市川喜一著作集 > 第24巻 > 第3講

第三節 近代世界のキリスト教と福音

はじめに ー 時代区分について

本書『福音と宗教』の第四章ではキリスト教という宗教の歴史を扱っていますが、その宗教の中で起こった出来事をすべて語り尽すことは誰にもできませんし、またその出来事を並べて記述するだけでは意味がありません。普通は、古代、中世、近代、現代というような一般的な世界史の大枠の中で、キリスト教という宗教がどのような形をとり、その特質を示すためにどのような出来事が起こったのかを叙述しています。本書『福音と宗教』では、このキリスト教という宗教の歴史を、その宗教を生み出した「キリストの福音」の立場から、この宗教を生み出した福音とその果実であるキリスト教の関係、すなわち福音の視点から見たキリスト教の歴史を概観しています。その関係は複雑で、単純にある出来事で時代を区分して、古代、中世、宗教改革時代、近代、現代というような分け方はできません。本書では、キリストの福音が世界に告げ知らされてから今日に至るまでの時代、すなわち紀元後の時代をごく大まかに二つに分けています。すなわち、キリスト教という宗教が一つの社会の体制となって社会を統合していた時代、すなわち祭政一致の時代のキリスト教と、キリスト教がもはや一つの社会を統合する体制的宗教ではなくなり、別の原理で統合された社会の中で、福音がもたらす「福音共同体」を成立させている時代の二つに分けています。
わたしはこの二つの中の前者を「コンスタンティヌス体制」と呼んでいますが、それはローマ帝国が支配する地中海世界でキリストの福音がキリスト教という宗教を成立させた時、はじめはローマの体制的祭儀宗教に反する宗教として迫害されましたが、コンスタンティヌス帝になって受け入れられ、すぐ後にはキリスト教がローマ帝国の国教となりました。コンスタンティヌス帝自身もそれを望んでいたのでしょうが、祭政一致の古代社会ではそうなるのが当然の成り行きだったのでしょう。キリスト教が帝国の国教として、その帝国に生を受けて、その帝国の民として生きる者はすべてがそのキリスト教宗教に所属するという体制、これをわたしはコンスタンティヌス体制と呼んでいます。この体制は東ローマ帝国では、皇帝がキリスト教会の首長を兼ねるという皇帝教皇主義という形で一千年以上続きますが、東ローマ帝国の滅亡とともに崩壊します。しかし、ギリシア正教やロシア正教、その他の東方諸宗教が一つの国を統合して体制的宗教となるコンスタンティヌス体制は続きます。それに対して、西ローマ帝国は早く滅亡しますが、ローマのキリスト教会がゲルマン諸国を統合してヨーロッパのゲルマン諸国の体制的宗教となり、いわゆる教皇皇帝主義の「キリスト教世界」を形成します。この世界に生まれ、この世界に生きる者は全員生まれた時からカトリック教徒となります。これもコンスタンティヌス体制と言えるでしょう。
このヨーロッパのキリスト教世界に宗教改革が起こります。宗教改革は確かにヨーロッパ諸国に対するローマカトリック教会の支配を打破しました。しかし、キリスト教が統合する社会の単位が帝国や民族国家から州や領邦という小さい単位になっただけで、キリスト教が社会を統合する体制宗教であることには変わりありませんでした。すなわち、コンスタンティヌス体制は続いていました。宗教改革は、キリスト教という宗教がその内に保持していた福音が、福音がもつ生命力によってその容器であるキリスト教を、内側から変革しようとする運動でした。その動きはルター以前から東方にも西方にもありました。しかし、体制的キリスト教は、自己のキリスト理解を正統とし、それと異なるキリスト理解を異端として排斥し、その体制宗教を支える権力によって迫害してきました。この構造がついにルターやツウィングリ、さらにカルヴァンらによって打ち破られました。しかし、これら改革者たちによる宗教改革はローマカトリック教会の支配体制を打破することになりましたが、社会の体制宗教としてのキリスト教の支配を覆すことはありませんでした。その改革の中から、さらに改革を推し進めて、キリスト信仰を社会体制としてのキリスト教から解放して、それとは別に福音が形成する福音共同体を立てあげようとする動きが出てきます。この動きは、カトリック教会からはもとより、なおコンスタンティヌス体制の中にある改革された諸教会からも、あまりにも急進的だとされ、異端として排除されることになります。体制化したキリスト教は自己の宗教を正統として、それに少しでも異なる意見や動きを異端として、それを排斥し迫害します。宗教改革の徹底を追求した再洗礼派やピューリタンは迫害されることになります。
宗教改革はなお途上にあります。宗教改革はコンスタンティヌス体制をコンスタンティヌス以後の新しい体制に変えたのではなく、新しい時代の端緒となったのです。コンスタンティヌス以後の体制に入るための幕を切って落としたのです。宗教改革によって世界は新しい時代に入っていきます。その新しい時代は、一つの宗教がある社会の体制となることがない社会、社会が特定の宗教の支配から解放されて、別の原理で統合され形成される時代です。その別の原理とは何か、それを模索する時代が始まります。もし社会を形成する原理が権力と呼ばれる政治的な力であるとすれば、この時代は政治と宗教の分離を要請します。政教分離の原則の上に人間社会を統合する原理を模索することになります。宗教改革が幕を切って落として始まった新しい時代を近代と呼ぶならば、近代世界において社会を統合する原理は何か、この探求が始まります。

T 啓蒙思想の進展とキリスト教

一七世紀から一八世紀のヨーロッパにおける啓蒙思想

前節で見たように、一六世紀から一七世紀にかけてヨーロッパは宗教改革の時代を迎えていました。その宗教改革を経験したヨーロッパ世界に啓蒙思想が生まれ、その啓蒙思想によって社会を変革していこうとする啓蒙主義運動が始まります。「啓蒙」とは、ヨーロッパ諸語ではいずれも「光によって明るくする」という意味の語(英語では Enlightenment ) であり、日本語では蒙(無知の暗闇)を啓く(ひらく)という意味の「啓蒙」が用いられています。この啓蒙思想において光とされるのは人間の理性の光であって、その光によって克服されるべき暗闇(蒙)とは、前時代の因習、偏見、盲信など、無知からくる暗闇です。総じて啓蒙主義というのは人間に本来備わっている理性を尊重して、各人が理性に対する全面的な信頼に立って自立し(理性による自立)、人間の問題の一切を理性によって判断し、解決しようとします。したがって人間の経験を尊重、自然科学や自然権といった自然的なものの重視になります。宗教においては、啓示宗教の権威、とくに既成の教会が押し付ける教義の権威に対抗して、自然宗教とか理性宗教に向かうことになります。
このようにしてヨーロッパに起こった啓蒙思想ないし啓蒙主義は、宗教改革と文芸復興期における人文主義の申し子であると考えられます。宗教改革は、既成の教会が上から押し付ける教義は人間の内にある霊的体験によって変更できるものであり、その権威は絶対的なものでないことを、実際上の出来事で示しました。そしてこの宗教改革とほぼ同じ時期に手を携えて起こった人文主義は、キリスト教以前の文学や哲学といった古典思想の探求から、人間の内にある理性が人間の問題を解決する基盤であることを教えました。人文主義と訳されている「フマニスムス」は、人本主義、人間主義とも訳すことができます。一六世紀では、ルターとエラスムスの関係に見られるように、この両者は協力と反発の両面を示していました。しかし一七世紀後半から一八世紀にかけてはこの両者が合流して啓蒙思想を生み出し、新しく勃興した市民階級を担い手として、進展したのではないかと考えられます。
この時期における啓蒙思想の進展においては、近代科学の発展と近代哲学の興隆が、啓蒙主義運動の基礎を提供しています。古代と中世を通じて支配的であったプトレマイオスの天動説は、一六世紀初頭のポーランドの天文学者コペルニクスの地動説によって問題視されるようになります。当初は彼の地動説はカトリックからは教義に反するとされ、ルターらもこれを否定しています。しかし、イタリアの天文学者ガリレオやドイツのケプラーの実験やイギリスのニュートンによる万有引力の法則の確立によって、地動説は実証されます。彼ら自身はキリスト信仰に生きる敬虔なキリスト者でした(ニュートンは聖書注解も書いています)が、このような科学的結果は人間理性への確信を強め、やがてキリスト教宗教を批判する武器となります。人間の思索の基礎となり全体を統合する哲学の分野でも、啓示に基づくと称する神学的思考に対して、理性の名により控えめに、時には公然と批判しながら、新しい近代的哲学が発展します。フランスのデカルト、オランダのスピノザ、ドイツのライプニッツ、イギリスのホッブス、ロック、ヒュームらが哲学の諸分野で大きな貢献をして、近代哲学を進展させます。このような科学や哲学を基礎として、ヨーロッパの啓蒙思想は近代ヨーロッパの思想形成の基礎となり、近代のキリスト教の形を形成していきます。
啓蒙思想と福音との関係は、この項の最後に「結び」として述べることにして、その前にヨーロッパのキリスト教が啓蒙思想の進展の中でどのような形をとったかを、ごく簡単に見ておきたいと思います。一口に啓蒙主義といっても、その現れ方は国や教派によって違いがあり、その進展の中でキリスト教がとった形にも様々な形があり、それぞれの国の状況に即して見ていかねばなりません。最初に欧米のプロテスタント諸国、次にカトリック諸国と東方キリスト教を見ることにします。

イギリスにおける理神論と福音主義の復興

啓蒙思想が宗教の領域で最初に、そして典型的に現れたのは、イギリスに起こった理神論でしょう。理神論とは、神は天地万物を創造したのであるが、その後は自然に内在する合理的な法とか法則に基づいて統治するのであるという神信仰を指します。宗教学でいう「暇な神」の一変形でしょうか。体制となっているキリスト教を理性と調停させようとするこの理神論(自然宗教とも呼ばれます)は、ハーバート、シャフツベリー、ティンダルらによって唱えられ、啓蒙思想の宗教哲学として一八世紀初頭に流行しますが、国教会側の有力な神学者たちの反論により、さらに一八世紀半ばに起こったジョン・ウェスレーらの福音主義的な信仰復興運動の活動(前述)によって、イギリスの宗教的主流から追われることになります。しかし、このような理神論的潮流はフランスの啓蒙思想に大きな影響を与えることになります(後述)。
ウェスレーが始めた福音主義的な信仰復興運動は、メソジスト運動と呼ばれますが、彼が亡くなった一七九一年にはイギリスに七万人、アメリカに六万人ほどの会員を擁する大きな運動体となっていました。 彼のなき後も、弟のチャールズや同志のホィットフィールドらの働きによって、メソジスト教会は拡大します。そして、ついに一七九五年には、ジョンの志に反して国教会から分離して「メソジスト教会」として独立します。なお一八世紀後半のイギリスには産業革命が起こって様々な社会問題が起こり、国教会側にも日曜学校活動など社会活動が盛んになりますが、メソジスト派からも「牢獄改革の父」と呼ばれる人道主義者ジョン・ハワードが出て、社会活動が進みます。さらに一世紀ほど後になりますが、このメソジスト派牧師のウイリアム・ブースが産業革命後のロンドンの貧民街で熱烈な伝道活動を始め、「救世軍」と呼ばれる軍隊を模した組織で社会活動を開始しています。このような現実の社会を改革して一層良いものにしようとするキリスト教における社会活動は、キリスト信仰における福音の愛の理念と重なって、啓蒙思想の人間尊重の理念によって、体制的・形式的キリスト教を改革する力となっていきます。
この時期の福音主義の信仰復興の重要な果実として、外国伝道の開始があります。カトリックはすでに宗教改革の時期からイエズス会を先兵として外国伝道を行っていました(前述)。プロテスタント諸教会もようやく一七世紀後半から海外に目を向けるようになり、一六四九年に「ニューイングランド福音宣教協会」、一六九八年に「キリスト教知識普及協会」、一七〇一年に「海外福音宣教会」などが設立されて、海外伝道活動が始まります。一八世紀後半にはバプテスト派のウイリアム・ケアリが一七九二年に「異教徒への福音宣教バプテスト会」を設立、彼はインドにも伝道し、「近世海外伝道の父」と称せられ、その活動は各派の外国伝道のモデルとなります。一八世紀の終わり頃には多くの外国伝道の宣教会が組織されて活動するようになります。こうして福音は、それを内に保持するキリスト教会を内側から改革しながら、外に向かってまだ福音に接していない海外の人々に宣べ伝える働きを進めていきます。

アメリカのプロテスタント諸教会

中南米の諸地域にはイエズス会を中心にスペインとポルトガルの両カトリック教会が伝道し、土着のインディオをカトリック化して、カトリックのラテン・アメリカ世界を形成していました。それに対して北米の新大陸には、おもにプロテスタントのヨーロッパ諸国から来た多様な移民が入って来て、多様な植民地を形成していました。その中心はイギリスからニューイングランドに入植したピューリタンたちでした。ヴァージニアにはイギリス国教会が移植されてイングランド教会が建てられていましたが、ロンドンの主教管轄下にあって実質的な統制を欠き、植民地全体の体制教会とはなりえませんでした。むしろピューリタン各派の中で会衆派が勢力を伸ばしましたが、多様な教派が建設した植民地の中では体制宗教とはなりませんでした。オランダ人の移民によって建設されたニュー・アムステルダム植民地でも、オランダ改革派教会が設立されましたが、様々な教派が入ってきて体制宗教とはなりえず、イングランドの支配下に入り、名もニュー・ヨークと改められます。ペンシルヴァニアにはクエーカーがフィラデルフィアを建設、ロード・アイランドにはロジャー・ウイリアムズがプロヴィデンスを建設、それぞれ宗教の自由を標榜して、様々な教派の人々を集めていました。
先に見たように、一八世紀の中頃からイギリスではウェスレーによる福音主義の信仰復興運動が起こっていましたが、アメリカ植民地のプロテスタント諸教会の中にもこれと呼応して強力な信仰復興運動が起こり、この大覚醒運動がアメリカのプロテスタント諸教会の結束を固めてその教勢を伸長し、アメリカ独立運動の大きな原動力となって、一八世紀後半にはアメリカ合衆国という独立国家を誕生させました(一七七六年)。この新しい国家が一七七八年に憲法を制定して、国教の存在を否定、世界史で初めて宗教の自由、すなわち政教分離を国是とする国家を成立させます。これは千年以上続いてきたコンスタンティヌス体制を否定して、新しい時代を切り開く革命、「アメリカ革命」と呼べる革命でした。独立後のアメリカ合衆国は、信仰の自由を求めて新大陸に移民してきた改革的諸派には安住の地となりますが、国教であることを体質とするイングランド教会には大きな課題を突きつけることになります。イングランド教会は一七八五年にフィラデルフィアで総会を開き、「プロテスタント主教制教会」を発足させます。これは主教制を維持するプロテスタント教会(アメリカ聖公会)となり、その後のアメリカ社会で主流となるワスプ(WASP=白人・アングロ・サクソン・プロテスタント)の中で重要な地位を占めることになります。ヨーロッパの多くの国で国教的な地位を占めていたカトリック教徒も、この新興の豊かなアメリカに移民してくるようになり、アメリカ布教区に司教が任命され(一七八九年)、その司教座も増えてカトリックも一つの勢力となって、ついにはアイランド移民のカトリックから大統領を出すまでになりますが、これは次の世紀以降の話題になります。
 カナダにはすでに一七世紀のはじめにフランス人のカトリック宣教師によって、セント・ローレンス川のほとりで開拓伝道が始まり、ケベック市の基礎が置かれています。その後はイエズス会による先住民伝道も進められていました。しかしイギリスの勢力が次第に強くなり、一七五四年にイギリスとフランスの間に植民地戦争が起こります。この戦争の結果、カナダ全域がイギリスの支配地域になりますが、信仰の面ではカトリック教徒に対して「ケベック寛容令」(一七七四年)でカトリック信仰の自由が認められます。

ドイツの敬虔主義と啓蒙思想

ドイツでは啓蒙思想に先立って敬虔主義が起こり、その敬虔主義がドイツ啓蒙思想の土壌となってその進展を促します。敬虔主義とは広く宗教の教条化や形式化に反対して、宗教において個人の内面や生活の中での信仰を重視する傾向とか主張ですが、これは宗教改革運動の中でも、再洗礼派やピューリタニズムの中にも見られました。ドイツではルター教会がプロテスタント領邦では国教的な地位を占め、どうしても教条主義や形式主義に陥る傾向を示すようになります。そのルター教会の傾向を批判し、信仰の内面化と生活における敬虔を強調する改革運動が起こります。このルター派敬虔主義は、中世末期の神秘主義の底流や、再洗礼派内の兄弟団の敬虔主義、イギリスのピューリタニズム、オランダのカルヴィニズムなどの影響を受けているものとみられます。この敬虔主義を代表する人物の働きを見ておきましょう。
P・J・シュペーナー(一六三五〜一七〇五年)はルター派の出身ですが、ストラスブール大学で学んだ後、バーゼルとジュネーブで学び、カルヴァン主義にも関心が深かったようです。彼はルター教会の牧師としての活動の中で、「敬虔グループ」と名付けた集会を自宅で開き、キリスト教は知識ではなく実践の中にあることを強調、『敬虔なる願望』を著し、聖書研究、万人祭司の実現を力説します。彼は一六九一年にブランデンブルグ選帝侯フリードリヒ三世によってベルリンに招かれ、そこで没するまで活動し、一七世紀末から一八世紀初頭にかけて大きな影響力を発揮します。彼はドイツ敬虔主義の創設者と見なされています。この選帝侯が創設したハレ大学の神学部が敬虔主義を受け入れたことは、その後の敬虔主義の進展に大きな意味をもつことになります。
A・H・フランケ(一六六三〜一七二七年)は、エルフルトとキールの大学で神学を修め、ライプツィッヒ大学で講師をしている時に、シュペーナーの教えを聞いて回心に導かれます。その後エルフルトの教会で奉仕しますが、正統主義者の圧迫を受けて追放されます。しかしシュペーナーの斡旋でハレ大学の教授と近くの教会の牧師に就任、ハレを中心に活動します。彼は温和なシュペーナーとは対照的に精力的で、時には攻撃的な性格で、とくに組織的な才能の持ち主で、学問的な活動と牧会的な働きの他に、敬虔主義に基づく様々な教育施設を組織します。それは貧民学校、孤児院、師範学校、ラテン語学校などで、「フランケの教育施設」と呼ばれるようになります。彼は同時に印刷と出版にも携わり、聖書協会を設立、聖書の普及に力を注ぎます。彼はまだプロテスタントが海外伝道に目覚めることの少なかった時代に、福音の世界的拡大に情熱を注ぎ、デンマーク王の懇請に応じて、デンマークの東インド植民地の現地人への伝道に協力、「デンマーク・ハレ・ミッション」を設立(一七〇六年)、ハレ大学と関連機関から多くの宣教師を送り出します。こうしてアジアにドイツ人のプロテスタント宣教師が現れることになります。
N・L・ツィンツェンドルフ伯爵(一七〇〇〜一七六〇年)は、不幸な境遇で祖母に育てられるのですが、祖母はシュペーナーの敬虔主義の信仰の人であり、彼はフランケの教育施設で教育を受けることになります。成人して二〇歳代の初めに生地のドレスデンで公職につきますが、彼は常に周囲の人々に宗教的敬虔を広めることを努めていました。そのころ彼はモラビア派の人々に出会い、その信仰に共感、迫害されて苦難の中にさすらう彼らに、所領地の一部に彼らの村を作ることを許可します(一七二二年)。彼らはチェコの改革者フスの伝統を受け継ぐチェコ兄弟団の信仰に生きる人たちですが、三十年戦争の結果、迫害されてザクセン地方に移住してきた人たちでした。彼らは自分たちの村を「ヘルンフート」(主の保護)と名付けたので、彼らモラビア兄弟団は「ヘルンフート兄弟団」と呼ばれるようになります。やがてツィンツェンドルフ自身がその兄弟団の保護者、信仰の指導者となって、独自の礼拝と職制を有する教会を形成します。その神学はルター派神学を基調としていて、ツィンツェンドルフ自身はこれをあくまでルター教会内の一グループと考えていましたが、その特異な生活と主張から分離主義者と見られ、ついに平和を乱す者としてザクセン政府によって追放処分を受けます(一七三六年)。その追放の期間、彼はヨーロッパやアメリカで精力的な伝道活動を行います。またデンマーク宮廷と親しい関係から西インド諸島にも伝道に行っています。先に見たように、ウェスレーがモラビア兄弟団の集会で回心に導かれ、ツィンツェンドルフとの親交からあのイギリスの福音主義信仰復興が起こったことは、彼の追放時期の働きの影響の大きさを示しています。ツィンツェンドルフは一七四九年に帰国を許され、彼の兄弟団は「アウグスブルグ信仰告白」を受け入れて、ザクセン領邦教会の一部となります。
ここにあげた三人の代表的人物に見られるように、ドイツのルター教会に起こった敬虔主義は、信仰の内面化と実践化をもたらし、体制宗教となり硬化して教条主義に陥る危険のドイツの福音主義教会(ルター教会)に、それ以後の時代にも影響力を残し、内側から改革の力を与え続けます。敬虔主義はドイツのピューリタンとも呼ばれ、時には実践的な現れを重視するあまり、禁欲主義や律法主義に陥る誤りもありましたが、教条(ドグマ)への無関心、宗教的個人主義、そのスピリチュアリズムなど、ドイツの霊性や精神性を深化し、啓蒙主義への土壌となると共に、一方ではシュライエルマッハーの近代神学の道備えもすることになります。
この時期ヨーロッパに起こった啓蒙思想は、ドイツではライプニッツやトマジウスやヴォルフらが代表しています。哲学者ライプニッツは『単子論』(一七七一年)で有名で、単子(モナド)相互の統一の根拠として神の予定調和の働きを語っています。彼自身はルター派ですが、啓蒙主義の立場からカトリックとプロテスタントの統一運動に携わり、学士院の普及に尽力しています。トマジウスは一八世紀初頭にライプツィッヒとハレの大学で法律学の教授を務めますが、ラテン語ではなくドイツ語で講義し、拷問や魔女裁判に強く反対し、合理的精神の普及と宗教的寛容の擁護に努めています。ヴォルフは、ライプニッツの知遇を得てハレ大学で自然科学と哲学の教授を歴任しますが、敬虔主義の聖地ハレでは彼の合理主義は嫌われ、ハレから追放されるに至ります。しかし啓蒙思想に好意的であったフリードリヒ二世に呼び戻されてハレ大学に復帰します(一七四〇年)。その頃から敬虔主義に代わってヴォルフの思想が支配的になり、ヴォルフは合理主義に基づき知識の全分野を包括する体系を目指します。その宗教哲学は自然神学に基づき、宗教にとって重要なことは超自然的啓示による救済ではなく人類の進歩であるとします。このヴォルフとその学派は、一八世紀のドイツの啓蒙思想をリードすることになります。
この一八世紀はキリスト教の方では聖書の本文研究と歴史研究が進んだ時代です。新約聖書ではベンゲルの『新約聖書の指針』(広くグノーモンと呼ばれている注解書)、旧約聖書では資料説の発展に貢献して「旧約聖書批評学の父」と呼ばれるアイヒホルンが活躍しています。しかし思想界や哲学の世界では、理性を重視する啓蒙思想が啓示に立つキリスト教を、とくにその体制宗教としての弊害を批判する傾向は避けられません。それで理性に立ちながら、啓蒙主義の批判攻撃からキリスト教を擁護するため、または啓蒙思想とキリスト教を統合するため、理性に立ちながら理性によって啓蒙主義の限界を乗り越え克服しようとする動きが思想界に出てきます。カントはそれを成し遂げようとした哲学者ではないかと、わたしは考えます。
イマヌエル・カント(一七二四〜一八〇四年)は、東プロイセンの首都ケーニヒスベルクで生まれ、そこで生涯を過ごします。彼は敬虔主義の中で育ち、ケーニヒスベルク大学で学び、一七七〇年からそこの論理学と形而上学の教授として教えます。カントは当時のドイツの大学で主流であったライプニッツやヴォルフの哲学から学びますが、ニュートンの物理学にも興味を寄せ、イギリスのヒュームの経験論、またフランスのルソーからも影響を受けていると言われています。彼は教会のための哲学とか国家のための哲学ではなく、世界市民的な立場から、すなわち独立の自由な人格をもった人間としての哲学を目指します。彼は次の四つの問いに答えるという形で思索を進めます。
1「私は何を知りうるか」。彼はこの問いに『純粋理性批判』で答えます。人間はその生得の理性によって純粋数学(算数や幾何)と純粋自然科学(おもにニュートン物理学)では確実な学的認識を持ちうるが、霊魂の不滅、人格の自由、神などにかかわる形而上学では、同等の資格をもつ学的認識とはなりえないことを示します。2「私は何をなすべきか」。この問いに対しては『実践理性批判』で、感性的な欲求にとらわれない純粋な義務の命令としての道徳法則の存在を指し示して答えます。上に星空が厳存するように、人間の内には道徳法則が厳存し、それが自由で自律的な人格とその共同体を指し示します。そして自由な人格による行為が意味を有するためには、霊魂の不滅とか神の存在が前提として要請されます。これが 4「私は何を希望してよいか」という問いに答えます。すなわち霊魂の不滅とか神の存在を前提とする宗教は、「実践理性の要請」として必要であり、この要請から出る宗教が人間に希望を与えます。こうしてカントの宗教は、その著作の題名が示すように、『単なる理性の限界内における宗教』となります。このように徹底的に理性に立ちながら、厳しい批判によって理性の限界を認識し、人間の知識、道徳、宗教を基礎づけて、4 の「人間とは何か」という問いに答えたカントの批判哲学は、啓蒙思想の厳密な哲学的反省となり、その後のフィヒテ、シェリング、ヘーゲルらの優れた思想家に引き継がれ、「ドイツ観念論」と呼ばれるドイツ思想の主流を形成します。しかしこれは次項Uで扱うことになります。

フランスのカトリック教会と啓蒙主義

フランスにも宗教改革以後の時代にはユグノーと呼ばれるプロテスタントが活躍していましたが、ユグノーに自由を保証した「ナントの勅令」が一六八五年に廃止されて、フランスは実質的にカトリックの国となっていました(本書九七頁参照)。そのカトリック・フランスにも、カトリック復興の先兵的な働きを担ったイエズス会に反対する「ヤンセン主義」(ジャンセニズム)の宗教運動が起こります。これはオランダのカトリック神学者のヤンセンが創始した信仰運動で、彼はアウグスティヌスへの傾倒から半ペラギウス的なイエズス会の立場に激しく反対しました。彼の死後に出た『アウグスティヌス』(一六四〇年)は、フランスのカトリック教徒の共感と支持を得て、パリ近郊のポール・ロワイヤル女子修道院を中心とする改革運動を展開します。その中で優れた科学者であるブーレーズ・パスカルが回心の体験からこの運動に参加するようになり、霊性豊かな弁証家としてイエズス会に対する最大の論敵となります。彼は一六五七年に匿名で出版した『プロヴァンシャル』(田舎の友へ)という書簡集で、イエズス会の誤りと堕落を激しく攻撃します。彼のキリスト教護教論は死後に『パンセ』として出版されて有名になります。彼の優れた科学上の成果(彼はパスカルの定理と呼ばれる多くの定理を発見しています)と、『パンセ』に代表される深いキリスト教弁証は、啓蒙主義とキリスト教霊性との融合の一つの形を示しています。しかし教皇はイエズス会に動かされて、一七一三年にヤンセン主義を異端と宣言し、この改革運動は国王と教皇の共同の弾圧を受けることになります。ところがイエズス会はその拡大に伴う俗化と、フランス、ポルトガル、スペインなどのカトリック諸国での政治的活動における不評から、カトリック教会内にも反対派が多くなり、啓蒙主義者からは最大の敵とされて論難されます。ついに一七七三年、教皇はこれら国々の統治者からの圧力によって、イエズス会の解散を命じることを余儀なくされます。イエズス会の解散も啓蒙主義進展の流れの中の出来事でしょう。
フランスではルイ十四世が王権の絶対性を主張して、絶対主義的な政策を推し進めていき、彼の支持のもとフランスの聖職者会議は一六八二年に「ガリア四条項」を宣言します。これは、世俗の問題では教皇ではなく国王が権限を有し、フランスの教会への教皇の干渉を制限し、教皇の不可謬説を否定して、教皇に対する公会議の優位を宣言するものです。このようなフランスのカトリック教会の独立と自由の主張を「ガリカニズム」と言いますが、この風潮は近隣のヨーロッパ諸国にも広がります。
一八世紀の啓蒙主義の波はフランスにも押し寄せてきます。フランスにおける啓蒙思想は、カトリックからの弾圧もあって、大勢としてキリスト教を批判して、無神論に向かう過激な方向に進んでいきます。まず一八世紀にはボルテール(一六九四〜一七七八年)が出て、フランスでは「ボルテールの世紀」と呼ばれるほど、文学と思想の面で活躍します。彼は二〇歳代でボルテールの筆名で(本名はアルー)、権力者を風刺して投獄されたり、悲劇『オイディプス』や王への賛歌を書いたりして有名になります。三二歳のとき国外追放されてイギリスに渡り、名誉革命後のイギリスの政治、思想、言論の自由に深い感銘を受けます。一七二九年に帰国してからは、イギリスとの比較にこと寄せてフランスの政治・宗教・哲学を厳しく批判し、『フランス旧政体に投ぜられた最初の爆弾』を書いて発禁処分になったり、ベルサイユの宮廷詩人に迎えられたり、波乱の人生を送ります。その後、ベルリンで啓蒙君主のフリードリヒ二世にしばらく仕えた後、ジュネーブに移住しますが、宗教問題で市当局ともめて、近くのフランス領の寒村に移住します。この間、旧政体や教会に対する激しい批判の戦闘的匿名著作を発表して、ヨーロッパの知識人に大きな影響を及ぼします。彼は狂信や偏見のために死刑判決を受けた人々の再審活動をしたりして、その実践から生まれた『寛容論』や、この時期に著された『哲学辞典』は有名で、彼はフランス啓蒙主義の代表者の一人となります。彼はフランス啓蒙主義の集約と言える百科全書派(後述)の一人でもあります。
もう一人のフランス啓蒙主義の代表者ジャン・ジャック・ルソー(一七一二〜一七七八年)は、時計職人の子としてジュネーブに生まれ、徒弟生活の後ジュネーブを去り、放浪生活を経てフランスのシャンベリーのバラン夫人のもとに身を寄せて世話になります。そこで彼は懸賞論文に当選して有名になり、百科全書派の知識人と交流し、一七五五年には『人間不平等起源論』を出版、文人としての地位を確立します。先のボルテールとこのルソーの場合に見られるように、社交界のサロン文化がフランスの啓蒙主義の進展に格好の場を提供したようです。しかしルソーが社交界に馴染めず田舎にこもって書いた『新エロイーズ』(一七六一年)は世紀のベストセラーになります。一七六二年に出した『社会契約論』と『エミール』の筆禍による逮捕を避けて、彼はスイスに逃れますが、ジュネーブ政府は両書を発禁処分にし、住んだ村でも排斥されてイギリスに渡ります。イギリスでも友人のヒュームと折り合いが悪くなり、帰国して『告白録』(一七七〇年)など自伝的な著作を多く書き、一七七八年に急死します。彼には『告白録』に代表される個人主義的な文学作品と、『社会契約論』に代表される集団主義的な作品がありますが、ルソーは「幸福とは心の平静が活気を保ちながら持続する状態である」として、人間はどうすれば幸福になれるかを生涯追求し、それが彼の作品に結実したと言えるでしょう。社会の中で生きる人間は、社会という集団の中に自己を委ねなければならないが、その社会が統一されていなければ自己の統一もありえないのだから、ルソーは完璧な統一性を持つ社会状態を仮構し、その社会に個人が自己のすべてを譲渡する行為を社会契約と名付けます。それで彼の『社会契約論』は、外界の統一性を通しての幸福の理論化が行われているといえます。ルソーの思想、とくに社会契約論の思想はドイツのカントにも影響を与えたようです。
フランスにおける一八世紀の啓蒙思想は、百科全書派の活動に集約されて集大成されます。『百科全書』はディドロとダランベールを責任編集者として、フランスの啓蒙思想家を執筆者として当時の学問と技術を集約し、近代的な知識と思考によって人々を啓蒙し、権威に対する批判を進めます。この百科全書は一七五一年から一七七二年までかかって刊行されます。この百科全書の刊行に参加したフランス啓蒙思想家の集団が「百科全書派」(アンシクロペディスト)と呼ばれます。その集団は二人の編集者とボルテールやルソーらの代表的な啓蒙思想家だけでなく、当時勃興してきていた市民階級を中心に、聖職者、貴族、官吏、学者、教授、医師、法律家、芸術家、軍人、職人まで、あらゆる方面の知識と実務に熟達した人たちを総動員して成立したものとして、その時代のフランス文化を集約することになります。その基本思想が啓蒙思想ですから、その刊行はフランス文化の啓蒙的な改革を目指すことになりますが、その改革のうねりはついにフランス革命を準備することになります。フランス革命は世界の近代化の歴史において時代を画す大事件となりますので、次項のU(革命の時代)で取り上げることになります。

東方キリスト教圏において

一四五三年に東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が滅亡して以来、東方キリスト教諸国はイスラムのオスマン・トルコの支配下に置かれることになります。イスラム教は同じ一神教宗教のユダヤ教とキリスト教の存続を認めます。オスマンの支配者は、被支配者を宗教によって分けて「ミレット」と呼び、納税(人頭税)の義務と引き換えに広汎な自治を許します。キリスト教徒は「ルム・ミレット」(ローマ人のミレット)と呼ばれ、総主教と彼が議長となる常設の「シノド」(主教会議)で運営され、司法も行政も彼らの手に委ねられ、教会はオスマン支配下でかえって以前よりも大きな行政権限を持つことになりますが、総主教は帝国への重い納税の責任も負うことになります。その時期のコンスタンティノープルの総主教座をはじめ高位聖職者の地位は、支配者の認可が必要であり、それを得るために贈り物をするという形で聖職売買が行われ、ギリシア正教会は疲弊します。神学教育は衰退し、実務にあたるギリシア人聖職者の貧しさと無知が顕著になります。
しかしヨーロッパに宗教改革が起こった一六世紀と一七世紀には、東方のキリスト教も西方のカトリックとプロテスタントの両方から様々な影響を受けるようになります。カトリック教会は合同への働きかけを続け、ローマに聖アタナシウス大学を設立してギリシア人の神学者や聖職者を養成したり、イエズス会士によって直接コンスタンティノープル総主教座に接触しています。プロテスタントは、ローマ教皇の首位性に反対するギリシア正教の総主教に期待を寄せます。ルターには東方を味方にできるという幻想はありませんでしたが、メランヒトンになると「アウグスブルク信仰告白」のギリシア語訳文とルター派の立場を説明する書簡を総主教に送って、理解と協力を求めています。一六世紀末に総主教を務めたエレミヤス二世は、ギリシア正教会の優れた神学者でしたが、その書簡に対してギリシア正教の教義上の立場を説明する丁重な返書を送って、ルター派の立場に一定の理解を示しながらも、最終的には協力を断っています。
しかし一七世紀になると、ほぼ完全にカルヴァン派の立場を受け入れた総主教が現れます。キュロス・ルカリスは当時ベネチアの支配下にあったクレタ島の出身で、パドヴァ大学を卒業、聖職を志してコンスタンティノープルに出て総主教代理の秘書を務めますが、ポーランドの正教徒のローマとの教会合同の問題で活躍、紆余曲折を経て結局コンスタンティノープル総主教に選出されます。彼はその経歴と活動からプロテスタント系の外国人と接することが多く、個人としては聖書と聖霊の導きだけを権威として、イコンや聖者崇拝などを一掃すべきだと考えていたようです。ところが一六二九年にジュネーブで『キュロス・ルカリスの信仰告白』なる文書が公刊されて、その内容がほとんどカルヴァン派のものであったので、正教保守派に衝撃を与えて大問題になります。彼は後継総主教に破門され、一度は復位しますが、一六三八年にスルタンに訴えられ、裏切りのかどで処刑されます。このキュリロスと同世代で、パリ大学に学び、ヨーロッパ各地を遍歴したピョートル・モギラは、当時ポーランド支配下にあったキエフに帰ってきて、一六二七年に洞窟修道院長になります。彼は『正教の信仰告白』を著し、ギリシア正教の教義を体系的にまとめます。もともと東方正教会は体系的な教義を持たず、むしろ神秘主義的体験と解釈を重視してきましたが、ここにきて近代的合理主義が東方にまで及び、東方教会もその教義をスコラ哲学的定義で体系的に表現しようとするようになったといえます。このモギラの「信仰告白」はその後の主教会議で大きな議論となりますが、一七世紀後半には東方キリスト教会で徐々に認められるようになってきます。

この宗教改革と啓蒙主義の時代の東方キリスト教の流れの中で、見過ごせない重要な一面はロシア正教会の拡大と独立の流れでしょう。スラヴ民族のロシアが一〇世紀以来、ギリシア正教のキリスト教を受け入れて、東方キリスト教国の一つとして歩んできた歴史については、本書三八頁以下の「東方キリスト教のスラヴへの拡大」とそれに続く項で、ごく簡単に述べました。そのギリシア正教のスラヴ国家のロシアは、一五世紀のビザンティン帝国の滅亡によって大きく変容します。ここで見たように、東方キリスト教の諸国はイスラムのオスマン帝国の支配下にあって、その宗教の存続は認められますが、ミレット制の下で被支配階級として苦吟します。その中でロシアは、オスマン帝国の支配域の外にあって、独立の歩みを進めることができました。ロシアも一三世紀半ばから一五世紀末までの二百数十年の間、「タタールの軛」と呼ばれるモンゴルの巧みな間接支配下で苦しめられます。しかし、タタール・モンゴルの諸ハーンは宗教的には寛容で、教会や修道院には免税特権を与え伺候も免除したので、多くの修道院が建てられ、修道士の活動も活発に行われていました。そしてモスクワ大公が中心となって戦って、一四八〇年にようやくその軛から脱します。ビザンティン帝国滅亡後は、このモスクワ公国が第一の正教国家となり、第二のローマであったビザンチン帝国を嗣ぐ「第三のローマ」を名乗ります。一五八九年にはギリシア正教会から独立したロシア正教会が成立、モスクワに総主教座が設置されるに至ります。ヨーロッパで宗教改革が進んだ一六世紀に、ロシアではロシア正教会が独立を達成し、独自の道を進みはじめます。
ヨーロッパで啓蒙主義が進展した一七世紀には、ロシアでは政治的混乱の時代の後、一六一三年にロマーノフ王朝が成立、病弱の初代皇帝ミハエル・ロマーノフを父親のフィラレートが総主教となって助け、実質上の統治者として、教会改革を行い、ロシア正教による王国の統合を進めます。一七世紀の半ばに総主教になったニーコンは、ギリシア正教を模範としてさらに改革を進めますが、古いロシア的伝統に固執する反対派を厳しく弾圧したため、「古儀式派」(ラスコーリニキ)の反発と分離を招き、ロシア正教会を弱体化させることになります。一七世紀の末、一六八二年に皇帝となったロマーノフ朝のピョートル一世(大帝)は、ロシアの後進性を克服して近代化するために、西欧の技術と文化を導入、その技術をもって建設したペテルブルグに首都を移し、近代化した陸軍と新設のバルチック艦隊で敵を圧倒、バルト海への進出を果たします。教会行政の面では、モスクワ総主教座を廃し「聖シノッド局」を設置します。これは皇帝に敵対する可能性がある総主教座に代わり、皇帝に忠実な行政官僚による教会支配を目指したのでしょう。一七二五年に死去したピョートルの次の次に一七六二年に即位した女帝エカチェリーナ二世は、ドイツの公家の生まれで、ピョートルの事業の後継者をもって任じ、新都ペテルブルグを西欧風の近代都市として整備発展させます。ボリショイ劇場やエルミタージュ美術館などを作り、文芸出版を奨励、自らも筆をとります。女帝は即位前から啓蒙思想を学び、ボルテールとも文通し、ロシアの啓蒙君主として振る舞い、ロシアの近代化を大きく進めることになります。このロマーノフ王朝の女帝は「エカチェリーナ大帝」と呼ばれています。一八世紀の西欧の啓蒙主義は、このような形でバルト海に面したロシアの新都に及ぶことになります。首都はこのように新しい西欧化と啓蒙思想によって変わっていきましたが、一般の民衆はこれまでのロシア正教による生活のままで、ロシアの後進性の中に取り残されます。このギャップが後にロシアの命運を大きく変えることになります。

結 び

本項(項目T)では一七世紀から一八世紀にかけてヨーロッパに進展した啓蒙思想とキリスト教の関わり方を、各国別に概観し、啓蒙思想がキリスト教に及ぼした影響と変化を検討しました。最初に啓蒙思想は宗教改革と人文主義の両方から生まれたものであることを見ましたが、この両者は共に外から人間を束縛していた体制的「宗教」の権威を、自分の内に直接語りかける根源的な働きによって否定し、それを克服しようとするという点で共通しています。ルターらの宗教改革者たちは、その根源的な働きの内なる語りかけをキリストの福音と自覚して、すっかり体制化し形式化していたカトリック教会をその福音によって否定しました。すなわち、福音によってカトリック教会を内側から否定しました。しかし彼らもキリスト教という宗教が人間社会の統合原理であることは自明のこととして、改革された教会を社会全体の統合原理としていました。宗教改革はローマ・カトリック教会の支配からヨーロッパを解放しましたが、宗教そのものからの解放はできていません。宗教の軛からの解放としての宗教改革はまだ始まったばかりです。それに対して人文主義(フマニスムス)は、キリスト教という宗教を飛び越えて、それ以前のギリシアなどの古典世界の文学や思想に触れることによって人間性を完成することができるとした点で、宗教を克服する近道にいるようです。しかしその古典世界の思想や文化が人間性の弱さと限界を背負っている以上、人文主義(フマニスムス)も内からの人間性の完成への道とはなりえません。わたしは、あまりも急進的だとしてカトリックと改革派教会の両方から迫害された再洗礼派やピューリタンの一部に見られた、個人の内面において聴き取られた福音によるキリスト教宗教そのものの克服の方向(厳密には相対化の方向)に、宗教改革の完成があるのではないかと考えています。
啓蒙思想は人間をもはや引き返すことができない道に導き入れました。誰が人間に生得的に備わっている理性に逆らうことができましょうか。しかし、その理性だけで人間のすべての問題が解決して人間性の完成に到達できないことも、人間自身がよく知っています。人間は太古の昔から人間を超える何かの働きを受けて、その働きに依拠する営み、すなわち宗教的な営みを続けてきました。人間はホモ・レリギオースス、宗教する生き物です。それは今も変わりません。人間は自分の内にあるものだけでは、それがいかに発達した理性であっても、それですべての問題が解決するわけではないことを知っています。自分を超える働きを求め、それにより縋らざるをえません。宗教改革者は、世界と自分を存在させている根源的な働きが自分の内面で恩恵の言葉を語りかけているのを聴きました。彼らは福音を聴きました。その福音によって、カトリック教会の外からの支配を打ち破りました。福音はヨーロッパのキリスト教世界において維持されました。この項で見たように、宗教改革と啓蒙主義は、コンスタンティヌス体制を打破して政教分離の原則を歴史にもたらしました。以下の箇所(項目U)で、宗教から分離した社会で様々な要因によって変革ないし革命が起こって、社会の姿を変えていきましたが、その中でキリスト教がどのように対応し、どのような形をとるようになったかを見ることになります。

U 変革と革命の時代における欧米のキリスト教

はじめに

一七世紀から一八世紀にかけて欧米のキリスト教世界に進展した啓蒙主義は、フランスにおいては一八世紀末のフランスに革命を引き起こす原動力となります。フランス革命は前近代的な社会体制を変革して近代市民社会を樹立した革命であるので、世界史上「市民革命」の代表的な革命とされています。当時勃興しつつあった市民階級の政治参加の道を開き、ヨーロッパ諸国に波及し、フランス革命の後を受けて始まった一九世紀を変革と革命の色彩で彩ります。そして二〇世紀に入ると、ロシアに共産主義革命が起こり、それは世界各地に波及して社会主義革命の時代を迎えます。この項(U)では、一八世紀末のフランス革命で幕を切って落とされた一九世紀から二〇世紀にかけての欧米のキリスト教世界の形姿を見ていくことになります。

フランス革命

フランス革命は一七八九年七月、パリの民衆が蜂起してバスティーユの牢獄を占拠した時に始まったとされていますが、すでに一七八七年に絶対王政に立つ王権に対する貴族の反抗で口火が切られていました。当時のフランス社会は、聖職者、貴族、平民(第三身分)の身分制と領主制による社会でした。聖職者の上層部は貴族の出身でしたから、免税などの特権を有する貴族と重税を課せられる平民との差別社会でした。ところが一七七四年にルイ一六世が即位した頃から王国の財政が逼迫したので、王は貴族に税金を課そうとします。それに貴族が反発し、また絶対王政によって王に集中していた権力を取り戻そうとして、王権に対する反抗に立ち上がったので、絶対王政は行き詰まります。それで一七八九年に王はやむなく長年開かれていなかった全国三部会(三身分の会議)を開いて財政改革を図りますが、王と貴族が第三身分の議員を武力で抑えようとしていることを察知した民衆が蜂起して、議会を守るためにバスティーユを攻撃、革命の火の手が上がります。
実はこの第三身分の平民の中にも利害の対立がありました。一八世紀にはフランス経済は発展し、富裕な商工業者や大借地経営の農民などの資本主義生産の担い手の市民階級(ブルジョアジー)が勃興し、彼らと農村の小農民や都市の小手工業者や職人の民衆が対立するようになっていました。農民たちはバスティーユに呼応するかのように、領主の館を襲い、貴族や領主の支配を実力で粉砕しようとします。事ここに至って、自由主義的な貴族は議会で第三身分と妥協して、一七八九年の八月に「封建制度を廃棄する」と決議して、身分制と領主制を廃止、国民的統一と市民社会の実現を決議します。続いて議会は「人権および市民権の宣言」を採択し、人間の自由(思想、言論、信教の自由)、権利の平等、所有権の絶対などを宣言して、革命の理念を明らかにします。こうして自由主義的貴族とブルジョアジー右派の保守派が連合して、一七八九年末に妥協的な立憲王政が成立します。
ところが一七九二年に王政を支援する反革命の外国との戦争が始まり、パリに集まった義勇軍は戦争の前に王宮を襲撃、革命を妨げる王政そのものを廃止、立憲王政は崩壊します。内外の反革命勢力に対抗するために、ブルジョアジーは民衆や農民の力を借りて革命を徹底する方向に進みます。前年に新しい憲法によって招集されていた議会は解散、新たに普通選挙によって成立した国民公会が招集されて、九月に共和制(第一共和制)が樹立されます。この共和制国家はブルジョアジー主導の国家でしたが、右派のジロンド党が民衆や農民との同盟を拒否したのに対して、ロベスピエールに代表される左派は民衆や農民と同盟、革命を徹底するために「革命政府」をつくって、反対派を粛清します。一七九三年初頭のルイ一六世の処刑によって対フランス同盟を結成したオーストリアやイギリスの同盟軍との戦争、また国内のインフレや民衆や農民の貧窮などに対処するために、ロベスピエールはさらに恐怖政治を進めます。ついに一七九四年にブルジョアジー右派はテルミドールの反動と呼ばれるクーデタを成功させ、ロベスピエール一派を失脚させ、翌日に処刑します。こうしてブルジョアジーは「持てる者の統治」を貫徹しますが、彼らが作った新憲法とそれに基づく総裁政府は、左翼と右翼の両方からの反撃にさらされ、軍隊の力に頼るほかなく、折しもイタリア遠征の勝利者ナポレオン・ボナパルトに期待を寄せることになります。第二次対仏同盟の結成を知ってエジプト遠征から帰国したナポレオンは、一七九九年にクーデタを断行、国家権力は彼の軍事的独裁に委ねられ、フランス革命は幕を閉じます。

人権宣言

このフランス革命の過程で、革命勃発の年とされる一七八九年に開かれた「憲法制定国民会議」で出された「人および市民の権利の宣言」は、近代世界の特質である人権宣言の基礎的文書として重要です。この人権宣言には前史があります。すでに一二一五年にイギリスで「マグナ・カルタ」が出されています。しかしこの一三世紀のマグナ・カルタ(大憲章)は、当時の国王ジョンの専横に対して貴族たちが突きつけた封建法の確認という意味の文書であって、六三箇条の雑多な内容の文書です。一七世紀になっても「権利請願」(一六二八年)や「権利章典」(一六八九年)が出ていますが、それらは封建領主の要求を国王に認めさせた文書でした。しかし権力の行使を統治される者の権利で制限するこれらの文書や宣言は、人間に生得的な理性や自然状態において持っている諸権利(自然法)を主張する啓蒙思想によって解釈されるようになり、近代の立憲政治の道備えとして尊重されることになります。とくにジョン・ロックの思想が大きな影響を与えたと言われています。
イギリスにおける近代的な立憲政治の確立は一七世紀後半のピューリタン革命と名誉革命以後であって、それを見て体験したボルテールらによって一八世紀のフランスの啓蒙主義が進捗したことは先に見たとおりです。先に見たように、ピューリタン革命の過程で新大陸のアメリカに多くの入植者の共同体が形成されますが、一七七六年に採択された「バージニア権利章典」が世界最初の人権宣言となり、そこでは万人が生れながら自由で独立しており、一定の生得的権利を有し、財産の所有とともに幸福追求の権利を持つことが宣言されています。その後にはペンシルヴァニアなどに相次いで人権宣言を含む憲法が制定されます。そして独立後のアメリカ合衆国憲法にも権利章典が追加されます(一七九一年)。この人権思想に基づくアメリカ革命とも言えるアメリカの独立運動に刺激触発されて、フランス革命が進展したという面もあります。
一八世紀に進展したフランスの啓蒙主義はフランス革命を生み出し、その過程で啓蒙思想の法的表現として「人および市民の権利の宣言」を出すに至ります。フランス革命は市民革命の一つですから、それが「市民の権利」の章典、すなわち新興の市民階級が権力の行使者である国王の権力行使を制約する原則の表現として、立憲王政の基本法となるのですが、国家は人間が国家以前の自然状態で有している諸権利を保全するための手段であるのだから、その人間の自然的諸権利(基本的人権)がまず宣言されなければならないとされ、「人および市民の権利の宣言」と称することになります。その一七条から成る全文は、人間の自然的権利と国家形成の諸原理の両方をあげています。以後、単に「人権宣言」と言えば、このフランス革命時のこの宣言を指すことになります。その後に多くの改革や革命を経て成立した近代国家は、なんらかの形で人権宣言を含む憲法を持つ形で成立することになります。

政教分離の時代

ヨーロッパ諸国や諸地域は長い中世の時代を通してローマ・カトリック教会の管轄下にあり、世俗的な権力者である王とローマ教皇の勢力争いは絶えませんでした。その典型は叙任権闘争です。教会の高位聖職者の任命をめぐって王と教皇がその権利を争った闘争です。宗教改革はカトリック教会の外にプロテスタント教会を成立させ、カトリックとプロテスタントは共に自己が正統な真理であり相手が異端であるとして争ったために、自分の管轄下の王や諸侯を巻き込んだ戦争、宗教戦争が各地に起こり、多くの血が流されます。たとえばオランダ独立戦争(八〇年戦争)、フランスのユグノー戦争、ドイツの三十年戦争などです。宗教的な確信、時には狂信となって人間を苦しめる宗教の支配 ー これは自分の宗教の絶対化から起こる人間の大きな過ちですが ー を克服しようとして、啓蒙主義者は宗教的寛容を説きます。それは宗教の違いを超えて、人間は人間同士の愛を持って受け入れ合って共同体を形成すべきであるというキリスト教の根底にある愛の精神から出ていますが、体制となった宗教からは体制を否定するものとして反発されます。
啓蒙主義は政教分離の主張を内に秘めています。すなわち、人間社会の統合原理を宗教以外に求める方向です。言い換えれば、人類の歴史に古来からの伝統であった祭政一致の原則を乗り越えようとする要請です。人間は太古の昔から宗教によって共同体を形成し、社会を統合してきました。宗教は社会の体制となって社会の統合を果たしてきました。ですから人間の歴史は宗教史であると言われます。宗教改革の時代においては、改革されるカトリックも、改革によって成立したプロテスタントも、キリスト教という宗教が社会の体制であることには変わりありませんでした。両方ともコンスタンティヌス体制の中にありました。この祭政一致の体制を打破して、宗教の外に共同体統合の原理を確立することは至難の事業です。これを成し遂げるには、人類はなお長い苦闘を経なければならない、すなわちなお長い歴史を経なければならないということでしょう。フランス革命は、この啓蒙主義の担い手として勃興した市民階級が、宗教と一体となって支配している旧体制を打破する改革として、「人と市民の権利の宣言」を発しましたが、その実現にはなお多くの苦難の歴史を必要としました。本項で扱う一九世紀と二〇世紀のヨーロッパは、この歴史の一端を語っています。ここでも地域別にその歴史の概要をごく簡単に見ておきましょう。ただし、この時期の各国の社会状況や政治情勢は複雑で多岐にわたりますので、その詳細はその方面の専門書に委ね、ここではほとんどみな省略し、キリスト教や教会史のことも、時代の変化を指し示すごく限られた出来事とその意義について略記するにとどめることになります。

イギリスにおける改革

名誉革命以後のイギリスは、国教的な地位にある国教会を維持しながら、宗教的寛容の精神をもって統治される立憲王政の国です。イギリスの立憲主義は、先にも触れたようにマグナ・カルタ以来の長い伝統をもって維持され、立憲体制のお手本のような国です。イギリスには他の国のような成文の憲法はなく、具体的な歴史の中で支配される側が支配者である国王に統治の原則を受け入れさせて形成した法制や宣言の伝統があり、それが不文憲法としてイギリスの立憲体制を支えてきました。その中で国教会は様々な特権を与えられていたので、信仰的な弛緩や堕落は避けられません。それで国教会内部に様々な改革運動が起こります。福音主義的な霊的覚醒は、ウエスレーの場合に見られるように、国教会から離脱する方向に向かいます。
しかし国教会内にとどまって改革を目指し、カトリック的な制度や儀式よりも個人の回心や聖化を重視し伝道に熱心な人たちもいました。彼らは「低教会派」とか「福音派」と呼ばれました。それに対して「高教会派」は教会の権威や歴史的な主教制とサクラメントを重んじた一派です。その中間に「広教会派」と呼ばれる傾向もありました。広教会派は教会の特権や個人の自由の制限に反対し、儀式の解釈にも自由を求めました。教会の枠を超えた思想家で詩人でもあるコールリッジやワーズワースが、この派の精神を代表する人物として有名です。一方、高教会派からは「オックスフォード運動」が生まれました。これはオックスフォード大学関係の聖職者によって行われた国教会の再建運動で、国教会の主教制が使徒伝承に立つこと、国教会の祈祷書を信仰の基準とすべきことを主張しました。この運動はキーブルのオックスフォードにおける「国民的背教」という説教(一八三三年)をきっかけとして始まり、ニューマンらの協力で進展しましたが、一八四五年のニューマンのカトリック改宗で分裂します。
一九世紀の後半イギリスでは産業革命が進み、生産活動の機械化と動力化、工場制が普及して工業都市が成立します。産業資本家が富を蓄積し、工場労働者階級の貧窮が都市のスラム化を招き、深刻な社会問題を引き起こします。その中で、一九世紀に大きく勢力を伸ばしてきたメソジスト派、組合派、バプテスト派などの非国教派が活躍します。その代表例がメソジスト派の牧師ウイリアム・ブースが始めた「救世軍」運動です。他にもピューリタン的な兄弟団の「プリマス・ブレズレン」が活動します。スコットランドでは、一九世紀の半ばにチャーマズの指導で福音主義的な霊的覚醒運動が起こり、聖職者の叙任をめぐり国教会との「大分裂」が起こっています。
この一九世紀の後半はビクトリア時代として「大英帝国」の黄金時代となります。ビクトリア女王の在位期間(一八三七〜一九〇一年)は、政治的には七つの海を制覇して世界の各地に植民地を作り、産業革命によって飛躍的に増大した生産力を背景に世界経済の覇者となります。産業革命の担い手の中流市民階級は、ジェントルマンを理想像とする上層の貴族とは異なり、ピューリタン的な自助の精神をもって経済の発展に寄与し、イギリスの黄金時代を築きます。しかしこの時代には、伝統的なキリスト教世界観を覆すようなダーウィンの『種の起源』(一八五九年)が出ています。このビクトリア時代が終わって二〇世紀に入ると、イギリスは二回の世界大戦に巻き込まれ、とくに第二次世界大戦では大きな被害を受け、都市や教会が破壊されます。しかしテンプルなどの優れた主教たちの指導により国教会は揺らぐことなく、二〇世紀にはイギリス国教会は世界の各地に進出して勢力を拡大しています。これは一九世紀における国教会からの宣教師たちが国外で活躍し、またイギリス人の多くが移民として定住したからであると見られます。その結果、北アメリカをはじめ多くの国に司教区が置かれ、定期的に司教たちの会議(ランベス会議)が開かれ、英国聖公会の勢力が拡張します。大分裂を経験したスコットランド教会も、二〇世紀には統合されてスコットランド国教会に合流します。

アメリカ合衆国のプロテスタンティズム

アメリカ合衆国は独立以来、その憲法によって国教は否定され、多くの教派教会が勢力を競っていました。一九世紀末には教派の数は一六〇に達していたと言われています。しかし独立戦争以後の時代には信仰は停滞し、一九世紀の初頭では大部分の市民は世俗的な生活に埋没している状態でした。そこに「第二次大覚醒」と呼ばれる信仰復興運動が来ます。この運動は一八世紀末に始まり、会衆派の牧師でイェール大学長のドワイト(あのジョナサン・エドワードの孫)によって大きく進められ、一九世紀が始まる一八〇〇年頃には最高潮を迎えます。運動は中部から南部に及び、バプテスト派やメソジスト派、長老派にも大きな影響を与えます。このような信仰復興運動は、その後も続けられ、一九世紀の後半にはフィニーとかムーディーらに導かれた大復興運動(リバイバル)が起こります。このような覚醒運動の中でアメリカの海外伝道の機運が高まり、「アメリカン・ボード」をはじめ多くの宣教団体が結成されて、宣教師が世界の各国に送り出され、日本にも来ることになります。他にも多くのボランティア団体が結成されて活動します。たとえば聖書協会、教育協会、禁酒推進協会、奴隷廃止協会、平和協会などです。
一九世紀の教派の中で、メソジスト教会やバプテスト教会は国家的発展の波に乗って巨大化しますが、会衆派、長老派、ルター派、さらにクエーカー派までもの各派は、対立と分裂に苦しみます。しかし最大の分裂は南北戦争によって引き起こされます。商工業中心の北部と奴隷制綿花栽培を中心とする南部との間に、奴隷問題を焦点とする対立が深まり、南部一一州が連邦を脱退し、それを阻止しようとする北部との間に戦争が起こります(一八六一〜一八六五年)。この戦争によって各派の中に分裂が起こり、教会はそれぞれが属する北部と南部を支持し、その結果「南部メソジスト」がメソジストから、「南部バプテスト」がバプテスト派から分離独立します。その他一九世紀には、プロテスタント信仰から逸脱しているとされるセクトがアメリカに多く生まれています。たとえばセブンスデー・アドベンティスト、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、クリスチァン・サイエンスなどです。それらの諸派も批判を受けながらも、憲法の信教の自由に保護されて存続し、活動を続けます。
二〇世紀にはプロテスタント諸派は同系列間で合同を進め、とくにメソジスト系とバプテスト系で約半数を占める大きな教派になります。しかし教派の枠を超えて、アメリカのプロテスタンティズムには二つの大きな流れが生じていました。一つは自由主義、近代主義、進歩主義と呼ばれる流れであり、もう一つは根本主義、保守主義、福音主義などと呼ばれる流れです。前者は公共志向的で、社会的責任を重視、「社会的福音」を唱え、進化論や聖書の歴史的批評など科学的歴史的諸学の成果を受け入れ、神学的には近代的・自由主義的・進歩主義的傾向を強めます。それに対して後者は個人志向的であり、個人の信仰と救済を重視し、その中の強硬派である根本主義者(ファンダメンタリスト)は「根本主義五条項」(聖書の逐語霊感無謬説、イエスの神性、処女降誕、代償的贖罪、キリストの肉体的復活と身体的再臨)なる声明を発して近代主義を攻撃します。公立の学校で進化論を教えることを法律で禁止しようとした進化論裁判は、そのような激しい対立の一つの事例です。
この後者の流れの中で、二〇世紀初頭以来ペンテコステ派の活動が活発になり、アメリカのプロテスタントに新風を送り込みます。これはペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれて福音を証しする力を与えられた出来事(使徒言行録二章)を現代に再現しようとする運動です。ペンテコステ派教会は多くがメソジスト教会に起源をもっており、聖霊のバプテスマの体験や個人の聖化、とくに聖霊によって語らせられる異言や聖霊による癒しを重視します。一九六〇年にアメリカで始まったカリスマ刷新運動はカトリックにも広がり、一九八〇年代には二〇〇万のカトリック信者と、約一四〇万のペンテコステ派以外のプロテスタントがこの運動に参加していると言われ、世界の各地に波及して現代キリスト教の新しい波となっています。聖霊によるバプテスマは、水によるバプテスマ(とくに幼児洗礼)によって体制宗教となっているキリスト教宗教を改革して、その内と外に霊の共同体(新約聖書がいうエクレシア)を形成する重要で中心的な神の働きです。ペンテコステ派も内に抱えるファンダメンタリズムの克服などの課題を克服しなければなりません。
アメリカでは信仰復興運動の一環として起こった節酒運動が禁酒運動になり、第一次世界大戦後の一九一九年には酒類の製造販売の全面禁止という「憲法修正一八条」を成立させます。しかしこれがギャング組織を太らせ、国の財政を圧迫したと批判され、一九九三年には廃止され、アメリカプロテスタント史の一挿話となります。第二次世界大戦でドイツ、イタリア、日本のファシズム諸国に勝利した連合国側の一員として参戦したアメリカは、巨大な国力(経済力)とそれを背景とした強大な軍事力で、戦後の世界秩序の中で大きな発言権を持ち、とくに戦後世界で社会主義諸国の主勢力となったソビエト・ロシアの東側陣営と、西側の自由主義陣営の対立、いわゆる東西両陣営の対立(東西の冷戦)になった時代(後述)には、西側陣営の主勢力となってソビエト・ロシアと対峙します。

ドイツにおける新しい潮流

先に見たようにドイツでは宗教改革の過程で起こってきた敬虔主義が耕した土壌に啓蒙主義の種が撒かれて、とくに思想の面で豊かな果実をもたらし、欧米のプロテスタンティズムに貢献しています。生得の理性に立って人間の自立を促し、特定の体制宗教の軛から社会を解放した啓蒙主義は、世俗化の問題と絡んで(後述)、現在も進行中の大きな問題です。この理性を基盤とする啓蒙主義において、理性の限界を批判して理性を本来の位置に置き、キリスト教文化の中に正しく位置付けようとしたのがカントです(前述)。その後を受けて一九世紀のドイツには啓蒙主義の新しい潮流が起こり、欧米のプロテスタント・キリスト教文化に豊かな実りをもたらします。
哲学の面ではカントの後に続くフィヒテ、シェリング、ヘーゲルらに代表されるドイツ観念論がドイツ哲学の主流となり、その後の様々な方向の思想の分野に大きな影響を与えます。観念論(Idealismus)というのは、Idee(idea、理念、理想)が現実を支配するという基本的な考えに立っており、自我を中心に置く近代哲学では、自我に何らかの実在の根拠という性格を見出し、自我を中心として観念性と実在性の統一を図ります。この流れの哲学の大成者として著名なヘーゲルは、人間の歴史を自由の理念の発展史と見て、キリスト教がその発展の最高段階に達していると見ています。このヘーゲルの哲学に対して、自由という理念ではなく経済という下部構造が世界を変革進歩させるという立場からの批判がマルクス主義となり、一方デンマークの哲学者キルケゴールが既存のキリスト教を厳しく批判して逆説的・実存的信仰を力説し、ヘーゲルの合理的で進歩主義的な哲学を正面から批判します。このキルケゴールの思想が二〇世紀には哲学とヨーロッパ思想の大きな潮流となって、実存主義哲学と実存主義文学を生み出します。このマルクス主義と実存主義が二〇世紀の二大潮流となっていきます。
文学ではまずレッシングが一八世紀ドイツの代表的な啓蒙思想家として多くの作品を残しています。彼はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の共存を説く『賢者ナータン』や、諸宗教を人類の道徳的発展の諸段階とみる『人類の教育』などを発表しています。その中で、人類に理性の自立性を与える宗教としてキリスト教を評価しており、啓蒙思想をよく代弁しています。しかし一八世紀には「シュトゥルム・ウント・ドラング」の時代を経て、すでにヘルダー、ゲーテ、シラーらは、啓蒙思想に見られる普遍的理性の合理性に距離を置いて、自我の自由な表現を追求するロマン主義に向かう方向を指し示しています。ロマン主義というのは中世騎士の物語(ロマンス)から来た語で、合理的理想的な表現ではなく、個人の感性と想像力の自由な表現を目指しています。ゲーテの『若きウエルテルの悩み』などはその典型でしょう。ロマン主義は一九世紀の汎ヨーロッパ的な傾向ですが、ドイツ文学と思想も一九世紀にはロマン主義的な傾向を示すようになり、啓蒙主義と対立します。
神学の面では、一九世紀の初期に「近代神学の父」と呼ばれるシュライエルマッハーが活躍し、当時の神学に大きな影響を与えます。彼は改革派牧師の家に生まれていますが、モラビア派の中で育ち、プラトン、スピノザ、カントおよびロマン主義から多くを学びます。彼の『宗教論』(一七九九年)や『キリスト教信仰論』(一八二二年)は有名です。彼によれば、宗教の本質は、理性に根拠を置く哲学や、意志に基盤を置く倫理とは異なり、「絶対依存の感情」であるとしました(拙著『福音と宗教T』二八頁参照)。こうして彼は哲学や道徳とは別に、宗教独自の存在理由を明らかにして、宗教体験を中心に置いて教理とか信条を宗教にとって派生的なものとしました。彼の後の一九世紀のドイツのプロテスタント神学は、バウル、シュトラウス、リッチュル、ハルナックなど様々な傾向の神学を生み出し、二〇世紀になって宗教史学派の誕生に至ります。この宗教史学派については、次章第一節でトレルチを扱う時に触れることになります。この宗教史学派が提起したキリストの福音と人類の宗教史の問題は重要ですが、その問題提起の声は続いて二〇世紀に起こったバルトらの危機神学とか弁証法神学と呼ばれる神学の圧倒的な拡大によってかき消されて、あまり顧みられなくなりました。しかしこの重要な問題は次章の「宗教の神学」で取り上げることになります。なお、二〇世紀の神学界を風靡したバルトらの弁証法神学は、キルケゴールの実存主義哲学に深く影響されている神学ですが、二〇世紀のヨーロッパ思想界に深く行き渡った実存主義については、次章「宗教の神学」の第七節でティリヒの講演を扱いますが、そこでティリヒがしている解説をご覧ください。
政治的にはドイツでは主権的な領邦が分立していて、なかなか国家的な統一ができませんでした。しかし、ようやく一八七一年にプロイセン首相のビスマルクが強力な指導力で対外関係と国内紛争を解決してドイツを統一、初代ドイツ帝国宰相となります。その後、世界の大国を目指すドイツはオーストリアと同盟、それにトルコが加わり、一九一四年にバルカン半島での政治問題を発火点としてイギリス、フランス、ロシアに対して開戦します。この戦争は短期決戦を目指しますが、長期化して国力を総動員して戦う世界大戦となり、日英同盟のよしみで日本も参戦、一九一七年にはアメリカが参戦します。大戦末期にロシアで革命が起こり戦線から離脱しますが、一九一八年にアメリカの経済力の支援を得たイギリスとフランスの連合国が同盟国側に勝利します。パリで開かれた平和会議でドイツは過酷な内容のベルサイユ条約で講和を余儀なくされます。この敗戦で起こったドイツ革命で帝政は崩壊、ワイマール共和国が誕生します。一九一九年に典型的な議会制民主主義のワイマール憲法が公布され、国民主権主義、議院内閣制、国民の基本権の保証など、近代憲法の模範となるような立派な憲法が生まれます。しかし、ベルサイユ体制の重荷に喘ぐドイツ国民に巧みな宣伝で一九三三年に政権の座についたヒトラーは、ワイマール憲法を廃止することなく、授権法などを利用して独裁体制を作り上げていきます。
ヒトラーのナチス独裁政権の下でドイツの教会は分裂し、教会をも自分の野心の中に統合しようとしたヒトラーに迎合した「ドイツ・キリスト者」の教会と、福音の告白に立ってヒトラーの支配を批判、抵抗した「告白教会」に分かれます。告白教会はバルトによって起草されたとされる「ドイツ福音主義教会の現状に対する神学的宣言」(一八三四年のバルメン宣言)によって、宗教改革の神学的告白に基づいて教会と国家の関係のあるべき姿を主張しています。ニーメラーやバルトに率いられた告白教会のヒトラーへの抵抗運動は、「ドイツ教会闘争」として二〇世紀ドイツのプロテスタンティズムの輝かしい歴史となりますが、バルトの国外追放やボンヘッファーの処刑など、多くの苦難を強います。

ユダヤ人問題

ヒトラー政権が多くのユダヤ人をガス室などで虐殺した出来事は「ホロコースト」と呼ばれて、われわれの記憶にも生々しい最近の出来事です。このユダヤ人に対する反感と迫害はヒトラーに始まることではなく、これまでの長いキリスト教の歴史に染み付いた大きな汚点です。その歴史はあまりにも長くて、その全体を要約することもできませんが、ホロコーストにいたるキリスト教世界のユダヤ人への反感や憎悪と迫害の歴史について、ここでごくごく簡単にかい摘んで振り返っておきましょう。
新約聖書にはユダヤ教の指導層(律法学者とファリサイ派)に対する批判(マタイ福音書、とくに二三章)や、「ユダヤ人」に対する反撥(ヨハネ福音書)が見られます。これはイエスを復活された救済者キリストと信じるユダヤ人が、キリストを信じないでキリスト者を迫害した時代(福音書成立の時代)に書いた批判であって、ユダヤ教内部の対立から出ており、ユダヤ人の一部への批判です。その後イエスを信じるエクレシアとユダヤ教会堂がはっきりと分かれ、キリスト教がユダヤ教とは別の宗教として成立した時代に、キリスト教側がユダヤ人全体をキリスト教を否定する民として攻撃することは論理的な誤りであり、イエスもパウロもヨハネもみなユダヤ人であることを忘れ、時代の状況を捨象した聖書の大きな解釈上の間違いです。ところが新約聖書を正典とするキリスト教会は、その文言を永遠の真理として固定したので、ユダヤ人を神であるイエス・キリストを殺した民として「キリスト殺し」の汚名を着せて軽蔑、差別することになります。
東方のビザンティン帝国ではユダヤ教徒は一切の公職から排除されるなどの差別を受けます。西方のローマ教皇はユダヤ教徒保護教書を出して、強制的な改宗を禁じユダヤ人の生命財産の諸権利を保護しています。この保護教書が中世にも繰り返されたことは、実際にはそのような差別と迫害が行われたことを物語っており、十字軍時代の頃からユダヤ人迫害が激しくなります。ユダヤ人はアレクサンドリアを中心に北アフリカやアラビア半島、インドまで広く居住して交易や手工業に従事していましたが、七世紀にイスラムの支配下に入った時、ユダヤ教徒はキリスト教徒と共に「啓典の民」として、人頭税の支払いを条件に存続を許されます。ユダヤ人がどの程度の自由を許されていたかは、地域と時代(支配王朝)によって違いますが、イベリア半島などではユダヤ教徒はキリスト教徒と共にその高い文化的経済的水準から王朝に召し抱えられて、高い地位についた者もいます(たとえば一二世紀末のマイモニデス)。しかし一二世紀から一三世紀にかけて行われた十字軍運動によってヨーロッパのキリスト教社会のユダヤ人の状況も変わり、ラテラノ公会議(一二一五年)ではキリスト教徒に対するユダヤ教の影響を排除するために両者の交流を厳しく禁じたために、キリスト教社会ではユダヤ人は多くの生業を奪われ、行商か金貸しで生きることを余儀なくされます。イベリア半島では長い国土回復戦争の渦中で、また宗教改革の時代までも荒れ狂った狂気の異端裁判で強制改宗させられたユダヤ人の苦難が続きます。
宗教改革と啓蒙主義運動によって西欧に近代市民社会が成立した時、それまでは一律にユダヤ教徒として差別と収奪の対象の身分であったユダヤ教徒を、身分制がなくなった市民社会の中でどう位置づけ、その社会の中に統合するかが大問題となります。アメリカ合衆国は信教の自由を保証しており、それにならってフランスの国民議会も一七九一年にユダヤ教徒にも同等の市民の権利を与えています。こうした流れの中でユダヤ人の間からも近代ヨーロッパ文化に同化しようとするユダヤ教啓蒙運動が開花し、一九世紀には解放されたユダヤ教徒がヨーロッパの政治、経済、学問、文化のあらゆる分野に進出していくようになります。一八世紀のドイツのメンデルスゾーンはこのような同化ユダヤ知識人の第一号として活躍します。彼はレッシングの盟友であり、『賢者ナターン』のモデルとなっています。
一方、東欧のポーランドやロシアにも多くのユダヤ人が居住していました。彼らはスペインでの迫害を逃れたユダヤ人や、カスピ海地域に建国し九世紀にユダヤ教に改宗していた遊牧民のハザル族の人たちで、ドイツ語化したヘブライ語であるイディッシュ語を使い、独自の文化を形成していました。彼らは帝政ロシアの迫害(その中で一九世紀末のポグロムが代表的)を逃れて西欧とアメリカに移住しましたが、彼らは「アシュケナジム」と呼ばれて、すでに西欧社会に同化していた「セファルディム」から蔑視され、差別されました。ところがこの西欧社会において一九世紀末ごろからユダヤ人の規定に変化が起こります。それまではユダヤ人というのはユダヤ教を信奉する人たちという宗教的規定でしたが、宗教的規定を外した市民社会では、アブラハムの子孫であるという血統に基づく人種的規定が用いられるようになり、資本主義社会の矛盾を「ユダヤ人=セム人」という人種に帰そうとする反ユダヤ主義者の「反セム主義」が勢力を持つようになります。この傾向はドイツにおいて強く、それがアーリアの血の純潔をスローガンとするヒトラーのユダヤ人絶滅政策の遠因となります。
このような時代のドイツにマルクスが現れ、ロシア革命をもたらします。カール・マルクスは代々ラビを出してきた由緒ある家柄に一八一八年に生まれたユダヤ人であり、若い時にユダヤ人解放をめぐる議論に触発されて『ユダヤ人問題によせて』を書いていますが、そこではまだ資本主義が進むと同化が進み、古い偏見に基づく反ユダヤ主義も消滅するであろうという楽観的な見方をしており、後にこれは「自動的社会主義」と批判されることになります。ベルリン大学以来ヘーゲル左派の神学者バウアーとの交流もあって思想家を志し、プロレタリアートの解放こそが普遍的人間解放であるという立場に移行していきます。その後新聞の編集者となって社会経済問題を深め、エンゲルスと共に共産主義運動に携わるようになり、一八四八年に「共産党宣言」を出すに至ります。その後も実践運動を続けながら、経済学批判を続け一八六八年に『資本論』第一巻を刊行、一八八三年に病没するまで『資本論』の完成に励みます。マルクスの思想においては、資本主義社会の矛盾が厳しく分析批判されますが、その終局目標にユダヤ教伝統の黙示思想があると感じさせられます。しかし、それは終末における神の支配の完成ではなく、プロレタリアートの独裁による理想社会(共産主義社会)の実現です。このマルキシズムに立つレーニンの活躍によってロシア革命を成功させ、ツァーリズムを打倒して成立したソビエト・ロシアでは、スターリン時代にユダヤ人を民族集団ではなく宗教集団と見なして、宗教批判の立場からユダヤ教を抑圧、ユダヤ系市民を迫害し、革命以来活躍してきたユダヤ系党員らが犠牲となります。こうした状況から現在ではパレスチナのイスラエル国家以外ではアメリカのユダヤ人が圧倒的に多く、世界の大国としてのアメリカでユダヤ人は政治、経済、文化において大きな影響力を発揮しています。
このような時代にユダヤ人の間に「シオニズム」が生まれます。これは自分たちの国を持たず諸国民の間に離散しているユダヤ人自身の国家の建設を目指す運動です。これはポグロムに見られるようにロシアと東欧で激しくなったユダヤ人排撃運動を避けて、ユダヤ人国家の建設を目指す運動で、ヘルツルによって世界的に組織され、一八九七年にスイスで世界シオニスト機構が発足し、古代ヘブライ語の復興などの運動が進められます。第一次世界大戦の列強の利害関係の中で、イギリス外相がシオニズムを利用して自国のために出した宣言である「バルフォア宣言」で、「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立する」ことを認めるに至ります。そして第二次世界大戦のヒトラーのユダヤ人絶滅作戦によるユダヤ人虐殺(ホロコースト)への世界の同情から、シオニズム運動は勢いづき、西欧と東欧のユダヤ人が多数パレスチナに移住し、先住のアラブ系住民と数次の戦い(パレスチナ戦争)を経て、ついに一九四八年に「イスラエル国」の成立を宣言するに至ります。しかしこの国家はユダヤ人だけでなくアラブ系のイスラム教徒も含み、イスラム諸国からの反感によって今もなお紛争の火種となっています。

革命後のフランス

フランス革命の経緯については先に略述しました。その代表的な市民革命は成果を確保するためにナポレオンの軍事力に頼らざるをえず、一七九九年のクーデタによる彼の権力奪取を許し、革命は収束します。権力の座についたナポレオンは、国民のほとんどがカトリックであることを考慮して、ローマ教皇と政教条約(コンコルダート)を結び、革命政府によって没収された教会や修道院の土地財産を返還し、カトリックを国教とします。しかし聖職任命権は国家にあることを認めさせます。こうしてフランスはカトリック教国の一つとしてとどまります。一八〇四年には元老院から推戴され、教会で戴冠されて皇帝となり、フランスは第一帝政期に入ります。彼はその優れた軍事力でヨーロッパの多くの地域を支配して大帝国を立てますが、ロシア遠征に失敗、一八一四年に退位、エルバ島に流されます。ナポレオン後のフランスの政治体制は、一九世紀中に市民蜂起や革命を繰り返し、王政復古、七月王政、第二共和政、第二帝政、第三共和政と目まぐるしく変わり、二〇世紀になってやっと共和制国家として安定します。その間、ブルジョアジーによる資本主義的生産体制は確立し、宗教的にはカトリック教会の支配は揺るぎませんでした。フランスはその安定した基盤の上に、家柄や身分によるエリートに代わって、革命以後は知性によるエリートが活躍し、個性の尊重の原理で作家や芸術家が文化を牽引して、フランスを世界の文化の先進地とします。宗教は文化の影に置かれていますが、パリ大学を中心にカトリック神学を維持推進しています。また、フランスの海外における植民地活動と海外への布教活動については次項Vで触れることになります。
しかしフランスにおけるキリスト教の状況やその他のヨーロッパのカトリック諸国のキリスト教については、次の次の項で「カトリック教会の変容」を述べるところに含ませて見てくださるようにお願いします。ただ一点だけ補足すると、もともとプロテスタント信仰で建国したアメリカ合衆国でカトリック教会の進展が著しく、一九六一年にはカトリックのケネディ大統領を出し、二十世紀末には五五〇〇万を超える信徒を擁し、アメリカの最大教派の一つとなっています。

東方キリスト教とロシア革命

東方正教会というのは同じ教義と典礼を共有する独立の諸教会の総称であり、かってはコンスタンティノープル総主教が全体に対する権威を持っていましたが、ビザンチン帝国滅亡後は名目的なものに過ぎなくなっています。東方では教会は政治の行政区分に従って統括されていたので、スラブ諸国が独立するに従って、各国の教会も独立していきます。その中でスラブの大国ロシアが強大な力を持つようになり、ロシア正教会が第二のローマであったビザンティン帝国を受け継ぐ「第三のローマ」と称して頭角を現してきます(本書T三八〜三九頁を参照)。そのロシア正教が体制宗教として統合するロシアで、一七世紀から一九世紀にわたって政治権力の座にあったのがロマノフ王朝です。ロマノフ家が支配する帝政ロシアでは、ロシア正教が国教であり、ロシア正教会は国家から多くの特権を受け、巨大な富を所有していました。ロシアは一七世紀末のピョートル大帝以降の近代化政策によって西欧の文化を吸収して近代化しますが、それは上層部や制度だけの近代化であって、一般の民衆は静的な典礼主義のロシア正教会に安住して、社会は身分制などの後進性の中に取り残されます。
一九一二年のバルカン戦争後は各国の正教会は独立し、コンスタンティノープル世界総主教の管轄はほとんどイスタンブールの隣接地域だけになっていました。そのような状況の中で、ロシア正教会が名実ともに指導的な役割を担ってきましたが、そのロシアで革命が起こるのです。ロシアでは国家の政策や外国資本で発達した鉄道や鉄鋼など重工業と綿工業などの資本主義生産が工場労働者階級を生み出し、その農業制度は貧しい農民階級を作り出していました。ところが二〇世紀に入って恐慌で経済成長がとまり、社会構造の歪みから様々な運動が噴出し、社会は不安定になります。そのロシアで、一九一四年に始まった世界大戦の最中に革命が起こります。一九一七年の二月革命と十月革命を経て、権力のソビエトへの移行が完了、「ロシアは、労働者、兵士、農民ソビエトの共和国である。中央および地方の全権力はこれらソビエトに帰属する」と宣言されるに至ります。ソビエトとは「会議、和合」を意味するロシア語ですが、これが各地で成立した労働者らの会議を指し、その会議が労働者や農民らの運動を指導して、それが全国的に組織されていきます。十月革命で臨時政府が倒されて、一九一八年の一月に全ロシア・ソビエト大会がソビエト社会主義共和国連邦の成立を宣言するに至るのです。しかし現実には当時のロシアは危機的な状況にあり、レーニンに指導される中央集権的で強力なボルシェビキが諸ソビエト内に作られた共産党の党組織を通じてソビエトの活動を指揮することになります。
ユダヤ教黙示思想と近代哲学と斬新な経済理論を融合したマルキシズムとレーニンの強力な指導で武装された革命勢力の前に、ロシア正教のロシアは抵抗することができず、全土がソビエト権力の支配に服します。それはイスラムのロシア征服にも比せられる変革でした。それまでは国教会として特権的な地位にあった正教会は、革命政権の反宗教政策によって迫害される教会となり、政教分離の結果、教会財産は没収、宗教活動は禁止、多くの主教や司祭は投獄または国外追放され、修道院は解散させられます。しかし第二次大戦中はスターリンとの妥協が成立、ソビエト政府と協力することで一定の回復を見ます。戦後の正教はロシア正教会の他にも諸国の正教会がアメリカに進出、アメリカにおける土着化が進んでいます。ロシアに社会主義共和国連邦が成立して以来、その衛星国となった東欧諸国のその後の歩みについては後に触れることにします。このロシアにおける社会主義革命の成功は、その後のアジアやアフリカの諸民族の独立を促し、中国をはじめ世界の各地に波及して社会主義政権を誕生させる世界史的な運動の発端となります。

カトリック教会の変容

一九世紀のカトリック教会は教皇権の至上を唱え、ヨーロッパの全カトリック教会を政治的にも社会生活の上でも統制しようとする「ウルトラモンタニズム」(ヨーロッパ諸国から見てアルプスの向こう側のローマ教皇による中央集権的統制の主張)の世紀でした。この時代には一八世紀の啓蒙主義に代わってロマン主義が台頭し、中世への賛美と革命の否定が時代の潮流となり、一種のカトリック復興の兆しを見せます。一八一五年に教皇庁はイエズス会を再建、イエズス会は教皇の権威を回復するための活動を展開し、ウルトラモンタニズムを推し進めます。一八五四年にカトリック教会は「聖母マリア無原罪の御宿り」の教義を制定、「謬説表」を発布、合理主義や近代思想を非難、聖書協会、政教分離、自由主義体制を否定します。民主主義についても有害な新思想として非難しています。一八六九年にサン・ピエトロ大聖堂で開かれた「第一ヴァティカン公会議」で「教皇不可謬」の教義が可決制定され、ウルトラモンタニズムの勝利を確実にします。
このカトリック教会も二〇世紀には大きく変わっていきます。二〇世紀の前半は二回の世界大戦を経験して、世界の状況は大きく変わりました。この変化に対応してカトリック教会も変わっていきます。しかしその変化は下からの改革というよりは、歴代教皇のイニシャティブによって招集された公会議の決定による改革でした。カトリック教会を大きく変貌させたこの「第二ヴァティカン公会議」は、一九六二年に教皇ヨハネス二三世によって招集され開幕します。外交経験豊かなこの教皇は、カトリック教会の近代化に情熱を傾け、「分かれた兄弟」(プロテスタント)との再統一を願い、そのステップとして公会議を招集します。開会にあたって彼は教会の思い切った刷新と現代社会に適応する必要を強く訴えています。公会議半ばで没した教皇の後を継いだパウルス六世も、教会の統一に強い関心を持ち、公会議の継続を決定、第二会期から第四会期まで、教会の刷新、全キリスト者の一致、世界との対話を訴えて公会議を導き、一九六五年に一六の公文書(四つの憲章、九つの教令、三つの宣言)を決議して公布するに至ります。この教皇は世界を広く訪れ、教派を超えて親交を深め一九六四年には聖地訪問の帰途コンスタンティノープル総主教と会見して交流、この公会議の閉会の前日に、ローマ教会は一〇五四年の東西両教会の相互破門宣告を撤回しています。
この第二ヴァティカン公会議はカトリック教会を大きく変容させます。典礼も刷新され、ラテン語の典礼文をそれぞれの国の言語で行うように配慮しています。カトリック教会の構造も従来のピラミッド型の階層構造ではなく、原則として教会の全員が神の民として平等であることを自覚するように求めています。さらにプロテスタントはカトリックに復帰すべき異端ではなく、分かれた兄弟の再一致であることが確認され、他の宗教にも相応の真理があるとして、他宗教との対話が勧められます。この第二ヴァティカン公会議で起こったカトリック教会の変容を一言で要約すれば、それはカトリック教会が対外的にはその排外主義を捨てて包摂主義に変わったと言えるでしょう。排外主義というのは、自分の宗教だけが真の宗教であって他の宗教は間違っているので排斥し、自分の宗教に変えなければならないという姿勢です。これは三世紀のキプリアアヌス以来のカトリック教会の基本的な姿勢でした。したがってカトリック教会の世界伝道は、他の宗教の民をカトリックに改宗させるための活動となります。その排外主義が包摂主義に一八〇度変わったのです。包摂主義というのは、他の宗教にも啓示と真理が部分的にあることを認めて、他宗教をも自分の宗教の中に取り込み、自分の中で修正もしくは完成にいたらせようという姿勢です。この公会議におけるカトリック教会の変容については、プロテスタントの信仰義認とカトリックの成義の教義との間には決定的な相違がないこと、および他宗教との対話の必要性について、またカトリック教会の包摂主義の問題点については、次章第五節で「ラーナーとカトリック教会」を扱うさいに取り上げていますので、それを見てくださるようにお願いします。

V エキュメニカル運動と福音

はじめに ー 用語について

最近キリスト教会で「エキュメニズム」という語がよく用いられるようになっています。この語はギリシア語の《オイクメネー》に由来する語で、この語は人間が住んでいる土地を指し、ローマ世界の全体、全地を指す用法があります。現代のキリスト教会はこの語の形容詞形の「エキュメニカル」を「全世界的な」という意味で用いて、全地の教会に関わる共通の問題を議論し、多くの派に分かれている諸教会の一致を追求する運動を指して、「エキュメニカル運動」とか「エキュメニズム」と呼んでいます。したがってこのエキュメニズムという語を日本語に訳すときは「教会一致運動」とか「教会合同運動」とか「世界教会運動」と訳されています。ついでに申し上げておくと、このギリシア語と同系の《オイコノミア》(両方とも住まいを意味する《オイコス》からきた語です)は、一つの住まいにおける生活運営を指すところから、英語の「エコノミー」とか「エコノミカル」(経済、経済的)の語源となっています。
すでにここまでの第四章の各節で見てきたように、キリストの福音によって集められた信仰者の共同体は、その歴史的な状況の違いから様々な形をとるようになり、キリスト教会は多くの派に分かれて歴史の中を歩むようになりました。その各派は、宗教共同体の常として自分の形を絶対化する傾向があるために、互いに対立排斥し、ときには流血の惨事にまで至りました。それを反省して、エキュメニカルな運動が出てくるのは当然です。しかしこの語をキリスト教各派とか諸教会一致の運動だけに限るのには疑問があり、問題です。というのは、エキュメニズムというのであれば、福音こそ本来エキュメニカルな事態(全地への恩恵の告知)であるのですから、キリスト教会のエキュメニズムは、キリスト教会が自分の本来の存立の根源である福音に立ち帰ることこそ、その方向でなければなりません。その根本的な方向を忘れて、歴史的な差異を無くそうとしても、それは極めて難しく、ときには無意味です。本節ではこの問題、すなわちエキュメニズムの本来の方向を明らかにしたいと願っています。
その際、用語についてもう一つお断りしておくべきことがあります。それは教会でよく用いられている「宣教」という語です。この用語自体が、教えを宣べ伝える、すなわちキリスト教という宗教を宣布するという意味を含んでいるので、この語は非キリスト教世界にキリスト教を宣べ伝えるという意味に用いられることが多くなります。事実、これまでの宣教活動の多くは、異教徒に対するキリスト教への改宗運動でした。しかしこの語が本来指している「ミッション」という語は、派遣された者(使者)の仕事を意味しており、それはキリストを告知する働き、キリスト教という宗教ではなくキリストの出来事を告知する働き、福音を告知する働きのはずです。福音とキリスト教を区別し、キリストを知らない非キリスト教世界にキリストを告知する働き、すなわち福音告知の活動と、キリスト教という宗教を宣布して異教徒をキリスト教に改宗させる働き、すなわちキリスト教への改宗運動を区別する立場の本書では、Christian Mission を「宣教」という紛らわしい語で指すことは避けて、福音告知とか福音活動という表現で指すようにしたいと思います。もちろんキリスト教の宣教にはキリストの告知が含まれています。キリスト教はその中に福音(キリストの告知)を保管して、歴史の中に維持してきました。キリストの福音とキリスト教は別のものとして分けることはできません。しかし直ちに同じものとして扱うことはできません。分離はできませんが、区別する必要があります。それが福音とキリスト教の関係を複雑にしています。本書でも「伝道」という語は、キリスト教の布教とそれに含まれている福音活動の両方を指す用語として用いてきました。長年慣用されている場合は、この両方を含む意味で「宣教」という語を使うこともあります。
たとえば手元にある一冊の訳書の題名は「福音宣教の神学」となっていますが、これは " The Theology of The Christian Mission " の翻訳書です。その内容は「宣教の神学」が扱うべき内容を扱っているとしています。この書の目次や本文で「宣教」という語が用いられる時は、いつもミッションの意味で用いられています。この書では書名に宣教の内容が福音であることが表現されていますが、一般に宣教というとキリスト教の宣教を指すことが多く、紛らわしい事態を招いています。この Christian Mission の神学の必要を強調し、それに関する多くの著作を出して貢献したのは、宣教師(ミッショナリー)として実際に異教の地で活動し、後にエキュメニカル運動の指導的立場で活躍したオランダの神学者ヘンドリック・クレーマーです(後述)。
わたしたちキリスト者のミッションは、復活者キリストを証言し、そのキリストにあって与えられる神の無条件絶対の恩恵を受けて、その愛に生きることで、神の無条件の恩恵の支配を世界に告知することです。キリスト者のミッションは本来エキュメニカルです。特定の宗教(その中にキリスト教も含まれます)の者や一定の文化水準に達した者だけに向かうものではありません。すべての民族と宗教の民に向かうものです。わたしは本書『福音と宗教』でこのことを語ろうとしています。本書も一種の「ミッションの神学」です。ここでエキュメニズムについて述べることが、第四章の内容であるキリスト教史と福音との関係についての「結び」となります。

エキュメニズムの歴史

エキュメニズムを教会合同のための運動と理解するならば、エキュメニズムは古代からずっと存在しました。本来使徒たちの福音活動を継承する共同体(福音共同体)は、この終わりの時に神によって選び分かたれた唯一の公同の共同体であるべきはずです。ところが、その共同体が人間の宗教的組織体としてキリスト教会という祭儀共同体となった時、その祭儀の執行の仕方やそれを意義づける教義の違いによって分裂を繰り返し、宗教史上ほかに例を見ないほど多くの派に分かれました。当初はローマ帝国の国教としてその行政組織に組み込まれて統一されていたキリスト教会は、西ローマ帝国の滅亡後は、皇帝によって統合される東方教会と、西方のゲルマン諸民族の教会を統合したローマ・カトリック教会に分かれました。東方の教会は公会議の決定に従う東方正教会と、カルケドン公会議の決定に従わないネストリウス派や単性論の東方諸教会に分裂しました。皇帝はそれらの分離した諸教会を正教会に復帰させるための努力(エキュメニカル運動)をしましたが徒労に終わりました。東方正教会がオスマン帝国の侵攻によって存亡の危機にあった時、西方のローマ・カトリックが統合を呼びかけ、公式には合同が成立しましたが(1452年に皇帝が東西両教会の合同を宣言)、翌年のビザンティン帝国の滅亡により実際には東西両教会の合同は行われず、このエキュメニズムも失敗に終わりました。ローマ・カトリック教会はその後も東方への合同の働きかけを続け、東方諸教会の一部がローマ教皇の至上権を認めましたが(帰一教会)、東方正教会と西方カトリック教会の分裂は、1054年の相互破門による分裂状況が決定的に続くことになりました。
その西方のローマ・カトリック教会に十六世紀に宗教改革が起こり、プロテスタント諸教会が生まれます。そのプロテスタント諸教会は、その改革的諸原理によってそれぞれの歴史的状況に対応した教会形成をしたので、多くの派と教会を形成して分裂します。その概要は本章の第三節までのキリスト教史の概説で見てきたとおりです。実はそのプロテスタント諸教会の中から、近代の新しいエキュメニズムが起こってくるのです。プロテスタントの中から起こった近代のエキュメニズムは、それまでの中世的教会合同の運動とは根本的に原理が違います。中世のエキュメニズム(教会合同)は、どこかの教会(おもにローマ・カトリック教会)が自己の普遍性と至上権を主張して、自分の教会の中に他の教会を取り込んで統合しようとする運動でした。その運動は、同系の派の中での教会統合などのごく一部の例外はありましたが、ほとんどは失敗しました。それは各教会が自己の絶対性に固執する限り当然の結果でした。各教会の自己絶対化はほとんどのエキュメニズム(教会一致運動)を失敗させただけでなく、教会間の対立、排斥、果ては流血の宗教戦争となり、キリスト教史の大きな汚点となりました。このような失敗への反省から、近代になって多くの教派の対立を抱えるプロテスタント諸教会から新しいエキュメニズムが起こってきます。

近代のエキュメニズムの進展

近代のエキュメニズムは、外からの要因と内に抱える要因によって促されて進展します。前者の外からの要因というのは、国外ミッションの進展です。ヨーロッパ・キリスト教諸国の国外の非キリスト教世界への福音活動は、宗教改革の時代に始まった大航海時代の植民地獲得競争に伴って進展します。最初に宗教改革に対抗するカトリックの海外新大陸への布教活動は、カトリック国のスペインとポルトガルによるアメリカ大陸への進出に伴い、その植民地にカトリック・キリスト教を布教し、ローマ教皇の管轄領域を中南米大陸に拡大します。それはカトリック・キリスト教への改宗運動であって、カトリック教会内部にエキュメニズムの問題を新しく引き起こす性質のものではありませんでした。
その後、プロテスタント諸教会も海外に獲得した植民地を拠点として、国外への福音活動に進出します。プロテスタント諸国に様々な海外伝道協会が設立されて、プロテスタントの宣教師を海外に送り出すようになります。北米大陸に進出したピューリタンが、アメリカ合衆国を建設したことは大きな刺激となります。そのアメリカやヨーロッパのプロテスタント諸国に大きな信仰覚醒運動が起こるたびに、プロテスタントの海外伝道活動が活発になります。アメリカでは1801年に超教派の海外伝道組織として「アメリカン・ボード」が設立され、ウエスレーの信仰覚醒運動から発生したメソジスト派やバプテスト派も海外伝道団体を設立、アメリカがプロテスタントの海外伝道の中心的な勢力になります。こうしてヨーロッパとアメリカのプロテスタント諸国にカトリックも加わって、欧米のキリスト教諸教会はアジアとアフリカの諸地域に宣教師を派遣して、「地の果てまで」キリストの福音を告げ知らせる活動を進めます。
アメリカは前述したように国教制を拒否、おもにプロテスタント諸派諸教会が多くの宗派(デノミネイション)となって勢力を競っていました。国内ではそれもキリスト教の活力となってキリスト教の進展に貢献しましたが、海外では諸教会の分立は福音活動の妨げになり、諸教派から派遣された宣教師たちに問題とされ、彼らは教派間の協働の必要を痛感するようになります。たとえば明治維新の時、開国した日本に来て活動したアメリカ諸教会の宣教師たちは各地に信者の集団(いわゆるバンド)を形成し、自分たちの教会の形で教会を形成しようとしますが、日本人信徒は教派を超えた「日本基督公会」を設立します。しかし外国の母教会の神学的・経済的援助を必要とした日本では、結局外国ミッションによる教派教会が次々に建てられ、日本のプロテスタントキリスト教は教派教会の形で形成されることになります(後述)。これは一例ですが、各派の協働の必要を痛感した宣教師たちの間で、度々世界的な規模の会議が開かれ、ついに1910年にエディンバラで「世界宣教会議」が開かれるまでになります。そして翌年にはその協働体制を維持進展させるために「国際宣教協議会」(ICM)という団体が設立されます。これが契機となってヨーロッパキリスト教諸教会に一致を求める運動が活発になります。
一方ヨーロッパのキリスト教諸国が抱える内的な要因としては、プロテスタント諸国間の諸教会の間の不一致や対立抗争の問題があります。とくにキリスト教諸国が互いに戦いあった第一次世界大戦(1914年から1918年まで)は、ヨーロッパのキリスト教諸国に深刻な反省を迫りました。その反省は思想界全般に深刻な影響を与えますが、キリスト教会にも反省と改革の機運が生まれてきます。それを具体的な提案と運動にしたのが、スウェーデン・ルター派監督のナタン・ゼーデルブロムです(後述)。彼は第一次世界大戦が終わって間もなくオランダで開かれた「教会をとおして国際的友好を促進する世界同盟」で世界的会議開催の必要性を訴え、それがそれぞれ「生活と実践」及び「信仰と職制」の二つの大きな運動となって進展します。この二つの運動については、これを統合して「世界教会協議会」にしようという動きがありましたが、第二次世界大戦の勃発に妨げられて中断していました。それでもヨーク大司教のテンプルらの尽力により暫定委員会が発足、大戦中は捕虜や難民、孤立したミッションなどへの援助活動を続けます。そして大戦終結後の1948年にアムステルダムで開かれた第一回の総会には44カ国147の教会の代表が集まり、「世界教会協議会」(WCC)の創設が宣言されるに至ります。この協議会は1961年には前述の「国際宣教協議会」(ICM)をその伝道部門として統合します。こうして発足した「世界教会協議会」はおもにプロテスタント諸教会のエキュメニズムを代表する団体でしたが、7年目ごとにアフリカやアジアも含む世界の各地で総会を開き、徐々に加盟教会を増やして、今や世界のエキュメニズムの中心的な団体になっています。2013年の第十回総会は韓国の釜山で開かれています。 年現在の加盟教会は、カ国 教会に達しています。当初ローマ・カトリック教会は参加していませんでしたが、東方正教会と東方諸教会の一部は参加しています。プロテスタント諸派の中では、福音派と呼ばれる保守的諸教会は、この協議会加盟の教会の近代主義神学に反発して参加していません。しかしカトリック教会も第二回ヴァチカン公会議で変革されて、オブザーバーを送って、この運動と深く関わるようになっています。こうして近代のエキュメニズム(世界教会運動)はこの世界教会協議会を中核として進むことになります。

近代エキュメニズムの課題と限界

近代のエキュメニズムは、ここに見たように、もともと欧米のキリスト教諸教会が国外の非キリスト教世界にキリストの福音を宣べ伝えるための必要から生まれた運動ですから、当然キリスト教会の本来の使命である世界への福音告知活動(ミッション)が中心課題であるはずです。世界教会協議会(WCC)がその成立の母体となった世界宣教協議会(ICM)を重要な部門として含むのは当然です。繰り返しますが、ここで「宣教」と言っているのは、世界に福音を告知するキリスト者のミッションを指しています。地球上の全地にキリストの福音を宣べ伝えるには、その土地とそこに生きる民族、またその民族がそれによって生きている宗教の事実を理解することが必要であり有益です。本書の第一章で述べたように、孤立しているヨーロッパのキリスト教圏に世界の諸民族がそれによって生きている諸宗教の実態を知らせて、キリスト教世界に宗教学という学問を生み出したのは、海外に派遣されていた宣教師たちでした。したがって近代のエキュメニズムが、世界の諸宗教との対話を重視したのは当然です。キリスト教以外の世界の諸宗教との対話と理解、およびそれに伴うキリスト教自身に対する批判と深化は、近代のエキュメニズムの本質的要素です。
このようなキリスト者の本来のミッションから生まれた近代のエキュメニズムは、第一次世界大戦で露呈したキリスト教内部の対立と抗争に対する深い反省から、諸教会間の協力と協働を求めて、教会一致の運動、ひいては教会合同の運動を進めることになります。そしてここに述べたように、諸教会は世界教会協議会を組織してエキュメニカルな運動を進めていきます。結成以来70年を超えるこの組織の事業は多岐にわたり、その概略を記述することもできませんが、確かにこの組織体は貧困、戦争、難民などこの時期の地球上の困難な問題に対して、キリスト教会が協力して対処するのに重要な役割を果たし、その存在意義を示してきました。しかし「エキュメニズム」という語が日本語では「教会一致」とか「教会合同」と訳されることが示しているように、そのエネルギーの大半が宗教としてのキリスト教、すなわち各派のキリスト教会の祭儀とか教義についての意見の違いを克服して、教会の合同を目指すことに向けられているようです。このような目標は適切な目標でしょうか。そのための努力にどれほどの意義があるのでしょうか。わたしは現代のエキュメニズムの課題と目標に対して疑問をもち、その限界を意識しないではおれません。
わたしは新約聖書における福音の証言をまとめた前著『福音の史的展開』(とくにその終章)において、キリスト教という宗教はキリストの福音という生命体から当時のローマ世界に生まれた制度的社会的な一つの宗教であって、福音そのものから区別しなければならないことを述べました。それはユダヤ教とかイスラム教とか仏教というような宗教と同じく「相対的な」ものであることを強調しました。「相対的」というのは「絶対的」の反対で、その宗教への所属を救いのために必要な絶対条件としないということです。わたしはパウロがあれほど激しく異邦人でキリストを信じた者に割礼を施すことに反対したのは、ユダヤ教に改宗することを救いの条件とすることへの反対、ユダヤ教絶対化への反対であったと理解し、われわれもキリスト教への改宗を神の民に必要な絶対条件にすべきではありません。このようにすべての社会的で体制的な宗教、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も仏教も何教も、すべての宗教の絶対化に反対して相対化すべきことを主張する立場からすると、近代キリスト教のエキュメニズムはキリスト教諸派の相対性を理解して、キリスト教内部の諸教会の相対化と、その上での一致とか統合を目指してはいますが、キリスト教自体の相対化はできていません。そのために福音告知の活動は、キリスト教という宗教への改宗運動と分かち難く一体化していて、様々な問題を引き起こしています。
エキュメニズムを全地の宗教的統合を目指す運動であるとするならば、地上の体制的諸宗教をすべて相対化して、その「宗教の相対化」の場に立って人類全体の宗教性を統合して完成する方向を目指さなくてはなりません。本書ではこの後、第五章でキリスト教の代表的な神学者が世界の諸宗教に対してどのような姿勢で臨んでいるのか、その「宗教の神学」を見た上で、第六章の「現代の宗教問題」で、宗教の相対化の必要と、諸宗教の相対化の上に現代の宗教問題の解決を求めるべき方向、全宗教を包摂するエキュメニズムの方向を模索してみたいと考えています。