市川喜一著作集 > 第23巻 福音と宗教T > 第15講

第四節 宗教としてのキリスト教の成立とその問題

はじめに

わたしは前著『福音の史的展開』において、使徒たちとその後継者たちがヘレニズム世界に宣べ伝えたキリストの福音の内容の歴史的展開と、その福音が地中海世界の各地に福音共同体(集会)を形成した歴史的事実を概観しました。そして、その終章「キリストの福音からキリスト教へ」において、キリストの福音共同体が諸集会間の相互の交わりを深め、自分たちが世界の諸集会を統合する公同の一つの福音共同体であるとの自覚を持つようになったことを見ました。その傾向はすでにコロサイ書やエフェソ書で、《エクレーシア》という語が単数形で用いられて、福音を信じる者たちの総体が意味されており、その語が福音共同体の全体を指すとして「御民」と訳すことができたことにも現れていました。その自覚が、ローマ帝国社会における圧迫と迫害で具体的な相互援助と、指導者間の交流(諸集会の代表者たちの会議)の中で交わりを深め、信仰内容や祭儀の形式などの統合を進めたのではないかと考えられます。
このように地域の諸集会が一つの公同の共同体を形成しているという自覚は徐々に進み、遂には全世界の共同体(集会)が一つの公同の共同体であるとの自覚に達し、自分たちを《ヘー・エクレーシア・カトリケー》(唯一の公同の教会)と言い表し、その教会への信仰を求めるようになります。この過程は二世紀に徐々に進み、二世紀の終わり頃にローマで洗礼時の信仰告白として求められた三項目の第三項で、「聖霊、聖なる教会、体のよみがえり」への信仰告白が求められています。公同の教会、すなわちカトリック教会の理念は、二世紀末から三世紀にかけて活躍したエイレナイオスやテリトゥリアヌスにも表明されていますが、三世紀半ばに出たカルタゴの監督(司教)キプリアヌスの著作『カトリック教会の一致について』においてもっとも明白に表現されることになります。彼によれば、真の教会は正典、教理、典礼、聖職者組織を持つ見える教会であり、それは恩恵の唯一の機関であるので、「教会の外に救いはない」と言われるに至り、カトリック教会の理念は完成します。
この過程の全体とそれ以後のキリスト教の歴史と福音の関係を検討することは、次章以下の課題になります。本章では、その最後になる本節でキリストの福音が生み出した福音共同体がカトリック教会となり、その教会で営まれる宗教的営為が「キリスト教」という新しい宗教をローマ世界にもたらすことになる過程の端緒を検討して、その過程に福音がどのように関わるかという問題を原理的に考察しておきたいと思います。二世紀という時代は、キリストの福音が地中海世界にキリスト教という新しい宗教をもたらす過程と、そのキリスト教という宗教の中で福音がどのように働いているのかという原理的な問題を検討するのに、もっとも適した時代だと思います。その見地から、わたしは前著『福音の史的展開』の終章で、二世紀に見られるキリスト教という宗教の出現と福音の関わりを取り上げましたが、この「福音と宗教」の関係を主題とする本書でも、この関係が先鋭的に現れるこの時代を改めて取り上げておきたいと思います。

T キリスト教会の成立

単独監督制の成立

先に(本章の第三節で)ローマ帝国によるキリスト教徒迫害の実態を述べた所で、総督プリニウスの請訓に対して与えたトラヤヌス帝の手紙によって、キリスト者の「名による」有罪の原則が確定したことを述べました(本書四二〇頁)。その時に殉教したアンティオキア共同体の監督イグナティオスが連行される途上スミルナに滞在したとき、エフェソなどの周辺の集会とローマの共同体に書き送った手紙が七通保存されて伝えられています。このイグナティオス書簡集は二世紀初頭のキリスト信仰と福音共同体の実態を証言するものとして貴重な資料です。イグナティオスのこれらの書簡は、熱烈な信仰から発する殉教への情熱を示す激しいもので、迫害の中の後世の信仰者を励ましてきました。それだけでなく、その手紙には当時の集会組織や儀礼に関する重要な証言もあり、二世紀初頭の共同体の状況を知るのに貴重な資料となっています。ここでは当時の福音共同体の実態を証言する面に限定して見ておきます。
 イグナティオスは各地の集会に宛てた手紙で、監督の名をあげてその信仰と人格を言葉を尽くして賞賛し、その監督に従うように表現を尽くして集会に説きます。たとえば「監督を主御自身のようにみなさなければならない」とか、「監督を神の模像として、また長老団を神の議会また使徒団として敬うべきである」とか、「イエス・キリストが父に対するように、監督に従いなさい。また、使徒に対するように長老団に従いなさい。また、執事を神の誡めのように尊びなさい」と言っています。長老と執事は複数形ですが、監督はいつも単数形であり、ある地域の共同体には一人の監督がいて、共同体を取り仕切っています。新約聖書で監督が言及されるのはフィリピ書(一・一)ですが、そこでは監督は複数形です。イグナティオスではその一人の監督について、共同体は「監督ぬきでは何事もすべきではない」と言われます。「監督なしで何かをする者は悪魔に仕えるのです」とさえ言っています。イグナティオスの手紙を通読すると、監督への服従を説く言説がきわめて多いという印象を受けます。
 一人の監督に従うことが集会の一致を保証します。イグナティオスはまた、「イエス・キリストが在すところ、そこに公同教会《ヘー・エクレーシア・カトリケー》があるのと同様、監督があらわれるところ、そこに全会衆があらねばなりません。監督なしに洗礼を施すのも愛餐を行うのも適法ではありません」と言って、教会が行う儀礼は監督によって行われてはじめて効力のあるものとなることを主張し、分裂に陥らないために監督が行う「ただひとつの聖餐」にあずかるように強く求めます。そしてその聖餐でいただくパンは「不死の薬」、「(死に対する)解毒剤」と呼ばれ、教会の儀礼が救いのために客体的な効力のあるものとする後の礼典(サクラメント)理解への萌芽を見せています。
 このように二世紀初頭のイグナティオスにおいて、単独の監督を頂点とする教会制度、その制度によって保証される異端の排撃と信仰告白の一致、またその制度によって救済の効力が保証される儀礼(サクラメント)という制度的教会へ向かう方向が指し示されています。二世紀初頭は新約聖書時代の終わりと重なります。ルカがマルキオンと対抗して後の正統教会の路線を模索していたのとほぼ同じ時期に、イグナティオスはさらに明確に制度的教会へ向かう方向、すなわち一人の監督による教会の一致の保証という体制を指し示していたことになります。

バプテスマと主の晩餐のサクラメント化

最初期の福音共同体は、バプテスマと主の晩餐という二つの儀礼をイエスをキリストと信じる者の信仰の告白またはその表現として行っていました。ところが、バプテスマはイエスを主またキリストと言い表す者を福音共同体に受け入れる一種の入信儀礼となっていきました。そして、集会で行われる「主の晩餐」は、バプテスマを受けて集会会員となっている者だけがあずかれる儀式であり、それにあずかることが救済を保証する宗教儀式になっていきました。バプテスマと主の晩餐という、最初期の福音共同体が行っていた信仰の表現が、それにあずかることが救済の保証となる儀式、すなわち「サクラメント」になって行ったのです。
まずバプテスマについて新約聖書の扱い方を見ましょう。パウロは確かに信仰者はバプテスマを受けていることを前提として、その霊的な意義を語りました(たとえばローマ書六・一〜一四)。しかし、パウロは信仰に導き入れた人すべてにバプテスマという儀礼を施したのではありません。パウロはコリントで多くの人をキリストに導き、有力な大集会を形成しました。そのパウロが後にコリントの集会に手紙を書いたとき、数人の人以外にバプテスマを授けなかったことを神に感謝して、「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」と言っています(コリントT 一・一四〜一七)。福音の使徒パウロは、はっきりと自分の使命は「バプテスマを授ける」という儀礼を行って救いの保証を与えることではなく、福音という神の言葉を告知して、世の人がそれを信じて神の救いの力を身に受けることだと言っているのです。バプテスマという儀礼ではなく、福音だけが人を救いに至らせる神の力なのです(ローマ一・一六)。
イエスは自分を信じた者にバプテスマを施されませんでした。イエスも洗礼者ヨハネと共に活動しておられた時にはバプテスマを施しておられました(ヨハネ三・二二)。しかし聖霊のバプテスマを受けてヨハネから独立して、ガリラヤで「神の国」を宣べ伝えたときには、もはやバプテスマを施すことなく、バプテスマについて教えることもありませんでした。弟子たちにもバプテスマを施すように命じられたことはありません。その弟子たちがイエスの復活後いつからバプテスマを施すようになったのかは不明で、いまだに議論が続いています。弟子たちはほとんどがヨハネの弟子でしたから、自分たちはバプテスマを受けており(イエスも受けておられます)、イエスを信じて福音共同体に入ってきた者は当然ヨハネも信じているとして、「罪の赦しを与えるバプテスマ」を授けたことでしょう。その行為をマタイは復活のイエスが弟子たちにお命じになったものとしました(マタイ二八・一九)。すべての信者がバプテスマを受けて福音共同体に入って来ている時代に福音書を書いているルカは、その儀礼を共同体成立の最初から行われているものとして、ペンテコステの福音告知の開始の時に置いています。
バプテスマを受けて信じる者たちの共同体を形成した人たちは、キリストの復活を記念して週の初めの日に集まる度に食事を共にして、それを「主の晩餐」と呼んで、キリストの十字架の死にあずかっていることを示していました(コリントT 一一・二三〜二六)。ところが、その食事がその意義を見失う危険を感じたパウロは、日常の食事や交わりの食事とは別にそれを執り行うように指示しています(コリントT 一一・二七〜三四)。こうしてキリストの死を記念するパンとぶどう酒の儀礼が、日常の食事から切り離されて、「聖餐」と呼ばれる教会が執り行う儀礼、すなわち監督が執り行う儀礼となり、その儀礼にあずかることが救いを保証するサクラメントになって行きます。そのようなサクラメントを執り行って、そのサクラメントにあずかる者に救済を保証する制度としての「教会」が出現します。
宗教にはサクラメンタルな面があります。すなわち、何か「聖なるもの」との関わりを保証するのに、人間はそれを見える形にして自分たちの管理の下に置くことを願います。サクラメントとしての効果のある儀式を祭儀と言うならば、宗教には祭儀は不可欠です。人間の社会がある所には、歴史の始まりの太古の昔から宗教があったというのは、祭儀は人間の歴史とともに古く、歴史がある限り続くであろうということを意味します。そして、その「聖なるもの」との関わりを体現する人物が祭司となって、共同体の祭儀を執り行います。
ところで、ある儀式がサクラメントとして救済の保証になるためには、その儀式を執り行う者の資格が問われます。キリストの共同体において、バプテスマと聖餐という儀式を執り行ってその効力を保証する資格として、共同体がその資格があると認める「聖職者」の制度が出来てきます。先に単独監督制の成立の所で見たように、キリストの福音によって成立した共同体においては、その資格は一人の監督に集中します。イグナティオスが言うように、「監督なしに洗礼を施すのも愛餐を行うのも適法ではありません」。教会が行う儀礼は監督によって行われてはじめて効力のあるものとなります。こうして福音共同体は、各共同体を代表する一人の監督の集合体として、具体的にはその監督たちの合議(司教会議とか主教会議)によって、公同の共同体としての実質を持つことになり、公同の教会《ヘー・エクレーシア・カトリケー》が成立します。

U キリスト教宗教の成立

ユダヤ教との論争

キリストの福音に生きる者は、福音共同体の中に福音に反する言説を持ち込む者に対しては、福音を福音として維持するために戦わなければなりません。福音は言葉によって告知されますから、その戦いは言葉による論争となります。このような論争は新約聖書の時代からありました。ユダヤ教徒でない者(異邦人)が信仰に入った時、まず割礼を受けてユダヤ教に改宗しなければ、キリストが約束する救いに入れないと主張する者たちに対して、パウロは激しく反対して、無割礼のままでキリスト信仰は成り立つことを論じました。その論争の書がガラテア書です。もう一つの例は、コリントの集会に「死者の復活などない」と言う者がいることを聞いたパウロが、コリント第一書簡の一五章で終わりの日に神が死者を復活させることによって「神の国」を完成させることを論じたところです。
イエスはその恩恵の支配の福音に反対するユダヤ教徒たちに対して、多くのたとえを用いたり聖書を引用して反論されました。イエスの場合は福音に反対する者への反論でしたが、復活後にキリストの福音を告知して福音共同体を形成して指導した使徒たちは、福音共同体の中で福音を説くと主張しながら異質な教えを説いて、聞く者を福音の正しい理解と福音による歩みから引き離そうとする者として論争しなければなりませんでした。この種の論争は使徒以後の時代にも続き、共同体の指導的な人たちの間で、どういう理解の仕方が福音の正しい理解であるのか、福音に従って歩むとはどういう生き方かについて論争が起こります。
最初期の前期においては、使徒たち自身を含め福音共同体の指導的な人物はユダヤ人であり、福音共同体の存立を脅かす批判者や迫害者はユダヤ人(ユダヤ教徒)でしたから、その論争はユダヤ人とユダヤ教宗教に対するものでした。共観福音書(とくにマタイ福音書)やヨハネ福音書には、そのようなユダヤ教からの批判に対する福音共同体の反論や非難がイエスの口に置かれることになります。福音書におけるイエスの激しいファリサイ派ユダヤ教に対する批判は、この時代の福音共同体のユダヤ教に対する反論が反映されています。
後期になると、とくに福音活動において重要な役割を果たすエーゲ海地域のパウロ系共同体において、状況は変わってきます。福音共同体の構成員の多くは異邦人となり、その指導者にも異邦人が多くなります。パウロを最も重要な使徒と仰ぐ福音共同体では、パウロの名による書簡を通じて共同体を指導するようになり、パウロ名書簡が出てきます。コロサイ書やエフェソ書はその代表的な例となります。福音共同体に対する批判もユダヤ教からではなく、宗教祭儀によって形成された国家祭儀からのものとなり、ローマの国家祭儀に参加しないキリスト教徒が批判され迫害されることになります。それでこの時代の文書ではユダヤ教への反論は影を潜め、ユダヤ教律法の問題は出てきません。むしろギリシア・ローマ社会の諸宗教やその宗教生活から解放されることの重要性が強調されることになります。

ギリシア化とそれへの反論

新約聖書の諸文書が成立した最初期においても、七〇年のエルサレム神殿の崩壊の前と後では状況が変わり、人間の思考の枠組みが変化します。その前ではユダヤ人の使徒たちが主導的に活躍しており、その思考の枠組みは聖書的、すなわち救済史的な思考でした。救済者キリストの出現も救済史的な出来事であり、イエスの十字架と復活も「聖書を成就する」出来事でした。彼らが告知したキリストの福音はいつも「聖書に書かれているように」という句が付いていました(コリントT一五・三〜五、ローマ一・二〜四)。彼らが「しかし今や」という句で以前と今を対比する時、それはいつもこのキリストの出現によって成就した今と、それ以前の対比でした(コリントT一五・二〇、 ローマ三・二一)。しかし七〇年以後の後期では、集会の構成も指導者も異邦人が多くなり、思考の枠組みが変わり、聖書の救済史的な枠からギリシア的な枠組みに、すなわち時間的救済史の枠組みから《コスモス》の構造という空間的な枠組みに移り行きます。その時代の文書が「しかし今や」と言って以前と現在を対比するとき、それはギリシア・ローマ的で異教的な宗教祭儀の場から福音共同体の生活の場に移った事実を対比しています(たとえばエフェソ二・一〜六)。
もしこの思考の枠組みの変化を「ギリシア化」とか「ヘレニズム化」と呼ぶならば(両者は同じ意味です)、福音のヘレニズム化の過程は徐々に進みました。本来聖書的で救済史的なキリストの福音は、それがヘレニズム世界に告知されて福音共同体を形成する以上、そのヘレニズム化は避けられません。新約聖書の諸文書はそのヘレニズム化の徐々に進んだことを証言しています。新約聖書はキリストの出来事が聖書の成就であることを強調しながら、同時にキリストが《コスモス》(宇宙とか世界)を他の諸霊から解放して満たす方であることを指しています。この時期の文書には「充満」という語がよく出てきます。ところがこの福音のギリシア化をあまりに急激に進めたために、福音は本来救済史的な事態ではないとして、キリストを救済史の枠組みで理解する福音共同体の大勢と衝突し、大きな問題を引き起こしたのがマルキオンです。
先に見たように、マルキオンの場合は救済史の根拠となる聖書そのものを拒否するにいたります。マルキオンは信仰のヘレニズム化を急激に進め、それを行き着くところまで推し進めて、ユダヤ教の拠り所である聖書そのものを拒否するに至ります。その結果、聖書を生み出した信仰原理ともいうべき救済史信仰をも見失うという結果を招きます。マルキオンはパウロ主義者でした。しかし彼のパウロ主義は、パウロの律法義認に対する信仰義認の一面を強調するあまり、パウロが保持している聖書信仰、そこに含まれる救済史信仰をも否定するという結果になります。マルキオン自身は別として、その後マルキオン派の共同体は福音共同体に侵入してきたグノーシス主義に傾き、結婚を禁じるまでになります。その結果、聖書信仰を維持し救済史的信仰に立つ反グノーシス主義の対立派との論争に敗れ、勢力を失い、やがて歴史の舞台から消えて行きます。
マルキオンの反対派は聖書の救済史信仰を擁護して論争し、反マルキオンの代表的論者であるエイレナイオスの救済史神学を生み出すことになります。二世紀の末に活躍したエイレナイオスは、その頃出揃って流布していた四つの福音書をすべて対等に受け入れるべきことを説いて、自説に好都合な一つだけを重視する傾向に反対しています。そして、旧約聖書の神とイエスの神は同じ唯一の神であることを強調し、マルキオンに反対して『異端論駁』を書きます。エイレナイオスとほぼ同じ時期に西方ラテン語世界で活躍したテリトゥリアヌスも、同じくマルキオンに反対して異端論駁の書を書き、そこで四福音書と使徒言行録及び使徒書簡から成る現行の二七巻に「新約聖書」という名を与えます。当時の福音共同体で用いられていた七十人訳ギリシア語聖書は「旧約聖書」となります。その後の論争を経て、このエイレナイオスやテリトゥリアヌスに代表される反マルキオン派が勝利して「正統」であると名乗ります。正統派の確立を宣言する記念碑的著作がエウセビオスの『教会史』です(その成立は四世紀初頭、三一〇年代)。
このマルキオンの聖書否定に対抗して聖書信仰の擁護を主張して、最初に著作したのがルカです。マルキオンが当時の福音共同体が聖書としていた七十人訳ギリシア語旧約聖書を拒否して、改変したルカ福音書とパウロ十書簡だけを自派の聖書とした時、それに反対してイエス・キリストの福音は聖書(旧約聖書)の成就であることを主張して著作したのが、パウロの弟子のルカでした。ルカはパウロの弟子として、当然パウロ書簡集を信仰の基準とします。一方自分が各地で収集したイエス伝承の集成(初版のルカ福音書)の前後に、誕生物語と顕現物語を加えて現行のルカ福音書とし、それにパウロの福音活動を中心とする最初期の福音共同体の歴史をまとめた『使徒言行録』を加えて連続する二部作とし、ローマ帝国の高官に献呈します(二世紀初頭、おそらく一二〇年代)。先にルカの二部作はマルキオンに対抗するために書かれたものであることを述べましたが、福音書の増補部分である誕生物語と顕現物語には、この福音が聖書(旧約聖書)の成就実現であることがとくに強調されています。そして、ペトロをなおユダヤ教の枠の中にいてパウロに対立する働き手としているマルキオンに対抗して、使徒言行録では使徒パウロが告知したキリストの福音と、イエスの事跡を伝えたペトロが宣べ伝えたことは同じであり、両者は同じように尊重されるべきことが(かなり作為的に)強調されています。正統派はこのルカの路線を行って勝利したと言えます。

正統教義の確立に向けて

こうして二世紀と三世紀は、外からの迫害と戦いながら、福音共同体の中で正統と異端が激しく論争し、正統教義の確立が急がれた時代となります。その論争の中で最も重要なものは、グノーシス主義に対する正統派の論争でしょう。グノーシス主義というのはローマ帝国の支配下にあってその抑圧に苦しむ辺境の地に生まれた宗教思想であって、ローマ社会の基盤であるギリシア文化の正統思想に反抗する宗教思想です。当時のヘレニズム世界の体制的な思想はギリシアのコスモロジー(《コスモス》に関する思想)でした。すなわちこの現実の《コスモス》(宇宙とか世界、全存在界)は善にして美なる存在として価値の源泉であり、その《コスモス》の秩序に即して生きることが人生の価値であり善であるという思想です。それに対してグノーシス主義は、この悲惨な現実の《コスモス》を悪と見て、この《コスモス》の外に、またはその上に究極の神的世界を想定し、この悪なる世界から解放されて、それとは別の至上の神的で霊的な実在(魂の本来の故郷)に帰還することを救済とします。このような救済に至るためには、この《コスモス》の支配者である諸霊から解放されるための神秘的霊的照明が必要です。この霊的照明が《グノーシス》(知識)と呼ばれ、人間は《グノーシス》によって救われるとする宗教思想です。このような宗教思想を説明するために、グノーシス主義者は実に多様で複雑な神話を創作しました。
グノーシス主義の根底には、現実の《コスモス》を悪と見て、別に神的な世界を想定する「反《コスモス》の二元論」があります。マルキオンはイエスが啓示された無条件で赦す父なる神こそが至上の神であって、この悪である現実の世界を創造して義なる審判で裁く旧約聖書の神は真の神ではなく、《デミウールゴス》(半神)に過ぎないとし、旧約聖書を正典として受け入れることを拒否します。マルキオンの反《コスモス》の二元論は二神論となって、神は唯一であるとする正統派から、グノーシス主義の源流また首魁であるとして猛烈な批判を浴びることになります。グノーシス主義はキリストの福音の告知以前からあり、ユダヤ教の周辺にもありましたが、「この悪しき世から救われよ」と呼びかける福音共同体とも親近性があり、二世紀の福音共同体にはマルキオンをはじめ、バレンチノスら有力な知識人が多く活躍して、このような宗教思想を説くようになります。
グノーシス主義はユダヤ教黙示思想と同じ根から出ている面があると思われます。両方とも抑圧された人々の現実に対する絶望から現実の世界を悪が支配する世界として、その彼方に善が支配する理想の世界を見るのですが、それがユダヤ教では黙示思想となり、ヘレニズム世界ではグノーシス主義の宗教思想になったのではないかと考えられます。救済を時間の枠組みで考えるイスラエルの伝統の中で思考するユダヤ教では、現実の時代を悪が支配する時代として、その彼方に神だけが支配する「神の国」を待ち望むことが信仰となります。キリストの福音はこの世界に向かって、「この悪しき《アイオーン》(時代、世)から救い出されよ」と呼びかけます(ガラテヤ一・四)。それに対してギリシア的なコスモロジーの枠で考える人は、この現実の《コスモス》を悪と見て、その彼方に、またはその上に神的充満を想定して、魂の故郷であるそこに帰還することを救済とします。
ルカの路線を行く正統派の指導者たち(教父と呼ばれます)は、グノーシス主義者と激しく論争します。その代表的な教父はエイレナイオスでありテルトゥリアヌスです。七十人訳ギリシア語聖書を神からの啓示とする教父たちが黙示思想的となり、エイレナイオスの救済論が救済史神学になるのは当然です。彼らはとくにマルキオンを名指して異端論駁の書を書きます。彼らがとくにマルキオンを目の敵にしたのは、マルキオンが積極的に伝道活動をして自派の共同体を形成し、その勢力が正統派の共同体と並ぶほどになっていたからと考えられます。さらに、マルキオンが自派の共同体に「これが至高の神が与えた啓示、信仰の拠り所だ」として与えたマルキオン聖書(改変されたルカ福音書とパウロ十書簡)が、正統派の共同体に新約聖書の確立を急がせます。教父たちはマルキオンの著作やグノーシス主義的な立場の文書を異端として排除します。その中には多く福音書を名乗る文書もあり、教父たちは現行の四つの福音書に厳しく限定します。使徒書簡について、とくにヨハネ黙示録については評価が一定せず、現行の二十七書が新約聖書正典と決定されるのは四世紀半ばになりますが、エイレナイオスの著作やムラトリの正典表に見られるように、この二世紀にはほぼ現行の正典ができていたようです。その際、激しい論争を経て受け入れていた七十人訳ギリシア語聖書を「旧約聖書」と呼び、新しく信仰の拠り所として受け入れていた使徒たちの文書を「新約聖書」と呼ぶようになります。この呼び方はテルトゥリアヌスから始まります。

福音共同体における信仰告白

福音、すなわちイエスの十字架と復活の出来事を神による救済とする告知を信じ受け入れて、イエスをキリストとして自分を全面的に委ねて生きる者、キリストにあって生きる者は、その信仰を言葉で言い表します。新約聖書ではその言葉による言い表しを《ホモロギア》というギリシア語で指しています。このギリシア語は、《ホモ》(同じ)と《レゴー》(言う、語る)という語からできた動詞《ホモロゲオー》の名詞形です。何と同じことを言うのかというと、それは神が語られた言葉と同じことを言うことです。神が最終的に語られた言葉が福音ですから、福音が告知する言葉《ケリュグマ》と同じことを言い表すことです。神はイエスを地上に送って、この方をキリストとされました。従って、信仰告白の最も簡潔で基本的な形は「イエスは《キュリオス》(主)である」という形です(コリントT一二・三)。《キュリオス》は万人の救い主キリストを指すギリシア語です。ローマ書(一〇・九)では、この「イエスは《キュリオス》、キリストである」と言い表すことが、心で信じることと一つであることが語られています。新約聖書、とくにヘブライ書(一一章)では、この《ホモロギア》が信仰と同じものとして扱われています。信仰は言葉の出来事です。神が語り、人間がその言葉を言い表す時、そこに聖霊による神の力、神の働きが働き、救済の出来事が起こります(テサロニケT二・一三)。
新約聖書ではこのようにシンプルな告白は、二世紀の正統と異端との教理論争の過程で形式を整えてきます。先に見たように、公同の教会(カトリック教会)が形を整え、その中で帝国の首都ローマの教会が主導的な地位を主張するようになってきます。そのローマの教会が洗礼という儀礼を受けて教会に加入することを願う人に、基本的な信仰内容を問い、それに答えることを求めます。この洗礼問答はすでに二世紀の前半に行われていたようですが、この問答はやがて「わたしは信じます」(ラテン語で「クレドー」)で始まる信条という形をとるようになり、二世紀の中頃には、全能の父なる神、主イエス・キリスト、聖霊とその働きという三項のクレド(信条)となっていたようです。これを「ローマ信条」と称しています。このローマ信条に多少の句を加えて、現在諸教会で広く用いられている「使徒信条」が形成されます。その成立がいつになるのかは正確には分かっていませんが、二世紀末にはローマ信条が普及して、カトリック教会における信条の形成は実質的に出来上がっていたと見てよいでしょう。

宗教としてのキリスト教

こうして二世紀には、単独監督制とその監督の公会議という聖職者組織、その単独監督が執行する洗礼と聖餐というサクラメントとなった祭儀、正統教理と信条が形成され、制度的な教会が形を取って現れてくる世紀となります。そしてその教会で行われる宗教行事の総体が「キリスト教」と呼ばれて、一つの新しい宗教がローマ社会にもたらされることになります。キリスト教は東方からの諸宗教や諸々の密儀宗教と並んで、ローマ社会の人々に救済を約束する宗教の一つとなって現れてきます。もともとローマは祭儀共同体としての性格を持つ古代の都市国家でした。皇帝は政治権力のトップに立つと同時に、国家祭儀の大祭司でもありました。ですから、ローマの国家祭儀に参加することはローマ市民の当然の義務であり、ローマ人はその祭儀を忠実に行うことを敬虔な生活だとして誇っていました。しかし国家祭儀だけでは、一人ひとりの個人の魂の悩みは解決されず、その霊性は満たされませんでした。そこに東方の諸宗教や多様な密儀宗教がやってきて、個人の救済を約束して信仰を呼びかけたのです。
ローマの人々にはキリスト教もそのような東方からの新しい宗教、とくに密儀宗教の一つに見えたことでしょう。《ミュステーリオン》と呼ばれる密儀宗教は、ローマ市民の間で広く行われており、何か秘密の儀式にあずかることで、その宗教が唱える神性に参与して、魂の救いに至ることを約束する宗教です。その儀式にあずかった者はそれを口外してはならず、秘密にされましたから、その実態はよく分かりません。そのような社会に新しく登場したキリスト教も、洗礼を受けた者だけが参加できる聖餐の儀礼によって神的な命を与えられて救われるという密儀宗教の一つだと見られたことでしょう。しかしキリスト教は密儀宗教ではありません。洗礼と聖餐は決して秘密にされた儀礼ではありませんでした。
キリストの福音はヘレニズム世界に広く宣べ伝えられて、信じる者たちを呼び集めました。その共同体を新約聖書は《エクレーシア》と呼びました。これはギリシア語ですから、日本語では差し当たって「福音共同体」と呼んでいきます。キリストを信じその共同体に属する者は、周囲の人たちから《クリスティアノイ》(キリストの者たち)と呼ばれるようになります。その共同体が、ここで見たように、二世紀にはキリスト教会という制度的な宗教共同体になっていったのです。従って、福音共同体に所属する者は、すべて《クリスティアノイ》と呼ばれて、ローマ社会では迫害の対象となりました。先に見たようにローマは古代の都市国家であり、共通の宗教祭儀を存立の土台にしています。国家祭儀に参加しない《クリスティアノイ》(キリスト教徒)はローマ社会では軽蔑され憎まれます。ついには自分がキリスト教徒であることを公に裁判の場で認める者は処刑されるに至ります。ローマの国家祭儀に参加しないユダヤ教徒も憎まれましたが、カエサル以来の政治的動機から免除されて、ユダヤ教はローマの合法宗教(レリギオ・リキタ)とされていました。それで当初はキリスト教徒もユダヤ教の一部と見做されていましたが、福音共同体がキリスト教会となり、その宗教のキリスト教がユダヤ教とは別の宗教であることが明らかになるに従って、国家祭儀に参加しない一神教徒への憎しみはキリスト教徒に集中します。こうして二世紀には、キリスト教徒への迫害が激しくなっていきます。
なお、キリスト教という宗教の成立に伴って、福音共同体とキリスト教会との違い、また福音が告知する「キリスト信仰」と、キリスト教という宗教を信奉してその諸規定に従う「キリスト教信仰」の違いを明確にしておく必要が出てきます。しかし、この区別はキリスト教がローマ帝国の国教となって、すべての市民がキリスト教会に所属し、キリスト教徒になった時代(このような体制をコンスタンティヌス体制と呼びます)に重要な区別になるので、そのような体制になる四世紀以後の問題として、次章以下に先送りします。

V 宗教を相対化する福音 ― 新約聖書において

イエスによる宗教の相対化

イエスの時代にはまだキリスト教という宗教は存在しません。イエスはユダヤ教という宗教が支配する社会に生きておられました。そのユダヤ教とイエスの関わり方は、前章(第三章 聖書の神・イエスの神、とくにその第三節 イエスの神 ー イエスとユダヤ教)でやや詳しく論じました。従って、イエスのユダヤ教との関わり方は、イエスが宗教と関わられた関わり方そのものを示すことになります。イエスは、ユダヤ教という宗教の支配下にある民衆が苦しんでいるのを見て、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招かれます(マタイ一一・二八)。イエスは「わたしがあなたたちを休ませる」と言っておられるのです。この「疲れた者、重荷を負う者」とは誰でしょうか。それはユダヤ教律法学者たちが民衆に負わせている「背負いきれない重荷」を負って疲れている者です(マタイ二三・四)。イスラエルの民はもともとモーセによって神ヤハウェと契約を結び、そのヤハウェだけを自分たちの神とすることを約束し、その神の恩恵によって約束の土地を与えられ、その歴史を形成してきた民です。ところが、その長い歴史を経て、とくにバビロン捕囚という体験をしてから、そのヤハウェとの契約がユダヤ教という多くの煩瑣な規定から成る宗教になっていました。モーセの契約を順守してヤハウェの祝福を得るために、民が置かれている歴史的な状況においてその契約の条項をどのように行えばよいのかを研究した学者たちがその要求を積み重ねました。彼らが神からの啓示として尊んでいた契約の書は、煩瑣な礼拝と生活の規定となって、契約の民に「背負いきれない重荷」を負わせる律法の書となっていました。これは本書の第三章第一節「聖書の神」で見たとおりです。
イエスは言われます、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ一一・二九〜三〇)。イエスも「わたしの軛を負いなさい」と言われます。しかしイエスの軛は負いやすく、イエスの荷は軽いのです。イエスは宗教が課す重荷と比べて軽いとか負いやすくと言っておられますが、これはヘブライ的語法からすると、イエスの軛は軛ではなく、重荷は重荷ではないと言っておられるのです。イエスが与えようとしておられるのは神の無条件の恩恵です。人間は感謝してこれを受け取ればよいのです。イエスが求めておられるのは信仰だけです。信仰は重荷ではなく、軛ではありません。それはイエスご自身が「柔和で謙遜な者」だからです。イエスはご自身を無として、ただ父の恩恵の場に生きておられるからです。イエスは「わたしに学べ」と言われます。イエスが「山上の説教」で弟子に求めておられる生き方は、ユダヤ教律法よりも厳しい倫理的要求ではなく、イエスが生きておられる恩恵の場での生き様の告白です。無条件の恩恵の場で神に受け入れられている者は、無条件に他者を赦し、敵を愛さないではおれないのです。人がイエスに学んで、この恩恵の場に生きる時、人間を圧迫する苦悩から解放されて「安らぎを得られる」のです。
人間を宗教の重荷から解放するのは恩恵です。無条件の恩恵です。人間の側には何の資格も条件も求められていないのです。イエスが周囲に貧しい人たちを集めて、「あなたがた貧しい人は幸いだ。神の国はあなたがたのものだ」(ルカ六・二〇)と言われる時、その「貧しい者」というのは、当時ではユダヤ教という宗教が求める宗教上の規定を順守せず、また順守できないで宗教的に何の功績もなく価値のない者、ユダヤ教規定の励行を誇る「義人」から「罪人」と呼ばれて軽蔑されていた人たちです。イエスはそのような人たちを「貧しい者」と呼んで、自分の仲間とし、食事を共にするなどして交わりを持たれました。
当時のユダヤ教の指導者たち、すなわち祭司や律法学者たちはユダヤ教の諸規定(律法)を順守することを、神に受け入れられて(義とされて)神の民となるための条件としていました。このようにある宗教の諸規定を順守することを救済の条件とすることを宗教の「絶対化」というと、宗教にはその宗教を絶対化する傾向は避けられません。イエスはそのユダヤ教の世界の中でユダヤ教の絶対化を否定されたのです。ユダヤ教諸規定の順守を神の民として受け入れられるための条件とされなかったのです。しかしイエスはユダヤ教という宗教そのものを否定されたのではありません。イエスから救いの恵みを受けた者がユダヤ教の世界に生きることを当然のこととしておられます。当時「らい病」と呼ばれていた病気をいやされた者には、その体を祭司に見せて、律法による清めの証明を得るように求めておられます。イエスが否定されたのはユダヤ教そのものではなく、ユダヤ教という宗教の絶対化です。ユダヤ教の存在価値を認めつつ、ユダヤ教の絶対化を否定することは、ユダヤ教を相対化することです。イエスがユダヤ教の絶対化を否定されたことが、ユダヤ教を絶対化する人たち(ユダヤ教の指導層)からユダヤ教そのものの否定として憎まれて、ついにはその人たちが構成する最高法院から死刑の判決を受けることになるのです。
イエスはユダヤ教を否定することで、ユダヤ教に体現されているユダヤ文化の全体、ユダヤ民族のアイデンティティーを否定したのだからという理由で、ユダヤ人がイエスを殺したことを正当化する議論がありますが、これは間違っています。この議論は、イエスのユダヤ教絶対化の否定をユダヤ教そのものの否定と混同しています。ある宗教を相対化する姿勢は、その宗教を絶対化する宗教家たちに憎まれるのは、古今を通じて同じです。次に見るパウロも同じ理由でユダヤ教絶対主義者によって訴えられ処刑されるに至ります。

パウロによるユダヤ教の相対化

パウロもイエスと同じようにユダヤ教という宗教を相対化しました。パウロの時代では、ユダヤ教という宗教の全体が「律法」とか「モーセ律法」と呼ばれていました。先に「聖書の神」の章で見たように、わたしたちが宗教と呼んでいる営みのすべてが、ユダヤ人の間では「律法」という名で呼ばれていました。律法には神殿の形とその神殿で執行されるイスラエルの神ヤハウェへの礼拝が事細かに規定されています。その神礼拝を行うことがユダヤ教という宗教の核心です。その礼拝がエルサレム神殿に集中するようになったヨシヤ王の改革以来、とくにイスラエルの民が神殿を失う体験をしたバビロン捕囚以来、各地方で神を礼拝する会堂が発達し、その会堂を中心にヤハウェを礼拝する民の生活規定が細かく定められました。イスラエルの民が神殿を失い、再び再建して神殿中心の宗教生活をするようになるバビロン捕囚の前後に多くの預言者が出て、歴史の中で働かれる方としての神の言葉を告げました。また、この宗教的な民がギリシア文化と遭遇して、その宗教と生活をどの民族にも通用する哲学的な言葉で表現する知恵文学が出てきました。このようなヤハウェと契約を結んだイスラエルの民の歴史の総体を記録した文書の集合が、ユダヤ人の宗教生活の全てを規律する聖書となります。
パウロがキリストの十字架の死とその復活という出来事において神が成し遂げられた救済の働きを「キリストの福音」として世界に告知した時、十字架につけられたナザレのイエスをメシア(キリスト)と認めない同胞ユダヤ人に心を痛めましたが、それにも増して大きな心痛をもって戦ったのは、イエスを信じたユダヤ人の一部の者たちでした。彼らはユダヤ教を絶対化している人たちです。すなわち、神はその完成である「神の国」はユダヤ教徒に約束されたのであるから、救いを受けて「神の国」に入る者はユダヤ教徒でなければならない、すなわちユダヤ教徒でない者(異邦人)は、救いにあずかるには割礼を受けて律法を順守するユダヤ教という宗教の一員にならなければならないと主張するユダヤ人です。彼らはユダヤ教という宗教を救済の条件とする者、ユダヤ教絶対主義者です。パウロは、割礼を受けることを条件とすることは無条件の恩恵の支配から離れること、キリストを失うことだとして激しく反対します。その論争の書がガラテヤ書です。
ガラテア書は福音と律法の対比・対立を論点とする論争の書です。パウロがこの書で、「人は律法の行いではなく、ただキリストの信仰によって義とされる」ことが福音であると強く主張しています(ガラテヤ二・一五〜一六)。これが福音の体系的な提示であるローマ書の土台でもあります(ローマ三・二一〜二二、 二七〜二八)。ところがこのパウロの論点が、これまでの神学では福音と道徳の対比と理解されて、福音と宗教の対比であるというパウロの論点が見失われていました。パウロはここでキリストの十字架の福音と人間の道徳的倫理的努力を対比して、人間はいくら道徳的に立派になってもそれで義とされるのではなく、信仰によって義とされるのだから、キリスト教の信仰に入り、キリスト教の信仰に徹しなさい、という意味に理解されてきました。これはパウロが言おうとしていることを誤解しています。これでは、ユダヤ教の宗教的実行では救われないから、バプテスマを受けてキリスト教といういっそう高くて正しい宗教に改宗して、その宗教の実行に励みなさい、という議論になっています。
その誤解は訳語のあいまいさにもよります。パウロはこれらの箇所で、人が義とされる(神のものとして受け入れられる)のは「律法の《エルガ》」ではなく「キリストの《ピスティス》」による、と正確に対照しています。この律法の《エルガ》というのは、人間の道徳的営為ではなく、宗教の実行という意味です。パウロの場合はユダヤ教という宗教の実行です。律法がユダヤ教という宗教を指すことは先に述べました。割礼を受けてユダヤ教の礼拝と生活規定を実行することです。ユダヤ教であれどの宗教であれ、それがキリスト教であっても、いくら宗教を熱心に実行しても、その宗教的営為によって神の民とはなりません。人を神に受け入れられて神の民とするのは「キリストの信仰」なのです。この句を「キリストへの信仰」と訳すのは不十分です。キリストを対象とする信仰ではなく、それから始まりますが、キリストと一つに合わせられて生きる事態の全体です。パウロがしばしば「エン・クリストー」(キリストにあって)と言っている事態です。わたしはこの句を「キリスト信仰」と呼んでいます。パウロは「人が義とされるのは、宗教(キリスト教という宗教も含まれます)の実行によるのではなく、ただキリスト信仰によるのです」と言っているのです。わたしたちはキリストという場、そこでは神の無条件の恩恵だけが働いている場にいる時に、その神の恩恵によって義とされる、すなわち神に受け入れられて神の子となるのです。
このように、パウロはユダヤ教の絶対性を否定しました。しかしユダヤ教そのものを否定したのではありません。パウロは最後までユダヤ教徒でした。聖書を神からの啓示として、そのすべての主張を聖書によって根拠づけました。ユダヤ教徒としてユダヤ教の神殿での礼拝を尊重し、その規定を順守しました。その規定に従って神殿に詣でた時に逮捕されることになるのです(使徒二一章)。ユダヤ教徒で割礼を受けている者が信仰に入った場合、パウロはその割礼とユダヤ教宗教の実行を尊重しました。こうしてパウロはユダヤ教を否定したのではなく、ユダヤ教を救済の条件とすることを拒否した、すなわちユダヤ教を相対化したのです。わたしたちもキリスト教を否定しているのではなく、キリスト教を相対化しているのです。

ヨハネによる非宗教的信仰

イエスが愛された年若い弟子であったヨハネは、エルサレム在住のかなり身分の高い祭司の家柄の出身であると見られますが、イエスの在世中、とくにエルサレムに来られた時には、その身辺にいて、イエスの言動を身近に見聞きした弟子でした(ヨハネT一・一)。彼はエルサレムにおけるイエスの受難をもっとも身近に見て、その事実を証言しています。彼はイエス復活後にはキリストとしてのイエスをパレスチナ各地に宣べ伝えたと考えられますが、ユダヤ戦争の直前に(おそらく六〇年代前半に)、自分に委ねられたイエスの母マリア(ヨハネ一九・二六〜二七)を連れてエフェソに移住したと考えられます。エフェソはパウロ系の諸集会の中心地です。エフェソで多くの異邦人を含む信者の共同体を形成し、その指導者としてヨハネは、彼が形成した共同体でキリストとしてのイエスの証言を続けます。彼はその共同体で長老と呼ばれるようになり、彼の証言と告知する福音が後に文書となって「ヨハネ福音書」となります(ヨハネ二一・二四)。この福音書の成立とその使信については、前項(W ヨハネ福音書の成立とその使信)でその概略を述べていますので、それを見ていただくことにして、ここではヨハネがユダヤ教やその他の諸宗教に対してどのような姿勢で対したか、の一点に絞って見ておきます。
ヨハネ共同体は、もともと洗礼者ヨハネの弟子であった者がイエスに出会って、イエスの弟子として従った者たちが核となって形成された信仰共同体でした。この共同体の指導者である「イエスが愛された弟子」は、イエスが選ばれた十二人の弟子には含まれていません。十二人の弟子団を代表するペトロとは、いつも「ペトロとそのもう一人の弟子」という形で出てきて、その弟子がペトロと対等で、時にはペトロに優る弟子として登場しています。共観福音書と使徒言行録では十二人については「使徒」という名称が使われていますが、ヨハネ福音書には十二人のグループや使徒という名称は登場せず、みな弟子と呼ばれています。このことによってヨハネ福音書は暗に、ペトロに代表される使徒団に指導される主流の福音共同体に対して、やや距離を置いた信仰共同体であることを示しているようです。ヨハネ福音書は「使徒」や他の制度や権威に無関心です。
主流の共同体は、ペトロから出たとされるマルコ福音書とパレスチナユダヤ人の伝承である語録資料Qで構成される共観福音書を奉じています。この主流の福音共同体では、先に見たように、バプテスマと「主の晩餐」がサクラメント化する傾向を見せはじめていたので、ヨハネ福音書はそれに対抗しようとしたのではないかと考えられます。ヨハネは最後の夜の食事の席にいました(ヨハネ一三・二三)。しかしヨハネはあえて、(共観福音書のように)最後の食事がユダヤ教の祭儀である過越の食事と同一視されるのを避けて、イエスが弟子の足を洗われた記事と訣別遺訓の講話にしたのではないかと推察されます。ヨハネ共同体はイエスが最後の食卓で語られた「これはわたしの体、わたしの血である」という言葉をよく知っています。しかしヨハネは、最後の食事の記事をあえて省略した代わりに、その言葉を命のパンについてのユダヤ人との対話の中でイエスが語られたことにしています(ヨハネ六・五四)。
バプテスマについては、ヨハネ自身が洗礼者ヨハネの弟子であったのですから、洗礼者ヨハネの証言を一番詳しく伝えており、イエスが洗礼者ヨハネと同じくバプテスマを授ける活動をされたことをヨハネ福音書だけが伝えています(三・二二)。ヨハネ共同体も水のバプテスマを行っていたでしょうし、少なくともよく知っていたはずです。そのヨハネがバプテスマについて、イエス自身が聖霊を受けて、その上に聖霊がとどまる方であり、それを見た洗礼者ヨハネが「わたしは水でバプテスマしたが、わたしの後に来る方は聖霊によってバプテスマされる」と証言したことを強調しています。そして洗礼者ヨハネから別れて独自の活動を始めたイエスが、もはやバプテスマについて何も語らず、バプテスマをするようにお命じにならなかったこともそのまま伝えています。
先の項で見たように、バプテスマと主の晩餐が、その儀式にあずかることが救いの保証となるサクラメントになっていくことで教会として形成されつつある共同体において、ヨハネ福音書に見られるこの二つの儀式についての「故意の無関心」は、それを執行する聖職制度への無関心と共に、注目すべき事実です。長年この二つの儀礼をキリスト教会に不可欠の典礼としてきた現代の教会で、この二つの儀礼について「救済手段としてのサクラメントを必要としない」福音書が正典とされていることの意義を語る標準的な注解(たとえばNTDのシュルツ)が出てきたことは注目すべきことです。「救済手段としてのサクラメントを必要としない」ということは、この二つの儀礼の絶対化を否定すること、すなわち相対化するということです。ヨハネ福音書は二つのユダヤ教起源の儀礼を否定しているのではなく、相対化しているのです。
ヨハネ共同体はエフェソを中心にヘレニズム世界で活動して、多くの異邦人を含むようになっています。その福音書は、先に見たように、ヘレニズム的な思考の枠組みで書かれています。一方、その福音書はもともと洗礼者ヨハネの弟子であったユダヤ人から出ているのですから、「人の子」などユダヤ教独自の用語も当然のように使われていて、ユダヤ教的な色彩も色濃く残しています。それでこの福音書は異邦人を対象としているのか、ユダヤ人に向かって書かれているのか、学説も振り子のように振れています。しかし、その出自からユダヤ教的な素養を見せながら、異邦人に向かって語りかける要素が強くなっていると見てよいでしょう。この福音書にはヘブライ語をギリシア語で説明するなど、異邦人読者を念頭に置いていることを示す多くの事実が見られます。ここではその中で典型的な場合を一つ取り上げます。
イエスが語られた多くのたとえの中で、ご自身を牧者にたとえて語られた「良い羊飼いのたとえ」(ヨハネ一〇・一〜一八)は有名です。そのたとえが言おうとしている結論は、「(他の誰でもなく)わたしが良い羊飼いである。(ここであの《エゴー・エイミ》が使われています)……わたしは羊たちのために自分の命を捨てる。わたしには、この囲いに属さないほかの羊たちもいる。わたしはその羊たちをも導かなければならない。その羊たちもわたしの声を聞き分けるようになり、一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう」ということです(ヨハネ一〇・一四〜一六)。ここで使われている「この囲い」というのは、ユダヤ教という宗教を指しています。ユダヤ教という固い城壁に囲まれている民であるユダヤ人を指しています。キリストはまずユダヤ人のもとに来られました。キリストはまずユダヤ人を救って、本来の神の民としようとされました。しかし、多くのユダヤ人は自分たちのところに来られたキリストを拒否しました。それで良い羊飼いであるキリストは「この囲いの外にいるほかの羊たち」のところに行って呼びかけられました。これが異邦人(ユダヤ人以外の諸国民)への福音の告知です。その結果、ユダヤ教という囲いの外にいる多くの民がイエスの声を聞き分け、イエスをキリストと信じ、キリストに導かれて神の民となりました。ガンディーなどはその典型です。彼は最後までヒンドゥー教徒でした。彼はヒンドゥー教の中にもキリストの民がいることの実例となりました。
このたとえによって、ヨハネもユダヤ教という宗教を相対化していることが分かります。ユダヤ教という宗教に属することは救われることと関係がありません。人が救われるのは、まことの牧者であるキリストの声に聞き従うことです。キリストの呼びかけ、すなわちキリストを告知する福音を神からの呼びかけとして聞き従うことです。キリストに聞き従って救われるのに、ユダヤ教とか何か特定の宗教に所属することは、救いの条件ではなく、何の意味もありません。確かに、諸宗教は人間の社会生活に欠くことができない大切な働きがあります。しかし諸宗教は救いの条件ではありません。イエスの言葉はすべての宗教を相対化しています。イエスは「一つの群れとなる」と言っておられるのであって、「一つの囲いとなる」とは言っておられません。ところがここを「一つの囲いとなる」と訳して、人類は最後に一つの宗教、すなわち自分たちの宗教になるのだとして、自分の宗教を絶対化する人がいます。その訳は誤訳です。たとえば、ローマカトリック教会の公式の訳であるウルガータ訳はこう訳しており、その訳のような聖書理解が、カトリックの伝道活動をすべての民をカトリック宗教の枠に入れようとする運動にしています。
こうしてヨハネ福音書は、使徒職とかの聖職制度、バプテスマや聖餐などのサクラメントの宗教制度には故意の無関心を見せており、最後の「良い羊飼い」のたとえに見るように、すべての宗教を相対化する方向を指し示しています。わたしはこの項で新約聖書における主要な三人の証人、イエス、パウロ、ヨハネを取り上げました。それは福音がまだキリスト教という宗教になる前、宗教といえばユダヤ教を指していた時にすでに、福音が宗教を相対化していることを示すためであり、次章以下で福音がキリスト教をも相対化する力であることを示すための道備えとするためです。

第一部への結び

 本章「キリストの福音―その成立と世界への告知」では、ユダヤ教社会の中に現れたナザレのイエスが復活によってキリスト、すなわち神によって人間の救済者として立てられ、そのキリストの十字架上の死において人間の贖いのための神の働きが成し遂げられたという報知が世界の諸民族に告知されるに至った経緯を述べました。この報知こそが、新約聖書のいう「福音」、喜びの知らせであって、これはその福音によって形成されたキリスト教という宗教とは違うものであることを述べました。そして、一章と二章で見たように、世界の宗教史はこのキリストの出現を待ち望み、その出現を準備する歴史でした。キリストの出現が世界の宗教史を、それを目標とするそれ以前の歴史と、キリスト出現以後の歴史に二分されるのです。宗教史が人間の歴史の本体をなすものであれば、キリストの出現こそが、人類の歴史をそれ以前とそれ以後に二分します。キリスト共同体の人々はそう考えて、キリストまでの年月を「Before Christ」(キリスト前の意、略号 BC.)と呼び、その出来事にいたるまでの年数で年を数えました。そしてキリスト出現以後を「Anno Domini」(ラテン語で「主の年において」の意、略号 AD.)と呼び、その出来事からの年数で年を数えました。この呼び方が世界の年代の共通の呼び方になり、キリスト以前が「紀元前」、キリスト以後が「紀元後」あるいは「紀元」何年と呼ばれるようになります。
 最近ではイエスをキリストと信じない人たちの中から、キリストの出現を人間全体の歴史の基準とすることに反対して、「共通紀元前」と「共通紀元後」(Before Common Era, After Common Era 略して BCE, ACE)を使う人も出てきていますが、その基準点はやはり現在の紀元と同じであり、年数は現在のBCとADと同じです。実質的にはキリストの出現を人類の歴史の基準点としていることには変わりありません。
 ところで、現在の紀元は後世のキリスト教会がイエスの誕生の年を起点として決めたのですが、現代の綿密な研究から、イエスの誕生は紀元一年ではなく、紀元前四〜七年であることが判明しました。もしキリストの出現をイエスの復活の出来事が告知された年としますと、キリスト紀元はもう少し正確に決めることができるはずです。それは、イエスの十字架刑が執行され、その三日後に復活された出来事は、誕生の年よりも確実とされているからです。しかしこの出来事の年にも三〇年前後の諸説があって、三〇年と確定できるわけではありません。歴史にとって正確な紀元の基準となる年の確定よりも、キリストの出現を人類の歴史を前後に分かつ基準としているという意味が重要です。
 本書「福音と宗教」の第一部は、この分け方によると、キリストの出現までの時代、すなわち紀元前の時代を扱っていることになります。人類の太古の宗教の歴史から始まって、諸宗教が人間社会を形成し支配していた時代の歴史であり、その歴史はキリストの出現を目指し、そしてついにキリストが出現した時代に至ります。本書の第二部はこのキリストの出現が福音として諸民族に告知された時代、すなわち紀元後の時代を扱います。その時代は現代に及び、狭くなった世界にひしめく諸宗教の問題が人類存亡の鍵となるような時代を迎えています。第二部はキリストの出現から現代に至る「福音と宗教」の関係に説き及ぶ予定です。
 このキリストの出現は宗教の歴史の分水嶺です。それ以前は宗教が絶対化される時代でした。どの宗教も、ユダヤ教を含めすべての宗教という宗教が絶対化されて、人間の社会を統合し支配し、人をその宗教の外で生きることを許しませんでした。キリストは人間を宗教の軛から解放しました。宗教の外で神と生きることを可能にしました。キリスト出現以後の時代、換言すれば福音が世界に告知される時代においては、宗教は相対化されて、人間を支配するものではなくなりました。しかし、この人間の宗教からの解放は直ちに実現するものではありませんでした。キリストの出現後も人間の宗教的な営みは続きます。キリストの福音はキリスト教という宗教を生み出し、そのキリスト教という宗教がその宗教が生み出す文明圏に生きる人間を支配する体制が続きました。福音はその中にあって、人間を解放しようとして幾多の改革運動を進めてきました。しかしその改革・解放はまだ完成していません。次章でキリスト教におけるこの改革にも触れますが、わたしたちの目標は、特定の一宗教の改革ではなく、諸宗教の相対化です。人間を宗教の軛から解放する力としての福音が出現しました。これからはこの福音が諸宗教とどう関わっていくかが問われます。
 本書の第二部ではまずキリスト教の歴史の中での相対化の問題を取り扱います。その議論の中で次に、キリスト教神学が宗教をどう理解していたか、「宗教の神学」を見ることになります。その後で現代の宗教問題を考察して、それに対処する方法として、福音の場における宗教相対主義に説き及ぶつもりです。