市川喜一著作集 > 第23巻 福音と宗教T > 第14講

第三節 福音書の成立とその時代

はじめに

本章「キリストの福音ーその成立と告知」では、ナザレのイエスが復活によってキリスト、すなわち神から来た世界の救済者として立てられ、そのキリストを世界に告げ知らせる福音告知活動が始まったという、人類の宗教史上もっとも重要な出来事を扱っています。第一節と第二節で、そのキリストの福音がイエスの弟子たちによって世界に告知される過程で、イエスの生前に弟子として召された十二人だけでなく、この復活されたキリストとしてのイエスに出会ってその証人となった人たち(彼らも使徒と呼ばれています)、とくにギリシア語を使うユダヤ人たちの証言活動を見ました。中でも、復活後に異邦人(非ユダヤ教徒)への使徒として召されたパウロの福音告知の活動は目覚ましく、おもに異邦人から成る福音共同体をエーゲ海をめぐる地中海世界に多く設立しただけでなく、異邦人は割礼を受けてユダヤ教に改宗しなくても神の民であり得るという「無割礼の福音」の原理を確立したという点でもっとも重要な使徒であるので、パウロの福音活動に焦点を当てて見てきました。
ペトロが代表する十二人のイエスの直弟子たちや同年代の使徒パウロが活躍した時期を「使徒時代」と呼ぶならば、この使徒時代はユダヤ戦争の時期にほぼ終わります。ユダヤ戦争はユダヤ人がユダヤ教神殿国家の独立を目指して支配者のローマに反逆して起こした戦争で、七〇年のエルサレム陥落と神殿の崩壊で実質的に終わるので、ユダヤ人(ユダヤ教)の歴史を語る時にはこの七〇年を区切りとして、それ以前と以後を分けて記述することが多くなります。福音の歴史的進展においても、この時期に使徒時代が終わって新しい時代を迎えることになります。ユダヤ戦争の時までにペトロとパウロは殉教し、多くの使徒たちも世を去る年齢となり、以後は使徒たちの後継者がエクレシアを指導する時代を迎えます。この使徒直後の時代は新約聖書の最後の文書になる牧会書簡が書かれる二世紀初め頃まで続き、イエスの復活後の約百年の間に新約聖書の諸文書が成立したことになります。このイエス復活後の約一 世紀をエクレシアの最初期と呼び、これを二分して神殿の崩壊以前を前期、以後を後期と呼ぶことにします。そうすると、本章の第一節と第二節は前期を扱い、この第三節は後期における福音の歴史的展開を扱うことになります。

ユダヤ戦争とその前後のユダヤ人社会の状況と、そこでのイエスに関わる伝承の継承については、拙著『福音の史的展開U』六頁以下の「第一節 パレスチナ・シリアのユダヤ教内キリスト信仰の消長」を参照してください。

T マルコ福音書の成立とその意義

               (この項で書名なしの数字はマルコ福音書の章節です)

ケリュグマ伝承とイエス伝承

前節「使徒パウロによるキリストの福音」 では、パウロが「受けて伝えた」キリストの福音の内容を見ました。パウロもはっきりと言っているように、パウロが異邦の諸民族に伝えた福音は彼自身が最初期のエルサレム共同体やアンティオキア共同体から「受けた」ものでした(コリントT一五・一〜五)。もちろんパウロは復活されたイエスに出会い、そのキリストとしてのイエスから遣わされた者であることを深く自覚していました。しかしそのキリストを告知する言葉の内容は、生前のイエスに師事してイエスの教えの言葉やイエスの身に起こった出来事を見て伝えた弟子たちが、これがイエスをキリストとして信じることだとして、エルサレム共同体でまとめたものです。その際、イエスの一つ一つの教えの言葉よりも、十字架の死と復活の事実と、その出来事の意義、すなわちその出来事によって神が人間に語っておられる言葉を伝えることが重要です。その内容は、パウロがそこで引用しているところによると、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」ということになります。彼らの告知の内容の第一は、ペトロのペンテコステの説教(使徒二・二二〜三六)に現れているように、イエスが復活されたことでした。しかしそれだけでなく、復活してキリストとされたイエスが十字架の上に死なれたのは「わたしたちの罪のため」であったという意義づけがされています。すなわち、神は復活によってキリストとされた方の十字架上の死によって、「わたしはあなたがたを贖った」と語っておられるのです。さらに、この復活と十字架の死が共に、聖書の言葉の成就であると意義づけされています。
パウロはこの神からの語りかけの言葉を福音と呼ぶようになりますが、最初からそうではなかったようで、エルサレム共同体はこれを「み言葉」《ロゴス》と呼んでいたようです(使徒四・二九)。使徒たちが宣べ伝えたこの告知を受け入れた者たちは、「神の《ロゴス》を受け入れた」と言われました(使徒八・一四)。キリストの十字架と復活の出来事によって告知される神の語りかけが《ロゴス》呼ばれたことは、後の福音書にもその痕跡をとどめています。ペトロが「あなたこそキリストです」と言い表したとき、イエスがその十字架の死と復活を語り出されますが、マルコ(八・三二)はそれを「イエスはその《ロゴス》をあからさまに語られた」と記述しています。このようにキリストの十字架と復活の出来事によって語りかける神の言葉を、神学者は「ケリュグマ」と呼びます。これは伝令が王などの告知を大声で告げ知らせる《ケーリュセイン》という動詞の名詞形《ケーリュグマ》(告知された内容)を指しています。人々がこれを「受けて伝える」ことになってケリュグマ伝承を形成し、パウロはこの《ケーリュグマ》を、「良き・音信」という意味で《エウ・アンゲリオン》(福音)と呼ぶようになり、その用法が新約聖書全体に広がります。この「ケリュグマ」の内容がヘブライの聖書知識とギリシアの思想によって深められて、パウロの福音告知において、人間理解の深みと視野の広さを形成します。
一方、ペトロたちイエスの直弟子が伝えたイエスの教えの言葉やたとえなどは、イエスを信じたエクレシア内部の弟子たちに実際の歩み方を指導するのに用いられたようです。ケリュグマを受け入れた最初期のエルサレム共同体の姿を、ルカは「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と要約しています(使徒二・四二)。この「使徒の教え」(ルカは一二人の直弟子だけを使徒と呼びます)は、ペトロたちが聞いていたイエスの教えやたとえ話を指していると考えられます。使徒たちがイエスから聞いていた教えの言葉や、彼らが見た奇跡などのイエスの働きが、エクレシア内で語り伝えられて「イエス伝承」を形成することになります。
パウロはイエス伝承を知っていたと考えられます。パウロは地上のイエスによって召されて弟子となったのではありませんから、イエスの教えの言葉や奇跡などの働きは直接見聞きしていません。しかし、ダマスコ途上で復活されたイエスに遭遇して、このイエスをキリストとして宣べ伝えるようになったのですから、イエスの言葉と働きには深い関心があったはずです。事実、パウロは回心三年後にエルサレムに行ってペトロに会い、一五日間も一緒にいて詳しくイエスのことを聞きました。さらに、アンティオキア共同体ではその指導者バルナバと一緒にいて、もともとはエルサレム共同体の一員であったバルナバから、イエス伝承は伝えられていたはずです。しかし、パウロはその独立の福音告知の活動で形成した異邦人諸集会を指導したり、信仰上の勧告をするときにイエス伝承を用いた形跡はありません。少なくとも彼の書簡にはイエス伝承の引用はほとんどなく、イエスがこう言って教えられたのだからそれに従うようにという仕方で勧告などをしていません。パウロはいつも自分の聖霊体験から出る自分の生き方を、同じキリストにある同信の異邦人信徒に勧めています。基本的には、自分がキリストに従う姿を証言して、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもわたしに倣う者になりなさい」ということになります(コリントT一一・一)。このように、パウロは福音告知の活動とエクレシア形成のための努力において、イエス伝承を用いることはほとんどありません。

マルコ福音書の成立

使徒たちが活躍し共同体を直接指導した最初期の前期においては、ごく大づかみに言うと、外に対する福音告知の活動にはケリュグマ伝承が用いられ、内部の信徒の指導にはイエス伝承が用いられるという傾向があったようです。ところでこのユダヤ戦争の時期は、神殿の崩壊などパレスチナのユダヤ教徒には天地が崩れるような衝撃的な時期でしたが、ディアスポラ(パレスチナ以外の地に住む離散の)ユダヤ人にはそれほどの衝撃ではなかったようです。数からすれば圧倒的多数のディアスポラ・ユダヤ人は普段と変わらない信仰生活を送っていました。しかし福音活動においてはこの時期に、その将来に大きな影響をもつ出来事があり、最初期という新しい信仰の形成期を前期と後期に分けることになります。それはマルコ福音書の成立という出来事です。
マルコ福音書については、著者やその成立の場所と時期など確実なことは分かっておらず、論争が続いています。古い教会指導者(教父)の言い伝えでは、著者はペトロの通訳であったマルコで、ペトロが世を去ってあまり時を経ないで、すなわちユダヤ戦争前後の時期に、ペトロが伝えたイエスの教えや働きの記憶を文書にとどめるために、マルコもそこにいたペトロ終焉の地であるローマでこの福音書を書いたとされています(エウセビオス『教会史』)。著者がマルコであること、それがペトロの伝承を基本としていること、および成立の時期については決定的な異論はありませんが、成立の地域とか状況については様々に異なる意見もあり論争が続いています。
著者が使徒言行録に登場するヨハネ・マルコとすると、マルコの経歴はこの福音書の性格をよく指し示しています。このマルコはペトロが「わたしの子」と呼んでいるように(ペトロT五・一三)、ペトロによって信仰に導かれ、しばらくは彼の母マリアの家にいたペトロと一緒に生活し(使徒一二・一二)、ペトロからイエスの働きと教えの言葉を詳しく聞いていたはずです。このマルコはエルサレムの住民でしたが、同じキプロス出身の叔父のバルナバに連れられてアンティオキア共同体に来てパウロに接し、バルナバがパウロと一緒にキプロスからガラテヤ州の南部の諸都市に伝道旅行に出発した時に、助手として同行しています。ところが、マルコはキプロスからアナトリアに渡った時、一行から別れてエルサレムに帰ってしまいます。その理由は様々に推測されていますが、おそらくマルコはペトロと親しいエルサレム共同体の一員として、パウロがキプロス伝道で見せたような異邦人を割礼なしで受け入れる「無割礼の福音」についていけなかったのでしょう。しかし、その後の経緯はよく分かりませんが、マルコはパウロと福音告知の活動を共にするようになり、パウロから信頼されてパウロの福音活動を手伝うようになっています(コロサイ四・一〇、 フィレモン二四、 テモテU四・一一)。マルコはパウロの福音のよき理解者であり、重要な協力者になっていたことになります。そうするとマルコの名が、その内容が極めてパウロ的でありながらペトロの名で書かれた手紙(ペトロ第一書簡五・一三)に出てくるのもうなずけます。
このようなマルコの経歴はこの福音書の性格をよく示しています。すなわち、マルコはケリュグマ伝承とイエス伝承を統合したのです。この文書は福音書です。世界に福音を告知するために書かれた文書です。そのことはこの文書の表題とも言える冒頭に「イエス・キリストの福音」という言葉が出てくることからも分かります。マルコはペトロから伝えられて聞いているイエスの働きと教えの言葉を多く書きとどめています。しかし、それを文書としてまとめるときに用いた彼の編集句や、彼が手を入れた箇所には、福音という語が多く出てきます(一・一四、 八・三五、 一〇・二九、 一三・一〇、 一四・九)。エルサレム共同体はこの福音という語はあまり用いなかったようですが(同じくユダヤ人の信仰活動から生まれたQ資料でも用いられていません)、マルコが多く使用している事実は、彼がパウロの福音告知の活動に深く関わっていたことを指し示しているようです。しかし、この文書が単にイエスの言動を伝える伝記的な文書ではなく「福音書」であることは、イエスの十字架の死の扱い方によく現れています。

マルコ福音書における十字架

マルコ福音書はイエスの生涯を、ほぼ同じくらいの分量の三つの部分に分けて描いています。第一部は「神の国」を宣べ伝えるガリラヤでの活動、第二部はエルサレムに上る旅、第三部はエルサレムにおける十字架の死を伝えています。全体の三分の一を占める第三部だけでも本書の大きな部分を占めることになりますが、第二部も十字架の死を予告しながらの旅であり、イエスが弟子たちにその死の意義を示唆する旅であり、旅全体がエルサレムを死地として意識している旅であることを考えると、第二部から後、すなわち全体の三分の二がイエスの十字架の死を主題としています。それに第一部さえも、イエスに対するユダヤ教指導層の批判と敵意が大きな主題となり、その敵意は殺意になっていることを語っています(マルコ三・六)。こうして見ると、研究者がマルコ福音書を「長い序文をもった受難物語」と称したのも理解できます。
イエスの十字架上の死の意義を告げ知らせることが「ケリュグマ」(福音告知)の一つの重要な目的であり、パウロをはじめ福音を告げ知らせた人々は 、イエスが復活してキリストとされたことを宣べ伝え、そのキリストが十字架につけられて死なれたことは「わたしたちの罪のため」であった、あるいは「わたしたちを贖うため」であったことを、端的に明瞭な言葉で告知しました。マルコはその告知を物語の形でしているのです。イエスの地上の生涯、その教えの言葉やなされた奇跡の働きを物語ることによって、その生涯の最後で最大の出来事である十字架上の死の意義を語り、それを通して神がこの出来事によって罪と死の支配下にある人間に語りかけておられる言葉を伝えようとしているのです。それによってこの文書は福音書となるのです。
この文書は、イエスの十字架の死を物語る中で、その死の意義を伝えています。その中でもっとも重要なものは、イエス自身が最後の食事の席で弟子たちに明瞭に語り出された短い二つの言葉です。イエスは十字架に渡される前の最後になる食事の席で、パンを裂いて弟子たちに分け与え、「これはわたしの体である」と言い、杯を回して、「これはわたしの血、多くの人のために流される契約の血である」と言われました(一四・二二〜二五)。最後の晩餐の席でイエスが語られた「これはわたしの体、わたしの血である」という短い言葉は、弟子たちに深く刻み込まれ、復活してキリストとして告知されたイエスの生涯を語り伝えるときに、その死の意義を語るイエスの言葉として、最大限に重視され伝えられるようになります。これはケリュグマ伝承に属し、最初期の前期、すなわち、まだどの福音書も成立していない時に、この福音が宣べ伝えられるところでは必ず語り伝えられたと考えられます。それは、信じた者たちがイエスの復活を記念して神を礼拝するために集まった週の初めの日(日曜日)の集会で、共にした食事の席で繰り返し唱えられ、ケリュグマ伝承の一部となります。パウロの伝道も例外ではなく、このケリュグマ伝承を用いたパウロは、彼が形成した集会に食事の度にこれを唱えるように求めています。この伝承が「主の晩餐」の伝承となります(コリントT一一・二三〜二六)。

マルコ福音書における復活者キリスト

ところで、福音告知の第一項であり、もっとも中心になる復活の告知についてはどうでしょうか。この福音書の十字架の死に続くイエスの復活についての記事は大きな謎になっています。この福音書は、イエスを葬った墓が空であったという事実を報告したところで唐突に終わっているのです(一六・八)。最初期に福音を聞いて信じた人たちは、復活されたイエスに出会って復活者キリストを体験した人たち(使徒たち)の証言を聞いて信仰に入りました。ところがこの福音書には十字架の死の後に続く復活者キリストとの出会いの証言がないのです。イエスの復活については、当初から「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された」という伝承が広まっていました。さらに各地の信じる人たちの共同体に、復活したイエスの働きとして様々な奇跡が起こり、預言や異言などの不思議な現象が起こっていることも知られていました。後に書かれるようになった他の福音書で復活されたイエスとの出会いの証言も知るようになった人たちが、空の墓の記事で終わっているのを不自然と感じて一六章九節以下の文を加えたようです。多くの翻訳もその部分は括弧に入れて紹介しています。
では、この福音書はイエスの復活を伝えていないのでしょうか。確かに一六章八節で終わるのは唐突で不自然です。何かの事故があったのかどうかは、今になっては判断できません。しかしこの福音書はその全編を通して、今この文書が語っているナザレのイエスが復活されたキリストであるとの福音の基本的な告知を告げ知らせているのです。この告知はとくに第一部のガリラヤにおけるイエスの働きによく出ています。この福音書はイエスの人間的な面、すなわちその出生、両親、育ちや教育、職業、風貌などは一切伝えないで、いきなりイエスが聖霊の力に満たされてガリラヤで「神の国」を宣べ伝えられた活動から物語を始めています(一章一〜一五節)。イエスはヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けとき聖霊を受け、荒野での試練を経て、ガリラヤへ行き「神の国は近い」との告知を開始されました。そのイエスの最初の働きは、ガリラヤ湖の四人の漁師、すなわちシモンとその兄弟のアンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネの四人を「わたしについて来なさい。わたしはあなたたちを人間をとる漁師にしよう」と言って弟子として呼び出されたことです(一・一六〜二〇)。この呼びかけを受けて、四人は網や舟や家を後にして、全てを捨ててイエスに従って行きます。これは不思議な記事です。イエスはまだ何もしておられません。四人は何も見たり聞いたりしていません。その四人が突然湖畔に姿を現して呼びかけたイエスに、家業を捨ててついて行ったのです。これは復活されたキリストの呼びかけに、すでにイエスをよく知っている四人が決定的に家業を捨てて従った、すなわちマルコ福音書のイエスは初めから復活のキリストと重なっていると見ることで理解できるようになります。事実ヨハネ福音書一章で、シモンとアンデレがすでに洗礼者ヨハネのバプテスマ運動の中でイエスを知り、弟子として従うようになっていたことが報告されています。さらに、ガリラヤ湖で水の上を歩いて来られるイエスを見た記事(六・四五〜五二)なども、この福音書のイエスは復活者キリストと重なっていると見て、始めて理解することができます。
総じてマルコ福音書では、とくに第一部のガリラヤで多くの病人をいやし悪霊を追い出すなどの奇跡的な働きをされるイエスを伝える記事では、ペトロら使徒たちがイエスの名によって病人をいやし悪霊を追い出している働きと重ねて、いま自分たちを通して働いておられるイエスを伝えようとして語られています。そのイエスは復活してキリストとして働いておられるイエスに他なりません。この意味でマルコ福音書は全体としてイエスの働きと生涯の出来事を語ることによって、復活者キリストを世に伝えようとする文書、すなわち福音書に他なりません。この福音書全体が、聖霊によって復活者キリストを体験し、この方によって生きている証人の証言に他なりません。ペトロはそのイエスの報告を自分が見聞きしたイエスの生涯の証言として語りました。マルコはそのペトロから聞いたところを書きとどめました。こうしてペトロをはじめ弟子としてイエスに従った者たちが、直接イエスから聞いた言葉や見たイエスの働きが伝えられて「イエス伝承」を形成します。マルコはこのイエス伝承を用いて、キリストとしてのイエスを告知する文書、すなわち福音書を著す者になります。これはケリュグマ伝承をイエス伝承を用いて告知する最初の文書となります。このマルコ福音書の出現は、最初期の福音の歴史的展開にとって、時代を画す出来事になり、これ以後「福音書の時代」と呼べる時代が始まります。

マルコ福音書における聖霊のバプテスマ

以上に見たように、マルコ福音書はその全体でイエス伝承を用いてイエスの十字架の死の意義と復活の事実を証言して、《ケリュグマ》が目指しているキリストの福音を世界に告知するという役割、すなわち福音書としての性格を十分に発揮しています。しかしこの最初の福音書において、もう一つの重要な福音告知の内容があることを見逃してはなりません。それは、この福音書が「聖霊のバプテスマ」という復活者キリストの働きを告知しているという事実です。そのことをマルコは、バプテスマを宣べ伝えた洗礼者ヨハネの口を借りて行っています。
この福音書は冒頭に「神の子イエス・キリストの福音の初め《アルケー》」という表題的な表現を置いた後(一・一)、直ちに洗礼者ヨハネの活動を伝える記事を続けています(一・二〜八)。この表題の「初め」は、これから語るイエスの地上の働きがキリストの福音の《アルケー》(初め、基礎、根拠)であるという意味にも理解できますが、これから語る洗礼者ヨハネの活動がイエスの福音活動の始り、端緒をなすという意味にも理解できます。事実、マルコ以後のどの福音書もイエスの公の活動が洗礼者ヨハネから始まるという構成をとっています。洗礼者ヨハネの活動は当時のユダヤ教徒に、彼らが待望している「神の支配」が間近に迫っていることを告知して悔い改めを迫り、その悔い改めのしるしとしてバプテスマを受けるように求めることでした。ヨハネは自分が行なっているヨルダン川の水に浸すというバプテスマに対して、「神の支配」をもたらされる方は「火によってバプテスマする方」であるとして、自分の後に到来する「神の支配」が火による裁きと清めであることを予告しました。この洗礼者ヨハネを信奉するグループが残した伝承を、後の福音書がその一部を伝えています(マタイ三・七〜一二、ルカ三・七〜二〇)。そのさい、自分の後に来て「神の支配」をもたらされる方は「聖霊と火によって」バプテスマされると預言しています。
ところがマルコ福音書は、洗礼者ヨハネが告知したり教えたことはすべて省略し、ただその方は「聖霊によってバプテスマされる」ことに絞っています。後の福音書は洗礼者ヨハネが用いた火という象徴を残し、火を聖霊の象徴として用いて「聖霊と火でバプテスマする」としましたが、最初の福音書であるマルコ福音書は「聖霊でバプテスマする」だけに絞ります。マルコが伝えようとする復活者キリストの働きは、もはや水でバプテスマすることではなく、聖霊によってバプテスマすることであるという事実を際立たせています。
実はこの「聖霊によってバプテスマする」という表現は、パウロがすでに用いていました。パウロのコリント人への第一の手紙の一二章一三節は、「あなたたちはみな、一つの(同じ)御霊によって一つの(同じ)体の中にバプテスマされたからです」という言葉で始まり、その後に「ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も一つの(同じ)御霊を飲んできたのです」と続けています。この言葉は集会の一致を教える段落(コリントT一二・一二〜二六)の最初に出てきて、集会の一致が同じ一つの御霊によって同じ一つの体に「バプテスマされている」という事実に基づいていることを明らかにしています。ここでパウロは「バプテスマされる」という動詞を用いています。ところがこの動詞が各国の翻訳で「洗礼(バプテスマ)を受けて」というように名詞形を用いて訳されたために、洗礼儀礼がエクレシアに加入するための「加入儀礼」となり、洗礼という儀礼を受けなければキリスト教会に加入できず、罪の赦しを得て救いに至ることもないとされるようになりました。
《バプティゾー》という動詞は本来「浸す」という意味の動詞であって、洗礼者ヨハネが悔い改めたユダヤ人をヨルダン川の水に浸したのは、その悔い改めのしるしとして適切でした。洗礼者ヨハネが宣べ伝えた「罪の赦し」を受ければ十分であるというのであれば、水のバプテスマにとどまっておればよいのです。しかし「神の国」とか「神の支配」はそれ以上です。ヨハネが言ったように、ヨハネの後に来る方は彼がその靴の紐を解く値打ちすらない優れた働きをする方です。その働きがすなわち、マルコの言う「聖霊のバプテスマ」です。「神の国」を待ち望む者は、聖霊によってキリストの体の中へとバプテスマされなければなりません。その時、今までの罪過の責任が赦される(問われない)だけでなく、恩恵によって与えられる別種の命に生きる新しい生涯が始まるのです。
マルコ福音書はその冒頭で、洗礼者ヨハネの預言として、ヨハネの後に来る方が聖霊によってバプテスマすることを語りましたが、その本体部分でイエスが聖霊のことを語られたことはほとんど伝えていません。これは当然です。イエスが地上で働かれたときにはまだ聖霊が下っていなかったからです。もちろんイエスご自身を含め、預言者と呼ばれる多くの霊の人に神の霊が働き、神の言葉を語らせていました。しかし、神がその無条件の恩恵によって誰にでも神からの霊を与えて、その終末的な救いの働きをなし、終末的な(終わりの日に成し遂げると約束しておられた)神の民を地上に形成する働きはまだ来ていませんでした。ヨハネ福音書(七・三九)が「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ降っていなかったからである」と言うように、その終末的な神の働きは、イエスが復活してキリストと告知されるようになってはじめて、すなわち「キリストにあって」地上に行われるようになったのです。キリストの福音の告知によって、終末的な御霊の事態が地上の現実となったのです。わたしは、「神の国とは終末的な事態の聖霊による現臨」だと理解しています。それが地上の歴史の中に現臨する現実が福音共同体《エクレーシア》であるのです。

福音書の時代の開幕

この最初の福音書がどれだけ流布したかは確認できません。まだ印刷術がなく、手書きの写本が唯一の手段であった時代に、マルコ福音書が個人の家に集まる各集会すべてに行き渡ったとは考えられませんが、それでも各地の指導的な立場の人には求められて、ある程度普及したのではないかと思われます。何しろイエスに直接師事した使徒たちの代表格であるペトロが伝えたイエスの言葉や働きが文書になって保存され伝えられているというのですから、他のいかなる文書にもまして重視され求められたと考えられます。
このマルコ福音書のように、イエスの地上の生涯と働きや教えの言葉を伝えるという形でキリストの福音を世に告知しようとする文書が、この時期に生み出されることになります。そのような性格の文書でもっとも重要なものがヨハネ福音書です。ヨハネ福音書は、新約聖書の福音を理解するのにパウロの諸文書と並んで重要なものですから項を改めて詳しく扱う予定ですが、現在の形の福音書に至る前の初期のヨハネ福音書は、ほぼマルコ福音書と同じような時期に、あるいはマルコよりも先に成立していたのではないかと考える有力な研究者もいます。たとえばドイツのK・ベルガーは、「四福音書の中で、最初に書かれたのはヨハネ福音書である」と言っています。この福音書は、身近にいた弟子として地上のイエスの生涯と働きの一面を忠実に伝えながら、同時に聖霊によって復活のキリストとの交わりの中で聴いているキリストの言葉(これが福音です)の両面を、「継ぎ目なく」重ね合わせて世に伝えています。これが「福音書」という文書の本来の性格です。
ヨハネ福音書は、弟子のヨハネを権威と仰ぐヨハネ共同体という限られた交わりで読まれていたので、その流布はごく限られていたのでしょうが、マルコ福音書の方はかなり普及して、それを基にして各方面に「福音書」という種類の文書が生み出されることになります。ユダヤ教徒でもあるキリスト者の交わりでマタイ福音書が、そしておもに異邦人から成る共同体ではルカ福音書が成立することになり、最初期の後期を「福音書の時代」と呼べるような時代にします。なお、マタイ福音書とルカ福音書の成立については、後でもう少し詳しく述べることになります。
わたしは、復活後にキリストの福音が世界に宣べ伝えられるようになり、その福音を証言する文書として現在新約聖書に収められている諸文書の最後のものが成立する二世紀初めまでのほぼ百年を最初期とし、その最初期のほぼ中程で起こったユダヤ戦争で区切って、その前を最初期前期、その後を最初期後期と呼んでいます。ユダヤ戦争は六六年に始り七三年に終結しますが、七〇年のエルサレム陥落と神殿の崩壊でユダヤ教側が決定的な敗北を喫して実質的に終わっているので、ほぼ三〇年から七〇年までの約四〇年間を前期、七〇年から一三〇年頃までの約六〇年を後期と呼ぶことになります。前期は使徒たちが福音を告知して福音共同体を指導した時代、後期は使徒の弟子たちが福音共同体を指導した時代ということになるでしょう。この後期は最初にマルコ福音書が成立して福音書の時代を開き、マタイ福音書とかルカ福音書形成の基礎となり、その形成を促す促進力となります。その間並行して独自の性格のヨハネ福音書が編集過程を重ね、一世紀の終わり頃までに現在の形になっていたと考えられます。マタイ福音書と初期形態のルカ福音書も一世紀の終わりまでに成立していたと見られますが、ルカ福音書が使徒言行録と合わせて一つの著作となり、二部作として現在の形になるのは二世紀初頭と考えられます。それぞれの福音書については項を改めてもう少し詳しく見ることにしますが、この第三節ではマルコ福音書の成立で始まって、福音書の時代となったこの時期における福音の歴史的な展開を、福音書以外の文書も含めてもう少し広い視野で概観しておきたいと思います。

U マタイ福音書の成立とその影響

               (この項で書名のない数字はマタイ福音書の章節)

ユダヤ教の内と外のキリスト信仰

第一節と第二節とで最初期前期、すなわちユダヤ戦争以前の福音活動の進展を概観し、この第三節で後期、すなわちユダヤ戦争以後の福音告知における進展を追っています。この後期の特徴の一つに、エルサレム共同体が福音活動の舞台から退場して、その指導性と影響力を失ったという歴史的事実があります。イエスの直接の教えを聞き、その復活の証人となった一二人の使徒たちが指導した最初期のエルサレム共同体は、前期では福音活動の唯一の源泉として重きをなし、福音によって成立した周囲の諸集会の元締めとか総本部のような地位にありました。多くの異邦人を受け入れたアンティオキア集会も、エルサレムから来た預言者(霊的指導者)によって指導され、重要事項はエルサレム共同体と相談して取り決めていました。パウロでさえも自分の異邦人への福音告知の活動がエルサレム共同体によって承認され、自分が形成した異邦人諸集会がエルサレム共同体と一体となって《エクレーシア・トゥ・テウ》(神の民)となるように腐心していました。そのことは彼のエルサレム共同体への献金活動にも見られます。
このエルサレム共同体は初め使徒たちによって指導されていましたが、彼らが四十年代初頭にヘロデ王の迫害によってエルサレムから追い散らされた後は、長老会議を取り仕切っていた「主の兄弟ヤコブ」がエルサレム共同体を代表するようになります。エルサレム共同体はもともとパレスチナ・ユダヤ人の共同体であって、ユダヤ教律法に忠実な信仰者の集まりでした。その共同体がヤコブを指導者とすることで、ますますユダヤ教律法の順守に熱心になったと推察されます。ヤコブは周囲のファリサイ派ユダヤ人からも「義人」と呼ばれ、律法順守に厳格な人物であったとされています。当時ユダヤ戦争前のエルサレムは、ユダヤ教律法への熱意が燃え上がり、「熱心の時代」と呼ばれるような緊迫した雰囲気でした。そのような時代に共同体が存続するためには、ヤコブのような「義人」を代表として立てることは有利だったのでしょう。パウロが五〇年代の終わりに献金を携えてエルサレムに来てヤコブと会った時のルカの記事にも、当時のユダヤ人の律法への熱心が垣間見られます(使徒二一・一七〜二六)。パウロが異邦人諸集会から集めた献金は、異邦人との関わりを拒否する律法熱心なエルサレム共同体の長老たちから受け取りを拒まれ、パウロ自身も神殿での律法違反を問われて逮捕されることになります。
当時のエルサレムのユダヤ教徒は、熱心党に引きずられてローマに対する戦争に踏み切り、その結果徹底的な敗北を喫し、エルサレムは破壊占領され、神殿は炎上崩壊するという悲運に陥ります(七〇年)。その少し前にヤコブは総督不在の時を狙った大祭司に殺されて殉教し(六二年)、エルサレム共同体は預言に導かれて、ヨルダン東岸の辺境の地ペラに移住します。こうして、ユダヤ戦争後にはエルサレムの共同体は消滅して、キリスト信仰諸集会の総元締めとしての地位を失い、時代が下ると当時成立しつつあった異邦人諸集会の共同体から、ユダヤ教に固執する異端的な小宗派として扱われるようになります。しかし、エルサレム共同体は福音の歴史的進展にとって決定的に重要な貢献を果たしています。それはイエス伝承の形成と伝達です。イエスが地上におられた時になされた働き、語られた教えの言葉や多くのたとえ、その生涯の出来事などを語り伝えるイエス伝承は、エルサレム共同体において形成され、各地の集会に伝えられていきました。そのさい、弟子としてイエスに付き従い、もっともイエスの身近にいた一二人の使徒たちが中心的な役割を果たしたことは十分推察することができます。
このように自身が割礼を受けたユダヤ教徒であり、ユダヤ教律法の順守を自分の宗教の拠り所としている人たちのキリスト信仰を、わたしは「ユダヤ教内キリスト信仰」と呼んでいます。そしてパウロの福音活動によってイエスをキリストと信じ、割礼を受けないままで、すなわちユダヤ教に改宗しないでキリストにあって生きている異邦人の信仰を「ユダヤ教外キリスト信仰」と呼んでいます。以前は前者を「ユダヤ人キリスト教」、後者を「異邦人キリスト教」と呼んでいましたが、これは不正確な呼び方であるので、現在ではあまり用いられていません。この時にはまだキリスト教という宗教は存在しないのです。前者はイエスをメシア・キリストと信じたユダヤ教徒であり、「ユダヤ教イエス派」と呼ぶべき人たちです。その中でパウロのように福音信仰に徹した人が「無割礼の福音」を宣べ伝え、この福音によってキリストを信じ、割礼を受けないままで、すなわちユダヤ教に改宗しないままでキリストにあって生きている異邦人(非ユダヤ教徒)がエクレシアを形成するようになりました。このような人たちはユダヤ教とは無関係に、すなわちユダヤ教律法(ユダヤ教という宗教)の外でキリスト信仰に生きているのです。このようなキリスト信仰を、わたしは「ユダヤ教外キリスト信仰」と言っています。このような律法と無関係なキリスト信仰の人は、パウロをはじめユダヤ人の中にも多くいます。パウロがローマ書で「強い人」と呼んだのは、そのような人たちでしょう。しかし、福音を信じてキリストにあって生きているユダヤ教徒で、ユダヤ教の諸規定を順守する信仰者、すなわち「ユダヤ教内キリスト信仰」の人も多くいます。この中の一部の者が信仰に入った異邦人も割礼を受けてユダヤ教徒にならなければ救われないと主張して、パウロの福音活動を妨げることになります。最初期のエクレシアは、ユダヤ人もギリシア人もないと言って、ユダヤ教徒と非ユダヤ教徒の両方が一体となって神の民としてのエクレシアを形成していました。その後、キリスト教会の成立と共にユダヤ人(ユダヤ教徒)が除外され迫害されるようになったのは、聖書の読み違いから起こった絶対化された宗教の悲劇、人類の悲劇です。

パレスチナ・シリアのユダヤ教内キリスト信仰の消長

七〇年のエルサレム陥落と神殿崩壊は、パレスチナ以外の地に居住するディアスポラ・ユダヤ人にはそれほど大きな衝撃ではなかったのかもしれませんが、ユダヤ教に熱心なパレスチナのユダヤ教徒には天地が崩れるような衝撃でした。何しろ終わりの日に神が救いを完成される時まで、自分たちの宗教の拠点であるエルサレム神殿は当然存続するはずであったからです。パウロでさえユダヤ人の救済を論じるローマ書の九章から十一章で、神殿の崩壊は予想していません。確かに神殿は崩壊し、ユダヤ教に決定的な打撃を与えました。捕囚後に再建された第二神殿は崩壊し、ユダヤ教の第二神殿時代は終わりました。しかしユダヤ教が無くなったのではありません。棺桶の中に隠れてエルサレムを脱出したファリサイ派の高名な律法学者ラビの指導のもとに、ユダヤ人は地中海に近い小都市ヤムニアに法院を創設し、そこから各地の会堂を指導するという形でユダヤ教を再建し維持します。神殿崩壊後のユダヤ教は、ファリサイ派ユダヤ教になります。それが、当時ユダヤ教会堂から激しく迫害されていたユダヤ教イエス派(エクレシア)が生み出した新約聖書にファリサイ派攻撃が激しくなる理由です。
十二人の使徒たちをはじめイエスをキリストと信じたユダヤ人たちは、パレスチナ在住の近隣のユダヤ教徒たちに復活したイエスをキリストと宣べ伝え、キリスト信仰の民を生み出して行きました。このようなキリスト信仰のユダヤ人たちは、それまで通り会堂でユダヤ教徒として生活しながらキリスト信仰を言い表していました。このように会堂でユダヤ教徒としての生活をしながらキリスト信仰を言い表す民(典型的なユダヤ教内キリスト信仰)は、エルサレム近郊のユダヤにも、イエスが活動されたガリラヤにもかなりいたことでしょう。しかし神殿が崩壊した後、生き残ったユダヤ教はファリサイ派ユダヤ教となり、イエスをキリストと言い表す者にとって状況は厳しいものになってきます。ヤムニアに最高法院の権威を継承する法院を作って各地の会堂を指導したファリサイ派の指導者は、その信仰が自分たちのモーセ律法の理解と異なるとして、イエスをキリストと言い表すユダヤ教徒を異端者として会堂から追放するという決議をします(ヨハネ九・二二)。ユダヤ教会堂で唱えられる公式の祈りである「十八祈願」にイエスをキリストと言い表す者を《ミーニーム》(異端者)として呪う文言が入れられ、これが踏み絵のような働きをして、この祈りができない者を異端者として会堂から追放します。それまではユダヤ教徒として会堂に参加することとキリスト者であることは両立していました。しかしこの決議の後では両立せず、どちらかを選ぶように迫られます。ステファノ事件以来これまでもファリサイ派ユダヤ人は、モーセ律法や神殿祭儀に懐疑的ないし批判的なユダヤ教イエス派を迫害してきました。この決議がされるに及んで、この迫害と追放がユダヤ教側の公式な姿勢となります。ユダヤ人にとって会堂からの追放は、永遠の呪いを受け、同時に地上の生活の基盤を失う恐ろしい判決でした。ヨハネ福音書九章の生まれながら目の見えない人の物語は、この状況をイエスの時代に遡らせてドラマティックに語られたものと考えられます。

イエス語録集の成立とその位置

パレスチナ・ユダヤ人の信仰者は復活されたイエスをキリストとして、パレスチナのユダヤ人たちに宣べ伝えました。その活動はエルサレムから周囲のユダヤ地域、さらにガリラヤに及んだと考えられます。そのさい彼らの福音活動の重点は、地上のイエスが教えた言葉を伝えて、それを守るように教えることでした。彼らの精神は、復活されたイエスが彼らに、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と語られたとしているマタイ福音書(二八・二〇)の言葉によく表現されています。これは、パウロがイエスの教えの言葉を知っていながら、それを守ることではなく御霊の導きに従うことを求めたのと対照的です。彼らが、エルサレム共同体で形成されたイエスの十字架の死の意義を語るケリュグマ伝承をどの程度熱心に伝えたのかは不明です。ケリュグマ伝承が、イエスは十字架のゆえにキリストであるとしたのに対して、語録伝承は十字架にもかかわらずキリストであるとする傾向があったようです。彼らの福音活動は、イエスがガリラヤで強調された「神の支配は近い」という終末的な面が強かったようです。その終末待望は「人の子」の到来として語られていて、強く当時のユダヤ教終末論の形をとっていました。「神の支配」が近いのであるから、イエスが教えられた言葉を守ってその到来に備えるようにという面が前面に出ることになったようです。
このような福音活動では、イエスの言葉の伝承が重要な面を担います。彼らの福音活動の中心にイエスの言葉の集成活動が来て、この流れの中で「イエスの語録集」が成立することになります。最近、使徒トマスをイエスからもっとも重要な啓示を受けた使徒とするイエスの語録集が発見され、「トマス福音書」という名で知られるようになりました。もう一つイエスの語録集で重要なもので、マタイ福音書とルカ福音書で用いられた語録集があり、それがこの両福音書の共通の資料となっていることから、研究者の間で「Q語録集」とか「語録資料Q」と呼ばれる語録集があります。略してQと呼ばれることもあります(Qは資料を意味するドイツ語のQuelleの略です)。これはトマス福音書のように実際に発見された文書ではなく、マタイ福音書とルカ福音書の比較研究からその存在が想定される架空の文書です。しかし、トマス福音書とQ語録集は重なっているものも多く、Q語録集の存在を想定することで、マタイとルカにマルコ福音書を加えた三福音書の成立をよく説明できるので、その存在は広く認められています。
復活されたイエスをキリストと宣べ伝え、その教えの言葉に従うように求めてイエスの語録集を集成したパレスチナ・ユダヤ人の活動によって形成されたユダヤ人の信仰共同体を、便宜上仮にQ共同体と呼んで話を進めることにします。このQ共同体では、「語録資料Q」がトマス福音書のように聖なる文書として用いられていたと考えられます。ユダヤ人が居住する各地に散在するQ共同体を励まし指導するために、復活の証人として活動する霊的指導者は預言者と呼ばれて(マタイ七・一五〜二三で語られている預言者はこのような人を指していると考えられます)、散在する各地のQ共同体を訪れて指導したのでしょう。その旅は厳しいものだったでしょう。イエスが十二弟子を伝道に派遣される時に語られた「金銀や着替えや履物などを持つな」という指示や(マタイ一〇・五〜一五)、「野の花、空の鳥を養ってくださる父を信じなさい」と弟子の心構えを諭された言葉(マタイ六・二五〜三四)などは、自分のように各地を旅して伝道する巡回預言者のために語られたと考えられます。このような初期の巡回伝道の形は当時のユダヤ人社会の中でのことであり、このような伝道の形式を「放浪のラディカリズム」と呼んだ研究者もいます。
イエスの復活後、パレスチナ各地のユダヤ人に福音を伝えた巡回伝道者に対するユダヤ人共同体の対応は厳しいものだったようです。何しろ当時のユダヤ人にとって最高の権威であった最高法院が異端者として死刑の判決を下したイエスに従うように説いているのですから、以前のようにイエスの奇跡を見て単純に歓呼するようなことはできなくなっていました。異端の教えに従ったユダヤ人共同体への処罰は極めて厳しいものでした。ユダヤ人の諸都市はQ共同体を巡回する預言者が、奇跡の働きをしてもイエスに対して心を閉ざすようになります。福音書にはイエスが多くの奇跡を行われたにもかかわらず悔い改めなかったガリラヤの町々に対する厳しい断罪の言葉がありますが、これにはこのような巡回伝道者の嘆きが反映していると考えられます(マタイ一一・二〇〜二四)。
 マルコ福音書に多く伝えられている奇跡物語を伝えた人たち(伝承の担い手)は、悪霊に憑かれた人とか、当時はらい病と呼ばれていた重い皮膚病の患者とか、家族や社会から追い出されていた人たちが多く、そのような貧窮の人たちにとってイエスが与えるいやしの目的は家族や社会に帰って再び受け入れられることでした。奇跡物語ではそれが実現して神を賛美したという結末が多く語られます。それに対してイエスの言葉伝承の担い手はおもに都市生活者で、日常の暮らしに安住していたところにイエスの差し迫った「神の支配」の到来が告知され、家族と決別してでも「神の支配」の現実に献身すべきことが求められます。福音書に見られる家族への帰還と家族からの決別という対立する価値観も、その伝承の担い手の社会階層の違いからと見る見方もあります。 
彼らの福音活動はパレスチナ・ユダヤ人の用語であるアラム語が用いられたのでしょうが、その活動は隣接するシリアにも及んでいました。彼らが収集して用いたイエスの語録がユダヤ戦争後の時期に「語録資料Q」として文書になる時はギリシア語で書かれたようです。「語録資料Q」はアラム語からギリシア語に翻訳された形跡はなく、初めからギリシア語で書かれていたと見られます。やはり文書になるときは当時の普及語であるギリシア語が用いられたのでしょう。この文書はQ共同体では権威ある書として、福音書のように用いられたのではないかと考えられます。シリアの首都でヘレニズム世界の有数の大都市であるアンティオキアには複数のキリスト者の共同体がありました。異邦人を多く含み、異邦人への福音告知に熱心な集会が活動したことは、先にパウロの活動に関連して詳しく述べました。アンティオキアにはユダヤ人の共同体もありましたが、その共同体はもともとイエスの言葉に従うことを信仰の中心に置いたユダヤ人の共同体だったのでしょうが、ユダヤ戦争によって多くの避難民を迎えて規模が大きくなっていたことでしょう。その共同体ではパレスチナからのユダヤ人によって「語録資料Q」のようなイエス語録集がもたらされ、尊重されたのではないかと考えられます。
そのアンティオキアのユダヤ人キリスト信仰の共同体の指導者で、律法学者としての素養のある人物が、当時流布しつつあったマルコ福音書を見て、これからの福音活動の指針とし、もはやユダヤ教の内部にとどまることができず、異邦社会に出て行こうとして、危機の状況にあるユダヤ人信者の信仰を励ますために新しい福音書を書きます。それが「マタイ福音書」です。著者が十二使徒の一人であるマタイ(マタイ九・九、 一〇・三)であることは困難です。この福音書はその多くをマルコに依存していますが、イエスの言動を直接見聞きした使徒が、次の世代の者が伝える伝承に依存するとは考えられないからです。しかし、この書が伝える伝承の多くが使徒マタイから出たものであることを知っている人たち(著者自身を含む)が、この書を「マタイによる福音書」と呼んだのでしょう。文書を伝承の源流の名で呼ぶことは古代では普通のことでした。

世界でもっとも古い教会であることを誇るアンティオキアのキリスト教会の伝承によると、アンティオキアの東の郊外にあるシルピオン山の麓にある大きな洞窟が集会に用いられていました。アンティオキアという大都市にある複数の諸集会は、普段は個人の家などに集まっていましたが、ペトロをはじめ重要な証人が来て話をする場合は、すべての集会の全員が話を聴くことができる場所として、このような山腹の洞窟を用いたと伝えられています。この教会の伝承では、この洞窟で「マタイがその福音書を書いた」と伝えられています。十二世紀頃にこの洞窟の前に聖ペトロを記念する教会堂が建てられています(森本哲郎「神の旅人」四九頁以下)。

聖書物語の終章としてのメシア・イエスの物語

このように復活されたイエスを自分たちユダヤ人に約束されていた救済者メシアであるとし、そのイエスの言葉に従うことを信仰の重要事として、イエスの語録集を拠り所としていたアンティオキアのユダヤ人共同体にマルコ福音書が知られるようになります。このユダヤ人共同体の律法学者的な素養のある指導者が、エルサレム共同体から発するケリュグマ伝承に基づいて書かれたマルコ福音書を枠として、それに自分たちの語録伝承を組み込んだ新しい福音書を書きます。マルコ福音書がもたらしたケリュグマ伝承は、異邦人を多く含むアンティオキアの他の諸集会も受け入れる共通の信仰基盤です。そのマルコ福音書に、自分たちが受け継いでいる語録伝承を組み込んで、著者はユダヤ人共同体向けの福音書を書き著します。この著者とその著書を以下の論述では「マタイ」と略称しますが、そうすると「マタイ」は本来異邦人に向けて書かれたマルコ福音書の記事の一部をユダヤ教徒にふさわしい形に修正しながら、自分たちが受け継いできたイエスの語録集を主題別に編集して、マルコの枠組みの中に組み込んだということになります。
マタイは聖書信仰に深く沈潜しているユダヤ教律法学者(聖書学者)です。ここで聖書というのは、当時のユダヤ人が神からの啓示として信仰の拠り所としていた、律法と預言者と諸書の三部からなるヘブライ語の聖書です。その聖書の基本的な性格は物語です。すなわち天と地の万物を創造された神が、アブラハムを選んでその子孫の民をご自分の民として、その民イスラエルをエジプトの奴隷の家から救い出し、またバビロンの捕囚の地から救出された救済の物語です。その物語の中に、神がその民に求められる生き方を規定した律法、すなわちその宗教規定、祭儀執行の仕方、隣人との社会関係などの諸規定、神への讃美の歌集、神思索の成果としての知恵などを組み込んでいます。その神は終わりの日にその民をあらゆる地上の抑圧から解放して、神ご自身が民を支配される「神の支配」を打ち立てること、その「神の支配」を実現する最終的な救済者を送ることを約束しておられました。その救済者をヘブライ語聖書は「メシア」(油を注がれた者)と呼んでいました。その語のギリシア語訳が「キリスト」です。
マタイが復活されたイエスをキリストと宣べ伝えるとき、ユダヤ人に対してはそのメシアの到来を告知しているのです。そしてそのメシア到来の事実を、メシアであるイエスの生涯の事実を語ることによって成し遂げるのです。マタイはイエスの十字架に至る生涯と復活の事実を物語ることによって、本来救済の物語である聖書の最終章を書いているのです。マタイにとってここで物語るイエスの生涯の事実こそ、神が終わりの日に成し遂げると約束された聖書の約束の実現であり成就なのです。ですから、マタイはイエスの生涯の出来事の一つひとつに「これは聖書の成就である」というコメントをつけます。イエスの誕生も聖書を成就する出来事として物語られます。そして空の墓の物語で唐突に終わっているマルコの復活物語に、復活されたイエスと弟子たちの対話や弟子たちの証言を加えて、復活物語を完成しています。この復活者キリストはすぐに「人の子」として地上に現れるのですから、それを予告してマタイのメシア・イエスの物語は完結します。この「人の子」の顕現また到来は、極めて強くユダヤ教的黙示思想の表現を用いて語られていますが、マタイはそれをイエスご自身が語られた預言として彼の救済物語に組み入れ、同時にマタイ自身の理解と解釈をつけて、二四章から二五章で詳しく述べています。マタイ共同体の主要な伝承である「語録資料Q」も、「人の子」の顕現による救済の完成を語っていました(二四・三〇、二四・三七、二六・二四)。
ここで注意すべきことは、マタイ福音書をただイエスの教えの言葉への従順を求める律法の書と読んではならないということです。マタイの著作も福音書です。すなわち、キリストの福音を告知するために書かれています。それはマタイがマルコ福音書をベースとしている事実に基づいています。内村もマタイ福音書の本質は五章から七章の山上の説教にあるのではなく、二七章から二八章のイエスの十字架と復活の物語にあるのだと言っています。マタイはマルコの「福音」という用語を重視して用いています。これはマタイ共同体の本来の伝承である「語録資料Q」の体質とは違います。「語録資料Q」では福音という用語は出てきません。それはパウロの福音を継承するマルコの用語です。
マタイは「語録資料Q」を要約してイエスの告知をその書の初め(五〜七章)に置きます。これは「山上の説教」などと呼ばれて高度なキリスト教倫理の提示として理解され、「敵を愛しなさい」というようなことは人間に可能であろうかなどと議論されています。しかしこれは倫理ではありません。イエスがそこに生きておられる「恩恵の支配」の現実の告白なのです。これがイエスにおいて到来している「神の支配」にいる者の現実なのです。ですから、マタイがこのイエスの語録集につける表題は「《バシレイア》の福音」すなわち「神の支配の福音」なのです(マタイ四・二三)。その冒頭にファンファーレのように鳴り響くイエスの言葉(五・三〜一〇)は、「霊の貧しい者は幸いである。神の支配はその人のものである」という祝福の言葉なのです。すべきであるとか、できるかどうかの問題ではありません。そこにいる者はそうせざるを得ないという「恩恵の支配」の現実を言い表しておられるのです。恩恵によって、すなわち自分の価値とか資格によらないでまったく無条件に父との交わりに受け入れられた者は、その恩恵の支配の場に生きないではおれません。イエスはその恩恵の場での生き様を語っておられるのです。「神の支配」は恩恵の支配です。イエスの「神の支配」の告知は「恩恵の支配」の告知です。マタイが聖書の完成成就として、イエスの出来事を聖書の最終章として書くとき、マタイは恩恵の支配を告知している、すなわち福音を告知しているのだということを見逃してはなりません。

マタイ福音書の構成

マタイはイエスの誕生物語(一〜二章)と復活物語(二八章)の間、福音書の本体部分と言える部分に、自分たちの固有の伝承といえる語録伝承を主題別にまとめて組み込んでいます。そのため、マタイはマルコ福音書の三部構成をモデルとしながらも、マルコのガリラヤでの「神の国」告知の活動、エルサレムへの旅、エルサレムでの受難という三部構成は明確な輪郭を失い、イエスの働きの後に主題別のイエスの五つの語録集を加えた、物語と説話で構成される五つのブロック構成になっています。その構成は次のようになると見られます。

序 説 誕生物語 (一〜二章)
第一ブロック 物語 メシア・イエスの出現 (三〜四章)
説話 御国の福音(五〜七章)
第二ブロック 物語 民を癒すメシア(八〜九章)
説話 弟子の派遣にあたっての訓戒(一〇章)
第三ブロック 物語 拒否されるメシア(一一〜一二章)
説話 天の国のたとえ(一三章)
第四ブロック 物語 メシアの民の出現(一四〜一七章)
説話 集会での交わりについて(一八章)
第五ブロック 物語 エルサレムに現れるメシア(一九〜二三章)
説話 終末についての教え(二四〜二五章)
終 局 受難と復活の物語(二六〜二八章)

マタイ福音書の区分については様々な見解がありますが、以上のように主題別の説話によって区分することが、比較的簡潔で分かりやすいのではないかと思います。その内容の詳細はここで扱うことはできませんので、マタイ福音書の講解とか注解に委ねざるをえません。このように多彩で膨大なイエス伝承を、物語と組み合わせて明確な構成を見せる一つの壮大な物語にまとめるマタイの構想力は驚くべきものです。この福音書に対するとき、わたしは壮麗な大建築物を見る思いです。

マタイ福音書全体の内容については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』を参照してください。ただし五章から七章に至る説話集は、「山上の垂訓」とか「山上の説教」と呼ばれ、マタイ福音書のもっとも重要な箇所として、しばしば別個に扱われることが多い箇所です。拙著でもこの部分は先に『マタイによる御国の福音 ー 「山上の説教」講解』と題する著書で別に扱っています。この二冊でマタイ福音書の全体を扱うことになりますので、参照される場合はこの二冊を全体として扱ってくださるようにお願いします。

マタイ福音書の影響

このようにして成立したマタイ福音書は、その頃各地に形成されてきた福音共同体に徐々に知られるようになります。すでにマルコ福音書も知られていたでしょうが、福音共同体にとって重要なイエスの教えを多く伝えているマタイ福音書の方が重要視されるようになります。だいたい宗教的共同体において基本的な祈りについて、マタイはこれが主であるイエスが弟子に教えられた祈りであるとして「主の祈り」(マタイ六・九〜一三)を伝えているのに対して、マルコには断片的に祈りに関するイエスの教えはあっても、「主の祈り」としてまとまった教えはありません。マタイには、これが弟子たちに求められる生き方だとして「山上の説教」というまとまりがありますが、マルコにはそのようなイエスの教えのまとまりはありません。「神の国」の理解に必要で有益な多くのたとえも、マタイはマルコにはない大切なたとえを多く含んでいます。マルコは病人をいやし悪霊を追い出されたイエスの力ある働きを多く伝えていますが、それらの働きはマタイもほぼすべて伝えています。マルコはペトロから出る伝承を伝えているので尊重されますが、マタイはそのペトロをエクレシアがその上に建てられる岩として、その権威を明確に宣言しています(マタイ一六・一七〜一九)。このような事情からだんだんとマタイの方が重んじられるようになり、マルコはマタイを短く縮めた要約版だという理解がされるようになります。このような理解が古代教会で行われ、アウグスティヌスもマルコをマタイの短縮要約版としています。
現代では各文書の分析と研究が進み、マルコが最初に書かれ、そのマルコの枠組みにイエスの語録集という共通の資料とそれぞれ独自の資料を加えてマタイとルカが成立したという見方が広く受け入れられています。しかし古代ではここで見たようにマタイがマルコより重視された結果、四世紀に古代教会が新約聖書の正典を決めた時、福音書の中でマタイが最初に置かれることになります。新約聖書では当然弟子の使徒たちよりも師のイエスが重視され、使徒書簡よりも福音書が先に来てその先頭にマタイ福音書が置かれます。こうしてマタイ福音書が新約聖書冒頭の文書になり、キリスト教といえばマタイ福音書、とくにその中核である「山上の説教」を思い浮かべるようになります。パウロによって「神の支配」とは「恩恵の支配」であることを深く理解しないままで、マタイ福音書、とくに山上の説教を読む人は、人間には不可能に見えるイエスの高い倫理的な要求につまずいて、聖書を捨て去る人も出てきます。また新約聖書を開くと最初があのマタイ福音書冒頭の人名の羅列の系図ですから、それに辟易してそこで挫折します。福音書から読むのであれば、わたしはマルコから始めた方が良いと思います。しかし、福音書を読む前にパウロのローマ書をしっかり読んで、福音とは恩恵の支配であることを理解し、山上の説教も倫理的要求ではなく、恩恵の支配の場に生きる者の告白であることを理解すべきであると考えます。とにかくマタイ福音書が新約聖書の最初に置かれた結果、この福音書がキリスト教という宗教を代表する文書となり、キリスト教の内部でも、また外の人々にも大きな影響を及ぼすことになります。
 現代という時代にこのマタイ福音書を読むわれわれは、マタイ自身が「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」と言っているように(マタイ一三・五二)、まず「神の支配」とは恩恵の支配のことであることをしっかりと学び取り、聖書的伝統という倉から、古いもの、すなわちマタイの時代のユダヤ人信仰共同体のために書かれたものから区別して、新しいもの、すなわち現代の状況にふさわしい恩恵の支配の事態を取り出して告知しなければなりません。これは難しい作業ですが、現代に生きるキリスト者の課題でしょう。

V ヘレニズム世界におけるパウロ以後の福音の進展

エーゲ海地域諸集会の中心地としてのエフェソ

パウロはその独立伝道の最後の時期にエフェソに二年余り滞在して、それまでに形成したエーゲ海を取り巻く地域の諸集会を励まし指導します。前述(本章第一節W)したように、パウロはアンティオキア共同体から離れて独立自給の福音活動を始め、ガラテヤ州南部の諸集会を励ました後、同州北部のガラテヤ人地域で福音活動をします。そしてトロアスから海を渡ってギリシアのマケドニア州に入り、そこでフィリピ、テサロニケ、ベレアなどの諸都市に集会を形成し、続いて西岸のアカイア州の主要都市アテネとコリントで活動します。古都アテネでは成果はありませんでしたが、交易で急速に発展した新興の州都コリントでは、多くの異邦人を信仰に導き、かなりのユダヤ人を獲得し会堂司まで信仰に入るという成果をあげます。パウロに反対したユダヤ人によって起こされた騒乱でパウロは裁判にかけられますが無事釈放され、その後パウロは急遽エルサレムに行きます。この時にパウロは、異邦人信者に割礼を受けさせることを執拗に求めるユダヤ人伝道者に対抗するため、エルサレム共同体のおもだった人たちと会談(ガラテヤ書二章で報告している会談)したのではないかという推察も可能です。その後、再びアナトリアの高地を走破して諸集会を励まして、西端のアジア州の州都エフェソに到着します。
エフェソでは「ティラノの講堂」と呼ばれる公開の講堂で毎日福音を告げ知らせ、求めに応じて病人をいやし悪霊を追い出すなど奇跡の働きもします。それが二年近く続いたので、州都エフェソの住人と周辺諸都市の人たちは福音を聞くことになり、多くの異邦人が信仰に入ります。このエフェソ滞在中にパウロは多くの手紙を書いて、エーゲ海周辺の諸集会を指導します。パウロの真正の七通の手紙(パウロ自身が書いたことが争われない手紙、テサロニケT、ガラテヤ、コリントTとU、フィリピ、フィレモン、ローマ宛の七通)はみな、このエフェソ滞在中かその前後に集中しています。とくに問題が多いコリントの集会についてパウロは心を痛め、その信仰を正しい方向に導くために苦心して、長い手紙を何通も書いています。パウロの福音活動に反対したアルテミス神殿の業者によって起こされた騒乱に巻き込まれて、パウロはエフェソで投獄されたと見られますが、その獄中で書いたと考えられるフィリピ書とフィレモン書も、この時期のパウロの信仰と心情を知るのに重要です。
パウロはその福音活動の最後の時期にエーゲ海周辺の地域に形成した福音共同体に、揺らぐことのない土台石を据えました。それは「主イエス・キリスト」です。そのキリストにある救済を告知するのが福音です。その福音とは何か、その福音が告知するキリストにある救済とはどのようなものであるのか、エフェソ時代に集大成されたこの福音理解をパウロはローマ書に書きとどめます。その大要は本章第二節のTとUでまとめておきましたが、このパウロが最後に書き遺した文書は新約聖書が証言するキリストの福音のもっとも基礎的で重要な文書となります。このローマ書でも重要な内容になっている「無割礼の福音」は、パウロが生涯をかけてその確立を目指したものですが、それを主題として激しく論じたガラテヤ書(これはエフェソ時代の初期)も併せて読むことで、わたしたちはパウロの福音理解を辿ることができます。わたしは、このローマ書と並んで重要なパウロ書簡はコリント第一書簡だと思います。この書簡は異邦人(非ユダヤ教徒)の中に福音共同体を建設する際の諸問題を扱っていて、その後の福音共同体の形成にとって大切な指針となるからです。パウロはキリストの福音によって土台を据えました。その土台の上にどのような建物を建てるのか、その指針をわたしたちはコリント第一書簡に見ることになります。
エフェソで投獄されたパウロは、釈放されて(おそらく追放処分を受けて)エフェソを去ります。パウロは再びエフェソに入ることはありません(使徒二〇・一六〜一七)。エフェソを去ったパウロは、海路を取らず、小アジアの西岸をエーゲ海沿に北上してトロアスに至ります。トロアスにはかなりの規模の集会ができていて、福音のための活動をする機会はあったようですが、パウロは旅を急ぎ、マケドニア州に渡ります(コリントU二・一二〜一三)。そこにはフィリピ、テサロニケ、ベレアのような都市に集会ができて活動しています。パウロが陸路を取ってこれらの諸集会を歴訪したのは、信仰を励まし指導すると共に献金を集めるためであったと考えられます。パウロはマケドニアから南下してコリントに入るのではなく、陸路を西に向かい、アドリア海に出てイリリコン州で活動し(ローマ一五・一九)、そこから南下してコリントに入ったと考えられます。途中にある大都市ニコポリスが牧会書簡に出てくることから(テトス三・一二)、この時にパウロがここを通り、集会を建てたと推察できます。
こうしてコリントに着いたパウロは、五五年から五六年にかけての冬をそこで過ごします。コリントには有力な集会がかなりあり、それぞれ豊かな聖霊の賜物に恵まれていました。ペトロやアポロをはじめとする有力な指導者が活動し、その結果それぞれの指導者に属すことを誇る分派的な動きが出てくるなど、パウロを悩ます問題を抱える共同体でした。とくにコリントの集会に使徒してのパウロの資格を疑い問題とする人たちがいることにパウロは心を痛め、「最初の弁明」の書簡(コリントU二・一四〜七・四)を送ります。さらにテモテなど弟子を送って信頼と支持を回復しようとしますが、成功しません。それでエフェソに滞在中のパウロは直接(おそらく海路で突然)訪問して、後からコリントに来た「偽使徒たち」と対決しますが、その二回目の訪問は惨めな結果に終わったようです。エフェソに戻ったパウロは「悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」(コリントU二・四)。この「涙の手紙」はコリント第二書簡の一〇〜一三章に主要部分が伝えられていると見られます。手紙だけでなく弟子のテトスをコリントに送り、その成果の報告を待ちます。その時の待ちきれない思いが、トロアスでの働きを切り上げてパウロをマケドニアに渡らせます。そこでテトスからコリントの集会がパウロへの信頼を取り戻したという報告を聞いて多いに喜び、「和解の手紙」(コリントU一・一〜二・一三、 七・五〜一六)を書きます。この部分は「涙の手紙」に見られた激しい感情の噴出はなく、穏やかな調子で福音が語られています。この手紙の前後の時期に、この時期のパウロの主要な関心事である献金のことを思い起こさせる「募金の手紙」(コリントU八章と九章)が書かれます。現在のコリント第二書簡は「和解の手紙」を枠として、その中にほかの手紙を組み込んで一つの書簡形式の文書になっています。
パウロとコリント集会は複雑な過程を経ていますが、パウロが五五年の冬三度目にコリントに来た時は(コリントU一二・一四、一三・一〜二)、集会の信頼を取り戻し、使徒としての立場でエルサレム共同体への献金を取りまとめることができました。そして献金を持参したエーゲ海地域の各集会の代表者たちを集めて、春の航海の再開を待ってエルサレムに向います。このエフェソを出てマケドニア州を巡り歩き、ギリシアに来てコリントで冬を越して、春にエルサレムに向かって出航しようとしたことを、ルカは「パウロは…マケドニア州へと出発した。この地方を巡り歩き…ギリシアに来て、そこで三ヶ月を過ごした。パウロはシリア州に向かって船出しようとしたとき…」と短く報告しています(使徒二〇・一〜三)。このコリント滞在中の特筆すべき出来事は、この冬の三ヶ月の間に、あのローマ書というもっとも重要な手紙が書かれたことです。先に見たように、このエルサレムでパウロは囚われ、ローマに囚人として護送されることになり、ローマを経てイスパニアに福音を伝えることはできなくなりました。こうして、パウロが形成したエクレシアはエーゲ海地域の諸集会が主力となり、とくに最後の時期に拠点として活躍したエフェソが中心的な立場になります。この項では、エフェソを中心にエーゲ海地域の福音共同体の間に進展した、パウロ以後の福音の歴史的展開を見ることになります。
この北のマケドニア州(州都はテサロニケ)、西のアカイア州(そこにアテネがあり、州都はコリント)、東のアジア州(州都がエフェソ)、そして南に蓋をするような位置にあるクレタ島に囲まれたエーゲ海は、ギリシア人が縦横に活躍して植民地を作り、古代ギリシア文化が最も栄えた先進地域です。マケドニアからアレクサンダーが出て地中海からインドに至る地域を統合して大帝国を形成し、その融合政策によりギリシア文化を土台としながら、そこに東方の諸宗教を融合した独特の文化を形成します。それが後にヘレニズム文化と呼ばれる文化です。アレキサンダーの後継王朝を滅ぼして地中海世界を統一したローマ帝国は、文化的にはこのヘレニズム文化を継承しました。そのヘレニズム文化の土台になっているギリシア文化の先進地域であるエーゲ海地域に、パウロが告知する福音信仰に立つパウロ系の諸集会が形成されたのです。このような歴史的位置から、エーゲ海地域のパウロ系諸集会がヘレニズム世界への福音活動の先端基地となると同時に、ヘレニズム文化の影響を受けることは避けられません。この項目Vでは、パウロなきあと、パウロの後継者たちが指導したエーゲ海地域の諸集会がどのようにキリストの福音を保持し、またその環境であるヘレニズム文化からどのような影響を受けたかを検討して、この時代の福音の姿を追求したいと考えています。

ヘレニズム世界でのキリスト信仰ーコロサイ書の意義

               (この小項目で数字だけの引用はコロサイ書)

七十年のエルサレム神殿の崩壊は、福音活動においても時代を画す出来事でした。それ以前は使徒たちが福音を告知しエクレシアを指導する時代でしたが、その前後に使徒たちは殉教また死去して、世代交代を迎えます。その後の時期では使徒の後継者たちが福音を宣べ伝えエクレシアを指導することになります。後継者たちはエクレシアを指導するにあたって、使徒たち、とくに使徒パウロが多くの手紙を書いて指導したことに倣って、自分たちが指導者と仰ぐ使徒の名で手紙を書いてエクレシアを指導します。当時の人たちは、教えや伝承の源流になる人物の名で著作や書簡を書くことをごく普通のこととしていたようです。新約聖書には、このような使徒の名を用いて後継者が書いた手紙が多くあります。とくにパウロの名で書かれた手紙が多くあります。この時代は「福音書の時代」であると共に、「使徒名書簡」の時代とも言える時代になります。次に使徒名書簡の中で、この時期の福音告知の内容をよく証言していて、その特色をよく示しているコロサイ書とエフェソ書の二つを取り上げておきます。
コロサイ書はエフェソに近いリュコス渓谷にある都市コロサイにある集会に書き送られた手紙です。パウロ自身はエフェソで活躍し、周辺の諸都市には弟子を派遣して福音を告げ知らせました。パウロはコロサイには行っていません。エフェソでパウロの福音に接して回心したコロサイの人エパフラスが、コロサイと周辺のラオデキアやヒエラポリスなどの諸都市に福音を伝えました(一・七〜八、 四・一二〜一三)。手紙の著者としてテモテやエパフラスが想定されることもありますが確定できません。パウロの手紙とする研究者もいて、その可能性は捨て切れませんが、この手紙の福音理解をパウロと較べると、やはりパウロの没後かなり経った時期に、パウロの後継者によって書かれたとするのが順当でしょう。コロサイにはフィレモンの家に集まる共同体ができていました。このフィレモンに、その家の奴隷の一人オネシモの問題について、パウロは私的な手紙を書き送っています(そのフィレモン書という個人的な書簡が新約聖書に入れられている意義については拙著『パウロによるキリストの福音V』の「第五章 奴隷も自由人もない」を参照してください)。
誰が書いたにせよ、このコロサイ書はヘレニズム世界に進出したキリストの福音がどのような姿を取るようになったのかをよく証言しています。ここではその特色を数点あげて、ヘレニズム世界におけるキリスト信仰の姿を概観しておきましょう。その特色はまずこの書簡の最初に出てくるキリスト賛歌(一・一五〜二〇)によく出ています。その特色は、フィリピ書(二・六〜一一)に引用されているキリスト賛歌と較べるとよく分かります。フィリピ書の賛歌は、前半で神の身分であったキリストが人間の姿で現れて十字架の死に至るまで神に従われた事実を謳い、後半でこのキリストを神が復活させて高く上げ、《キュリオス》(主)という天地の万物が跪く名を与えたことが謳われています。この賛歌はパウロがその手紙の中で引用しているように、パウロの時代のキリスト信仰を証言しています。そこでは前半のキリストの十字架と後半のキリストの復活が明らかに救済史の出来事として賛美されています。このキリスト賛歌と較べると、コロサイ書のキリスト賛歌も同じように前半(一・一五〜一七)と後半(一・一八〜二〇)に分かれていますが、前半では天地の創造においてキリストが神の子として第一の存在であること、すなわちキリストは御子として、天地の万物が彼によって、彼のために造られた方であることが賛美され、後半でキリストが死者の中から最初に生まれた方として、復活の世界ではキリストが第一の方であって、救済の秩序でもその担い手であるエクレシアの頭であることが賛美されています。後半で「すべての充満」が宿る御子キリストの十字架の血によって天地の万物が神と和解したことが賛美されて、救済史の信仰は維持されていますが、前半の賛歌に見られるように、キリストは天地万物の存在の根源また目標として、宇宙論的な中心の位置にある方として賛美されています。これはフィリピ書のキリスト賛歌にはなかったことで、全般的に見るとコロサイ書のキリストは、救済史的な視点よりも宇宙論的(コスモロジカル)な視点から見られるようになっています。キリストは救済史の中で《アイオーン》の転換をもたらす救済者であるよりは、むしろご自身の中に充満する神性によって《コスモス》(世界とか宇宙)を満たし完成する方として語られるようになります。ここにはパウロのヘブライ的な歴史的思想からヘレニズム世界の宇宙論的な空間的思考の世界への転換ないし進展が見られます。
基本的な思考の枠組みにおいて、パウロがファリサイ派ユダヤ人として強く維持していたヘブライ的な救済史思考が背後に退いて弱くなり、ギリシア的な空間的思考の枠組みが強くなって前面に出てきます。その変化は用語にも現れています。たとえば、パウロがあれほど繰り返し用いていた「律法」という語は、コロサイ書ではほとんど用いられず、著者は律法によって義とされるとかされないという問題には無関心です。ユダヤ教との関係の問題はもう解決済みで取り上げられません。十字架によって成し遂げられた救いの出来事は、もはや贖いとは言われず、「贖い」というユダヤ教祭儀を前提とする語は、パウロが用いなかった罪過の「赦し」《アフェシス》という用語に置き換えられ、それが福音の中心的位置を占めています(一・一四)。
コロサイ書において救済を要約するこの「罪の赦し」について、一言加えておく必要があります。これが和解という意味で用いられているのであれば、それはパウロも義とされるというユダヤ教的表現を異邦人には和解という語で表現していたこと(ローマ五・九〜一〇)と同じであり、パウロの福音の異邦人向けの表現としてふさわしいものになります。しかし「罪過の赦し」は法廷的な無罪放免という意味に受け取られがちで、その場合人間は罪の支配の下に放置されます。それに対して和解はそれまで対立していた当事者(神と人間)が一つになって生きることを意味しており、その上に福音の事態の全体が成り立ちます。バルトの救済論は和解論の上に成り立っています。
また、パウロは復活という語をいつもキリスト来臨時の終末の出来事として常に未来形でのみ用いていますが、コロサイ書の著者は「あなたたちはバプテスマにおいてキリストと共に埋葬され……共に復活させられたのです」(二・一二 私訳)と、過去形で用いて、復活を信仰者の現在の体験として語っています。ただし、将来の復活の希望が無くなったのではなく、現在の霊的復活体験が「キリストが現れる時」にキリストと共に栄光に包まれて現れることの根拠として語られています(三・一〜四)。
パウロがキリストの復活や十字架における神の義の顕現という大いなる《アイオーン》の転換を指すのに用いたあの「しかし今や」という語(コリントT一五・二〇、 ローマ三・二一)は、この書簡でも用いられていますが、それはもはや《アイオーン》の転換という時間的な枠組みではなく、神への不従順や悪徳に満ちた以前のこの世における生活から、今は贖いを受けて(赦されて)聖なる者とされた共同体の中にいるのだから、という場所的・空間的な枠組みで語られています(一・二二、三・八)。著者はパウロの弟子、あるいは後継者として、パウロの福音を忠実に継承し、それをさらにヘレニズム文化の中に生きる異邦人向けに、この書で証言しています。たしかにパウロのユダヤ教も、すでにユダヤ教がヘレニズム化した世界でギリシア文化に遭遇してヘレニズム化した時期に成立したユダヤ教、ヘレニズム・ユダヤ教でした。それでもパウロは熱烈なファリサイ派ユダヤ人として、救済史的な聖書信仰を保持していました。それと較べるとコロサイ書の著者は、異邦人キリスト者として、キリスト信仰をさらに一歩ヘレニズム世界の中に進出させ、ヘレニズム世界の思想からの影響を深く受けていることを感じさせます。

パウロ書簡の収集ーエフェソ書の成立

           (この小項目で数字だけの引用はエフェソ書)

新約聖書にはこのコロサイ書ときわめてよく似た書簡がもう一つあります。それはエフェソ書です。この両書はまず文体がよく似ています。パウロが簡潔な文を並べて直裁に口述しているのに対して、この両書は同じ意味の文を繰り返し、関係代名詞や分詞構文を多用して、長くて複雑な構文の文章を連ねています。原文で読むと、パウロとは別の世界に入ったという印象を強く受けます。両書は使用する用語も共通するものが多く、とくに基本的な概念を指す用語、たとえば単数形の《エクレーシア》の用例とか、充満《プレローマ》とか奥義《ミュステーリオン》とか罪の赦し《アフェシス》などが共通しています。どちらかが他方に依存していると考えられ、一般にエフェソ書がコロサイ書に依存して後で書かれたと見られています。しかしこれほど似ていると、同じ著者が違う状況で書いたのではないかという可能性が捨てきれません。しかし、ここではコロサイ書の著者に傾倒する人がエフェソ書を書いたと見て、エフェソ書の成立状況を考えます。
ほとんどのパウロ書簡がそうであったように、使徒名書簡も特定の集会の特定の問題に対処するために書かれています。コロサイ書もそうでした。ところがエフェソ書には宛先として特定の集会が書かれておらず(最古の有力な写本にはありません)、「エフェソの」という句はこれを書簡とするために後の写本の段階で書き込まれたと見られています。また本文中にも特定の問題はなく、この文書はキリスト信仰についての一般的な論説、あるいは広い地域の集会への回状であったと見られます。前述したように、エフェソはパウロの福音活動の最後の拠点であり、多くの手紙が滞在中またはその前後に書かれ、エフェソはパウロに関する伝承の集積地となっていました。パウロなきあと、パウロの福音を継承する者たちがパウロの手紙を集めてパウロ書簡集を作ろうとした時、エフェソがその活動のセンターになるのは当然でした。牧会書簡と呼ばれる三書簡はかなり後で二世紀にできたものですから、一世紀末に出来たパウロ書簡集は十書簡の集成でした。この集成に際して、まとめ役の人物が序説として書いたのがエフェソ書ではないかという見方があります。

ドイツの新約聖書学者タイセンが近年その著『新約聖書 ーその歴史と文学』(二〇〇二年)で、新約聖書の文書の配列順序からエフェソ書をパウロ書簡集の序説と見る見解を示しています。それによると、古代には文書群をまとめる時、長い文書を先に置いて長さの順にまとめる傾向がありました。パウロ書簡については、ローマ書、コリント書のTとU、ガラテヤ書の四書簡が真正な書簡として、この順序ですでに用いられていましたが、それにフィリピ書、コロサイ書、テサロニケ書のTとUをパウロの手紙として加える編集が行われたとき、収集者はパウロ書簡集の序説として書いたエフェソ書を付加部分の最初に置きます。その結果、ガラテヤ書よりも長いエフェソ書がガラテヤ書の後ろに来ます。最後に個人的な手紙であるフィレモン書を置いて、十書簡から成る「パウロ書簡集」を完成します。フィレモン書はパウロの継承者であることを示す収集者の自己紹介的な性格のものではないかと思います。個人的な推察ですが、フィレモン書で言及されている、パウロの協力者として召されたオネシモが、後にエフェソ集会を代表する立場(監督)となり、パウロ書簡集を収集したのではないか、とわたしは推定しています。この推定については拙著『パウロによるキリストの福音V』の第五章「奴隷も自由人もない」、とくにその第二節「パウロ書簡集とオネシモ」を参照してください。

エフェソ書がコロサイ書と共有し、さらに発展させている中心的な位置に、単数形の《エクレーシア》という用語があります。前述したように、パウロは《エクレーシア》を個々の集会を指して、単数形またはその集合を複数形で指していました。ところがコロサイ書になると、この《エクレーシア》という語を単数形で用いて、キリストにある神の民の総体を指すようになります。それでわたしはコロサイ書とエフェソ書の私訳で、この終末的な神の民を指す単数形の《エクレーシア》は「御民」と訳しています。エフェソ書の著者はこの《エクレーシア》の用法を受け継いで、終わりの日に神に呼び集められた神の民の総体を指し、もはや個々の集会の問題ではなく、終末的な神の民全体の姿、その本質をキリスト信仰の中心に据えて、それをパウロ書簡集のまとめの位置に置いています。パウロにも《エクレーシア・トゥ・テウ》(神のエクレシア)という概念はありましたが(コリントT一・一〜二)、パウロは個々の集会の信仰の在り方を指導することに追われ、そのような終末的な共同体全体の本質とかその位置づけを中心に置いて議論することはあまりありませんでした。エフェソ書の著者がパウロの書簡集をまとめる際に、この終末的な神の会衆《エクレーシア・トゥ・テウ》を福音理解の中心に置いたと言えるでしょう。
著者はこの手紙を「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」への賛美で始めます。この神への賛美(一・三〜一四)の中に、わたしたちがキリストにあって受けた救いの全体が描かれ、その根拠が示されています。ここでわたしたちを救う神の働きが三つの分野で語られます。そのすべてはわたしたちが「キリストにあって」まったく無条件に恩恵によって受けたものです。第一は、世界が造られる前に前もって定められた神の選びです(一・四〜六)。第二は、キリストの血による贖い、すなわち罪過の赦しです(一・七〜一〇)。第三に、福音を聞いて信じた結果与えられた聖霊による「神の国」を相続することの証印です(一・一一〜一四)。これは福音の要約ですが、この箇所でとくに注目すべき二点を挙げておきます。一つは、著者はコロサイ書(一・一四)と同じように、キリストの十字架において成し遂げられた神の贖いの働きを「罪過の赦し」と言い換えています。先にローマ書の要約でみたように、パウロにおいて「贖い」は罪という支配力からの解放でした。しかし、コロサイ書やエフェソ書では異邦人にも分かりやすい諸罪過の赦しという表現に置き換えられ、福音が道徳主義的な方向に向かうきっかけを与えています。パウロは赦し《アフェシス》という語を使っていませんでした(この点についてはコロサイ書の場合を参照)。もう一つは、キリストをみ旨の奥義《ミュステーリオン》と呼んで、その中身を「諸々の時の充満へと運用されて、天にあるものも地にあるものも、キリストを頭として統合されるに到るのです」と言って、救済史を要約しています(一・一〇)。ここには時《カイロス》、充満《プレローマ》、運用《オイコノミア》という救済史の中心的概念を指す用語が並んでいます。少し後に教父の一人エイレナイオスが、ここの「キリストを頭とする万物の統合《アナケファライオーシス》」を核心とする壮大な救済史の神学を打ち立てます。
著者は福音共同体であるエクレシアが、キリストを復活させ、天地の万物の主とされた上で、そのキリストをエクレシアの頭としてお与えになった絶大な神の力を悟るように祈っています(一・一五〜二二)。著者はエクレシアがキリストを復活させた神の力を悟り、その力に満たされるように祈っています。コロサイ書も充満《プレローマ》という概念を中心に据えていました。コロサイ書(一・一九、 二・九)ではキリストが神性の充満であり、エクレシアはそのキリストを頭とする体でした。エフェソ書は一歩進めて、キリストの体である《エクレーシア》が、「すべてにおいてすべてを満たしておられる方の充満」となります(一・二三)。《エクレーシア》は、神性の充満体であるキリストが充満しておられることによって、天地万物の充満体となるのです。著者にとって、この充満となることが真理であり奥義なのです。
こうして一章でパウロの福音を要約した著者は、二章から三章で、その充満体に加えられ、そこに生きるようになったキリスト者の生き方を、その視点から語ります。今キリストにある者も、エクレシアに加わる以前は自分の過ちと罪のために死んでいたが、今はキリストと共に復活して聖なるものとされたと語ります(二・一〜七)。これが救いであり、それは神の恩恵と人間の信仰によって、神の賜物として与えられたものであると言って、パウロの強調点を見事に要約しています(二・八)。そして神の作品(二・一〇)としてのエクレシアの在り方と働きを四章以下の書簡後半で展開していきます。ここはその詳細を講解するところではないので、それは別の著作(たとえば拙著『パウロ以後のキリストの福音』の第二章)に委ね、ここではエフェソ書成立の意義に限定しておきます。
「キリストの充満体としてのエクレシア」を主題とする本書は、このエクレシアの奥義を様々な比喩を用いて語っています。まずエフェソ書はエクレシアを建物にたとえています(二・二〇〜二二)。その建物の土台は、パウロにおいてはキリストだけでしたが、エフェソ書では「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられた」とされた上で、キリストが「土台の隅石」とされています。次にエクレシアはキリストの花嫁にたとえられています(五・二一〜三三)。キリストとエクレシアが一体となることが救済史の目標であり「奥義」なのです。さらにエクレシアは人にたとえられています。長らくユダヤ人と異邦人という二つの区画に分かたれていた人間の共同体を、神はキリストによって律法という仕切りの中壁を打ち壊し、「一人の新しい人」へと創造されたのです(二・一四〜一六)。人は成長します。その成長は「すべての関節によって組み合わされ、それぞれの部分に応じた働きにしたがって成長を遂げ」ます(四・一六)。その成長の目標は「キリストの充満の成熟の限度」(四・一三 直訳)とされます。エフェソ書のエクレシアは神の霊が住む建物ですが、それは成長する建物です。この成長する人において、エクレシアはキリストの体ですが、その体の頭はキリストです。この頭と体の比喩が、エフェソ書におけるキリストとエクレシアの関係を指し示す基本的な比喩となります。神はキリストを復活させて《コスモス》の主《キュリオス》とされ、そのキリストをエクレシアの頭としてお与えになったのです(一・二〇〜二三)。この関係から、エクレシアがその目標である「キリストの充満の成熟の限度」に達することが、《コスモス》の救済につながります。
 エフェソ書においては、キリストの来臨《パルーシア》はもはや語られることはなく、エクレシアの成熟完成が世の救済の中心に来ます。パウロに見られた死者の復活という終末的完成という時間的な救済史的希望は背後に退き、エクレシアの成熟完成という空間的枠組みの思考の中での完成救済が前面に出て来ます。コロサイ書とエフェソ書を見ると、キリスト信仰がヘブライ的救済史の枠組みから、ヘレニズム的な空間的思考の世界に一歩踏み出したという印象を受けます。

来臨待望の変遷とヨハネ黙示録

ヘブライ的救済史思考からヘレニズム的コスモロジー思考への枠組み(パラダイム)の転換は、前者から後者への一方通行ではありませんでした。この使徒名書簡の時代にも、逆の方向、あるいは元の方向の維持、すなわちキリスト来臨の待望が熱く燃えたことを証言する文書も見られます。その一つは使徒名書簡の一つであるテサロニケ第二書簡です。この書簡は、他の使徒名書簡に迷わされないように警告しながら(テサロニケU二・二)、実はこの書簡自身が使徒名書簡であると判断せざるをえません。この書簡はテサロニケ第一書簡と同じく、キリストの来臨《パルーシア》を扱っていますが、その扱い方は第一書簡とは異なり、来臨の前に地上に起こる出来事を並べて(これはユダヤ教黙示文書の特色です)、来臨に備えることを命令口調で宣言しています。これは第一書簡が来臨をいつ起こるか分からない出来事として備えることを、父親が子に諭すように励ましているのと対照的です。そのほか用語と文体の違いなどから判断して、この第二書簡はパウロからかなり後に(おそらく一世紀の終わり頃)、キリスト者への迫害が始まった頃の使徒名書簡であると考えられます(詳細は拙著『パウロ以後のキリストの福音』の第三章を参照してください)。
この時期に《パルーシア》(キリストの来臨)待望を極めて強く、しかもそれを、先にコロサイ書やエフェソ書で見たようなヘレニズム的な傾向が強く現れているエフェソを中心とする地域に告知している文書があります。それが「ヨハネ黙示録」です。この特異な文書は福音書でもなく、また使徒名書簡の一つでもありませんが、この時期にエフェソを中心とするエーゲ海地域に現れた証言として、ここで取り上げておきます。
ヨハネ黙示録は、ダニエル書以来ユダヤ教の中に見られるようになったユダヤ教黙示文書を継承し、その形態でキリスト信仰の希望の面を強く出して、ローマ帝国の迫害と戦うキリスト者を励まします。ユダヤ教は、その信仰を抑圧し迫害する異教徒の政治権力と激しく戦いながらその信仰を貫いて来ました。紀元前二世紀にパレスチナを支配していたセレウコス朝が、支配地のギリシア化を急いで、割礼を禁じたりしてユダヤ教を激しく弾圧したとき、「敬虔な者たち」は激しく抵抗します。この時期に、迫害されている信仰者を励ますために、イスラエルの預言者の流れの中から、異教徒の権力を獣にたとえ、様々な象徴表現を用いて神の支配の到来を説いたダニエル書が出ます。それ以後、このダニエル書を範として、現在は神に逆らう悪しき者が支配しているが、やがて神の支配が実現して正しい者が祝福されて栄光の座に着く新しい時代が来るという文書が多く出るようになり、ユダヤ教思想の一つの流れを形成します。このような文書を黙示録とか黙示文書と呼び、このような文書に表現されている思想を黙示思想と言っています。このユダヤ教の黙示文書は新約聖書の時代にも書かれ続け、黙示思想は新約思想の神学的な思想の母胎となります。ヨハネ黙示録は、キリスト信仰の中のキリスト来臨の待望を、ユダヤ教黙示文書の形式で象徴的表現をもって激しく語っています。
この黙示録はエフェソを中心とするアジア州の七つの集会に宛てられた手紙の形式で書かれています(二〜三章)。この文書がエフェソ近辺で成立したことは確かです。時期については諸説がありますが、古代教父のエイレナイオス以来、広くドミティアヌス帝(在位八一〜九六年)の迫害の時と考えられています。ヨハネと名乗る著者は、皇帝礼拝を拒否してパトモス島に流刑され、そこでキリストの霊の啓示を受けて、この黙示録を書いたと伝えられています。旧約聖書にもダニエル書以来、迫害する権力に対する信仰者の抵抗を励ます黙示文書は多くありますが、それらはみなエノクとかエズラとかダニエルというような昔の著名な霊的人物の名で、すなわち偽名で書かれています(偽名は事後預言を可能にします)。しかしヨハネ黙示録は自分が受けた啓示を自分の名前で書いています(一・一)。旧約聖書の黙示録はこれから起こることを予言する形で信仰者を励ましていますが、ヨハネ黙示録は現在すでに復活して諸集会に語るキリストの啓示として語っています(一章)。この点でヨハネ黙示録は旧約聖書の黙示文書とは決定的に違っています。この啓示《アポカリュプシス》という語が書名となり、この書は「イエス・キリストの《アポカリュプシス》」と呼ばれることになります(一・一)。
著者のヨハネは、エフェソ近辺の諸集会を巡回して教える指導的預言者であったと考えられます。彼は諸集会の霊的状況をよく理解して、励ましと指導の手紙を書き送っています。彼の活動の対象は、パウロが形成したエフェソ近辺のヘレニズム諸都市の集会と重なっています。先にコロサイ書とエフェソ書で見たように来臨のことはあまり語らなくなったこの地域の福音共同体にも、パウロも内心に抱いていたキリスト来臨に極まる終末待望が底流として流れていたことがうかがえます。その底流が迫害の時代にはこのような預言者的文書になって姿を現すことになります。著者はおそらくパレスチナ出身の霊感豊かな人物で、預言者集団で指導的な立場にあり、ユダヤ戦争にも参戦してローマの軍事力の殲滅的な破壊を体験し、その権力の恐ろしさを身もって味わった人物かもしれません。このヨハネを指導者とする預言者集団がユダヤ戦争後エフェソに避難して来て活動したことが考えられます。同じようにエフェソに避難して来て共同体を形成したヨハネ共同体との関係も問題になります(後述)。
ヨハネ黙示録は序章(一章)の「天上におられるキリストの姿」の黙示(啓示)で始まり、七つの集会宛の励ましの手紙(二〜三章)に続いて、僕ヨハネに与えられた「すぐにも起こるはずのこと」、すなわちキリストの来臨にともなう出来事についての長大な黙示(四〜二一章)が本体を形成し、最後に「然り、わたしはすぐに来る」という復活者イエスの宣言と、「アーメン、主イエスよ、来てください」という祈りで結ばれています(二二章)。長大な黙示を語る本体部分(四〜二一章)は、小羊、獣たち、騎士、巻物、ラッパ、封印、地上の各種の災害など、黙示文書に特有の多くの象徴で語られていて、その解釈と理解は困難な課題です。それは各種の講解や注解に委ねて、ここではこの黙示録が正典として新約聖書に入れられた過程とその意義について、ごく簡単に見ておきます。
キリスト信仰共同体がその信仰の基準となるべき文書を決定する正典結集の過程で、このヨハネ黙示録はかなりの紆余曲折を経ました。正典とする際の基準はその文書の使徒性ですが、この文書は著者のヨハネが使徒ヨハネと同一視されて、使徒ヨハネの著作とされて正典とされました。しかし、すでに古代教父の中にも著者は使徒ヨハネとは別のヨハネだとする者もあって、正典に入れるのにためらいもありました。西方ではかなり早くから正典と認められていましたが、東方では疑わしい書として認めない人も多くいました。四世紀のアタナシオス書簡によって現代の二七巻が正典として確定したとされますが、それ以後も東方ではヨハネ黙示録を含まない正典表が出るなど、この文書の扱い方は流動的でした。新約聖書全巻の詳しい注解を書いたカルヴァンも、ヨハネ黙示録だけは扱っていません。
正典に入れられているので、この黙示録はキリスト教の歴史において大きな影響力を発揮しました。もともとローマの迫害下にある信徒を励ますために一世紀末に書かれた文書ですから、四世紀のキリスト教公認までの迫害の時代には信徒を励まし、福音の拡大に大きな歴史的貢献を果たしました。ヨハネ黙示録はローマの権力支配をサタン、神に敵対する悪の霊力から来るものとして、その要求に屈しないでイエス・キリストを主と告白するように励まし、その告白を貫く者にキリストが来臨される時の神の支配での栄光を約束しています。これは一見、ローマ書一三章でそれは神によって立てられたものであるからローマの政治権力に従うように求めているパウロの勧告と矛盾しているように思われますが、両者は決して矛盾していません。ヨハネ黙示録は、ローマの権力はサタンから来ているのだから、力には力をもって抵抗し、ローマへの武力蜂起をするように勧めているのではありません。権力がサタン的な要求を突きつけても、キリスト者は「神のものは神に」の信仰で、イエス・キリストを主と言い表すことを貫かねばなりませんが、そのために権力が自分のものとして要求することには従うだけである、という姿勢です。キリスト共同体はこの無暴力不服従の姿勢を貫くことでローマに打ち勝ち、ついにその信仰をローマ帝国の国教にするのです。
一方、ヨハネ黙示録にはキリストの支配が地上の支配権力として諸国民を支配する時があると解釈できる文言もあります。この書の二〇章一〜六節に、サタンがその働きを封じられて、キリストとその聖徒たち(第一の復活にあずかった者たち)が千年間世界を支配するという預言があります。この思想はユダヤ教の黙示文学に深く影響されていることがうかがえます。この時代が後世「千年王国」と呼ばれて、その千年王国を実現するのだとしてキリスト教徒が互いにその地上の支配を争った時期がありました。中世末期から宗教改革を経て近代の宗教戦争の時代に至るまで、改革運動の背景にはこの千年王国思想がありました。たとえばアメリカ合衆国の建国に大きな要素となった英国のピューリタン革命には、この千年王国思想が一つの牽引力となっていました。

ヨハネ黙示録の成立と内容の講解およびその解釈の歴史について詳しくは、拙著『パウロ以後のキリストの福音』の「第四章 来臨待望と黙示思想」でまとめていますので、それを参照してください。

福音活動における帝都 ローマ

キリストの福音がユダヤ教の枠を破って世界の諸国民に告げ知らされた時、その世界はローマ帝国が支配する世界でした。文化的にはギリシア文化が東方諸国民の宗教文化と融合したヘレニズム文化の社会であり、文化的には統合された社会であったので、キリストの福音はギリシア語で告知されて、広くヘレニズム世界に入って行くことができました。このヘレニズム世界で福音がどのように貫かれ、かつ適応して行ったかについては本項(V)で見てきました。しかしそのヘレニズム世界を受け継いで統合したのはローマでした。それぞれの社会は政治的にはローマの支配下にあり、その支配の中心地ローマと無関係ではあり得ませんでした。ローマの帝国主義支配(imperium)の実態とかその支配下の社会がどのような社会であったのかは、本書が扱いうる範囲をはるかに超えますので、それぞれの専門書に委ね、ここでは最初期の福音活動にとって帝都ローマがどのように関わったのかを瞥見するにとどめます。
キリストの福音の告知は、ユダヤ教の中心地エルサレムから始まりました。この福音は、東のアラブ系の諸国には、パウロのアラビアへの伝道に見られるように、妨げられて挫折しました。南のエジプトと北のシリアにはかなり進展したようです。しかし、もっとも目覚ましく進展し、後の福音活動の中心的な位置を占めるようになるのは、西に向かった福音活動です。使徒たちの活動を伝えるルカの「使徒言行録」は、この西に向かう福音の進展を描き、とくにその後半は西に向かう福音活動の中心的な担い手であるパウロの活動に集中しています。ルカの使徒言行録は、エルサレムから始まった福音告知がローマに到達して終わります。パウロは囚人としてローマに護送されるのですが、それでもローマのユダヤ人たちや訪れる人たちに福音を語る姿のパウロを描き、福音がローマに到達したことを記述して著作を閉じます。
実はパウロよりも先に福音はローマに伝えられていました。パウロがローマ到着の数年前にコリントから書き送った手紙の挨拶(ローマ書一六章)に、当時のローマのキリスト信仰共同体の様子がうかがえます。それによると、ローマにはパウロ以前にエルサレムから来たキリスト復活の証人たちによって福音は伝えられており、四九年にクラウディウス帝がユダヤ人追放令を出して「クレストゥスの扇動によって絶えず騒乱を起こすユダヤ人」をローマから追放します。これはキリストの福音がユダヤ人の間に引き起こした騒乱を指しているようで、四十年代にはローマにかなりのキリスト信仰者がいたことを示しています。クラウディウスが亡くなってネロが帝位についたときユダヤ人追放令は解除され(五四年)、ユダヤ人が戻ってきます。エフェソで活躍して集会を持っていたプリスカとアキラ夫妻もローマに戻って集会を開いています。それまで異邦人だけで進めていた集会にユダヤ人が戻ることで、ローマの福音共同体に様々な問題が起こったようです。そのすぐ後の五五年の冬にパウロがローマ書を書き送って、その問題に対処して、律法順守のことで対立することなく、お互いに受け入れるように勧告することになります。
ローマの福音共同体は、アンティオキアやアレクサンドリアのように一つの共同体としてまとまっていなかったようです。それは母体となったユダヤ人の共同体が、ローマではシナゴーグ単位の共同体で、アレクサンドリアのように地域的にも政治的にも一つの大きなユダヤ人共同体(ポリテウマ)を形成していなかったのが理由だと考えられます。福音共同体も、ユダヤ人が指導的な立場にいたので、ユダヤ教共同体の在り方に大きく影響されたのでしょう。パウロもローマ書を書いたとき、特定の集会宛ではなく、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」あてて書き送っています。この時期のローマには、ペトロを初め使徒たちや預言者たちという人たちが来て活動したようで、いろいろな集会やグループがありました。ペトロも通訳としてマルコを連れて各地に出向き、晩年にはローマに来て活動したようで、最後にはネロの迫害のときに殉教したと伝えられています。ローマにはペトロを権威と仰ぐグループもあったようです。このグループの人たちが小アジアのキリスト者が信仰のゆえに苦しみを受けていることを知って、ペトロの名で励ましの手紙を書きます。それがペトロの第一の手紙として伝えられています。この手紙は八〇年代にローマで書かれたと見られます。
なお、新約聖書の中の重要な文書で、ローマで書かれたのかローマ宛に書かれたのかは説は分かれますが、ローマと関係が深いとされるものにヘブライ書があります。この書は、ヘレニズム文化の高い教養を身につけたユダヤ人哲学者であるアレクサンドリアのフィロンのような手法で旧約聖書を解釈し、御子キリストによる啓示と救いが究極的なものであることを宣言しています。とくに御子キリストが大祭司として、人の手で造られたのではない神殿で、わたしたちを生ける神と結びつけてくださっているという主張が印象的です(九・一一〜一二)。この書も、先のペトロ第一書簡と同じように、ローマの一般市民の反感から苦しめられているキリスト者を、この世では寄留者とか旅人であると呼び、見えない「神の国」の希望に生きることを信仰としています(一一章)。

この時期のローマ集会の現状については、拙著『福音の史的展開U』二一六頁以下の第六章第二節の項TとUでやや詳しく述べていますので、それを参照してください。この時期のローマとの関係で成立した文書については、同書の二四二頁以下の項目W、X、Yがまとめていますので、それを参照してください。さらに、次に述べるローマ帝国によるキリスト教徒の迫害については、同書二三一頁以下の項Vで解説しています。

キリスト教徒への迫害

この時期のローマ集会を襲った大きな試練のことは有名です。ネロは初めはセネカらの補佐もあって有能な統治者でしたが、晩年は猜疑心から有能な政治家を自殺に追い込み、ついには母親まで処刑するという暴君ぶりを見せるようになります。そのネロがローマの大火災の責任をかわすために、当時ローマ市民から嫌われていたキリスト教徒を放火犯として逮捕し残忍な方法で処刑します(六二年)。ネロは歴史上最初にキリスト教徒を迫害した「もっとも悪名高い皇帝」となります。しかし、この迫害は暴君ネロの法を無視した行為であり、またローマ市に限定された迫害であって、まだローマ帝国によるキリスト教徒迫害ではありません。しかし、ローマ市民のキリスト教徒への反感があったので、このような迫害が行われたのも事実です。ローマ帝国によるキリスト教徒の迫害は顕著な歴史的事実ですから、その実態についてもう少し見ておきましょう。
ローマ人はどのように優れた皇帝であろうと将軍であろうと人間を神として祀ることはありませんでした。例外的に極めて優れた皇帝とか指導者(例えばカイサル)を死後に祀ることはありました。アウグストゥス帝も生前の彼を神として祀り、犠牲を献げるなどの祭儀を行いたいというギリシア人の請願を拒否しています。この原則を破って、生前に自分を神として祭儀を行うように要求した例外がカリグラ帝とドミティアヌス帝でした。カリグラ(在位三七〜四一年)の時はエルサレム神殿に自分の像を建て、自分を神として犠牲を捧げることを要求しました。使節団が「皇帝のために犠牲を捧げて神に祈っています」と弁明しても、自分に犠牲を捧げず、自分を神としていないと言って弁明を退けています。カリグラの時は、ユダヤ人の命がけの抵抗と彼自身の暗殺に終わりました。ドミティアヌス(在位八一〜九六年)の時にはエルサレム神殿はありません。彼は自分を「神にして主」と呼び、そのような者として拝むように要求し、エフェソに巨大な自分の像を建てました。皇帝を神として礼拝することを拒否するように呼びかけた預言者はパトモス島に流刑されます。預言者は復活されたキリストの啓示を受けて、彼が巡回して預言活動をしていたエフェソ近辺の七つの集会に手紙を書き送り、皇帝を神として犠牲を捧げることを求めるローマはサタンから出る権力であるとして、キリストとしてのイエスを告白するように励まします。それがヨハネ黙示録です。
カリグラとドミティアヌスは例外で、ローマ帝国内で皇帝が帝国の法に基づいてキリスト教徒の迫害を命じるのはずっと後のことで、初めは一般の都市市民のキリスト教徒への反感が招いたものでした。ローマの伝統的な祭儀に参加せず、この世的な風習や快楽に背を向けて生活するユダヤ教徒やキリスト教徒など一神教宗教の信徒は、「無神論者、国家の敵、人類の憎悪者」というレッテルを貼られて嫌われていました。ユダヤ教徒は政治的な配慮から「合法宗教」として認められ、ローマの祭儀や兵役から免除されており、キリスト信仰の民もユダヤ教の一部としてその特権にあずかっていました。ところが、キリスト教徒がユダヤ教徒から区別されるにようになって(ローマからのユダヤ人追放も区別のきっかけとなったようです)、一神教宗教に対するローマの一般市民の反感はキリスト教徒に向かうことになります。
小アジアではパウロによって形成された諸集会が、パウロなき後も積極的に活動して、小アジアの全州にキリスト信仰の民を形成するようになっていました。そのことは、八〇年代に書かれたと見られるペトロ第一の手紙(一・一)の宛先に小アジアのすべての州の名があげられていることからも分かります。この手紙は、これらの州のキリスト者が反感を持つ市民から告訴されることが多くなり、周囲からの反感と迫害に苦しめられていることを知ったローマの集会の人が、ペトロの名で書いて励ました使徒名書簡の一つだと考えられます。このような告訴にどう対処すべきかを、この地域の一州であるポントス州の総督プリニウスが皇帝の指示を求めた請訓の手紙と、それに応えたトラヤヌス帝の書簡が伝えられています。皇帝の訓示の手紙は、その後のキリスト教徒の扱いの法的根拠となります。それによると、官憲がキリスト教徒を探索して訴えてはならないこと、市民からの告訴があれば法廷で問いただし、キリスト教徒であることを三度肯定すれば処理(処刑)したという総督の処置は適切であること、否定すれは放免すべきであるとされています。このトラヤヌス書簡によって「名による」有罪の原則が確立します。すなわちキリスト教徒であるという事実が、それに伴う反社会的悪行が何もなくても処罰の対象になるという原則が確立します。
このトラヤヌス書簡によって「名による」有罪と処刑の原則が確立したのとほぼ同じ時期に、アンティオキア共同体の監督のイグナティオスが逮捕され、ローマまで連行されて処刑され、殉教しています(一一〇年ごろ)。その途上でスミルナから周辺のエフェソなどの諸集会とローマの共同体に手紙を書いています。このイグナティオス書簡は二世紀初頭のキリスト信仰とその共同体の姿を証言する貴重な資料です。トラヤヌス書簡とイグナティオス書簡集は、迫害する側と迫害される側という対極の両側から、二世紀初頭のローマ帝国とキリスト信仰共同体の姿と関係を示す貴重な資料となります。こうして二世紀と三世紀は悪霊化したローマ帝国と、殉教の死を覚悟して戦うキリスト信仰共同体との血みどろの戦いの世紀となります。この間にキリスト信仰に立つ共同体はカトリック教会(普遍的で公同の教会)となって組織化され、四世紀になって遂にローマはそのカトリック教会で成立したキリスト教という宗教を公認するに至ります。そのことは次の第四節「宗教としてのキリスト教の成立とその問題」で扱うことになりますが、その前にこの「福音書の時代」に成立した重要な文書の証言を聞かなけれななりません。それはヨハネ福音書とルカの二部作(ルカ福音書と使徒言行録)です。

W ヨハネ福音書の成立とその使信

               (本項で書名のない数字はヨハネ福音書の章節です)

ヨハネ共同体とその福音書

パウロ系の集会が活動していたアジア州の州都エフェソと周辺の諸都市で、パウロなき後もう一つ別の系統の福音活動が行われていました。それはヨハネと呼ばれる霊的指導者に率いられたキリスト信仰の共同体で、通常ヨハネ共同体と呼ばれています。この人物はその共同体では(ユダヤ教の慣例からでしょうか)長老と呼ばれて尊敬されていました。このヨハネとその仲間はユダヤ戦争前の混乱期(おそらく六〇年代前半)にパレスチナからエフェソに移住して来たと見られます。彼らは使っている用語などからパレスチナ・ユダヤ人であると考えられますが、エフェソを中心にヘレニズム世界で福音活動を進め、多くの異邦人信者を含むようになっていました。その共同体は、ヘレニズム世界で活動する共同体として当然ギリシア語を用いていました。
この長老と呼ばれるヨハネとはどういう人かは、その人物の証言から生み出されたと見られる文書から推定する他はありません。そのような文書はヨハネ文書と呼ばれ、ヨハネの手紙のT、U、Vとヨハネ福音書の四つが含まれます。ヨハネという名前はユダヤ人には多いので、イエスが十二使徒の一人として選ばれたゼベダイの子のヨハネを「使徒ヨハネ」、黙示録の著者を「預言者ヨハネ」、ヨハネ共同体の指導者を「長老ヨハネ」と呼んで区別すると、この三人のヨハネの関係が問題になります。伝統的にはヨハネ福音書と三通のヨハネの手紙とヨハネ黙示録の五つがすべてヨハネ文書と呼ばれ、使徒ヨハネの著作として新約聖書正典に入れられていました。しかし現在では厳密な研究の結果、この五つの文書は使徒ヨハネの著作ではないとされています。三通の手紙と福音書はヨハネ共同体において成立し、(福音書は多くの編集を経ていますが)すべて長老ヨハネの著作と見ることができます。それに対してヨハネ黙示録は、すでに古代から同一人の著作ではないという見方もあり、現代ではそれが広く認められています(ただしヘンゲルのように時期が違うが同一人の著作と見る人もいます)。ここではヨハネ福音書と三通の手紙をヨハネ文書として扱って、このヨハネ文書を生み出した共同体の証言を聞くことにします。
この長老ヨハネとは誰でしょうか。それを示唆する文言が、この長老の証言から編集の過程を経て生み出されたヨハネ福音書にあります。ヨハネ福音書を長老の没後に最終的に編集して世に出した共同体の代表者は、「以上のことを証しした者、そしてそれを書いた者は、この弟子である。わたしたちは彼の証しが真実であることを知っている」と言っています(ヨハネ二一・二四)。編集者が「この弟子」と言っているのは、ペトロと一緒にガリラヤで復活されたイエスに出会った「イエスが愛しておられたあの弟子」、食事の時にイエスの胸に寄りかかっていたあの弟子のことです(ヨハネ二一・二〇)。すなわち本文中にしばしば現れる「イエスが愛しておられた弟子」が「以上のこと(本文の全体)を証しした者」です。彼の証しが真実であることを知っていて、彼の福音告知(説教)によって信仰生活をしていた「わたしたち」(ヨハネ共同体)が、彼の証しをまとめて世に出した書がこの福音書です。従ってこの福音書は、イエスの身近にいてイエスの働きや言葉を直接見たり聞いた者の証言であり、同時に復活後のイエスとの深い霊的な交わりの中で知った復活者イエスを宣べ伝えた弟子の証言であるという性格の書です(ヨハネT一・一)。
この弟子はかなり若い時にイエスの弟子となってイエスに従ったようです。イエスがガリラヤで召された十二人の弟子たちはイエスと同年代か少し若い三〇歳代だったと考えられますが、この弟子は初め洗礼者ヨハネの弟子として彼と共にいた時にイエスと会い、イエスの弟子となったようです。アンデレと一緒にイエスに従って行ったのは、この弟子であったと推察されます(ヨハネ一・三五〜四二)。その時、この弟子はまだ一〇歳代半ばではなかったかと考えられます。当時の有名な歴史家ヨセフスも十四歳ほどでユダヤ教各派の有名教師に就いて学んだと言っていますが、この弟子の若さと聡明さとを慈しんでイエスも特別に目をかけられたのでしょう。彼の家はエルサレムにあり、大祭司と親しい家柄の祭司の息子で、大祭司の屋敷にも顔パスがきいたようです(一八・一六)。彼は若い時からユダヤ教の多くの文書に通じていたと考えられます。
彼がエルサレムの住人であったことは、ヨハネ福音書にその指標が多くあります。ユダヤ教には年に三回、地方のユダヤ教徒がエルサレムの神殿に巡礼して参拝する巡礼祭があります。ガリラヤで活動されたイエスもその巡礼祭に参加するために度々エルサレムに上っておられます。その度に若い弟子のヨハネはイエスの側にいて、イエスの言葉に耳を傾け、イエスの活動や出来事を直接見ました。それに対して、ガリラヤの漁師であるペトロが伝えるイエスの言動を素材に福音書を書いたマルコと、彼が書いた福音書を土台にして福音書を書いたマタイとルカは(マルコ、マタイ、ルカの三福音書は共観福音書と呼ばれます)、イエスのガリラヤでの働きと教えに集中して、エルサレムでのことは十字架にかけられた最後のエルサレム行きの一回にしています。ヨハネはエルサレムの住人であり、年も若いので使徒としてガリラヤでの働きに参加していませんので、ペトロらの十二人の弟子と区別して自分を「もう一人の弟子」と呼んでいます。従ってヨハネ福音書は、ガリラヤでのイエスの働きについては伝聞や資料に依存することが多く、逆にエルサレムとその近辺でのイエスの働きと出来事、とくに前年秋の仮庵祭から十字架の過越祭までの半年については、直接に見聞したこととして詳しく伝えることになります(ヨハネ福音書七章以下)。「イエスが愛された弟子」が登場するのも、最後のエルサレム滞在中の出来事が圧倒的に多くなります。
イエスの復活後、ヨハネはエルサレム共同体の一員として活動し、とくにイエスの母マリアを委ねられて共に住み、ガリラヤでのイエス伝承を詳しく知ったことでしょう。ヨハネがパレスチナのユダヤ人、とくにエルサレムの住人に福音を伝えたことは十分推察できます。とくに、サマリアとの関係が深く(ヨハネ福音書四章)、ヨハネが形成した共同体はサマリアにあったと推察する研究者もいます。パレスチナでの福音活動に深く携わっていたのですから、シリアの宗教的伝統が強く影響していたことは当然です。しかし、ヨハネとその共同体のパレスチナにおける活動については、確かなことは分かりません。確かなことは、ヨハネが、あるいはヨハネ共同体がエフェソに移住して、ヨハネの福音活動の後半、かなり長期間エフェソを中心に活動したことです。移住した時期については諸説がありますが、やはりユダヤ戦争の前後、多くのユダヤ人が戦乱を逃れて、近くのヘレニズム大都市に移住した六〇年代前半が推定されます。古代教父の多くが、ヨハネ福音書とヨハネの手紙がエフェソ近辺に流布していたことを証言しており、ヨハネ共同体がエフェソを中心とするアジア州で活動したことは確実だと考えられます。

弟子のヨハネとヨハネ共同体の福音活動については、拙著『対話編・永遠の命 ー ヨハネ福音書講解U』の巻末に置いた「附論 『もう一人の弟子』の物語」にやや詳しく述べましたので、それを参照してください。

永遠の命の告知

そうするとヨハネの福音活動の範囲はパウロ晩年の福音活動と重なります。エフェソ近辺のパウロ系の諸集会は、パウロなき後にパウロに匹敵する偉大な教師であり証人である人物の声を聞くことになります。この重なりは時期からして、ヨハネがパウロから大きな影響を受けたという方向で考えられますが、同時にパウロ系のアジア州の福音共同体が、後の時代にはヨハネからの影響を受けて、ヘレニズム世界に福音が浸透して行く原動力になったという面も考慮に入れなければなりません。しかし、ここではパウロからヨハネの方向への影響に絞って考察しておきます。
ヨハネ福音書の最初に置かれているロゴス讃歌(一・一〜一八)は、もともとイスラエルの宗教的伝統の中心にある神の《ダーバール》(言葉)が、イスラエルがギリシア思想と遭遇した時期に、ギリシア語の《ロゴス》と訳されて、《ソフィア》(知恵)と共にイスラエルの知恵思想を形成しますが、その知恵思想を母体として生まれたものでしょう。パウロの福音がすでにヘレニズム・ユダヤ教的な内容になっていますが、パウロの福音がヘレニズム世界に展開する過程で、コロサイ書やエフェソ書に見られるように、いっそう強くギリシア的な思考の枠組で福音を理解する傾向が出てきます。その方向はヨハネにも続いていて、ヨハネの元来パレスチナ・ユダヤ人の聖書的・救済史的な思考がヘレニズム世界のコスモポリタンで個人的な救済思想に向う傾向を見せています。コロサイ書やエフェソ書の中心的な概念である充満《プレローマ》が重要な位置を占めているのもその実例の一つです。
讃歌は「わたしたちは皆、彼の充満の中から、恩恵の上に、さらに恩恵を受けた」と謳っています(一・一六)。「彼の充満《プレローマ》」というのはまさにコロサイ書(一・一九、二・九)からエフェソ書に受け継がれた中心概念です。その充満は「恩恵と真理に満ちている」充満であり(一・一四、一・一七)、わたしたちは皆、父の独り子であるイエス・キリストに満ちている恩恵から、「恩恵の上にさらに恩恵を」受けているのです。この恩恵という語もパウロ特愛の語で、パウロの福音の中心です。福音はイエスにおいてもパウロにおいても「恩恵の支配」のことです。ところがヨハネはその一章一九節以下の本論で一度もこの恩恵《カリス》や充満《プレローマ》という語を用いていません。それだけに、恩恵と充満という語を中心に用いてキリストの出来事を賛美するこの讃歌は、パウロ系の共同体で用いられて来た讃歌を下敷きにしているのではないかという思いを抱かせます。
ヨハネがもっとも強くパウロの路線を受け継いでいると考えられるのは、救いの現在化の体験、あるいはその告白とか思想です。パウロの時代のユダヤ教では黙示思想が盛んでした。現在は神に敵対する霊力がこの世の支配権を握っていて敬虔な民は苦しみを受けているが、来るべき世では神はその支配を完成し、真の信仰者に永遠の命を与えてくださるという思想です。このような黙示思想が初期のキリスト教神学の母体になったと見る神学者もいます(ケーゼマン)。パウロにもこのような黙示思想から来ていると考えられる一面もあります。たとえばパウロにおいては、永遠の命はやがて到来する「来るべき世」における命です(ローマ二・七、六・二二)。ユダヤ教徒にとっては、来るべき世で永遠の命を受け継ぐことが、この世で生きる目標でした(マルコ一〇・一七)。しかしパウロには、キリストにあって生きる者はすでに救いの事実を受けている、すでに神の恩恵の支配の中にいるのだという確信、すなわち救いは現在の出来事であり事実だという理解があります。この理解によって、パウロは時代の黙示思想を乗り越えています。パウロの継承者たちも、コロサイ書やエフェソ書に見られるように、パウロのこの一面を強調して、もはや黙示思想的な思考の枠組みは見られませんでした。ヨハネ福音書はこの方向をさらに徹底させ、永遠の命を現在すでに与えられている事実として強調します。
ヨハネ福音書のイエスは復活されたイエス、復活によってキリストとされたイエスです。ヨハネは弟子としてイエスに従っており、イエスが地上でなされた働きと語られた言葉を聞いています。イエスの身に起こった出来事を直接見ています。彼は「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触れたものを伝えます」と言うことができる立場でした(ヨハネT一・一)。ですから、ヨハネ福音書はイエスの地上の働きと出来事について、しばしば共観福音書よりも正確な場合があります。とくに彼はイエスがエルサレムとその周辺でなされた働きと語られたお言葉については、共観福音書の記事を修正しています。マルコはペトロから伝えられたイエスの働きと出来事の伝承を、自分なりの枠で構成して、福音書という独特の文書を世に送り出しました。ペトロはガリラヤの人で、ガリラヤでイエスの活動を見聞きして伝え、またガリラヤで活動しています。そのペトロからイエスの働きを伝え聞いたマルコは、イエスのエルサレム行きを十字架の死にいたる最後の過越祭の時の一回にしています。それに対してヨハネは、祭りの度ごとにエルサレムに上ったイエスを報告しています。概してイエスの地上の出来事の伝記的な部分はヨハネ福音書の方が正確なようです。
しかしヨハネは正確なイエスの伝記を書くために証言したのではありません。ヨハネ福音書のイエスは復活されたイエス、復活して今も働くイエス、すなわちキリストとしてのイエスです。ヨハネとその共同体は、聖霊によってそのイエスと交わりを持ち、そのイエスから今聞くべき言葉を聞いて、それを証言しているのです。その結果、ヨハネ福音書のイエスが語る言葉は、地上のイエスが語った言葉の伝承と、ヨハネまたはヨハネ共同体が聖霊によって復活のイエスから聞いている言葉が、切れ目なく続くという形になります。たとえば、この福音書の三章でイエスが夜秘かに訪ねてきたファリサイ派の聖書学者ニコデモと対話される場面で、イエスはニコデモに「誰でも水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない」と語り出されます(三・五)。驚くニコデモにイエスは新しく(上から)生まれるという救済の奥義を語られます。その中に「人の子」と言うようなユダヤ教黙示思想の伝統的な用語も使っておられます。この対話では、少なくともヨハネは実際にイエスがユダヤ教の教師となされた対話を伝えようとしています。しかし、その中にも「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに」というような共同体の体験を語る部分が入り込んでいます。そして、一六節からは「永遠の命」というヨハネ固有の主題的用語を使って、ヨハネが現在復活のイエスとの交わりで聞いてこの世に宣べ伝えようとしている使信がイエスの口に置かれていると考えられます。ニコデモに対するイエスの言葉がどこまでか、どこからヨハネ自身の使信が始まるのか、説が分かれます。このように、イエスが語られた言葉を伝える記事の中に、ヨハネが復活のイエス、すなわちキリストとしてのイエスから聞いてこの世に語ろうとする使信が切れ目なく組み込まれているのが、この福音書の特徴です。
ヨハネ福音書は現在すでに信じる者に与えられている救済を、「信じる者は永遠の命を持つ」と、現在形の動詞を使って表現しています。すなわち福音を受け入れ、イエスをキリストとして、その中に自分のすべてを投げ入れて委ねる者は、今現在、この地上の生において「永遠の命」を持っているのだと言っているのです。ユダヤ教では神を信じる敬虔な者には「来るべき世(時代、アイオーン)」で永遠の命が与えられることが約束されていましたが、その永遠の命が今現在、この地上の生において与えられていると言うのです。ユダヤ教では来るべき時代(世)における「神の支配」の完成は「神の国」と呼ばれていました。イエスも神の恩恵を宣べ伝えるときに、「神の国」の到来を語られました。共観福音書が伝えるイエスの言葉には「神の国」という語が繰り返し出てきます。ヨハネもイエスの実際の言葉を伝えようとするときには「神の国」という語を使っていますが、それはイエスがニコデモと対話されたときの一回だけです(三・三、五)。他はすべて「永遠の命を持つ」という表現で救いが語られています。ヨハネが周囲のヘレニズム文化圏で生活する異邦人にキリストにおける救済を語るとき、ユダヤ教的な色彩が濃い「神の国」よりは、「永遠の命」という人類共通の問題意識に訴える方が適切で自然であったのでしょう。

永遠の命と死者の復活

この救いの現在化は復活の問題に典型的に現れています。当時のユダヤ教ではファリサイ派の信仰が主流となり、神がご自身の支配を確立される時、敬虔なユダヤ教徒には死者からの復活を与えて栄光に入れられるが、神とその民に敵対した者は復活して永遠の裁きを受けると教えられていました。復活の問題についてはイエスはファリサイ派と同じく、死者の復活を前提して語っておられます(ルカ一四・一四)。しかし、それがモーセ五書に書かれていないという理由で死者の復活を否定するサドカイ派の者には、モーセ五書の一節を引用して論駁しておられます(ルカ二〇・二七〜四〇)。ヨハネ福音書(一一・一七〜二七)では、兄弟ラザロが死んで嘆くマルタにイエスは「あなたの兄弟は復活する」と言われます。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。マルタは当時のファリサイ派ユダヤ教の信仰で答えています。それに対してイエスは「わたしが復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」と宣言されます。これは当時のファリサイ派ユダヤ教に対するヨハネ共同体の告白であり、同時に愛する者の死を嘆かないではおれない人類に対するキリストの宣言です。ここに「死んでも生きる命」が来ているのです。今死んでも生きる命、それは復活の命です。復活を内に宿す命です。キリストを生きるとはこの復活の命に生きることです。この命をいま生きる者は、「生きていてキリストを信じる者は誰でも、いつまでも死ぬことはない」と告白します。キリストにあって生きる命は復活にいたる命、死んでも生きる命です。こうして、救済の内容である命、永遠の命は現在わたしたちの内にあることになります。
こうしてキリストにある命は現在すでに復活の質の命を生きていますが、それは来るべき世における復活を不要にするのではなく、その確実さの保証になります。従って、復活を現在の命の質として告白するヨハネ共同体は、同時に来るべき世での死者の復活をも希望として告白します(ヨハネT三・二)。「わたしを信じる者は現在すでに永遠の命を持つ」と宣言するキリストは、同時に「わたしはその人を終わりの日に復活させる」と宣言するキリストです(六・五四)。この終わりの日の死者の復活を告白する点では、ヨハネ共同体もパウロ系の諸集会と同じく、終末における「死者の復活」(コリントT一五章、ローマ書八章)の希望を共有しています。確かにヨハネ福音書はヨハネ共同体における多くの編集過程を経て現在の形になっています。しかし、編集過程を経ているのだから編集によって加えられた部分は正典から削除するという姿勢は、聖書的伝承全体の整合性を否定するものであって受け入れることはできません。新約聖書のキリスト証言の伝承全体を整合的に継承するのであれば、ヨハネ福音書六章の「わたしはその人を終わりの日に復活させる」というキリストの宣言を、「その人はいま永遠の命を持っている」という告白と同時に受け入れるべきです。

永遠の命の道

ヨハネ福音書における永遠の命は終わりの日における死者の復活を含んでいることは、この福音書自身が一一章のラザロの身に起こった出来事を伝えることで証言しています。死んで墓に葬られてから四日も経つラザロをイエスは生き返らせました。この出来事は普通「ラザロの復活」と呼ばれていますが、これは死んだラザロが生き返った出来事であり、復活と呼ぶべき神の働きではありません。イエスは他にも一旦死んだ人を生き返らせています。これは病人を癒すイエスの働きの延長線上にあります。生き返ったラザロは、その後何年生きたか分かりませんが、結局は死にました。復活と呼べる神の終末的な働きは、まずイエスの身に起こりました。十字架の上に苦しみを受けて死なれたイエスを、神は三日目に復活させました。イエスの体はもはや死ぬべき体ではなく、その永遠の命にふさわしく、もはや朽ちることのない体、神の栄光を共にする栄光の体です。この終末的な神の働きは、この体をもってキリストが現れる時に、すべてキリストにあって同質の命に生きた死者に起こります(コリントT一五・二〇、二三、 ローマ八・一八〜二三)。その時のことを、最初期のキリスト者はキリストの《パルーシア》(来臨)と呼んで待ち望みました。この出来事は、時間の中にある人間にとってはまだ来ていない未来のこと、しかし必ず来る将来のこと、希望に属すことです。死者の復活は、わたしたちキリストにある者にとっては希望です。しかし、このような内容の希望を抱いて生きることは信仰と同じであり、わたしたちの生の内容です(ヘブライ一一・一)。
「信じる者は永遠の命を持つ」と救済の現在性を強調するヨハネ福音書が、イエスの働きの最後にラザロを生き返らせたという奇跡を置くのは、信じる者が現在生きている永遠の命は復活に至る質の命であることを指し示す「しるし」です。永遠の命を告知するこの福音書は、その全体で永遠の命への道を説いています。すなわち三章のニコデモとの対話で、永遠の命は律法(ユダヤ教)であれ他のものであれ宗教の実行によって到達するものではなく、神の霊によって新しく生まれるという神の働きによって始まることを示し、最後の一一章でラザロを生き返らせることをしるしとして、その命は死者の復活に至る質の命であることを指し示しています。そしてその中間に、命を養うパン(六章)や水(七章)、命を導く光(八〜九章)や牧者(一〇章)の象徴をもって、その命に生きる者に命の道を歩む力や導きを指し示しています。すべてその実質は復活者イエスとの交わりから来る聖霊の働きです。こうしてヨハネ福音書はその全体で永遠の命を世に告げ知らせています。わたしは先にキリストにおける神の人間救済の働きを、パウロにおいては解放、変容、完成の三相にまとめました。こうして見ると、ヨハネにおける神の救済も御霊による新生、復活者キリストとの御霊の交わり、復活の希望の三相、すなわち始まりと過程と到達点の三相で描かれていることを知ります。

ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》

なおヨハネ福音書における福音の提示で、やや特異な点がありますので、それについて一言加えておきます。ヨハネ福音書のイエスはしばしば《エゴー・エイミ》という宣言を発しておられます(四・二六、 六・二〇、 八・二八、五八、 一三・一九)。このギリシア語は、英語でいえば I AM という表現に相当し、強いて日本語に訳すと「わたしはある」という他はない表現です。しかしこの表現は、イザヤ書四三章で神が御自身を示して名乗られる時に用いられた表現である《アニー・フー》をギリシア語に直訳して《エゴー・エイミ》としたもので、人間がこれを用いることは自分を神とする行為、神を穢す行為とされました。それで、イエスが最高法院における裁判で大祭司の訊問に対してこの一言でお答えになった時、それを耳にした議員たちはその一言で、イエスを死に値する神を穢す者だとしたのです(マルコ一四・六一〜六四)。この《エゴー・エイミ》は、福音書では湖上を歩くイエスが発せられたと伝えられていますが、これは復活のイエスがその神性を啓示された出来事が地上の生涯に組み込まれたと考えられます。ところがヨハネ福音書では、イエスが神殿でこの宣言の言葉を発しておられます(八・二八、五八)。これを聞いたユダヤ人がイエスに石を投げようとします。神を穢す者を取り除くことは敬虔なユダヤ教徒の義務です。ヨハネ福音書でイエスの《エゴー・エイミ》の告白がユダヤ教徒からの迫害の理由とされているのは、イエスを神と等しいものと告白しているヨハネ共同体に対する当時のユダヤ教会堂からの迫害を、地上のイエスの出来事としたものと考えられます(一〇・三〇〜三三)。
先に述べたように、ヨハネ福音書は復活してキリストとされたイエスから聞いている言葉と、地上のイエスが語られた言葉を継ぎ目なく続けているので、《エゴー・エイミ》という復活者の神性を指す表現が地上のイエスの言葉に入ってくるのですが、そのことはキリストであるイエスを信じる者が受ける救済を語る場合にも現れます。それがこの福音書が救済を語る語り方の特色になります。たとえば、僅かのパンで多くの人を満腹させる「パンの奇跡」の後に続く問答で、イエスは「わたしが命のパンである」と宣言された後、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われます(六・三五)。最初の宣言では、《エゴー・エイミ》が文頭に来て強調され、それに「パンとして」という補語が加えられます。復活によってキリストとされたイエスが、パンとしての働きでわたしたちに現れておられるのです。だからこのイエス・キリストのもとに来る者、この復活者イエスを信じる者は(両者は同じです)、もはや飢えたり渇いたりすることはない、すなわち救われて永遠の命を内に持つことになると言っておられるのです。ヨハネ福音書にはこの形での救済宣言が多く出てきます。最初の《エゴー・エイミ》の後に、その方がどのような働きで現れてくださるのかが補語の形で続きます。その多くはパン、泉、光、牧者、道、葡萄樹など象徴的な表現が多く用いられますが、時には真理とか命というような直接的な表現も出てきます。これは現在形です。それに続いて「わたしを信じる者は…するであろう」と、救いの出来事を述べる形が未来形で続きます。これが、この福音書が福音を告知する独自の仕方です。もしイエス伝承を素材として、復活されたイエスをキリストとして告知する文書を福音書と呼ぶのであれば、このヨハネ福音書のような福音の提示の仕方が本来の福音書の姿ではないか、とわたしは考えます。

《エゴー・エイミ》という表現については、拙著『対話編・永遠の命ーヨハネ福音書講解T』三一九頁の「特注 ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》」の項を参照ください。

X ルカ二部作の成立とその意義

パウロ系諸集会における福音書

 先にパウロの項で見たように、パウロは自分が形成した諸集会を指導するにあたって、イエスがこう教えられたのであるからそれに従いなさいと言って、イエスの言葉を引用することはほとんどありませんでした。自分が聖霊によって交わりをもつ復活者キリストに従う体験から、聖霊の導きに従うように勧めました。パウロの勧告は「御霊の導きに従って歩みなさい」ということに尽きます(ガラテヤ五・一六)。しかしそのように形成された福音共同体(エクレシア)にも、キリストとしてのイエスがどういう言葉で教えられたのかを知って従おうとする動きが出てくるのも自然の流れでしょう。パウロ亡き後にどの程度マルコ福音書が流布したのかは確認できませんが、イエスの教えを知ろうとする動きはあったことでしょう。そのような願望を満たす役割を果たしたのがルカです。
ルカ福音書を書いたのは誰であるのか、また著者とされるルカはどのような人物であるのか、諸説があります。エイレナイオス以来、ルカ福音書と使徒言行録を書いたのは、パウロの最後期の旅に同行し、使徒言行録の「われら章句」(一六章以降に現れる「わたしたち」を主語とする章句)を書き、パウロがその書簡で「医者のルカ」と呼び(フィレモン二四)、パウロの最後の日まで一緒にいた人物とされてきました(テモテU 四・一一)。この伝統的な見方に反対して他の人物とする見方には決定的な根拠はないようです。また年代的にも伝統的な見方は可能です。パウロがローマで拘禁されたのが六〇年ですから、その旅に同行したのが二〇歳前後のルカであったとすれば(これは十分あり得ることです)、一世紀末には六〇歳前後、使徒言行録を書いたとみられる一二〇年頃(後述)には八〇歳前後となります。この伝統的な見方はルカ二部作(福音書と使徒言行録)の著者として十分説得的だと考えられます。
ルカは旅行家です。古代の歴史家は偉大な旅行家として各地を巡り歩き、各地の伝承を収集し、それをまとめて歴史を書きました。二世紀の初頭まで活動したルカは、キリストとしてのイエスを宣べ伝える福音活動の全容を見ることができましたし、それによって成立した各地の福音共同体と、そこに伝えられている伝承を集成することができる立場にいました。パウロがかなり長期間滞在したり拘禁されていたエルサレムやアンティオキアにも居て、パレスチナ・シリアに伝えられている伝承も集めることができました。もちろんその当時すでにかなり流布していたマルコ福音書も入手していたことでしょう。そのような伝承、すなわちイエス伝承(語録資料Qも含む)と各地の集会の伝承を集めていました。そして晩年は師であるパウロの活動の拠点であり、パウロの手紙や活動の伝承をもっとも多く保有しているエフェソに定住して、その二部作の著述に励んだと推察されます。ルカの墓はエフェソにあります。
最初に見たように、パウロによって宣べ伝えられた福音によってキリストを信じて形成された福音共同体も、キリストとしてのイエスが語った教えの言葉を聞きたいという願いは強かったと考えられます。ルカはその願いに応えて、手元に集めたイエスに関わる伝承を集成して福音書を著述します。ルカは直接イエスの働きを見たりイエスの言葉を聞いたことはありません。しかしルカはすでに「福音」の書であると主張するマルコ福音書を持っています。それに「語録資料Q」をはじめ、各地に伝えられていたイエス伝承を多く集めています。ルカはそれらの伝承を集めて統合し、ヘレニズム世界に福音を告知する一つの書を書きます。それが原初の形態のルカ福音書です。それは、現在新約聖書に収められている「ルカ福音書」とは少し違った形であるので「原初の形態の」という説明をつけることになります。この福音書を便宜上「初版ルカ福音書」と呼んで、現在新約聖書に収められている形の正典のルカ福音書と区別して扱います。

初版ルカ福音書

この初版ルカ福音書は、正典福音書の三章一節の「皇帝ティベリウスの治世の第一五年」から始まり、二四章の空の墓の記事で終わっていたと見られます。二章までの誕生物語と二四章(一三節以下)の復活したイエスの顕現物語は、使徒言行録が書かれて二部作としてテオフィロに献呈されるときに加えられたものと考えられます(ルカ一・一〜四、使徒一・一〜二)。増補されたと見られる冒頭二章と終章との間の本体部でも、初版と現行の正典版とでは違いが想定されますが、その違いはすぐ後の項で見ることになるマルキオン聖書との比較から推定されることになります。しかしその違いは比較的小さく、ルカ福音書の基本的な内容と性格は変わらないので、ここでは(その違いも考慮に入れながら)現行のルカ福音書の本体部から、ルカが提示するイエス・キリストの福音の内容を見ておきたいと思います。
マルコ福音書はユダヤ戦争の前後に成立し、十二使徒を代表するペトロが伝えたイエス伝承を記録している文書として尊重され流布していたと考えられ、ルカもこのマルコ福音書の写しを手元に置いていたと想像されます。事実、ルカ福音書はマルコ福音書の構成に従ってイエスの生涯を描いています。すなわち、1 ガリラヤにおける「神の国」告知の働き、2 エルサレムへの旅、 3 エルサレムにおける受難と復活 という三部構成です。この三部の中で第一部のガリラヤでのイエスの働きと、第三部のエルサレムでの受難と復活の記事ではほぼマルコに従いながら、「ルカの旅行記」と呼ばれる第二部では大きくマルコから離れ、マルコにはない材料(「語録資料Q」やルカの特殊資料)を用いて、ルカが自由に自分の物語を語ることができる一種の物語空間にしています。第一部と第三部では、ルカはマルコの記事をそのまま用いていることからマルコへの依存が推察されますが、一方マルコでは重複している記事を大きく削除して簡明にするなど、歴史家として記述に努めていることも感じられます。
同じくマルコに依拠していながら、マタイがユダヤ教の中にいるユダヤ人に向かって書いているのと違い、ルカはエーゲ海地域を中心とする地中海世界の異邦人(非ユダヤ教徒)に向かって書いているので、ユダヤ教律法の扱いはマタイとは大きく変わっています。その詳細は講解に譲りますが、一つだけ目立った違いを取り上げておきます。マルコ(六・一〜六)は、イエスが故郷のナザレの会堂で福音を語られたとき故郷の人々はイエスを信じなかったという出来事を、ガリラヤでの働きの最後の時期に置いて、簡単に事実を伝えています。マタイ(一三・五三〜五八)も同じです。ところがルカ(四・一六〜三〇)はそれをガリラヤでのイエスの働きの最初に置いて、イエスの「神の国」告知の綱領的な宣言の場にしています。イエスはナザレの会堂で預言者イザヤの書を引用して、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されます。自分たちの中で育った一人のユダヤ人が神の救済を成就実現するのだという宣言にユダヤ人聴衆は大いに驚きますが、イエスが福音は信じないユダヤ人ではなく信じる異邦人の寡婦や将軍に向かうことを語り出されたとき、ユダヤ人の驚きは怒りに変わり、イエスを石打にして殺そうとします。この記事は、福音がユダヤ人によって拒否されたので異邦人に向かうことが神のご計画であるというルカの主張を、イエスご自身がその福音告知の最初から宣言しておられるとするためであると言えます。キリストとしてのイエスを拒否したユダヤ人は神の救済史の計画から排除され、今は「異邦人の時代」(ルカ二一・二四)が始まっているとするルカの基本的な主張がイエス自身の宣言として、その活動の最初に置かれているのです。

罪の赦しの福音

ナザレの会堂でのイエスの宣言(ルカ四・一八〜一九)で、イエスは福音を解放とか自由というイザヤの用語で語っておられますが、この用語はギリシア語七十人訳聖書では《アフェシス》という語が用いられています(詳しくは拙著『福音の史的展開U』487頁の「イザヤ書における《アフェシス》」の項を参照)。ルカはこの《アフェシス》を福音の中心に置いています。そのことは、復活されたイエスが弟子たちに福音を宣べ伝えることを命じられたとする記事で、キリストの十字架と復活の結果として与えられる恩恵の内容が「罪の《アフェシス》」とされていることからも確認できます(ルカ二四・四四〜四八)。
「罪の《アフェシス》」という場合の《アフェシス》は「赦し」と訳される語で、この「罪の赦し」はコロサイ書(一・一四)やエフェソ書(一・七)で福音を要約する位置で用いられている語です。先に見たように、この両書で「罪の赦し」という用語が福音の中心的な位置を占めるようになったのは、パウロ的な聖霊による解放とか変容という霊的な表現よりも、この用語の方がヘレニズム世界では一般的で理解されやすかったからであると考えられます。パウロはこの《アフェシス》という語を、救いを語るときには用いていません。この語はもともと罪の責任を見逃して放免するという意味で用いられ、ユダヤ教では「ヨベルの年」の規定(レビ記二五章)に関して用いられました。その年にはすべての負債が帳消しになり、負債のために奴隷となっていた者は放免されました。この規定は法廷的なものであるため理解しやすかったのか、ルカもヘレニズム世界の異邦人に福音を語る際にこの用語を中心に置きます。この点でルカはコロサイ書やエフェソ書の延長上にいると言えます。このようにルカにおいては、イエスは「罪の赦し」の福音を与える活動をされることになります。とくにルカだけにある独自の記事では、イエスの働きについては「罪の赦し」が主題になるものが多くなります。典型的な例は、涙でイエスの足を濡らし髪の毛で拭った「罪の女」の記事です(七・三六〜五〇)。このことが後の教会史において「贖い」の概念が正確に理解されないで、法廷的な無罪放免という意味になり、パウロのような霊的な解放とか変容の意味が見失われていった遠因になったのかもしれません。

ルカ福音書における復活と十字架

初版のルカ福音書はマルコ福音書に依拠していて、洗礼者ヨハネの活動から始まり空の墓の記事で終わっており、復活されたイエスの顕現はガリラヤでのイエスの働きの中に織り込まれていました。その典型的なケースである湖上での顕現(マルコ六・四五〜五一)がルカ福音書で省略されていることが問題になりますが、多くの顕現物語の伝承を持っているルカが、空の墓の後で用いるつもりで(事実正典の福音書では用いています)、このあまりにも人間離れした記事を省略した可能性も考えられます。ただ復活されたイエスがガリラヤ湖での漁に戻っていたペトロたちに現れて召されたマルコ(一・一六〜二〇)の記事は、ルカ(五・一〜一一)ではペトロの召命としてさらに詳しく描かれています。ルカは読者がイエスの裁判の時にペトロが三度までイエスを否認した事実を知っていることを前提にして、裏切り者をも証人として召すイエスの恩恵の大きさを語っているのでしょう。
地上のイエスの働きを記述するときに、ルカはしばしばイエスを「主」 と呼んでいます。この《キュリオス》という呼びかけは、目上の話し相手を尊敬して、とくに女性が男性に呼びかけるときに使う日常会話の用語であり、ルカでも他の福音書でも多く使われています。しかしルカでは、イエスに対して神または神と等しい方に対する呼びかけの「主」という意味で用いられている場合があります。たとえばルカだけにある記事で、イエスがナインで死んだ息子を生き返らせる奇跡をなされた時、ルカ(七・一三)はこの場面の主語に《キュリオス》を用いています。また七二人を派遣される記事もその主語は《キュリオス》です(一〇・一)。帰ってきた弟子たちにもイエスに向かって「主よ」と《キュリオス》を使って呼びかけています。また不正な管理人のたとえで(これもルカだけの記事)、この不正な管理人を褒めた《キュリオス》(一六・八)は、雇い主である主人ではなく、弟子たちにたとえの奥義を示す復活の《キュリオス》と理解できます。ルカは復活されたイエスを《キュリオス》と呼ぶ福音共同体の中で書いているので、その《キュリオス》という共同体での呼び方が地上のイエスの働きを語る福音書で自然に出てくることになると見ることができます。
イエスの十字架の記述においてもルカの特色が出てきます。ルカのイエスは罪を赦すイエスでした。そのイエスは十字架の上でも罪を赦す者としてのご自分を貫かれます。十字架の上で最初に発せられたお言葉は、自分を十字架につけた者たちへの赦しの言葉であり(二三・三四)、続いて一緒に十字架につけられた者の一人に赦しを告げられたお言葉でした(二三・四三)。そして重要なことは、最後に発せられた叫びが、マルコ(一五・三四)の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」ではなく、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」になっていることです(二三・四六)。マルコでは人の罪を自分に背負って神から見放される苦悩を味わうイエスが描かれていますが、ルカのイエスは自分の死を神のみ旨として受け入れ、自分のすべてを神に委ねる殉教者の死のように描かれています。ルカはそれまでの生涯で、ステファノやヨハネの兄弟のヤコブや主の兄弟のヤコブなど多くの殉教者の死を見てきました。イエスの死も彼ら殉教者の死を描くように描かれたのでしょうか。確かにルカ福音書においても、最後の晩餐の記事に見られるように、イエスの死が贖罪の死であることは語られています。しかし総じてルカの受難物語は、エルサレムに入る直前に「ヤコブとヨハネの願い」に関して伝えられているマルコ(一〇・三五〜四五)の記事を省略して、あの重要な「人の子は多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」というお言葉(マルコ一〇・四五)を欠いていることに見られるように、最初期の共同体に見られるような、キリストは「わたしたちの罪のために」死なれたという強調点が弱くなっているという印象を受けます。

ルカにおける終末論と救済史

使徒時代の最初期の福音共同体が熱烈に待ち望んだキリストの《パルーシア》(来臨)は、エルサレム神殿が壊滅した後も起こりませんでした。イエスが神殿の崩壊に重ねて語られた「人の子」の到来(マルコ福音書一三章とその並行箇所)は、ユダヤ教徒にとって現在の世界秩序の崩壊とも感じられる神殿の破壊の後も起こりませんでした。七〇年のエルサレム神殿の崩壊は福音共同体にとっても、時代を画す事件でした。パウロも神殿の存在を前提にして異邦人の救いを語っているように見受けられます。この出来事の後でキリストの福音を告げ知らせる者は、来臨遅延の疑問に対処し、神殿のない時代における福音共同体の希望を語らなければなりませんでした。異邦人を主体とする福音共同体は、これから何百年とも知れない長い時代を歩む覚悟をしなければならない状況です。ルカはこのような時代を生き抜いた人です。六〇年代にパウロと旅を共にして最後までその労苦を共にし、神殿崩壊後の数十年を、おそらく二世紀初頭まで生きて各地を旅行し、その時代の福音活動の全体を見てきた人物です。そのルカが各地で集めたイエス伝承をまとめて福音書を書いたのです。そこにはルカの終末観とキリストにおける救済の新しい理解が滲み出てくるのは当然です。
ルカは歴史家として各地で集めた伝承を忠実にその福音書に保存しています。イエスの生涯とその言動についてはマルコに依存していますが、マルコは知らない「語録資料Q」や独自の資料を駆使して、その福音書を構成しています。第一部のガリラヤでの「神の国」告知の働きと、第三部のエルサレムでの受難についてはほぼマルコに従って記述していますが、第二部の「ルカの旅行記」においては独自の資料を駆使して、自分の福音理解を表現しています。その中にルカだけに出てくる多くの「たとえ」があります。出てくる順に標題をあげると、善いサマリア人、愚かな金持ち、実のないイチジク、客と招待する人、見失った羊、無くした銀貨、放蕩息子、不正な管理人、金持ちとラザロ、無益な僕、やもめと裁判官、ファリサイ派と徴税人、ムナのたとえなどがあります。まさにたとえの宝庫であり、それらがなければ福音書がどれほど寂しいものになるかを思うと、ルカの功績を実感します。
しかしルカの功績は、イエスのたとえなどの多彩な素材の提供だけでなく、その時代の福音共同体に新しい終末観と救済史理解を与えたことにあります。ルカは第三部で「小黙示録」と呼ばれるマルコ福音書一三章を忠実に伝えて、キリストの来臨がいつあっても良いように備えるように説く使徒の伝承を保持していますが、第二部の一七章(二〇〜三七節)ではそれとは別の一面を見せ、ユダヤ教黙示思想的な終末待望を克服しようとしています。それは「神の国はいつ来るのか」という問いにイエスが答えられるという形で出てきます(一七・二〇)。イエスの答えは「実に、神の国はあなたがたの中にあるのだ」です。ここで問題となるのは「あなたがた」という複数名詞の前に置かれて前置詞として用いられている《エントス》という語(本来は内側に、中にという意味の副詞)の意味です。質問したファリサイ派のユダヤ人はイエスの「神の国」の告知を拒否しているのですから、「神の国」がファリサイ派の人たちの中にあるというのは論外です。それで、「神の国」は人間の内側にある(within you)と理解することは、「神の国」を人間の内面の出来事だけに限定するもので、イエスの「神の国」告知の基本的性格とは違うとして退け、この語を「の間に」(among)と解して、今やファリサイ派を含むユダヤ人の只中に現れたイエスに「神の国」が来ていると言っておられるとする解釈が出てきます。古い訳は内側に(within) 、新しい訳は間に(among)とする傾向があるようです。
わたしはここで、ルカが聴衆または読者に向かって「神の国はあなたがたの中にある(来ている)」と言おうとしているのだと理解しています。現にキリスト信仰によって新しい命、来るべき世の命に生きている「あなたがたエクレシア(福音共同体)の中に」、イエスが告知された「神の国」、使徒たちが宣べ伝えたキリストの現実がすでに来ているのだ、と言っているのです。「神の国」は見える形で来るもの、歴史的な出来事として起こるものではありません。黙示録の「千年王国」信奉者は、「神の国」を見える形で到来するものとして誤りました。今この地上で召し集められた福音共同体の中に、イエスが告知された「神の国」、使徒たちが宣べ伝えた「キリスト」、すなわち「恩恵の支配」が実現しているのです。キリスト共同体がなすべきことは、歴史的な出来事を「神の国」の実現として追求したり待望することではなく、自分たちの中に実現している「神の恩恵の支配」を証言することです。このように、ルカは一方で黙示思想的な終末待望を保持しながら、そのアンティテーゼとして、すでにエクレシア(福音共同体)に到来しているキリスト、実現している「神の恩恵の支配」を証言するように求めて、両者のバランスを取っています。後に続くキリスト教会は、このルカの路線を歩むことになります。

ここで取り上げたルカ福音書一七章二〇節の問題について詳しくは、拙著『ルカ福音書講解U』三二五頁以下の「キリスト来臨の問題」の項を参照してください。

マルキオン聖書出現の衝撃

先にエフェソ書を扱った項で、パウロ書簡の集成がエフェソで行われたことを述べましたが、この書簡集は一世紀末にはほぼ出来上がっていて、パウロ系の諸集会で信仰の指針として用いられていたと考えられます。ただし「牧会書簡」と呼ばれるテモテ書のTとU、テトス書の三書簡は二世紀に入ってかなり経ってからの成立であり、一世紀末に流布していたパウロ書簡集は、現在の正典にパウロの名で収められている一三書簡から牧会三書簡を除いた一〇書簡でした。この十書簡のパウロ書簡集とルカが集成した初版のルカ福音書が、エフェソを中心とするエーゲ海地域のパウロ系諸集会で、キリスト信仰が準拠すべき基準として尊重されていました。 しかしそれらの文書は聖書という権威ある啓示の書ではなく、当時の福音共同体で聖書といえば、七十人訳ギリシア語聖書を指していました。イエスや使徒たちが、そしてパウロ自身も神からの啓示の書として尊重していたヘブライ語聖書(旧約聖書)のギリシア語訳です。その聖書の理解の仕方、解釈の指針として福音書や使徒の書簡が尊ばれていたのです。
ところがその頃、一世紀末から二世紀にかけて地中海世界に散在する福音共同体に、その一致を脅かす大きな事件が起こります。それはマルキオンに率いられる一派が、それまでキリスト信仰の民の中で啓示の書として尊ばれていた聖書(七十人訳ギリシア語旧約聖書)を権威ある信仰の基準として受け入れることを拒否して、代わりに当時エーゲ海地域に流布していた初版ルカ福音書とパウロ十書簡集を信仰の基準として、自分たちの聖書としたのです。マルキオンは小アジア北岸、黒海に面した港町シノペの富裕な船主で、ローマに出てそこの福音共同体に多額の献金をし、有力な一員として活動していましたが、当時のローマ集会の信仰の質を批判したために、集会の長老会議で断罪されて追放されます。しかしマルキオンは自分の信仰を曲げることなく伝道して、地中海世界の各地に自派の集会を形成し、その集会に七十人訳ギリシア語旧約聖書に代えて別の「聖書」を与えたのです。その聖書を仮に「マルキオン聖書」と呼んで話を進めますが、この聖書は実際に文書として発見されたものではなく、彼を批判したローマ教会側の指導者たちの文書からその内容を推察した仮説上の文書です。ローマ教会は異端としたマルキオンの文書を徹底的に廃棄したので、マルキオンの著作やマルキオン聖書は何も残っていません。
マルキオンは若き日にパウロ書簡集に接し、パウロの「信仰による義」に深く打たれ、熱烈なパウロ主義者になります。彼の信仰から見れば、当時のローマ集会や一般の集会の信仰は、パウロの恩恵と信仰だけを救いの根拠とすることから離れ、律法順守を強調する道徳主義的になる傾向を見せていたのでしょう。ローマ集会の長老会議に呼び出されて尋問されたマルキオンは、「だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない」というイエスの言葉を引用して、福音という新しい命を古いユダヤ教律法の容器に入れてはならない、と自説を主張してローマ集会から追放されることになります。ドイツのプロテスタント神学者のハルナックは、この時のマルキオンをローマカトリック教会の信仰を批判して追放されたルターを思い起こさせる改革者として高く評価しています。実は現代のマルキオン研究はハルナックのマルキオン研究書から出発するのです。ハルナックはマルキオンを古代教会の偉大な文献批評家であり神学者として評価し、マルキオンの研究書『見知らぬ神の福音』(一九二一年)を出して、マルキオン出現の意義を世に問いました。マルキオンは、それまで知られていたユダヤ教の神、律法を与え律法によって裁く義の神に代わって、イエスはそれまでは知られていなかった愛の神、無条件に赦しを与える愛の神を告知したとして、福音とユダヤ教の対比を強調しました。その結果、義の神の啓示である旧約聖書を拒否して、愛の神を啓示したイエスとそのイエスをキリストとして告知するパウロの福音を語る文書、すなわち福音書(初版ルカ福音書)とパウロ書簡を聖書として、自分に従う福音共同体に与えたのです。それに旧約聖書の神は、イエスの父である愛の神を信じる者がとうてい認めることができない残忍な命令も与える神であるとして、旧約聖書を退けたのです。
その結果、ユダヤ教をきっぱりと超えたパウロをキリストの使徒とし、なおユダヤ教の枠を残すペトロたち十二使徒は福音を十分理解していない者、パウロに対立した批判者と見ることになります。その結果、マルキオンはパウロ書簡に見られるユダヤ教的な表現をその校訂作業で取り除き、初版のルカ福音書にあるユダヤ教的な部分を削除して、彼の主張に沿う聖書を作り上げます。このようなマルキオンの主張とマルキオン聖書の出現を、当時形成されつつあった公同の福音共同体にとっての危機と感じたルカは、自分が正しいと信じる使徒たちの伝承に従って、範例とすべき福音共同体の歴史として「使徒言行録」を著し、その際に初版の福音書に自分の主張を盛り込んだ増補部(おもに冒頭の誕生物語と最後の復活のイエスの顕現物語)を加えて、これが正しい使徒伝承だとして、ローマの高官テオフィロに献呈します(ルカ一・一〜四、使徒一・一-二)。この時のルカの二部作、すなわち使徒言行録とその際に増補改定されたルカ福音書が、現在の新約聖書正典に入れられることになります。この使徒言行録と増補改訂版のルカ福音書の成立は、二世紀初頭、おそらく一二〇年代と考えられます。
ルカがマルキオンに対抗して強く主張した点は二つあります。一つはイエスの出来事、キリストの福音の告知はすべて聖書(旧約聖書)の成就であるということ、従って旧約聖書もイエスの神の啓示として受け入れるべきであるということです。もう一つは、ペトロに代表される十二使徒やエルサレム共同体を指導したパレスチナ・ユダヤ人の共同体と、異邦人への使徒として召されたパウロとの間には対立や紛争は何もなく、美しい一致があったという主張です。実際にはパウロはこの問題に苦しむのですが、ルカの著作、とくに使徒言行録には初期の福音共同体の一致が美しく描かれています。このルカの動機を理解すると、使徒言行録の多くの謎が解けます。たとえばパウロが無割礼の福音を認められたあの「エルサレム会議」で求められたエルサレム共同体への献金(ガラテヤ二・一〇)の事業は、その後のパウロの活動で重要な位置を占め、いわゆる第三次伝道旅行はパウロが建てた異邦人諸集会からその献金を集める旅となり、「献金の書」と呼ばれるコリント第二書簡の八章や九章を読めばその苦労が偲ばれます。最後にパウロはローマを経由してイスパニアに向かう西への伝道旅行より、この献金を届けるためにエルサレムに向かう旅を優先してエルサレムに行ったために、そこで逮捕され殉教することになります。このように、パウロが文字通り命懸けで取り組んだエルサレム共同体への献金事業が、使徒言行録では見事に欠落しています。これは使徒言行録の最大の謎の一つですが、パウロとエルサレム共同体の美しい一致を描こうとしたルカが、この献金が受け取りを拒否されたことを知っていて、この献金問題全体を記述することを避けたとすると謎が解けます。

ルカ二部作の成立の経緯については、拙著『福音の史的展開U』の第八章第一節「ルカ二部作成立の状況と経緯」にやや詳しく書きましたので、それを参照してください。マルキオン聖書は、ルカ福音書からユダヤ教的な要素を削除した福音書と、パウロ書簡を校訂する際に親ユダヤ教的表現を取り除いたパウロ書簡集の二部で構成されています。マルキオン聖書の出現が後に教会が新約聖書の正典を結集しようとする刺激となり、マルキオン聖書の福音書と使徒書簡という二部構成が、教会が新約聖書正典を決定する際の構成原理となります。マルキオンの福音書は、当時小アジアの諸集会に流布していた初版のルカ福音書からユダヤ教的要素を削除したものですから、その削除を推定してマルキオン福音書を復元しようとする試みがなされてきました。前述のハルナックの著書もそれをしていますが、その推定も多くの問題を残しています。初版ルカ福音書とマルキオン福音書と正典版ルカ福音書の三者の比較は、多くの問題を残したままです。

使徒言行録の成立とその主張

ルカの使徒言行録は最初期の福音共同体の歴史を記録した唯一の書ですが、その成立の時期については諸説があり、論争が続いています。大別すると、1 パウロの殉教(六二年)前後(早期説)、2 ルカ福音書と同じ八〇年代または九〇年代(通説) 3 マルキオン出現以後のおそらく一二〇年代(後期説) の三つに分かれます。わたしも当初は通説に従って問題はないとしていましたが、現在はマルキオンとの関係を視野に入れて、使徒言行録の成立を一二〇年代とする後期説を取るようになっています。ルカはパウロの弟子であり、マルキオンも熱烈なパウロ主義者ですが、ルカは行き過ぎたマルキオンに対抗して、福音共同体のキリスト信仰を(ルカから見て)健全な聖書信仰に取り戻そうとして使徒言行録を書き、初版の福音書のマルキオンによる削除を修正した増補改訂版を出すことになります。
ルカは歴史家として福音共同体に関係する地域を広く旅行し、各地の伝承を集めています。福音発祥の地であるパレスチナやシリアも滞在してイエスとイエスが選ばれた使徒たちの伝承を集めています。その全体から見ると、マルキオンがパウロのユダヤ教律法の実行ではなくキリスト信仰だけで神の民とされるという「信仰義認」の主張をあまりにも一方的に強調して、聖書(旧約聖書)を切り捨てるのは誤りであるとして、異邦人への使徒として尊敬するパウロと、イエスが選ばれたパレスチナ・ユダヤ人の十二使徒たちの一致を強調した歴史を書くことになります。それが使徒言行録です。ルカはイエスが選ばれた十二人だけを使徒と呼び、(ごく僅かの例外を除き)パウロやバルナバさえも使徒とは呼んでいません。その使徒たちの指導の下にあるパレスチナ・ユダヤ人のエルサレム共同体とパウロがその無割礼の福音によって形成した異邦人諸集会は、同じ福音共同体に属し、その間には、すなわちユダヤ教内キリスト信仰とユダヤ教外キリスト信仰の間には美しい一致があることを主張するために、ルカは使徒言行録を著します。
使徒言行録の前半の主人公はペトロです。ペトロはイエスが選ばれた十二弟子の筆頭者であり、いつも十二使徒を代表して行動しています。ペンテコステの日に聖霊の力によってイエスの復活を証言したのはペトロです。コルネリウス一族に福音を伝え、エクレシアに受け入れたことを詳しく報告して、異邦人に福音を伝える働きの扉を最初に開いたのはペトロであることをルカは強調しています(使徒一〇章)。異邦人と食事を共にしてユダヤ教律法の規定に背いたことを非難したエルサレム共同体の長老会議で、ペトロはパウロが主張していることをそのまま語っています(使徒一一・一〜一八)。一方、使徒言行録後半の主人公はパウロであり、ルカは後半ではほとんどパウロ一人に集中しています。パウロの福音告知の内容を代表する箇所は、ピシディアのアンティオキアの会堂で行った説教ですが(使徒一三章)、確かに最後でモーセ律法では義とされず、信仰によって義とされるというパウロの告知がそのまま出てきていますが(一三・三八〜三九)、その全体はキリストの出来事は聖書の成就であるというユダヤ教内キリスト信仰の人たち(その代表者がペトロです)の主張そのものです。基本的に使徒言行録の福音告知はルカの筆によるものですが、そこではペトロもパウロも同じような主張をしています。
そして二人の働きも並行関係で記述されています。ペトロが多くの病人をいやしたように(五・一二〜一六)、パウロも多くの病人をいやしました(一九・一一〜一二)。ペトロは神殿で歩けない男を立たせましたが(三・一〜一〇)、パウロもリストラで同じ奇跡を行っています(一四・八〜一八)。ペトロは死んだ人を生き返らせていますが(九・三六〜四三)、パウロにも同じことが報告されています(二〇・七〜一二)。ペトロは獄から天使の手で救い出されますが(一二・六〜一九)、パウロもフィリピで神の不思議な力で獄から救われたことが詳しく伝えられています(一六・一六〜四〇)。ルカはこのように二人の働きが同じ神の働きによるものであることを印象づけて、ペトロとパウロが宣べ伝える神が同じであり、二人が同じ神の福音を告知していることを、この使徒言行録で語っています。
ルカはその晩年にはエフェソに定住して著作活動に励んだようです。ルカの墓はエフェソにあります。エフェソはパウロの最終の活動拠点であり、パウロの書簡の多くはエフェソで書かれて収集され、エフェソでパウロ書簡集が成立します。そのエフェソで著作活動をしたパウロの弟子のルカが、パウロ書簡集を知らないはずはありません。そこでルカの著作とパウロ書簡集との関係が問題になります。ルカは福音活動が行われた各地を広く旅行し、「語録資料Q」をはじめ各地のイエス伝承を収集して、それを素材に福音書を書いています。その初版のルカ福音書はすでにマルキオンが利用しています。このパウロ主義者マルキオンの行き過ぎに対抗して、使徒言行録を著し、その際に初版の福音書を増補改定して現行の正典ルカ福音書にし、二部作としてテオフィロに献呈した時(おそらく二世紀初頭)、ルカの著作、とくに使徒言行録には、パウロの福音活動の一次資料であるパウロ書簡の内容との間に齟齬や矛盾があります。
たとえば、先に述べたエルサレム共同体への献金の問題は典型的なものです。パウロがあれほど熱心に取り組み、命を献げる結果となるエルサレム共同体への献金は、使徒言行録では全く無視されて、無かったもののようです。その他にも、パウロの無割礼の福音が認められた、あの重だったエルサレム共同体の働き人との会談を伝えるパウロの証言(ガラテヤ二・一〜二〇)は、ルカの使徒言行録(五・一〜二一)の記述では主の兄弟ヤコブが議長として裁断を下した使徒会議になっています。この他、ユダヤ教徒の信者と異邦人信者との食卓の交わりについての「使徒教令」の手紙をパウロ自身が異邦人共同体に持参したという使徒言行録(一五・二二〜三五)は、そのような教令の存在を知らなかったパウロ書簡の証言と食い違っています。
このようなパウロ書簡と使徒言行録の齟齬や矛盾は、使徒言行録の成立をパウロ殉教の時期に見る早期説では、ルカはパウロ書簡集を知らなかったと説明されますが、これは使徒言行録の成立状況からして問題になりません。事実最近の使徒言行録の研究は、十分ルカがパウロ書簡集を知っており、その内容や表現を用いていることを実証しています(たとえばヘルメネイア注解シリーズのPervo)。このような齟齬や矛盾は、使徒言行録の著述意図から理解できます。ルカはマルキオンに対抗するために使徒言行録を著しました。ルカは使徒言行録において、キリストの福音が聖書(旧約聖書)の成就であることを強調して、聖書を否定するマルキオンに対抗しています。パウロの信仰による義を強調するあまり、なおユダヤ教律法の枠の中にいるペトロたちとの対立を煽るマルキオンに対して、ルカは使徒言行録でパウロとペトロの一致を強調します。使徒言行録におけるパウロとペトロの描き方は先に見ました。両者はまったく同じように語り、同じような体験をしています。使徒言行録十五章のエルサレム会議の描き方と使徒教令のパウロによる伝達は、パウロの先鋭的なユダヤ教律法との対立を隠すことにもっとも巧みに成功した事例となります。エルサレム共同体との決裂をも意味しかねない献金問題は、使徒言行録では見事に無かったものとされています。

ルカ二部作出現の意義

ルカはすでに一世紀末までに各地のイエス伝承の大部分を集めて初版の福音書をエーゲ海地域のパウロ系諸集会にもたらしていましたが、ここで見たように二世紀に入って、マルキオンに対抗して使徒言行録を書き、初版の福音書を増補改訂して現行のルカ福音書とし、二部作としてテオフィロに献呈しました。七〇年のユダヤ戦争の前後にマルコ福音書が出て各地に流布し、一世紀末までにはシリアではマタイ福音書が書かれ、エーゲ海地域では初版のルカ福音書が福音書として知られるようになり、さらにエフェソを中心とする小アジアの諸集会にヨハネの名で霊的な福音書が流布するようになっていました。このような状況を見ますと、七〇年のエルサレム崩壊から一世紀末までのほぼ三〇年を「福音書の時代」と呼んでよいと考えられます。ルカ二部作の成立はむしろ「福音書の世紀」が終わり、地中海世界の福音共同体がマルキオンの出現によって新しい段階に入った二世紀になって成立したものと見てよいのではないかと考えられます。ルカ二部作の成立は、一世紀の福音共同体がカトリックな(公同的な)「教会」となって、ローマ世界に新しい宗教である「キリスト教」をもたらすことになった、新しい世紀の幕開けを告げるものではないかと考えます。
わたしはルカの仕事の意義を、一世紀の「福音書の時代」を締めくくり、二世紀の「キリスト教の成立」の時代を導入する連結器の役目を果たしているのではないかと見ています。それでわたしは、新約聖書時代の福音の進展を要約した前著『福音の史的展開』で、ルカの二部作を最後に置いています。確かにルカ二部作の以後に書かれた文書も新約聖書に入れられています。すなわち牧会書簡と呼ばれるテトス書、テモテ書のTとUの三書簡は、ルカ二部作よりさらに後の二世紀の三〇年代以降に成立したと見られます。牧会書簡はパウロの名で書かれていて、パウロの時代に置かれていますが、現代のほとんどの新約聖書研究者が認めているように、それらはパウロ名書簡であり、その成立は二世紀に入ってかなり経ってからとされています(ただしその文中にはパウロ自身の文も含んでいると見られるものもあります)。また内容も集会の制度の面に集中していて、キリストの福音の基本的な性格に触れるものでもないので、福音の証言という新約聖書の基本的で主要な文書の最後にルカの二部作を置くことも許されるでしょう。
ルカは福音書の時代を締めくくると共に、始まりつつある公同の教会(カトリック教会)のための線路を敷いたと言えるのではないかと思います。事実、二世紀のカトリック教会はルカの路線を進み、マルキオン派の勢力を克服して勝利します。マルキオン派の教会は一時、ルカの路線を行って正統派を名乗るカトリック教会と並ぶ勢力でしたが、時とともにグノーシス主義に向かい、結婚を禁じるなど不健全な方向に向かい、四世紀に入って歴史の舞台から消えて行きます。マルキオンが聖書(旧約聖書)を否定して、あまりにも急進的に福音をギリシア化したために、マルキオン派がグノーシス主義的な路線に陥ったのに対して、ルカの路線を行った福音共同体が、聖書の救済史的枠組みの中でキリストの福音を保持したことが力となり、勝利したのではないかと考えられます。こうしてルカの路線を行くカトリック教会が勝利し、ルカの二部作は正典に入れられますが、マルキオン派の文書は徹底的に排除され、地上から姿を消します。二世紀におけるカトリック教会の成立と、それによって「キリスト教」と呼ばれる新しい宗教が成立したことが、次節「宗教としてのキリスト教の成立とその問題」の主題となります。