。わたしはその変化を、パウロに倣って「信仰と愛と希望」の三つにまとめています。これは人間存在の三つの次元に表れる変化です。人間は三つの次元(軸)を持つ存在です。一つは垂直軸で、人間は人間以上の働きに依存して生活しています。現代の宗教学が「聖なるもの」への絶対依存の感情と言っている面です。人間はホモ・レリギオーススであり、人間以上の「聖なるもの」に依存しないではおれない存在です(本書第一章参照)。第二は水平軸で、人間は共同体を作って生活し、他の人間との関わりの中で、すなわち社会関係の中で生きている倫理的存在です。第三は時間軸で、人間は時間の枠の中で生きています。過去と将来を持つ現在に生きる時間内存在です。
第一の垂直軸で、聖霊が人間の霊性にもたらす変容は「信仰」です。この場合の「信仰」は、ホモ・レリギオーススとしての人間が本性的に持つ、人間を超える働きとか力に対する絶対依存の感情ではなく、また、信仰によって義とされるという時のキリスト信仰でもなく、天地万物を存在させている根底の働き、通常「神」と呼ばれるその根底的働きを「父」と呼んで、子としての絶対的信頼に生きる生き方です。その原型はイエスです。福音書によって知るように、イエスはいつも神を父と呼んで、子が父親を「お父さん」と呼んで一体として生きているように、神との親しい交わりの中に生きておられました(詳しくは本書三七五頁の「父よ! ー イエスにおける神」の項を参照)。弟子たちが祈りについて尋ねたときには、「祈るときには、こう言いなさい」と言って、「父よ」で始まる祈り、いわゆる「主の祈り」を教えられました(ルカ一一・一〜四)。この「祈るときには、父よと言え」というイエスの言葉の凄いところは、言葉遣いを教えたことではなく、そう祈ることができる中身を与えたことです。これはイエスが復活してキリストとして、ご自分のもとに来る者に聖霊を与えて、聖霊によってイエスがそうであったように、自分を存在させている根源の働き、生ける神に自分を委ねて生きるようにしてくださったからです。そのことはパウロも、「あなたがたは子とする霊を受けたのです。この御霊によって、わたしたちは『アッバ、父よ』と叫ぶのです」と言っています(ローマ書八・一五)。わたしたちが自分を存在させている根源の働きに自分を委ねて、「アッバ、父よ」と祈るのは、御霊がわたしたちの霊性にもたらす「信」の結果です。
第二の水平軸、対人関係では、御霊はわたしたちの霊性に今まで知らなかった「愛」を与えてくださいます。わたしたちは、人間は一人では生きられず、必ず他者との交わり、共同体の中で人間として生きる者であることを知っています。そして、その他者との交わりの暖かさと重要性が愛であることも知っています。愛がなく憎しみと軽蔑だけがあるような対人関係、冷たさが支配する人間関係には耐えられません。わたしたちは人生において愛を追い求めてきました。親子の愛、兄弟間の愛、異性に対する愛、朋友の間の愛、どれも欠くことができない貴重な人生の宝です。しかし、そのような貴重な愛がしばしば行き詰まり崩壊する悲劇も体験しました。それは人間本性の限界と弱さから起こる悲劇であり、人間はそれを乗り越える確かな土台の上に築かれる愛を求めないではおれません。そのような人間に聖霊が別種の確かな愛を指し示して与えます。
それは神の愛です。わたしたちを存在させている根源の働きが愛であることを、わたしたちは知りませんでした。わたしたちがその根源の働き(神)に背を向けていたからです。その背を向けている者に対する神の働きは、恩恵として現れます。神は自分に背を向け敵対する者を、ご自分の側の痛みとして引き受けて、無条件に赦して受け入れ、ご自分の身内としてくださいました。イエスはすでに地上の活動において、この神の恩恵の到来を宣べ伝え、復活してキリストとされたイエスは使徒たちを派遣して、この恩恵の支配の福音を世界に告知されました。今、この恩恵の福音を信じてキリストに身を委ねる者に、神は聖霊を与えて、その聖霊によって神の愛を注がれます。わたしたちは聖霊によって、神の愛を体験します。
その愛は、今までわたしたちが知っていた愛とは違います。別種の愛です。それまでわたしたちが知っていた愛は相対的でした。すなわち相手の価値に応じる愛でした。自分を愛してくれる人を愛し、自分に善くしてくれる相手に善くする愛でした。それに対してキリストにおいて示され、聖霊によって注がれる神の愛は無条件であり、絶対的です。無条件というのは、相手の在り方、自分に善くしてくれるか敵対的であるかには関係なく、相手を受け入れて慈しむ愛です。相手に絶しているという意味で「絶対」的です。わたしたちは、神に敵対していたときに無条件で受け入れるという神の恩恵によって、神に帰ることができたのです。今やその神から無条件に、自分の価値と関係なく与えられる聖霊によって注がれる愛によって生きる者となりました。このように恩恵の場に生きているのですから、わたしたちも他者に対する時には、自分が受けている神の愛によって愛さないではおれません。それは相手の在り方、価値に絶して受け入れて愛する愛です。相手が自分にとって何も善いことをしてくれなくても、敵対する時でも愛する愛です。イエスが山上の説教で「敵を愛しなさい」と言われた時、人間に不可能な倫理的要求を語っておられるのではなく、自分がそこにおられる神の恩恵の場を告白し、弟子たちにもそこに生きるように促しておられるのです。パウロやヨハネなどの新約聖書の証人たちはそのような質の愛を《アガペー》と呼びました。日本語では「慈愛」が近いでしょうか。《アガペー》の愛としか呼べないのかもしれません。
第三の時間軸においては、御霊は人間に時間を超える希望を与えることによって、時間内の存在であるゆえに起こる悲惨を乗り越えさせます。人間は人生において希望を持つことがどれほど重要なことかはよく知っています。人生には様々な苦労がありますが、その向こうによき将来があることを信じることができるとき、すなわち希望があるとき、わたしたちはその苦労を乗り越えて、将来に向かって生きることができます。生きるのに酸素が必要なように、苦難の多い人生と歴史には、希望が必要です。酸素がなければ窒息死するように、希望がなければわたしたちは人生の苦難と歴史の悲惨さに打ちのめされて、喜びをもって力強く歩むことはできません。このような人生に希望を与えるのが聖霊です。キリストにあって、神の恩恵によって無条件に神に受け入れられ、神の栄光にあずかるように聖霊の働きを受けている者は、苦難の多い人生を希望を持って生きることができるという消息を、パウロはローマ書の五章(一〜五節)で力強く語っています。そこで言われているように、わたしたちキリストにある者の希望は、「神の栄光にあずかる希望」です。これ以上大きな希望があるでしょうか。これは死によって限られた時間の中に生きる人間にとって、死に打ち勝つ希望です。それは復活の希望です。復活は福音告知の最重要項目であり、それについては項を改めて、次項で扱うことにしましょう。

3 復活による将来の完成

神はイエスを死者の中から復活させてキリストとされました。それは人間を救おうとされる神の目的の成就でした。神は死に定められた人間を復活させることによって救いを完成されるのです。イエスの復活は死者(複数形)の復活の初穂、すなわち最終的な全体を代表する最初の出来事です。復活が救済の目的であり福音の内容であることは、新約聖書が証言するところです。その一例として使徒パウロの議論を聞いてみましょう。キリストの民の中に、具体的にはコリントの集会の中に、イエスをキリストと言い表しながら、死者の復活を否定して、死者の復活などはないという人がいることを聞き及んだパウロは、激しく反論して手紙を書き送っています(コリント第一書簡の一五章)。この章でパウロは最初に自分が復活の証人として宣べ伝えた福音、すなわちキリスト復活の事実の告知を確認しています(一〜一一節)。その上で、キリストが復活されたことを受け入れているのに、死んだ人間が復活するという「死者の復活」を否定することは矛盾ではないかと詰め寄ります。パウロは「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と言っています(一三節)。この言葉は普通、死んだ人間が生き返ることはないのだから、一人の人間であったキリストが復活することはありえない、という自然科学的な論理で理解されています。しかしここでパウロは科学的な議論をしているのではなく、救済史的な論理で語っているのです。すなわち、神が死に定められた人間を復活させて救うと定められたのでないのであれば、救われる人間を代表するキリストを復活させて、その復活されたキリストを初穂とすることもなかったはずである、という論理です。キリストは「終わりのアダム」です。すなわち終わりの日に出現する人間(アダム)です。「しかし今や、キリストは眠りについた人たち(死んだ人たち)の初穂として、死者の中から復活されたのです」(二〇節 私訳)。キリストを初穂として、キリストの復活を死者の復活の根拠とするこの章の議論は、現代のキリスト教会が真剣に聴き取るべき重要な議論です。キリスト教会は「わたしは体のよみがえりを信じます」と信条で唱えながら、霊的な回心とか変革を復活だと唱えて、実質的に(実際の信仰生活で)「死者の復活」を否定しています。その否定は、ここでパウロが言っているように、キリストの復活の否定となり、復活を弟子たちの内面的な変化に帰すことになっています(死者の復活については、拙著『パウロによるキリストの福音U』の「第六章 死者の復活」を参照してください)。
復活信仰について、もう一つの重要な証言はローマ書の八章です。この章は福音の中心また頂点として重要です。七章まではほとんど出て来なかった聖霊が登場して主役を演じ、聖霊の章と呼ばれます。この章では、ここにあげた三つの働き、解放と変容と完成の働きのすべてが聖霊の働きとして語られ賛美されています。最初に聖霊の働きが罪と死の支配からわたしたちを解放したことが宣言されます(二節)。律法(宗教)は罪の正体を明らかにしましたが、罪の支配から人間を解放する力はなく、死の中に閉じ込めていました(七章)。そこに福音が宣べ伝えられて、福音によってキリストの中に来た者に与えられる聖霊によって、神は罪と死の支配からキリストにある者を解放したのです。その解放は、もはや人間の自己中心、自己主張の本性(パウロはそれを肉と呼んでいます)に従って歩まず、キリストにあって賜っている霊に従って歩む者において、宗教が目指す目的、変容が実現するためでした(三〜四節)。キリストにある者には神の御霊、キリストの霊、霊なるキリストご自身が宿っておられます(九〜一〇節)。この霊が、御霊に従う者の内に働いてキリストの形へと変容していくのです。この霊は、外からの律法(宗教規定)に奴隷的に従わせる霊ではなく、わたしたちを存在させている根源の働きを「父よ」と呼んで、その働きに身を委ね、神の子として御霊に従って歩ませて変容し、神が備えた資産を受け継ぐ相続人とするのです。キリストと一緒に「神の栄光を受け継ぐ共同の相続人」とするのです(一二〜一七節)。地上ではキリストと共に苦難をも受けるとしても、やがてその栄光はキリストと共に現れるという完成への希望に生きるようになります。そして、このような「御霊の初穂」をいただいているキリスト者(二三節)の、完成への熱い希望が語られます(一八〜二五節)。
神はその民を復活させて栄光を現し、解放と変容で始まったその働きを完成し、神の支配、神の国を完成されます。その完成は時間の枠の中にいるわたしたちには将来のことであり、希望の中にあります。しかし聖霊が与える希望は、今はないが将来にはそうなればよいがという不確かな願望ではありません。この世で希望と呼んでいるものは、将来に対する人間の願望であり、それが実現するという保証はありません。それに対して福音が与える希望は、聖霊によって現在味わっている現実から出るものなので、必ず実現する確実さがあります。福音が与える希望は、人間の願望とは異なり、今現に生きている見えない現実が見える現実になることであって、その確実さがわたしたちキリストにある者の現在を生きる力となっているのです。この箇所(八・一八〜二五)は実にその消息をよく表現しています。今現に生きている見えない現実が見える現実になるのですから、パウロはここで復活の希望を語るときに「やがて現されようとしている栄光」とか「神の子の顕現」という表現を用いています。パウロも初期の福音活動では、エルサレムやアンティオキアのユダヤ人たちの待望を表現する《パルーシア》という表現をそのまま用いていました。それはテサロニケ第一書簡四章の黙示思想的な復活待望に見られます。しかしその後の福音活動において、キリストにある者とその共同体には現在すでに御霊としてキリストがおられて働いていることを実感したパウロは、今ここにいない方が突然来臨するという意味の《パルーシア》よりも、今現に見えない姿でおられる方が覆いを除かれて姿を現すという《アポカリュプシス》(顕現)という表現を用いるようになります。この語はすでにコリント人への手紙で用いられており(コリントT一・七)、ローマ書のこの部分ではもっぱらこの語で将来の復活が語られることになります。わたしたちキリスト者は、キリストにあって信仰によって「救われて、このような希望を持つに至ったのです」(二四節)。

永遠の命

以上、神の霊がわたしたちの内に働いて起こしてくださる変化について、すでに「十字架されたキリスト」において成し遂げられている解放の実現、現にわたしたちを変容してくださっている働き、将来復活によって完成してくださる希望という三つの面にまとめました。そして、その神の霊の働きは、垂直(宗教)、水平(倫理)、時間(歴史)という三つの軸をもつ人間存在に、信仰と愛と希望という三つのかけがえのない、人間の本性や努力から出てくるものではない宝(価値)を与えてくださることを見ました。これらはすべてわたしたちの内にいます聖霊の働きです。パウロはその現実を、「わたしはキリストの内に、キリストがわたしの内にいます」と言い表しています(ガラテヤ書二・二〇)。キリストに合わせられるとか、キリストの内住というのは、神の霊、聖霊によって神が内に働いてくださっているという事実と同じです。その事実が人をキリスト者とします。それがなければ、いくらキリスト教という宗教に熱心に従っていても、キリストに属する者、キリスト者ではありません。そして、聖霊が人間に与えてくださる信仰と愛と希望の新しい命の質を、新約聖書は「永遠の命」という一言葉で表現します。
「永遠の命」という語は、ユダヤ教では「来るべき世での命」という意味で用いられていました。ユダヤ教では預言者以来、とくにダニエル書以来、終わりの日に神がもたらされる新しい世で与えられる命が、この世での宗教的営みの目標となっていました。典型的な実例が、イエスに「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、(今この世では)何をすればよいでしょうか」と尋ねた青年の問いです(マルコ一〇・一七)。永遠の命を受け継ぐことこそ、当時のユダヤ教徒の宗教生活の目標でした。パウロにもそのような用例が見られます(ローマ書六・二二)。しかしパウロは、これまでに見てきたように、聖霊によって与えられる新しい質の命、上からの命がすでに来ていることを強調しています。その聖霊による命、信仰と愛と希望に生きる新しい命が、ヨハネになると「永遠の命」と呼ばれて、キリストが与える救いの全体を指す言葉となります。永遠の命はもはや来るべき世での命ではなく、いま現にこの世で生きる命となります。ヨハネ福音書は、キリストにある者は現在に永遠の命を生きているのだということを強調する福音書となります。信じる者は現に今永遠の命を生きているのです(ヨハネ六・四七)。ヨハネ福音書では、復活も将来の希望から現在に引き寄せられ、現在の信仰の現実となります(ヨハネ一一・二三〜二六)。
このように聖霊がわたしたち人間の内に働いておられる事実を、「神がわたしたちの内に働いておられる」としている表現が新約聖書にあります。たとえばパウロはこう言っています、「神の喜びとされるところのために願うことと働くことを、あなたたちの中で働いているのは神である」(フィリピ二・一三 私訳)。「あなたたちの中で働いているのは神である」という時の神は、働きとしての神を指しています。神という語を働きとして理解しなければ、すなわち神を存在として理解すると、人間という存在の中に、本来人間ではない存在である神がいるという解き難い矛盾に陥ります。神が働きであれば、人間の中に人間とは別の働きがあるのは、その別の働きの主体である方の恩恵として理解され、感謝されます。われわれはこの人間の内に働く根源の働きを聖霊と呼んでいるのです。
 働きとしての神の働き方は、人間の知恵が理解しうるものではありません。パウロと共に、「ああ、神の富と知恵と知識の深さよ。なんと神のさばきは究めがたく、その道は探りがたいことか」とひれ伏すほかありません(ローマ書一一・三三)。