市川喜一著作集 > 第24巻 > 第14講

第四節  宗教相対主義の道

現代の宗教多元化の問題は対話で解決できるか?

本章(第六章)で現代の宗教問題として、宗教の多元化と世界の世俗化を概観しました。宗教多元化の問題というのは、人類の歴史ではもともと一つの共同体には一つの宗教があって、その宗教が共同体成立の基盤となっているのが原則であるのに、一つの共同体に複数の宗教があって、それらの複数の宗教がその共同体(単数)の基盤となる地位を争って複雑な関係を形成する事態です。ある共同体の内部で別の宗教が発生するという内発的な場合もありますが、大抵はもともとある一つの宗教によって成立している一つの共同体に外からの別の宗教が入ってくることによって宗教の多元化が起こります。その場合、元の宗教と新参の宗教(単数または複数)の間に、排斥、迫害、包摂、寛容、容認、混淆、乗っ取りなど複雑な関係が生じます。人類の宗教史はこのような複雑な事例で溢れています。ところで、現代の宗教多元化の問題がこれまでの多元化問題と違うのは、問題を抱える共同体が地球規模の一つの共同体となっているという事実です。これまでは地球上には多くの人間共同体があって、それぞれの共同体が宗教多元化の問題を抱えていました。大抵の場合、元の宗教と新参の宗教との複雑な力関係の問題でした。しかし現代では事情が違います。交通手段と通信手段の異常な発達の結果、どの民族、どの生活圏、どの文明圏も単独で孤立して存立できず、否応なく他と関わりをもって生きていかなければなりません。いわゆるグローバル化の時代です。人類は一つの共同体であることを自覚せざるをえません。現代の宗教多元化の問題とは、このような地球規模の宗教多元化の問題です。
このような一つの人類共同体においては、もはや元の宗教とか新参の宗教というような区別はありません。どれもがみな地球上に存在してきた元の宗教です。どれか一つの宗教が他を包摂するとか排斥するという関係ではありません。その関わり方は対等の立場で対話する以外にありません。現代では宗教間の対話が叫ばれる所以です。どの宗教も人類共同体の基盤であるという主張を掲げて、他の宗教を排除したり、自分の中に包摂することはできません。自分自身の価値によって自分だけを「真の宗教」とすることはできません。
では現代の宗教多元化から生じる諸問題は対話によって解決できるのでしょうか。確かに対話によって相互理解が深まることは有益です。しかし相互理解だけでは不十分であり、相互変容が必要であることは、先に見たように、すでにカッブの『対話を越えて』が唱えていました。しかしそこで述べたように、宗教自身に自己を変容する力がない以上相互変容は不可能であり、もしできたとしても地球上に無数にある宗教がすべて対話を通して相互変容して、人類共通の宗教を形成することは気が遠くなるほどの時間を要し、所詮は机上の空論に過ぎません。結論として言えることは、対話によっては現代の宗教多元化の問題は解決できないということです。

宗教相対主義の意味

ではどうすればよいのでしょうか。わたしはここで宗教相対主義を唱えないではおれません。宗教相対主義とは、すべての宗教は相対的なものであるという主張です。ここで言う宗教とは複数形の宗教、諸宗教の一つとしての宗教、社会体制としての宗教、祭儀や教理、神話や象徴で成り立っている聖なるものを指し示す媒体としての宗教のことです。原始的部族宗教からキリスト教やイスラム教や仏教などの歴史的現象としての宗教を指しています。こういう意味での宗教はすべて相対的なものであるという主張です。相対は絶対の反対です。相対的というのは絶対的ではないということです。そして、宗教を相対的なものとして位置づけるのは、宗教を無価値、無意味なものとして否定するのではなく、宗教の意義や価値を認めた上で、その絶対性の主張を否定するためです。宗教相対主義は諸宗教の絶対性主張(しばしば原理主義的な宗教に含まれます)と諸宗教の無意味性主張(世俗主義)を否定して、宗教を象徴のシステムとして本来の場に置こうとする立場です。もちろん単数形の宗教、聖なるものを求めるホモ・レリギオーススとしての人間の営みそのものの意味を否定するものではありません。それを否定すれば、そもそも本書のような宗教を主題とする議論は成り立ちません。
宗教は本性的に自己の絶対性を主張する傾向があります。宗教は日常の俗なる世界にいる人間に対する聖なるものの顕現ですから、人間に俗世界の論理を越えた無条件の尊敬と服従を求めます。人間は俗なる世界で価値あるものを捧げて聖なるものへの尊敬と服従を表現します。ここに宗教が成り立ちます。こうして聖なるものは俗なる人間の側の状況とか欲求とか理解とかの論理を越えて、すなわち相手の立場に絶して自己の要求を貫こうとします。このように相手の状況に絶した(=と無関係の、absolute の語意を参照)要求を絶対性の要求と言います。ここに宗教の絶対性の主張があります。このため宗教の世界には、とくに原始的な宗教では、その宗教の外にいる人間にはきわめて奇妙に見える行動が見られることになります。たとえば、ある宗教の人が絶対に豚肉を食べようとしない、時には命を賭けてそれを拒否するようなことは、その宗教の外にいる人には奇妙なことに見えます。

「絶対的な、無制約な」という意味は、英語では absolute という語で表現されますが、この語はラテン語の absolutus(=unconditioned)から来た語で、「相手の状況に制約されていない」という意味の語です。政治学では、無制約の絶対的な権力を主張する国家をabsolutism government と呼んでいます。ティリッヒは「キリスト教の絶対性」を問題にするとき、絶対性とは言わず、普遍性という語を用いますが、これもある宗教が、人種や時代の制約を超えて、いつどこでも妥当することの要求ですから、これも絶対性主張の一種です。

このような意味での絶対性の要求をもつ宗教は、人間にとって強い拘束となる場合があります。宗教が重い軛となる場合があります。それは何らかの意味で人間が宗教の外に、あるいは宗教を超えて、何らかの究極的な価値とか根拠を見出した場合です。近代の啓蒙主義は宗教の外に、すなわち人間に生得的な理性に人間にとっての究極的な価値の根拠を見出し、宗教を軛として撥ね退けて世俗化を推進する力となりました。しかし、宗教の内部でこのような宗教を超える究極的な価値とか力を見出して宗教の絶対性を乗り越えた場合もありました。ティリッヒは宗教内の宗教批判を預言者的な道と神秘主義的な道の二つをあげていました。両方とも聖なるものとの直接的な触れ合いによって宗教を乗り越える点では同じですが、前者は激しい宗教批判となり、後者は高踏的な宗教蔑視とか宗教無視になる点が違います。また前者は宗教を超える力によって直接的にそれに触れる体験へと召されるのですが、後者は禁欲とか瞑想などの努力によってそのような触れ合いに至ろうとします。ティリッヒが言うように、宗教史は宗教の内部で宗教を克服しようとする「神の戦い」の力動から成り立っている、ということになります。
宗教相対主義は宗教の内部で宗教を克服しようとする道です。宗教の軛から脱するために、宗教の外に宗教を克服する力とか原理を求める世俗主義はとりません。世俗化した世界の中では宗教の回復を願います。しかし宗教の絶対化がいかに人間にとって不幸であり悲惨かを知っています。ティリッヒが「宗教は人類の栄光であり恥辱である」と言う時の恥辱は、絶対化の要求が暴力と結びついて過激化した現代の宗教が典型的に示しています。宗教は自分自身の中に自分を相対化する原理とか力をもっていなければなりません。ティリッヒはそのような原理を宗教の深みに求めました。彼は「宗教の深みには、宗教を宗教でなくする地点がある」と言って、各宗教がその地点に達して対話することを求めました。

パウロにおけるユダヤ教絶対化の否定

わたしはティリッヒに共感するところが多く、引用も多くしましたが、わたしは宗教を相対化することの重要性をティリッヒから学んだのではありません。わたしはそれを生涯にわたる新約聖書の研究によって、イエスとかパウロとかヨハネというような新約聖書の主要人物から、とくに「福音と律法」の関係に命がけで取り組んだパウロから学びました。そのことは前著『福音の史的展開』の最後に置きました「終章 キリストの福音からキリスト教へ」でやや詳しく書きましたので、それを参照していただくことにして、ここでは宗教相対主義の主張の根拠を理解していただくために、パウロの議論を中心に簡潔にまとめておきたいと思います。
パウロは十字架につけられたイエスを復活されたキリストとして、そしてそのキリストにおいて神がすべての人を救うための働きを成し遂げられたことを福音として、世界に告知しました。パウロはその福音をとくに異邦人に、すなわちユダヤ人でない人たち、ユダヤ教徒ではない人たちに告げ知らせることを、神から自分に与えられた使命として、当時の地中海世界の諸都市に広くキリストの福音を告げ知らせました。そのさいパウロは、ユダヤ教徒でない人たちには、割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、異教徒のままでこの福音を信じることによって救われ、神の民となると告知しました。これは「無割礼の福音」と呼んでよいでしょう。このパウロの「無割礼の福音」の主張が、ユダヤ教徒から激しい反対を受けることになります。割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても神の民となれるのであれば、ユダヤ教が存在する意味がなくなるではないか、その主張はユダヤ教そのものを否定するものであるとして、ユダヤ教を穢す言説を世界に撒き散らす「疫病のような男」として命を狙われます。事実、パウロはこのようなユダヤ人から告訴されて処刑されるに至ります。それだけでなく、パウロはイエスをキリストと信じる同信のユダヤ人からも、イエスをキリストと信じる異教徒はまず割礼を受けてユダヤ教に改宗しなければ救われて神の民にはなれないとして反対され、彼の福音告知の活動は最後まで執拗な妨害に悩まされます。かれらの反対や妨害に対して、パウロはガラテヤ書で激しく論争し、ローマ書でそれが福音の土台であることを体系的に論述しています。
パウロはその「無割礼の福音」の主張を貫徹するために、その書簡の中では「福音と律法」という対比で繰り返し語っています。「人は律法の行い(実行)ではなく、キリストの信仰によって救われる」という命題がパウロの福音の基本であることは広く認められています。ところがこの律法という用語が戒めとか戒律という意味だけに理解され、とくに近代では道徳規定と理解されて、人はどんなに道徳規範を立派に守って善人になっても、その価値で救われるのではなく、信仰によって救われるという主張になっています。しかも「キリストの信仰」という表現も、キリスト教という宗教への信仰と理解されて、パウロの真意を伝えていません。
パウロが律法という語を使うとき、多くの場合それはユダヤ教という宗教の全体を指していることを見落としてはなりません。パウロはその書簡をギリシア語で書いています。パウロは書簡で《ノモス》という語を多く用いています。《ノモス》というギリシア語は、法、法律、誡め、規範、法則、原理というような広い意味の語です。日本語の聖書ではほとんどの場合「律法」と訳されています。しかしパウロの時代のユダヤ人の間では、《トーラー》というヘブライ語を指す時、ギリシア語では《ノモス》という語を用いるのが普通でした。そして当時のユダヤ教徒は自分たちの宗教を指すのに《トーラー》という語を使っていました。今でこそユダヤ人の宗教はユダヤ教と呼ばれていますが、当時のユダヤ人が自分たちの宗教を「ユダヤ教」と呼ぶのは稀で(新約聖書での用例は二箇所だけ)、普通は《トーラー》と呼んでいました。《トーラー》は、狭い意味ではモーセ五書を指しますが、ユダヤ人の間ではモーセ五書の律法に基づくユダヤ教の全体を指す語になっていました。それでパウロが《ノモス》という語を用いる多くの場合、とくにキリストの信仰との対比で用いる場合は、ユダヤ教という宗教全体を指していると理解すべきです。
こう理解しますと、パウロが「人が義とされる(救われる)のは、律法の実行によるのではなく、キリストの信仰によるのである」と宣言するとき、人の救いはユダヤ教の実行・実践とは関係なく、ただキリスト信仰によるのである、と主張していることになります。もし律法、すなわちユダヤ教の実行によって救われるのであれば、人は割礼を受け、安息日を守り、豚肉を食べないなどの食物規定を守り、その他のユダヤ教の諸々の規定を順守しなければ救われないということになります。これは、ユダヤ教を救いの条件とすること、ユダヤ教の順守者でないと救われないとするユダヤ教の絶対化です。パウロはこのユダヤ教の絶対化を否定したのです。実はこのユダヤ教の絶対性の否認はイエスから始まっています。イエスは、ユダヤ教諸規定を十分に守れないので、ユダヤ教指導者たちから「罪人」と烙印を押され、神の国を受け継ぐ神の民としての資格のない者とされていた人たちに向かって、「あなたたち貧しい人たちは幸いだ。あなたたちは神の国を受け継ぐのだから」と宣言されました。こうしてイエスは、ユダヤ教律法の諸規定を守ることを神の国を受け継ぐ(=義とされる、救われる)ことの条件とされなかった、すなわちユダヤ教の絶対性を否定されました。そのことがユダヤ教指導者たちからユダヤ教を否定する者、ユダヤ教の神を穢す者として死刑の判決を受けることになります。パウロも同じです。自分の宗教を絶対とする者には、その宗教の絶対性を否定する者はその宗教そのものを否定する者となるのです。

宗教の相対的意義

パウロは(そしてイエスも)ユダヤ教という宗教を否定したのではありません。ユダヤ教の絶対性を否定したパウロにユダヤ教徒は詰め寄ります。「ではユダヤ人に何の優れた点があるのか。また割礼の益は何か」、すなわちユダヤ教という宗教が与えられていることにどういう意味があるのか、と問い詰めます。それに対してパウロは、「それはすべての面で多くある」と答えて、まず神の言葉が委ねられていることを挙げます(ローマ書三章一節以下)。ローマ書九章一節以下では、ユダヤ教徒に与えられた数々の特権をあげています。すなわち、パウロはユダヤ教という宗教に、人間の救済にとって優れた意義があることを認めています。パウロは、キリストの福音を提示する最も綱領的な箇所で、「しかし今や、律法とは無関係に、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が表された。すなわち、イエス・キリスト信仰による神の義であって、すべて信じる者に与えられるのである」と言っています(ローマ書三章二一〜二二節)。「律法と預言者」という表現もパウロの時代では聖書の二大区分を指す表現で、聖書に立つユダヤ教の全体を指していました。最初に「律法とは無関係に」という表現で、救いがユダヤ教という宗教の実行とは無関係に与えられることを言った後、すぐに「ユダヤ教によって指し示されて」と続けています。すなわち、ユダヤ教という宗教はキリストにおける神の救いの働きの実現を指し示し、人がそれに備えるのに有益であると言っています。
パウロはユダヤ教の中で生まれ育ち、最後までユダヤ教徒でした。パウロはユダヤ教の聖典である聖書が神の啓示の言葉であることを疑ったことはありませんでした。パウロはすべての議論を聖書を根拠にして進めています。パウロにとってユダヤ教は最高の宗教、宗教の中の宗教、真の宗教でした。しかし、いかに優れた宗教でも、それが宗教である限り、それを救いの根拠にすることはできません。その宗教に属することを救いの条件とすることはできません。これが宗教を相対化するということの意味です。パウロはユダヤ教の優れた意義を認めつつ、その絶対性を否定して、ユダヤ教を相対化しました。
宗教相対主義の聖書的根拠を問われるならば、ローマ書三章二一節の「しかし今や、律法と無関係に、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が現れた」というパウロの言葉をあげることができるでしょう。パウロはここで《コーリス・ノムゥ》(律法なしに)と言っています。《コーリス》というギリシア語の前置詞は「なしに」という意味ですが、英訳では without がよく用いられます。この英語は本来 within (の中で)の反対で「の外で」の意味ですが、「なしで」という意味で使われるようになっています。先に見たように、《ノモス》をユダヤ教を指すと理解すれば、この句は「ユダヤ教の外で」とか「ユダヤ教なしで、ユダヤ教とは別に、ユダヤ教と無関係に」神の義が現れた、と宣言していることになります。そして、パウロがここで「神の義」と呼んでいるのは、人間を救う神の働きのことであり(この理解については拙著『ローマ書講解』Tの九一頁およびUの三二二頁を参照)、神の救いの働きがユダヤ教なしに、ユダヤ教の外で、しかもユダヤ教という宗教によって証言されて現れた、と言っていることになります。この「宗教の外で、しかも宗教に証言されて」ということが宗教相対主義の立場です。
わたしはこの宗教相対主義を内村鑑三の「無教会主義」から学びました。内村は、人は洗礼を受けて教会に加入し、聖餐にあずかるキリスト教徒にならなくても、キリストを信じることによって救われると主張し、これを無教会主義と呼びました。いわば「無洗礼のキリスト信仰」です。内村は決して教会を否定し、キリスト教を無視したわけではありません。内村ほど聖書を深く研究し、キリスト教の伝統を熱心に学んだ人物はいません。日本にキリストを宣べ伝えるためには教会とも協力しました。しかし無教会主義という呼び方には、どこか教会とかキリスト教を否定する響きが伴いますので、わたしはパウロの言う《コーリス・ノムゥ》を「無しで」ではなく「の外で」と理解して、教会とかキリスト教の外でもキリスト信仰は成り立つことを主張し(この主張については拙著『教会の外のキリスト』を参照してください)、かつキリスト教という宗教がキリスト信仰の立証のために有意義であることを付け加えるために、この主張を宗教相対主義と呼んでいます。

キリスト教の相対化

ではキリストの信仰から発して形成されたキリスト教はどうでしょうか。確かにキリスト教はキリスト信仰から生まれ出た宗教であり、キリストの福音を内に保持している宗教、キリストの福音を世界に告知することを使命としている宗教として、他の諸宗教とは違う独自の性格をもち、独自の立場にあります。しかし、それが宗教である限り、他の宗教と同じく相対化されなければなりません。一つの宗教としては、自己を絶対化して普遍性を主張し、自分だけを「真の宗教」として他の宗教を排斥したり包摂する立場にあるわけではありません。独自の祭儀と教理・信条と聖職制度をもって一つの社会的歴史的体制となったキリスト教という宗教は、ユダヤ教やイスラム教、ヒンドゥー教や仏教などと並ぶ相対的な諸宗教の一つです。キリスト教も相対化されなければなりません。
先に述べたように、その絶対化によって人間にとって拘束とか軛になった宗教から解放される力とか原理を、宗教の外に求める世俗主義をとるのではなく、宗教は宗教の中にその力とか原理を見出さねばなりません。ティリッヒの表現では、宗教は自分が宗教でなくなる深みを探求しなければなりません。イエスやパウロは、ユダヤ教の中に生きながら、ユダヤ教を超える人間の絶対的な根底を見出したのでユダヤ教を相対化することができました。イエスは神の絶対的な恩恵を体験されたゆえに、ユダヤ教の諸規定を相対化されました。パウロは信じる者を救う神の力としての福音を体験したので、ユダヤ教を相対化することができました。われわれはキリスト教を相対化する原理とか力をどこに見出すことができるのでしょうか。
実は前章の「宗教の神学」で、トレルチが「キリスト教の絶対性」を問題にして以来、欧米のキリスト教神学がこの問題と格闘してきたことを、代表的神学者の考えを紹介して跡づけてきました。彼らはキリスト教は相対化しなければならない必要を自覚しながら、結局はキリスト教の絶対性とか普遍性に固執することになりました。彼らは現在のキリスト教という宗教がそのまま人間の存在の根底になるのではなく、キリスト教が指し示している何かが人間存在の根底になる絶対的なものであるとして、そのキリスト教宗教とは区別される何かをさがし求めてきました。トレルチはその何かを「イエスの素朴な絶対性」に求めました。ティリッヒはこう言っていました、「キリスト教を一つの宗教と考えてはなりません。キリスト教の本質は、キリスト教の現実と同一視し難く、一つのメッセージであり、すべての宗教を審き、特にキリスト教を審くものと考えられるべきであります」。神の救いの働きであるキリストの出来事を告知するメッセージ、すなわち福音がキリスト教の本質であり、現実のキリスト教と混同すべきでないと言っているのです。そのことを言うのに、すべてキリスト教という表現を用いなければならないという事実に、欧米のキリスト教世界の問題点があります。欧米の諸語では、「キリストの」という語は「キリスト教の」という語と同じです。キリストの現実とキリスト教の現実を指す語が同じですから、表現と概念に混乱が生じています。この混乱は、ヨーロッパ世界が千年以上にわたってキリスト教だけの世界であり避けがたいことかもしれませんが、神学的議論においては避けるべきだと思います。

英語では Christian Faith は、キリストの信仰、キリストにある信仰とも、キリスト教信仰とも理解できます。ティリッヒは、キリストの現実から生じるすべての事態を the Christianity と呼び、a Christian religion と区別することを試みています。しかし the Chris-tianity は普通キリスト教を指すので、使用にあたっては注意が必要です。わたしは「キリスト信仰」と「キリスト教信仰」を区別し、「キリスト者」と「キリスト教徒」を区別して用いています(本書二四一頁と二五七頁参照)。

ではキリスト教を相対化する力とか原理はどこにあるのでしょうか。その答えは単純です。それは聖書の中にあります。それはキリスト教を生み出した力そのものです。それは神の力としての福音です。パウロが「福音はすべて信じる者を救いに至らせる神の力である」と言ったときの福音です。福音はキリストを告知します。キリストにおいて神が救いの働きを成し遂げられたことを告知します。この福音を信じて自分をキリストに委ねて生きる者、キリストに自分を投入してキリストに結ばれて生きる者は、救いに至らせる神の力を体験します。その体験においてユダヤ教徒であるか他の宗教の教徒であるかは関係ありません。神はユダヤ教徒の神であるだけでなく、すべての人間、すべての宗教の中にいる人間の神です。キリストの福音は宗教を相対化しています。
キリストの福音とキリスト教は同じではありません。キリスト教はキリストの福音によって一世紀以降のローマ帝国の領域に形成された新しい宗教です。キリストの福音は、キリスト教の中に保持されて働き続けてキリスト教を拡大してきました。同時にキリスト教の中にあるキリストの福音は、この福音こそが絶対的なもの、究極的なものであると迫って、キリスト教という宗教の絶対性を否定し、キリスト教を相対化する力です。福音こそ、キリスト教の中にあって、キリスト教を形成する力であり、同時にキリスト教を相対化する力です。

わたしは、キリスト教を相対化すべきことをパウロの「福音と律法」についての議論(とくにガラテヤ書とローマ書)から学びました。そして内村鑑三の「無教会主義」の主張と実践に啓発されて、教会に所属しない独立伝道者としての働きの中でそれを著作に書き残して来ました。その集大成が前著『福音の史的展開』の二冊と本書『福音と宗教』の二冊です。その途上で行った福音講話の中での主張は、著作集の中の『教会の外のキリスト』に書き残していますので、その中の各編、とくに序章と終章を見てください。

 もしキリスト教の形成期に、福音がキリスト教を形成する力であり、同時にキリスト教を相対化する力であることを理解している人があれば、その人はキリスト教という宗教の絶対性を主張することなく、キリスト教徒である特権を認めた上で、パウロがユダヤ教内のキリスト信仰を認めたように、キリスト教以外の宗教の中でキリスト信仰を生きることを認めたのではないかと思います。その人の元の宗教がその人のキリスト信仰を否定して迫害するのであれば、その人はその宗教から出て行かなければならないでしょうが、そうでない場合であれば、キリスト教以外の宗教の中にもキリスト信仰に生きる人、すなわちキリスト者があり得ます。その場合は、その宗教がキリストによってその中の不要で不純な要素を洗い流されて浄化される改革が起こるはずです。このような福音の体制宗教を相対化する力が、キリスト教宗教にも働いて、キリスト教を改革してきました。もしこのような改革を「福音主義改革」、すなわち「福音によるキリスト教改革」と呼ぶならば、その改革は一六世紀の宗教改革だけでなく、キリスト教の歴史の中で絶えず行われなければならない改革です。このような福音の宗教相対化の力を理解しているならば、ユダヤ教徒でキリスト信仰に生きる可能性を理解しているのですから、ユダヤ教徒を迫害するというようなキリスト教会の過ち、新約聖書の重大な読み違いは生じなかったでしょう。このようなキリスト教以外の宗教でのキリスト信仰の可能性については、時が与えられるならば改めて論究してみたいと願っています。

結び 諸宗教を相対化する力としての福音

このように福音はキリスト教を相対化します。キリスト教という宗教を相対化する福音は、宗教という宗教すべてを相対化する力です。キリストの福音は、宗教を否定しません。福音は宗教の中に入っていって、その宗教の絶対性の主張は否定しますが、その宗教が歴史とその土地の文化の中で形成した形態は、福音を否定するものでない限りは、その意義を認め尊重します。すなわち、福音はその宗教を相対化して、神の力、神の救いの働きとしての本質を貫きます。
先に見たように、現代の宗教の多元化は地球上のどの宗教にも、自分だけが元からある真の宗教であるという主張を許しません。ある宗教がほかのすべての宗教の民を自分の宗教に改宗させようとすることはできません。もしキリスト教という宗教が世界をキリスト教の世界にしようとしても、それは無理ですし、するべきことでもありません。一時期のキリスト教は、キリスト教の絶対性ないし普遍性を信じて、世界宣教という看板を立てて、そのような活動をしました。キリスト教がなすべきことは、キリスト教がその中に保持しているキリストの福音を世界に告知して、自分自身を含む世界の諸宗教を相対化して、それによって諸宗教が真の対話を持つことができるようんな場を提供し、その対話によって人類が民族とか文明とか宗教の違いを超えて、人間としての問題を克服するための対話を進めることができるようにすることです。宗教相対主義は、宗教、とくにその絶対性主張という「隔ての中垣」を打ち壊して、諸宗教の民の間に平和をきずく道です(エフェソ書二章一四節)。
 宗教を相対化する力は、神の無条件絶対の恩恵です。イエスはユダヤ教規定を守れない「貧しい人たち」に父の恩恵を宣べ伝えて、何の条件もつけず、ユダヤ教徒であろうが他の宗教の民であろうが、病気をいやし神の国を約束されました。パウロはユダヤ教という宗教の順守と関係なく、どの宗教、どの民族の民であろうが、神がイエス・キリストの十字架と復活の出来事において成し遂げてくださった救いを受け容れ、自分の資格を問題にせず、無条件にその身をキリストに委ねる者が、神の救いの力にあずかるのだと主張しました。ヨハネは「律法(ユダヤ教宗教)はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」 と叫び、パウロと同じく、キリストにあって恩恵によって永遠の命が与えられることを宣べ伝えました。神の恩恵の絶対性が宗教を相対化します。
 宗教相対主義の思いを巧みに表現した和歌が有名です。一休禅師の作と伝えられる(一休は古歌を引用したとも言われています)「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という道歌です。この歌は、世には多くの宗教があるが、その多くの宗教は同じ山の頂を目指している多くの登山道であって、どの道から登っても結局同じ山頂から見る月は同じ月であるように、どの宗教によっても結局同じ宗教的境地、すなわち人間の究極的な境地に到達するのだ、と歌っています。しかしこの歌には一つの前提があります。すなわち、その多くの登山道は同じ山の登山道だということを前提しています。たしかに同じ山の麓から山頂を目指す登山道のどれから登っても、到達した山頂から見る景色は同じです。ところが違う山の登山道であれば、その山頂から見る景色は当然違ったものになります。そして違う景色を見て、どちらの景色が美しいかと争っています。しかし山が違っても、見る対象が月であれば、地球の僅かな凹凸からずっとかけ離れた遠くにある月は同じであり、同じ月を見ることになります。宗教を多くの登山道にたとえるこの比喩を用いて、本書の宗教相対主義の道を説明するとどうなるのでしょうか。
 この世界には多くの宗教があり、そのそれぞれの宗教は多くの宗派があって、互いにそれが真理であることを主張しています。すべての宗教について語ることは出来ませんが、キリスト教と仏教という典型的な違うタイプの宗教について見ますと、その山頂で見る景色、すなわちその宗教の到達点の姿は二つの宗教で違っています。第五章「宗教の神学」の第七節のティリッヒのところで見たように、キリスト教と仏教とはその《テロス》(終局、到達点)から見ると、そこから見る景色は随分違います。キリスト教の到達点が見る景色は「神の国」です。それに対して仏教の到達点で見る景色は「涅槃」です。これは二つの登山道が違う山への登山道であることを示しています。山頂が違っても、すなわちそれぞれの宗教の到達点が違っても、なお同じ月を見ることができるのは、月がそれぞれの山頂から極めて遠くにあって、それぞれの山の位置や高さの違いを絶したところにあるためです。そのように違う山の登山道を上る者は、その過程で自分が登る山の位置や高さが他の人が上る山とは違っても、もやは地上の景色の相違は問題にならない対象を目指していることを自覚しなければなりません。自分が登る山が地球の凹凸の一部に過ぎず、月を見るのに何の条件にもならないことを自覚すべきです。この自覚が宗教の相対性の自覚です。
各宗教は自分の深みにある力によって自己を相対化しなければなりません。しかし宗教にはそれを見出す力も見いだそうとする姿勢もなく、各宗教は社会の体制宗教であることに安住して、自己を絶対化する本性とか傾向があります。わたしはすべての宗教の事情に詳しく通じているわけではありませんが、知る限りの僅かな事例からしても、それぞれの宗教が自分で自分自身を相対化するときが来るとは到底思えません。各宗教を相対化できるのはキリストの福音、恩恵の支配、恩恵の無条件性、そこから来る各宗教(キリスト教を含む)の相対化であると考えています。人間から無限に隔絶したところからくる言葉、自分と万物とを存在させている方、人間が神と呼んで礼拝している方からの働きかけ、語りかけである福音です。
 なぜ福音にそれができるのか、福音とはいかなる力であるのでそれができるのか、最後にこの問題を取り上げて本書全体の終章とします。そこではキリストという場において聖霊として働かれる「働きとしての神」について語られることになるでしょう。