市川喜一著作集 > 第24巻 福音と宗教U > 第1講

第二部 福音の場から見た諸宗教

はじめに

 先に第三章「キリストの福音 ― その成立と告知」で見たように、その十字架の死と復活によって救済者キリストとして立てられたイエスの出現、すなわちキリストとしてのイエスの出現は、人間の側からは飛び越えることが出来ない切れ目となり、世界の歴史を紀元前と紀元後に二分しました。紀元前はキリストの出現を待ち望む時代でしたが、紀元後の時代はキリストの出現を世界に告知して、それによって人間の歴史が形成される時代となりました。しかし、キリストが出現されたからといって、それで人間の歴史が完了したのではありません。それは始まりでした。キリストの出現によって「終わりの日々」が始まったのです。キリストの出現によって始まった「終わりの日々」はその完成を目指して進行中です。われわれが紀元後の時代に生きているということは、キリスト出現後の「終わりの日々」のただ中に生きているということであり、その完成の日を待ち望んでいることを意味しています。人間が文字を使って歴史を記録し始めてからキリストの出現までに過ごした何千年の紀元前の時代に比べると、紀元後の二千年はまだ短いものでしょう。人間が人間となってこの地球上に生存した何万年あるいは何億年という長さに比べると、この二千年は一瞬のように短い時間です。本書もこれからキリスト出現後の時代を扱おうとしています。はじめにその意義を少し考えておきましょう。
紀元後の時代においても人間の宗教的な営みは続いていきます。人間が人間である限り、ホモ・レリギオーススとしての人間の宗教的営みが終わることはありません。したがって紀元後の「福音と宗教」の関係を扱う本書の第二部は、人間の歴史の中に現れたキリストの福音と、なおも継続する人間の宗教的営みとの関係という問題になります。その諸問題の中で、紀元前の状況と違う点は、このキリストの出現によってキリスト教という特別の宗教が形成されて、その宗教が福音との特別な関係を持つようになったことです。キリストの福音がキリスト教という宗教を世界にもたらした経緯については第一部の第三章(とくにその第四節)で触れましたが、そのキリスト教という宗教が福音という生命体との間に持つことになった複雑な関係と、そのキリスト教と他の諸宗教との間に生じた厄介な関係が、この第二部の主題になります。
最初に、キリストの福音がこの人間の歴史的世界の中に形成したキリスト教という一つの歴史的な宗教が、その形成の原動力となったキリストの福音とどういう関係を持ってきたかを扱います。これが第四章の「キリスト教史における福音」の内容になります。次にこのキリスト教と諸宗教の関係を扱うことになりますが、この膨大で複雑な問題はこの小著では扱いきれませんので、キリスト教の指導的な思想家(神学者)がこの問題をどのように考えてきたかをまとめてみることで、わたしたちがこの問題を考える上での参考に供することに絞ります。これが第五章の「宗教の神学」という章になります。そして最後に第六章として現代が直面する宗教問題として、宗教の多元化と世俗化の問題を取り上げます。その際、問題はキリスト教と他の諸宗教との関係ではなく、福音とキリスト教を含む諸宗教との関係であることを明らかにして、前著『福音の史的展開』の終章で唱えた「宗教相対主義」という主張を諸宗教全体の問題として扱ってみたいと考えています。
福音と宗教の関係を考察するのに、地球上のすべての宗教を対象とすることはできません。一個人としてはせいぜい自分の国または民族の宗教に対する福音の関係を考察するのが精一杯です。わたしも一人の日本人として、日本の宗教と福音の関係を取り上げてみたいと考えていますが、日本の宗教の専門家でない自分に十分なことができるとは考えられません。しかし、この宗教相対主義の場から日本の宗教を考察し、その向かうべき方向に想いを馳せることは、福音と宗教の関係を考える者の義務であると思い、あえて書いてみたいと願っています。その日本宗教史と福音の関係を論じる部分が、本書の第三部となるはずです。しかし、それを書き上げることができるかどうかは分かりません。時間と体力を賜るならばという条件付きで、その予定をここで申し上げるだけです。もし書けるとしたら、福音と仏教との関係が主要な問題になるであろうと予想しています。というのは、これまでにも指摘したように、西方の一神教宗教の代表格のキリスト教と、東方の神を立てない宗教、すなわちインド的霊性の代表格の仏教が、この狭くなった地球上で遭遇しています。日本は両者の遭遇を身を以て体験しながら、双方を観察することができる位置にあるのではないかと考えます。それを宗教間の出会いではなく、福音の場において相対化された宗教の出会いと見る立場で考察すればどうなるのか、考えてみたいと思っています。

第四章 キリスト教史における福音

はじめに

 キリスト教は、先に第三章で見たように、一神教のユダヤ教から出た一神教宗教です。そして少し遅れて七世紀にはユダヤ教からイスラム教という一神教宗教が出てきます。このユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教は代表的な一神教宗教であり、その総人口は世界の人口の半数以上の多数派です。ユダヤ教はその人口はわずかですが、その影響力から見ると、ほかの二つと並べて世界の三大一神教宗教といってよいでしょう。この三宗教と福音との関係を考察するのに、キリスト教だけを取り上げるのは片手落ちの感を受けますが、ユダヤ教とイスラム教は公式に福音を拒否している、すなわちイエスをキリストと認めないのですから、その福音との関係はその宗教内部の問題にはなりません。キリスト教はキリストの福音によって形成された宗教であり、その福音を内に持っている、あるいは保管していて、その福音を世界に告知することを使命としている宗教ですから、福音との関係が複雑になるのです。この章では、キリストとしてのイエスを信じる唯一の宗教としてのキリスト教と福音の関係を取り上げることになります。キリスト教においては、福音との関係がキリスト教宗教内部の問題となります。ユダヤ教やイスラム教など他の一神教宗教と福音の関係は、一神教宗教と対極にある仏教との関係を取り上げる時に、その関係を福音の場で見るとどうなるのかという視点から取り上げる、すなわち第三部の問題となります。



第一節 コンスタンティヌス体制下のキリスト教と福音

T コンスタンティヌス帝以前と以後

はじめに用語について ― 福音共同体とキリスト教会

 本書第一部の最後の「結び」で述べたように、キリストの福音の告知活動は世界の諸民族の中からキリストに属する民を呼び集めました。彼らが形成した共同体は、新約聖書では《エクレーシア》と呼ばれましたが、それはギリシア語ですから、日本語では「福音共同体」と呼ぶことにしようということになりました(本書第一部『福音と宗教T』の三七二頁参照)。最初に成立したパウロ文書では、福音を信じてキリストに属す者になった人々が集まる個々の集会が《エクレーシア》と呼ばれました。それが個人の家に集まる集会であっても、地域の人たちの交わりであっても、どこそこの《エクレーシア》と呼ばれていました。このような《エクレーシア》を総称する場合は、普通《エクレーシア》は複数形で出てきます。このような意味の信仰者の集まりを、以前わたしは「集会」と訳してきました。しかし、新約聖書でもすでにコロサイ書やエフェソ書になると、この《エクレーシア》という語が単数形で用いられて、広く世界の諸民族・諸宗教の中に福音によって形成された共同体を指すようになっています。このようなキリストの民の総体を指す場合は、わたしは「御民」と訳しました。本書では、これから新約聖書が《エクレーシア》と呼ぶキリスト者の霊的終末的共同体を「福音共同体」と呼んでいきます。その共同体は、ただキリストの福音によって呼び集められ、ただキリストの福音という土台の上だけに成立する共同体であり、ただキリストの福音を世界に告知することだけを使命としている者たちの共同体です。それは終わりの日(時代)に与えられると約束されていた神の霊(聖霊)の働きだけによって形成される人間の(地上の)共同体です(福音共同体が終末的な現実であることについては、本書第一部『福音と宗教T』の三八四頁参照)。いわゆる特定の宗教儀礼とか宗教教義とは関わりません。したがって、福音共同体は世界の宗教史に登場する諸宗教の中のどの宗教にも限定されません。
 福音共同体はどの宗教の中にもあり得ます。最初期においては、この福音共同体はユダヤ教の中にありました。そしてユダヤ教以外の宗教の民(異邦人)の中にもありました。新約聖書はそのいずれの場合も《エクレーシア》と呼んできました。しかし、その福音共同体が、人間の歴史的な必然性に促されて「キリスト教会」となり、「キリスト教」という新しい宗教を世界にもたらすことになります。なぜそうなったのかは、前著『福音の史的展開』の終章「キリストの福音からキリスト教へ」でやや詳しく述べておきました。繰り返しになりますが、本章の論旨にとって重要ですので、その要点だけをここに上げておきます。
 人間社会で人間とその共同体の在り方に関わる主張を継続的にするためには、何らかの組織が有益であり必要です。福音共同体も、それが活動する社会で、とくにその存在や活動に反対する社会の中で、その存在を主張し、維持し、活動するためには、組織をもつ必要に迫られます。各集会を代表したり世話をする者がその集会を統率し、地域の諸集会をまとめる者が「監督」(上に立って見る者)と呼ばれて、地域の福音共同体を統括します。さらに、外からの迫害に対抗して内部の相互援助や結束のために、また自分たちの信仰告白の内容を統一して足並みを揃える必要から、各地の監督たちが集まって会議を開き、意見の統一と相互の交流を図ります。このような監督たちの会議は「公会議」と呼ばれて、初期の諸福音共同体の統合に大きな役割を果たします。このような監督制は、すでに二世紀の初頭に書かれた「イグナティオス書簡」に見られ、各地に成立し、公会議もしばしば開かれて、地域の各個の集会を超えた《ヘー・エクレーシア・カトリケー》(公同の教会)の概念が成立することになります。こうして地上の福音共同体は一つの組織体となっていきます。
 もう一つの要因として、前著では人間本性の中にある「客体化」の願望をあげておきました。福音はもともと神の一方的な恩恵の働きによる事態であって、人間はその働きを受ける客体にすぎません。霊は風のようにおのが好むところに吹くのです。人間はそのような状況に耐えられず、霊の働きを自分のコントロールの下に置いて、事態の主人になりたいという本性があるようです。福音には「バプテスマ」や「主の晩餐」というキリストの出来事を指し示す(象徴する)儀礼があります。霊の自由な事態を人間のコントロールの下に置きたいという人間本性の願望が、この象徴的儀礼を、それを行うことが霊の働きをもたらし、霊の働きの結果を保証する「サクラメント」に変えます。このように霊の働きやその結果である救済を、人間の働きの目的(客体)にして、人間のコントロールの下に置くことを「客体化」と呼ぶことができるでしょう。このような意味のある儀礼が「サクラメント」になります。そして、教会で行われる「サクラメント」を有効にするための条件として、それを執行する聖職者の資格が問題となり、聖職者の組織体としての教会が出現します。
 こうして、聖職者組織、統一された教理、救済を保証する祭儀(サクラメント)を備えた「キリスト教会」と、その教会の宗教的な営みとしての「キリスト教」が出現します。だいたい三世紀の半ば頃には古代のローマ世界に、他の古代諸宗教に伍して、キリスト教が「真の宗教」であることを標榜して立ち現れ、他の宗教と競合し、ローマ帝国の国家宗教と激しく戦うことになります

ローマ帝国によるキリスト教徒の迫害

 ローマ帝国が支配する広大な地中海世界に広く福音が宣べ伝えられ、各地にキリスト教会ができた二世紀から三世紀にかけて、キリスト教会はほぼ福音共同体と重なっていました。「ほぼ」と書いたのは、厳密には当時のキリスト教会も福音共同体とは一致していなかったからです。古代教会にも形の上だけで教会に所属していても、実質的には聖霊による霊の交わりには参加していなかったメンバーもいたことでしょう。しかし、キリスト教会に所属するキリスト教徒であることが迫害の対象となる時代では、よほど霊的な力に動かされていない限りキリスト教徒であることを言い表すことはなかったでしょう。迫害がキリスト教徒をふるいにかけたという面があったようです。コンスタンティヌス帝によってキリスト教が公認されるようになるまでは、キリスト教は迫害されていましたので、ここでその迫害の実情を少し見ておきたいと思います。
 世界史の教科書には、「ローマ帝国はキリスト教を迫害した」と書かれていますので、それは常識になっていますが、この表現は不正確で実態を正確に伝えていません。第一に、ローマの皇帝がキリスト教の迫害を命じキリスト教会の壊滅を図ったのは、二五〇年に始まったデキウス帝の大迫害が最初です。この時から以後、ローマ帝国皇帝は勅令を発して、キリスト教会を壊滅させるための残忍な迫害を行ってきました。しかし、それ以前の迫害は勅令により帝国が行う迫害ではなく、都市のローマ市民のキリスト教徒に対する反感が集団的圧力となり、地方総督がそれに和して自分の権限でキリスト教徒を処刑するなどの迫害を行ったものです。
 このローマ市民のキリスト者に対する反感は、ローマの諸都市に福音共同体が歩み始めたときから始まっていました。使徒パウロもエーゲ海地域の諸都市に福音を宣べ伝えたとき、「ローマ帝国の市民が受け入れ実行することが許されていない風習を宣伝する者」として訴えられ、むち打たれ投獄されています(使徒一六・二一)。キリスト教徒に対する市民の反感は、少数のキリスト教徒の集会の密やかな会合への誤解や、彼らの生活の高踏性に対する反感など様々な要因があるのでしょうが、自分たちのこの世的な生活が批判されているという感情もあるのでしょう。ローマの祭儀に参加せず、ローマの古来の神々を拝まないキリスト教徒は「無神論者、無政府主義者、人類の憎悪者、みだらな行為、人食いの風習」などと非難され、殺人や強盗などの特別の悪事がなくても、事あるごとに法廷に訴えられます。裁判を担当する総督は、キリスト教徒への反感を共にしながらも、彼らを処罰する法的な根拠がないので困惑します。それで二世紀のはじめ、そのような訴えを受けて困惑しているビテニア州の総督プリニウスが時の皇帝トラヤヌスに訓示を仰ぎます。二人の間の往復書簡は公文書として保管されて伝えられていますが、それによるとトラヤヌス帝は「キリスト教徒であるとして告訴された者は、三度法廷でそれを公に認めた時は処罰(処刑)してよい。匿名の告訴は受け付けるべきでない。官憲はキリスト教徒を探索すべきではない。棄教者は放免すべきである」という旨を答えて、プリニウスの請訓を基本的に承認しています。このトラヤヌス書簡によって、キリスト教徒であるという「名で」告訴されてそれを認めた者は処罰されるという、「名による処罰」の原則、すなわち他に何の悪行がなくてもキリスト教徒であるという事実そのものが処罰される犯罪となるという原則が認められます。
 このトラヤヌス書簡が根拠となり、地方総督の懲罰権はこの原則によって行使されますが、皇帝と帝国全体のキリスト教会に対する態度は好意的と敵対的の間に動揺し、一定していません。好意的な時代もかなりあって、その間にキリスト教会は着実に進展して力を伸ばしています。キリスト教徒は迫害ばかり受けていたのではありません。普段は平和にローマ社会で暮らし活動して、その貧しい者を差別しない愛による共同体の形成や高度な倫理性がローマの人々を引きつけ、影響力を伸ばしていました。教会は拡大していきます。アレキサンデル・セウエルス帝(在位二二二〜二三五年)は宮廷の祭壇にキリスト像を安置していたとか、フィリプス・アラブス帝(在位二四四〜二四九年)はキリスト者であったという伝承が残っています。
 しかし皇帝の中にはキリスト教に対して厳しい態度で臨む者もあり、その時代には激しい迫害も起こっています。ユスティノスはすでに一六〇年代にローマで殉教しており、ローマ帝国の最盛期をもたらしたとされる五賢帝の一人で哲人皇帝と称せられるマルクス・アウレリウス(在位一六一〜一八〇年)の時代には現在のリヨンとヴィエンヌに大きな迫害が起こり、ブランディナなど多くの殉教者を出しています。トラヤヌス以前の皇帝ではネロ帝によるキリスト教徒の残忍な処刑が有名ですが、これはローマの放火犯としてネロのスケープゴートに仕立てられたローマ市のキリスト教徒への迫害であり、デキウス帝以前の迫害は局地的で断続的な迫害でした。キリスト教会は「ローマの平和」の中で、帝国の各地に浸透し発展していきます。
 もう一つ、「キリスト教徒はローマの皇帝礼拝を拒否したので迫害された」という常識も不正確です。もともとローマ人には人間を神として祀る風習はありません。それはギリシア人の風習です。ギリシア人はローマが小アジアを制圧したとき、支配者のオクタビアヌス(初代皇帝のアウグストゥス)を神として祀る神殿を建設する許可を願い出ましたが、アウグストゥスはそれを許可しませんでした。しかし、カイサルも死後には神として祀ることを許可したアウグストゥスは、後にローマを代表する女神「ローマ」と一緒であれば神殿を建てることを許可します。ローマでは死後に神として祀ることはあっても、生きている人間を神とすることはありません。例外はカリグラと呼ばれたガイウス帝(在位三七〜四一年)とドミティアヌス帝(在位八一〜九六年)です。この二人は生前に自分を神として祀ることを要求し、自分の巨大な神像を立てたりします。この皇帝礼拝がユダヤ人やキリスト者の激しい抵抗に遭ったことは顕著な事実です。しかし、後のキリスト教徒への迫害においては、記録を精査すると皇帝を神として拝むことは要求されず、ローマの国家祭儀として行われているローマ古来の神々に犠牲を捧げて祭儀を行うことが要求され、訴えられた者がローマの神々に犠牲を捧げて拝むならば釈放され、それに従わないキリスト教徒が皇帝の命令に従わない者として処罰されたのです。キリスト教徒への迫害は、厳密には皇帝礼拝の拒否ではなく、ローマの国家祭儀への拒否によるものと言うべきです。しかし、後にはとくに帝国の西部で、統治の安定のためにローマが積極的に皇帝礼拝を推進し、被征服民に参加させるようになります。
 迫害がどのような性格のものであれ、迫害される信仰者にとっては裁判は生命をかけた告白になります。信仰を言い表す者が時には残忍な処刑を従容として受け入れる姿を見て、キリスト信仰の力を実感して信仰に導かれたローマ市民も多かったようです。教会はそれを「殉教者の血は教会の種子である」と称しました。しかしそのように信仰を告白させる力は聖霊です。法廷に立たされた殉教者たちの心には、「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは聖霊がその時に教えてくださる」(ルカ一二・一一〜一二)というイエスの言葉が響いていたことでしょう。彼らはキリスト信仰の力を実証しました。彼らはまことに《マルテュス》(立証者、殉教者)です。さきに「迫害がキリスト教徒をふるいにかけた」と言いましたが、迫害はキリスト教会の中で真に聖霊によって福音共同体に属する者を、そうでない者、形の上だけでキリスト教会に所属している者から選別したのでしょう。
 先に述べたように、迫害は局所的で例外的な出来事でした。普段はキリスト教会は「ローマの平和」の中で進展し、その勢力を拡大し、ローマ社会で強力で大きな組織体となっていきます。二世紀から三世紀前半の時期において、この福音共同体が組織化されてキリスト教会となり、「聖なる唯一の公同の教会」が形成されることになります。その「公同の教会」《ヘー・エクレーシア・カトリケー》の理念は、カルタゴの監督(司教)であったキプリアヌスの『カトリック教会の一致について』という二五一年の著作でもっとも明確に表現されることになります。彼によれば真の教会は正典、教理、典礼、聖職者組織を持つ「見える教会」(組織体としての教会)であり、それは神の恩恵の唯一の機関であるので、「教会の外に救いはない」と宣言されることになります。そしてまさにこのカトリック教会の理念が鮮明にされた三世紀の半ばに、デキウス帝によるローマ帝国の勅令による迫害が始まったのです。これが偶然でなかったことは、次項で述べることになります。
 その組織の中に安住する「キリスト教徒」も多かったことでしょう。彼らの実情については、少し後にコンスタンティヌス帝のイデオローグとして活躍し、カトリック教会の立場から『教会史』を書いたエウセビウスの叙述も参考になります。彼はその著で三世紀後半の教会の実情についてこう書いています。

 「より大きな自由を享受するにつれ、わたしたちの振舞いが尊大で懶惰なものになったとき、わたしたちは互いに妬みあって激しく罵りあい、そしてわたしたち自身がことあるごとに御言を武器や槍として仲間内で争った。教会の統括者は他の教会の統括者を攻撃し、平信徒は徒党を組んで他の平信徒にたいして騒ぎたてた。そして、口にするのもはばかられる偽善と虚偽が悪の行きつく所まで行った。・・・・・」(『教会史』[一ー7)

 このような状況はコンスタンティヌス体制以前においても、カトリック教会の組織体制ができあがったとき、すでにその組織に安住して、教会が加入の条件としているバプテスマを受けて聖餐の儀礼にあずかり、教会が決定した教理を言い表しているだけで自分はキリスト教徒だとしている教会員が多かったことを示しています。一面、ローマ帝国からの厳しい迫害は、聖霊によって新しい命に生きるようになり、迫害時にも告白を曲げることなく、エウセビウスが叙述しているような人間本性丸出しの歩み方をしないで、キリストの福音を伝える働きを進めた真のキリスト者、キリストの福音共同体に所属する者を選別する効果を持ったことでしょう。しかし普段の教会生活の中でこの選別をすることは困難です。イエスのたとえにもあるように、歴史の中では麦と毒麦の選別はできないのかもしれません(マタイ一三・二四〜三〇)。

ローマ社会におけるキリスト教徒への迫害とローマの皇帝礼拝について詳しくは、拙著『福音の史的展開U』の二三一頁以下の「V ローマ帝国社会における迫害」の項を参照してください。

コンスタンティヌス体制の成立

 前項で少し触れたように、二世紀から三世紀にかけてその組織化を進めてきた「カトリック教会」は、三世紀の半ばには、ほぼその組織化を終えて、その現実と理念を公にするところまで来ていました。その事実はキプリアヌスの『カトリック教会の一致について』という著作で宣明され、カトリック教会は「教会の外に救いはない」と宣言するまでになっていました。帝国の為政者の方でもその事実は真剣に問題とされるようになり、「国家の中の国家」とも言えるその強固な組織体にどう対処するかが重大な問題になってきていました。当時のローマ帝国は国力の衰えは覆い難く、その国家的統一は乱れていて、国家の為政者はその対策を迫られていました。彼らには二つの選択肢がありました。一つは強固な組織体となったカトリック教会を壊滅させて、ローマ古来の伝統によってその統一を再建するか、あるいはカトリック教会の強固な宗教的組織力を取り込んで帝国の統一を図るかの選択です。デキウス帝は前者の道を選び、カトリック教会を壊滅させようとして、勅令による全国的な迫害に出ます。その方向が失敗した時、少し後に出たコンスタンティヌス帝は後者の道を選び、ローマ帝国の統治に教会を取り込むことになります。従って、教会の組織化が頂点に達し、キプリアヌスが誇らしく『カトリック教会の一致について』を著し、「教会の外に救いはない」と宣言したその時には、デキウス帝の国家的な大迫害も終わりに近づいていた時期であったのは偶然ではありません。
 デキウス帝(在位二四九〜二五一年)は勅令を発しますが、それは帝国の自由民は男女・年齢の別なく神々に犠牲を捧げるように命じ、その命令に背けば死刑に処すという過酷なものでした。この大迫害は多くの殉教者と、さらに多くの背教者を出すことになりました。ローマの司教、アンティオキアの主教、エルサレムの主教はこのときに殉教し、オリゲネスもこの迫害で拷問などの危険にさらされています。デキウス帝の治世は部下の反乱で短命におわりましたが、その後に帝位についたウァレリアヌス(在位二五三〜二六〇年)の時代には迫害は続きます。彼は勅令で教会や墓地の収奪、キリスト教集会の禁止、聖職者の逮捕、有力信徒の財産没収を行います。この迫害でローマの司教やカルタゴの司教のキプリアヌスも殉教します。
 このウァレリアヌスがペルシャとの戦いで死んでから四〇年の間は迫害はなく、三世紀の後半の四〇年間、教会は平和を享受して急速に発展します。先に引用したエウセビウスの叙述もこの時代について書かれたものです。この時期のローマ帝国は歴代の皇帝が周辺の防備と国内秩序の回復に追われていて、反キリスト教の諸法律はあっても、それを実行するゆとりがなかったからだと考えられます。この肥大して疲弊した帝国の諸問題に大鉈を振るったのがディオクレティアヌス帝(在位二八四〜三〇五年)です。彼は帝国を四つの「道」に分けて、それぞれの道に正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)を置いて統治させました。この分割統治はうまく機能していたようで、教会も平和を享受していました。ところがディオクレティアヌス帝は晩年になって迫害に転じます。その理由は分かりませんが、三〇三年になって教会の破壊、聖職者の逮捕を命じる勅令から始まり、次々に厳しい勅令を出してキリスト教を迫害します。ディオクレティアヌス帝が三〇五年に退位した後を継いだ東方の副帝ガレリウスは迫害を継続します。やがてこの東方の二帝と西方の二帝の間の勢力争いが熾烈になり、その詳細はここで扱うことはできませんが、紆余曲折を経て結局西方二帝の一人コンスタンティヌスが勝利して、三二四年にローマ帝国唯一の支配者となります。そこに至る過程で東方の勝利者リキニウスとの合意で三一三年にミラノで出した勅令で、良心の完全な自由、キリスト教の他の宗教との法的平等の保証、迫害で没収された財産の返還を公布しました。これがキリスト教を公認した勅令として有名な「ミラノの勅令」です。リキニウスはその後迫害に転じますが、キリスト教にますます好意的なコンスタンティヌスがリキニウスに勝利するに及んで、彼が帝国のただ一人の支配者となります。
 こうして組織化されたカトリック教会を殲滅しようとしたデキウス以来の迫害皇帝とは反対に、カトリック教会を自らの支配体制に取り込もうとしたコンスタンティヌス帝の政策は着実に実現されていきます。彼にとってカトリック教会の統一は重大関心事です。その分裂は避けなければなりません。迫害時代に背教した者が教会に復帰したいと願ったとき、寛大な改悛でそれを認めた寛大派と厳格な条件を課した厳格派の対立がありました。カルタゴの司教に寛大派を代表する人物が立てられたとき、厳格派は対立司教を立てて争います。厳格派はその指導者ドナトゥスの名でドナトゥス派と呼ばれますが、その論争のアルル教会会議(三一四年)にコンスタンティヌスは介入してドナトゥス派を断罪するに至らせ、教会の一致を保っています。さらに、アレクサンドリアにおけるアレイオスとアレクサンドロス主教とのキリスト理解に関する大論争がキリスト教会の分裂に発展することを阻止するために、三二四年にローマ帝国の唯一の支配者になったばかりのコンスタンティヌスは、翌三二五年に全国の主教と司教をニカイアに招集して教会会議を開きます(単独監督は東方では主教、西方では司教と呼ばれています)。参加者は総勢三〇〇人に迫る多数でしたが、おもに東方の主教たちが大部分を占め、西方からの司教は五〜六名程度だったといわれています。この会議では子であるキリストは父なる神と本質を共にしないとしたアレイオスの説は退けられ、子であるキリストは父と同本質《ホモウーシオス》であるとするアレクサンドロス主教の説が採択され、それがコンスタンティヌスによって帝国法として発布されます。その結果、アレイオス派の二人の主教が追放処分を受けます。ニカイア以後、公会議の決定は帝国の法律としての資格を得て、その性格を変えることになります。
 ニカイア公会議でキリスト教会の統一にひと区切りをつけたコンスタンティヌスは、続いて畢生の大事業に挑戦します。それは帝都を歴史あるローマから東方のボスポラス海峡の突端にあるビザンティウムの丘に移す遷都の事業です。彼は古いローマ政治の体質から自由になって、新しいローマ帝国を建設しようとしたのでしょうか。三三〇年にはビザンティウムの丘に新しい大都市を建設し、それを彼の名に因んで「コンスタンティノポリス」と名付け、遷都を完了します。「新しいローマ」と呼ばれたその都には、もはや異教のローマの神々の神殿はなく、都の中心にはキリスト教の大聖堂「聖ソフィア」が建設されます(その偉容は現代まで残されています)。その都市は後にイスラムのトルコに支配されるに至り、「イスタンブール」と呼ばれるようになりますが、そのアジアとヨーロッパの接点にある歴史ある大都市は、現代ではトルコの主要都市として、そして世界史の遺産として、多くの人を惹きつけています。
 コンスタンティヌスは三三七年に近くのニコメディアで病死しますが、その最後の床で土地の主教によって洗礼を受けて、公式にキリスト教徒であることを表明します。生前のコンスタンティヌスはキリスト教徒ではなかったのであり、彼のキリスト信仰については様々な議論が行われていますが、彼がキリスト教という宗教の歴史に巨大な足跡を残し、時代を画す大事業を成し遂げたことは間違いありません。本書も彼が築いた体制で時代を区分し、「コンスタンティヌス体制の以前と以後」という区分でキリスト教の歴史を考察しています。
 コンスタンティヌス亡き後、帝国は東と西に分割されてコンスタンティヌスの息子たちに統治されます。その後再統一された帝国の皇帝になったユリアヌス(在位三六一〜三六三年)が、ギリシア古典に傾倒して異教の復興を試みた時期もありましたが短期に終わり、帝国は再び東と西に分割されて別々の運命をたどることになります。西ローマ帝国は南下してきた西ゴート族の侵攻に悩まされ、皇帝位の簒奪などで弱体化し、東の正帝テオドシウス一世(在位三七九〜三九五年)が一時(三九四〜三九五年)東と西の全帝国を支配します。しかしそのあと帝国は最終的に東ローマ帝国と西ローマ帝国に分割されます。このスペイン生まれで西方神学に詳しいテオドシウス帝の在位中に、ニカイア公会議の決定に不満なアレイオス派との融合を図るため、帝は三八一年に新帝都コンスタンティノポリスに公会議を招集し、融和を図ります。そこでニカイア信条をある程度修正されて採択された信条が「コンスタンティノポリス信条」または「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」と呼ばれ、現在でも東方正教会で用いられている信条となります。それに止まらずテオドシウス一世は、異教の祭礼を禁じ神殿財産を没収するなど、三九一年にはキリスト教を国教としての地位に押し上げます。かってローマ帝国がキリスト教に対してとった弾圧的な政策が、いまや異教に向けられることになります。コンスタンティヌスが創めたキリスト教公認の統治は、なお異教への寛容の余地がありましたが、テオドシウスになってその方向は厳しく徹底され、キリスト教の国教化に至ります。テオドシウスがキリスト教を国教とする過程で、大きな影響力を振るったのは、ローマ名門の出身で地方長官の経験もあるミラノ司教のアンブロシウスです。テオドシウスは異教を禁圧しただけでなく、公会議で決定された教義に異議を唱える「異端」も厳しく禁圧し、アレイオス派を弾圧しキリスト教をカトリックに統一する努力を続けます。このようにコンスタンティヌスで始まりテオドシウスで完了するキリスト教会とローマ帝国の関係の全体を「コンスタンティヌス体制」と呼んで、次項以降でこの体制下のキリスト教の歴史を考察することになります。

コンスタンティヌス体制下のキリスト教会

キリスト教会の骨組みをなすのはその聖職者組織です。主教とか司教はそれ以前も教会統括の中心的存在でした。しかし以前は一地域の教会の統括者でしたが、キリスト教が帝国の国教のような地位に立つに伴って、次第に帝国の行政区画に適応する形で「司教区」が新設され、司教や主教はその司教区全体を統合します。キリスト教が国教化されている状況では、主教や司教がその司教区という地域全体を統括して動かす領主のような立場になります。その司教や主教の上位に、さらに広い地域の司教や主教を統括する大司教区が置かれ、さらにその上位に総司教区または総主教区が置かれることになります。この三段階の区分は最終的には四五一年のカルケドン公会議で承認されることになりますが、総司教区(総主教区)として@ローマ総司教区(西方全体を管轄)、Aコンスタンティノポリス総主教区(小アジアと現在のブルガリアを管轄)、Bアンティオキア総主教区(シリアとレバノンを管轄)、Cアレクサンドリア総主教区(エジプトとリビアを管轄)、Dエルサレム総主教区の五つが認められます。その下位の大主教区は東方で四五、西方で三〇と言われています。
このような体制の下では、その司教区や主教区の帝国市民の全体が司教や主教の統括下に入るのですから、もはやキリスト教会が聖霊によるキリスト信仰に生きる福音共同体であるとは言えなくなり、キリスト教会と福音共同体との乖離は大きくなります。確かにキリスト教会はその中に福音共同体を含んでいます。しかし教会自体は世俗化して、ローマ帝国の統治機構に組み込まれていきます。聖職者は免税され一種の特権階級化しましたので、資産はないが出世を願う人たちの目標になります。洗礼とか聖餐という教会の儀式にあずかり、教会の教理を信奉して唱えておれば、教会員でありキリスト教徒と認められるのですから、教会は形式化します。
 このような状況において「キリスト教信仰」と、パウロが言う「キリスト信仰」との差が広がってきます。「キリスト教信仰」というのは、キリスト教という宗教が救いの保証としている洗礼と聖餐の祭儀にあずかり、教会の教理に異議なく従っていて、主教や司教からキリスト教会の所属員と認められている人たちの信仰です。それはパウロが言う「キリスト信仰」、すなわち復活し生けるキリストに自分の全存在を委ね、このキリストと御霊による交わりに生きている人間の生き方とは違います。もしこのようなキリスト教信仰の人を「キリスト教徒」、キリスト信仰の人を「キリスト者」と言うならば、コンスタンティヌス体制の進行とともに、とくにキリスト教が国教となるに至って、「キリスト教徒」は飛躍的に増えましたが、その中で「キリスト者」が占める割合は劇的に少なくなります。表現を変えれば、キリスト教会の中で聖霊によって形成される福音共同体は芥子粒のように小さくなります。
 教会の形式化と世俗化の中で、徹底的にキリストに従うことによって本来のキリスト信仰に生きようとした人たちは、教会の外で信仰の道を追求しようとします。それが修道院制の始まりとなります。はじめは厳しい禁欲に徹した個々の隠遁者の求道の生活として始まりましたが、四世紀に入ってエジプトでパコミオスが共に生活して労働と祈りの共同生活の中で道を求める修道院を創設します。以後に発展した修道院制はキリスト教世界でキリスト信仰共同体の形成を目指す極めて重要な霊的運動になります。しかしそれはあくまでキリスト教の枠の中での運動であり、一般の教会人の倫理よりも高いレヴェルの倫理的共同体となってキリスト教の二重倫理を生み、また神との霊的交流を求めるキリスト教神秘主義を生みましたが、キリスト教宗教の外に出て、その外に福音共同体を追求する運動にはなりませんでした。
このような教会組織の進展の中で、ローマの総司教の指導性が際立ってきます。もともとローマは帝国の首都であり、そこにある教会は地方の諸教会の問題に援助や指導(介入)をしてきました。コリントの集会に問題が起こった時には、ローマの教会の代表者が手紙を書き送って「指導」しています。これが有名な『クレメンスの手紙』です。その他、マルキオンやモンタノスなどの問題が起こった時には、指導力を発揮しています。二世紀末の教父エレナイオスはローマの教会をペトロとパウロによって設立された教会としてその働きを称揚して、「すべての教会は、この教会と一致すべきである」と書いています(『異端論駁』三・三・二)。
 ローマ教会はローマが使徒ペトロとパウロの殉教の地であることを誇り、ペトロをローマ教会の初代の司教とし、代々ペトロから司教職を受け継いでいるとする「使徒継承」を掲げて、ローマの司教が世界の教会を統括する立場にあると主張してきました。カルケドン公会議ではローマとコンスタンティノポリスとは同等であるとの「並立管轄権」の決定がありましたが、時のローマ司教のレオ一世はこれを拒否しています。その後のローマ司教のゲラシウス一世は時の皇帝に、世界を治める二つの権能、すなわち司教の聖なる権能と皇帝の権能のうち、人間である皇帝のために神の審判の前に責任を取るのは司教であるから、司教の権能ははるかに重要であると書き送っています。この皇帝と司教ないし主教との関係は帝国の東方と西方で変わってきますが、それは次の大項目のUとVで取り上げることになります。

コンスタンティヌス体制下のキリスト教

 コンスタンティヌス体制下では、教会の主教・司教たちの公会議の決定は法的強制力をもち、その決定に異議を唱える主教や司教は皇帝から追放処分を受けるなどして、その地位を失います。こうしてキリスト教会はその教理についてローマ帝国という国家権力の統制下に置かれることになります。先に見たように、コンスタンティヌス帝が帝国全土を支配下に置いた直後に招集したニカイア公会議(三二五年)が最初の公会議となりますが、その後もキリスト教の教理、特にキリスト理解についての論争は絶えることなく、教会の統一、ひいては帝国の統一を脅かします。それで諸皇帝は引き続いて公会議を招集して教理の統一を図り、帝国の統一を維持することに努めます。ここでそれらの公会議の主要な性格について瞥見しておきます。

 コンスタンティノポリス公会議(三八一年)  ―  ニカイア公会議後もアレイオス派の不満は続き、論争はアレイオスとアレクサンドロスの後継主教アタナシオスの間で行われることになります。両者の中間に位置する保守派(オリゲネス派)は、子は父と同本質《ホモウーシオス》であるとするニカイア信条に反対して、子は父と類似の《ホモイウーシオス》本質であるとして、ニカイア信条派と争います。この二つのギリシア語は中程に「イ」(ギリシア語で《イオータ》一文字)があるかないかの違いですので、この論争は「イオータ論争」と呼ばれ、些細な表現についての神学者の「こだわり」を揶揄するときの代表格になります。先に見たように、キリスト教会の統一を維持するために信条の統一を求めたテオドシウス一世がコンスタンティノポリスに招集した公会議で採決された「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」がキリスト教会の正式の教理となります。ニカイア派の論客として活躍したアタナシオスは、アレイオス派に好意的な皇帝から五回も追放処分を受けることになります。

 エフェソ公会議(四三一年) ― コンスタンティノポリスの総主教ネストリオスがアンティオキア学派の立場を代表してキリストの神性と人間性の両性を認めながらややその人間性に重点を置いたキリスト理解を主張したのに対して、キリストの神性を重んじるアレクサンドリア学派が異議を唱えたので、時の東ローマ帝国皇帝のテオドシウス二世がエフェソに招集した公会議です。当時コンスタンティノポリスにはマリアを「神の母」《テオトコス》と「人間の母」《アントローポトコス》と呼ぶ二派がありましたが、ネストリオスが「神の母」に反対して「キリストの母」《クリストトコス》とすべきだとしたので、キリストの神性を強調するアレクサンドリア総主教キュリロスが反対して異議を唱えて論争となりました。そこで公会議の招集となりましたが、この公会議はネストリオス派の主教たちが到着する前にキュリロスが強引に会議を開き、ネストリオスを異端として破門にしました。遅れて到着したネストリウス派の代表は反キュリロスの主教を集めて、キュリロスを異端として破門します。皇帝はキュリロスとネストリオスの両方を追放処分にしますが、後にキュリロスの復位を認めます。ネストリオスは追放されたままアンティオキア近郊の修道院に隠棲して生涯を終わります。後日物語になりますが、ネストリウス派は東に向かって福音活動を進め、唐の時代の中国にまで達し、唐にネストリウス派のキリスト教を広め、多くの寺院(教会堂)を建てるに至ります。中国ではこのキリスト教を「景教」と呼び、唐に留学中の空海もこのネストリウス派キリスト教に触れています。高野山にはこのネストリウス派キリスト教の福音活動を記念する「大秦景教流行碑」(レプリカ)があります。

 カルケドン公会議(四五一年) ― このような公会議を重ねながらもキリストの神性と人間性との関係についての議論は続き、続いてエフェソで開かれた公会議では暴力沙汰まで起こり、ローマの教皇レオ一世が「強盗会議」と呼ぶまでになります。この論争に終止符を打つために、レオ一世が働きかけて時の皇帝を動かし、帝都の近くに位置するカルケドンに公会議を招集します。この公会議ではそれまでに異端として退けられた諸説を注意深く排除しながら、諸教会・諸学派が受け入れることができる信条を決定します。この公会議は「ニカイア信条」と「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」を聖なる教父たちによって宣言された使徒的信条として批准し、それらを最終的に決定する定式として「カルケドン信条」を宣言します。キリスト理解に関してこの信条は、「この唯一の同一なるキリスト、御子、主、独り子は、二つの性(神性と人性)において、混合することなく、変化することなく、分割することなく、分離することのないお方として認められます」と、四つの否定的表現でそれまでの異端説を退け、以後の公同の教会における三位一体論やキリスト論の古典的表明となります。以後のキリスト教正統派を名乗るギリシア正教会、ローマカトリック教会、プロテスタント諸教会はみな、このカルケドン信条を受け入れており、カルケドン派諸教会と言われるようになります。

 公会議は皇帝によって招集されます。参加するための費用はすべて国から出ます。公会議は帝国の公式の行事となり、皇帝が議長を務め、その決定は勅令として公布され、その決定への違反は追放などの法的制裁を受けることになります。コンスタンティヌス以降の皇帝は公会議という形で主教・司教組織を帝国の統合のために利用します。コンスタンティヌスが出したのは「寛容令」であって、キリスト教を含むどの宗教を信じるのも自由だとしたのです。しかしコンスタンティヌスはキリスト教会に大きな寄進をして主教や司教の働きを援助して、主教・司教組織の活用を進めます。寛容令以後にはキリスト教会員の数は飛躍的に増えたにせよ、帝国が直接教会員を支配することはできません。教会を統括する主教・司教組織を統括することが、ローマ帝国にとってもっとも確実なキリスト教の利用方法だったのでしょう。

キリストの福音が地上に福音共同体を生み出し、その福音共同体が二世紀以降に、ホモ・レリギオーススなる人間が形成する歴史的必然により、歴史の中にキリスト教という社会的・体制的宗教を形成することになる過程を瞥見して、コンスタンティヌス体制の成立に至りました。その過程において古代教会は多くの優れた指導者を生み出してきました。彼らは教会教父と呼ばれて、後世のキリスト者のよき教師となっただけでなく、わたしたち福音の歴史的展開を追求する者にも重要な証人となっています。しかし、この時代に輩出した多くの教父たちの生涯、神学、思想などを概観するだけでもこの小著の限界を超えますので、それは別著に委ねます。たとえば前のローマ法王のベネディクト一六世の『教父』(ペトロ文庫、二〇〇九年)などを参照してください。文庫版で出ていて、読みやすい好著です。

歴史に「もしも」は許されませんが、もしローマ帝国が迫害を止めた時に「寛容令」にとどめていたなら、すなわちキリスト教も他の宗教と同等に自由に信仰することを公認した後、キリスト教を国教にして他の宗教を禁圧することがなければ、その後の歴史はずいぶん変わっていたことであろうと考えてしまいます。さらにもしすべての司教が、当時活躍した教父たちのキリスト教理解を深く理解して議論を深め、その決議が権力の法的強制にはならないで信徒の判断に委ねられていたら、ローマはプラトンの「哲人政治」に近づいたかもしれません。しかしコンスタンティヌス体制がキリスト教の国教化に至ったために、キリスト教が背後にローマの権力をもつことになり、その後のキリスト教の歴史を大きく歪めたのではないかと考えてしまいます。キリスト教の国教化はすでにコンスタンティヌス帝がニカイア公会議を招集し、その公会議の決定が法的権威をもって、異なる見解の主教を追放した時に始まっていました。その後の公会議はすべてその決定を国家の権力で、あるいは何であれ力で強制することになり、宗教としてのキリスト教の歴史を悲劇的にします。その悲劇性は、その後のキリスト教の歴史を概観するだけで十分理解できることになります。以下の項目UとVで、キリスト教が東方と西方でそれぞれ別の形でその悲劇を演じた歴史を概観することになります。

西ローマ帝国の消滅とローマ・カトリック教会

 ローマ帝国は周辺の異民族が帝国の領内に侵入して来て略奪や殺戮を行うことを恐れて、強力な軍団を配備して、国境線を守備していました。皇帝の主要な任務はそれらの軍団の総司令官として国境を守備し、領内の安全を確保することでした。ローマは周辺の異民族を「蛮族」と呼んで(これは現代のわれわれが使うべきではない用語ですが)、その「蛮族対策」に国力を消費し、重税を課して経済を疲弊させていました。ローマはその「蛮族」と戦い、時には宥和してその支配に取り込んでいきます。後期にはその周辺の異民族からローマ軍に入る者もあり、軍団から推されて皇帝になった者もありました。周辺の異民族の中で最も強力なのは「ゲルマン民族」と総称されるゴート族、フランク族、ブルグンド族、アングロ・サクソン族などの諸部族でした。これらのゲルマン諸部族が圧迫されて「民族大移動」を起こして南下し、東ローマ帝国と西ローマ帝国に分割されていた帝国末期の西ローマに国境線を破って侵入してきます。当時短命の皇帝が何人も入れ替わり、統一を欠いて弱体化していた西ローマ帝国は異民族の侵入を受け、アラリクス王に率いられた西ゴート族に一時は帝都ローマさえも占領され、四七六年には西ローマ皇帝はゲルマンの傭兵隊長オドアケルによって廃位させされます。通常この年をもって、西ローマ帝国滅亡とされています。その他、ゲルマン諸部族は東ゴート王国、フランク王国、西ゴート王国、アングロ・サクソン王国を建て、ローマ帝国西部に住みつきます。
 通常、世界史の教科書では西ローマ帝国の最後の皇帝が廃位させられた四七六年を「ローマ帝国の滅亡」の年としていますが、これは不正確な理解であり表現です。コンスタンティノポリスを首都とするローマ帝国は健在であり、帝国はその西部を失っただけです。オドアケルもその後東ローマ帝国皇帝から西部の総督に任命されています。西部のローマ人たちも支配者が変わっただけで、国が滅亡したとは感じていなかったようです。しかしこの年を境目にして帝国の西部にはゲルマン諸族の王国が次々に建てられ、コンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国とは違った別の歴史をたどることになります。東部ではすでに見たようにテオドシウス帝によるキリスト教の国教化によって国家と宗教の関係は決定しています。東部のローマ帝国はキリスト教を国教とする体制でその歴史を進めていきます。それに対して西部では建国されたゲルマン系諸王国の宗教はまだ流動的です。しかし、そこには西部全体を自分の司教区として統合の責任を負っているとするローマ司教、同時に全教会の総司教を自認するローマ教皇がいます。ローマ教皇はこれらのゲルマン系の諸王国をローマ・カトリックの信仰の下に統合する事を使命として、強烈な運動を推し進めます。
 実はゲルマン系の諸部族の中の数部族は、ローマ帝国領内に侵攻して王国を建てる前にすでにキリスト教を受け入れていました。たとえば西ゴート族のウルフィラスはキリスト者の母によって幼いときからキリスト者として育ち、主教にも叙任されていました。彼は聖書をゴート語に翻訳して、ゴート人への布教に努め、「ゴート人の使徒」と呼ばれていました。しかしゲルマン系諸部族はアレイオス派のキリスト教を奉じていたので、ローマ教皇は彼らをニカイア派のカトリック信仰に導く活動を推し進めます。その活動の中で画期的な出来事はフランク族のクローヴィスがフランク族の各支族を統合して王となり、ローマ軍やアレマン族を破ります。これを神の加護としたクローヴィスが三千人の部下と共に四九六年のクリスマスにランスの司教から洗礼を受けてカトリックに改宗します。その後フランク族は近隣の西ゴート族やブルグンド族を次々と破り、ほぼ現在のフランスにあたる地域の統一を成し遂げます。こうしてゲルマン民族の中で最初にカトリックに改宗したフランク族から始まって、改宗は他の諸部族にも波及し、ゲルマン系諸部族は次々にアレイオス派の信仰を放棄し、カトリックになります。こうしてローマ教会は西方において強い影響力をもつようになり、確固とした基盤を築いていきます。
 こうしてコンスタンティヌス体制下のキリスト教はローマ帝国の東方と西方で状況は大きく変わり、それぞれに特有の形をとることになります。しかし両方ともコンスタンティヌス体制下のキリスト教であることは変わりません。以下の二つの項(UとV)でそれぞれの歴史を概観します。

U ビザンティン帝国におけるキリスト教と福音

はじめに

 前項で見たように、東と西に分割統治されていたローマ帝国の内、三世紀末頃からローマ帝国領内に侵入して来たゲルマン民族によって、西ローマ帝国は混乱の末ついに滅亡しますが、東ローマ帝国はそのような災難に遭うことも少なく、新しい首都コンスタンティノポリスを中心に発展していきます。この帝国は自分がローマ帝国でなくなったとは一度も思っていないのですから、われわれもこれを「ローマ帝国」と呼ぶべきなのでしょうが、ローマに都していない帝国はもはやローマ帝国ではないと見る人たちからは、新しい都が置かれたビザンティウムの丘の名をとって「ビザンティン帝国」と呼ばれるようになります。本書でも歴史的に定着したこの名称を用いますが、これはローマ帝国の継続であることを忘れないでおきたいと思います。
 本項Uでは、このビザンティン帝国の領域内でのキリスト教教会の動向とその中での福音の展開を概観したいと願っていますが、これまで見てきたように、ここではローマ帝国で確立していたコンスタンティヌス体制は貫かれ、とくに国教となっているキリスト教の地位は不動のものとなっています。このビザンティン帝国では皇帝が同時にキリスト教会のトップとして帝国と教会の両方を支配する体制、「皇帝教皇主義」と呼ばれる体制の下でキリスト教の諸活動が進んでいきます。従って時の皇帝の意向によってキリスト教政策が左右され、時の皇帝の意向によって主教が任免されたり、教会の動向が変わったりします。代々の皇帝の傾向やそれに伴う教会の動向をたどることはあまりに煩雑になるので、特別の場合以外は省略し、ここでは東方のキリスト教の特色となる数点を概観するにとどめます。

東方正教会と東方諸教会

 キリスト教会はコンスタンティヌス帝以来、皇帝によって招集された公会議の決定を公式の信条としてきました。その信条を告白する教会が正統派であり、それに反するキリスト教は異端とされました。四五一年にカルケドンで開かれた公会議で「カルケドン信条」が決定された結果、この信条に従うキリスト教が正統派とされ、この信条と異なる信仰をもつキリスト教は異端的な教会として抑圧されることになります。「カルケドン信条」では、キリストには神性と人性の両性が「混合することなく、変化することなく、分割することなく、分離することなく」あることが認められました。キリストにおける神性と人性の両性の中どちらかの一方だけを認めるとか、一方を重視して他方を軽んじる信仰理解を「単性論」と言いますが、東方の教会には単性論的な傾向の教会がかなりありました。キリスト信仰に立つ限り、すなわち人間としてこの地上に生きられたイエスを復活して神の右に座すキリストと信じる限り、イエス・キリストに人性と神性の両方があるとするキリスト理解は共通のはずですが、それでもその理解の仕方と表現には民族的・宗教的・個人的背景の違いから様々な特色と傾向があり、一つの理解は他の理解の仕方の表現を尊重し学び合わなければならないと思いますが、実際には教会や主教たちの利害や政治的立場の複雑な絡み合いがあり、相争うことになります。東方においては、このカルケドン信条に従う主流の教会は正統派となり、「ギリシア正教会」とか「東方正教会」と呼ばれます(東方正教会という呼び方は一〇五四年の東西教会の分裂後に限るべきだという主張もありますが、ここでは東方諸教会と区別するため分裂以前のカルケドン派の教会を広く指して用います)。それに対して、カルケドン信条に異をとなえ独自の道を行く教会も出てきます。すなわち正教会以外の諸教会も多く現れます。それらの諸教会は単性論的な傾向(キリストの神性の面を強調する傾向)の教会が多くなります。東方のキリスト教は、カルケドン信条を奉じるカルケドン派の「正教会」と、その他の非カルケドン派の諸教会に分かれます。これらの非カルケドン派の諸教会を「東方諸教会」と呼んでいます。
ビザンティン皇帝の中でやはり取り上げておくべきは、六世紀のユスティニアヌス帝(在位五二七〜五六五年)でしょう。彼は外に向かってはペルシアとの平和関係を築き、北アフリカのヴァンダル族、イタリアの東ゴート族を制圧し、スペインの西ゴートにまで出兵しています。内政面ではそれまでのローマ法を集大成してユスティニアヌス法典を作成し、プラトン以来のアカデミアを閉鎖、焼失した聖ソフィア聖堂を再建、公会議の招集(第二コンスタンティノポリス公会議)など「一国家一宗教」の原則を着々と実行し、いわゆる「皇帝教皇主義」の実現に進んでいきます。この公会議は帝国内になお争いが続く単性論者を取り込もうとする努力でしたが、あまり成功とは言えず、帝の死後の六世紀には各地に民族的色彩の強い単性論的な諸教会が成立し教会は分裂していきます。こうして民族的な色彩を強めていった非カルケドン派の「東方諸教会」の中のおもなものをあげておきます。
東方の諸地域ではネストリオス派が活発な布教活動を進めて、シリア(東部)、ペルシアなどの各地にキリスト教を広め、ペルシアからシルクロードを経てついには唐の時代の中国に達し、景教という名でキリスト教の寺院(教会堂)を建てるに至っています。さらに元の時代には一時的ですが一層拡大しています。聖武天皇の時代に景教の僧が来日、京都の太秦寺にはその名残があるとされています。なお、一二世紀の西欧に流布したプレスター・ジョン伝説は、東方のキリスト教徒の国王が西方のキリスト教世界を助けてくれるという伝説ですが、これはキリスト教に改宗したトルコ・タタール系の国王を指しているようです。このような事実からも、東方キリスト教が世界にいかに拡大していったかを、歴史書の背後に見ることができます。
アルメニア(黒海とカスピ海の中間)には二世紀からキリスト教の布教が行われ、最初にキリスト教を国教とした国として有名です。アルメニアはカルケドン信条のキリスト両性論に反対して単性論を主張、独自の道を行くことになります。七世紀以降はイスラム教徒の支配により衰退しますが、カトリック教会やプロテスタント教会とも交流して民族教会として存続しています。
エジプトではカルケドン公会議でアレクサンドリア主教が異端とされて、単性論教会となり、他のキリスト教諸派から孤立します。七世紀にエジプトはイスラム支配下に組み込まれ、キリスト教会は焼き払われるなどの迫害を受けますが、キリスト教徒は存続します。エジプトのキリスト教徒はアラビア語でクプトと呼ばれ、エジプトのキリスト教会はコプト教会として今日まで存続しています。イギリス統治時代に自由を回復しますが、現在イスラム国のエジプトではコプト教会は一割程度の少数派です。
このようにビザンティン帝国のキリスト教の統一を図ったカルケドン公会議が引き金となって、六世紀末にはビザンティン帝国のキリスト教は分裂します。その上七世紀には新しく勃興してきたイスラム勢力に攻撃され、ダマスコ、エルサレム、アンティオキア、アレクサンドリアが次々に陥落し、七世紀前半にはシリア、エジプト、北アフリカは永続的に奪取され、ビザンティン帝国の領域はずっと狭まります。

東方正教会における聖画像論争

東方キリスト教はビザンティン帝国の支配下、カルケドン信条に反する教会や勢力は追いやられて正統派が「正教会」として主流を形成していきます。その皇帝が支配する正教会において、教会で用いられる聖画像をめぐる論争が火種となって、八世紀の前半から九世紀の半ばに至る百年以上にわたって熾烈な権力闘争が起こります。聖画像(イコン)とはキリストをはじめマリアや諸聖人などを描いた画像に対して特別な敬意を表す宗教行為ですが、これが偶像礼拝になるとして教会における聖画像(イコン)の使用を禁止し、イコンそのものを破壊する聖画像破壊(イコノクラスム)にまで至る反対派と、聖画像に対する崇敬はその聖画像への礼拝ではなく、その画像によって表現されている画題を崇めているのであるとして教会における使用を認める擁護派の間の論争が聖画像論争です。その宗教上の論争に皇帝権力が介入するので激しい権力闘争になります。
皇帝レオ三世は聖画像を礼拝に用いることを禁止する運動を始めます。七三〇年に発した勅令に反対するコンスタンティノポリスの総主教を罷免します。ローマの教皇はこの動きに反対して、聖画像反対者を破門します。聖画像論争は論争の初めから東西のキリスト教会分裂の火種となります。聖画像反対は帝国の軍事勢力の支持を得て次の皇帝にも引き継がれますが、その次の皇帝妃になる擁護派のイレーネが七八七年にニカイアに招集した第二ニカイア公会議で聖画像崇拝を容認し、論争はひとまず終結します。この論争の過程で、当時優れた神学者として有名なダマスコのヨアンネスが皇帝に聖画像崇拝を擁護する書簡を送り続け、公会議での決定を助けます。このヨアンネスが著した『正統信仰論』はトマス・アクィナスなどの西方キリスト教の神学者にも大きな影響を与えたと言われています。
ひとまず聖画像崇拝は容認されましたが、論争は終息することはありませんでした。聖画像破壊(イコノクラスム)を強く支持する軍の支持を受けて、続く皇帝たちは擁護派の弾圧を続けますが、擁護派への迫害は小規模で散発的だったようです。しかし、やはり今回も擁護派の皇妃テオドラの尽力で八四三年に聖ソフィア大聖堂で開催された主教会議で、聖画像復活が決議されて、高らかに宣言されます。以後、東方正教会の教会堂には聖画像(イコン)が溢れるようになっていきます。
ユダヤ教から出た一神教宗教であるキリスト教とイスラム教は偶像礼拝を厳しく禁じています。現代ではイスラム原理主義的で過激な一派がこれまでの人類の宗教史に現れた神像や仏像や宗教遺産を破壊して、それらを人類の貴重な文化遺産だとする現代人の顰蹙をかっています。彼らは今の自分たちの宗教を絶対永遠だとして、宗教と文化との区別を知らず、他者を愛して他者の信仰や宗教を尊重することを知らず、今の自分たちの信条を暴力で歴史に押しつけているだけです。彼らの蛮行を止めさせるには、イスラム教がその宗教の深みに達して、自己を相対化する知恵と思想を確立することが必要でしょう。

東方キリスト教における修道制の進展

先の項で見たように、コンスタンティヌス体制がキリスト教の国教化までに至ったために、キリスト教会の形式化と世俗化が避けられませんでした。その中でキリスト信仰の深化と純粋化を追求するキリスト者は、教会の外でその道を探りました。その努力が古代キリスト教の中に修道院制度を生み出す原動力になりました。修道院運動の端緒については、先の項でごく簡単に触れましたが、ここでは東方キリスト教世界でその修道院運動がどのように進展したのかを概観しておきたいと思います。
地中海世界にキリスト教という新しい宗教が形成される以前のギリシア・ローマ世界には倫理上の美徳として節制が重んじられ、さらに健康維持や病弱に対処するための養生訓として禁欲が行われていました。性欲や金銭欲などの我欲を野放しにすれば、社会にも倫理にも健康にも有害だとして禁欲に向かう傾向は強くありました。そこにキリスト教が入ってきたとき、人間の深みにおいて神との交わりを深め、信仰を確かなものにするため、この禁欲が宗教的な動機を得て一層強められます。禁欲的な宗教的活動は、エジプト国内のユダヤ教にも見られましたが、キリスト教においてもエジプトで始まります。最初は個人的な信仰追求の活動として始まります。それがエジプトから始まったのは、おそらくエジプトでは人が住まない砂漠が近くにあって、人間の欲望が渦巻く俗世から、俗世の交わりを断って禁欲生活に向かうのに適していたからでしょうか。事実、エジプトには俗世の交わりを絶って人里離れたところに独り住んで、断食や祈りに励む「隠修士」が多くいました。
最初の禁欲的な修道士の典型とされるアントニオスもそうした隠修士の一人です。ナイル川畔の町の高貴な家柄でキリスト教徒の両親から二五〇年ごろに生まれたアントニオスは、二十歳のころ財産を売り払って貧しい人たちに施し、そうした独居の隠修士の一人として修行に励みます。そして約二十年後に病人を癒すなどの活動を始め人々の尊敬を集め、多くの隠修士が彼の周りに集まるようになります。彼が高齢で没した翌年に、アレクサンドリアの主教のアタナシオスがアントニオスの伝記を書き、アントニオスの修道の在り方を広く知らせ、その後の修道制の発展の土台となります。アタナシオスといえば、同じアレクサンドリア教会の司祭アレイオスのキリストが神の被造者であるという説に反対してキリストの神性を強く主張し、ニカイア公会議でニカイア信条採決に至らせた立役者であり、後にアレクサンドリアの主教にあげられますが、アレイオス主義に傾く皇帝から五度も追放処分を受け、波乱の生涯を送った教父です。そのアタナシオスが書いた『アントニオス伝』はギリシア語からラテン語に翻訳され、東方でも西方でも広く読まれて、アントニオスの生涯は後の東西の修道制の手本となります。アントニオスは迫害のディオクレティアヌス帝と寛容令のコンスタンティヌス帝の両方の同時代人であり、迫害の時代に殉教の機会を失い、「日々の殉教」として修道に励んだという一面もあったようです。
アントニオスの時代と重なりますが、エジプトには多くの修道士が共住する修道院が始まっています。創始者となるパコミウスは二九〇年ごろ上エジプトに生まれ、兵役中に隣人愛に目覚め、しばらく独居型の修道生活を行いますが、修道を志す者は一人で祈りや断食などを行うより、一緒に住んで共同の生活の中で典礼、食事、労働を共に行って修道に励む方が望ましいとして、共住型の修道院を開くに至ります。彼は三四七年に亡くなるまでに、九つの男子修道院と二つの女子修道院を建てています。それぞれの修道院には二〇人ほどが住み、服装も統一し、修道院長の指導の下で典礼、食事、労働を共にしました。成文規則は散逸しましたが、その断片やギリシア語の抜粋が残されています。
パコミウスから少し後の三三〇年ごろにカッパドキアの都市カエサリアに生まれたバシレイオスは、殉教者の娘である母親からキリスト教を、法律家で修辞学者であった父親からリベラルアーツ(基礎学科)の教育を受け、成長してからコンスタンティノポリスやアテネに留学して、ギリシア哲学とキリスト教思想の両方を深め、学友のナズアンゾスのグレゴリオスとニッサのグレゴリオスと共に「カッパドキア三教父」として讃えられるようになります。バシレイオスは若い時から修道生活に憧れ、アテネ留学の後エジプトやパレスチナの修道士を訪れて見聞を広め、帰郷後は森に隠棲して修道生活を始めます。そこに多くの修道士が指導を求めて集まります。バシレイオスはパコミウスが始めた共住型の修道生活を推奨し、友人のナジアンゾスのグレゴリオスも加わって修道院を建て、そこでの修道規則を体系化して「修道士大規定」、「修道士小規定」を編纂します。このバシレイオスの修道規定は東方のキリスト教世界では現代に至るまで修道院の基本法として、ほぼ統一規則のように守られています。この規定では、修道生活を志す者は私有財産、肉親の絆、福音に反する生活習慣を捨てて外部世界から隔絶することを厳しく求め、内においては修道院長に絶対服従することを求めています。バシレイオス自身は三六四年に主教に請われて修道院を出て、カエサリア教会の司祭から主教となって教会を指導します。こうしてバシレイオスは脱俗的な修道院と社会の中で生きる教会の橋渡しをすると共に、世俗と共に教会からも離れた修道士が未開拓の地に福音を携えていく道を開いたと言えます。バシレイオスは修道院を教会組織の中に組み入れる道を開きました。次の項(V)で見ることになりますが、後に西方に伝えられた修道院はこのような体制の中で進展することになります。
こうして始まった東方キリスト教の修道制は各地に広がり、多くの修道院が建てられます。中でも特筆すべきはギリシアのアトス山に建てられた修道院群でしょう。ギリシアの北部でエーゲ海に突き出た細長い半島の先端に聳えるアトス山(標高2033m)は、海からしか接近できない俗世から遮断された地であり、九世紀ごろから修道士が住みついていました。一〇世紀の半ば(九六一年)にアトス最古の修道院となるメギスティ・ラヴラ修道院が建てられ、その後四十年ほどの間に四六の修道院を数える修道院群となります。その後盛衰を重ねますが、オスマン帝国支配の時代も含めて現代まで自治を認められた宗教共同体として存続し、ギリシア正教の霊的土台を支える本山のような役割を果たしています。一四世紀にはアトスの修道士グレゴリオス・パラマス(後にテサロニケ大主教)によって擁護された「静寂主義」は、多くの論争もありましたが、東方キリスト教の特質をよく示しています。静寂主義(ヘシュカスモス)というのは、山上のキリストの変容の場面(マタイ一七・一〜一三)を根拠にして、特別な祈り方によって神を見ることができるという、修道制神秘主義の典型のような主張です。神を見るというような発想は人間と神との断絶を曖昧にするのではないかという批判に対して、パラマスは変容の時の光を神の実体ではなく働き《エネルゲイア》の現れであるとして、人間も見ることができるとしました。
修道院は俗世からの誘惑を避けるという意味で始まりましたが、同時に迫害や抑圧から逃れて世俗の争いを避けるためにも用いられました。カッパドキアの地下都市群は現代では観光地ですが、もともとは外敵から身を守るために地形を利用した手段でした。それがローマ帝国やイスラム支配からのキリスト教迫害時代に信仰を維持するために用いられ、地下都市には教会や修道院が多く建設されます。また、イスラム支配の圧迫を避けるために、アトスから出た修道士がギリシアのメテオラの断崖絶壁の上に修道院を建設します。一三五六年に修道士アサナシオスがメテオラに「メタモルフォシス(変容)修道院」を建て、その周りの絶壁の上に修道院群ができます。絶壁の上の修道院は外敵を防ぐとともに俗世の交わりを断ちます。
このような修道制は確かにキリスト教世界の霊性を深め、未開の地に福音をもたらす力として重要な意味をもちました。キリスト教という宗教は、キリスト教会ではなく修道院においてその宗教性をとくによく現しています。しかし、禁欲と服従の倫理の上に立つ修道制が果たして福音的であるかどうかという基本的な問いは、歴史の中で大きなうねりとなって宗教改革を引き起こすことになります。この問題は次節で宗教改革を取り上げる時に触れることになります。

東方キリスト教のスラブへの拡大

ローマ帝国が東と西に分割されたとき、西ローマ帝国はゲルマン民族の侵攻を受けて476年に滅亡します。それに対して東ローマ帝国はゲルマン民族侵攻を受けることなく、(先に「東方正教会と東方諸教会」の項で見たように)首都コンスタンティノポリスを中心にキリスト教と一体化したビザンティン帝国として発展していきます。ビザンティン帝国は公会議を重ねての教義の統一や聖画像論争に見られるような典礼の統一などの内部問題に忙殺されますが、その間にも修道制を発展させて内面的な霊性の深化を追求すると共に、修道士は未開拓の周辺の地にキリスト教を広める努力を続けます。七世紀にイスラム勢力によってパレスチナ、エジプト、北アフリカを奪われて以来、ビザンティン帝国の周辺はスラブ民族の土地ということになり、その宣教活動はおもにスラブ系諸族への働きかけとなります。
スラブ民族というのは、共通のスラブ諸語の近親性、民族的起源の同一性、文化の類似性によってひとまとまりとして扱われるヨーロッパ諸民族中で最大の民族です。その地理的位置から、東スラブ族(ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)、西スラブ族(ポーランド人、チェコ人、スロバキア人)、南スラブ族(ブルガリア人、セルビア人、クロアチア人など)の三群に分類されています。スラブ人が歴史の舞台に登場するのは比較的遅く一世紀頃からです。スラブ人の宗教は氏族の祖霊信仰であり、天空の神や雷神信仰など農耕儀礼も行われていました。一〇世紀頃には氏族神崇拝は部族宗教的な宗教に変容し、それがキリスト教に道を譲ることになります。キリスト教は九世紀から十二世紀にかけてスラブ民族の間に広まり、キリスト教が国家宗教の位置を占めて、スラブ民族の国家統一を促進し、同時にスラブ人に文字と学芸をもたらし、独自の民族文化の伝統を築くことを促進します。キリスト教をビザンティン帝国から受けたかローマから受けたかによって、スラブ世界は東方正教圏とローマ・カトリック圏に分かれ、後世のスラブの歴史を複雑にします。このことは後に扱うことになりますが、ここではビザンティン帝国が周辺のスラブ民族にキリスト教を伝えて、その支配領域を拡大した歴史を概観しておきます。
 スラブ民族への宣教においては、九世紀後半における兄メトディオスと弟キュリロスのギリシア人兄弟の活動が大きく貢献しています。彼らはテサロニケ出身のギリシア正教会の高位の聖職者でしたが、ビザンティン皇帝によってモラヴィアに派遣されます。そこでキュリロスはロシア語のアルファベットの基礎となるスラブ語のアルファベットを考案し、福音書をスラブ語に翻訳してスラブ宣教に貢献し、ロシアでもキュリロスが考案したアルファベット(キリル文字)が用いられるようになります。スラブ民族にはそれまで文字がありませんでした。ロシア語文字がギリシア語文字と酷似しているのはこの時からです。
この時にも東方と西方の勢力圏闘争があって西方が優勢となり、西方のキリスト教がモラヴィアからボヘミアへと伝えられていきます。しかし十世紀になって九五七年にロシア女王のオルガがコンスタンティノポリスを訪問、洗礼を受けてロシアに東方正教のキリスト教を導入します。孫のウラジミール大公も洗礼を受けて臣下にもそれに従わせ、学校を設立するなど、ロシアのキリスト教化に努めます。その息子の時代にはキエフ中心に高度なキリスト教文化が築かれます。ビザンティン帝国滅亡後のロシアのキリスト教については、次の項で触れることになります。

東西両教会の分裂とビザンティン帝国の滅亡

ローマ帝国がキリスト教を国教とした四世紀末から五世紀にかけて、全国は五つの総主教(司教)区に分けられていました。すなわち、ローマ、コンスタンティノポリス、アンティオキア、アレクサンドリア、エルサレムの五つです。しかし七世紀にはイスラム勢力がシリア、パレスチナ、エジプト、北アフリカを支配するようになり、九世紀が始まる頃にはキリスト教の中心地として残っていたのはローマとコンスタンティノポリスの二つになっていました。その過程でローマとコンスタンティノポリスは共に主導権を争い、教理や典礼の問題で紛争が絶えませんでした。カルケドン信条をめぐる紛争でローマ教皇が四八四年にコンスタンティノポリス総主教のアカキオスに破門を通告して以来、五一八年まで東西両教会は分離した状態を続けます。さらに八世紀から九世紀にかけて起こった聖画像論争にローマ教皇が介入して相互の不信は増幅され、八〇〇年にローマ教皇がカール大帝に戴冠したことも東西教会の体質の違いを際立たせます。
そのカール大帝が聖霊の発出について西方の教会会議の決定を認めたことが大きな火種となります。ニカイア・コンスタンティノポリス信条には「聖霊は父から出て」とありましたが、八〇九年のアーヘン教会会議は「聖霊は父および子から出て」と、「および子から」(ラテン語で「フィリオ・クェ」)を加えたのです。変更を許さない公会議の信条に付け加えたとして、東方正教会は反発してローマ教皇を断罪します。しかし、この決定は聖職資格のない神学者フォティオスによるものとしてローマの反発を招くなど、この「フィリオ・クェ」の問題が紛糾して、ついに東西両教会の分裂に至ります。一〇五四年にローマ教皇は特使をコンスタンティノポリスに送り、聖ソフィア大聖堂の主祭壇に総主教とその追従者の破門状を置きます。それに対してコンスタンティノポリス総主教はローマ教皇を破門します。この相互破門による分裂状態は、二〇世紀の半ばにローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教が和解するまで、千年近くも続くことになります。
分裂後の東方正教会について一言付け加えておきます。両教会が分裂した十一世紀の終わりに、西方教会に十字軍運動が起こり、一〇九九年に十字軍はエルサレム王国、アンティオキア公国、トリポリ公国、エデッサ公国などのラテン王国を築きます。十字軍は東方正教会を無視してラテン式典礼を押し付けます。十字軍の遠征は繰り返し行われ地中海東部に攻め入り、一三世紀の初めには第四回十字軍が、こともあろうにコンスタンティノポリスを占領してラテン王国を樹立します。この占領のさいイタリア人が多大の富や財宝を略奪したので、ビザンティンの西欧に対する感情はますます悪くなります。このラテン王国は一二六一年にビザンティン皇帝が取り戻すまで続きます。その後、東方正教会はローマの首位権や「フィリオ・クェ」入りの信条を認めるなど譲歩して合同に努めますが、両方の内部事情により合同は実現しませんでした。多くの教会会議を重ねた末、一四五二年にビザンティン皇帝が聖ソフィア大聖堂で東西両教会の合同を正式に宣言しますが、その翌年の一四五三年にコンスタンティノポリスはオスマン帝国のスルタンであるメフメト二世に占領されて、ビザンティン帝国は滅亡し、合同はついになりませんでした。
ビザンティン帝国が滅んでも東方正教会が存続しえたのは、それ以前に正教会がスラブ民族に東方正教のキリスト教を伝えていたからでした。ロシア正教会はモンゴルの侵入によって大打撃を受け、その中心地はキエフからウラジーミルへ、さらにモスクワへと移っていました。ビザンティン帝国が滅亡した後、一四九八年にロシア大公のイヴァン三世は府主教シメオンによって戴冠されます。これは明らかに自らを「第三のローマ」として位置づけることであり、ロシアはビザンティン帝国の後継者をもって任じ、ロシア正教が東方正教を引き継ぐことになります。その後のロシア思想には東方キリスト教の深い霊性が見られるようになります。ブルガリア、セルビア、ルーマニアなどのバルカン半島のスラブ系諸国は、東方正教会とカトリック教会の活動が交錯し、また異民族の支配を受けるなど、複雑な歴史をたどることになります。

キリスト教の東漸 ー ネストリウス派を中心に

以上はおもに東方正教会の歴史の概略でしたが、非カルケドン派の東方諸教会は、東方正教会の皇帝教皇主義の枠の外にいるのですから、皇帝が召集する公会議の決定に拘束されることはありません。教義においても活動形態においても皇帝権力に拘束されず、より自由に自分の内からの力によって、教会が保持する福音を外に向かって宣べ伝えていくことができます。他の東方諸教会のことはよく知りませんのでそれぞれの専門の研究書に委ねて、ここではその一例としてネストリウス派の福音活動を取り上げておきます。なお、カルケドン公会議で異端とされたのはコンスタンティノポリス総主教のネストリオスですが、以下の叙述では彼の信仰の継承者たちの一派を、宗教学の慣例にしたがって、ラテン語系の発音で「ネストリウス派」と呼びます。
皇帝教皇主義の枠から追い出されて、ネストリウス派は皇帝の支配領域から離れて外に向かいます。ネストリウス派の伝道者は東に向かい、ペルシアからインド、さらに中国に向かいます。ペルシアやインドでどのようなキリスト教を残したのか、詳細はその分野の研究書を待たなければなりませんが、ここではごく簡単に触れるだけにとどめ、比較的資料が多い中国での活動に絞って簡単に述べておきます。カルケドン公会議でネストリオスが追放されたのが四五一年で、ネストリウス派キリスト教が中国に到達したのが六五三年ですから、僅か二〇〇年でキリスト教がユーラシア大陸の東端に達していたことになります。これはキリスト教宗教が内に秘めている福音のエネルギーの凄さを示しています。インド亜大陸に生まれた仏教が何世紀もかけて、ヒマラヤを超えてチベット、中国、朝鮮半島、日本に到来したことは「仏教の東漸」と呼ばれますが、その呼び方を用いますと、パレスチナとシリアで生まれたキリスト教も東漸して中国に達しているのです。ここでネストリウス派を中心に、キリスト教が東漸して中国に達した歴史の概略を見ておきましょう。西に向かった福音は、西ヨーロッパと北アフリカにローマ・カトリックのキリスト教世界を形成し(これは次項Vで)、南に向かった福音は、エジプトのコプト教会とヌビアのエチオピア教会を残します。ここでは東に向かった福音の跡をたどることになります。
シリアから東に向かったキリスト教はネストリウス派だけでなく、ヤコブ派やトマス派などがあります。シリアの非カルケドン派教会は、正式にはシリア正教会ですが、後に六世紀に出た傑出した指導者ヤコブ・パラダイオスの名前からヤコブ派と呼ばれることになります。ヤコブ派はメソポタミア、ペルシア、アラビアの諸地域に進出して教会を形成しています。トマス派は、外典の『トマス行伝』によれば、シリアのエデッサに福音を伝えた使徒トマスが、さらに東に向かい、インドにキリスト教を伝えたとされています。事実、インド西海岸南部のマラバール地方にはトマス派教会があり、創立者として使徒トマスを誇っています。その後アラビア半島から海路インド南部に達したネストリウス派は、その地にかなりの勢力を築いています。その地域には当時交易に従事するユダヤ人、ギリシア人、シリア人が住んでいたので、そこで活動したネストリウス派も、おそらくトマス派の教会と融合して、インドにおけるキリスト教として存続したという推察も可能です。こうしてネストリウス派は他派と競合しながら、また協力しながらキリスト教を東方に広めます。
すでに五世紀半ばには、ネストリウス派の有能な指導者バル・サウマーは、ローマ帝国の弾圧を逃れてエデッサからペルシア領のニシビスに至り、ここに神学校を建てて拠点とし、王の厚遇を得て、ネストリウス派キリスト教をペルシア(現代のイラン)で確立しています。六世紀には修道制も出来ています。七世紀に入るとこの地域もイスラムが支配することになりますが、ここではビザンティン帝国の圧政よりも一神教宗教の自由を認めるイスラムの方が好ましいとして、イスラム支配下でネストリウス派は安定して繁栄し、イスラム文化の形成に貢献します。初期のイスラム教徒はシリア語を媒介として古典ギリシアの学問を吸収しますが、その際シリア語のネストリウス派やヤコブ派のギリシア学者や医師、技術者が活躍することになります。ネストリウス派の首長はカトリコスと呼ばれますが、八世紀にカトリコスの座を、新しくアッバース朝の首都になったバグダードに移しています。八世紀末から九世紀にかけて四十年間カトリコスの座にあったティモテオスの時代に、ペルシアのネストリウス派は黄金期を迎え、イスラムの布教に先立って、中央アジアから中国にかけての全域に福音活動を進めます。
このような東方への福音の大きな流れの中で、ネストリウス派キリスト教がペルシアから中国に到達します。その証言が「大秦景教流行中国碑」です。その碑文によって初伝(六三五年)から碑が作られた時代(七八〇年代)までの中国におけるネストリウス派キリスト教の歴史を知ることができます(この碑は西安の博物館にありますが、複製が京大と高野山にあります)。それによると、唐の太宗の時代にペルシアの修道士アラホン(碑文では阿羅本、以下同様に人名は漢字で書かれていますが省略)を団長とする伝道団が長安に到着します。太宗は彼らを宮中に迎え入れ、その教えを聞き、その経典の翻訳を勅許、布教を勧め、その後長安に寺院を建て僧二一人を出家させた(修道院を建て修道士を送った)とされています。キリスト教は中国で景教と称されましたが、これは宇宙の根源をなす「大日」を、日という字と人知を超えた巨大さを表す京を組み合わせた文字を当てて指したのでしょうか。次の高宗も景教を保護し、諸州にその寺院を建て、アラホンを尊敬して鎮国大法主としています。仏教に傾いた則天武后の時には少し衰えますが、玄宗の時代には再び保護を受け、カトリコスから有力主教の派遣もあって教勢を伸ばします。当初はこの新しい宗教がペルシアから来たので、その宗教は波斯教、その寺院を波斯寺と呼んでいましたが、実はその発生の地が大秦国であると知って、七四五年に波斯寺を大秦寺と改めます。大秦とはおそらくローマ帝国を指すのでしょう。その後も歴代の皇帝によって保護され、七八一年建立の「大秦景教流行中国碑」には堂々たる漢文でキリスト教の核心が見事に表現されています。碑文の作者はペルシア人主教のアダム(景浄)で、忠孝というような中国古来の価値観も取り入れています。唐に留学した空海も初期の景教に、すなわちキリスト教に触れていると考えられます。
このように七世紀から八世紀にかけて景教は発展しますが、九世紀には道教の信仰心が厚い武帝が行った廃仏の際、外来の宗教は一律に禁止したので、景教も迫害されて衰えます。次の宋の時代の初めには中国本土には景教徒の姿はなかったと言われています。しかし西北辺境部や中央アジアではキリスト教の信仰は維持され、ネストリウス派は積極的に活動を続けています。その地帯は諸民族が入り乱れ、その歴史は複雑で一つひとつをたどることはできませんので、キリスト教の東漸という本項の主題に関する二、三の出来事に限ります。だいたい中央アジアの歴史は、北方の遊牧民の騎馬軍団の軍事力と南方の定住農耕民の経済力が複雑に絡み合って展開する歴史です。典型的な例は、モンゴル族のチンギス・ハーンと彼が建てたモンゴル帝国です。ここで十三世紀初頭のモンゴル帝国成立に至る歴史の中で、ネストリウス派キリスト教に関わることをまず見ておきましょう。
十一世紀の初頭、一〇〇七年にトルコ・タタール系民族の中でもっとも有力なケレイト族の王が、不思議な出来事によって回心し、ネストリウス派の教えを聞いて民と共にキリスト教に改宗しています。ケレイト族の首都カラコルムにはネストリウス派の教会堂が建てられています。十二世紀の中頃のヨーロッパでは、プレスター・ジョンと呼ばれるキリスト教徒の王が東方のどこかから現れて、ヨーロッパのキリスト教徒を助けてくれるであろうという伝説が流布します。この王が誰を指すのか諸説があって分かりませんが、ケレイト族の王を指すことはほぼ確実だとされています。実は、チンギス・ハーンはこのケレイト族の女性を妻としており、この妻がキリスト教徒であったことで、彼の被征服民に対する宗教政策が寛容になったと言われています。同じタタール系のモンゴル族が近くのケレイト族を征服したとき、このケレイト族はネストリウス派キリスト教をはじめ進んだ文化を取り入れていたので、モンゴルがその騎馬軍団の威力で各地を制覇して帝国を築いたとき、その将軍やハーンの妻にネストリウス派の信徒がいて諸宗教に寛大な扱いをしています。十三世紀後半にモンゴルが中国を支配して元朝が成立したとき、崇福司という役所が設けられてキリスト教徒を管轄します。この時期にはネストリウス派は中国各地に布教し、揚子江下流地域に教会が出来ています。しかし十四世紀後半には、明朝の排外政策のために中国のネストリウス派は消滅します。
その後、モンゴル支配者のイスラム改宗をきっかけに、ペルシアをはじめネストリウス派は急速に衰え、ティムールの遠征も決定的な打撃となって、中央アジアのキリスト教も姿を消します。一部のネストリウス派はカトリック教会と合同を図り、カルデア教会として生き延びますが、ネストリウス派は歴史の舞台から消えることになります。しかしこのネストリウス派の働きによってキリスト教が、そしてキリスト教に担われて福音が中国にまで達していた事実、すなわちキリスト教とその中での福音の東漸を知ります。空海が唐の長安で触れたのはキリスト教という宗教であって、その中に響いている神の言葉、福音の命ではなかったのか、彼は帰国して真言密教という形で仏教の改革者となります。高野山で「大秦景教流行中国碑」に対面したとき、福音を世界の全地に与えようとされる神の御心を感じることができた思いです。この碑は、西のアテネのアレオパゴスの岩山に刻まれたパウロの説教と対応して、福音が全世界に満たされることを願っておられる神の御心を人類の歴史に刻印しています。

V 中世ローマ・カトリック教会と福音

はじめに

 西ローマ帝国がゲルマンの侵入によって滅び、その支配領域が東方に限られたローマ帝国は、その国教であったキリスト教との関係で、西方では違った歴史を歩むことになります。東方では皇帝の統制と支配が継続して「皇帝教皇主義」と呼ばれる体制が続きますが、西方ではもはやローマ帝国は存在せず、西方の諸地域を司教区とするローマ教皇はその宗教的権威で西方の諸民族を統合しなければなりません。ローマ教皇はその宗教的権威をもって西方に定住したゲルマンの諸族を統合してローマ・カトリック世界を築きあげます。以前からローマの司教はペトロの後継司教として世界のキリスト教会に対する首位権を主張して、教皇(パパ)と呼ばれてきました。カルケドン公会議で主導的な役割を果たしたローマ司教のレオ一世は、ローマとコンスタンティノポリスの並立管轄権に激しく反対しました。ゲルマン人が西方に定住して民族的な国家を形成したとき、その国王たちはゲルマンの古来の国家祭司主義の慣習から自国のキリスト教会の首長でもあることを望み、自国の教会会議を招集し、司教を任命し、国法を教会にも適用しようとします。それはキリスト教の宗教的権威をもって自己の司教区である西欧全体を統合しようとするローマ教皇権と衝突します。この両権力の力関係の在り方が西方のキリスト教の歴史を形成します。その関係は、五世紀の終わりの四八六年にゲルマンのフランク族の王クローヴィスが多くの臣下と共にランスの司教から洗礼を受けてカトリックに改宗した事実に象徴されるように、また「カノッサの屈辱」事件で頂点に達するように、ローマ教皇はゲルマン諸族の王の上に立って、西欧世界を統合する体制、「教皇皇帝主義」と呼ばれる体制を作り上げていきます。
しかしその問題に入る前に、キリスト教会の霊的権威の拠り所となった修道制が東方から西方に移植されて発展した歴史を瞥見して、西欧キリスト教の歩みに進みたいと思います。

東方修道制の西方への伝搬

 キリスト教の修道制がエジプトで始まり、アレクサンドリアの総主教アタナシオスが書いた独住の隠修士アントニオスの伝記が西方でも広く読まれたことや、パコミウスが始めた共住型の修道院がカッパドキアのバシレイオスによって修道院が各地に成立して、修道士規約を持つ修道院が東方各地に発展していったことは先に述べました。この東方修道院制は、東方に旅して修道院の重要性を知り体験した西方の教会指導者たちによって西方に紹介され、同じような修道院が建てられるようになります。この東方修道制の西方への伝播は、まだ西ローマ帝国が滅びないで存続していた時期から始まっていました。
ヘブライ語の旧約聖書やギリシア語の新約聖書をラテン語に翻訳して、ラテン語を用いる西方教会に公式の聖書とされるウルガタをもたらし、古代教会随一の学者とされる教父ヒエロニムスは、ベツレヘムに修道院を建て、四二〇年に没するまでそこで修業、教育、執筆に励みます。彼はおもに東方に男子修道院と女子修道院を建てていますが、交友関係にあったローマ教皇や貴族の夫人たちに書簡でバシレイオスの修道規則を紹介するなどして、西方に修道院における共住修道生活を勧めています。続いて三六〇年ころに生まれたヨハネス・カッシアヌスは、ベツレヘムやエジプトの修道院を体験し、ローマに戻って司祭となってからはマルセイユに男女並存修道院を建てます。男子が住んだサン・ヴィクトール修道院は中世の南フランスを代表する修道院として、現代にいたるまでその長い歴史を伝えています。ほぼ同じ時期にホノラトゥスが南仏プロヴァンス沖のレランス諸島に修道院を建てています。このようにして発足した「古ガリア修道制」は、修業の場であると共に古典教育など学問の場として多くの人材を輩出し、創立者ホノラトゥスがアルルの司教となったように、ローヌ川を中心とするガリアの有力な司教を多く出しています。
 古代教会の神学を集大成した教父として著名なアウグスティヌスは、三五四年に北アフリカの小都市タガステに生まれます。カルタゴで修辞学を修めたのち、ローマを経てミラノに行き、そこで司教アンブロシウスの説教に感動して洗礼を受けます。そのミラノでエジプトの修道士アントニオスや修道院生活のことを知って修道生活に憧れ、故郷のタガステに戻ると母や友人たちと節制と祈りの共同生活を始めます。三九一年にヒッポの司祭になるとそこに最初の修道院を建て、三九五年に司教になると二番目の修道院を建てます。アウグスティヌスはそこで修道生活を送る修道士のために数種の修道規則の著作を出していますが、それまでの草創期の諸規則と同様に修道士の労働を重視しています。彼の著作『修道士の労働』は、当時のカルタゴに福音書の記事を根拠に労働せず施しで生活する修道士がいて、その支持者と反対者の間に争いが起こったので、カルタゴの司教がアウグスティヌスに執筆を依頼したということです。この書でアウグスティヌスは、空の鳥・野の花の主の言葉を労働不要と解するのは聖書解釈の誤りであることを説き、パウロの実例から「働かないものは食べてはならない」の原則によって、労働を共同体のためのものとして重視しています。アウグスティヌスの修道院規則は、次に述べるベネディクトゥスの戒律と並んでローマ・カトリック世界の修道院の土台として尊ばれます。
ベネディクトゥスは、西ローマ帝国滅亡直後の四八〇年ころにローマ近くの小都市ヌルシアに生まれ、ローマで哲学と法律を修め、それから荒野での三十年近くの孤独な修業の後、弟子たちと共にローマの南にあるモンテ・カッシーノに修道院を建て、そこで修道院運営の規範となる詳細な『戒律』を執筆し、以後の西方での修道院のモデルとなります。彼の伝記は、アナタシオスがアントニオスの伝記を書いたように、彼から一世代後の教皇グレゴリウス一世が書いて、その功績を讃えています。ベネディクトゥスがモンテ・カッシーノに修道院を建てたのは五二九年と考えられますが、五四七年ころに亡くなるまでの間に『戒律』(レグラ)を執筆しています。その『戒律』は、独住・放浪の修道に反対して、修道院長の指導下に共住する修道院を推奨し、「祈り、働け」をモットーに一日のスケジュールを詳細に定めています。また、ベネディクトゥスは読書や学習を修道院生活の重要な要素と考え、そのための時間も十分取っています。教皇グレゴリウス一世はゲルマン人にキリスト教を伝えるために修道士を派遣しますが、西方世界では修道院が修業の場だけではなく、宣教や教育の中心にもなっていきます。
東方正教の場合と同じく、西欧のローマ・カトリックのキリスト教においても、修道院はキリスト信仰と霊性の深化、福音共同体の追求、福音の未開地への拡大にとって重要な意義を担うことになります。その修道制の西欧における端緒はここで見ましたので、その進展は改めて別の項で扱うことにして、ここから西欧中世のローマ・カトリックのキリスト教の展開の概要とその問題点を見ることにします。

ベネディクトゥスが定めた修道院生活の諸規則(レグラ)は、その後の西欧キリスト教の多くの修道院で「聖ベネディクトゥスの会則」として基本的な規則として用いられます。しかし、この「レグラ」が「戒律」と訳されると、仏教的伝統にあるわたしたちには、キリスト教の修道院規定とは仏教における「戒律」に相当するもの、逆に仏教における「戒律」とは修道院規則のことだと思い当たります。信だけを説く大乗仏教においても戒律が重視されるのは、寺院が本来出家した僧や尼僧が集まって修業する僧院(サンガ)のことであり、そこでの生活と行動の規則を定めたものである以上、当然のこととなります。信による救済を説く大乗仏教における大乗戒の位置づけは、福音に立つ宗教であるキリスト教における修道院規則の位置づけと同じ問題になります。

ローマ教会によるゲルマン民族への布教

西欧の中世キリスト教の歴史をたどる時、最初に触れなければならないのは、やはり大グレゴリウスと呼ばれた教皇グレゴリウス一世(在位五九〇〜六〇四年)です。グレゴリウスは西ローマ滅亡後の五四〇年に、ローマの元老院議員の家に生まれ、修辞学や法律学の高い教育を受けて、ローマ市の総督に任じられています。当時イタリアはロンバルド族による略奪下にありました。その後、彼は所領を売却、貧民に施し、自ら修道士となり、七つの修道院を創設しています。五九〇年に推されて教皇に就任してからは、政治力を発揮、ロンバルド族からローマを守り、ビザンティン帝国の勢力から教皇領を守り、西方諸地域の教会をその勢力下におきます。とくにブリタニア(現在のイギリス)に修道院長オーガスティンを修道士たちと共に派遣して、ブリタニアのキリスト教化に努めます。彼は後にカンタベリーの大司教に任命されますが、グレゴリウスはイングランドを二分して二つの大司教区として、カンタベリーとヨークの二管区制にします。グレゴリウスは典礼の整備にも力を注ぎ、教会の礼拝で用いられる聖歌を統一して、グレゴリオ聖歌を編纂しています。
イギリスにはそれ以前にすでにキリスト教が伝えられていました。すでに五世紀後半から六世紀にかけて、アイルランドではパトリックとその後継者が修道院を中心に布教しており、スコットランドではコロンバがアイオナ島の修道院を拠点にして伝道していました。このようなケルト系のキリスト教徒は、七世紀に入るとアングロ・サクソン族にも伝道しますが、その際、ローマから伝わったキリスト教とケルト系のキリスト教との間に軋轢が生じます。結局ローマの立場が認められることになります。こうして、ローマ型の教区制とケルト型の修道院的形態が合流して、八世紀から九世紀にかけて、イギリスで豊かなキリスト教文化が醸成され、それが大陸に持ち込まれてヨーロッパのキリスト教化に貢献します。アングロ・サクソン族出身のボニファティウス(七五四年没)はドイツの諸地域に教会を設立し、大司教として活躍します。
ヨーロッパ大陸の中部を占めるフランク族の王クローヴィスが四九八年に部下と共に洗礼を受けてカトリックに改宗してから、ロンバルド族がイタリアに入ってきてカトリックに改宗、さらに西ゴート族もカトリックに改宗します。しかしクローヴィスの後継者たちは必ずしもローマ教会に好意的ではなかったようです。それで宮廷の宰相であるカロリング家のピピンが実権を握り、外敵を撃退するなどして、実質的に国王としての権力を手中にします。そのカロリング家のカールが王となって、現在のヨーロッパ共同体(EU)に匹敵する西欧共同体を創り上げます。そして八〇〇年のクリスマスにサン・ピエトロ大聖堂で時の教皇からローマ皇帝として戴冠されます。これはフランク王国とローマ・カトリック教会との結合を象徴し、実質的なヨーロッパ中世の始まりと見なされています。このカールはカール大帝(フランス語でシャルルマーニュ)と呼ばれるようになります。このカール大帝の後継者たちは古典や自由学科の復興に力を注ぎ、ヨーロッパ各地から学者や芸術家が招かれ、フランク王国は文化的に大いに発展し、カロリング・ルネサンスの時期を迎えます。

ローマ・カトリック世界における王権と教権

どこの世界でも力 ーこの時代ではおもに武力ですがー を持つ者が民を支配します。武力を持つ者が、外敵から共同体を守り、共同体の内部を統合します。そこに支配者としての権力が生まれます。この権力を王権というならば、王権はその権威を武力というような実力だけに基づくものではなく、その正統性を誇示して民衆の内面的な(心からの)支持を得るために、宗教的な権威、すなわち教権に基礎を求めます。もともと太古の昔から人類の共同体は宗教的な権威によって統合されてきたもの(祭政一致)ですが、ローマ時代のような都市国家文明においては戦争が避けられず、武力が共同体の存続と統合に不可欠の要素になっています。ローマ・カトリックのキリスト教がゲルマンの諸民族に浸透している中世のヨーロッパ世界では、ゲルマンの王権はその宗教的権威づけをローマ・カトリック教会の宗教的権威に求めざるをえません。また、武力を持たない教会は、しばしば教皇までが王の武力に頼ってその地位を守る必要に迫られます。王権と教権は、楕円の二つの焦点のような位置にあって、ローマ・カトリックのキリスト教世界という楕円世界を形成します。この教権と王権の関係を個々の教皇と諸王の関係で追うことは、あまりにも複雑で長くなりますので省略し、ここではその関係を象徴する重要な出来事と理念を概観するにとどめます。
カール大帝がローマ教皇からローマ皇帝として戴冠されたことは、ローマ帝国の復興として以後の西欧の歴史を西欧中世として特色づけます。これは東のビザンティン皇帝と教会に対抗して、教皇と皇帝を頂点とする西のローマ・カトリック世界の自立宣言であり、東と西の両方がコンスタンティヌス体制の下にあることを示しています。カール大帝が西方教会が決議した「フィリオ・クェ」の条項を認めて、東方教会との分裂の種を蒔いたことも先に触れました。このような西方教会の強硬な姿勢も、西方もローマ帝国の一部であるとのカールの時代の自信から出てくるのでしょう。
カール大帝以後のカロリング朝の皇帝たちは、その権威がキリスト教に基づくことを示すために教皇と良好な関係を求め、キリスト教の保護と発展に力を注ぎます。カール大帝や次のルートヴィッヒ敬虔王は、すべての修道士がベネディクトゥスの「戒律」に従うように勅令で命じ、学問の振興と修道士の教育レベルの向上に努めます。このカロリング朝の時代に西欧の修道院は発展し、地域の文化の中心となり、同時に修道院は国家統治のシステムに組み込まれ、聖堂や所領は巨大化する一方となります。しかし、その中から九一〇年にクリュニー修道院が生まれて、修道院改革、ひいては時代のキリスト教そのものの改革も始まります。
カロリング朝のフランク王国も九世紀半ばには分裂して東フランク王国(今のドイツ)と西フランク王国(今のフランス)となり、さらに異民族の侵入に苦しみ衰えます。北からのノルマン人、東からのマジャール人(ハンガリー人)、イタリアはサラセン人(イスラム教徒)に侵入されます。それに対して教皇側は「コンスタンティヌス大帝の寄進状」など多くの偽書を含む「偽イシドルス教令集」などを用いて教皇権を強化し、教皇権の絶対性と優位を主張するようになります。そのような状況の中で、ドイツのザクセン大公が国内を統一し、侵入する異民族を撃退して王位に就きます。その子のオットー一世が、北イタリヤの異民族に苦しめられていた教皇を救出して、翌年の九六二年にローマで教皇から皇帝として戴冠されます。これが神聖ローマ帝国の始まりとなり、このオットー大帝は教皇の任免まで左右するようになります。
教皇権の拡大とローマ貴族との癒着から生じる腐敗に対抗して、キリスト教側でもクリュニー修道院から発する改革運動が進みます。一〇世紀の初めに設立されたクリュニー修道院は大いに発展し、十一世紀には西欧全体を含む大きな組織となって、聖職売買と聖職結婚に反対し、教会全体に改革の新風を吹き込むことになります。その改革運動から生まれた教皇レオ九世(この教皇の時に東西教会の分裂)が改革の一つとして導入した枢機卿の一人ヒルデブラントが改革路線を推し進め、教皇に選任されてグレゴリウス七世となって「教皇令」を発し、教皇の至上権と教会の世俗権力からの自由を主張します。彼は聖職売買と聖職結婚の反対を強化し、聖職売買に信徒による聖職叙任も含ませます。それでオットー大帝の後継者の一人ハインリッヒ四世がミラノの大主教を任命した時、教皇は彼に破門宣告を発します。この破門を解いてもらうためにハインリッヒは教皇が滞在中のカノッサ城を訪れ、雪の中の城外で三日間、無帽裸足で立ち尽くして赦免を願ったと言われています。一〇七七年に起こったこの「カノッサの屈辱」事件は、聖職の叙任権をめぐる王権と教権の力関係を象徴する事件として歴史に記憶されることになります。しかし、その後ハインリッヒ王は力をつけ、グレゴリウス七世を罷免するまでになります。このように王権と教権の闘争を象徴する叙任権闘争は、一一二二年のヴォルムス協約で、皇帝か教皇かの二者択一ではなく、両者にそれぞれの分野での権利を認めるという妥協案で決着します。

教皇権の進展と修道制の発展

この一二世紀と一三世紀にかけての時期は、教皇権がその絶頂期を迎えていました。たとえば、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ・バルバロッサ(在位一一五二〜一一九〇年)は、ヴォルムス協約を無視してドイツの司教たちを任命し続けます。それに反対した教皇に対して皇帝は対立教皇を選任しています。しかし、イタリア諸都市同盟との戦いに敗れて、フリードリヒは自分に反対した教皇を認めることになります。また、この教皇は自分の書記のトマス・ベケットをカンタベリー大司教として送り込み、イギリスに自分の要求を承認させて従わせようとします。イギリス国王ヘンリー二世は会議を招集して憲法を制定、ベケットに、すなわち教皇に対抗します。王とベケットの対立は続き、ついにベケットは一一七〇年に殺害されるに至ります。ベケットの死を嘆く声の中で、王は墓前で悔悛と憲法の破棄を余儀なくされています。
このように教皇権が強くなる過程で一一九八年にイノケンティウス三世が教皇位につきます。「キリストの代理者」を名乗るこの教皇の下で教皇権は絶頂期を迎えたと言われます。彼は教皇を侮辱したとか命令に反したとして、ドイツの皇帝やイギリスの国王を破門し、離婚問題でフランス国王に要求を突きつけています。また、南フランスに起こった一派に対して異端討伐の十字軍を派遣しています。一二一五年に第四ラテラノ公会議を開き、カトリックの統一的な信仰告白、異端に対する条項、聖職者の組織や職務に関する条項、十字軍に対する教令を決めています。その中で、聖餐における「化体説」(聖餐式においてパンとぶどう酒に内在する永遠の実体が、聖別の際にキリストの体と血に変化するとする実体変化説)が承認されたことが注目されます。

このような教皇権の拡大に伴って、その堕落も見られるようになり、その統制下にある教会も様々な問題を抱えるようになります。司教や大司教は広大な司教区の領主のような権限を行使して、富裕な支配階層を形成します。このような体制化した教会の弛緩に対して、キリスト教信仰の純化と改革を目指す運動が修道院から始まります。すでに九世紀に始まっていたクリュニー修道院による改革運動については、先に触れるところがありました。しかしこのベネディクトゥスの戒律の実行を標榜するクリュニー修道院も、各地に支所を建てて大きくなり、多くの寄進で豊かになるにつれて、修道院自身も改革されなければならない目標となります。そしてこの修道院改革の運動の中から新しい修道院としてのシトー修道院が生まれます。
一一世紀末にクリュニー修道院と同じフランスのブルゴーニュ地方のシトーの地に創立された新しい修道院は、一二世紀に入って急速に発展します。この修道院もベネディクトゥスの戒律を厳格に順守することを標榜していますが、字句通りの順守よりもその理想の実現を追求して、その方策を具体化しています。シトー修道院では労働を重視して、修道院活動をサポートする農民出身の助修士を多く入れて、大きな農場を経営しています。一二世紀の二〇年代にシトー修道院を囲むように四つの支所修道院を建て、それがそれぞれ多くの支所修道院を作って、その世紀の前半が終わる頃にはシトー派修道院は三〇〇を超えていました。その最初の四つの修道院の一つ、クレルヴォーの修道院長であったベルナドゥスは、クリュニーの修道院長に対してその修道士の清貧の誓いに反する贅沢な生活を批判する長文の書簡を送っています。このベルナルドゥスは(前述したように)第二次十字軍の時にフランスの王とドイツの皇帝を説得して軍を出させたことでも有名です。
このような修道院改革の運動は各地で様々な形で進み、一〇八四年にフランス東南部の山地に建てられたシャルトルーズ修道院はシトー修道院よりも古く、ドイツ人高位聖職者であって隠棲したブルノによって建てられ、彼はベルナルドゥスとも親交があったようです。この修道院は共住生活の中で、エジプトの孤独な隠修士の修道生活を理想とし、修道士の個室での質素な生活と沈黙を守ることを重視、共住の修道院と孤独の隠修士の求道を両立させようとしました。その沈黙の戒律は有名で、現代になって映画「大いなる沈黙」で世に知られるようになりました。
一一世紀の後半には定住修道院から出て各地を遍歴して説教する遍歴説教者が現れます。中でもアルブリッセルのロベールが有名です。聖書を持たない民衆は、このような洗礼者ヨハネを思い起こすような苦行衣の遍歴説教者から神の言葉を聞くために集まります。ロベールはフランス訪問中の教皇(十字軍を提唱したあのウルバヌス二世)から説教と修道院設立の認可を受けます。彼は一二世紀の初め(一一〇一年)、フォントヴローに修道院を建てますが、この修道院は建物は別ですが同一の敷地に修道士と修道女が住む形をとります。ロベールが女性を積極的に迎え入れ、元娼婦の館や当時はライ病と呼ばれて差別されていた病人のための館を作っています。そして信頼できる修道女に修道院長として運営を任せ、自分は遍歴説教者として各地を巡ります。後世の歴史家も、ロベールは愛を説いて奴隷を女王にしたと、女性を復権させた功績を高く評価しています。
グレゴリウス七世に代表される教皇による改革の動きと並行して、一一世紀から一二世紀にかけて修道制にも様々の形の修道院や修道会ができて、硬化した中世キリスト教の改革を目指します。その中のおもなものを数例見ておきます。この時期の教皇には修道院出身者が多く、修道院の理念が教会改革に浸透します。教区教会も聖職者が共住して修道院的な訓練を積み司牧に当たることを目指す律修参事会や、その方向からプレモントレ会が生まれています。また聖職者が修道士のような生活を営みながら病人の介護活動を行う病院修道会が出来ています。このような活動は、厳しく共住の修道生活を求めるベネディクトゥスの「戒律」よりも、比較的自由な活動を認めるアウグスティヌスの「会則」に基づいて行われる修道制となります。
もう一つ、十字軍時代とそれ以後の時代に、中世の騎士道理念と修道院生活を総合する騎士修道会が出て活動を続けます。テンプル騎士団、ヨハネ騎士団、チュートン騎士団の成立事情は先の十字軍のところで触れました。これらの騎士団(正確には騎士修道会)は、それぞれ教皇から公認され、十字軍以後も(名称は変えながら)領地などの寄進を受けて強大な勢力をもって活動します。これらの武装した修道士集団は、その献身的な活動から強力な防衛力として十字軍運動を支え、その後もキリスト教世界の進展に影響力を持つことになります。人を殺すことを目的とする武装が修道と両立するのか、正しい戦争はありうるのか、これは人類永遠の課題ですが、この武装修道会の存在(それは教皇の認可を得ています)がヨーロッパ中世の姿を象徴しています。修道士の聖ベルナルドゥスは、「異教徒は殺せ」と説教して、騎士修道会を激励しています。
一三世紀に入るとドミニコ会とかフランシスコ会という托鉢修道会が生まれます。スペイン生まれのドミニクスは、南フランスのカタリ派(後述)のキリスト者との論戦でカトリック伝道者が歯が立たないのを見て、使徒的清貧の実践だけでなく学問と説教においても熟達することの必要を痛感し、アウグスティヌス会則で修道会を立ち上げ、教皇の認可を受けます。その一二二〇年の総会で、一切の所有を放棄して、日々の糧を托鉢によって得ることを決議します。翌年の総会では、とくに説教に力を入れる「説教者の修道会」としての会則が決議されます。この修道会の中からトマス・アクィナスやエックハルトなどの神学者が現れます。ドミニコ会のメンバーはローマ・カトリック教会の教義を学問的に代弁することができたので、やがて異端審問官として異端問題に関わるようになります。
イタリアのジョバンニ・ベルナドーレは、一一八二年にアッシジの富裕な織物商人の家に生まれ、若い時はかなり放蕩な生活を送ったようで、健康を損ない高熱の中で幻を見て回心、廃墟になっていたアッシジの聖堂を再建しようとして私財を使って父と絶縁します。さらにマタイ福音書(一〇・七〜一〇)の言葉によって、使徒的清貧と貧しい人や病人への施しに生きることを決意します。彼はこの信念に基づいて仲間たちと会則を作成、一二一〇年に教皇イノケンティウス三世の認可を受けて「小さな兄弟たち」と称する修道会を始めます。彼は(前述の)ロベールのようにその修道会に女性を積極的に受け入れ、彼の説教で回心したクララが世話をします。彼はアッシジのフランチェスコと呼ばれ、その生涯は遍歴説教に徹し、神秘的なエピソードに囲まれます。その頃第五回十字軍が始まりますが、彼はエジプトまで行って戦闘中止を訴え、スルタンの前でも説教したと伝えられています。彼は鳥にも説教を聴かせ、「太陽の讃歌」の詩を書き、晩年にはキリストの十字架の傷痕が現れたとされ、後世のキリスト教徒から最高の聖人として崇められます。一二二六年の彼の死後、その修道会は発展し、修道女の第二会、世俗の信徒からなる第三会が結成されます。その修道会のフランチェスコ会からはボナヴェントゥラ、ドゥンス・スコトゥス、オッカムらの神学者が出ています。

以上に見たように西方のキリスト教世界では、東方のビザンティン帝国の支配の中でキリスト教がギリシア正教を中心に東方を統合したのとは違い、ローマ教会の司教すなわち教皇がゲルマン諸族の諸教区を統合して、ローマ・カトリック教会の下に統一的な世界を形成します。封建制の上に立つゲルマン諸族の王権は、そのキリスト教世界を防衛する権力機構となります。そして、そのローマ・カトリック世界のキリスト教は、ここで見たように修道院や修道会という場で形成されるキリスト教です。確かに修道制はキリストへの献身として、世俗的な欲求に対する禁欲を中核にして、ホモ・レリギオーススとしての人間の霊性を深め、福音がまだ到達していない世界に福音を宣べ伝える使命に貢献しました。しかし、修道制はあくまで教皇の認可の下で行われる活動ですから、キリスト教という宗教の枠の中の運動です。ともすればその禁欲が、福音から出る結果としての禁欲ではなく、キリスト教宗教の完成を追い求め、理想であるキリストに達するための禁欲、救済に達するための宗教的働きまたは業績として追求されることになります。もし宗教を「信の宗教」と「業の宗教」に分けるならば、修道院の信仰は「業の宗教、行為の宗教」になりかねません。食欲や性欲の禁欲や修道院的従順が業績になりかねません。しかし福音は徹頭徹尾神の恩恵の支配を告知し、信仰だけを求めます。すなわち、人間の側の業績や価値とは無関係に、神の側から無条件に与えられる救済の告知です。そして、信仰によって受けた無条件の救済の結果として、世俗的な欲望、名誉、権力などを断ち切ることになるのが福音的な方向です。この方向を目指す運動が、修道院的西欧キリスト教世界で始まり、宗教改革の時代を迎えます。このことが次の第二節の主題となります。

十字軍運動の歴史

一〇世紀から一一世紀にキリスト教は北欧のスカンジナヴィア諸国に広まり、イベリア半島ではイスラム教徒の侵入で失った土地を回復しようとする動き(レコンキスタ)も始まっていました。叙任権闘争に見られるように教会勢力はその絶頂期を迎えていました。さらに一〇五四年の東西両教会の分裂は、西欧のローマ・カトリック教会の独自性を全開させることになります。まさにその時期の終わりに、以後の世界史に深い爪痕を残す出来事が起こります。すなわち一〇九六年に始まり一二九一年までのほぼ二〇〇年にわたって行われた十字軍運動です。
この時期のローマ・カトリック教会では天上的なものへの情熱が強く、この世を捨てて天にあるものを求める修道院的な運動が活発であり、その情熱が聖遺跡の崇敬に向い、聖地巡礼などが熱心に行われていました。イスラムが勃興した七世紀以後、聖地はイスラム教徒によってしばしば占領されてきましたが、イスラムとビザンティンの長い交流を通してある程度の親密性が培われ、聖地巡礼は行われてきました。しかし、同じイスラム教徒でもセルジューク・トルコがエルサレムを占領するに及んで、聖地巡礼が妨げられるようになります。トルコ勢力によって攻撃されたビザンティン皇帝はローマ教皇に援助を求めてきますが、叙任権闘争の渦中にあった教皇グレゴリウス七世はその要請に応じることができませんでしたが、さらなる要請に対して時の教皇ウルバヌス二世は、一〇九五年にクレルモンの教会会議を開き、巡礼の最終的安全の保障のために、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するように呼びかけます。この大遠征は、「神がそれを望まれる」という宗教的大義名分と、聖地巡礼に対する時代の情熱、参加者には罪の赦免が与えられるとの教皇の約束、その他飢饉後のヨーロッパ経済の疲弊、ローマ教皇による東方の統合の野心など、様々な要因があったのでしょうが、この呼びかけは大きな反響を呼び起こし、翌年の一〇九六年にはヨーロッパ諸侯の軍団から成る十字軍がエルサレムに向かって進撃を開始します。この二〇〇年に及ぶ十字軍の歴史は、教皇と王や諸侯との関係の推移にとって興味深い時代ですが、その詳細をここで記述することはできませんので、各回の状況を略記するだけにします。

十字軍の詳細につては、塩野七生 『十字軍物語』 (全3巻、新潮社) が物語として読みやすい形で出ていますので、それを一読されることをお勧めします。

 第一回十字軍 一〇九六年の春、隠修士ペトルスに率いられた農民の一団が聖地に向かいますが、辛うじてコンスタンティノポリスまで到着しますが、その後はトルコ軍に攻撃されて全滅します。その年の夏にはトゥルーズ、ロレーヌ、ブーリアなどの公国の諸領主が率いる三軍団が結成されて、翌年の初めにコンスタンティノポリスに集合、小アジアに進軍、まずニカイアを攻略、アンティオキアに向かいますが、半年以上かけてようやく攻略、最終的に一〇九九年の夏にエルサレムを占領します。その際に多くのユダヤ人とイスラム教徒が殺戮されます。十字軍はそこにエルサレム王国を建てますが、その前後に占拠したエデッサ、アンティオキア、トリポリの各地に諸侯が統治する公国を作って、ラテン的な体制を築き、エルサレム王国の安全を確保します。この時に巡礼路を保護する団体として、テンプル(聖堂)騎士団や聖ヨハネ騎士団(もともと巡礼者の治療にあたった病院修道士会)などの武装修道会が結成されるようになります。この武装した修道士団体はその後のエルサレム王国の防衛に大きな働きをすることになります。
第二回十字軍 十字軍の苦闘により聖地奪還に成功したことはヨーロッパ中を興奮させます。しかしイスラム側にはジハード(聖戦)の思想を作り出し、十字軍の作戦にも慣れてきたイスラム側は反撃に転じ、一一四四年にはエデッサを奪回します。聖地北方の防波堤を失って危機に立つエルサレム王国を確保するために、修道士クレルヴォーのベルナルドゥス(後述)がフランスの国王とドイツの皇帝を説得して聖地に向かわせます。一一四七年から二年をかけて行われたこの十字軍は、諸侯の軍ではなく国王と皇帝の軍団の出動でしたが、その兵力の多くを小アジアの戦いで失い、ダマスコ包囲中にイスラムの武将ヌルデンの援軍接近を聞いて戦わずして撤退、ヨーロッパに帰り、結局失敗に終わります。
 第三回十字軍 一一四七年の第二回十字軍の失敗の後、ヌルデンの後に頭角を現してきたサラディンがダマスコを攻略し、続いてエジプトを従わせてイスラム勢力の統合を実現します。その統合されたイスラム勢力によりエルサレム王国を北、南、東から包囲して孤立させます。孤立したエルサレム王国は防戦一方になりますが、この時武装騎士団が各地に立てた城塞が大きな力となります。エルサレム王国では、少年時代に当時ライ病と呼ばれた病気を発病して体を蝕まれていた若き王が勇敢に戦って防衛しますが、サラディンの巧妙な戦略に敗れ、ついに一一八七年にエルサレムがイスラム勢に奪還されます。その際サラディンはキリスト教徒にとっての聖地である聖墳墓教会は破壊せず、そこへの巡礼を認めています。
この報は全ヨーロッパを悲しませると同時に奮起させ、ベルナールの熱弁はなくても、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ・バルバロッサ、フランスの王フィリップ二世、イギリスのリチャード一世が一一八九年に軍団を率いてエルサレム奪還に向かいます。聖地ではサラディンに奪取された地中海に面した港湾都市アッコンの奪回戦が始まっており、現地十字軍の包囲軍がサラディンの本隊に後ろから包囲されて苦戦します。ドイツ皇帝フリードリヒは「チュートンの怒り」に燃えた大軍を率いて陸路パレスチナに向い、小アジアまで妨害されることなく進軍しながらキリキアの川で溺死します。その軍隊はオーストリア公に率いられてアッコンに着きます。遅れて海路アッコンに着いたフィリップとリチャードの中、その知勇から自ずと総大将となったリチャードがサラディンと対峙します。ところが当時領地問題でイギリスと不仲だったフィリップは国内事情を理由に、軍は残して帰国してしまいます。二年間の膠着の末、リチャードはアッコンを制圧します。この時、野戦病院を組織したドイツ病院修道会から後のチュートン騎士修道会が出来ます。以後、戦いはサラディンとリチャードの戦いとなり激戦が続きます。リチャードはその智謀と先頭に立って敵陣に斬り込む勇敢さでサラディンの軍を圧迫し、アッコンからヤッファ(現代のテル・アビブ)を制圧し、サラディンが守るエルサレムに迫ります。しかしヨーロッパに帰ったフランス王が十字軍遠征中は他国の領土を侵さないという誓約を破ってイギリス領に侵入したので、リチャードはサラディンと講和を結び、急遽帰国します。こうしてエルサレムを奪回するという目的は達成できませんでしたが、巡礼の安全は保証され、沿岸の港湾都市は奪取してパレスチナに十字軍国家を維持するなどの一定の成果を上げます。リチャードはその勇敢さによって双方から「獅子心王リチャード」と呼ばれることになります。
第四回十字軍 一二〇二年に教皇イノケンティウス三世が、皇帝とか王ではなく第一回十字軍のように諸侯を激励して十字軍を聖地奪回に向かわせます。しかし海路を行くためにヴェネチア海軍の協力を求めたところ、ヴェネチア自身がこの十字軍に参加することになり、十字軍に市場の確保というような商業的動機が加わります。さらに途中で要請を受けてビザンティン帝国の皇位継承に介入しようとし、行き先を急遽変更してコンスタンティノポリスに向かいます。この変更にはローマの首位権の下に東方を統合しようとする動機も底流としてあったのかもしれません。難攻不落を誇ったコンスタンティノポリスを比較的短時間の戦闘で占領しますが、皇位継承者はすべて死亡し、結局そこにラテン帝国を立てることに終わり、聖地まで行くことができませんでした。
第五回十字軍 イノケンティウスの次の教皇ホノリウスは聖地奪回を呼びかけ、スペインの枢機卿ベラーヨを教皇代理として派遣します。今回はジェノヴァ海軍の協力で諸侯の軍団を送り、現地の十字軍団と一緒にナイル河口の港湾都市ダミエッタを攻めます。エルサレムへの補給路を絶って、カイロのスルタンの力を削ぐためでした。修道衣姿のアッシジのフランチェスコがカイロまで行き、スルタンに平和を訴えたのはこの時のことです(後述)。ダミエッタの陥落寸前にカイロのスルタンは、エルサレムの返還を含む講和を申し出ますが、教皇代理の強硬な反対で、この有利な講和を十字軍は拒否します。その後、ナイルの増水を利用した水攻めで十字軍は敗退、一二一八年に始まり一二二一年に終ったこの第五回の十字軍も成果なく終わります。
第六回十字軍 第三回十字軍にドイツの大軍を率いて参加したフリードリヒ・バルバロッサの孫のフリードリヒ二世は一二二〇年に神聖ローマ帝国皇帝として教皇から戴冠されました。その際十字軍を出してエルサレムを奪還するように求められていましたが、言を左右して応じず、教皇は彼を不従順の罪で二度まで破門宣告します。しかし皇帝は黙殺してアラブ世界とも友好関係を維持するシチリア王国の建設を進め、首都パレルモの王宮を中心にして国際的な文化を築いています。その間もエジプトのスルタンとも友好関係を維持し、婚姻関係によってエルサレム王国の王位も継承しています。このフリードリヒもついに破門のまま出兵し、一二二八年にアッコンに上陸、皇帝のパレスチナ入りとして大歓迎されます。彼はカイロのスルタンと交渉し、ついにカイロのスルタンはエルサレムをキリスト教側に譲り渡すことに同意して講和を結びます。この講和にはエルサレムの東部をイスラム地区として残すなどの条件がつきますが、とにかくフリードリヒは戦わずしてエルサレムを獲得します。しかしこの講和に反対する声が教皇側から強く出て、教皇旗を掲げた軍が南イタリアのフリードリヒの領地に進軍してきたので、フリードリヒは一二二九年に急遽帰国しなければならなくなります。その後、教皇とフリードリヒは和解しますが、この十字軍の姿は教皇権の衰退を象徴しているようです。
第七回十字軍 フリードリヒがエジプトのスルタンとの間に結んだ講和によってエルサレムはキリスト教側の支配下にありましたが、イスラム側の内乱に乗じたシリアのイスラム軍にエルサレムが占領されたので、教皇はフランス王ルイ九世に十字軍の編成を呼びかけます。ルイは大軍を編成して、一二四八年にジェノヴァの船でその大軍を率いてエジプトに向かいます。ナイルデルタの東の港湾都市ダミエッタの攻略には成功しますが、カイロに向かう途中のマンスーラで作戦を誤り、十字軍は壊滅的な敗北を喫し、王をはじめ全軍が捕虜となります。莫大な身代金を払って、王と一部の捕虜は一二五〇年に帰国しますが、この十字軍は完全に失敗に終わります。
第八回十字軍 フランス王が率いる大軍をナイルデルタで撃ち破ったエジプトの将軍と兵士たちは、奴隷から兵士になったマメルークと呼ばれる勇敢な軍人たちでした。彼らはサラディンの血統の王朝を廃し、マメルークの王朝を立てて、エジプトからイスラム世界を支配していました。当時モンゴルに興ったジンギスカンの帝国は彼の死後も衰えを見せず、その砂漠地帯を駆け抜ける優秀な騎馬軍団によって周辺の諸国を制圧し、西に向かってはロシアから中近東に及び、一二五八年にはイスラム世界の首都として永年君臨してきたダマスコも占領しました。このモンゴルの軍勢をパレスチナで食い止めたのがマメルーク軍団の王バイバルスでした。彼はスルタンとしてエジプトからイスラム世界を盤石の体制で支配するようになっていました。
エジプト王バイバルスは地中海沿岸に残された十字軍王国の港湾都市を攻めていました。一二五〇年に大敗を喫してフランスに帰国していたルイは、二〇年経った一二七〇年に再び十字軍を編成します。これが第八回の十字軍となります。ルイはエジプトを正面から攻めるのではなく、まず西のチュニジアを攻略して、エジプトの勢力を西に向けさせ、北方の地中海沿岸に残されたキリスト教王国を守ろうとします。それでカルタゴの近くに上陸して布陣しますが、シチリアからの援軍が来る前に疫病で死亡し、この十字軍の出発から一ヶ月足らずで失敗に終わります。
最後に地中海沿岸の細長い地域に残されたキリスト教王国は、その中心都市のアッコンが実質的に首都としての機能を果たし、また通商の中心地として、三大騎士団に守られて繁栄していました。このアッコンをマメルーク王朝のカリフが「ジハード」を唱えて大軍で攻めます。騎士団は勇敢に戦いますが、ついに一二九一年にアッコンは陥落します。第一回十字軍以来、ほぼ二世紀にわたって続いた十字軍運動はここに終結します。

聖地巡礼者の安全を確保するという宗教的目的が、その土地を自分たちの領土にするための武力行使になり、十字軍は双方に多くの死傷者を出して、結局は失敗します。こうして十字軍運動は終結しますが、この西欧キリスト教世界がイスラム世界に武力で侵攻した事件は世界の宗教史に深刻な爪痕を残します。その爪痕は、最近イスラムを名乗るテロの撲滅を目的とした欧米の武力行使を、米国の指導者が「クルセード」(十字軍)だと発言したことがイスラム側に大きな反発を引き起こしたことにも見られます。わたしたちはこの十字軍の歴史から多くのことを学びますが、とくに宗教的目的のために武力を使うことがいかに愚かなことであるかを知らなければなりません。

十字軍以後の西欧キリスト教会

十字軍は教皇ウルバヌス二世の発議により始まり、数次の十字軍には教皇代理が統括して教皇の意向を伝えていました。このように教皇がカトリック信仰の拡張を図って十字軍という武力を用いたために、王権に依存することが多くなり、教権と王権の関係に変化が生じてきます。その微妙な変化は十字軍運動の最中にも現れてきていました。たとえばフリードリヒ二世は教皇から二度まで破門状を受けていながら、十字軍を率いてエジプトの攻撃を始め、教皇側からの反対を押し切ってイスラムのスルタンと講和を結びます。「カノッサの屈辱」のときから見ると教皇の権威が落ちていることがわかります。王は教皇を無視して、自分の実力で行動しています。教皇の権威の失墜は、十字軍運動の終結後の時代にフランス王の圧力で教皇がフランス南部のアビニオンに閉じ込められる、いわゆる「アビニオン捕囚」(一三〇九年から七〇年間)が起こったことで明らかになります。ここで十字軍終結後の西欧キリスト教世界の変化の様子を、ごく簡単に見ておきましょう。
フリードリヒとの関係で懲りたのか、教皇はドイツの皇帝の力を弱めることに努めます。その結果フランス王の勢力を強めることになり、フランス王はフランス人の教皇を出した時に、教皇庁を南フランスの都市アビニオンに移し、その都市を監視して教皇を閉じ込め、フランス人だけで教皇を選出します。これが「教皇のアビニオン捕囚」と呼ばれる出来事です。一三七七年に教皇グレゴリウス一一世は教皇庁をローマに移しますが、アビニオン派は別の教皇を立てます。こうして教皇がローマとアビニオンに二人いることになり、カトリック教会は一三七八年から一四一五年まで分裂します。これが教会大分裂(シスマ)の時代です。
十字軍はローマ教皇の呼びかけで始まりましたが、その失敗の責任を取ることはなく、十字軍の事実を消し去るかのように、聖地の十字軍国家の防衛に献身的に活躍した聖堂騎士団を、当時活動し始めていた異端裁判にでっち上げた罪状で告発し壊滅させ、一三一二年にその解散を宣告しています。病院騎士団として活動した聖ヨハネ騎士団は医療活動を看板にして存続し、ロードス島で「ロードス騎士団」となり、次いでマルタ島で「マルタ騎士団」として存続します。このマルタ騎士団は、攻めてきたイスラム海軍からヨーロッパを防衛する一五七一年のレバントの海戦で戦い、勇名を馳せることになります。チュートン騎士団ら他の騎士団は帰国してから、それぞれの働き場を見つけて、ヨーロッパのキリスト教世界に溶け込み、消滅していきます。
聖堂騎士団を壊滅させた異端裁判(異端審問ともいう)は、すでに一二一五年の第四回ラテラノ公会議で異端に対する司教裁判の設置が求められていましたが、一二三一年に教皇の権限によって開始されます。もともと異端審問はカタリ派やワルド派(後述)を審問するためのもので、教皇に直属し、ドミニコ会修道士が多く任命され、後にはフランシスコ会からも任命されました。一三世紀以降、宗教改革の時代にはヨーロッパに異端審問の嵐が吹き荒れます。魔女裁判もここで行われ、十五世紀のジャンヌ・ダルクも魔女として火刑にされます。一七世紀に地動説を唱えたガリレオに対して行われた裁判も異端裁判所でした。異端審問制は一六世紀のトリエント公会議後のカトリック教会体制に組み込まれ、とくにスペインでは一五世紀に国内の改宗ユダヤ人に対する審問機関として猛威を振るい、勢力を伸ばした新大陸ではカトリックのイデオロギー機関となります。スペインで最終的にこの制度が廃止されるのは一九世紀初頭になります。
異端審問は教皇権の強化を図る制度でしたが、キリスト教の信じ方がカトリック教会と少し違うからという理由で、同信のキリスト教徒を裁判にかけ、拷問を用い、極刑として火刑で殺すという重大な誤りを犯すことになります。愛の共同体としての福音共同体からこれほどかけ離れた制度はありません。もし修道制がこのような殺人に協力するのであれば、その修道とは何でしょうか。教会の枠の中にある修道制には大きな疑問符がつきます。確かに修道制はキリスト教に大きな貢献をしました。世俗の絆を絶った修道士たちは献身的に異教の地に福音を伝えることができました。自分の欲望を断ち切ってひたすら神を瞑想する修道士たちは、形式的な儀礼に安住するキリスト教徒に神秘主義的な霊性の深みを教えました。しかし、十字軍以来直接武力を用いるようになったローマ教皇は、自己の支配の強化と、カトリック世界の統一を図るためにも武力を用いるようになり、大きな過ちを犯すことになります。自分の宗教を絶対化したローマ・カトリック教会の枠の中にある修道制の問題点は、十字軍の派遣を唱え、「異教徒は殺せ」と叫んだ修道士ベルナルドゥスが後にローマ教皇から聖人に列せられたことにも示されています。
 こうして十字軍終了後の一四世紀から一五世紀にかけて、ローマ・カトリック教会は分裂したり、異端審問の大きな誤りを犯したり、教皇庁の贅沢な生活や、聖ペテロ大聖堂の補修資金のために贖宥状(免罪符)を売ったりして批判を受け、一六世紀の宗教改革の時代を迎えます。