市川喜一著作集 > 第24巻 > 第7講

第四節 『宗教とキリスト教信仰』 ― クレーマーにおける宗教の神学

ヘンドリック・クレーマー

 オランダの神学者ヘンドリック・クレーマー(1887-1965)は、若き日に宣教師としてインドネシアで働き(一九二二〜一九三六年)、その地の宗教、とくにイスラム教に対する理解を深め、母国オランダに帰ってからは改革派の牧師また神学者として活動し、さらに一九三七年からはライデン大学の宗教史および宗教現象学の教授を務め、オランダ宗教学の伝統の担い手として活躍します。この経歴が示すように、クレーマーはキリストの福音と他の諸宗教との関係の問題に思索と実践を集中した神学者であり、実践面ではスイスのボセに創設された世界教会協議会(WCC)付属エキュメニカル・インスティテュート初代所長(一九四八〜一九五五年)を務め、二〇世紀後半のエキュメニカル運動、とくにキリスト教会と他宗教との対話の推進に大きな役割を果たしています。また、思索面では生涯キリストの福音と他宗教の接触に思索を集中し、この問題に関する多くの研究書を出しています。本節は彼の主著となる一九五六年の『宗教とキリスト教信仰』(通称)によって、彼の「宗教の神学」の概要を見ることになりますが、その前に、その内容を日本語で語るために、用語についてお断りしておかなければなりません。

「キリスト教信仰」と「キリスト信仰」

 クレーマーの著作には、その題名にも本文にも(英語では)christian という形容詞が頻出します。これはキリスト教の神学書として当然のことであり、クレーマーの著作に限ったことではありません。ここで扱う彼の主著の題名も " Religion and the Christian Faith " です。この書はまだ邦訳はありませんが、この書が引用されたり言及されるときは、いつも『宗教とキリスト教信仰』という形で言及されます。ここで the Christian Faith が「キリスト教信仰」と訳されることが問題です。「キリスト教」というのは、ヒンドゥー教とかイスラム教とか仏教などと並ぶ歴史的な一つの宗教の名称であり、「キリスト教信仰」というのはそのような歴史的制度的宗教の一つであるキリスト教にコミットする生き方を指すことになります。そうするとこの題名は、キリスト教と他の諸宗教との関係を主題とする書になってしまいます。もともと christian という形容詞は「キリストの、キリストに関わる」という意味であって、the Christian Faith というのは「キリストの信仰、キリストにかかわる信仰」という意味であり、歴史的宗教の一つであるキリスト教以前の、キリストとの直接の結びつきを内容とする信仰を指します。パウロが「キリストの信仰」と言っている事態です。わたしは、このキリストと合わせられて生きる生き方を「キリスト信仰」と呼んでいます。クレーマーの the Christian Faith をこの意味で理解して、書名を『宗教とキリスト信仰』と訳すならば、この書名は、わたしのこの著作の書名『福音と宗教』(順序の違いについては後述)と同じになります。というのは、わたしはこの著作において福音および福音がもたらすキリスト信仰と諸宗教の関係を神学的に考究しようとしているからです。 なお、クレーマーのもう一つの主要著作である " Christian Message in a Non-Christian World " も、「非キリスト教世界におけるキリストの使信」とすべきでしょう。 Christian Message はキリスト教の宣教(キリスト教への改宗運動)ではなく、キリストの告知、すなわち福音を指していると理解すべきであって、この書はまさに「非キリスト教世界における福音」を論じている書となります。
 ところが、千年を超える長い歴史において形成された欧米のキリスト教世界では、この両者(キリスト信仰とキリスト教信仰)の区別が見失われており、christiann faith といえばキリスト教信仰を指しています。クレーマー自身においても両者の区別が明瞭でない場合が見られます。この欧米のキリスト教世界の伝統にどっぷりと浸かっている日本の神学界では、この両者を区別せず、無造作に「キリスト教信仰」と理解し、そう訳しています。しかし、われわれの信仰を新約聖書の証言に基づいて形成すべきであるならば、この両者の区別を明確に把握して使用すべきであると考えます。わたしたちはキリスト教と他宗教の関係を考察するのではなく、キリスト教を含む諸宗教と福音(=キリスト信仰)の関係を考察しようとしているからです。
 用語の上でのもう一つの問題は「宗教」と「諸宗教」の区別です。先に第一章の「結び 宗教と諸宗教」で見たように、宗教には単数形の宗教(人間の宗教性そのもの)と複数形の宗教(数多くの歴史的制度的宗教)があり、両者は区別して使わないと議論が混乱します。クレーマーはこの区別をよく理解しており、書名では簡潔さのために Religion(宗教)を両方の意味を含ませて用いていますが(これはわたしのこの著作も同じです)、本文ではいつも religion and religions(宗教および諸宗教)と並べて用いて、その両者とキリスト信仰の関係を論じています。わたしたちは実際面では福音と諸宗教(キリスト教を含む歴史的諸宗教)との関係を神学的に考察するとともに、人類の宗教性あるいは宗教的営みそのものを福音の立場から考察しなければなりません。この両面の考察について、クレーマーの議論を追ってみたいと思います。

宗教学と神学

 クレーマーは「序言 われわれはどこにいるのか」で、現代のキリスト教会はコンスタンティヌス以前の状況、すなわち異教諸宗教の中での少数派の立場に戻っているという認識に立ち、諸宗教とキリスト信仰の関係を論じていきます。「第一部 宗教研究」では、最初に近代宗教学の成果を概観し、その代表的ケースとしてオットーの二つの著作を取り上げ、高く評価すると共に批判を加えています。それはインドのヴェーダーンタ学派の神秘家シャンカラとドイツの神秘主義者エックハルトを比較研究した『東西の神秘主義』と、ヒンドゥー教のなかでもっとも明確に他力救済を唱えるバクティ派とルターの信仰義認論に代表されるプロテスタンティズムの比較研究である『インドの恩寵宗教とキリスト教』です。両書は宗教比較の純化された形であるとし、その書で比較される両者の共通面の大きさと相違点を明確に捉えていることを、クレーマーは高く評価しています。しかし、オットーが直観とか直覚を先験的な宗教カテゴリーとして、それを御子イエス・キリストの直覚にまで及ぼすとき、人間の側については信仰を中心的なカテゴリーとする聖書的宗教を正当に扱えなくなると批判しています。宗教学の立場からすると、宗教とか哲学は存在の全体を把握しようとする人間の努力ですから、人間の側の状況の多様性にもかかわらず、すべての宗教の霊感や思想や象徴や制度に共通なものが見られる、とします。
 クレーマーは近代宗教学が宗教に関する人間の知識と理解を劇的に増し加えた貢献を認めつつ、その客観性とか科学性について重大な疑念を提出し、宗教学者の幻想を批判します。クレーマーは宗教学をマックス・ミュラー以来の伝統に従い " Science of Religion " と呼んでいますが、宗教学者がサイエンスとしていっさいの「前提なしに」宗教を客観的に記述しているとしているのは幻想にすぎないと批判します。宗教を対象とする学問の方法に関して基礎的な考察をしたのは、ヨハヒム・ワッハの『宗教学 ― その学問的基礎づけへの序説』(一九二四年)ですが、その中でワッハは宗教研究を「規範的」(normative)と「記述的」(descriptive)とに分け、前者は特定の信仰や哲学を判断の基準(norm)として前提するもので、神学や宗教哲学がこれに含まれます。後者はそのような基準とか前提なしに、宗教を歴史的・実証的に研究してその実体を記述する態度であり、宗教史、宗教心理学、宗教社会学、宗教現象学などが含まれます。ワッハは両者を分離したのではなく、両者の性格の違いを自覚して宗教に対すべきを説いたのですが、その後の宗教研究は、時代のサイエンス重視の傾向から、両者を分離峻別する方向に進みます。たとえば、わが国の岸本英夫の『宗教学』(一九六一年)は、両者を「主観的」と「客観的」と呼んで峻別し、その後のわが国の宗教研究は後者の方向だけを目指すことになります。
 このような宗教研究における規範的方法と記述的方法の峻別に対して、とくに客観的な記述をしているとする宗教学に対して、クレーマーは疑問と批判を提出します。クレーマー自身、エポケー(価値判断の停止)によって客観性のもっとも高い水準を目指す宗教現象学者ですから、その批判には傾聴すべきものがあります。いかなる人間も自分が置かれている実存的な状況から離れて、完全な部外者として外から対象を観察することはできません。これは人間そのものの状況であり、これからも変わることはありえません。とくに対象が芸術とか宗教のように、創造性を要求する分野においてそうです。このような分野では、観察者は対象の中に入っていなければ、対象を理解することはできません。宗教そのもの、あるいはある一つの宗教を理解するためには、その宗教を解釈しなければなりません。。そして、解釈するということは純粋に知的行為ではありえず、実存的行為なのです。従って、神の啓示を前提としていることを自覚している神学者は、かえって宗教という対象を客観的に解釈し理解する可能性をもっているとします。クレーマーは宗教研究における客観性と主観性の関係、宗教学(Science of religion)と神学の関係の問題に生涯かけて取り組んだ神学者です。それで、クレーマーを「宗教の神学の父」と呼ぶ人もいます。
 クレーマーはこの第一部でトレルチの『キリスト教の絶対性と宗教史』を取り上げて、宗教、とくにキリスト教という宗教を歴史的に説明しようとする宗教史学派の問題を論じ批判し、結論としてこう言っています、「キリスト信仰の立場から言えば、その普遍的妥当性の証明について言える唯一のことは、聖霊だけが唯一の確かな証示者であるということです。換言すれば、キリスト者は次の理由でキリスト教の絶対性は問題にしなくてよいということです。それは、もしキリスト者が歴史的に、哲学的に、また神学的に十分精通しているならば、キリスト教宗教の絶対性の思想にしぶしぶ同意することはないからです。キリスト教宗教は明白に歴史の問題です。キリスト者は、とくに神学者は、キリスト信仰の絶対性、あるいはキリストの啓示の絶対性を語ることができるだけです。しかし、これは歴史の終わりまで一つの証言にとどまるということ、したがってそれは終末論的な宣言であるという制限付きで言えることです」。

なお、この結論の部分を訳すにあたって、クレーマーが Christian faith と言っているところは「キリスト信仰」と訳し、 Christian reli-gion (Christentum)と言っているところ(傍点部分)は「キリスト教宗教」と訳しています。ここはクレーマーが Christian faith と Chris-tian religion (Christentum)を使い分けていることを示す一例です。両者を区別しないで、「キリスト教信仰」と訳すと、この文は意味をなさなくなります(前項参照)。ドイツ語では Christian religion を Christentum と呼ぶことが多いようです。ちなみに、トレルチの著書の題名も "Die Absolutheit des Christentums und die Religionsgeschichte" です。

宗教についての神学

クレーマーは「インド宗教思想への探求」と題する第二部でラダクリシュナンの宗教思想を詳説していますが、ここでは割愛して本章の主題である宗教の神学の問題に限定して稿を進めます。クレーマーは第三部「宗教と諸宗教の問題に取り組む神学的試み」で、最初に「神学的出発点の妥当性」を論じます(第六章)。先に前項で見たように、宗教学の客観性は知識の集積と整理には必要であるが、純粋な客観性は人間の実存的条件からして幻想であり、宗教哲学が追求する宗教の本質も、西のトレルチと東のラダクリシュナンの哲学的宗教観が共に人格主義哲学とかヴェーダ哲学を前提にしていることからも分かるように、無前提の真理性を主張しえないことを示した上で、神学的アプローチの妥当性を論じます。これまで神学的アプローチはキリスト教信仰という前提に立ち、主観性のもっとも強い立場だとされてきました。しかしクレーマーは、これまでに示したように、客観性を標榜するどの立場も「いかなる前提もなしに」とは言えないのであり、かえって自分の前提を明確に自覚する神学は、他の方法と並んで宗教の問題に発言権があることを主張します。キリスト信仰に生きるキリスト者であることとキリスト教の諸教義に拘束されていることは別のことです。キリストによる啓示は宗教とはまったく別のことです。宗教は人間が神をどう考えるかを語り、啓示は神が人間をどう考えるかを語るのです。キリスト者にとって、キリストが宗教性そのもの(the religious a priori)、諸宗教がそれによって測られる基準なのです。非キリスト者はそれを認めないでしょうが、彼らの否認も信仰の行為なのです。オットーは「宗教はそれ自身をもって始まる」という言葉で自身の宗教研究を総括しました。
 このように宗教研究における神学的アプローチの妥当性を明らかにした上で、クレーマーはキリスト者が宗教を扱ってきた歴史を、ユスティノスからアウグスティヌスまでの初期護教家(第七章)、トマス・アクイナス(第八章)、カルヴァン、ルター、ツウィングリの宗教改革者たちから二十世紀の神学者たち(第九章)まで詳しく検討していきます。そして「第十章 バルトとブルンナーにおける宗教と諸宗教」で、同時代の指導的な二人の神学者の宗教論を比較し、その中でバルトの「不信仰としての宗教」論を批判しています。二人は共に危機神学とか弁証法神学と呼ばれる陣営に属する神学者として、「キリストがすべての宗教の危機である」という判断で一致しています。これは宗教の神学、すなわち宗教の神学的判断の基準はイエス・キリストにおける神の啓示だけであるという聖書的視点であり、改革者からバルトやブルンナーにいたる神学的宗教論に一貫している立場です。しかし、ブルンナーが「結合点」とか「一般的啓示」というような概念で人間の宗教性にも一定の価値を認めるのに対して、バルトは激しく「ナイン(否)!」を突きつけて論争が起こります。クレーマーはどちらかに軍配を上げるのではなく、多くの宗教の神学が現れて誠実に議論することが祝福であると述べています。そして、クレーマー自身は神学的にはバルトに深く傾倒しているのですが、バルトの「不信仰としての宗教」という神学的宗教論に対して、その一面性と過剰な強調を批判します。クレーマーはバルトの神学をライオンの咆哮にたとえていますが、それでもその宗教論には不満の念を禁じ得ないとして、その理由を、長い歴史をもつ諸宗教の現実とその意味を究明することなく、あまりにも一面的に「罪人の義認」というプロテスタンティズムの神学の視点から「不信仰としての宗教、人間の自己義認としての宗教」に固執して、それを過剰に強調することによって、ルターが宗教改革の情熱から「奴隷意志論」という無理な定式に陥ったように、バルトの宗教論にも無理があるからではないかとします。これは対立を内に含みつつ統合する弁証法の神学ではなく、神と人間の間のドラマとしての生ける諸宗教の現実とのふれあいを妨げる結果を生じていると批判します。そして、バルト自身がこの宗教論の十年後に書いた神学的人間論(教会教義学第三巻第二分冊)で、神の人間性を説いたことを取り上げて、バルトの宗教論はこれによって修正補完されるべきだとしています。クレーマーの宗教論は、神はたしかに聖書的啓示以外の人間と諸宗教の中で働いておられるし、宗教意識は「神との弁証法的な出会いの場所」であり、人間が否定的かつ積極的な(しばしば歪曲された形で)回答を出す場所である、という弁証法的な宗教論です。
 クレーマーはこの後も第三部で、「ヨーロッパとアメリカにおける研究」(第一一章)でゼーデルブロムを初め多くの神学者や宗教学者の「宗教の神学」の分野での貢献とその批判を続けて、さらに「エルサレム一九二八年からタンバラム一九三八年へ」(第一二章)では自身が関与した世界宣教会議での諸問題を詳しく論じています。そして「第四部 聖書と宗教および諸宗教」で、これらの宗教問題に対する聖書の視点を論じ、「第五部 宗教および諸宗教とキリスト者の対話」で世界の諸宗教との対話、また一般啓示と特殊啓示の問題を扱っています。これらの議論の詳細に立ち入ることは、本書の限界を超えますので、ここでは以上の要約に止めますが、クレーマーのような神学者であると同時に諸宗教の現実に実際に触れてきた宗教学者の発言にはさらに耳を傾けなければならず、その著作は詳しい注をつけた解説的な邦訳の出現が待ち望まれます。

欧米の宗教の神学を的確に要約紹介している古屋安雄『宗教の神学 ― その形成と課題』は、そのクレーマーの項の最期で、「クレーマーによれば宗教の中心問題とは、その基準たるキリストの啓示の光の中で、いかにキリスト教と他の諸宗教の関係を理解し解釈するか、という問題である」と述べています(221頁)。たしかに「キリスト教と他の諸宗教の関係」はわれわれキリスト者にとって宗教問題の一つの大きな問題であることには間違いありませんが、中心問題はそれではなく、「キリストの啓示(福音)とキリスト教を含む諸宗教との関係」の問題ではないかと考えます。クレーマーの中心問題を「キリスト教と他の諸宗教の関係」と見るのは、欧米の長いキリスト教世界の歴史の中で、キリストの啓示(キリストの福音)とキリスト教という歴史的宗教が一つに溶け合って、区別が困難になってしまっているからではないかと思います。クレーマー自身はこの区別をしていることは、本書226頁の注で見たとおりです。