市川喜一著作集 > 第23巻 福音と宗教T > 第13講

第二節 使徒パウロによるキリストの福音

はじめに

前節の「ユダヤ教の枠を超える福音」で見たように、イエスを復活したキリストとして告知する運動も、それがユダヤ教の枠の内に留まっている限り、それはユダヤ教への改宗運動であって、すべての民の救いの福音とはなりえません。その告知をユダヤ教の枠の外にまで宣べ伝える活動において初めて、復活されたイエスの告知が万民を救うキリストの告知となりうるのです。前節ではこの福音告知の運動を進めた人たちの代表者として、使徒パウロの働きを見ました。本節ではこの使徒パウロがこの福音をどのような内容のものとして提示したのかを見ることになります。

T パウロによる福音書 ― ローマ書

使徒パウロの福音提示の仕方

使徒パウロがユダヤ教の枠を超えてキリストの福音を諸国民に伝えた働きの概要は前節で見ましたが、その働きを見たり体験した弟子たちがそれを語り伝え、さらにそれをルカが一つの著述にまとめて「使徒言行録」の中でそれを書き残しました。とくに使徒言行録の後半はパウロの一人舞台になっています。その中ではパウロの働きだけでなく、その福音を告知したさいの言葉(説教とか演説)もまとめられて報告されています。しかし、そのさい報告者のルカの思想が色濃く滲んでいることも見ました。ルカの考えとか思想(神学思想)を知ることも重要な意味がありますが、ここでわれわれが知りたいのは使徒パウロが世界に告知したキリストの福音の内容です。幸い、パウロはその福音告知の活動の中で多くの手紙を書いています。その手紙はほとんどすべてが、自分が伝えているキリストの福音とはどういうものかという福音の提示と、その福音を受け入れている者たちは、その福音に従うにはどのように生きていけばよいかの問題に集中しています。それでわたしたちは、ルカが伝えてくれているパウロの教説などの言葉を参考にしながらも、おもにパウロの手紙の中の言葉に基づいて、パウロが世に伝えた福音の内容を知ることになります。
パウロは在世中に多くの手紙を書いたと思われますが、その中で七通の手紙が新約聖書に保存されて伝えられています。新約聖書にはパウロの名で書かれた十三通の手紙が保存されていますが、その中の六通はその弟子筋の人物がパウロ以後の時代に書いたものと推察されます。この六通の「パウロの名による手紙」も重要な意義をもつので、次節でやや詳しく見ますが、本節ではパウロ自らが書いた七通の手紙から、パウロが告知した福音の中身を探りたいと思っています。その七つとは、ほぼ年代順にあげると、テサロニケ第一、ガラテア書、コリント第一、コリント第二、フィリピ書、フィレモン書、ローマ書の七書簡です。この中で中程のガラテア書からフィレモン書の五書簡はエフェソ滞在中に書かれ、テサロニケ第一は少し前、ローマ書は少し後に書かれていますが、その写しはエフェソに保管され、エフェソがパウロの活動の最後の拠点基地となると同時に、パウロ書簡集の集積地となります。後にパウロの名によって書かれた三書簡(テサロニケ第二、コロサイ書、エフェソ書)も加えられ、一世紀の終わり頃に「パウロ十書簡集」が形成されて流布することになります。牧会書簡と呼ばれる三書簡(テトス書とテモテ第一、テモテ第二)は二世紀に入ってから書かれて新約聖書に加えられたものです。ただ、テモテ第二には最晩年のパウロ自身が書いた文が含まれ、パウロの真正書簡に数える説もあります。
パウロ自身が書いたことが確実な真正七書簡の中で、最後に書かれたローマ書がもっとも包括的で体系的にキリストの福音を提示していると見られます。もしキリストの福音を提示する書を福音書と呼ぶとすれば、パウロが福音活動の最後に書いたこのローマ書こそ「福音書」と呼ばれるのにもっともふさわしい書であり、第一福音書とか基礎福音書と呼んでもよい、とわたしは考えています。本節では、それまでの書簡に示されたパウロの言説を参照しながら、このローマ書に基づいてパウロが世界に告知したキリストの福音を提示してみたいと考えています。

本節ではパウロのローマ書に依拠して、パウロが宣べ伝えたキリストの福音をまとめることになり、その内容はローマ書の要約となります。
ローマ書の個々の内容の詳細については、拙著『パウロによる福音書 ー ローマ書講解T、U』を参照してください。

ローマ書の構成と主題

はじめにこのような福音提示の書がどのような構想で書かれたのか、その主題はどのように提示されているかを見ておきます。まずその全体を見渡すと、この書の本論部は大きく四つの部分に分かれているように思います。本論の前に主題を提示する導入の部分と、本論の後には今後の計画と個人的挨拶を含む結びを置いていますが、本論はほぼ同じ長さの四つの部分に区切られるようです。はじめに各部の主題を添えてその四部構成を見ておきましょう(以下の本節の論述で数字だけの引用はローマ書の章節を指し、テキストには拙著「ローマ書講解」の私訳を用います)。

一 信仰による義 ー 神の恩恵の場に入るための入口 一・一八〜五・一一
二 御霊による新しい命 ー 恩恵の場における、救いに至らせる神の働き 五・一二〜八・三九
三 イスラエルの民の救い ー 恩恵による選民イスラエルの民の扱い方 九・一〜一一・三六
四 実践的勧告 ー 恩恵の場に生きる者の社会生活の仕方 一二・一〜一五・一三

世界の諸国民にキリストの福音を告知した使徒パウロは、このような構想をもってその福音を語っている、とわたしは理解しています。その構想については後でやや詳しく触れることにして、その前にこのローマ書の主題を提示するパウロの宣言を聞いておきましょう。パウロは、ローマ帝国の一属州民として十字架刑に処せられて死んだイエスをキリストとして告知する福音を恥じないとその心情を述べたあと、その理由を次のように断言します。

 「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、すべて信じる者には、救いに至らせる神の力だからです」。
(ローマ一・一六)

わたしは、このパウロの福音の定義、「福音は神の力である」という定義ほど重要で基本的な定義は他にないと思います。神の力とは神の働きです。福音は人間の言葉で告知されます。しかし、それは単なる情報伝達の言葉ではありません。それを神の言葉として聞く者には、神からの人格的な語りかけの言葉となり、そのように聞く者を「救いに至らせる働き、力」となるのです(テサロニケT二・一三)。そこには聞く者の資格とか状況は何の関係もありません。男であろうが女であろうが、自由人であろうが奴隷であろうが、道徳的にどれだけ立派であろうがヤクザな者であろうが、関係ありません。その人間の資格の違いの典型としてパウロは「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが」という宗教的な違いをあげています。すなわち、ユダヤ教徒であろうが他の宗教の民であろうが関係はない、ということです(当時のユダヤ人はユダヤ教徒以外の民をギリシア人と総称していました)。ユダヤ教において立派な義人であろうが、どの宗教でどのように功績を認められていようが、無宗教であろうが関係ありません。この人間の側の違いには関係なく、全く無差別であることが福音の基本的な性格です。この無差別平等の神の働きの根拠として、使徒は次の節を続けます。

 「福音には神の義が現れており、信仰から始まり信仰へと至らせるのです。『義人は信仰によって生きる』と書かれているとおりです」(ローマ一・一七)。

原文では「というのは、それに神の義が現れているからである」という形で、この文が前節の根拠になっています。ただ、「それに」という語形が「その事柄(福音)において」と「その者(全て信じる者)において」の二つが同型になるために解釈が別れています。ルター以来「福音において」と解釈されてきましたが(わたしのローマ書講解もその訳)、「すべて信じる者において」という理解も可能です(久野晋良訳)。両方とも十分に成り立ちますが、それぞれの場合重点の置き所が変わってきます。両者の場合、現される「神の義」とはどういう事態であるのかが問われます。この問題は、ローマ書の講解がさらに進んだ段階で取り上げることにします。また、この表現の聖書的根拠を示す引用が、ユダヤ教律法学者らしい仕方でハバクク書(二・四)からなされています。

三楽章か四楽章か

このように福音を「救いに至らせる神の働き、神の力」と定義した上で、パウロはこの書でその神の力、神の働きとしての福音を部門別に提示していきます。そのさい、わたしはパウロの福音を先に区分したように四つの部門に分けて聞いていますが、欧米の神学では(そしてそれを受け継いだ日本でも)三つの部門に分けて聞いている場合が多いようです。音楽にたとえれば、壮大な交響曲を聞くのに、三楽章で聴くのか四楽章で聴くのかの違いです。わたしは四楽章で聴いていますが、ここでその理由を述べておきます。
ローマ書の中で、神による選民イスラエルの扱い方を論じる九章から一一章が一つの部門を占めること、および一二章以下がキリストにある者の実際的な生活の仕方を扱う独立した部門であることには、ほとんどの研究者の間で異論はありません。問題は一章から八章までの人間の救済を扱う箇所の扱い方です。これを一つの部門としてローマ書の使信を聞く人が多いのですが、わたしはそれを二つの部門に分けて聞いています。これを一つのまとまりとして聞く人は、音楽にたとえれば、ローマ書という大交響曲を三楽章で聴いていることになります。それに対してこれを二つの部門として聞く者はローマ書という交響曲を四楽章で聴いていることになります。この聴き方の違いは、どちらでもよいことではなく、パウロがローマ書で告知している福音の聞き方の違いをもたらします。
音楽家は一つの主題を聞かせるのに楽章毎に調性とかテンポを変えて提示します。ローマ書の主題は、先に四つの部門をあげた時に示したように、「恩恵」です。パウロはこの書でキリストにおける神の恩恵を提示しようとしています。パウロは恩恵《カリス》の使徒です。《カリス》は新約聖書の中でパウロ書簡にもっとも多く用いられています。この一つの主題を奏でるのに、パウロは四つの楽章でそれぞれの特性を示しています。もしこのそれぞれの特性をも主題というのであれば、その主題は第三部門ではイスラエルの救い、第四部門では実践的勧告とかになります。問題は一章から八章をひとまとまりとして聴く人は、その主題に「信仰義認」という名称をつけて、ローマ書の三章後半(二一〜二二節、またはそれ以降)をテーゼ(主題提示)として掲げます。わたしはこれを二つに分けて前半と後半を別の楽章として聴き、全体を四楽章で聴いています(その分け方については後述)。信仰義認という主題はあくまで前半の主題であり、後半は別の主題になっているという聞き方です。この聞き方については、次の項目「U 恩恵の場における神の働き」でやや詳しく見ることになります
ローマ書は口述筆記で書かれています(一六・二二)。ここにはパウロの肉声があります。書斎の机上で書かれた論文ではありません。ユダヤ教の会堂で、都市の市場で、アテネのアレオパゴスで、個人の家で、伝道者パウロが声をからし、汗を流して叫んできたキリストの福音を、まだ見ぬローマの信仰者たちに語りかけています。人間の悲惨な状況に沈痛な気分で始まった口調も、キリストにおいて示された神の恩恵を告知して、その救いの働きを説いていくうちに、自分の内に働く聖霊の力と喜びに溢れ、勝利の凱歌で終わるのが常だったでしょう。このローマ書にも伝道者パウロの魂の高揚を垣間見させる箇所があります。人間の救済を扱った八章までの全体に対してキリストにおける神の愛を賛美する賛歌(八・二一〜三九)、イスラエルの救済に示された限りない神の知恵への賛美(一一・三三〜三六)などはパウロの魂の高揚を示しています。では、第一部の終わりに来る高揚を示す部分はどこになるのでしょうか。わたしはこれを五章の一〜一一節に見ることができると思います。この部分でパウロは第一部で語った信仰による義の結果を要約した上で、第二部で語ろうとする復活されたキリストによる新しいいのちの世界への導入としています。この箇所はローマ書の一つの高揚である、とわたしは感じています。
このように四部に分けると、各部はほぼ同じ長さになり、これが一回の口述筆記で書ける量になるのかとも推察されます。音楽では調性やテンポの変化で楽章が変わったことを知りますが、ローマ書は文書ですから用いられている用語の変化を見る必要があります。第一部では信仰、信じる、義とされるという用語が繰り返され、明らかに信仰によって義とされることが主題になっています。ところが第二部ではこれらの用語は影を潜め、第一部にはほとんど出てこなかった《プニューマ》(霊、御霊)、《エン・クリストー》(キリストにあって)、《ゾーエー》(いのち)というような語が頻出します。第二部では「キリストにあって」という場に働く御霊のいのちが主題になっています。パウロが諸国民に告げ知らせたかったのはこのことであり、第一部はその恩恵の働く場に入るための入り口です。この二つの部分を一つとして扱う聞き方では、信仰による義を主題とするため、後半(ここで言う第二部)では解釈に無理が生じるようです。

U 恩恵の場における神の働き ー ローマ書の内容

第一部 信仰による義

   ー 恩恵の場に入るための入口 (一・十八〜五・一一)

a 人間の現実と宗教人の錯覚 一・一八〜二・一六

それでは四つの部門について各部の内容を概観しておきましょう。先に見たように、パウロは恩恵の使徒です。「キリストにあって」という場で、神が恩恵によってなされた大いなる救いの働きを世界に告げ知らせることを生涯の使命としていました。それで当然のことながら、まず最初にその恩恵の場に入るための道筋を語ることになります。その入り口が見つからず、または入り方を誤っているため、入れない人や入ろうとしない人が多いのです。
パウロは人間の現実から出発します。人間は神に背いています。それが人間の現実です(一・一八〜三二)。人間は自分の創造者である神との正しい関係にあってこそ、その存在と生命の意義を全うできる者であるのに、その創造者なる神に背いているのです。創造者なる神がいますことは、人間の生得的な認識によって知りうることであり、人間は神を知りながら神として崇めることをしない、すなわち知識ではなく意思によって背いているのだから、その不敬虔は弁解の余地がありません。この人間の不義に対しては神の拒否(怒り)が普遍的に(天から)現れている、とパウロは宣言します。そしてこの神の人間に対するNo(拒否)は、神が人間をその虚しい思いに引き渡して、人間がしてはならないことをするに任されたという事実に見られるとして、その典型としてまず人類に普遍的な偶像礼拝をあげ、次に男女の性関係の乱れをあげています。その後にあらゆる不義、邪悪、貪欲、非情、無慈悲等々の悪徳をあげています。その悪徳表は実際の行為よりも深く心情の悪を見ていることが目立ちます。
この人間の神への背きの告発は、明らかにユダヤ教の立場から異邦人の罪を告発する時の形をとっています。パウロはヘレニズム期のユダヤ教で成立した知恵文学(たとえば「ベン・シラの知恵」や「ソロモンの知恵」など)に親しんでおり、当時のユダヤ教徒が異教徒の偶像礼拝と性の乱れに対して持っていた強い嫌悪感を共有しています。しかし、パウロがただのユダヤ教徒と違う点は、異邦人の罪を告発したのと同じ原理でユダヤ人の罪を告発していることです(二・一〜二九)。最初はユダヤ教徒とは名指ししないで、「すべて人を裁く者よ」と呼びかけて、自分は聖なる宗教にいるのだから神との関係においては正しいのだとして、その地点から人間の罪を広く断罪している宗教人を法廷に呼び出します(二・一〜五)。一章の異邦人への告発に較べると、二章のユダヤ人に代表される宗教人に対する告発は、パウロの特色がよく発揮されていて精彩を放っています。この事実も、パウロがローマ書をユダヤ人読者を念頭に置いて書いていることをうかがわせます(ローマ書の読者についての議論は後述)。
最初にパウロは「神はその人のしたことに従って各人に報われる」という大前提をかかげます。これが「神の正しい裁き」です。どの宗教に属しているかに関係なく(神は差別しない)、善を行う者には栄光と誉と平和、永遠の命が与えられ、悪を行う者には神の怒りが注がれて患難と苦悩が下るのです(二・六〜一一)。そして神は差別しないことの実例として、パウロは律法を持っていることを誇りとしている民(まだ名前を出していませんがユダヤ人を指しています)も、律法を聴くだけでなくそれを行うことで義とされるのであり、逆に律法を持たない異邦人が、律法が求めるところを「自然に」行うならば(この意味の内容は議論されていますが後述)、自分自身が律法となり、神に受け入れられるのです。人間は宗教の錯覚に陥っていて、この事実は今は人の目に隠されています。しかし神がキリストによって全てを明るみに出される終わりの日には、はっきりと見えるようになります(二・一二〜一六)。
ここで「宗教の錯覚」と言ったのは、すべて宗教の場から他人を裁く人が陥っている錯覚です。自分は正しい宗教に所属しているのだから神に受け入れられている、とするのは錯覚です。世にはユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、神道など多くの宗教があります。自分が信奉してその儀礼などを実行している宗教は正しい宗教だから、自分は神に受け入れられていると考えるのは錯覚です。このような体制的な宗教の中にいる人がこの「宗教の錯覚」を免れることは難しいことです。そしてこの錯覚の中にある人は、この錯覚を暴露する人を憎み迫害するのが常です。彼らはその宗教の教義や儀礼などの諸規定に従ってそれを実行しておればそれで神の民であるとして、その諸規定の実行を絶対化して、その実行だけを他人に要求ないし強制します。ここに「宗教の倒錯」が生じます。本来人間の救済の結果から生じる宗教が救済の条件となる倒錯が生じます。イエスも、ユダヤ教でもっとも重要な宗教規定である安息日を取り上げて、ユダヤ教に生じているこの「宗教の倒錯」を厳しく指摘されました(マルコ二・二七)。

b ユダヤ人の錯覚 二・一七〜三・八

律法(すなわちユダヤ教という宗教)を持っていることを誇る宗教者の錯覚を指摘した上で、パウロはユダヤ人を名指して、その錯覚と倒錯を暴露します(二・一七〜二九)。ユダヤ人すなわちユダヤ教徒は、律法すなわちユダヤ教という神の啓示から出た宗教を拠り所とし、それに教えられていることを誇りとして、それを持たないで闇の中にいる異教徒たちの光であり導き手であると自負していながら、自分たちが裁いている異教徒と同じように盗みや姦淫などをしている事実を指摘します(二・一七〜二四)。そして自分たちは割礼を受けているユダヤ教徒として、異教徒を無割礼の者と軽蔑しながら、神が律法によって求めておられることに違反している以上、その割礼は無割礼と同じであり、逆に無割礼でありながら律法を満たしている者が真の割礼の者、すなわち神の民となるのだと論じています(二・二五〜二九)。
この議論でパウロは「御霊による心の割礼」という表現を使っています。無割礼の異教徒が、神が人間に求めるところを内から満たすということは、人間の奥底における聖霊の働きによって始めて可能になることであり、この実現は本来この書の第二部で扱う主題です。御霊という用語が第一部に現れるのはここだけです。しかしパウロはこの事実をユダヤ人に突きつけないではおれませんでした。パウロはこれまで長年異邦人に伝道し、多くの異邦人が無割礼のままキリストにあって神の求めを満たしている事実を見てきました。まさに無割礼のまま、すなわちユダヤ教徒でないままで、神の求めを満たしている異教徒が、割礼を誇るユダヤ人を裁いているのです。先にパウロが「自然に」神の求めを満たすと言ったのも、この事実を念頭に置いて語っていたことが考えられます。異邦人も奥底に「書かれていない律法」を持っているからこそ、御霊が働くとき律法の要求を満たすことができるのです。

c 罪の支配 三・九〜二〇

以上のようにユダヤ人も異邦人と同じ状況に置いて論じると、当然ユダヤ人から「では、ユダヤ人の優れた点は何か。また、割礼の益は何か」という抗議の声が上がります。これは宗教の中にいる者が、その宗教の優れた意義を否定されたと感じてあげる抗議を代表しています。そこでパウロはユダヤ教徒である特権を「まず第一に」といって、神の言葉が委ねられていることをあげます。九章(一〜五節)ではユダヤ教徒である特権を多く数え上げていますが、ここでは第一だけをあげて第二以下は続いていません。そして、その委ねられた神の言葉をユダヤ人が信じないからといって、神の言葉の信実が無効になるのではないと主張します。そしてパウロの主張を認めないユダヤ人は、パウロは「善を来たらせるために悪を行おうではないか」と主張しているとして、パウロを中傷しているだけだと言って彼らを退けます(三・一〜八)。この箇所に見られるように、パウロはユダヤ教をまったく無意味だと否定しているのではなく、その相対的な意義を認めています。ただ、ユダヤ人が自分の宗教を絶対化して、この宗教の中にいないと神の民になれないと主張していることに反論しているのです。
このように宗教からの反論を斥けて、パウロはこれまでの議論を総括して結論を述べます。「わたしたちは、ユダヤ人もギリシア人もすべて、罪の下にある、と告発しました」。この結論の部分(三・九〜二〇)に初めて「罪」という語が出てきます。すべての人間は罪の下にいるのです。ユダヤ教であれ他のどの宗教であれ、どの宗教に所属していてもこの事実は変わりません。ここにパウロの、そして福音の基本的な人間観があります。
ここで特に注意すべきことは、パウロが罪という言葉を用いるときは常に単数形であることです。通常、道徳や宗教で罪が問題にされるときは複数形で出てきます。それは、普通は道徳や宗教には順守すべき規定(道徳律や宗教的戒律)があって、その規定に違反する行為が罪とされるからです。そのような規定に違反する行為は、場合によって様々な形をとり、数多くの姿があります。それで、このような規定違反の行為を指す時は複数形で用いられます。わたしはこのような複数形の違反行為を指す時は、罪過とか罪科と訳し、パウロのように単数形で用いられる時には罪と訳しています。そして、この単数形の罪という語が使われる時は、ここで「罪の下にいる(存在している)」(三・九直訳)と使われているように、罪は個々の行為ではなく、人の存在全体を支配下に置く支配力なのです。パウロが罪という語を複数形で用いるのは、ユダヤ教などの表現を引用するような場合に限られています(たとえばコリントT一五・三)。パウロ自身は罪という語をローマ書でよく(とくに一〜八章で四八回も)使っていますが、それはみな単数形です。パウロの手紙を読む時は、この語またはその動詞形や形容詞形の意味合いに注意しなければなりません。
パウロは「人はすべて罪の支配下にある」と結論した後、その事実を語る聖書の言葉を数多く引用します(三・一〇〜一八)。これらの聖書の言葉はすべて聖書を神の言葉と信じているユダヤ人に向って書かれているのだから、ユダヤ人こそ第一に自分が罪の下にいることを認めるべきであると言っているのです。そして「律法(宗教)の実行によっては、だれ一人神の前で義とされない」と結論した上で、神に義とされる新しい道、律法(宗教)とは別の道を提示します。

d 宗教とは別に現された義 三・二一〜四・二五

「しかし今や」、この一句で舞台は転換します。この「今」は復活されたイエスがキリストとして告知されている今です。この告知を回転軸として舞台は一転します(この転換点となるのはキリストの復活であることについてはコリントT一五・二〇に用いられている「しかし今や」を参照)。これまでの舞台では、人間はすべて罪の支配下にあって、神の否が突きつけられ、苦悩と悲惨が支配し、宗教によってはだれも神との正しい関係に入れないという札が掲げられていました。しかし今はキリストの福音が告知されて、「律法(宗教)とは関係なく、それとは別に神の義が示された」のです。ここでパウロが言う「神の義」とは、神との正しい関わり方、神に受け入れられる人間の在り方です。今や舞台は一転して、神の民が平和の中で、神の栄光に参与する道が開かれたのです。ユダヤ教を含め諸々の宗教とは関係なく、神に受け入れられて、神の子、神の民として生きる道が開かれたのです。この事実が第一部の主題となり、三章二一節で宣言され、それ以下の諸節で詳説されることになります。

この部分(三・二一〜三一)で留意すべき点を数箇所あげておきます。この第一部のテーゼを提示する箇所でもっとも重要で第一の中心になるのは、神とのあるべき関わりに入る「律法(ユダヤ教)とは別」の道として、「イエス・キリストの信仰」が挙げられていることです(二二節)。ところがここでパウロが「イエス・キリストの信仰」と言っている表現の意味内容が問題です。これはパウロの《ピスティス・イエスゥ・クリストゥ》の直訳ですが、この「イエス・キリストの」という所有格を信仰の対象を示していると理解して、「イエス・キリストを信じる信仰」とか「イエス・キリストへの信仰」と訳されることが多いようです。日本語聖書もほとんどすべてがこう訳しています。神学界ではこの所有格を主格的に理解して「イエス・キリストがもつ誠実・信実」とか「イエス・キリストを通して顕れた神の信実」(バルト)という理解もあって争われています。これは文法的に決められることではなく、パウロの実際の用例全体から理解すべき問題です。パウロはこの信仰を「キリストの信仰」と呼ぶことが多く、時には「信仰」とだけ言うこともあります(二八節)。パウロの用例の全体から、また自分の個人的な体験から、わたしはこの「キリストの信仰」という形を、キリストとの全人的な関わりにおける信仰、キリストに合わせられているわたしの在り方の全体と理解しています。パウロがしばしば「キリストにあって」と言っている事態と同じです。わたしは、このように「キリストにあって」生きている者の在り方全体を「キリスト信仰」と呼んでいます。パウロの「キリストの信仰」を日本語で「キリスト信仰」と呼ぶことになります。第一部の主題である「信仰による義」は、このような意味における信仰が神との正しい関わりに入り、罪の支配を脱して神の栄光にあずかる道、入口であることを説いています。

第二は、この信仰による義という入り口が与えられているのも、神の恩恵による賜物だということです。先にパウロは恩恵《カリス》の使徒だと言いました。神がどのように恩恵の場で人間やその民を救う働きをされるのかは第二部以下で述べますが、その恩恵の場に入るのも恩恵によるのです。恩恵を恩恵として無条件に受け入れるのが信仰ですから、福音の事態はまさに「信仰から始まり、信仰に至らせる」のです。パウロは二一〜二二節で、人は律法(宗教)とは別に信仰によって義とされる(神との正しい関わり方に入る)のだというテーゼを掲げたすぐ後に、「人間はすべて罪(の支配)に陥ったので、神の栄光を失っており、ただ、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵み《カリス》により、無代価で義とされるのです」とその説明を加えています(二三〜二四節私訳)。ここの動詞は普通「罪を犯す」と訳されていますが、先に述べたパウロの罪の理解からして、規定違反の「罪過を犯す」ではなく、「罪の支配力に陥っている」と解すべきです。
その人間を義とされるのは「キリスト・イエスにある贖いによって」と言って、パウロは「贖い」という聖書的用語を使っています。この語は預言者が「人を贖う」との意味、すなわち捕虜や奴隷になった者を身代金などを払って解放することを指していました。この意味の贖いはとくに第二イザヤで多く用いられていました。一方、祭司たちは「罪を贖う」という意味で、捧げられたいけにえの血で民が犯した罪過が拭い去られることを指していました。この意味での贖いはレビ記一六章の大贖罪日の祭儀に行われ、イスラエルの最重要の祭儀とされていました。新約聖書ではこの二つの意味の贖いが「キリストにある贖い」によって成し遂げられたことが語られています。ここのローマ書三章は「罪を贖う」という意味ですが、パウロは他の箇所で「人を贖う」、すなわち人を罪の支配から解放するという意味で多く用いています。「キリストにある贖い」とは、神がキリストの十字架と復活の出来事において、神からの離反という人間の根源的な罪を拭い去り、人を罪の支配から解放された働きを指しています。神がキリストにおいてこの働きを成し遂げられたという告知が福音です。ただし、パウロがローマ書でこのユダヤ教の用語を使うのは、ここと八・二三の二箇所だけで、他では異邦人にわかり易い解放などの語を用いています。パウロがここや次の二五節でこのユダヤ教用語を使うのは、自分の福音告知にエルサレム共同体から受け継いだ告知の表現を、文章的にはやや無理をして組み込んだ結果だと見られています。
神がこの働きをなされたのは、神の恵み《カリス》からです。そして、恩恵《カリス》が「無代価で」という語で言い直されて説明されています。恩恵は神の働き方です。神は救いを与えるさいに、それを受ける側の人間に何も代価や資格を要求されません。そのように相手の資格や代価を要求しないで、無条件に良いものを与える仕方が《カリス》と呼ばれるのです。そして神の《カリス》を体験した者は、それを与える方の自分に対する愛《アガペー》を知ります(五・八、八・三一〜三九)。《カリス》の使徒は愛《アガペー》の使徒になります。ヨハネになると、《アガペー》の中に《カリス》を含ませて、《アガペー》だけを語る使徒になります。人間の愛には様々な条件がつきます。しかし神の愛は無条件です。「無代価で」という語の背後にある無条件の愛が神の愛です。
この「キリストにある贖い」には「神はこのキリストを、信実によって、その血による贖いの場としてお立てになったのです」という説明が続きます。この「贖いの場」という語も、ユダヤ教の祭儀でいけにえの血が注がれて民の罪を拭い清める契約の箱の上部の金の板を指しています。十字架の上に血を流されたキリストの出来事がこの「贖いの場」となって、神は自分に対する背きという人間の根源的な罪を赦し、無条件に受け入れてくださるのだという形で、パウロはユダヤ教の祭儀をキリストの救いを指し示す象徴として用いています。
 何の資格もないのに無代価で与えられたのですから、人間の側には誇るところは何もありません。パウロは神に義とされる(受け入れられる)のは「どんな律法によるのか」と問い、「行いの律法」ではなく「信仰の律法」によるのだと答えます。ここの律法を法則と訳すのは場違いです。律法という語を使うときパウロはユダヤ教という宗教を考えています。ここでパウロは「その規定の実行を要求しその実行を義とする宗教」か、それとも「信仰を要求し信仰をもって義とする宗教」か、あなたがたはどちらの宗教にいるのかと問うているのです。「行いの宗教」にいる者は自分の資格を誇ります。しかし「信仰の宗教」にいる者は、自分に何の資格もないことを知って、ただ神の恩恵だけを信じます。そしてパウロは、神は唯一であるというユダヤ教の根本告白で、「信仰の宗教」を根拠づけます。

第三に、この福音が告知するキリスト信仰による救済は、確かに律法と呼ばれるモーセ宗教とは別ではあるが、律法(宗教)に証しされており、律法(宗教)の意味を成就するものであることが強調されます。そのことは最初に、人間を義とする神の働きが「律法とは別に、律法の外で」現されたと述べた直後に、同じ文の中で「律法と預言者たちに証しされて」という句を添えていることに示されています(三・二一)。さらに、パウロはユダヤ教の基本信条である神の唯一性を根拠にして、「神は唯一である以上、神は割礼の者たちを信仰によって義とし、無割礼の者たちを信仰によって義とされるのです」と断言します(三・三〇)。信仰による義は、律法を無効にするのではなく、律法を確立するものであるとして、アブラハムの場合を実例として引用します(四・一〜二五)。この長い引用からも、パウロがいかに強くこの「キリスト信仰による神の義」をユダヤ人に理解してもらいたいと願っているかが分かります。 確かに四章のアブラハム論はユダヤ人に向って書かれていますが、われわれユダヤ教の外にいる者にも重要な命題が並んでおり、しっかり聞き取らねばなりません。
パウロがアブラハムを範例として引き合いに出す時はいつも、創世記一五章六節の「アブラハムは神を信じた。それが彼に義と認められた」という聖句を引用します。これはパウロが「信仰による義」を主張する時に拠り頼む陣地です。パウロは「信仰の律法」とか「行いの律法」という表現を使っていますが(三・二七)、人は律法を行うことによって義とされるという、一般のユダヤ教徒の律法理解である「行いの律法」(ヤコブ二・二〇〜二四が典型)に対して、パウロは信仰を要求し、信仰によってその意義を全うする律法(聖書)理解を主張します。それだけでなくパウロは、働きとか行いがなくて義と認められたダビデの実例をあげます(四・四〜八)。同じ事態を律法(創世記)と預言者(サムエル記)の両方で根拠づけるラビの論法からすると、アブラハムもダビデと同じく行いなくして罪を赦された罪人であることになります。さらに、信仰によって義とされた後に割礼を受けたアブラハムの実例(創世記一五章と一七章)から、アブラハムは無割礼(異邦人のまま)で信仰によって義とされる者と、割礼を受けていて(ユダヤ人)信仰によって義とされる者の両方の祖になるという議論を展開します。アブラハムは「死者を生かし、存在しないものを存在へと呼び出す神」を信じて義とされました。わたしたちキリストを死者の中から復活させた方を信じる者は、アブラハムと同じく神を信じているのであり、アブラハムの子孫なのです(四・二三〜二五)。

e 第一部への結び 五・一〜一一

第一部の「信仰による義」の結果を総括して、使徒は「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより神との和を得ています」と言います(五・一)。わたしはここで、使徒がキリスト信仰によって神から賜った人間の姿の総体として使っている「神との《エイレネー》」という語を、「神との和」と訳しています。「平和」は戦争がない社会的状況、「平安」は心の安らかさという心理的な状況を示すだけに陥りがちなので、対面する両者の全面的な良好な関係を指す語として「和」を用いることにしました。これは、今まで背き敵対していた両者が和解して、本来の正常なあるべき関係に戻ったことを指しています。そしてパウロはこの神との和が「恩恵」の場にわたしたちを導き入れる入り口であり、その恩恵の場では神から溢れる祝福と豊かさが注がれて、人間に希望と歓喜をもたらすことを語ります(五・二)。その恩恵の場では、苦難さえもが希望を生み出し、歓喜となる消息を語っていますが(五・三〜五)、その中で使徒は、それが神の愛から注ぎ出される聖霊によるものであることを語らざるをえませんでした。実はこの聖霊の働きによる神の愛の実現こそ、第二部でパウロが語りたいことであって、この一段は(先に述べたように)第一部の結論をなすと同時に第二部の内容を先取りしているのです。
この結論と先取りの二重性は、九節と一〇節の並行表現でよく示されています。九節では「今やキリストの血によって義とされているのですから、なおさら御怒りから救われることになります」と言っていますが、これは「血による(贖罪)」とか「義とされる」とか「御怒り」(終わりの日の神の審判)という語が示しているように、ユダヤ教の概念と用語で語られています。それに対して一〇節では同じことが、「いのち」とか「和解」とか「救われる」というような一般社会で使われている用語、異邦人にもわかりやすい概念と用語で言い直されています。この並行関係からすると、わたしたち非ユダヤ教徒に分かりやすい一〇節の表現で、福音による救済とは「敵であったときでさえ御子の死によって神と和解させていただいたのですから、和解させていただいている今は、なおさら御子のいのちによって救われることになるはずです」ということになります。「和解」という語が人間の救済の鍵となります(バルトは人間の救済を論じる部門を和解論と呼んでいます)。和解については、パウロはコリントの人たちにもう少し詳しく語っています(コリントU五・一七〜二一)。
この和解は人間の側からの行為(いけにえなどの宗教的行為)によるものではなく、まったく一方的に御子であるキリストにおいて無条件の賜物として神が人間に与えて下さった和解です。この和解より以前では、人間は不信心な者、罪人であり、神の敵でした。パウロはその事実をローマ書の一章と二章で明らかにしていました。しかし今や御子の死によって、すなわちキリストの十字架によって和解が与えられています。そしてこの和解を受けた者は、復活された御子キリストのいのちによって、すなわち復活者キリストに合わせられて、そのいのちに生きるようになり、そのいのちの完成の希望、死者の復活にあずかる希望に生きるようになるのです。和解以前の人間は過去形の動詞で語られ、和解以後の人間のいのちは未来形の動詞で語られています。その未来は今現在すでに始まっており、終わりの日に完成します。この聖霊によってキリストの復活の命に生きる現実とその完成の希望は第二部の主題であり、八章でクライマックスに達します。
パウロはこの一段を勝利の凱歌で結びます。和解を与えて下さった方は、今や荘重なフルネームで「わたしたちの主イエス・キリスト」と呼ばれ、その方による和解を受けた者は「神にあって喜ぶ」のです(一一節)。この箇所をわたしは「神と結ばれて勝ち誇って歓ぶ」と訳しました。この「神にあって」という表現は、「キリストにあって」と同じで、神に結ばれ、神の命に参与していることを指し示しています。神の命にあずかり、罪と死の支配から解放されて、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいるのですから、これは人間の悲惨に勝ち誇って歓喜している姿です。福音に生きる者の人生の基調は喜びです。使徒は和解の福音を宣べ伝え、和解という入口から導き入れられた恩恵の場の勝利を先取りして、この勝利の凱歌で第一回の講話を結びます。しかしこの凱歌は先取りですから、まだ十全なものではありません。それは八章の終わりになって爆発します。

第二部 御霊による新しい命

   ー 恩恵の場における、救いに至らせる神の働き 五・一二〜八・三九

a 恩恵が支配する場 五・一二〜二一

勝利の凱歌で第一部を口述し終えた使徒は、ここで日を変えて再び福音の重要内容を語り始めたのではないかと想像します。最初の文章(一二節)が途中で途切れていることから、その内容の重大さにしばし口ごもりながら、一語一句を考えながら再開したのではと想像するのです。パウロは第一回目に語った内容を念頭に置いて、「このようなわけで」と語り出します。パウロはここで、第一部で語った恩恵の場への入口を別の視点から語ります。すなわち、すべての人は罪と死の支配下にあるという霊的現実と、すべての人は神の恩恵によって無条件に受け入れられているという霊的現実が、それをもたらした一人の人によって代表されているという視点で、それぞれを代表する人、アダムとキリストがその二つの霊的現実が実現する場を形成しているのです。一四節の最後に出てくる「アダムは来るべき者(キリスト)の型《テュポス》なのです」という言葉が、この部分(五・一二〜二一)の鍵です。
パウロはすでに、先にコリントの人たちに書き送った手紙の中の「死者の復活」を論じた一五章(二〇〜二二節)において、このアダムとキリストの対比を語っていました。アダムというのは人間を指す普通名詞、すなわちアダムとは人間です。とくに四五節では「最初の人アダム」に対して、キリストは「最後のアダム」と呼ばれていて、キリストが終わりの日に出現する人間そのものであることが明白に語られています。人間がいる場は二つあります。生まれたままの人間はみなアダムにあります。キリストに合わせられた人間は「キリストに《エン・クリストー》」あります。アダムにある人間はみな罪と死の力に支配されています。しかし「キリストにある」という場では、罪と死の支配から解放されて、「天に属する人(キリスト)」の似姿になります(コリントT一五・四七〜四九)。コリント書ではパウロはこのアダムをキリストの予型とする議論を、死者の復活を根拠づけるために用いましたが、ローマ書ではそれをさらに広い視野で用いて、すべての人がキリストにあって義とされるという恩恵の支配の根拠として用います。
パウロはすべての人間を支配している罪と死の現実に悲痛な思いを馳せて、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込み、こうして、すべての人が罪に陥ったので死がすべての人に及んだように」(五・一二)とまで言って、それと同じように一人の人キリストによってすべての人が義とされるのだと言おうとします。しかし、その対比はやっと一七節以下に出てくることになり、それまでにキリストにおける恩恵がアダムの背反の場合と比較にならない豊かなものであることを語らないではおれませんでした(五・一三〜一六)。一七節以下で、アダムとキリストの対比が明白に、そして溢れるように語り出されます。「アダムにあって」すべての人間が罪と死の支配に服しているように、「キリストにあって」はすべての人が神に受け入れられて、「命の領域で支配する」ようになるのです。ここでは「恩恵の支配」が実現しています(五・一七〜二一)。

b 罪に死に神に生きる 六・一〜二三

キリストにあるという場では恩恵が支配しています。すると、わたしたち人間の行動や状況に関係なく神は受け入れておられるとするならば、人間はもはや罪を捨てて清くなる努力をしなくてもよいことになるではないか、という批判が出てきます。パウロのように恩恵の支配を説く者は、律法を順守する努力を捨てるように説く者ではないか、というユダヤ教からの非難を、パウロ自らが取り上げて答えます。この非難は、法然や親鸞が弥陀の無辺の慈悲による救済の本願を信じて名号を唱えるだけで救われるとしたとき、それは発菩提心(悟りを追求する人間の努力)を否定すると非難されたのと同じです。この非難に対してパウロは、キリストにある者はキリストの死に合わせられて死んだ者であるから、罪に生きることはできなくなるのだと答えます(六・一〜二)。そのさい、パウロはキリストの中へバプテスマされた者はキリストの死に合わせられた者であることを思い起こさせています。バプテスマの儀礼は、それを受ける者が聖霊によってキリストという霊的現実に組み入れられることを指し示す象徴であることを前提にして、パウロは奥義(儀礼の背後にある霊的真理)を語っています(六・三〜五)。パウロはまだ「聖霊によるバプテスマ」という表現は用いていませんが(それはマルコ福音書以後です)、「キリストにある」という霊的現実は聖霊によって起こることです。聖霊によってキリストに合わせられた者は、キリストの死に合わせられた(過去形の動詞)のですが、同時に復活されたキリストの命にも合わせられて、新しい別種の命に生きるようになる(未来形の動詞)ことも語らないではおれませんでした。しかしここではキリストの死に合わせられて死んだのだから、もう古い人がこの死に定められた罪のからだを用いて罪に仕えることは不可能であることに力点が置かれています。恩恵は罪の中に生きることを許可するのではなく、不可能にするのです。恩恵は、キリストが死んで復活されたように、キリストにあって恩恵を受ける者に、罪に死んで神に生きるようにさせる力を与えます(六・六〜一四)。
使徒はこの霊的奥義を、聴く者の理解力に合わせて語るのだと断って、奴隷の比喩を使って説明します(六・一五〜二三)。パウロの時代、ローマ社会では奴隷制度が当然のこととして行われていました。人々は奴隷であることが何を意味するかをよく理解していました。使徒はその奴隷の姿を比喩として、罪に仕える人間とキリストを主人として仕える人間の対比を鮮やかに浮かび上がらせます。奴隷は二人の主人に兼ね仕えることはできません。どちらかの主人に全面的に服従して仕えなければなりません。今までは(アダムにあって)罪という主人に支配されていましたが、今はキリストにあって新しい主人、従順という主人に仕えているのです。罪の支配から解放されて、新しい別の主人に仕える者になったのです。古い主人の罪が支払う報酬は死です。神から永遠に切り離されるのです。そこには何の希望もありません。それに対してキリストにあって神に仕える者には、神からの賜物として永遠の命が与えられます。罪は自分に仕える者に当然の報酬として永遠の死をもたらします。それに対して、キリストにあっては神は値しないものに無条件に永遠の命を賜るのです。ここに、死が罪の当然の報酬であり、永遠の命は神の恩恵の賜物であるという対比が、奴隷制の比喩を用いて鮮やかに描かれています。

c 律法からの解放 七・一〜二五

罪の支配力からの解放を説いた後、パウロはキリストにあって受けるもう一つの支配からの解放を説きます。それは律法からの解放です。これはとくにユダヤ教徒に理解してもらいたい解放ですが、ユダヤ教徒に限らず、どの宗教人にとっても理解が困難で、同時に重要な課題です。先に罪の力からの解放を説くために奴隷の比喩を使いましたが、その続きにパウロはこの律法の支配からの解放を説くのに結婚の比喩を用います(七・一〜六)。
パウロは「わたしは律法を知っている人たちに話しているのですが、律法《ノモス》とは、人が生きている間だけ支配するものではありませんか」と言っています(七・一)。ここでパウロが使っている《ノモス》という用語は、ユダヤ人にはユダヤ教の律法(モーセ律法)を指しますが、ローマ法をはじめ一般の法律を指すのが普通です。法律の原則を少しでも知っておれば、人は死ねばもはや法律に訴追されることはなく、法律の規制や責任から解除されていることは知っています。夫が生きている間は妻は夫に対して貞節の義務を負い、他の男と関係すれば(昔の)法律で処罰されます(ユダヤ教の律法では死刑でした)。パウロはこの法律原理を比喩として用います。相手が死ねば、結婚の法律から解放されて自由に他の相手に結ばれることができます。キリストにある者にとって、罪という古い夫は死にました。罪はキリストの体が十字架につけられた時に死んだのです。今わたしたちは「他の者、すなわち死者の中から復活された方と一緒になり、神のために実を結ぶようになる」ことができるのです。
ここであの「しかし今や」が現れます。「 しかし今や、わたしたちは自分を縛っていたものに死んだので、律法から解放されたのです。それは、わたしたちが文字という古い次元ではなく、御霊という新しい次元において仕えるようになるためなのです」。今や神に仕える道は、自分の力でする宗教の諸規定(律法、古い文字)の実行ではなく、内からの御霊の働きによって神の求められるところを満たすという新しい命の道となったのです。
このように主張すると、律法の実行によって神に仕えようとする民からは、当然「では、律法は何のために与えられたのか。律法は罪であるとでも言うのか。律法は聖なるもの、正しいもの、善いものではないのか」という反論が起こります。パウロは律法が聖なるものであることを認め、その上で律法は人間に罪を認めさせ、聖なるものが機会を捉えて人間の内に罪を引き起こすことで、罪の正体を暴露するのであると説きます(七・七〜一三)。人間に死をもたらすのは律法ではなくて罪です。しかし、罪は律法という聖なるものを利用して人間を死に導くことによって、その限りなく邪悪な本性を現すのです。律法の存在理由、律法の目的については、パウロはガラテヤ書(三・一五〜二〇)以来、律法を神聖視するユダヤ人に理解してもらおうと格闘して来ましたが、ローマ書に来て二章のユダヤ人と律法から説き起こしてこの七章で、キリストにある場での律法論を展開しています。
パウロは律法を人間に罪を認めさせる働きをするものと理解しています(ガラテア三・一九)。その理解がここローマ書(七・七〜二五)では、「わたし」を主語にした文で自分の体験として語られています。確かにパウロはここで自分が神の律法を体験することを語っています。しかしそれは純粋にパウロの個人的体験ではありません。パウロはダマスコ途上で復活のキリストに出会うまでは、律法を行うことで義とされることを確信し、自信に溢れてその実行に励んでいました(ガラテア一・一三〜一四、フィリピ三・六)。しかし復活のキリストに出会い、キリストにあって神の恩恵を知り、信仰によって義とされることを知った時、罪の本質と律法の役目を理解したのです。
アダムの物語に描かれているのは、アダムにある人間、生まれながらの人間の現実です(アダムは人間という意味の語です)。律法がなければ、人間が内に抱えている罪は働かず(死んでいて)、人間は生きています。ところが律法が神の「するな」という戒めの形で来ると、内にある罪が目覚めて、戒めに反することをしだすのです。この消息をパウロは「むさぼるな」という戒めの実例で語ります(七・七〜一三)。この戒めは十戒の最後の戒めで、人間の心構えを規定する唯一の内面的な戒めです。これは「限度を超えて求めるな」という意味です。ユダヤ教ではこれがすべての戒めの総括であり、アダムが知恵の実を食べるなという戒めを受けた時、すべての戒めを受けたのだと理解されています。
この戒めは人間の思い上がりを戒めたものですが、人間は自分にはその資格があるとして、限度を超えて他人を自由にしようとする権力欲、物を自由にしようとする所有欲をもって争い、世界を悲惨な流血の世界にしています。その思い上がりの最も深い形は、自分の力と資格で義に達しようとする思い上がりです。人間は恩恵によってのみ義となりうるものであるのに、自分の力で達成できるとするのは思い上がりです。人間は「思い上がるな」という戒めを知っていながら、それに違反して自己義認という深い思い上がりに陥っていたのです。
パウロはキリストにおいて恩恵の現実に直面した時、自分で義であろうとする思い上がりを悔い改め、自分をキリストにおける無条件の恩恵に身を委ねました。パウロは「罪が戒めにより機会をとらえ、わたしを欺き、戒めによりわたしを殺した」という戒めの働き方を理解しました。パウロは聖なる律法の本質を捉えました。律法は人間に罪を認識させるのです。人を死に至らせるのは罪であって律法ではありません。律法が罪の正体を暴露するのです。罪は聖なる律法を利用して人を死に至らせることで、その限りなく邪悪である本質を露呈したのです。聖なる律法が人間の内にある罪を認識させ、人間が内奥から罪の力の支配下にあることを思い知らせるのです(七・一四〜二五)。
人間の内に潜む罪の力が、聖なる律法を利用して働くという罪の邪悪な正体は、最近の宗教紛争の悲劇に示されています。自分たちは聖なる宗教の実現に向かって献身しているのだから正しい人間であるとして、それを妨げる不正な人間を抹殺することは正しい行為であるとしている人たちがいます。これは自己義認が限度を超えて思い上がり、その邪悪な正体を露呈している現実です。これは人間の支配欲と所有欲が限度を超えてその充足を求めたために生じた社会と歴史の悲惨を超えています。この悲惨を克服する道は、各宗教が自己を相対化して、宗教は人間を義とする道、救済の道ではないことを明らかにする以外にありません。そしてそれを明らかにするには、「律法(宗教)が成し得なかったことを成し遂げる道」(八・三)を提示すること、すなわち人間に宗教以外の救済の道を提示する以外にありません。それは八章で示されることになります。それがない限り、人間は「わたしはなんと惨めな人間でしょう。この死のからだから誰がわたしを救い出してくれるのでしょうか」と嘆かざるをえません(七・二四)。この嘆きは、現代風に言えば「人間性の奥底に巣食っている神から離反しようとするこの本性から、誰が解放してくれるのであろうか」ということになるでしょうか。

七・二五後半と八・一のテキストには写本上の問題があり、ここでは七・二四は二五節前半の突然の神への感謝に転じ、それが八・二に続いているものと読んで、パウロの言葉を聞いていきます。この二つの節の問題点については、拙著『ローマ書講解』の当該箇所を参照してください。

d 御霊による新しい命 八・一〜三〇

第二部に入って使徒は、信仰によって導き入れられたキリストにおける恩恵の支配の事実を語り(五章)、それがアダムあって罪と死に支配されている生まれながらの人間(アダムにある人間)にとって、いかに豊かな命の世界であるかを語ろうとします。しかしそれを語る前にまず、その恩恵の領域に入った者は、罪の力の支配と律法の支配から解放されている者であることを語らないではおれませんでした(六章と七章)。その二つの支配の下で呻いていた人間(七・二四)にとって、舞台は突如「主イエス・キリストにあって」神への感謝に変わります。そして、その「主イエス・キリストにあって」行われた神の働きが詳しく述べられることになります。それがローマ書の八章です。この章こそパウロがキリストの福音を提示するものとして書いているローマ書の白眉であり頂点です。
最初に使徒は「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです」と宣言します(八・二 直訳)。《エン・クリストー》(キリストにおいて)働く神の霊、聖霊が現実に人間を罪と死の支配から解放するのです。ここで使徒は律法の下にあるユダヤ人には律法という語を使っていますが、わたしたち非ユダヤ教徒は、聖霊の働きの原則、働き方と理解してよいでしょう。聖霊による罪と死の支配からの解放こそ、キリストの福音の中身です。これがないキリスト教は中身のない空の容器です。「キリストの御霊を持たない者はキリストに属する者ではありません」ということになります(八・九)。キリストの福音を一つの文で述べるとすれば、わたしは躊躇なくこの節(八・二)をあげます。
まず解放があります。しかしそれだけではありません。続く節でパウロは「それは、律法の正しい要求が、肉に従ってではなく御霊に従って歩むわたしたちにおいて満たされるためです」と言って、この聖霊が神の求めを実現させる力となることを明らかにします(八・三〜四)。律法(ユダヤ教)やその他の諸宗教は、よき教義を説き、その教理が象徴する(目指す)現実を実現するための祭儀も与えてくれました(諸教義はsymbolumと呼ばれます)。しかし人間は、どんなに立派な教えを説かれても、また繰り返し熱心に祭儀を行っても、宗教が目指す真理とか現実に達することはできませんでした。それは人間の本性が病んでおり、衰弱していて、宗教が目指す真理には到達できなかったからです。それで神は決定的な非常手段をお取りになりました。それは「神はご自身の子を罪の肉と同じ姿で、かつ罪のために遣わして、肉にある罪を断罪されたのです」と使徒が言っている通りです。復活によって神の子であるキリスト(救済者)である方が、人間の姿をとって現れ、その十字架上の死において、人間本性に潜む罪に対する神の裁きを引き受けて断罪されました。このキリストに合わせられる者を、神は義として受け入れ、聖霊を与えて、神が求めるところを成就する者とされるのです。この神が求めるものは愛であることは、キリスト者の実際の生き方を語る第四部で説かれることになります。
次にパウロは、恩恵の場で御霊に導かれる人間の志向について語ります(八・五〜一一)。辞書によると、志向とは「意識が一定の対象に向かうこと」、人間が全人的にある対象に向かっている在り方をを指すようです。パウロはこれを「志向する」という動詞形で多く用いています(新約聖書の二六回中二二回)。「肉に従っている者たちは肉のことを志向し、御霊に従っている者たちは御霊のことを志向する」のです。パウロは生まれながらの人間本性に従って生きている者を「アダムにある」とは言わず、「肉にある」とか「肉に従って」と言っています。肉にある者は肉のことを志向するので、神に敵対し(人間の本性は神に背いています)、神の定めに従いません。その結果は永遠の死です。それに対して、御霊が恩恵の下にある者に持たせる志向は、信仰と愛と希望という霊のことです。それはこの世における人間的な成功とか価値ではなく、永遠の命に至るのです。御霊の志向は肉という人間本性の志向とは逆の方向を向いています(ガラテヤ五・一七)。
ここでパウロは、キリストの御霊を宿して生きる者と、キリストが内にいます者、キリストに属す者とを当然のように同一視しています(八・九〜一〇)。両者は同じ現実です。そしてキリストの御霊を内に宿す者は、キリストを死者の中から復活させた方の霊、死者を復活させる働きを内に宿す者であるから、将来の死者の復活の希望に生きることになる(八・一一)、と言って将来の希望を語る一段に入っていきます。死者の復活については、コリントTの十五章で詳しく語っていましたが、ローマ書では御霊に生きる者の将来の希望として語られることになります。
キリストの霊を宿すとは神の御霊を内にもつことであり、それは神と命の質を同じくすること、人間の生命のつながりを比喩として用いるならば、親の生命を受け継いで子として生まれることです。この比喩を用いるならば、キリストの霊を持つ者は神の子であるのです。このことをパウロは「あなたがたは、再び恐れに陥れる奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです」と言っています(八・一五)。ここで注意すべきは、御霊を持つとか宿すと言いますが、わたしたちは神の霊を所有することはできません。あくまで働かれるのは神だけであって、わたしたち人間は神の働きを受けるだけです。「キリストの霊を内に持つ」というのは、キリストにあって神の霊の働きを自分の内に受けている人間の姿です。このことが起こる時、わたしたちは神の命と同質の命を生きているのであり、神の子とされている、と言うのです 。
パウロは神の子の生きざまに触れた後、子は親の資産を相続する立場にいることを比喩として、キリストにある者が受け継ぐことになる神の栄光について語ります(八・一二〜一七)。パウロは心急ぐのか、相続財産のことを語るのに急で、神の子としての生き方は後回しにしています(第四部)。強いて言えば、子であることの責任は、御霊に従って生きることです。キリスト者の倫理は御霊の倫理、御霊の導きに従うことです(八・一二〜一四)。その中で子とされた者の特徴として、「アッバ、父よ」という祈りの言葉を取り上げているのが目立ちます(八・一五)。キリストにある者が「父よ!」と叫んで祈る時、そう祈らないではおれない時、子であることをその人自身が内底で知っているのです(八・一六)。ここで「アッバ」というアラム語が重ねて用いられていることについては以前にも触れました。
子であることを確認した使徒は、子が親から受け継ぐ資産を語り出します。その相続は長兄のキリストとの共同相続です。ここでの共同は分けるのではなく、共にする共同です。この世では苦難を、来るべき世では栄光を共にするのです(八・一七)。パウロはこの時代におけるキリスト者の苦難をよく知っています。それだけにその苦難が、来るべき相続の確かさを保証します。パウロは「今の時の苦しみ」と「やがて現される栄光」を比べて、その栄光の確かさと大きさを溢れるように語り出します(八・一八〜二五)。ここでパウロは二つの《アイオーン》(この世と来るべき世)という黙示思想の枠組みで語っていますが、十字架の死と復活によって両方の《アイオーン》におられるキリストを生きることによって、パウロは二つの《アイオーン》の淵を乗り越え、黙示思想を克服しています。このやがて現される栄光を待ち望むことを、パウロはこの一段(八・一八〜二五)で「身を乗り出して待ち望む」という意味の動詞を三回も繰り返して語っています。これは、「御霊の初穂」をいただいているキリスト者の姿です。御霊は初穂としてキリストにある者にやがて現される栄光(死者の復活への参与)を味わわせるので、来るべき栄光を事実として待ち望むことができるのです。コリント書簡(一五章)では「死者の復活」と言われていたことは、ローマ書では「体の贖い」と言われています。それは、この現在の「死のからだ」が贖われて(解放されて)、「霊のからだ、朽ちないからだ」に変えられることです。このような希望をもって現在の生を生きることが、信仰によって救われたキリスト者の最初の標識です。二四節でパウロは「この希望へとわたしたちは救われたのです」と言っています。
この希望を語る段落で注目すべきは、前半ではこの希望を被造物の切望として語りながら、後半ではそれが自然にわたしたちの希望に移行しているという事実です。「被造物」が何を意味するのかについては議論がありますが、この自然な移行の事実からすると、前半の被造物に後半のわたしたちが含まれていることは確かです。わたしたち人間が神からの離反によって虚無に服させられたのであれば、人間が神に立ち返ってその虚無から解放され、神の子としての栄光にあずかることになれば、被造物もその存在の意味を全うすることになるのです。パウロはこのことを、「被造物は首をのばして神の子たちの顕現を待ち望んでいるのです」と言っています(八・一九)。神の子たちの「体の贖い」が実現して、神の子の栄光が顕現するときには被造物もその虚無(無意味さ)から解放されて、その真実の存在目的に到達するというのです。パウロの救済論の宇宙的な壮大な視野に圧倒されます。
被造物全体の呻きと「御霊の初穂」をもつわたしたちの呻きを語るだけではなく、パウロは最後に「同様に」と言って、御霊ご自身の呻きと、そこから出る執り成しの祈りを述べます(八・二六〜三〇)。神の霊が、宇宙全体の呻きと召された神の民の呻きの奥底で、そのご計画に従い、究極の善の完成という目標に向かって呻きつつ執り成してくださっているのです。ここにパウロが聖書の救済史をいかに現実的にかつ真剣に受け止めているかがうかがわれます。こうして、神の救済史の基本的な内容である人間の救済の現実を語り終えた第二部の締め括りとして、パウロは自然に次の神への大賛美に至ります。

e 第二部への結び 八・三一〜三九

最後に発したパウロの大賛美を聞く前に、わたしたちは第二部で使徒が述べた恩恵の場における神の救いの働きを要約しておきましょう。まず、信仰によって導き入れられたキリストにおける恩恵の場が、生まれながらの人間本性の場との対比で、いかに豊かな神の恵みの世界であるかが示されます(五・一二〜二一)。その上で、その場ではまず人は罪の支配と律法(宗教)の支配から解放されていることが、奴隷とか結婚の比喩をもって説明され、その解放がキリストにおける御霊の働きによるものであることが明らかにされます(八・二)。そして、その御霊の働きにより解放された者が、御霊の志向に生きることで神の御心を内底から行う者となります(八・三〜一一)。わたしはこの過程をパウロの用語で変容と言っています(コリントU三・一八)、また、御霊の現実に生きるものとしてその救済の過程が完成することを希望することができること(八・一八〜二五)、この解放、変容、完成の三つの過程の全体が人間の救いとなります。第二部(とくに八章)は恩恵の場に働く聖霊による救済の現実を語る部分として、パウロの福音の中身であり中心となります。この部分を語り終えて、パウロは神への大賛美に至ります(八・三一〜三九)。このすべての働きが神の愛から出るものであることが示されて、神の愛への溢れるような賛美が迸ります。第一部の終わりでも使徒は歓喜の声をあげていましたが(五・一〜一一)、ここの賛美は第一部と第二部を合わせて、神の愛から出る人間の救済の全体を賛美する大きな高揚を示しています。

第三部 イスラエルの民の救い

   ー 恩恵による選民イスラエルの民の扱い方 九・一〜一一・三六

おそらく日を改めて行った口述で、使徒は新しい話題を取り上げます。喜びに満ちてキリストの福音を宣べ伝えるパウロには、一面深い痛みと悲しみがありました。それは同胞であるユダヤ人のキリストへの不信と拒否です。パウロは同胞ユダヤ人がイスラエルと呼ばれて神から様々な特権を与えられ、特別な扱いを受けてきた事実を列挙して、そのイスラエルがキリストを拒否している事実を悲しみ、その痛みと悲しみが上辺のものではなく心の奥底からの真実のものであることを証言して真剣に執り成しています(九・一〜五)。この痛みに対する自分の心情を導入部として、使徒は恩恵の神がご自分の選ばれた民であるイスラエルをどう扱われているかの問題を取り上げます。

a 神の恩恵の選び 九・六〜二九

使徒はまずユダヤ人がイスラエルと呼ばれて、人間の宗教史の中で特別の地位を占めているのは、神が恩恵によってユダヤ人をご自分の民として選ばれた結果であり、決してユダヤ人自身の優れた価値によるものではないことを、聖書に基づいて論証します。まず、イスラエルが公式にキリストとしてのイエスを拒否している事実(最高法院はイエスを死刑と判決し、ユダヤ人はイエスをキリストと信じる者を迫害しています)は、キリストとしてのイエスこそイスラエルに与えられてきた神の約束の言葉の成就であるとする福音の立場を無効にするという、ユダヤ人の反論を取り上げます。この反論に対してパウロはまず「イスラエルから出た者がみなイスラエルではないからです」という事実をもって答えます。多くのユダヤ人は真のイスラエルではないのですから、多くのユダヤ人がキリストを拒否したからといって神の約束が無効になるのではない、というパウロの反論です。アブラハムの子孫がすべてイスラエルであるのではなく、その中で約束によって生まれたイサクだけが神の言葉の継承者となるのです。イサクの子であるエサウとヤコブの場合も同じです。「子供がまだ生まれてもおらず、善も悪もまだ何もしていない時に、選びによる神のご計画が貫かれるために、 すなわち、人の働きによるのではなく、召された方によってご計画が貫かれるために」、神は弟のヤコブを選び、彼の子孫に約束の言葉を委ねられたのです。
すると、このような恣意で働く神は不義となるではないかという反論に対して、パウロは「決してそうではない」と否定して、モーセに与えられた「わたしは自分が憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ」という神の言葉を引用します。ファラオがあれだけ執拗に反対してイスラエルの民を去らせようとしなかったのも、「あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全地に告げ知らせるためである」と言われているように、神の働きを現すためであったのです。 「神は御自身が欲する者を憐れみ、欲する者を頑なにされる」のです。ここに神の絶対主権が現れ、恩恵の支配が貫かれています。このように神が独占的な主権をもって「御自身が欲する者を憐れみ、欲する者を頑なにされる」のであれば、「では、なぜ神はなおも人を責めるのか。誰が神の意向に逆らうことができようか」という反論が出てきます。その反論に対してパウロは、それは人間としては当然に聞こえるけれども、それは人間が神と対等の存在であればのことで、神の被造物である人間が創造者に対してなしうる反論でないことを、預言者エレミヤの陶器師のたとえを用いて明らかにします(エレミヤ一八・三〜六)。
ここでパウロは重大な事実をユダヤ人に突きつけます。それは異邦人が今や「憐れみの器」として選ばれて神の恩恵の支配に入っているという事実です。ユダヤ人が無割礼の民として、契約と関わりがなく、神に背く「怒りの器」としてきた異邦人が、今や福音によってキリストの民として神の憐れみの下にあり、キリストを拒否している多くのユダヤ人が「怒りの器」となって、恩恵の支配である神の支配から除外されています。そして神がその絶対的な主権によって「御自身が欲する者を憐れみ、欲する者を頑なにされる」のであれば、この二つの器は神の決定によるのだから、人間は神の恣意の支配下にあるのではないかという抗議に対して、パウロは「もし神が怒りを示し、御自身の力を知らせようと欲しつつも、滅びに定められた怒りの器を大いなる寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうでしょうか」と、問いかけの形で神の恩恵の支配を示唆します。異邦人は本来神を知らず怒りの器でした。しかし神は彼らの背信を耐え忍び、時満ちてキリストにより恩恵に導かれました。今はキリストに背いているユダヤ人は怒りの器です。しかし彼らも恩恵の下にあるのです。やがて彼らも回復して恵みの下に来るでしょう。次項で見るようにパウロはそれを信じています。そしてまた、「栄光のために準備された憐れみの器に御自身の栄光の豊かさを知らせるためであったとすれば、どうでしょうか」と問いかけます。本来憐れみの器であるイスラエルが今は不信仰によって怒りの器になっているとしても、一旦背いたイスラエルを回復することで恩恵の豊かさを示そうとしておられるのであれば、われわれは神の恩恵の豊かさにひれ伏す他はないではないか、という思いです。しかし、その結論は一一章の終わりまで保留され、そこに至るまでにパウロはなお多くのことを語らなければなりません。
今は異邦人が憐れみの器として選ばれ、イスラエルの多数が背いているとしても恩恵の中にいる「残りの者」があることを、パウロはホセアやイザヤなど預言者たちの書から引用して論証します(九・二四〜二九)。このような議論は、聖書を神の言葉と信じているユダヤ人に向けたものであり、パウロがその主張をユダヤ人に理解してもらうことをいかに強く願っているかをうかがわせます。
この箇所でパウロは神の「選び」を根拠にして議論を進めています。イスラエルは自分たちが神によって選ばれた民であることを、その存立の根拠として誇っていました。パウロはその誇りとなっている神の選びを論拠にして、今は異邦人が憐れみの器として選ばれていることを論証しました。キリスト教会はこの神の選びを論拠にして予定説を取ってきました。予定説というのは、エフェソ書(一・三〜五)などに見られるように、自分たちが救われたのは、神が天地の創造の前に自分たちを選び、救いへと予定されたという信仰です。ここでは選びと予定が一体となっています。救いへと選ばれ予定された者がいるのであれば、それ以外の者は滅びへと選ばれ予定されていることになります。選びと予定の信仰は、その裏側に滅びへの選びと予定が含まれており、二重予定の教理となります。この教理は、一方で救いに安住したり、他方で救いの機会を奪うものとして強い反対があり、論争の的でした。しかし、選びも予定も実は恩恵の支配の下にいる者が、自分が救われたことには自分の側に何の根拠も理由もないこと、それが神の主権的な一方的な恩恵の行為であることを告白して、神に栄光を帰す行為であって、それは信仰の現れの一面です。予定の教理(とくに二重予定の教理)の反対として、万人救済論が唱えられています。神は最終的にすべての人を救われるとする教理です。二重予定と万人救済は、論理的には正面から衝突し、対立するだけです。しかし、実は両方とも救われるのに自分の側には何の根拠も理由もないという信仰の告白であって、同じ恩恵の支配の表現なのです。選びとか予定の思想が、自分が救われて神の子となったり神の民とされているのは、一方的に神がそうなるように選び予定されたからであって、自分には何の資格もなく根拠や理由はないという告白でした。万人救済論も、世界にもし救われない人があるとすれば、それは自分である。自分にあるのは罪だけであって、もし神が何らか資格や理由を求められるのであれば何もない。その自分が救われた以上、救われない者はないという、きわめて主体的な信仰告白なのです。このように選びと予定の思想と万人救済の思想とは、論理的には矛盾しますが、両方とも恩恵の支配下にある者の信仰告白なのです。信仰の世界はまず何よりも神と自分の一対一の世界です。

b イスラエルのつまづき 九・三〇〜一一・一〇

このように神が人を扱われるのは恩恵の選びによるのであることを明らかにした上で、パウロはイスラエルがこの恩恵の場でつまずくべき石につまずいたことを明らかにします(九・三〇〜一〇・四)。神はイスラエルに律法を与えましたが、それは「信仰の律法」でした(三・二七〜二八)。すなわち、信仰を求め、信仰によってその意味が満たされる律法でした。ところがイスラエルはそれを「行いの律法」にして、その律法(宗教)を行うことで義に到達することができるかのように、熱心にその義を追求しました。彼らの熱心は正しい知識に従っていないのです。彼らは自分の行いによって義とされること(自分の義)を求め、神の義を理解していなかったのです。神は資格のない者、律法の行いをすることができない者を恩恵によって義として受け入れられるのです。これが「神の義」です。これは「キリストにあって」賜る義です。キリストはこの神の義となることで、「律法の終わり」となったのです。
イスラエルがつまずいたのは彼らが神の義、すなわち信仰による義という聖書の根本を正しく理解していなかったからであるとして、パウロはこの信仰による義を律法の行いによる義と対比して説きます(一〇・五〜一三)。パウロはまず「律法による義」の基本的なテーゼである「この戒めを行う者は、この戒めによって生きるであろう」(レビ記一八・五)という聖書を引用します。このテーゼにはすべてのユダヤ人は大賛成です。ところが、パウロはこの戒めの言葉は遠くにあって手が届かない言葉ではなく、ごく身近にあり、「あなたの口と心にある」のだというモーセの言葉(申命記三〇・一一〜一四)を、「信仰による義」の主張を根拠づける言葉として引用します。信仰の言葉はこう言っています、「あなたの口でイエスは主であると言い表し、あなたの心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じるなら、救われるのです」。これは聖書(申命記)の言葉の転用ないしは誤用だとしてユダヤ教側から非難されるかもしれません。しかしパウロは、この聖書の言葉を福音の場で解釈して、この言葉に依拠しているユダヤ人に「《キュリオス》イエス」を受け入れるように迫っているのです。イエスを《キュリオス》、復活者キリストとして受け入れることが信仰のもっとも基本的な土台であり(コリントT一二・三)、キリストにおける様々な豊かな救済の内容はこの中に含まれます。
信仰はキリストの言葉を聞くことによります。今イスラエルが信仰を拒否しているのは、福音がイスラエルの民には伝えられなかったからでしょうか。そんなことはありません。キリストを告げ知らせる福音は、ユダヤ人から出てまずユダヤ人に告げ知らされ、それからギリシア人にも、すなわち世界の諸民族に伝えられたのです。福音は伝えられました。「しかし、すべての者が福音に聴き従ったのではない」のです。イスラエルでは多くの者が聴き従いませんでした。ごく僅かの者が福音に聴き従いました。この少数者が「残りの者」となって、神がイスラエルを見捨てておられないことを示しています。この事実が神の定めから出たものであることを、パウロは聖書学者らしく、聖書の言葉を数多く引用して論証しています。そして最後に、この「残りの者」が残されていることも、「恩恵の選び」によるものであることを強調して、不信のイスラエルの現実においても恩恵の支配を貫いています(一〇・一四〜一一・一〇)。

c 救済史におけるイスラエルと異邦人 一一・一一〜三六

  キリストにおける恩恵の告知に対して、今はイスラエルがその不信仰によって退けられ、異邦人が信仰によって受け入れられているという事実が、神の救済計画にとって何を意味しているのか、神の救済史の奥義(一一・二五)についてパウロは自分に与えられているところを明らかにします。その奥義《ミュステーリオン》とはパウロ自身が主から直節与えられた奥義と明言しているように(パウロは第三の天にまで引き上げられて秘密を知らされた体験をしています)、「イスラエルの一部がかたくなになったのは、入ってくる異邦人の数が満ちるまでであり、こうして全イスラエルが救われることになる」(一一・二五〜二六)ということです。パウロはこの奥義を、とくに異邦人で今キリストの恩恵のなかにいる者たちに理解して欲しいのです。この奥義は別の言葉で表現すれば、「もし彼らの過ちが世の富となり、彼らの脱落が異邦人の富となったのであれば、彼らの数が満ちることはどれほどの富となることでしょうか」(一一・一二)となります。ここでパウロが「彼ら」と言っているのは、パウロの同胞ユダヤ人を指しています。
ここでパウロは「数が満ちる」という表現を用いています。これはユダヤ教黙示思想の用語で、ある民族から選ばれて神の民となる者の人数が、神が定められた定数に達することを意味します。今はユダヤ人がその不信仰によって退けられ、そのために福音が異邦人に向かい、異邦人が神の民となり、「異邦人」が救済史の担い手となる時代です。ルカ(二一・二四)はこの時代を「異邦人の時代」と呼んでいます。このように、ユダヤ人の脱落によって世界の諸民族の民に神の恩恵の富が向かうことになったとすれば、ユダヤ人が恩恵のもとに来て救われ、その数が満ちることは死者の復活にたとえてもよいほどの祝福ではないか、とパウロは言います。パウロは、ユダヤ人を奮起させて救われる者の数が満ちるように、異邦人への伝道に励んでいるのです(一一・一三〜一五)。
パウロは自分が受けた奥義を異邦人に理解させるために、「初穂が聖であれば練り粉も聖であり、根が聖であれば枝も聖なのです」(一一・一六)と言って二つの比喩を使います。初穂の比喩と接木の比喩です。新しい穀物の収穫に際し初物を神に捧げて聖別することで、全収穫を捧げることを象徴する祭儀はどの民族にもありますが、聖書では民数記(一五・一七〜二一)にその規定があります。しかし、一般の人に分かりやすい比喩として、パウロは接木の比喩を用いてこの奥義を説明します(一一・一七〜二四)。ユダヤ人の間では、神との特別な契約関係にある神の民イスラエルである自分たちが、メシアであるキリストが来てイスラエルの中に神の支配を確立される時、神の支配にあずかる。しかし異邦人も除外されず、そのイスラエルに加えられて神の支配に参加するという形で、神の支配の完成が信じられていました。パウロもその終末的完成の思想を共有しています。ただ、ユダヤ人が福音を拒否したので異邦人に向かったという体験から、異邦人の数が満ちた時にユダヤ人も神の恩恵を受け入れて、本来の神の民としての地位に戻るとして、つまずいたイスラエルの「回復」を語るようになったのです。パウロはこのイスラエルと異邦人の関係を接木の比喩で語るのです。もともと野生のオリーブとして偶像に仕えるままに放置されていた異邦人が、今はもともと神と特別な正しい関係にあったイスラエルという幹に継がれて、よい実を結んでいる。ユダヤ人は今は福音を拒否してイスラエルというよい幹から切り取られているが、異邦人の数が満ちるときには回復して恩恵を受け入れ、元のよい幹に繋がれて神の支配と栄光に参加する、という確信です。この事実を比喩で語るのに、パウロが用いている接木の比喩が実際の農業体験と違うのではないかということは問題になりません。われわれはパウロが示された奥義によって、救済史におけるユダヤ人と異邦人の関係を理解すればよいのです。
このように救済史の奥義を明らかにした上で、パウロは異邦人信者に警告します。彼らが今神の恵みを受けているのは、彼らがその恩恵にとどまっている限りであって、もし自分たちが神の支配にあずかっているのは自分たちがユダヤ人よりも立派だからだと思い上がることがあれば、元の生木であるユダヤ人を惜しまずに切り捨てた神は、異邦人を惜しむことなく切り捨てるであろうと警告します。パウロは今はつまずいているユダヤ人が近い将来悔い改めて福音を信じて回復することを固く信じています。こう信じる理由として、パウロは神の信実をあげて、「福音については、彼らはあなたがたのために敵となっていますが、選びについては父祖たちのゆえに愛されている者たちです。神の賜物と召しは取り消されることはないからです」(一一・二八〜二九)と言います。こうしてユダヤ人と異邦人が共に神の支配と栄光にあずかる日が来ることを熱く待ち望んでいます。ただ、最後にそうなるための神の救済史の原則を明白に述べて、この第三部門を締めくくります。その救済史の原則とは、「神はすべての者を不従順の中に閉じこめましたが、それはすべての者を憐れむためであったのです」という原則、すなわち恩恵の支配の原則です。神は恩恵によってすべての民をご自分のものとするために、ユダヤ人を含むすべての民を一旦は不従順の中に閉じ込め、その不従順の民を恩恵によって赦してご自分のものとされるのです。現在のユダヤ人の不従順も神の恩恵の支配の一面です。
 ここまで述べて、パウロは改めて神の知恵の深さに驚き、「ああ、神の富と知恵と知識の深さよ。なんと神のさばきは究めがたく、その道は探りがたいことか」と賛嘆し、思わず日頃親しんでいるイザヤなどの聖書の言葉が口をついて出ます。「だれが主の思いを知っていたか。または、だれが主の助言者になったか。または、だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。そして「すべては神から出て、神により、神に向かう。栄光が永遠に神にありますように!」という高揚した賛美で、この重大で困難な第三部を締めくくります(一一・三三〜三六)。

第四部 実践的勧告

   ー 恩恵の場に生きる者の社会生活の仕方 一二・一〜一五・一三

A 一般的な勧告 (一二章と一三章)

a 霊的礼拝 一二・一〜二

パウロは恩恵《カリス》の使徒です。キリストの到来により神の支配が実現しました。その神の支配とは「恩恵の支配」です。パウロはこの恩恵の支配の福音を告知する使徒として選ばれて世界に遣わされました(一・一)。パウロはその福音をこのローマ書に書きとどめて世に遺しました。彼はここまでに恩恵の場に入る入口として信仰による義を説く第一部、恩恵の場に働く神の救済の働きを描く第二部、そして人類の救済のために選ばれたイスラエルを恩恵の原理で扱われる第三部を語って、最後にこの恩恵の場に生きるキリスト者に実際の生活の場での生き方を勧告して、この福音の提示を締め括ります。それが第四部となります。その最初の部分(一二・一〜二)で基本的な原理を示し、その上でどこのキリスト者にも勧告すべき一般的な勧告(一二〜一三章)をした上で、ローマ集会に固有の問題についての勧告(一四章〜一五章前半)をします。まずAで一般的な勧告を見た上で、Bでローマ集会固有の問題を扱います。
パウロは恩恵の使徒らしく、命令するのではなく勧めます(一二・一前半)。宗教は命令しますが、福音は勧告します。このような勧告に従うならば、ますます恩恵の深い境地に入り大きな祝福を受けるのだという勧告です。まず人間に不可欠の宗教について、死んだ動物をいけにえとして捧げる礼拝ではなく、自分の身体を生きたいけにえとして捧げ、その身体をもって以下に勧めるように生活することが、キリスト者が捧げる理にかなった「霊的な礼拝」、真の宗教であるとします。そしてこの世との関係での基本原則が述べられます。それは「この世と同じかたちになることなく、かたちを変えられ」と簡潔に述べられています。この前半は「この世《アイオーン》の形に同化することなく」と述べられ、後半は「形を変容されよ」と、変容する(《モルフェー》を変える)という動詞の受動態が用いられています。この動詞が用いられているのは、パウロでは「主と同じ姿に造り変えられていきます」というコリントU三・一八とここの二箇所です。わたしはこの動詞の受動態が指している事態を「変容」と訳し、パウロの救済論の重要な局面を指す用語としています。人間の救済は解放、変容、完成という三つの段階を経て、すなわち罪と死の支配力からの解放(これはキリストにあってすでに起こりました)、聖霊の働きによるキリストの形への変容(これは聖霊による神の地上での現在の働き)、終わりの日における完成(神の子の顕現という将来の希望)の三段階を経て行なわれます。パウロはこの第四部でこの変容の段階を扱い、ここでその基本原則を述べています。
ここで注意すべきは、「変容される」という受動態の動詞の直後につけられている「意識を新たにし」という句です。この言葉は「意識を新たにすることで変容され」と訳されて手段と理解されることが多いのですが、これは手段ではなく結果と理解すべきです。ギリシア語の三格の名詞は様々の用法があって、その意味が争われる場合が多いのですが、八・二四の希望と同じく、ここでは結果を指すと理解して、「形を変えられて、意識を新たにし」と訳すべきだと思います。人間が意識を新たにすることで変容されるのではなく、恩恵の場に働く御霊によって変容されるのです。しかし人間の現実は複雑です。新しくされた意識ないし志向によって、複雑な社会で経験を積み、判断の試行錯誤を重ねて、われわれは「何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえるように」になることができるのです。このような総論を置いた後、パウロは具体的な勧告を、エクレシアの場で、全般的な人間関係で、そして社会生活の場という三つの場面で行います。

b エクレシアにおいて 一二・三〜八

まず第一にエクレシアの場での生き様について勧告が与えられます。キリスト者にとってはキリストにある交わり、すなわちエクレシアにおける諸関係こそがもっとも重要な人間関係です。ここでまず、もっとも重要なこととして最初に、「分を超えて考えるな」、すなわち「思い上がるな」という勧告が来ます。そしてこの分を超えるなという勧告が、「神が各人に分け与えた信仰の度合いに応じて、慎み深く考えなさい」という形で具体的に勧められます。そしてこのように勧告する理由が、「というのは」という語ですぐに続きます。ここでパウロはエクレシアにおける交わりを人体の比喩を用いて語っています。ここでパウロが「神が各人に分け与えた信仰」と言っているのは、恩恵の場に入るためのキリスト信仰のことではなく、信仰の賜物のこと、聖霊の賜物(カリスマ)のことであると考えられます。それは各人の分に応じて与えられているもので、コリント書簡では具体的に描かれていますが、ローマの集会はまだ実際にいたことがない集会ですし、問題があることも聞いていないので、一般的な原則だけで済ませています。
一つの人体には多くの肢体があって、それぞれの肢体が別の働きをしているように、「わたしたちは多くいても、キリストにあって一つの体であり、各自はお互いの肢体なのです」という自覚と理解が、エクレシアでの交わりには重要です。エクレシアをキリストの体とする理解は、キリストにおける秘義として次の世代のコロサイ書やエフェソ書で詳しく展開されることになりますが、パウロではまだ各人が異なる働きを賜っているのだから、各人は分に応じて慎み深くあり、思い上がってはならないという実践的な勧告だけに止めています。そして、預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善などの様々な働きについて、簡潔にその仕方についての勧めをしています。ここで預言の場合に(最初期のエクレシアでは聖霊による預言の活動が目覚ましいようでした)、「信仰に正しく対応して」と言われていることが注目されます。ここは原文では「信仰の《アナロギア》に従って」となっています。これは「信仰との正しい対応関係に従って」という意味であり、霊感による直接的な発言が自分勝手なものにならず、エクレシアのキリスト信仰に正しく対応するものであることを求めています。

c 対人関係全般で 一二・九〜二一

エクレシアにおける歩み方を勧告したパウロは、その外にも目を向けて人に対する関わり方全般についての勧告をします。その原理は愛《アガペー》です。この部分の最初に置かれている《アガペー》という語が主題です。愛はエクレシアの内外を貫いて、人との関わり方について神が求めておられる唯一のものです。この部分は、前半(九〜一三節)は兄弟愛とか聖徒たちという語が示唆するように、エクレシア内の人間関係を扱っています。後半(一四〜二一節)は、迫害する者とかあなたの敵という言葉が示唆するように、外の人たちを念頭に置いています。そして両方において神がキリスト者に求めておられる在り方は《アガペー》の一語に尽きます。
前半においては、パウロは愛《アガペー》の働きを、多くの動詞の分詞形を羅列して列挙しています。パウロはコリント書簡でもエクレシアを形成する力として預言や異言など多くの御霊の賜物をあげた後、《アガペー》こそが一切を統合する原理としてエクレシア形成の最終的な力であることを謳っていました(コリントT一三章)。《アガペー》は働きです。ローマ書では同じことを動詞の分詞形(英語のing形)を羅列して、愛とはこういう働き方をするのだと、一気に表現しています。その一つ一つは具体的で、説明の必要もないでしょう。
パウロの愛の教えで独特の質は後半にあります。この独自性は、イエスの場合は「敵を愛しなさい」という激しい言葉で際立っていましたが、パウロはイエスの言葉を引用してそれに従うように勧めるのではなく、聖霊の力で生きてきた自分の言葉で勧告します。エクレシアの外にいる人はキリスト者を迫害することが多いのですが、迫害する者を呪うのではなく祝福するように求めます。これは「迫害する者のために祈れ」と教えられたイエスと同じです。しかし、外の人は迫害する者ばかりではありません。多くの人はこの世の幸不幸に一喜一憂し、貧窮や低い境遇から脱出するために懸命の努力をしています。キリストにある者は、自分はこの世を超えた高度な真理を与えられているとして、外の人々のそのような努力や喜びや涙を高みから見下ろすのではなく、彼らの喜びと涙を共にして、彼らの努力から学びつつ、すべての人と平和に過ごすように勧めます。そして誰に対しても、とくにこの社会で敵対する人に対しても、「悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮する」ことを大原則として生きることを求めます。パウロは《アガペー》の命の質を、「悪に征服されることなく、善をもって悪を征服する」ところに見ています。
パウロは恩恵《カリス》の使徒です。しかし、神の恩恵の働きはすべて神の愛という神の命の質から出ていることを深く自覚しています。それだからこそ、神の恩恵を説く言葉が一段落して魂が高揚する時には、神の愛への感謝と賛美が迸り出ます。第一部の終わりでは五章の八節で、そして第二部では八章の最後(三二〜三九節)で溢れ出ていました。今、使徒はすべてのキリスト者にこの神の愛の命の質をもって生きるように求め、それを「悪に征服されることなく、善をもって悪を征服するように」という勧告で締めくくります。世には悪が満ちています。その悪が自分に向かって来た時、同じ悪をもって対抗するのであれば、悪に制服されたことになります。悪に対して善を行うことによってのみ「善をもって悪を征服した」ことになります。このようにキリストにある者、無条件の神の恩恵に生きる者は、相手の善悪にかかわらず無条件に善を行う他はないのです。ここに恩恵の場に生きる者の倫理の総体があります。

d 統治する権威に対して 一三・一〜七

人間の社会は、その社会を統治する権力に支配されて統治されています。とくに今パウロが手紙を書いているローマのキリスト者は、ローマ帝国全体の支配者であるローマ皇帝の膝元であり、権力者の支配を具体的に感じて暮らしています。このローマのキリスト者に統治者(権力者)に対する姿勢や心構えを説くことで、パウロは一般のキリスト者に、この現実の社会での生活の仕方と心構えを勧告します。その勧告の基調は、最初の書き出しの言葉(一三・一)で言い尽くされています。パウロは、「すべての人間は上にある権威に服従しなさい」と言って、すべての人間に向かって権威への服従を求めます。そして、その根拠として、「神によらない権威はなく、現にある権威は神によって立てられたものだからです」という事実をあげます。
確かにここでパウロが言っているように、「権威はあなたにとって善のために神に仕える者なのです。しかし、悪を行うのであれば怖れなさい。権威は無意味に剣を帯びているのではないのですから。神に仕える者として、悪にたずさわる者に怒りをもって報いるのです」。この世の財貨をもって人の生を助けるという善をなす者は警察や裁判所を恐れることはありません。他者のものを奪ってその生を妨げる悪を為そうとする者は官憲を恐れなくてはなりません。この世のものを支配しているのは権力者です。彼に所属しているものは彼に返すべきです。ここでパウロが勧告しているのは、「皇帝のものは皇帝に返す」ことです。しかし、魂とか霊と呼ばれる人間存在の深みは神のものです。パウロはこのことはこれまでのところで十分にしてきました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたイエスの言葉が、社会問題についての私たちキリスト者の基本です。
この一段(一三・一〜七)に書かれている服従への勧告とその根拠づけは、今日まで二千年にわたるキリスト教の歴史に大きな波紋を引き起こし、新約聖書の中で最も影響力が大きいテキストの一つとなりました。新約聖書の他の文書も大抵はこのパウロの路線を引き継いでいますが、やがて時代の変化に伴って、中には上に立つ政治権力(ローマ帝国の権力)をサタンからのものと断じ、その支配に命をかけて抵抗するように励ます文書も含まれるようになります。ヨハネの黙示録です。権力が神によって立てられたものであるならば、その権力が神の意志に背く権力になった場合は、ペトロが言ったように「人に従うより神に従うべきである」と言って、神の名によって抵抗しなければならなくなります。歴史の実際にはそういう場合が多くなります。政治権力は他者を自分に服従させる実力(武力)を持っているのですから、思い上がってすべての民を自分の意志通り無条件に従わせようとし、自分を神の位置に置いてしまう誘惑に駆られ、その通りになってしまう場合が出てきます。この権力の悪霊化ほど恐ろしいものはありません。無条件に従うことを求めることができるのは、無条件に自分を与えて恩恵によって召してくださっている神だけであることを知るキリスト者は、このように悪霊化した権力にはノーを言わざるをえません。これは権力に対する預言者の戦いを継承するものです。「神のものは神に返す」行為です。

e キリスト者の標識 一三・八〜一四

このような一般的な勧めをした上で、パウロはキリスト者がキリスト者であるゆえに内に持っている特別な衝動による生き方を指し示して、キリスト者の標識としています。その一つは愛《アガペー》による生き方です(一三・八〜一〇)。先の権力を持つ者に対する姿勢を「負債を返す」という表現で勧告したパウロは(一三・七)、その延長として負債のない生活を勧めます。負債は人の自由や独立や自信を失わせやすいものです。しかし隣人を愛するという神に対する負債は別で、この負債は払い切れません。キリスト者は神に愛されていることを知るゆえに、隣人を愛することで、神のものは神に返すように努めています。そして、隣人を愛することは律法を満たす、すなわち神が人間に求めておられることを満たします。律法は多くの「するな」という禁止規定で成り立っていますが、それをすべて守ったからといって、それで愛が成り立つわけではありません。愛は行為の集積から出るものではなく、生命の質です。恩恵の場で神の愛を受けた者が、その愛の生命で愛に生きる時に、おのずから神の求めを満たすのです。
もう一つは「時をわきまえている」という在り方です(一三・一一〜一四)。キリスト者は、キリストの十字架の死と復活によって神の救済の働きが成し遂げられたことを知っています。しかしその救済はキリストが栄光の中に来られる来臨《パルーシア》の時に完成することも知っています。キリスト者は、今はこの二つの決定的な時《カイロス》の間に生きていることを自覚しています。このことはパウロがここで「すでに来ている」と「近づいている」という表現を使っていることにも現れています。時をわきまえている者は、その時に相応しい形で生活します。キリスト者は日中に歩く者として、その時にふさわしく、もはや酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみというような夜の生活に歩むことはありません。
このように、「この世と同じかたちになることなく、かたちを変えられて、意識を新たにし」で始まった実践的な勧告は、今の時にふさわしく生きるようにという勧告で締めくくられて終わります。

B 強い者と弱い者 (一四章と一五章)

a 問題の所在

ここでパウロは一転して、ローマ集会に特有の問題についての勧告に入ります。それは確信の弱い者と強い者の対立の問題です。冒頭でパウロは「確信の弱い人を受け入れなさい」(一四・一)と言って、この部分を始めています。そして、最後に両方に向かって「互いに相手を受け入れなさい」(一五・七〜一三)という勧告で締めくくって、この部分を囲い込んでいます。ここで問題になっているのは、「《ピスティス》の弱い人」とそうでない人との対立です。そうでない人は「強い人」(一五・一)という表現で出て来ますが、当然「《ピスティス》が強い人」の意味です。ここで言う《ピスティス》は、信仰によって義とされる(神に受け入れられる)というときの信仰ではなくて、キリストにある者としての生き方についての確信という意味で、確信と訳すべき場合です。具体的には、キリストにあって賜っている宗教的規定から自由な生き方についての確信の強弱の問題です。パウロ自身は「わたしたち強い者は」と言って(一五・一)、自分を強い者に数えています。パウロはユダヤ人でありながら、もはやユダヤ教の諸規定には拘束されていない自由な者であることを強く確信していました(ガラテヤ書)。しかし、キリスト信仰に入っていてもなおユダヤ教の諸規定を順守しなければならないと考えている人もいるのが事実です。パウロのような確信の強いユダヤ人がいる一方、キリストにある自由の確信が弱いユダヤ人もいて、新しく信仰に入って来た異邦人はどちらが正しいのか迷う場合が多かったのではと推察されます。実際、コリントの集会にはこの確信の強い者と弱い者がいて、パウロはその解決に苦労しなければなりませんでした(コリント第一書簡の八章、パウロはこのローマ書をコリントで書いています)。この問題を放置して集会が分裂するようなことになれば、無割礼の福音を宣べ伝え 、その福音によってエクレシアを形成して来たパウロにとって、その福音が立つか倒れるかの深刻な問題です。パウロは慎重に対処しなければならない重要問題です。

b 確信の強い者と弱い者 一四・一〜一二

同じキリストの民の中に確信の強い者と弱い者がいる事実を認め、パウロは強い者は弱い者を軽蔑することなく、弱い者は強い者を批判することなく、互いにキリストの民として受け入れるように強く勧告します。そしてこの強い者とか弱い者の違いを、食べ物と特別の日の問題を例にして説明しています。食べ物についてはコリント第一書簡(八・一〜一三)に取り上げられていますように、ローマでもすべての肉は偶像の宮に捧げられた肉のお下がりであるので、それを食べることは偶像礼拝の穢れを受けるのでできないとして、野菜だけを食べている人のことです。「ある日を他の日よりも尊ぶ人」というのは、安息日というような宗教的な特別の日の規定を守る人のことでしょう。両方とも宗教規定、とくにユダヤ教規定の順守の問題です。福音においては、すなわちキリストにあっては、そういう宗教的規定からは解放されて自由になっているのに、先祖伝来の宗教規定の拘束から自由になれず、そのような規定を順守する必要があると確信している人たちがいます。パウロはそのような弱い人もキリストの民として受け入れるように、そして宗教規定を順守している人は、そのような宗教規定からは解放されているとして、その規定を守っていない人を批判して排除することのないように勧告します。
そうすべき理由として、お互いに相手の人は自分の召使ではなく、他の人の召使(キリストのしもべ)であるのだから、その人は主人の意向に従って行動しているのであり、立つも倒れるも主人によるのであって、他人が口出しすることではない、という理由を上げています(一四・四)。その理由を述べる文(一四・七〜一二)の中でパウロは、キリスト者の生き方として次のような重要な発言をしています。「わたしたちの中では、だれ一人自分のために生きる者はなく、だれ一人自分のために死ぬ者はありません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのです」(一四・七〜八)。

c 兄弟をつまずかせるな 一四・一三〜二三

以上に述べたように、わたしたちが互いに主であるキリストのしもべであるならば、お互いに裁く(批判する)ことはしないで、むしろ行動の方針として他の主人のしもべの前に妨げやつまずきとなるものを置かないように心がけることが必要です。お互いに相手の確信を尊重して行動することが大切です。自分の知識で相手を批判するのではなく、相手の立場(確信)を尊重して行動することが愛による歩みです。もし自分の知識によって相手に自分の確信に反した行動をとらせるならば、それはつまずきを置いたことになり、愛に反することです。パウロは弱い人をつまずかせないためであれば、これからは一切肉を食べず酒を飲まない決心をしています。
ここでパウロはキリスト者にとって重要な発言をしています。「神の国は食べることや飲むことではなく、聖霊による義と平和と喜びです」(一四・一七)。「神の国」の本質は「聖霊による義と平和と喜び」であるのだから、「神の国」にとって本質的なことではない食べることや飲むことで神のわざ(神の支配の確立)をさまたげることはしないという決心をしています。キリストのしもべのなすべきことは、キリストを証言し告知することによって「聖霊による義と平和と喜び」を世にもたらすことであって、それと関係のないことでその働きの妨げになってはなりません。食べ物規定や特別の日の順守の問題は宗教規定(この場合はユダヤ教の規定)の問題ですから、これは割礼を受けてすべての律法(ユダヤ教の規定)を順守する義務を負うことと通底しています。恩恵の場に入るのにあれほど強く異邦人が割礼を受けることに反対したパウロは、キリストにあっては割礼を受けている者の確信を尊重している様子が見られます。ここにもパウロの宗教相対主義の精神がみられます。パウロのこの精神は、日本における無教会主義と教会との関係でも重要ではないかと思います。

このように第四部の実践的勧告を終えたパウロは、ローマ書本体の福音の提示を終え、これからの予定とか個人的な挨拶を書いて書簡を閉じます。この部分に関しては先に触れていますので、ローマ書による福音提示の要約は以上にとどめ、次項Vではこの福音をもって各地に信仰者の集会を形成したパウロが、その諸集会をキリストのエクレシアとして建て上げるために注いだ努力の跡を、彼の書簡から見ることにします。

V パウロのエクレシア形成の努力

はじめに

本節「使徒パウロによるキリストの福音」では、まずパウロの福音の提示として最後の書簡であるローマ書がその要約を示しているとして(T)、その内容の概要をまとめてみました(U)。続いて第三項として、そこで見たようなキリストの福音を携えて地中海世界の各地に活動し、とくにアンティオキア共同体から独立して自給の形で福音告知の活動をして、エーゲ海地域に異邦人を主体とする集会を形成し、その福音を信じる民の共同体を発足させた使徒が、それらの共同体を「神のエクレシア」として形成するためにいかに努力したか、パウロの福音告知の活動の目標とも言うべきものを見ておきたいと思います。

集会形成のための労苦 ― アナトリア縦断の旅

パウロは独立自給の福音告知の活動に入る前に、すでにアンティオキア共同体の指導者であり同志であるバルナバと一緒に、キプロスで福音を伝えた後、アナトリア(アジア大陸の西端に突き出た大きな半島、ほぼ現在のトルコ領)に渡って、ピシディア地方の中心都市アンティオキアをはじめ、そこから東に進んでイコニオン、リストラ、デルベなど、ガラテヤ州南部の諸都市に福音を伝え、信じる者の集会を形成してきました。一般的にこの伝道旅行はパウロの「第一次伝道旅行」と呼ばれていますが、これはアンティオキア共同体からその代表者とも言うべきバルナバと一緒に派遣された活動であり、パウロがアンティオキア共同体から別れて独立で行った活動と並べて呼ぶことには疑問があります(パウロがアンティオキア共同体から別れて行動した事情については、本書二九〇頁以下の「X 使徒パウロの独立福音活動」の項を参照)。しかし、パウロはこれらの諸集会を自分が福音を伝えて形成した集会として深く心にとどめ祈りを絶やさず、気にかけていました。その証拠に、パウロ一向がデルベまで東に進んだのは、もう少し東に行って「キリキアの峡門」を南下すれば、タルソを通ってアンティオキアに帰還できると考えたからでしょうが、そうはしないでデルベから引き返して西進し、それらの諸集会を再訪し、しっかり信仰に立つように励ましたという事実からも分かります(使徒一四・二一〜二六)。
それで、パウロがバルナバとは別行動を取るようになって、バルナバがマルコを連れてキプロスの諸集会を再訪して励ますことにしたとき、パウロはシラスを伴って再びアナトリアの諸集会を訪れることになります。しかし、今回は前回とは逆にタルソから北に向かい、「キリキアの峡門」を通ってアナトリア高原に入り、先に訪れたガリラヤ州南部の諸都市を逆方向に訪れようとします。事実、パウロはデルベからリストラまで行って、そこでテモテという青年に出会い、彼も一行に加えています。ところがなぜかそこから西進せず北に向かい、ガラテヤ地方に入ります。ガラテヤ地方(現在のアンカラを中心とする地域)というのは、南北に長いガラテヤ州のほぼ中央に位置し、もともとガラテヤ人と呼ばれたケルト系の民が、文化も気風も周囲のヘレニズム世界とは違う独立の王国を形成していましたが、前二五年にローマの属州となり、ガラテヤ州に組み入れられました。パウロの一行がなぜこのようなユダヤ人もいない未開のガラテヤ地方に赴いたのか不思議です。ルカはその行動を御霊の禁止の声に帰していますが、パウロの心情からすれば、キプロスに渡ったバルナバが前回のようにアナトリアに渡り、北上してピシディアのアンティオキアに来ているのと鉢合わせすることを避けたのかもしれません。実は、パウロはこのコース(ピシディアのアンティオキアからデルベ)を以前にバルナバと一緒に歩き、リストラではユダヤ人からの石打ちにあって死ぬ思いをしています。今回のシラスとテモテを伴った旅は二度目のアナトリアの旅です。そして、この後三度目になりますが、やはりアンティオキアからキリキアの峡門を超えてアナトリアの山岳地帯に入り、「内陸の地方を通ってエフェソに下って来て」います。パウロは三回この困難なアナトリア縦断の旅をしています。
いったいパウロはこの独立の伝道活動を開始するにあたってどこを目指したのでしょうか。パウロは後に書いた手紙でローマを目指していたと書いていますが、実際の旅程からすると最初はギリシア本土を目指したのではないかと推察されます。パウロ一行はガラテヤ地方から北のビティニア州に入ろうとしますが(おそらくニコメディアを目指して)、「イエスの霊がそれを許さず」、結局はアナトリア西端の港町のトロアスに入ります。パウロの一行はアナトリアの東の付け根の南部の部分にあるアンティオキアから北寄りにあるガラテヤ地方を経て西端のトロアスまで、大陸とも言うべきこの大きな半島の高地を南北に横断しながら東端から西端まで縦走したことになります。これは驚くべき事実です。アンティオキアからトロアスまでは直線距離で一〇〇〇キロほどあり(これはほぼ北海道から九州に至る距離です)、山間の迂回を考えると一〇〇〇メートル以上の高低差のある高地の坂道を千数百キロにわたって自分の荷物を背負ってすべて徒歩で旅をするのは、まさに超人的な事業です。いくらローマ帝国が軍用の舗装道路を全国に張り巡らせた時代とはいえ、宿泊施設のない区間もあり、野宿の夜もあったことでしょう。現代のパウロ研究者が車でこの旅程を走破して、これをすべて徒歩で歩き通したパウロの情熱に驚嘆して、『旅のパウロ ― その経験と運命』という著作を出して、パウロの福音が決して書斎の産物ではなく、旅の労苦で鍛えられたものであることを世に示しています。

その著作とは佐藤研『旅のパウロ ー その経験と運命』 (岩波書店、二〇一二年)です。著者はこのアナトリアの区間だけでなく、パウロのローマに至る旅程をすべて、自動車による旅ですが走破して、行き先の諸都市とその道程の具体的な実情を詳しく報告しており、パウロ理解について重要な提言をしています。その中で一箇所、教会的立場の著者がパウロの「無割礼の福音」について興味深い発言をしているところがありますので紹介しておきます。「ユダヤ教の中からいわば自己革命的な思想が出てきたのです。ユダヤ教徒であるにもかかわらず、ユダヤ教の枠を越えようとして、そのことがユダヤ教の元来のあり方、つまり神の元来の意志だというとらえ方です。今日の状況に置き直して、キリスト教に当てはめてみれば、バプテスマを受けてキリスト教徒にならなくても、キリスト教の救いにあずかれると言っているのと同じことです」と著者は言っています(同書八七頁)。まさにそのことを日本の内村鑑三が言ったのです。これは欧米のキリスト教からは出てこない主張です。わたしも『教会の外のキリスト』でその主張をしています(ただしキリスト教の救いではなく、キリストの救いです)。著者はパウロの「無割礼の福音」の革命性を引き立てるために内村の無教会主義を引用しているだけで、その主張に共鳴して実践しているのではないのでしょうが、現代のキリスト教会はパウロの「無割礼の福音」の主張を真剣に受け止めるべきだと思います。それは現代では「無洗礼の福音」となります(コリントT一・一七参照)。

集会の目的 ― 神の民形成のために

パウロはトロアスからマケドニアに渡ってからは、エーゲ海を取り囲むギリシア文明発祥の地を巡って福音を告げ知らせ、その主要都市に信じる者の集会を形成しました。エーゲ海の北ではマケドニア州(フィリピ、テサロニケ、ベレア)、西ではアカイア州(コリント)、東ではアジア州(エフェソおよびコロサイなどの周辺諸都市)です。これらのエーゲ海を囲む地域では船便も多く、その地域を駆け巡るパウロ一行の旅も、アナトリアの縦断ほどの困難はなかったでしょうが、それでも陸路も多く、持病か障害を抱えたパウロには厳しい旅であったと想像されます。
このような困難な旅、まさに超人的な旅を続けさせるエネルギーはどこから来るのでしょうか。もちろんそれは復活されたキリストこそがすべての民を救う方であるのだから、この救い主をすべての国民に伝えなければならないという使命感からですが、その中でも、その救い主であるキリストがすぐにも来臨されて、神の民の招集を終わり、神の民の数が満ちて完成される時が近いという強い切迫感があったからであると考えられます。このキリスト来臨《パルーシア》の信仰はテサロニケ第一書簡の四章に見られます。パウロはその福音活動の初めからこのように告知していましたし、その活動の最後に書いたローマ書にもそのように信じていたことがうかがえます。だからこそ、パウロはどの州の民もキリスト出現の報知は聞かなければならないとして、帝国のすべての州の州都に、また地域の中心となる大都市にこの福音を証言する集会の形成を急いだのです。パウロは自分の生涯のうちにキリストが来臨されると考えていたようで、帝国(それは当時の人には全世界でした)の東半分には福音を満たしたのだから、西の端のスペインまで福音を告げ知らせておかなければという使命感に燃えていました(ローマ一五・二三)。
しかし、一個人であるパウロが福音告知の活動を及ぼすことができる地域と時間は限られています。パウロは自分と協力者たちの努力によって、帝国各地の主要都市にキリストの民の集会を形成することによって、自分がいない時でも継続的に福音を地域の人々に告げ知らせることができるように精力を傾けます。しかし、そのために形成した集会は、生身の人間が形成する共同体ですから、様々な種類の問題やトラブルが絶えませんでした。とくにパウロが形成した集会はおもに異邦人が主体となっていた集会でした。異邦人は、ユダヤ人のように長年にわたって神の啓示の言葉を与えられて、救済史信仰を鍛えられた民ではありません。最近まで様々な異教の宗教の中にいた人たちです。そのような人たちが形成する共同体として、その内部に宗教的思想の相違や生活上の実際の意見の衝突があっても仕方がありません。パウロはそのような問題を解決して、集会を自分の理想とする集会にするために真剣に取り組んでいます。パウロはその願いを次のように書いています。「わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(フィリピ二・一二〜一六)。ここの「従順」はパウロへの従順ではなく、神の言葉(ここでは福音)への従順、「信仰の従順」です。パウロのほとんどの手紙はこのエクレシア形成のための取り組みを証言しています。以下の諸項目でパウロの書簡が証言するその取り組みを見ることにします。

神のエクレシア《エクレーシア・トゥ・テウゥ》

最初にパウロが福音によって形成された諸集会をどのように見ていたのかを、彼の手紙から見ておきます。パウロはエフェソからコリントの人たちに宛てた手紙で、彼らを「神の《エクレーシア》」と呼んで挨拶を送っています(コリントT一・一〜九)。この箇所はパウロの《エクレーシア》理解の基本を示しており重要です。旧約聖書は神の民を指すのに《カハル・エール》(神の会衆)というヘブライ語を用いました。最初期のキリスト者が用いていた七十人訳ギリシア語聖書は、この《カーハール》(会衆)という語を《シュナゴーゲー》と《エクレーシア》という二つのギリシア語で訳していましたが、キリスト者はユダヤ教徒一般を広く指す《シュナゴーゲー》は用いず、神が終わりの日にイスラエルの民の中から選び分かたれた神の民を指す用語として《エクレーシア》の方を用いました。《シュナゴーゲー》がユダヤ教徒の共同体を指すようになっていたのに対して、《エクレーシア》はもともとポリスの中で市会に呼び集められた自由民を指す語であったので、終わりの日に神に選ばれて呼び集められた民を指すのに適切であったのでしょう。
先の項でローマ書をまとめた時に第三部のイスラエルの救いについて見たように、パウロはイスラエルという本来の神の民に異邦人が加えられることによって、そしてその両方の数が満ちることによって神の支配が完成するというという終末観を抱いていました。その終末的な神の民の「残りの者」という根に異邦人の中から召された者が接木されて「神の会衆」《エクレーシア・トゥ・テウゥ》が完成すると信じていました。パウロが異邦人の諸集会からの献金をエルサレム集会に届けることにあれほど熱心であったのは、それが彼の終末的な神の民の実現に必要な証であったからです。単なる「義理堅さ」からではありません。パウロは自分が歴史の中にもたらした諸集会がおもに異邦人から成り、イスラエルの民が受け継いできた救済史的な伝統に不慣れなことを心配して、ユダヤ人と異邦人の融合に心を配りました。しかし、歴史の実情はパウロの期待に反して、パウロが舞台から去ると、ほぼ同時期にエルサレム共同体を代表するヤコブは殺され、エルサレム共同体は辺地に逃れて、ユダヤ戦争によるエルサレムと神殿の崩壊にともない歴史の舞台から消えて行きます。《エクレーシア》は以後のユダヤ教徒の共同体である《シュナゴーゲー》とますます対立するようになり、パウロ以後の時代では急速にユダヤ教とは別の信仰共同体であるとの自覚を深めることになります。これが後にキリスト教がユダヤ教とは別の宗教が成立する地盤になります。

神の宮としてのエクレシア

 コリント書簡や他の書簡でパウロがエクレシアについて語るところは、おもに異邦人から成るキリスト信仰共同体を神の民としてふさわしい民とするためのパウロの懸命な努力のあとがうかがわれる貴重な証言です。とくにコリント書簡はパウロの福音活動の最後の時期になるエフェソ滞在中に書かれた書簡として、彼の福音の思想的な要約となるローマ書簡と並んで、実践的な面で福音の提示を担っている重要な文書になります。その重要性はローマ書に比べて勝るとも劣ることはない書簡です。
パウロはこのコリント第一書簡(三章)で、エクレシアは神がそこに住まれる「神の宮」であることをエクレシアに自覚させるように言葉を尽くして語っています。パウロがこの書簡で最初に取り上げている重要問題は、コリントにおける分派問題です。コリントでは「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っていることを伝え聞いたパウロは(コリントT一・一一〜一二)、そのように分派を作ることはキリストをいくつにも分ける行為だとして、この手紙の最初の三章を使って分派を厳しく戒めています。その中に、キリスト信仰は人間の知恵に絶して、愚かさの極みと見える「十字架につけられたままの復活者キリスト」の告知にだけ生きることであるという、極めて重要な秘義が語られています(二章)。しかし、この分派問題が最後に具体的に取り上げられるのが三章のエクレシアの一致の問題です。
パウロはまずコリントにパウロ派とアポロ派という分派があって、互いに妬みや争いを起こしている事実を取り上げて戒めています。初めは、パウロは植えアポロは水を注いだが、神が作物を成長させたという畑の比喩を用いていますが、すぐに建物の比喩に移行して、パウロが据えたイエス・キリストという土台の上に、後から来た働き人(アポロやペトロ)がいろいろな材料で家を建てるのだと言って、そうして建てられた建物こそが神の建物、すなわち神殿であるとします。そして「あなたがたは、自分たちが神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と問いかけます(コリントT三・一六)。地上には神々の住まいであると称する神殿や宮が数多くありますが、天地万物の創造者である唯一の神が住まれる神殿は、「あなたたち」すなわちキリスト信仰によって形成されたエクレシアであると言うのです。キリストにある交わりは、その中に働く聖霊によって形成され、その中に聖霊が住まわれる神殿なのです。この事実を知るキリスト者は、人の手が作った神殿やお宮には神が住んでいないことを知っています。エクレシアこそ神が住み、神の霊が働く神殿です。ですから、分派行為などで神の住まいを壊す者は、神がその人を滅ぼされます。神殿は聖なるものです(三・一七)。このような厳しい警告をもって、人間の知恵を誇って分派行為を行う者を戒めます。
パウロはこの書簡のほかの箇所(六・一九)で、キリスト者は一人ひとりがその体の中に聖霊を宿す神殿だとしています。その事実を自覚することで、キリストにある者はその身体をみだらなことに用いることなく、身体をもって神の栄光を現すように求めています。パウロがこのように個々のキリスト者に身体の行為において聖なることを求めるのは、エクレシアが聖なる神の住まいとして聖なるものであるからです。ガラテヤ書(五・一六)では、キリスト者個人の倫理も「御霊によって歩め」の一語で要約されています。個人の肉の欲求から出る汚れや罪は、聖なるエクレシアの交わりを妨げるからです。御霊によって歩む限り、肉の欲求を満たすことはなく、エクレシアを聖なるものとして保ち、その一致を保つことができるからです。

終末的共同体としてのエクレシア

パウロはダマスコ途上で復活されたイエスと遭遇して回心し、このイエスをキリストとして告知する活動に身を捧げました。そして三年後にエルサレムに上り、ペトロを通してエルサレム共同体の信仰告白を受け継ぎ、それから一〇数年バルナバと共に働いたアンティオキア共同体でも、同じ信仰を深め、その信仰を宣べ伝えてきました。その信仰告白の内容は、パウロ自身がその書簡の中で引用しています(コリントT一五・三〜五、ローマ一・二〜四など)。基本的には、キリストであるイエスの十字架の死と復活において神が成し遂げられた人間の贖い(救い)の告知です。しかしその中に、今は栄光の中に父と共にいます復活のキリストがやがてこの世界に来臨されて、その働きを完成されるという《パルーシア》(来臨)の信仰が含まれていたことは確かです。その事実は、パウロがその独立の福音告知活動の最初の時期に形成されたテサロニケの集会に当てた書簡(テサロニケ第一書簡)が、このキリストの《パルーシア》を主題として扱っているという事実からも明白です。パウロの福音活動を伝えるルカの文書(使徒言行録)では、間近なキリストの来臨を待望するという《パルーシア》信仰を克服して、エクレシアが歴史の中を歩むことになる覚悟を求める時代を迎え、《パルーシア》信仰は後退し、ルカの使徒言行録ではエルサレム共同体もアンティオキア共同体もそのような《パルーシア》信仰に燃えていた様子はうかがえません。しかしパウロの時代の共同体がこのような間近な復活者キリストの来臨を待ち望む共同体であったことは確実です。パウロ自身も、自分の生存中にキリストの来臨があると考えていたことが、その後期の書簡からもうかがえます(コリントT一五・五二)。
パウロはキリストの間近な来臨を待望する当時の《パルーシア》信仰を共にしていますが、パウロにはこのユダヤ教黙示思想的な終末信仰を克服する萌芽が見られます。それは、パウロがこの出来事をキリストの《アポカリュプシス》と呼んでいるという事実です(コリントT一・七)。《パルーシア》という語は到着という意味で、今はここにいない人が到着することです。それに対して《アポカリュプシス》というのは、覆いが取り除かれて隠れているものが顕れるという意味の語です。《パルーシア》信仰は、天に帰って今はここにおられないキリストが帰って来られるという信仰で、普通「再臨」と言われています。それに対して《アポカリュプシス》は、今すでにここに隠された姿でおられるキリストが、覆いを取り除かれて顕れることを指しています。この語を使うことで、パウロはキリストが今すでにエクレシアの中におられるのであるが、やがて時が満ちてキリストが顕な形でその充満を現される時が来るとの信仰です。エクレシアの中に聖霊が働いておられるという事実は、キリストがその内におられて働いておられることを意味します。それがなければキリストの民ではありません(ローマ書八・九〜一〇)。パウロはこのような形での将来を熱く待望しているので、キリストにある者の希望を語るローマ書(八・一八〜二五)では、この《アポカリュプシス》とその動詞形を用いることになります。
おもに異邦人から成る集まりを、このようなキリストの「顕現」《アポカリュプシス》を待ち望む「神のエクレシア」として形成するためにパウロはこのコリント書簡を書いています。その全体が終末的な民の健全な成長を目指しているのは当然です。その民の終末的性格は初めの挨拶の言葉(一・四〜九)からも十分に感じられますが、手紙の本体部分でその集会が神の霊が住む神の宮であることを自覚させ(三章)、結婚生活や性生活の問題、裁判などの社会生活全般にわたって(六〜七章)、具体的な指示を与えています。ここでその細目に立ち入ることはできませんので講解や注解書に委ねて、ここではエクレシアの終末性を以下の三つの点に絞って見ておきます。

宗教的祭儀とエクレシア ー 主の晩餐をめぐる諸問題

社会的な体制宗教となった諸宗教には、まず必ずその宗教が目標とする境地を指し示す象徴としての儀式(祭儀)があります。むしろ宗教とはそのような祭儀のシステムだと言ってよいぐらいです。そして諸宗教はそれらの祭儀を宗教自身とし、その祭儀を欠けるところなく実行しなければ、その宗教に所属する者ではないとします。その宗教が指定する祭儀の実行を、その宗教が提供する救済(神とのあるべき関わり)の条件とし、またその宗教が統合している共同体への所属の条件としています。祭儀に加わらない者を、その宗教から、すなわちその宗教が統合している共同体から排除します。象徴が条件になっています。宗教共同体であるローマがローマの神々の礼拝儀礼に参加しないキリスト者を迫害したのもその実例です。
たとえば赤という色は、血液とか内なる情熱とかある政党の主張とか様々な事実を象徴しています。ところで、信号機の赤は「停止せよ」という国家の命令です。従って赤信号を無視して停止しない者は国家の法律によって処罰されます。しかし、信号機以外の赤にどのように対応するかは自由です。赤色をどのように図案に使用するかは勝手です。信号機の赤は、象徴が条件になっている場合です。ところで、宗教において象徴が条件となる場合は、様々な問題が起こります。ある宗教が自分の祭儀なり教義(教義は言葉を象徴として用いています)を救いの条件とする時、その宗教は自己を絶対化して、その祭儀なり教義を救済を求める人間に強制することになります。人間は宗教を外からの拘束と感じるようになります。宗教は人間にとって軛となります。イエスは宗教における条件をすべて取り払われたのです。安息日やその他のユダヤ教の規定や祭儀を行う事ができない人たちを無条件で神の支配に受け入れられたのです。キリストあって神は背く者を無条件に赦し受け入れておられます。ここに恩恵の支配が実現しています。パウロがあれほど割礼という儀礼を受けようとすることに強く反対したのは、その儀礼を救済の条件としようとした者への激しい反対からです。すでに割礼を受けていて信仰に入った者には、割礼のままでいること(ユダヤ教徒にとどまること)に反対しませんでした。
パウロはこの書簡(三章)で、コリントのキリスト者の集会はその内に神の霊が住んでおられる神の宮であることを強調しました。人の手が建てた神殿とそこで行われる祭儀の中に神がおられるのではなく、キリストにある者の集まりがすでに神の霊が住み、その働きの場となるという終末的な現実が起こっていることを強調していました。それは預言者が終わりの日に地上に実現すると待ち望んだ現実、終末的現実です(エレミヤ三一・三一〜三四、ルカ一〇・二三〜二四)。キリスト信仰によってその終末的現実が来ているのに、さらにある宗教の象徴をそのための条件とすることにパウロは耐えられなかったのです。信じる者はすべて割礼を受けるべきだという主張は、福音告知の活動をユダヤ教への改宗運動にします。
そのパウロがコリントの集会に「主の晩餐」と呼ばれる行事を正しく行うように勧めています(一一・一七〜三四)。「主の晩餐」と呼ばれていた行事は、神殿で行われる祭儀ではなく、キリスト者の集まりで行われる食事の交わりでした。パウロの時代に行われていた集会がどのような順序と内容で行われていたのか、正確に再現することはできません。おそらく使徒が語り伝えるイエスの伝承、使徒の教え、聖書(旧約聖書)の朗読や解釈、詩篇などの賛美の歌、祈りなどの後、食事を共にして、主イエス・キリストを礼拝したと考えられます。アンティオキア共同体はこの共同の食事を礼拝の重要な要素としていたことが、ペトロと衝突した時のパウロの姿勢からもうかがえます。パウロはこの共同の食事についてコリントの集会で問題があることを聞き及んで、この食事の在り方について注意し、コリントの人たちに警告します。
注意をするさいに、パウロは彼自身が受けた主からの伝承を引用します(一一・二三〜二五。二六節はこの食事に対するパウロの意義づけです)。この伝承は後に共観福音書に「最後の晩餐」の伝承として伝えられている伝承の中のルカが伝える伝承の系列に属しているようです。イエスは地上におられる時、いつも弟子たちと食事を共にされましたが、翌日には十字架に「引き渡される夜」、最後となる食事の席で、パンを裂いて与え、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」と言い、ぶどう酒の杯を回して、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われたと伝えられています。パウロはそれぞれに「わたしの記念としてこのように行いなさい」という言葉を加えて、キリストの民がイエスの死の意義を日常の食事の中に保持するように、イエスが望まれたことを強調しています。コリント書簡のこの箇所は、最後の晩餐の時のイエスの言葉が文書に記録された最初の文献です。
この「わたしの体、わたしの血」のお言葉は、イエスの十字架の死の意義をイエス自身が語り出されたものとして、イエス復活の証言と並んで、福音告知の言葉の中でもっとも基本的で重要なものです。最初期の共同体はこのお言葉を日常の食事の場で刻みこむために、集会の礼拝行為として行われる共同の食卓で唱えました。パウロはその後に「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(一一・二六)という言葉を加えて、この「主の晩餐」と呼ばれる共同の食事が、十字架、復活、来臨を含む福音告知活動の一部であることを自覚するように求めています。しかしコリントにおいては「主の晩餐」の食卓が、この意義を無視されて、富裕な者が貧しいものを顧みないで宴席を楽しむような場になっていることを心配して、パウロは会員の交流や日常の食事や宴席は各自の家でして、集会での食事はキリストの死の意義を告げ知らせるものにするように求めます。これが集会でのパンと杯が日常の食卓から切り離されて、教会の聖餐式になっていく過程の始まりです。
パンと杯が教会の儀式となるに伴って、キリストに自分を委ねる者であることを告白するバプテスマも、その聖餐にあずかる資格を得るための儀礼になります。もともと人がキリストに属するものであることの象徴であった水のバプテスマが聖餐にあずかるための条件となり、バプテスマと聖餐がキリストの民である事の条件となります。こうして、バプテスマと聖餐という二つの儀礼を基本的な祭儀とするキリスト教という宗教が成立し、バプテスマを受けて聖餐にあずからなければ神の祝福を受けられないとするキリスト教宗教が出現することになります。
 このようにパウロはキリストにあって歩む異邦人たちの集会に「主の晩餐」を行って、最後の食事の席でイエスが語られた言葉を 日常の食事の席で日々確かな言葉で受け取り、「十字架につけられた復活者キリスト」の秘義を深く身につけるように求めたのであって、新しい宗教祭儀の執行を求めたのではありません。しかし、エルサレム共同体ではこの最後の食事を記念する行事が、ユダヤ教の「過越の食事」の祭儀と重なって、「主の晩餐」が「過越の食事」として新しい宗教共同体の祭儀となっていきます。エルサレム共同体はユダヤ教の規定に忠実なヤコブの統率下にあり、全員が保守的なパレスチナ・ユダヤ人であったのですから、この傾向は避けられなかったと考えられます。そして、イエスが過越祭の時にエルサレムに入られ、その時期に死なれたのですから、この重なりは当然であり、イエスの死を過越祭の成就とすることも当然です。最初期前期の福音運動においてエルサレム共同体が中心的な位置にあり指導的な役割を果たしたことを考えると、最初期のエクレシア全体がこの方向に進み、エルサレム共同体の在り方が福音活動の主要な伝承になっていったのは当然です。
 この主流派の傾向に対して批判的であったのがヨハネ共同体であり、その福音書であるヨハネ福音書です。ヨハネ福音書は、イエスと弟子たちがとった最後の食事は過越の祭りの前日、「準備の日」であって、イエスは過越の羊が屠られている「準備の日」の午後に十字架につけられたことを明らかにしています。従って、最後の食事は「過越の食事」ではなかったのです。ユダヤ教徒が過越祭の当日以外の日に過越の食事をすることはありません。その食卓には「過越の食事」の主役である羊は出てきません。ヨハネ福音書は、主流の共同体において「主の晩餐」がユダヤ教の「過越の食事」をモデルにして新しい宗教祭儀になりつつあることに抗議して、あえて最後の食事がユダヤ教の過越の食事ではなかったことを、明らかにしたのではないかと考えられます。ヨハネ福音書はパウロの路線に踏みとどまり、祭儀化したバプテスマや聖餐に対して「故意の無関心」で批判しているように思われます。
福音を聞いて、福音が告知する復活者キリストに全存在を委ねて生きている人、すなわち「キリストにある」人の在り方の全体を、わたしは「キリスト信仰」と呼び、そのようにキリストにある人、キリストにあって聖霊によって歩んでいる人を「キリスト者」と呼んでいます。キリスト者は、洗礼を受けて聖餐にあずかり、キリスト教という宗教に所属している「キリスト教徒」、宗教統計にキリスト教徒として現れる教会員とは一応別です。必ずしも重なっていません。キリスト教徒の中に立派なキリスト者が多くいます。しかし神の霊、キリストの霊によって生きるのではなく、キリスト教の儀礼にあずかっている形だけのキリストの民もいます。彼らはキリスト教徒ですが、キリスト者ではありません。聖霊によって生きるキリスト者は終末的な現実であり、キリスト者の交わりであるエクレシアも、神の霊がその内に住んで働いておられる終末的な現実です。聖霊は神が終わりの日にその民に与えると約束されてきた賜物であり、聖霊によって生きるキリスト者とその共同体であるエクレシアは、終末が地上に、歴史の中に現実となってきている事態なのです。

愛の共同体としてのエクレシア ー 聖霊の賜物について

コリントの集会は聖霊の賜物が豊かな集会でした。エクレシアが発足したばかりの最初期においては、歴史の中に誕生した終末的な共同体を形成するために、神は必要な能力を賜物として豊かに注がれたのでしょう。しかしそれを受けた人間の側は、初めてのことなのでその能力を正しく目的に沿って使いこなすことに習熟しておらず、とくに異教から集められた人が多いコリントでは、混乱が生じていたのでしょう。おそらくコリントからパウロのもとに質問書を持ってきた人たちの質問事項の一つだったのでしょう。パウロはその質問に答える形で、この書簡の一二章から一四章で聖霊の賜物について丁寧に指導しています。
パウロは最初に、聖霊の働きのもっとも基本的な性格を明らかにします(一二・一〜三)。コリントの集会では霊の高揚の中で、「イエスはアナテマだ」とか「イエスはキュリオスである」というような声や叫びがあって混乱が見られたようです。「イエスはキュリオス(主)である」という叫びは、信仰の基本的な告白として当然であり理解できるのですが(ローマ一〇・九)、「イエスはアナテマ(除かれよ)」という声はどう意味で言われたのか、理解が難しく議論があります。おそらく、自分たちの信仰は霊なるキリストだけに依存すればよいのであって、十字架につけられた人間であるイエスの地上の言葉や働きは除外すればよいというような、将来グノーシス主義という形でエクレシアに侵入してくる思想の萌芽ではないかという理解もされます。パウロよりかなり後になりますが、ヨハネが「あなたたちはこうして神の霊を見分けるのです。すなわち、イエスを肉の形をとって来られたキリストと言い表す霊はすべて神からの霊です。そして、このイエスを言い表さない霊は神からのものではありません」(ヨハネT四・二〜三 私訳)と言っているのと同じであると理解してよいでしょう。
このように神からの霊の基本的な質を明らかにした上で、パウロはこの神の霊がエクレシアの各人に分け与えて神の民の形成のためになされる働きを詳しく記述し、その霊の賜物を用いる際の心構えを説きます。それがこの書簡の一二章から一四章に至る大きな部分を占めます。その一つ一つを詳しく解説することはできませんので、聖霊の賜物を用いる上で重要な各人の心構えについて、パウロが強調している数点に絞ってまとめておきます。
第一に、エクレシア形成のために必要な働きと能力には様々な種類があり、それは各人の才能や資格に応じるものでなく、神が賜物として恩恵によって分かち与える能力です(一二・四〜一一)。パウロはこの箇所で教える知恵や知識、病気のいやしなどの奇跡を行う力、預言や異言などの異常な言葉など、すべてを霊の働き、務め、現れと呼んで、それらを「賜物」《カリスマ》としています。無資格、無代価で賜ったものだから、その働きを自分の価値として誇り、他者を見下したり不必要なものとしてはなりません。このことを教えるためにパウロは集会を人体にたとえています(一二・一二〜一九)。人体には不要な肢体(メンバー)がないように、エクレシアの各人に無価値で不要なメンバーはいません。この人体の比喩は解りやすい比喩ですが、パウロには人体を比喩とするだけでなく、「あなたたちはキリストの体である」と言って(一二・二七〜三〇)、キリストにある共同体をキリストの体と実体的に同一視している面があります(一二・一二〜一三)。このことを語るパウロの言葉は重要ですので、私訳を掲げてその意味を確認しておきましょう。
パウロはこう言っています。「わたしたちはみな、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由人であろうと、一つの御霊によって一つの体の中へバプテスマされ(浸し入れられ)、みな一つの御霊を飲んだのです」(一二・一三 私訳)。ほとんどの日本語訳は、《バプティゾー》という動詞の受動態を「洗礼(バプテスマ)を受ける」と訳し、洗礼儀式を受けることと理解しています。しかしこの動詞の本来の意味は「(水などの中に)沈める、浸す」ということですから、前後に「御霊によって」と「体の中へ」という前置詞句を伴っていることからも、ここは「浸し入れる」という原意で用いていると理解すべきでしょう。ここでパウロは「聖霊によるバプテスマ」という出来事を指しているのです。この語が福音の恵みを指す標語になるのはマルコ以後であるにしても(マルコ一・八)、すでにパウロはこの表現をキリスト信仰の重要な場面で使っているのです。わたしたちは宗教的差異や身分的差異を越えて、ただ聖霊によってキリストの体に組み込まれてエクレシアという共同体を形成するのです。エクレシアはただ聖霊という終末的な神の働きによって形成されるのです。
第二に、すべての聖霊の賜物《カリスマ》は、「エクレシアを建てるために」与えられているのであるという目標の強調です。パウロは一四章で預言と異言という最初期のエクレシアに豊かにあったこの二つの《カリスマ》について、その性格と用い方について詳しく勧告しています。この二つの《カリスマ》は現代の教会には馴染み薄く、これがどういう事態を指しているのか理解できないでいます。最近この《カリスマ》の復興が見られることは喜ばしいことですが、馴染み薄いだけにその使用には混乱も見られ、ここでのパウロの勧告が重要になります。ここでパウロは、この御霊の賜物《カリスマ》が一つの目的のために与えられているものであることを繰り返しています(一四・五、一二など)。その目標が「教会を造り上げるために」と訳されていることも問題です。ここではエクレシアという霊的共同体が建物の比喩で語られていて、「建てる」という動詞が使われています。預言や異言、その他の御霊の賜物はすべて、「エクレシア」という霊的、終末的共同体をこの歴史の中に形成するために与えられていることを、キリスト者はつねに銘記する必要があります。
第三に、そしてもっとも重要なことは、エクレシアは愛《アガペー》の共同体であることです。使徒パウロは様々な霊の賜物《カリスマ》を列挙してその働きや能力を述べるこの区分(一二〜一四章)のただ中で、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」と励ました上で、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と言って(一二・三一)、一三章に入ります。この章で扱われる愛《アガペー》こそ、神の霊によって形成される終末的共同体としてのエクレシアのもっとも基本的で重要な中身です。パウロは最初に(一三・一〜三)、いかなる信仰の働きも苦労も愛《アガペー》がなければ何の益もない空しいものであることを強調した上で、愛の働きを(原語では)すべて動詞を並べて描きます(一三・四〜七)。愛《アガペー》は定義することはできず、ただその働きを記述してその実態を指し示すほかはありません。「愛は忍耐強い。愛は情け深い」と言った後、その後の動詞はほとんどが「〜しない」という否定形であることが目立ちます。ここで否定されている動詞は、通常の人間性に普通のこととされている性格とか行為です。たとえば最初のねたむという動詞は人間の通常の愛にはつきものです。このねたむという行為や心情のために人間の間の親しい関係においてわれわれはどれほど苦しむことでしょうか。聖霊がもたらす《アガペー》の愛はその「ねたみ」を駆逐するのです。以下多くの動詞を用いて、《アガペー》の愛がそれらを駆逐することで人間関係を平和と建設的な方向に導くことを述べて、《アガペー》の愛が破れやすい人間関係を救う力であることを示しています。パウロは最後にいかなる事態についても《アガペー》がとる姿勢を肯定の動詞を用いて記述して結びます。わたしはこの最後の文を次のように訳して愛唱しています。「愛はすべてを包み、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを担う」(一三・七)。
パウロは最後の一段(一三・八〜一三)で、愛だけが永遠に存続するものであることを語って、愛の尊さを強調しています。預言や異言や知識などは、部分的で一時的である、すなわち時代の必要に応じて、一部の人たちに与えられるものですが、信仰と愛と希望はいつの時代にもすべてのキリストにある者に与えられる御霊の賜物です。しかし、信仰と希望はキリストが現れる時には成就されて、愛だけが神と人の交わりでの現実となって存続します。その意味で「その(三つの)中で最も大いなるものは愛である」と言えるのでしょう。

エクレシアの標識としての希望ー 死者の復活について

エクレシアが終末的共同体であることを自覚させるために、パウロが最後に取り上げるコリント集会の大問題は「死者の復活」の問題です。コリントの集会の一部の者が「死者の復活などはない」と言っていると聞いたパウロは、これを放置すればコリントの集会が福音に立つ共同体でなくなるという危機感をもち、この書簡の一章を当てて詳しくその信仰を述べています。最初にパウロは、自分が「受けて伝えた福音」を繰り返してコリントの人たちに思い起こさせます(一五・一〜一一)。その最も重要で基本的な内容は「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。その福音を宣べ伝えるとき、パウロは終わりの日に、すなわちキリストが来臨される時に、キリストにあって眠った人たちは目覚めさせられる、すなわち復活すると宣べ伝えました。これが「死者たちの復活」の信仰です。彼らはイエス・キリストが復活されたことを否定したのではありません。彼らはキリストの復活を福音の基本信条として信じていました。しかし、キリストにあって死んだ人たちがキリストの来臨の時に復活するとは信じなかったのです。従って自分が復活することを望み見て地上で生活することもありませんでした。パウロはこのような人たちに、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、それをしっかり保持していれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」と言います(一部私訳)。この信仰を保持しないと、信仰が無益で無駄になる、福音が福音でなくなると言います。この「死者の復活」の信仰は福音の本質に関わる問題だというのです。
続いてパウロは、死者の復活を否定することはキリストの復活を否定することであり、福音そのものを否定することになる、という議論を展開していきます(一五・一二〜一九)。その議論の前提として、パウロは「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と言います(一五・一三)。この言葉は普通、人間は一度死ねば復活することはないのだから、一人の人間であったキリストが復活したこともありえない、という意味に理解されます。しかしパウロはこのような自然科学的な前提で議論しているのではありません。パウロは聖書的な救済史的前提で議論しているのです。すなわち、もし神が死者を復活させるという形で人間を救済されるのでなければ、救済者であるキリストが復活されることもなかったはずだ、という論理です。この救済史的前提に立つと、死者の復活を否定する者はキリストの復活を否定しているのであり、キリストの復活を否定することで、使徒たちの復活証言を偽証とし、自分たちのキリスト信仰を実質のない空虚なものにしてしまいます。
次の一段(一五・二〇〜二八)で、パウロは「しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となりました」と言って、救済史的思考に不慣れな異邦人の多いコリントの集会に、「初穂」という比喩を使ってキリストの復活の救済史的意義を明らかにします。この「初穂」という比喩を解説して、パウロは「死が人によって来たのだから、死者の復活も人によって来るのです」と言います(原語には「一人の」という句はついていません)。最初の「死が人によって来た」というのは、聖書の最初にあるアダムの記事で、アダムが神に背いた結果、死が支配するようになったという物語を指していますが、アダムという語は人という意味の普通名詞ですから、この記事は「死が人によって来た」ことを語っていることになります。それに対して、キリストは神が終わりの日に地上に出現させる新しい人間を代表する存在であり、「終わりのアダム(人間)」と呼ばれます(一五・四五)。この人によって死者の復活が起こるのです。イエスが復活されたのは、この死者の復活が歴史の中で最初に起こった出来事であり、その出来事でキリストにある者が復活することを含み保証していますので「初穂」と呼ばれるのです。ただ時間の中にいる者には、すべてのことに順序があります。「最初にキリスト、次いでキリストが来られるときにキリストに属している人たち(が復活し)、その後に世の終わりが来ます」。キリストが来られる時以後のことは永遠に属し、わたしたち時間の中にいる者にはその両者の関係は分かりません。わたしたちに分かることは、わたしたちキリストにある者は二つの復活、すなわちキリストの復活と来臨の時の死者の復活という二つの復活の中間、「時(複数形)の間に」にいるということです。わたしたち人間は、生まれながらの人間としては、すなわちアダムにあっては死に定められ、キリストにあっては新しい別種の命に生き、復活にいたるのです。
このように初穂であるキリストの内に生きるキリスト者は、地上の生活で「的を外さない」ように歩むことを、パウロは実例をあげて求めます(一五・二九〜三四)。使徒は「罪を犯すな」と言っていますが、ここで使われている動詞は「罪過(規定違反の諸行為)を犯すな」ではなく、この動詞の原意である「的を外すな」の意味に理解すべきです。キリストにある者は死者の復活を目指すという的を外さず生活しなさいという勧告です。その上で、死者の復活を信じない人たちが常に持ち出す「死者はどんなふうに復活するのか」とか「(復活のとき死者は)どんな体で来るのか」という質問に答えます(一五・三五〜四四)。この時も最初に種蒔きや、当時のギリシア人の動物や天体の体という比喩を用いて、「死者の復活もこれと同じです」と言って、本体の「自然の命《プシュケー》の体」と「霊《プニューマ》の体」の関係を指し示します。
わたしたち人間はこの世に生まれて来た時には「朽ちるもの」として、すなわち必ず死ぬことになる体をもって生まれてきます。地上の生は死に定められています。しかし、神から恩恵によって賜った新しい命は「朽ちないもの」に復活します。この世に生まれることが種として「蒔かれる」ことにたとえられ、時が来れば芽を出して違った体で収穫されることを比喩として、復活が語られます。人間は「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」と復活が語られます。その上で結論として、「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」と言って、「霊の体」の存在がこの生まれながらの体の存在を根拠にして、同じように確実であることが結論とされます。いま自分が生きているこの体の存在を疑う者はいません。それが確実であるのと同じように、今新しい御霊の命に生きている者には、その命にふさわしい別種の体(パウロはこれを霊の体と言います)の存在は確実です。それがどのような体になるのか、地上のことしか体験していない人間はそれを記述することができません。復活されたイエスの顕現に接して、せいぜい「朽ちることのない、輝かしくて力強いもの」と言うことができるだけです。イエスはすべて死者の中から復活する者の初穂として復活されたのです。
パウロは救済史におけるキリストの位置をこう表現します。「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです」(一五・四五)。「最初のアダム」とは創世記に記されているアダム、すなわち生まれながらの人間です。「最後のアダム」というのは最後の人、すなわち終わりの日に現れた人キリストです(ここでの「人」は共観福音書がいう「人の子」の概念を継承しています)。「最初の人アダムは《プシュケー》(命のある生き物)となった」と創世記にありますが、パウロはその命に属する体を《ソーマ・プシュキコン》(自然の命の体)と称しています。そして、終わりの日に現れたアダムであるキリストは復活によって「命を与える霊」となったといいます。アダムは神の息(霊)によって命を与えられたのですが、キリストは命を与える霊《プニューマ》となったのです。神は終わりの日にキリストに属す者に聖霊を与えて新しい命、復活の命を与えておられるのです。復活は終わりの日における創造です。復活は創造の冠、初めの日から続けられてきた創造の働きの頂点です。
ですから創造には順序があります。「最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです」ということになります(一五・四六)。最初の創造において「自然の命の体」が造られました。そして終わりの創造において「霊の体」が造られるのです。復活は神の創造の働きです。無から造られるのです。わたしたちがそれを理解できないのは当然です。それは信じられるべきものです。当時の宗教界には原人思想がありました。それは、人間は最初は完全な者(原人)であったが、現実の人間は無知と迷妄の暗闇にいるので、その堕落したところから救い出して人間を本来の姿に回復することが救いであるとする思想です。この思想では、先に天に属する人があり、次に地に属す人があります。パウロはこの順序を逆転します。先に地に属す人があり、その人を復活によって天に属す人にすることが救いとなります(一五・四五〜四九)。人はアダムにあって死に定められていますが、キリストにあって復活の命に生きます。最初のアダムと最後のアダムであるキリストが、創造の働きに基づく救済史のもっとも大きな枠組みを形成します。
最後にパウロはこれまでこの章で語っていたことをまとめてこう言います。「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」(一五・五〇)。キリスト者の目標、そしてすべての人生の目標は、「神の国」を受け継ぐことです。「神の国」は「朽ちないもの」の王国です。この生身の人間(パウロはこれを血と肉と言っています)はこの王国を受け継ぐことはできません。わたしたち血肉の人間、朽ち果てる人間が朽ちないもの、死なない存在に変えられたとき、聖書の預言、万人の願い、救済史の目標が成就し、「死は勝利に飲み込まれた」という凱歌が溢れます。確かにその時は未来、まだ来ていません。しかし、この死の現実の中でキリストにある者は、もはや死の恐怖とか不安に打ち勝っています。キリストという生死を超えた絶対的価値をもつことで生と死は相対化されています。この復活の希望によって死の支配に打ち勝っています。その勝利の中で、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」と叫ぶことができるのです(一五・五〇〜五八)。

結 び

「肉のために弱くなっているので律法がなしえなかったことを、神は成し遂げくださったのです。・・・・ それは、律法の正しい要求が、肉に従ってではなく御霊に従って歩むわたしたちにおいて満たされるためです」(ローマ書八・三〜四)。この言葉はここでは罪からの解放のためのキリストにおける神の働きを語っていますが、これはエクレシアの形成においても同じです。人間はその生まれながらの本性が病み衰え弱くなっているため、理想的な共同体の形成を切に願いながら、そしてそのために様々な工夫を凝らしながら、その目的を達成できませんでした。モーセ律法に代表される宗教もそれを目指しながら実現できませんでした。宗教や法律など人間の諸々の制度が成し得なかったことを、神が成し遂げてくださったのです。宗教が目指した正しい目標の一つ、すなわち人間のあるべき共同体を形成する働きを、神が成し遂げてくださいました。それはキリストにあって聖霊の働きによるエクレシアにおいて成し遂げられました。
パウロはその方向を目指して命がけの努力をしました。わたしたちはこの「V パウロのエクレシア形成の努力」という項でその一端を見てきました。パウロはエクレシアを建て上げるために生涯を捧げました。パウロは「無割礼の福音」を告知し、その福音の上にエクレシアを建て上げることにあらゆる力を注ぎ、ついにはその福音のために命を捧げました。その覚悟は彼の書簡の端々に出ていますが(たとえばコリントU四・七〜一一)、最後の獄舎では「わたし自身は既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」と言っています(テモテU四・六)。パウロは無割礼の福音を宣べ伝えたので、割礼を絶対化するユダヤ教徒から憎まれ、告訴され、処刑されるに至りました。パウロはその「無割礼の福音」のために殉教したと言えます。
パウロはエクレシアの土台を据えました。パウロは福音によってキリストという土台を据え、他の人がその土台の上に様々な材料で建物を建てるという建築物の比喩を用いましたが(コリントT三章)、パウロが福音によって据えた土台はキリストです。しかもそのキリストは割礼という枠をはめられていないキリストです。異邦人信者に割礼を要求したユダヤ教徒は、神の民となるには割礼が絶対に必要だとした人たちでした。すなわち、割礼絶対主義、割礼の上に立つユダヤ教絶対主義者だったのです。キリストに割礼すなわちユダヤ教という枠をはめようとしたのです。パウロはそのユダヤ教絶対主義と命がけで戦ったのです。わたしたちはパウロが据えた土台以外の土台にエクレシアを建てることはできません。すなわち、割礼とか他の特定宗教儀礼の枠をはめられたキリストを土台とすることはできません。それは、福音が告知するキリストは、ユダヤ教であれどの宗教であれ、キリストを独占することはできないということです。ある特定の宗教を絶対化して、その宗教の民でなければ神の民ではない、神が与える神の救済にあずかることができないとするのは間違っています。すべての宗教にはそれぞれの美点があり有益です。とくにキリスト教は福音から生み出された宗教として、福音の確立のためにはもっとも重要な優れた宗教です。それゆえにキリスト教を「真の宗教」と呼ぶ人も多くいます。しかし宗教は、キリスト教も含めて、すべて相対的なものです。ある特定の体制的で社会的な宗教を絶対化してはなりません。これが本書『福音と宗教』の基本的な立場です。
以上に見たように、最初期に福音告知の活動によって生み出された共同体を、当時の人たちは《エクレーシア》と呼びました。しかし、これはギリシア語です。わたしたち日本人が日本で福音の告知によって形成された共同体を呼ぶときには、どう言ったらよいのでしょうか。この共同体は福音によって生まれ、福音を世界に告知することだけを使命とする共同体ですから、差し当たり「福音共同体」という呼び方で話を進めて行きましょう。もし新約聖書が語る《エクレーシア》を福音共同体と呼ぶならば、この共同体はキリスト教会やその他の宗教教団とは重なりません。どれかの宗教教団とか教会が直ちにこの福音共同体であるとは言えません。福音共同体はすべての宗教を貫いて存在することができます。キリスト教においても、特定のキリスト教会やキリスト教団が直ちにこの福音共同体であるのではありません。その中には立派なキリスト者がいて、その交わりであるキリストにある共同体、すなわち神の民が存在します。しかし、その宗教の儀式にあずかり、その教理を信奉しているだけのキリスト教徒もいます。宗教統計に現れる「キリスト教徒」です。このようなキリスト教徒に限って、キリスト教宗教を絶対化して、キリスト教への改宗活動に熱心です。
福音共同体はキリスト教会の中だけでなく、他の宗教の中にも存在することができます。パウロが「無割礼の福音」で主張したのは、このことではなかったでしょうか。キリストはユダヤ教の外にもいますことを宣べ伝えたのではなかったのでしょうか。日本の内村鑑三は、洗礼を受けてキリスト教会に所属する者にならなくても、神の民でありうると主張したのです。この福音共同体の主張も、すべての体制的宗教を(否定するのではなく)相対化してキリストの福音を受け入れるところで、神と人間の本来の関わりを形成することを目指しています。