市川喜一著作集 > 第24巻 福音と宗教U > 第16講

第二節 救済の働きとしての神

はじめに ー キリストにおいて働く神

わたしたちキリスト者は、キリストにあって神を信じている者です。「キリストにあって」ということは、キリストを告げ知らせる報知、すなわち「福音」が告知するキリストの出来事をそのまま受け入れて、そのキリストに自分の全存在を委ねて生きている者です。そのような者として、「キリストにあって」受ける神の働きは救済者としての神の働きです。人間をその現実の惨状から救出する神の働きです。前節(第一節)では、万物を存在させている根底的な働きとしての神を示しました。それに続くこの第二節では、その働きが同時に「キリストにあって」われわれ人間を救う働きであることを語ることになります。
先に本書第一部第三章の「キリストの福音 ー その成立と告知」において、ナザレのイエスが死者の中から復活されたことによって「キリスト」、すなわちすべての民の救済者として立てられたことを語りました。本節はそのキリストにおいて働かれる働きとしての神について語ることになります。キリストにあって働きとしての神を信じるとはどういうことであるのかについて、わたしが体験して知り得たことを ー それは大海の一滴に過ぎませんが ー 証言することになります。

自己の根底に背いている人間の悲惨

前節で述べたように、神は天と地に満ちている万物を存在させている働きです。その万物を存在させている根底の働き、創造の働きによって存在しているもの、すなわち被造物はその存在そのものによって創造者なる神の栄光(働き)を表し、褒め称えています。自分たちがその根底的な働きによって存在していることを知っている神の民は、被造物がその存在自体で神を褒め称えていることを、神への賛美の詩篇をもって歌いました(詩篇一九・一〜六)。パウロは「見えない神の事柄、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物によって理解され、神は明らかに認識されるのですから、彼らには弁明の余地はありません」と言っています(ローマ書一・二〇)。パウロがここで「彼ら」と言っているのは、直前の十八節で「おおよそ、不義によって真理を押さえつける人間のあらゆる形の不信心と不義に対して、神の怒りが天から現れます」と言っている「人間」(複数形)を指しています。彼らの「あらゆる形の不信心と不義」とは、創造者を認めないで、自分が自分の力で存在しているという態度で創造者、自分の本源に背いている人間の背きが根本にあります。この自分自身の存在の根底に対する背きが、その根底の働きから来る一切のよきもの、神の栄光を受けることができなくしているのです。パウロはこの背きを罪と呼び、「人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失っている」のだと言っています(ローマ書三・二三)。ユダヤ教徒はこの創造者を認めているのですから、パウロはユダヤ教徒以外の民に福音を宣べ伝える時には、まず人が作った偶像ではなく、人を創造した働きを認めるべきこと、神に立ち帰るべきことを説くことから始めることになります(使徒一七・二二〜二九)。
創造者を認めないことは、自分が自分自身の力とか価値で存在していることの主張ですから、その結果に対する責任は一切は自分にあります。創造者に背いている人間は、創造者が人間に働きかけて成そうとしておられる一切のよき働きを受けることができなくなっています。神は人間の中に成ろうとしておられるものに成れなくなっておられます。その神との断絶が「神の怒り」と表現されています。自然界の被造物は、その存在そのものがそれを存在させている働きの表れですから、天地の万物は神の栄光を表していると言えるのです。その中で人間だけが愛の主体として自由を与えられているのですが、人間はその自由によって神に背いたのです。すなわち自分の存在の根底に背いたために、神の恵み豊かな働きを受けられなくなり、神の栄光を失っているのです。人間は自分自身の弱さの中で生きていかなければなりません。人間はその自己中心的な本性で相争う関係で一緒にいなければなりません。人間は自分の悲惨を知っています。

人間が自分を存在させている根源的な働きに背を向けているという事実を、聖書は古代的な神話の形で語りました。それは創世記の最初の三章に「アダムの堕落」という形で語られています。現代の哲学や文学は、それを「実存」という用語で描いています。この日本語はおそらく人間の現実の存在状況を指す言葉として用いられているのでしょう。ヨーロッパ諸語では、ラテン語の《existere》(外に立つ)から来ています。実存主義(existentialism)とは、人間がその本来いるべき場所から脱落しているために起こった現実から出発する思考方法を指しています。聖書の歴史は、この堕落した人間を救済するための創造者の働きを証言することになり、「救済史」の書となります(後述)。

人間をその悲惨から救い出す働き

人間は自分の悲惨をよく知っているのですから、ここでその悲惨さの項目を列挙する必要はないでしょう。東洋の賢人(ブッダ)は、人生が一切苦であると言っています。生病老死すべて苦です。生きるために多くの苦労をして働かなければなりませんし、対人関係の苦労は絶えません。好んで病む者はいませんが、病はどうしようもない苦しみです。そしてすべての人は老いて力を失っていき、最後は必ず不安を抱えて死にます。しかも人間は一緒に生きていかなければ生きられないのに、お互いに殺しあうのを止めることができません。多くの賢人が人間がその苦しみに満ちた悲惨を克服する道を説きました。しかし福音は、神が、すなわち人間を存在させている働きそのものが人間をその悲惨から救い出してくださることを告げ知らせます。それはイスラエルの預言者たちによって、とくにあの捕囚期の大預言者第二イザヤによって予告され、キリストの福音によって世界に告知された福音です。福音はすべての民に、すなわちすべての宗教徒に告げ知らせます、あなたを存在させているその根底的な働きが、同時にあなたを救う働きなのだと。宗教が成し遂げることができなかった人間の解放を、キリストにおいて働く根底の働きが成し遂げると。
神は働きです。万物を存在させているその働きが、キリストにあっては人間をその悲惨な現実から救う働きを為しているのです。その事実を告知するのが福音です。先に見たように、捕囚期の預言者第二イザヤは、イスラエルの神ヤハウェは地の果ての創造者、唯一の神であり、同時にその神が囚われの身のイスラエルを買い戻す資格のある「贖い主」であることを告げました。この創造者と解放者が同じ働きの両面であるとの告知は、福音の本質であり、極めて重要です。わたしたちが告知する福音は「神の福音」(ローマ書一・一)、すなわちわたしたちを存在させている働きそのものがこの救済を成し遂げたという報知です。この両面の一致が福音の本質(それがなければ福音が福音ではなくなる中身)であるというのは、福音が復活者の報知であることと一体です。復活者であるイエスがキリストであり、復活者でない者はキリストではありません。死者を復活させることは、万物(その中にはすべての生命が含まれます)の創造者である方だけが成し遂げることができる働きです。ソクラテスや孔子やブッダはまことに優れた賢人、知恵の師、人類の師と仰ぐに値する賢人です。ムハンマドは神から遣わされた預言者であり、確かに彼以後には彼を超える預言者は出なかったという意味で最後の預言者と言えるでしょう。しかし、彼らはすべて「復活によってキリストとして立てられた」者(ローマ書一・四)ではありません。
わたしはこれまでにも折に触れて仏教におけるアミダ信仰の優れた宗教性について述べ、その信仰を仏教におけるキリスト信仰として称揚してきました。浄土系の仏教徒はアミダ仏の無辺の慈悲に自己の存在を委ねています。この信仰の姿勢は、わたしたちキリスト者がキリストにおいて現された神の絶対無条件の恩恵に委ねているのと同じです。もともと仏教は、人間の内面的な悟りによって涅槃の境地に至り、輪廻の鎖とか人生の苦悩からの解放を説くものでした。その仏教において、特別の機根に恵まれた少数者ではなく、すべての民を救うためには、アミダ仏という絶対の慈悲をもって人間を救う救済者を立てなければならなかったことは、よく理解できます(この点については仏教学者の立川武蔵『ブッダからほとけへ ー 原点から読み解く日本の仏教思想』岩波書店を参照)。バルトも日本における浄土信仰の出現を、「日本のプロテスタント主義」として詳しく紹介し、それを神の摂理とも言っています。しかし同時に、絶対他者の慈悲への信仰が宗教を「まことの宗教」とするのではなく、「イエス・キリスト」の名をもつ宗教、すなわちキリスト教だけが「まことの宗教」であるとしています。確かに絶対恩恵を語る宗教が直ちに「まことの宗教」になるのではなく、イエスを復活者キリストとする事実の上に立つ無条件恩恵の働きを告知する福音が絶対的なのです。キリスト教はその福音を保持する宗教であるので特別な性格の宗教にはなりますが、宗教である限りキリスト教も相対的です。バルトも福音とキリスト教を同一線上において、キリスト教の相対性を見ていないのではないかと思います(バルトの「宗教は不信仰である」とする宗教論については、本書第五章第二節のバルトの節を、とくにアミダ信仰と比較している「まことの宗教」論については一九八頁の項目「三 まことの宗教」を参照)。

救済史における復活

神は「初めに」天と地を創造されました。初めがあれば終わりがあります。神は初めであり終わりです(イザヤ四四・六)。初めにこの天と地を創造し、天地の万物(人間を含む)の形に成られた神は、「終りに」は何に成られるのでしょうか。イスラエルの預言者たちはそれを「新しい創造」と呼びました(イザヤ六六・一七)。多くの民の中からアブラハムを選び、その子孫をご自分の民とされた神は、その民と様々な契約を結び、その契約への信実さにより、エジプトに苦しめられたり、巨大な帝国に攻められたりした自分の民イスラエルを救済するための働きを進められました。イスラエルの聖書は、その神の契約と救済の働きの証言であり記録です。自分から背き去ったすべての人間を救うための働きをされる神は、まず選ばれたご自分の民イスラエルの中にその働きを進めて、人類の救いの働きをあらかじめお示しになったのです。前もって示すという意味で、イスラエルの歴史は人類救済の予型であり、その証言の聖書は予言となります。
預言者たちは様々な形で神が終わりの時に為される働きを語りました。たとえば預言者エレミヤは、終わりの日に立てられる「新しい契約」を予言しました(エレミヤ書三一・三一〜三四)。それはイスラエルの民がエジプトから救出される時にモーセを通して立てられたような契約ではなく、すべての民が罪(背き)を赦され、神をその深み(霊性)において知るようになるという関わり方です。それは、イスラエルの民との間に立てられた「旧い契約」に対して、「新しい契約」と呼ばれるようになります。捕囚期とその前後に輩出したイスラエルの預言者たちは、それぞれの時代に向かって語りましたが、彼らの預言の言葉には、いつも神が終わりの日に為そうとしておられる働きが重なっていました。たとえば捕囚の前中後の三時期の預言が集成されているので預言書の代表とされているイザヤ書には、神が終わりの日に為そうとしておられる働きが、「その時」とか「その日には」とか「終わりの日には」というような様々な表現を伴って組み込まれており、そのような内容が明らかな部分は「イザヤの黙示録」と呼ばれています(イザヤ書二四〜二七章、三四〜三五章。中澤洽樹『イザヤ書 ー新訳と略註』新教出版社を参照)。このような終わりの時の神の働きを語る文書は「黙示録」とか「黙示文書」と呼ばれて、「律法」(モーセ五書)や「預言者たち」がユダヤ教の正典とされた後にも数多く生み出されます。最初の代表的な黙示文書であるダニエル書は、正典ヘブライ語聖書の第三部「諸書」に入れられています。救済史は終末論となって、終わりの日の神の働きの預言となり、多くの黙示文書の中で象徴的に語られることになります。
先に創造信仰はイスラエルの歴史の初めにあった信仰ではなく、神の民イスラエルがその歴史の終りに到達した到達点だということを示しました。創造信仰に到達したイスラエルの終末論は、復活を待ち望む終末論となります。ダニエル書を初めとするその後の黙示文書や、旧約聖書と新約聖書の間に成立した中間期の信仰文書には、死者の復活が語られることになります。そこに告知されたキリストの福音は、神はイエスを復活させてキリストとされたと証言し、このキリストであるイエスにおいて人類の救済の働きを成し遂げられたと告知します。福音は復活の福音となります。キリストの福音は復活を本質、すなわちそれ(復活)がなければ福音が福音でなくなるという内容としています。復活が福音の本質であることは、イエスがキリストであることを信じながら死者の復活を否定した人たちに向かってパウロが発した激しい批判(コリントT一五章)からも明らかです(この章については拙著『パウロによるキリストの福音U』二三七頁の「第六章 死者の復活」を参照してください)。

キリストにおける贖い

キリストとは救済の働きにおける神です。神はキリストとしてのイエスの出来事の中で働き、人間の「贖い」を成し遂げられました。パウロはそのことを次のように語っています。「人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失っており、 ただ、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより、無代価で義とされるのです。 神はこのキリストを、信実によって、その血による贖いの場としてお立てになったのです」(ローマ書三・二三〜二五 私訳)。福音とは、誰でも、その資格があるかないかを問わないで、無代価・無条件で、神に受け入れられているという報知ですが、それは「ただキリスト・イエスにある贖いによって」為された神の働きです。神はその「キリストにおける贖い」の出来事の中で働いて、人間の贖い、すなわち囚われた者の解放を成し遂げられたのです。罪と死に閉じ込められている人間を解放されたのです(ローマ書八・二)。そして神が贖いの働きをそこで成し遂げられたキリストの出来事も、神の働きであることが続きます。神はその信実によって、終わりの日に成し遂げると約束された通りに、キリストを「贖いの場」として立てることによって、キリストにおける救済の働きを成し遂げられました。「贖いの場」と訳した言葉《ヒラステーリオン》は、聖書では契約の箱の金の上部の延板を指す言葉です。イスラエルの祭儀では年に一度大祭司が至聖所に入って、そこに置かれた契約の箱の上部の金の延板《ヒラステーリオン》にいけにえの動物の血を注いで、イスラエルの民が犯した罪の責任を拭い去って、神がイスラエルを解放する方であることを指し示す儀式を執行します。それはイスラエルのもっとも重要な儀式です(レビ記一六章)。
イエスが十字架につけられて死なれたのは人間の世界の出来事でした。しかしそのイエスを神は復活させてキリストとされたのです。十字架されたイエスがキリストなのです。キリストとは十字架された姿の復活者、パウロの表現で言えば「十字架されたままのキリスト」《クリストス・エスタウローメノス》なのです(コリントT一・二三、二・二)。わたしも聖霊によって、わたしを愛して、わたしのために死なれたキリストを知らされました(拙著『パウロによるキリストの福音V』一一三頁以下の「キリストの愛の迫り」の項、さらに同書九四頁以下の「イエス神秘主義」の項を参照してください)。このキリストが神の「贖い」なのです。このキリストにおいて贖いとして働いた神の働きがわたしたち人間に何をなすのかは、次節「内なる働きとしての神」で取り上げることになります。