市川喜一著作集 > 第24巻 > 第8講

第五節 「無名のキリスト者」 ― ラーナーとカトリック教会

第二バチカン公会議とカトリック教会

 プロテスタント側ではクレーマーらが活躍していた一九六〇年代に、カトリック教会は一九六二年から一九六五年にかけて開かれた第二バチカン公会議で画期的な宣言を出します。それは、「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」(一九六五年)です(以下「諸宗教宣言」と略称)。その「諸宗教宣言」は、序文において「人々は種々の宗教から、昔も今も同じように人の心を深くゆさぶる人間存在の秘められた謎に対する解答を期待している。その謎は、人間とは何か、人生の意義と目的は何か、善とは何か、罪とは何か、苦しみの起源と目的は何か、真の幸福を得るための道は何か、死後の審判と報いは何か、そして最期に、われわれの存在を包み、われわれがそこから起こり、また、そこに向かって行く究極の名状しがたい神秘は何か、ということである」と述べて、宗教とは人間存在の謎に対する解答への期待であり、人間には欠くことができないものであるとした上で、キリスト教以外の諸宗教の営みを評価しています。いわゆる原始宗教、民俗信仰、民間宗教にもそれはあるが、「進歩した文化と結びついている宗教は、より深遠な概念や、いっそう洗練された言語によって、同じ問題に答えようとしている」として、ヒンドゥー教や仏教の実践を敬意をもって記述した後、「これと同じように、世界中に見いだされる他の宗教も、種々の道、すなわち、種々の教義と戒律と儀式を提示すことによって、いろいろな方法で人間の心の不安を解消しようと努力している」と述べています。そして最期に、「カトリック教会は、これらの諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排斥しない。これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念をもって考察する」とまとめています(訳文は古屋安雄『宗教の神学』より)。
 この宣言はカトリック教会にとっては画期的であり、「カトリック教会の回心」とまで言われます。というのも、カトリック教会は三世紀のカルタゴの司教キプリアヌスの「教会の外に救いはない」という基本的な姿勢で異教徒に対してきましたし、この姿勢は一四四二年のフィレンツェ公会議で、異教徒も異端者も永遠の命に参与できないことが教会の教義として定義され、その後のカトリック教会は他宗教に対して排他的で否定的な態度をとってきました。それがこの第二バチカン公会議でひっくり返ったのです。しかし、「教会はキリストを告げているし、また絶えず告げなければならない。キリストにおいて人は宗教生活の充満を見いだし、キリストにおいて神は万物を自分と和解させた」とも述べて、キリスト告知の担い手としての教会の優越性も保持しています。ただ、他の諸宗教に対して開かれた態度に転身することで、他宗教との対話と協調を促す姿勢をとることになります。このような対話路線は世界各地で展開しますが、日本でも『宗教の対話 ― キリスト教と日本の諸宗教』(創文社、一九七三年)という形で実現しています。

カール・ラーナー

 このような二〇世紀におけるカトリック教会改革の牽引力になったのが、カール・ラーナー(1904-1984)です。ラーナーは一九〇四年にドイツのフライブルグで生まれ、一九二二年にイエズス会に入り、その諸学校で哲学と神学を学び、その後フライブルグ大学で研鑽、哲学者ハイデッガーから多くを学びます。一九三六年以降、オーストリアやドイツの諸大学で教義学教授として活動、その間膨大な数の著作や論文を発表、主要なものは一九六八年の『神学著作集』に収められています。また、『神学および教会辞典』の編纂者としても著名です。カトリック教会では「公会議神学者」として重きをなし、「第二バチカン公会議」におけるカトリック教会の転進に大きな影響を及ぼします。二〇世紀欧米の神学は二人のカール、すなわちプロテスタント側のカール・バルトとカトリック側のカール・ラーナーによって牽引された、ということもできるでしょう。
 第二バチカン公会議後のカトリック教会の神学を代表していると見られる『救済の奥義 ― 救済史教義学要綱』( Mysterium Salutis ― Grundriss heilsgeschichtlicher Dogmatik )の第一巻『救済史教義学の基礎』の共同執筆者にラーナーも名を連ねています。このカトリック教会の公式の教義学書ともいうべき『救済の奥義』は五巻からなり、第一巻だけでも千頁を超える大部の著述です。この著作の題名からも分かるように、カトリック教会の神学の基本的な枠組みは救済史の神学であり、ラーナーもその枠組みの中で神学しているといえます。この書はその扉に、「聖書神学の理解、分離した兄弟たちとのエキュメニカルな対話、さらに非キリスト教世界への視野が不可欠である」と謳っていますが、この姿勢はキリスト教以外の宗教の意義を考慮に入れて神学しようとしていることや、プロテスタントを「分離した兄弟」と呼んで対話の相手としていることなど、異教を敵視して戦い、プロテスタントを異端者として弾圧した一時代とは隔世の感があります。その姿勢には、以下に見るようなラーナーの思想が影響を及ぼしています。諸宗教との関係については項を改めて次項で扱うことにして、ここでは「分離した兄弟たち」、すなわちプロテスタント諸教会に対するラーナーの姿勢について触れておきます。

以下の論述は、『現代キリスト教思想叢書』(白水社)の13巻に収められている武藤一雄・片柳栄一訳のラーナー『自由としての恩寵(抄)』を素材としています。本項はその中の『現代における義認についての問い』(173頁以下)、次項の「無名のキリスト者」は『キリスト教は《絶対的宗教》であるか』(165頁以下)という論説についての紹介と批判です。なお、ラーナーの思想や業績についての解説は、同書巻末の訳者解説を参照してください。

 ラーナーはその論説『現代における義認についての問い』において、教会が分裂している現実を嘆き、「分裂の歴史的理由の一つ、いな、歴史的理由のうちで決定的でさえあると考えられるものの一つは、神の恩寵による神の前における人間の義認に関する教義の相違ということにほかならない」と述べて、カトリックのキリスト者として義認に関してどう考えているかを八項目にわたって論述し、それが福音主義教会(プロテスタント)のキリスト者と対立するものでないことを強調し、「義認の教説、したがって《恩寵のみ(ソラ・グラティア)》ということが、今日においては、けっして教会の分裂の理由にはならない」と主張しています。ここにその八項目を要約しておきます。
 1 われわれカトリックのキリスト者は、宗教改革のキリスト者とともに、神の恩寵のみが義とするという信仰告白が、キリスト教信仰の根本真理であることを確信している。
 2 《救い》あるいは《義認》が被造者であり罪人である人間にもたらされるのは、自由で汚れなき神の恩寵によってのみである。人間の側からなされる救いのための働きは、すべて応答的性格をもつにすぎない。人間が自分自身の力と善行によって、はじめて神を恵み深くあらしめることができるようないかなる《業(わざ)》も存在しない。
 3 神に応答する自由な人間の行為自体が、やはり神の恩寵による賜物にほかならない。したがってカトリック的義認論は半ペラギウス的協(きよう)働(どう)主(しゆ)義(ぎ)をとるものではない。
 4 神がご自身を罪ある人間に告知したもうこの神の賜物は、(絶えず存続する弁証法的状態ではなく)《出来事》である。この出来事において、罪人のうちから義とされた者が生成する。神の恩寵が人間のもとに現実的に到来し、人間を聖化し、永遠の命の現実的な相続人とする。
 5 この《出来事》は、《いま》現実にわれわれを変化せしめつつあるが、神の最終決定的な審判において完結する。かくて、この出来事は約束の出来事であり、この約束は希望の信仰のうちにおいてのみ現在する。
 6 この恩寵によって与えられた出来事全体を、パウロとともに端的に《信仰》と呼ぶことができるし、そう呼ぶならばわれわれは、信仰によって、そして信仰によってのみ義とされる、と言うことができる。
 7 義認という出来事は、(4と5で見たようなものであるならば)一回限りの神の行為によって引き起こされるものではなく、神の至高なる恩寵に、絶えず永続的に依存することをやめない。この意味で、カトリック的立場からしても、「罪人にして同時に義人」という言い方は矛盾しない。
 8 この義とする神の恩寵は、それが贈与されることによって、人を奴隷とする死の諸力から、たんに外から要求を押しつけてくる律法の諸力から、またこの世の諸力から、人を自由にする。
 以上の八項目でラーナーが宣明しているカトリック的立場からする義認論に対しては、わたしたちの方から反対すべき点はありません。もしカトリック教会の立場がこの通りであれば、カトリック教会と福音主義教会(プロテスタント)との間には、教義的には義認についての基本的対立はないといえるでしょう。しかし、カトリック教会には長い歴史の中で積み重ねてきた公会議の枠があります。カトリック教会の伝統に忠実なイエズス会の神学者として、ラーナーは「この問題に関するトリエント公会議のカトリック的教説についても明確に語ろうとは思わない」と言って、カトリックの一キリスト者としての個人的な見解を述べています。トリエント公会議は、宗教改革の後、イタリアのトリエントを主要な舞台として行われ、一五四五年に始まり六三年に終わった長い公会議で、中心議題の一つが義認に関するプロテスタントの教義を反駁して、カトリック教会の教義を確立することでした。ラーナーは結びの部分で、「プロテスタントのキリスト者には理解され受け容れられるとは思われないトリエント公会議の多くの概念や命題にたいして、明確な解釈を加えながら態度表明を行うことはむろんできなかった。ただわたしは、今日、義認の教説がもはやわたしたちキリスト者を分離させるべきものではないという望みをいだいているのである」と述べて、教義的対立ではなく、一致して「共通の課題」に立ち向かうことを願っています。その共通の課題とは、世俗化した世界の人々に、キリスト教信仰のこの項目《義認》を、信じるに値するものとして宣べ伝えるという課題です。
 ここでラーナーはトリエント公会議で確立したカトリック教会の義認論を正面から批判しているのではなく、個人的見解だと控えめな表現で語っています。それでもこの思想が第二バチカン公会議におけるカトリック教会の変身を引き起こす原動力になったのは、ラーナーの思想の深さと強靱さにもよるのでしょうが、やはり時代と状況の変化という歴史的要因が大きいと思います。トリエント公会議の時代では、キリスト教世界の内部での論争でした。それに対して現代は、宗教的に多元化しかつ世俗化した世界の中でキリスト教そのものの存在意義が問われています。内輪で争っている時ではありません。一致して共通の課題に立ち向かうべき時です。ただ、ラーナーが共通の課題としている「義認を信じるに値するものとして宣べ伝える」という表現には、多少の違和感を覚えます。世俗化した現代の人々は神に義とされるというようなことには関心をもっていません。もっと直接的な「救いの力」を呻き待ち望んでいるのではないでしょうか。キリスト者がそれに応えうるかどうかが問われているように思います。

「無名のキリスト者」

 ラーナーはその論説『キリスト教は《絶対的宗教》であるか』で、その題名が示すように、トレルチ以来神学の重大な問題点となっている「キリスト教の絶対性」の問題を正面から取り上げて、現代におけるその意義を論じています。それが現代において緊急の問題となるのは、現代における宗教の多元性によります。すなわち、世界には数多くの諸宗教があり、キリスト教はその中の一つ、しかも少数派の一つに過ぎないという事実、しかもそれらの他宗教はもはや別世界のものではなく、同じ社会で顔を合わせて共存していかなければならない宗教となっているという現実があるからです。ラーナーはこの宗教の多元化という現実から出発します。しかし、その現実を経験的な宗教史的・宗教学的な視点から見るのではなく、あくまでキリスト教の自己理解から、したがって教義学的な問いとして取り扱います。この宗教の多元性は、キリスト教にとってきわめて困難な問題です。というのは、キリスト教ほど自分を唯一の神の唯一の啓示の担い手として、自己を絶対化する宗教は他にないからです。ここでラーナーは、「非キリスト教的宗教についての、カトリック的・教義的解釈の二、三の根本的特徴を述べることにしたい」と言って、以下の論述に入ります。
 ラーナーは二つの基本命題を掲げます。第一の命題は、「キリスト教はみずからを、すべての人間に定められた絶対的宗教として理解し、いかなる他の宗教をも、同等に是とさるべきものとして、みずからと並び立つものであることを承認することができない宗教である」というもので、ラーナーはキリスト教の絶対性を基本的な前提として議論を始めます。ラーナーはこの命題の直後に、「キリストがあらわれて以来、彼が肉において絶対的な神の言葉として到来して以来、彼の死と甦りとにおいて、この世を神と和解させ、一つに結びつけて以来、このキリストと、この世におけるその恒常的歴史的な教会と呼ばれる現臨とが、人間を神と結びつける宗教(レリギオ)そのものなのである」と述べて、キリスト教が絶対的宗教であることを説明しています。しかし、この神の働きとしてのキリストの出来事と、その現臨とされる歴史的社会的制度としてのキリスト教およびキリスト教会との同一視こそが、これまでに見てきたように欧米の「宗教の神学」の問題点なのです。キリストの出来事の絶対性をキリスト教の絶対性とするところに、欧米神学での「キリスト教の絶対性」議論の問題があります。これについては、後でさらに論じることになります。ラーナーの議論も同じ問題を抱えています。ラーナー自身、「人間の具体的存在においては、その宗教の社会的体制というものが、宗教そのものの本質に属しているというもう一つの命題が、この命題のうちに、暗黙裡にふくまれている」と言っています。なお、ラーナーは、このキリスト教自体がイエス・キリストに歴史的始原をもつのであるから、この絶対的宗教は人間に対して歴史的な道を通って到来しなければならないことに注意を促し、異教とはキリスト教の拒否ではなく、まだキリスト教との歴史的に十分な効果をもつ出会いを欠いている状況であるとして、地球規模での西欧の世界歴史のなかへの進出によって、この意味での異教はもはや存在しない、言い換えれば、キリスト者も非キリスト者も同じ状況の中で、互いに向かい合って生きているという世界史の新たな局面が到来しているとしています。ラーナーは、キリスト教は神からすべての人間に定められた宗教、絶対的宗教であるがゆえに、すべての人間とその必然的な営みである宗教と無関係ではありえないので、そこから第二の命題が出てきます。
 第二の命題は、「非キリスト教的宗教は、原罪を負い、人間の堕落に汚染されていながらも、自然的神認識の諸要素を含んでおるのみならず、また恩寵による超自然的諸契機をもそのうちに担っており、そのようにしてこれらの諸宗教は、たとえ種々の段階があるにしても、正当に宗教として承認されうる」というものです。この命題の前半(非キリスト教的宗教は・・・・恩寵による超自然的諸契機をも担っており)は、神の普遍的救済意志に対する信仰はキリスト者の当然の信仰告白である以上、楽園喪失後の原罪を負った者たちに対する救済史の段階においても神のこの救済意志は変わらないとしなければなりません。しかし一方で、救済をキリスト教固有のものと考えるのであれば、この両方が統一されるのは、およそ人間はすべて、神との内的な交わりと神の自己伝達とを提供する神的にして超自然的な恩寵の影響下にあったとすることによってのみ可能である、ということになります。
 この第二命題の後半は、前半を承けて、このゆえに前キリスト教的諸宗教は、簡単に、あらかじめ不当なるものと決めてかかってはならず、徹底的に、ある積極的な意味をもちうるとしなければならないことを語っています。この命題は、それらの諸宗教がその具体的な姿においては多くの理論的、実践的誤謬を含んでいたとしても妥当します。これらの諸宗教の中にあっても人間は神の恩寵のもとにあるのです。そこでラーナーは次のように言います、「それゆえ、人は、キリスト教以外の宗教を、それが、それに付属するいっさいのものをひっくるめて、神に由来するものであるか、それとも、まったくただ人間のつくりだしたものにすぎないのであるかという二者択一の前に立たせる必要があるというような偏見から自由にならなければならない」。ラーナーがここで「偏見」としているものには、「宗教は不信仰である」とするバルトの宗教論が含まれているのかもしれません。
 このように、いついかなる時にもすべての人間を救済せんと神が意志しておられるのであれば、人類史のすべての時代と状況において、すべての個々の人間は生涯の中で、彼を救う神との関係する可能性をもつし、また持たなければならない、ということになります。しかし、人間の社会的本性からして、個々の具体的な人間が、この神関係を、その環境が彼に提供する事実上存在する宗教の外で、絶対的に私的な内面性において遂行することができるとは考えられず、それは歴史的制約をもって出会う具体的な宗教においてのみである、とラーナーはします。
 この第二命題が正しいとするならば、キリスト教は、キリスト教以外の諸宗教の人たちと相対するとき、たんにまったくキリスト者でない人たちと相対するというのではなく、種々の観点からして、すでにまったくひとりの無名のキリスト者とみなされうる人に向かい合っているのである、ということになります。ここに「無名のキリスト者」という表現が登場します。

ラーナーはここで "ein anonymer Christ" という表現を用いています。その表現を、武藤・片柳訳では「匿名のキリスト者」と訳していますが、ここで言われている人は、自分がキリスト者であることを知っていながら、それを「秘匿している」のではなく、自分がキリスト者であることを自覚しておらず、外からもそのような名で呼ばれていないキリスト者なのですから、「無名のキリスト者」と呼ぶのが適切ではないかという批判があります。事実、日本語ではこの呼び方が広く用いられていますので、本書でも一応この呼び方を用いますが、その正確な呼び方については次項で詳しく見ることになります。

 教会の宣教の対象となる人間がこのような無名のキリスト者であるとすれば、教会の宣教は、神とキリストから見捨てられている者を一人のキリスト者にするということではなく、無名のキリスト者である者が、恩寵によって与えられているその根底におけるキリスト教を、対象的に反省し、社会的体制を背景にもつ信仰告白において(教会において)認めるような人となるようにすることに他ならない、ということになります。無自覚的なキリスト者を自覚的なキリスト者にすることである、と言うこともできます。このような無名のキリスト教(anonymes Chris-tentum)が反省的に自己自身に到達することは、それ自身の本性からする要請によってより高い発展段階に到達することであり、それは恩寵とキリスト教との受肉化した社会的構造から要求されているのであり、無名のキリスト教の段階よりも一層大きな救いの機会を与えるものとなる、ということになります。
 さらに、将来も宗教多元化の状況が続き、しかも諸宗教を無名のキリスト教と見なすべきだとすると、「教会は今日、みずからを救いの管理者たちの排他的共同体としてではなく、歴史的に把握しうる前衛であるとみなし、また隠された現実性として教会の視界の外にもまたあたえられているものを、キリスト者が望んでいるものの歴史的社会的に確立された表現とみなすことになるであろう」ということになります。最後にラーナーは、非キリスト者を無名のキリスト者、なお自己自身に到達していないキリスト者とみなすことは、キリスト者の思い上がりではないかという批判に対して、「キリスト者はこの思い上がりをみずからに拒むことはできない。それはそもそも、みずからと教会にとって、最大の謙遜のあらわれなのである。というのは、この思い上がりと考えられるものは、神を、人と教会よりも大いなるものとするのであるから」と答えています。教会は非キリスト者に対して、パウロと同様の態度で相対するのであるとして、パウロのアレオパゴス説教の一節を引用します。「あなたたちが知らずに拝んでいるもの(しかも拝んでいるのだ!)を、わたしはあなたたちに知らせてあげよう」。こうして、人はあらゆる非キリスト教的宗教に対して、寛容で慎み深くありうるのです。

「キリスト教徒ではないキリスト者」

 前項で見たように、ラーナーはその第一命題と第二命題を同時に成立させるために、「無名のキリスト者」という概念を提出しました。この問題提起はキリスト教界の内外に大きな反響を呼び起こしました。概してプロテスタント側では好意的に受け取られましたが、カトリック側ではキュンクの激しい批判を招くなど問題となりました。しかし、非キリスト教的宗教に対するこのようなラーナーの姿勢が、先に見たように、第二バチカン公会議の「諸宗教宣言」への道備えをしたことを思うと、カトリック教会の転身に対するラーナーの神学の大きな影響力を見ないではおれません。わたしたちもこのカトリック教会の変化を大いに歓迎しますが、同時にラーナーの思想の限界も見ることになります。以下にラーナーの論説『キリスト教は《絶対的宗教》であるか』における諸宗教に対する考え方について多少の所感を述べておきます。
 ある宗教が他の宗教に対してとる姿勢には、大別して二つのタイプがあるようです。すなわち、排外主義と包摂主義です。宗教はもともと自分を絶対化する性質がありますが、その絶対化は、他の宗教に対するときの姿勢にこの二つの形をとらせることになります。排外主義というのは、自分の宗教だけが正しくて他の宗教は誤謬であるのだから、他の宗教は異教として排斥し、その民は自分の宗教へ改宗させなければならないという姿勢です。包摂主義というのは、他の宗教にもある種の真理とか美点はあるが誤謬も含み、まだ真理の全体には到達していないのであるから、自分の中に包み込んで、自分の中で同化完成させなければならないとする方向です。ラーナーの「無名のキリスト者」の思想は、典型的な包摂主義の思想です。カトリック教会は、「教会の外に救いなし」と唱えた三世紀のキプリアヌス以来、ずっと排外主義をとってきました。そのカトリック教会が第二バチカン公会議で公式にその排外主義から包摂主義に転身したのですから、その宗教史的意義は実に大きなものです。しかし、排外主義も包摂主義も共に、自己を絶対的宗教としていることに変わりはありません。ラーナーもイエズス会修道士としてカトリック教会に忠実な神学者ですから、カトリック教会とそれが体現しているキリスト教を絶対的宗教とするのは必然です。それは先の第一命題に明確に表現されています。
 しかし、この第一命題そのものが問題です。ラーナーは第一命題で、「キリスト教は他と並ぶことができない絶対的宗教である」と宣言し、その説明において人間の救済となるキリストの出来事とその歴史的現臨形態であるキリスト教という宗教を同一視して、キリスト教を絶対化しています。この同一視こそが欧米の「宗教の神学」の基本的な問題点であることは、先にクレーマーのところで述べた通りです(本書223頁「キリスト教信仰とキリスト信仰」の項を参照)。そこで述べたように、千年にわたってキリスト教が唯一の宗教であった欧米のキリスト教世界では、人間の救済のための神の働きであるキリストの出来事と、歴史的制度的な一つの宗教であるキリスト教が同一視されて、言語表現においても両者が区別されなくなっていました。その結果、神の救いの働きとしてのキリストと結ばれて生きる「キリスト信仰」(パウロがいう《ピスティス・クリストゥ》)と、歴史的制度的一宗教であるキリスト教にコミットしてキリスト教の信奉者として生活する「キリスト教信仰」の区別がされなくなり、両者の混同は用語の厳密さが要求される神学においても一般的になっています。ラーナーもこの混同から免れていません。新約聖書の「キリスト信仰」は、キリスト教という宗教の成立以前のものであり、キリスト教成立後の「キリスト教信仰」とは区別されるべきものです。
 この区別と同根の区別として、わたしは「キリスト者」と「キリスト教徒」を区別して用いています。「キリスト者」とは、キリスト信仰に生きる者、聖霊によってキリストに属する者(ローマ八・九後半)、新約聖書に描かれるエクレシアの一員です。それに対して、「キリスト教徒」は、キリスト教会に所属し、洗礼や聖餐などのキリスト教の儀礼にあずかり、信条などの教義を信奉して言い表すなど、キリスト教という宗教の定めに従って生活している人です。キリスト教徒の数は宗教統計に表れ、総人口の何パーセントとかと言われます。それに対して、キリスト者の数は統計には表れません。キリスト教徒がすべてキリスト者とは限らないからです。たしかにキリスト教徒の中にキリスト者がいます。しかし、キリスト者でないキリスト教徒も多くいます。そして、キリスト教の外に、キリスト教徒ではないキリスト者もいるのです。図示すれば、キリスト教徒の範囲を示す大きな円の円周上に、キリスト者の範囲を示す小さな円が重なっており、その小さな円の一部は大きな円の内側にあり、他の一部はその外側にあるという図になります。
 このキリスト教という宗教の内にいるキリスト者は、自分がキリスト者であることを自覚し、かつ外からもキリスト教徒であると認められています。すなわち、キリスト教徒という名前のあるキリスト者です。しかし、キリスト教の外にいるキリスト者は、自分はキリスト者であることを自覚していますが、キリスト教という宗教の儀礼にあずからず、キリスト教会に所属していないので、外からキリスト教徒であるとは認められていません。すなわち、キリスト教徒という名前のないキリスト者です。もし名前が外の世界との関わりを指し示す記号であるならば、キリスト教徒という名をもたない(外の世界からキリスト教徒であると名付けられていない)キリスト者は「無名のキリスト者」ということになります。この意味の「無名のキリスト者」は、自分がキリスト者であることを自覚している点で、ラーナーのいう「無名のキリスト者」とは違います。ラーナーの「無名のキリスト者」は、周囲からキリスト教徒と名付けられておらず、自分がキリスト者であることを自覚していないので、教会は伝道とか説教で自覚に導き、キリスト教という宗教の中に入れて、キリスト教徒という名前のあるキリスト者にしようとします。ラーナーの「無名のキリスト者」という思想は、教会の伝道活動がキリスト教への改宗運動であることを指し示す一つの新しい形態です。しかしラーナーの「無名のキリスト者」は、キリスト教徒でないキリスト者がありうることを認めた点で画期的です。
 ラーナーの「無名のキリスト者」の思想は、諸宗教間の対話を可能にする基盤にはなりえません。たしかにラーナーの思想は、これまで排外主義に立ち、異教との対話を拒んできたカトリック教会を、対話を推奨する包摂主義に変身させました。しかし、包摂主義もキリスト教の絶対性に立つ以上、他の宗教との真の対話に入ることはできません。真の対話は、完全に対等の立場にある者の間で成立するものです。一方が自分を絶対とする以上、対話は相手を説得するためのものとなり、対話ではなく説得とか伝道になります。たとえば、キリスト者が仏教徒と対話するとき、相手に「あなたは仏教徒ですが、実は無名のキリスト者なのです。わたしは、あなたがキリスト者であることの自覚にお導きしましょう」というならば、対等の立場の対話ではありません。相手も「あなたはキリスト教徒ですが、実は無名の仏教徒なのです。わたしは、あなたを仏教の悟りの境地に導きましょう」ということができます。このような対話は諸宗教間の対話でなく、改宗活動のぶつかり合いにすぎません。真の対話は、それぞれの宗教が自分を相対化した場において初めて成立します。この点については、本書の最後の章で改めて触れます。
 わたしたちキリストにあって生きる者は、自分の存在と生命の根源がキリストであることを自覚し、それを言い表さざるをえません。その意味でキリスト者にとってキリストは絶対です。しかし、そのようなキリス信仰が歴史的社会的制度となったキリスト教という宗教は、それが歴史的な産物である以上、相対的なものとなります。キリスト教徒はキリスト教が他の宗教と並ぶ相対的なものであることを認めなければなりません。たしかに、キリスト教はキリストを指し示す宗教として独一無比の宗教ですが、それが神と人を結ぶ唯一絶対の宗教ではありません。ところが、千年以上にわたって宗教としてはキリスト教しかなかった欧米のキリスト者は、キリスト者であることとキリスト教徒であることが同じになり、キリスト信仰とキリスト教信仰が同一視されるようになり、キリスト信仰の絶対性がキリスト教信仰の絶対性と同一視され、キリストの絶対性がキリスト教の絶対性となります。欧米の神学がこの混同から免れていないことは、これまでの「宗教の神学」で見てきた通りです。トレルチはキリスト教という宗教が歴史的な産物であり、歴史的なものは相対的なものであるとの理解から、「キリスト教の絶対性」について問題を提起しました。しかし、欧米の神学は(ここで見た混同から)キリスト教という歴史的一宗教の相対性を認めることはできず、その絶対性に固執してきました。とくにカトリックはそうしてきました。ラーナーの「無名のキリスト者」の思想もその一例です。わたしたちは欧米の神学の枠に捉らわれることなく、新約聖書の証言するキリスト信仰の場から、歴史的宗教としてのキリスト教を相対化し、それによってキリストの絶対性、およびそのキリストを告知する福音の絶対性を確立しなければなりません。これは、前著『福音の史的展開』の終章「キリストの福音からキリスト教へ」で詳説したところです。ラーナーを読んで、その必要を再確認することになります。