市川喜一著作集 > 第23巻 福音と宗教T > 第12講

第三章 キリストの福音 ― その成立と告知

はじめに

本章は「キリストの福音 ― その成立と世界への告知」を扱います。それは、前章で述べたナザレのイエスを神が復活させてキリストとして立てたという事実から始まって、その復活のイエスがキリストとして世界に告知されるに至った過程を描きます。そのさい次の四節に分けて、その主題を記述することになる予定です。

第一節 ユダヤ教の枠を超えるキリストの福音
第二節 使徒パウロによるキリストの福音
第三節 福音書の成立とその時代
第四節 宗教としてのキリスト教の成立とその問題

著者は「福音とは何か」という主題で新約聖書全体を探求した結果を、前著『福音の史的展開』という著作にまとめました。実は、本章「キリストの福音 ― その成立と世界への告知」は、その内容を濃縮要約して一つの章にまとめたもので、前著を読まれた方には繰り返しになりますが、この要約した形で繰り返すことも、著者自身がそうであるように、その内容を一層的確に把握して、問題点を深めるのに役立つかもしれません。本書だけを読まれる方のために、繰り返しを厭わず、キリストの福音とキリスト教という制度的宗教との違いを明らかにして、問題点を際立たせたいと願っています。
本章の第一節と第二節は、ほぼ前著『福音の史的展開T』の内容の要約となり、使徒たちが活躍した時代の要約となります。使徒たちの中で、とくに使徒パウロの福音活動とその福音告知の内容に重点を置いてまとめています。第三節はほぼ前著『福音の史的展開U』の内容の要約になります。そして第四節は、『福音の史的展開』の終章「キリストの福音からキリスト教へ」で論じた問題、すなわちキリストの福音からキリスト教という社会的体制的宗教が形成される過程とその問題点を要約して、第二部の第四章と第五章への道備えとする予定です。



第一節 ユダヤ教の枠を超えるキリストの福音

T キリストとしてのイエス

十字架の前後の弟子たちの状況

イエスが十字架につけられて死んだ時、弟子たちやイエスに従っていた人たちはすっかり落胆し、うちひしがれていました。あのように大きな神の力を現していたイエスがユダヤ教の中心地であるエルサレムに入った以上、イエスが日頃から唱えていた「神の支配」はついに神の民であるユダヤ人のただ中に来るに違いないと信じていただけに、彼らの失望は大きく、何を信じてよいのか分からなくなり、エルサレムに来てから祈りのために集まっていた家に閉じこもっていました。それに弟子たちには恐れて身を隠す必要もありました。何しろ師であるイエスは、ユダヤ教に背く背教者、ローマの支配に対して反乱を企てた者として処刑されたのですから、イエスに従った弟子たちもその仲間として探索され、場合によっては裁判にかけられる危険もあります。とくにガリラヤからイエスにつき従ってエルサレムに来ていたペトロたちガリラヤ人の弟子たちは、周囲のエルサレムのユダヤ人を恐れて身を隠さなくてはなりませんでした。日頃からエルサレムのユダヤ人はガリラヤのユダヤ人を「異邦人のガリラヤ」として蔑み差別し、反乱が多発する気質の民としていたのですから。
イエスは祭(過越祭)の準備の日、すなわち金曜日に裁判にかけられ、午後に神殿で過越の羊が屠られている時に城壁の外の刑場で十字架の上で苦しみ、息を引き取ったのです。弟子たちは恐ろしくて刑場にも行かず、イエスが葬られた墓も知りませんでした。数人の女性が遠くから見守り、土地の有力者が当時のユダヤ人の習慣に従ってイエスを葬ったことは伝え聞いていたでしょうが、その日の夜も、次の日の安息日にも、集まっていた家に内側から閂をかけて閉じこもっていました。ところが、安息日が明けた日曜日の早朝、ガリラヤからイエスにつき従ってきた女性が息を切らせて駆けつけ、遺体に香料を添えるために墓に行ったところ、墓にイエスの遺体がなかったと言うのです。驚いた弟子の中の二人、ペトロとイエスが愛した年若い弟子の二人が墓に急いだところ、確かに墓にはイエスの遺体はなく、どうしたことかと途方にくれるばかりでした。この時の弟子たちの状況をある福音書は次のように伝えています。「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ二四・一一)。
 話は前後しますが、すぐ後で見るように、弟子たちはガリラヤで復活されたイエスの顕現を体験し、聖霊により今も生きておられるイエスをキリストとして民に宣べ伝えるためにエルサレムに移住してきます。その時には、女性たちが墓にイエスの遺体がなかったことを伝えた時の「この話がたわ言のように思われた」ことはなく、ペトロと「もう一人の弟子」も墓まで走って行って確認しているのですから、大胆にイエスが死人の中から復活されたと宣べ伝えることができました。それに対抗して、イエスの復活を信じないユダヤ人たちは ― 復活はそれを体験した証人たちの証言を信じるか信じないかという信仰の問題です ― イエスの遺体が弟子たちによって墓から盗まれたのだという噂を流して対抗します。信じる者たちは、自分たちも確認した空の墓の事実をもって対抗します。その噂を否定することも復活証言の一部となり(マタイ二八・一一〜一五)、墓が空であった事実が確かな伝承として伝えられることになります。イエスの復活はその顕現を体験した者たちの証言に基づくことであって、墓が空であったという物理的・歴史的事実に基づくものではありません。弟子たちが復活した方の顕現を体験していなければ、墓が空であったという話はたわ言として忘れ去られ、伝承とはならなかったでしょう。その体験の証言があったので、最初期のエルサレム共同体で「空の墓」の事実をも含む伝承が形成されることになります。ついでに申し上げると最近、アリマタヤのヨセフの二人の息子が、父親がイエスの遺体を丁重に葬ったことを危険と感じて(自分たち一族が反逆者と見られることを恐れて)、夜中に密かに墓に来て、ロバに遺体を乗せて犯罪者墓地に突き落として隠した、という推理小説のような物語も出てきています。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方」、弟子たちが鍵をかけて閉じこもっていた部屋に、突如イエスが現れて、いつものように「シャローム」と声をかけます(ヨハネ二〇・一九〜二〇)。これは平安という意味の言葉で、ユダヤ人が人に会った時や別れる時に使う挨拶の言葉です。弟子たちはイエスが生きていることを知って大いに喜びます。しかし、それが何を意味するのかは分からないままです。すぐにイエスの姿は見えなくなり、弟子たちはまだ事態の全容は理解できません。ただ、イエスが生きているという事実に接し、それに一縷の望みをかけたことでしょう。ガリラヤから一緒に来た女性たちも、生きて語りかけるイエスに出会ったことを証言しています。とくにマグダラのマリアは、その日の早朝に、墓の前の園で生きているイエスに出会い話をしたと証言します。それで最初期のイエスを信じる人たちの間に、「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された」という伝承が広がります(マルコ一六・九)。
弟子たちやガリラヤからイエスに従ってエルサレムに来ていた人たちは、祭の期間が終わったときにガリラヤに戻ります。ガリラヤの人たちはエルサレムに家や生業はなく、ガリラヤに戻って仕事を再開しなければ生活して行くことはできません。とくに弟子たちにはエルサレムの人(ユダヤ教の指導層)やローマ人を恐れなければならない事情もあります。ガリラヤの人たちはガリラヤに戻って漁師や農業の仕事に戻ります。弟子たちは失望と不安を抱えてガリラヤに戻ったのでしょうが、期待と希望がなかったわけではありません。最後の晩の食事の後、師のイエスはガリラヤに先立って行くと言っておられたではないか(マルコ一四・二七〜二八)。「先立って行く」というのはどういうことを指すのか分からないけれども、これで終わりということではなく、何かが起こるのだという期待もあったことでしょう。そして実に、このガリラヤで弟子たちに大変な出来事が起こり、弟子たちの生活と生涯を一変させます。それは復活したイエスが彼らに現れて、彼らを復活したイエスの証人として派遣するという出来事です。

ガリラヤでの顕現体験

マルコ福音書にはその最初の部分に、ガリラヤ湖畔でイエスがシモンとその兄弟のアンデレとゼベダイの子のヤコブ・ヨハネの兄弟の四人を弟子として召された記事があります(マルコ一・一六〜二〇)。この記事はこの福音書だけを読んでいる者にはかなり不自然に感じられます。イエスはまだ何もしていません。そのイエスが四人に声をかけたところ、漁師であった彼らは直ちに網を捨て、舟を後に残してイエスの後について行きます。彼らは父も舟も後に残して行く、すなわち家と家業を捨てて行くのです。何も知らないイエスにこのような形でついて行くのは不自然で、その前にイエスを知る機会があったとしなければなりません。その機会はヨハネ福音書の一章を見ると明らかです。この四人は洗礼者ヨハネのもとでイエスに会っていて、イエスの霊的体験と力を知っているのです。洗礼者ヨハネの証言もあり、イエスの弟子となって従っているのです。マルコの四人の召命物語は、すでにイエスの弟子となっている四人の召命の出来事を物語るものです。
わたしはこの四人の召命物語は、復活したイエスが四人に現れて、四人を復活のイエスの証人とし、「人間をとる漁師」にされた時の出来事を、マルコがここに持ってきたものと理解しています。福音書には復活されたイエスがガリラヤで弟子たちに現れた出来事を指す記事がちりばめられています。ここがその代表格ですが、他にもルカ福音書五章(一〜一一節)のペトロの記事や、イエスが水の上を歩かれた記事(マルコ六・四六〜五二と並行記事)などがあります。これらの記事には顕現物語の特色が出ていることが指摘されます。マタイ(二八・一六〜二〇)の復活されたイエスがガリラヤの山で弟子たちに現れ、イエスのことを世界に宣べ伝えるように命じたという記事は、ガリラヤでの復活者の顕現記事の総決算でしょう。エルサレム在住でエルサレムとその近辺でのイエスの出来事を伝えているヨハネ福音書も、イエスの死後ガリラヤで決定的なことが起こったことを知っており、その福音書の補遺(二一章)としてガリラヤでの復活者イエスの顕現を語ることになります。
イエスが十字架上に死なれた過越祭から七週間後に七週祭(ペンテコステ)があり、それは巡礼祭の一つですからイスラエルの民の多くがエルサレムに集まります。その時にはペトロたちイエスの弟子であった人たちが、イエスが復活したこと、神がイエスを復活させてメシア・キリストとして立てたことを大胆に叫んでいます。ペトロたちはその後もエルサレムを離れることなく、信仰に入った民を指導しています。彼らは、マルコ福音書一章が描いているように、復活したイエスの顕現を体験し、網や舟、家業のすべてを捨ててエルサレムに移住し、イスラエルの民にキリストとして立てられたイエスを告げ知らせる働きを始めたのです。

使徒たちによる福音告知の開始

ルカの筆になる使徒言行録の最初の数章を見ると、弟子たちや家族の者がエルサレムに来て、ペンテコステ(五旬祭)の日に集まって祈っていると、突如聖霊の注ぎが起こり、仲間を代表してペトロが立ち上がって、神がイエスを死者の中から復活させて、キリストとしてお立てになったと語ったことになっています。しかし聖霊の働きはこの日に突然起こったことではなく、弟子たちがガリラヤに戻って、そこで復活のイエスに出会った時から始まっていました。だいたい復活したイエスの顕現を体験することは聖霊の強い働きがある時に起こることであって、それはパウロがダマスコ途上で体験した出来事によく示されています。ペトロやイエスの弟子たちはガリラヤで聖霊の働きを強く体験し、イエスがキリストとして立てられたことをイスラエルの民に証言する働きに召されているという事実に迫られて、必死の覚悟でエルサレムに移住したのです。今度は再びガリラヤに戻るつもりはなく、網や舟を捨て、父親や家を残してエルサレムにやって来たのです。エルサレムはイエスを殺した勢力が支配しています。自分たちにもどのような危険が及ぶのか分かりません。彼らは恐れと不安に打ち勝って復活したイエスの証言に立ち上がれるように心を一つにして祈ったことでしょう(使徒一・一二〜一四)。そして過越祭から五十日目に行われるペンテコステの祭の時に、彼らが集まって祈っているところに聖霊の大きな働きがあり、彼らは御霊(神の霊、聖霊)に満たされて、一同は御霊が語らせるまま、他の国々の言葉、すなわち異言で神の大いなる働きを賛美します。もう自分の勇気とか決意で語るのではありません。ペトロはこの出来事に驚いて集まって来た人たちに大胆に語り出します、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は復活させて、キリストとしてお立てになったのだ」。

キリストとしてのイエスの告知

ここからナザレのイエスをキリストとして世界に告知する活動と運動が始まります。イエスが復活するまでは、イエスはその霊性によって救われた人間の原型となる資質とか、人間の救済者キリストである資格を持っていたかもしれません。しかしそれは隠されていました。弟子たちを含め周囲の人は誰も知りませんでした。せいぜいペトロら弟子たちがイエスをイスラエルの民を異教の支配者から救い出すメシアであると信じていた程度です。その信仰と期待はイエスが十字架につけられて殺された時、完全に打ち砕かれました。彼らが復活したイエスに出会い、イエスが今も生きていて、その命をもって人を新しく生かして救われるのだということを理解した時、彼らが宣べ伝えた救済者キリストは今までのイスラエルの救済者メシアとは違っていました。復活によってキリストとされた方が人間を救うとき、その救いはどのような中身のものになるのかは、それを宣べ伝えた使徒たち自身を含め、イエスをキリストと信じた共同体全体の問題です。それは信じた者に働く聖霊の働きによって急速に深められ、パウロやヨハネを経て新約聖書と呼ばれる諸文書に記録されることになります。本書の後半、第二部の主題はまさにこの問題を扱うことになります。
ここでこの救済者を呼ぶときの呼び方、そのような救済者を指す時の名称あるいは称号について一言述べておきます。新約聖書の時代以来、この方はイエスという個人名とキリストという称号を同格で(同じものを指すという資格で)ならべて、「イエス・キリスト」と呼んできました。この呼び方は本来、キリストという地位とか働きの方であるイエスという意味です。ところが、この呼び方が当時のローマ社会で一人の個人名のように理解され用いられるようになります。現代の日本人も正式に個人を指すとき姓と名の二つを合わせて呼びます。当時のローマ人も個人名と家族名、それに氏族名も添えて二つまたは三つの名で呼んでいましたので、イエス・キリストを一人の個人の名前と理解したのも無理からぬことだったかもしれません。この名前の意味の変化はかなり早く進んだようで、信仰者はこの方が一個人ではなく特別の地位とか資格の方であることを示すのに別の称号を使うようになります。それが「主」《キュリオス》という称号です。《キュリオス》という称号は、もともと主人とか所有者を指すのに用いられた称号で、奴隷の所有者とか一家の主人を指す日常的な用例から、皇帝を指す用例まであり、幅の広い用語でした。この《キュリオス》という称号を名前の前につけて「主イエス」とか「主イエス・キリスト」が、自分たちの救い主を指す時の正式の呼び名となりました。異邦人(異教徒)の間では、イエスを《キュリオス》と呼ぶことが信仰の表現でした(コリントT一二・三)。こうして新約聖書でイエスを自分たちの救い主として呼ぶ時、「主イエス・キリスト」という名称がよく用いられるようになります。
このキリストとしての資格で働く時のイエスを指すのに、イエス・キリストではどうしても一人の個人名になることが避けられません。キリスト・イエスという呼び方も新約聖書ではよく用いられますが、この方がキリストという資格で働くイエスという意味が分かりやすいようですが、どちらも一個人名となる危険を避けることができません。それでティリッヒは「キリストとしてのイエス」という呼び方をよく用いています。英語では " Jesus as Christ " です。確かにこの呼び方は、" Jesus Christ " という呼び方よりも、イエスのキリストとしての資格での働きを指すのに適切だと思います。わたしも本書ではおもにこの呼び方を用います。

復活者キリスト

イエスは死者の中からの復活によって世界に向かってキリストであると公示されました(ローマ一・二〜四)。もしイエスが復活していないのであれば、わたしたちはイエスをキリストとして告知することはできません。イエスが生前に人間の原型とされるにふさわしい霊性とか、キリストとなるべき霊性を備えていたとしても、もしイエスが復活によってキリストとされたのでなければ、どうしてイエスをキリストとして告げ知らせることができるでしょうか。ブッダも、孔子も、ムハンマドも深い霊性の人ではなかったでしょうか。宗教界には神秘的で深い霊性に達した人は多くいます。その中でわたしたちがイエスをキリストであると告知するのは、イエスが死者の中から復活したからです。正確には、神がイエスを復活させたからです。
もしイエスが復活していなかったのであれば、イエスの十字架上の死は一人の反逆者の処刑か、一人の殉教者の死になるでしょう。イエスが復活したことによって、イエスの死はキリストの死になります。そしてキリストである方の死であるゆえに、キリストの死が万人の救済となるのです。この十字架の死の意味はこれ以後の使徒たちの解明を待たなければなりませんが、パウロが「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」という時の、「十字架されたキリスト」という表現の宇宙的な重さを知らなければなりません(コリントT二・二)。復活して永遠に生きて働くキリストが、わたしのための死を、人間のための死を負って生きているのです。この「十字架されたキリスト」の奥義は人類最大の、そして最後の秘義です。わたしたちはこの「十字架されたキリスト」を世界に告知します。他のことは何も知るまいと心に決めて。
わたしは、新約聖書にキリストとしてのイエスのことが語られる度ごとに、復活者であるイエスのことを思います。キリストとしてのイエスとは復活者としてのイエス、復活者として「わたしはお前のために死んだ」と語りかけるイエスです。パウロが「十字架されたキリスト」と言い、新約聖書がわたしたちはキリストの十字架と復活によって救われた」と言うとき(コリントT一五・三〜五で「死に、復活した」方はキリストです!)、そのキリストとは復活者であることを心に銘記すべきです。この十字架された復活者キリストがどのような働きをされるのか、それが本書四章以下の第二部の主題となります。

U 最初期のエルサレム共同体

エルサレム共同体の発足

このペンテコステの日にペトロはイスラエルの民に、神がキリストとされたイエスにおいて成し遂げられた救いの働きを告げ知らせます。ここにイエスが世界に遣わされた使徒たちの福音告知の働きが始まります。この時にペトロが代表して告知した福音の内容は、ルカの筆によって伝えられています(使徒二・一四〜三九)。この時のペトロの説教には、以後の信仰共同体が世界に告知した内容、とくにルカの福音理解が重ねられて含まれているのでしょうが、十字架につけられたイエスを神が復活させて、キリストとしてお立てになったという福音告知の基本はしっかりと伝えられています。後にこの告知の内容はローマの共同体によってまとめられて定型化し、パウロがローマ書で福音の内容をまとめる時に、基本的な信仰告白(基本信条)として引用されています(ローマ一・二〜四)。
このペンテコステの日の福音告知の最後にペトロが聴衆に向かって呼びかけた言葉が伝えられています(使徒二・三七〜四〇)。その終末信仰と聖霊の力に満たされたペトロの言葉に心が迫られて、イエスを信じたユダヤ人が大勢出たことは事実でしょう。ルカは「ペトロの言葉を受け入れた人々はバプテスマを受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」と伝えています(使徒二・四一〜四二)。その日に三千人ほどがバプテスマを受けたというのは、俄かに信じがたい数字です。エルサレムは山の上にある都市で川の流れはなく、バプテスマを重要な宗教儀礼としていたエッセネ派の小さな水槽が数箇所あっただけです。そこで一日に三千人のバプテスマを施すことは困難です。だいたい、もはやバプテスマから決別していたイエスの弟子たちがいつからバプテスマを授けるようになったのかは議論があるところで、それをペンテコステの日からとするのは、信仰の告白としてバプテスマを受けることが当然となっていたルカの時代の慣行を、ルカがエクレシアの発足の時からとした結果だと見てよいでしょう。
その他にもこの日のペトロの福音告知の後の勧告には、最初期の信仰共同体がした勧告の様子がうかがわれます。信じる者への聖霊の賜物の約束もその一つです。その約束が「遠くにいる全ての人たち」、すなわち異邦人にも与えられていることもそうです。「この邪悪な世からの救出」もパウロの表現です(ガラテヤ一・四)。だいたい、使徒言行録に伝えられている使徒の福音告知の演説はみなルカの筆で要約されたものであり、ペトロとパウロのどちらがしてもおかしくないものになっています。ルカが生涯を通して告知してきた福音を、エクレシア発足の最初の日に重ねたとしても当然であると思われます。

エルサレム共同体の信仰と生活

ルカのまとめ方がどうであれ、この日に多くのユダヤ人がペトロの告知に心を打たれて、イエスを退けたことを悔い(聴衆の中にはつい先日この都で「イエスを十字架につけよ」と叫んだ者もいたことでしょう)、イエスをキリストと信じて仲間に加ったことは事実でしょう。その仲間たち、すなわち発足したばかりの信仰共同体の姿が、「彼らは使徒の教え、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と簡潔にまとめられています(使徒二・四二)。イエスが選ばれた十二人の使徒たちは、自分たちが見たイエスの力ある働き(奇蹟のわざ)や聞いた教えの言葉を熱心に伝えたことでしょう。日頃聖書(旧約聖書)を神の啓示として学んできたユダヤ教徒たちは、新しい時代が来たことを実感したことでしょう。
さらにルカは続く章節(使徒二・四三以下)で、発足したばかりのエルサレム共同体の姿を描いています。使徒たちはイエスが行った力ある働き(奇跡)を語り伝えるだけでなく、イエスの名によって自らも行なって神の力を現し、エルサレムの人々を引きつけて仲間を増やしました(二・四三、三・一〜一〇)。それで仲間に加わる者は日々に増えて、「信者たちはみな一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」という財産共有の生活を始めます(二・四四〜四五)。このような財産共有の生活が可能になったのは、ルカは書いていませんが、エルサレム共同体の差し迫ったキリスト来臨の信仰によります。
使徒たちが共観福音書にあるようなイエスの言葉をそのまま伝えたとすれば、その中で「神の支配」が迫っているという終末的な告知、中でも「人の子」という表現によって表現されている終末的救済者の到来の使信はエルサレム共同体の信仰の中心にあったはずです。そのことはまず「マラナ・タ」というアラム語の合言葉の使用が示しています。先にも触れたように、「アッバ」と「マラナ・タ」という二つのアラム語は異邦人の集会で用いられたことがパウロ書簡の中で示されていますが(ローマ八・一五とコリントT一六・二二)、これはパウロが最初期のエルサレム共同体で重要視されているのを異邦人集会に伝えた結果です。「マラナ・タ」というのは、「主よ、来たりたまえ」という意味ですが、この引用はこの言葉がコリントの集会でもお互いの信仰を確認する合言葉として用いられていたことを示しています。ましてエルサレム共同体ではそうであったことが十分推測されます。もう一つ重要な根拠は、テサロニケ第一書簡の四章です。この章はテサロニケ集会の人たちが自分たちが地上に生きている間に主が来臨されることを待ち望んでいたことを示しています。五〇年代のテサロニケの集会がそのような終末的待望に生きていたとすれば、パウロがその信仰を受けて伝えた三〇年代のエルサレム共同体の終末待望がそれ以下であったとは考えられません。このような差し迫った来臨の信仰があるからこそ成立した資産共有の体勢です。
ではなぜルカがエルサレム共同体の来臨待望を書かなかったのでしょうか。実はルカにはそうする理由があるのです。ルカは使徒言行録を、エルサレム神殿が崩壊し、エルサレム共同体が辺地に退去して影響力を失ってから何十年も経ってから書いています。エクレシアは、それでもキリストの来臨は起こらなかったという「来臨遅延」の問題に直面しています。ルカはエクレシアに別の救済史の構想を示す必要に迫られています。ルカは、キリスト信仰の原型となるような最初期のエルサレム共同体を、テサロニケのようにキリストの来臨を今日明日のように待ち望む集会として描くことはできないのです。ルカはエルサレム共同体を、聖霊の力によって迫害に耐え、復活のキリストを証言する自分が理想とする共同体として描きます。
さらにルカは新しい仲間たちの姿を、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まりをしてパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」ので、周囲の民衆から好意を寄せられていた、と伝えています(使徒二・四六〜四七)。この簡潔な描写の中に、発足したばかりのエルサレム共同体の姿がよく描かれています。彼らはみなユダヤ教徒です。彼らの神への賛美は神殿での神へのさらに熱心な礼拝の行為として表現されます。復活したキリストへの信仰は、エルサレム共同体においては、神殿でのユダヤ教の礼拝と何ら矛盾するものではなく、かえって強化するものであったことは留意しておくべきことです。彼らのキリスト信仰はユダヤ教の枠内でのキリスト信仰です。わたしはこれを「ユダヤ教内キリスト信仰」と呼んでいます。
彼らは少人数のグループを作って、信者の家ごとに集まってパンを裂いて分かち合っていました。この「パンを裂く」という行為が何を意味するのかには議論がありますが、これがすぐ後に語られる「一緒に食事をする」ことと一緒に扱われていることから、キリストの出来事に参与することを示す宗教的な行為であったと考えられます。イエスも弟子たちと食事をする時そうされました。今や信仰者はイエスと食を共にする仲間になったのです。このパンを裂く家ごとの集まりが、「主の晩餐」を共にする後の「家の集会」の原型となります。
このエルサレム共同体は、七〇年にエルサレムがローマ軍によって占領され神殿が破壊される直前まで続き、最初期前期の福音活動の中心として重要な役割を果たします。その中でも、イエスの直弟子である十二使徒たちによって伝えられたイエス伝承によって、地上のイエスの言動を諸集会に伝えたことは、他では代われない貴重な功績であったと考えられます。四〇年代にヘロデ王の迫害によって使徒たちがエルサレムを追われてからは、「主の兄弟ヤコブ」がエルサレム共同体を代表しますが、神殿崩壊までの時期においてこのエルサレム共同体が福音活動の中核の位置を占めます。しかしこの点は他書に委ねて、本書では諸国民の宗教世界に福音を宣べ伝えた活動を見ていかなければなりません。

* 最初期のエルサレム共同体の歴史とその信仰の実態について詳しくは、拙著『福音の史的展開T』の「第一章 エルサレム共同体の成立」を参照してください。

V サウロの回心とアンティオキア共同体の成立

ギリシア語を話すユダヤ人の活動

当時のエルサレムは国際都市でした。住民の多くはパレスチナのユダヤ人であり、アラム語を日常の言葉として用いていましたが、ギリシア語を母語とするディアスポラ(離散)のユダヤ人も多数聖都エルサレムに移り住み、ギリシア語で日常の生活をしていました。その上、「世界の七つの驚異」に数えられる壮麗な神殿をもつエルサレムは、国際的な宗教都市として多くの巡礼者(現代の観光客)を迎える国際都市であり、当時の世界の共通語であったギリシア語が行き交う二言語都市でした。ヘンゲルは住民の一割から一割半がギリシア語系住民であったと推察しています。日常語の区別に伴ってユダヤ教の会堂にもヘブライ語(アラム語)を用いる会堂とギリシア語を使用する会堂があり、エルサレムのユダヤ教徒は「ヘブライ語を話すユダヤ人」と「ギリシア語を話すユダヤ人」との区別がありました。ルカの使徒言行録六章(一〜六節)の記事は、この区別を前提にしています。
この記事においてルカは「ヘブライ語を話すユダヤ人」と「ギリシア語を話すユダヤ人」との間に起こった紛争を、資産を共有する生活共同体の内部に起こった食物分配の苦情という生活上の問題にしていますが、実際は信仰理解の違いから来るもっと重大で深刻な問題であったようです。パレスチナのユダヤ人が多い「ヘブライ語を話すユダヤ人」は、モーセ五書に語られているユダヤ教の伝統に比較的忠実で保守的な傾向がありましたが、ヘレニズム世界の大都市に生まれ育ったディアスポラのユダヤ人である「ギリシア語を話すユダヤ人」は、モーセ律法に対して比較的自由な姿勢をとる傾向があったようです。同じくキリストとしてのイエスの言葉を聞いていても、ギリシア語を母語とするギリシア語系ユダヤ人は、神殿でのユダヤ教やモーセ律法の拘束から解放するようなイエスの行動や言辞に共感を示し、そのようなユダヤ教の伝統に忠実なパレスチナユダヤ人と対立するようになっていたようです。全員がパレスチナユダヤ人の十二使徒たちもこの事実を無視することはできず、ギリシア語系ユダヤ人が推挙する七人を、彼らの代表者と認めるようになります。それが使徒言行録六章初めの記事になります。この七名は全員ギリシア語系の名前であり、ルカは彼らが食卓などの生活問題を担当する役目に任じられたと報告していますが、彼らがそのような務めを果たしたという記事はなく、彼らも十二人と同じように福音の証しの働きに専心しています。最初期のエルサレム共同体は、使用言語の違いから二つに分離します。これは、交わりを断つ分裂ではありませんが、この二つに分離したグループはその後の歩みに区別が生じます。
七人の筆頭者であり代表格のステファノは、知恵と聖霊の力に満たされてイエスこそキリストであることを論証したので、彼と同じようにディアスポラのユダヤ人の会堂に所属する者たちは歯が立たず、「イエスはこの場所(神殿)を破壊し、モーセが我々に伝えた習慣(モーセ律法)を変えるだろう」と主張していると会堂に訴えます(使徒六・八〜一五)。この箇所で邦訳では、人々はステファノを最高法院へ連れて行って裁判にかけたとされていますが、ステファノの石打ちによる処刑には問題があり、リンチによるものとする説もあって争われています。わたしはこれを地域の会堂、あるいはギリシア語系会堂の連合が下した判決による処刑と理解しています(詳しくは拙著『福音の史的展開T』の一七七頁「U ステファノの殉教」の項を参照)。この迫害の先頭に立ったのが、新進気鋭のファリサイ派律法学者のサウロ、後の使徒パウロその人でした。

ギリシア語系会堂に対する迫害と福音の拡大

このステファノの殉教をきっかけにして、エルサレム共同体に大きな迫害が起こったことが使徒言行録七章の末尾に伝えられています(七・五四〜八・一)。ところが奇妙なことに、「使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」と書かれていて、使徒たちは無傷でエルサレムに残っていることになっています。これは、先に書かれていた「ヘブライ語を話すユダヤ人」と「ギリシア語を話すユダヤ人」との区別の重要な結果です。この迫害はギリシア語系会堂の中で、神殿とモーセ律法に熱心な多数派がステファノらの神殿とモーセ律法を乗り越えようとするイエス派を弾圧した迫害であって、アラム語系のパレスチナユダヤ人の使徒たちや、その指導下にあるパレスチナユダヤ人のエルサレム共同体の主流には影響がなかったのです。この迫害で先頭に立ったのが、ギリシア語系ユダヤ人の会堂で律法(聖書)を教える仕事をしていたファリサイ派律法学者のサウロ、後のパウロだったのです。使徒言行録(八・三)には、「サウロは家から家へと押し入って集会を荒らし、男女を問わず牢に送っていた」と伝えられています。
この迫害でエルサレムから追われて各地に散って行ったギリシア語系のユダヤ人によって、キリストの福音がエルサレム以外の各地に宣べ伝えられることになります。迫害が福音の種子をエルサレムの城壁の外に拡散させます。エルサレムから追われた七人の一人フィリポ(十二弟子の中のフィリポとは別人)は、サマリアに行って目覚ましい活動をします(使徒八章)。エルサレム共同体には、「サマリア人の町に入るな」というイエスのある時期の語録に固執して、サマリア伝道に反対する一派もありました。しかし迫害の事実がそのような反対を吹き飛ばして、異教視されていたサマリアに福音を伝えることになります。フィリポはサマリアで「素晴らしいしるしと奇跡」を行い、それを見た多くのサマリア教徒が信仰に入ります。エルサレム共同体もその事実を認めざるをえず、ペトロとヨハネを派遣して、新しく信仰に入ったサマリアの人たちに聖霊が与えられるように祈ります。フィリポはその後、地中海に臨むガザ、アザト、リダ、ヤッファなどの地中海沿岸の諸都市で信仰の仲間を作り、最後にカイサリアに落ち着いて、そこで福音告知の活動に専心します。フィリポはサマリアからガザに出る道で、エルサレム神殿に参詣に来ていたエチオピアの高官に福音を説いて回心させています。この高官の働きでエチオピアは世界で最初のキリスト教国になります。
最後の定住の地カイサリアは、地中海に面したヘレニズム世界の大都市でローマ総督府の所在地でした。このヘレニズム都市に最初のキリスト信仰の共同体を形成したフィリポこそ、異邦人伝道の開拓者としての栄誉が帰せられる人物ですが、ルカはフィリポの後にこれらの地中海沿岸の諸都市にやって来て活動したペトロに大きな頁を割いて、ペトロが異邦人伝道の開拓者であるような印象を与えています(使徒九・三二〜一一・一八)。とくに最後のカイサリアでペトロが不思議な神の導きでローマ軍の百人隊長コルネリウス一族に福音を説いて回心に導き、聖霊が下った出来事を詳しく報告し、其の後でペトロがエルサレム共同体にその出来事を報告する箇所(使徒一一・一〜一八)で、ペトロはパウロが主張していることと変わらないことを言っています。このような書き方は、異邦人伝道についてペトロとパウロの一致を強調したいルカの著述意図から出ることで、実際のペトロとパウロの関係は、パウロ書簡から見る限りもう少し複雑なようでした(この問題は後述)。

パウロの回心とアンティオキア共同体の成立

ルカの使徒言行録で、ステファノの殉教という大きな出来事の後に、その結果として起こった意義深い出来事が二つ報告されています。その一つは、迫害の先頭に立っていたサウロが復活したイエスに出会って、迫害者からしもべ(奴隷)としてイエスに仕える者になったという出来事です。このサウロ回心の出来事はルカの筆で劇的に描かれています(使徒八・一〜三、九・一〜三一)。もう一つは、エルサレムの北にあるシリア州の州都である大都市アンティオキアに信仰の民エクレシアが成立したことです(一一・一九〜三〇)。このアンティオキア共同体はエルサレム共同体と並んで、最初期の福音の進展に重要な働きをすることになります。
ファリサイ派の律法学者のサウロは、モーセ律法や神殿に対して批判的な発言や行動をするイエス一派を放置することができず、ステファノの石打ちに賛成し、イエスを信じる男女を会堂の長老会に告発したりします。会堂での刑は鞭打ちでしたが、異端者への憎しみから、激しい場合は死に至ることもあったようです。サウロは後にイエスの信徒を死に至らせたことを悔いています(使徒二二・四)。ダマスコにもイエスを信じるユダヤ人がいることを聞いたサウロは、大祭司に彼らを逮捕する権限を与える書簡をもらって、警備の役人を引き連れてダマスコに向かいます。その途上で事件が起こります。その出来事はルカの筆で劇的な事件として描かれています(使徒九・一〜一九)。サウロは日中に太陽よりも明るく輝く光に打たれて地面に倒れ伏します。その光に人格的な存在が自分に迫るのを感じたサウロは、思わず「主よ、あなたはどなたですか」と叫びます。その問いかけに対して、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えが返って来ます。サウロはモーセ律法をないがしろにするユダヤ教徒を迫害していると思っていましたが、実は彼らの中に働いているイエスを迫害していたのです。そのイエスが今サウロの前に生きている者として現れたのです。
目が見えなくなったサウロは部下に手を引かれて市内の家に入ります。その時、ダマスコにいたイエスの弟子のアナニアという人に主が現れて、サウロが滞在している家に行って、サウロに手をおいて祈るように命じます。迫害者を恐れるアナニアに主は、サウロを異邦人にキリストを伝える器としたことを告げ、アナニアがそれに従って祈ったとき、サウロの目から鱗のようなものが落ちて見えるようになり、サウロは聖霊に満たされて、復活の主イエスの証人として、イエスをキリストとして命がけで宣べ伝えるしもべとなります。この体験をサウロは後に、自分は復活の主を見た使徒であると言う根拠にしています(コリントT九・一)。サウロは後に繰り返し、自分は使徒として召されると同時に、異邦人にキリストを宣べ伝える者として召されたことを語っています(ガラテヤ一・一六など)。このサウロ、後にパウロと呼ばれるようになる人物こそ、まさに神が世界に福音を告知するために選ばれた神の器、本章「キリストの福音の成立とその告知」の中心人物となります。
もう一つの重要な出来事であるアンティオキアにキリスト信仰の共同体が出来たことについては、ルカは比較的簡潔に報告しています(使徒一一・一九〜三〇)。それによると、「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々」の中にキプロス島やキレネから来た者がいて(この地域には大きなユダヤ人の共同体があり、エルサレムとの交流も頻繁でした)、「アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた」のです。それまでは、ユダヤ人以外の誰にも御言葉を語っていませんでしたが、アンティオキアに来て初めて「ギリシア語を話す人々」にも語りかけ、福音を告げ知らせる活動が始まります。ここの「ギリシア語を話す人々」は、先に使徒言行録の六章に出てきたユダヤ人の中で「ギリシア語を話す人々」、すなわちギリシア語系のユダヤ人を指すのではなく、ユダヤ教徒が広く非ユダヤ人の異教徒を指す時に用いた「ギリシア語を話す人々」を指しています。ユダヤ人は自分たちユダヤ人以外の諸民族を「ギリシア語を話す人々」とか「ギリシア人」と総称していました。

アンティオキア共同体とバルナバの働き

アンティオキアはヘレニズム世界の屈指の大都市です。ギリシア化した当時のヘレニズム世界では、首都のローマは別格としても、エジプトのアレクサンドリアとシリアのアンティオキアがもっとも顕著な大都市でした。アレクサンドリアについては後ほど触れることになりますが、新約聖書が書かれた時代においてはアンティオキアが大きな意味を持つ都市です。人口で言っても、エルサレムがほぼ五万人から十万人の間と推定(エレミアス、ヘンゲル)されていますが、アンティオキアは古代の歴史家では二〇万から六〇万と推定されています。地方の宗教都市と世界の貿易商業大都市との差でしょうか。アレクサンドリアとアンティオキアの両都市にはユダヤ人の大きな《ポリテウマ》(かなりの政治的自治を持つ居住地域)がありました。ヘンゲルは全人口を三〇万人、その中のユダヤ人は三〜五万人と推定しています。シリアの王の中では前二世紀半ばのアンティオコス・エピファネスがユダヤ教徒を迫害したので有名ですが、その後の王たちはユダヤ人に好意的で、地理的な近さもあってユダヤ人の人口密度はヘレニズム都市では随一であったようです。アンティオキアのユダヤ人共同体はかなり裕福で有力なユダヤ人も多く、エルサレム神殿の維持や奉納物にも大きな貢献をしていたと伝えられています。アンティオキアのユダヤ人は、ギリシア風の生活や慣習に親しみ、周囲の非ユダヤ教徒との交流も比較的自由で、異邦人と食卓を共にすることにも寛容であったようです。
このような大都市にエルサレムを追われたディアスポラのユダヤ人で福音を信じる者が来て、キリストの福音を宣べ伝えます。彼らは当然まずユダヤ教会堂のユダヤ人に宣べ伝えたことでしょうが、「ギリシア語を話す人々」、すなわちギリシア人にも福音を告げ知らせます。ここに福音が非ユダヤ教徒に伝えられる最初のケースが記録されます。その結果についてルカ(使徒一一・二一〜二四)は次のように伝えています。「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある共同体にも聞こえてきたので、共同体はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた」。
この記事で注目されることは、当時の福音活動におけるエルサレム共同体の主導性と「主」という語が多用されていることです。イエスとかキリストは用いられず、「主が助ける」、「主を信じる」、「主に立ち返る」、「主から離れる」とか「主に導く」という表現が目立ちます。これはルカの時代の用例が自然に、最初の異邦人を多く含むアンティオキア共同体に用いられた結果だと考えられます。ルカの時代では、イエスをキリストと信じて(偶像から離れ)唯一の神を信じる信仰は、「主を信じる」という表現で語られていました。また、この時期におけるエルサレム共同体の主導性は、エルサレム共同体がその有力な一員であるバルナバを派遣して、この新しい共同体を指導した事実によく示されています。バルナバはキプロス出身のギリシア語系ユダヤ人ですが、幼い時からエルサレムで育ちヘブライ語(アラム語)に堪能であったので、ステファノを筆頭者とする七人のギリシア語系ユダヤ人の指導者には名を連ねず、十二人の下でエルサレムに残ってそこの共同体に仕えていた人物です。彼は故郷のキプロスの資産を売り払ってエルサレム共同体に貢献していたので、本名のヨセフの代わりにバルナバ(慰めの子という意味)と呼ばれていた人です(使徒四・三六〜三七)。
このバルナバは「立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていた」ので、エルサレム共同体の信仰とイエス伝承を詳しく伝えて、新しく誕生したアンティオキアの共同体を指導します。それでアンティオキアの共同体の指導者の名簿には筆頭者として名をあげられ、アンティオキア共同体を代表する人物となります(使徒一三・一)。それだけでなく、バルナバはこの時期の福音の進展にとって重要な役割を果たしています。それはダマスコ途上で回心したサウロをキリスト信仰共同体に紹介することです。サウロは回心して以来、ダマスコで弟子たちの仲間に加わり、イエスがキリストであることを力強く論じて、ダマスコのユダヤ人を驚かせていましたが、回心の三年後に意を決してエルサレムに上ります(ガラテヤ一・一八)。その時にバルナバがサウロを案内して行き、エルサレム共同体にサウロを紹介し、サウロの回心やダマスコでのイエスがキリストであるとの証言活動を説明します(使徒九・二六〜二七)。初めは迫害者として恐れていたエルサレム共同体も、バルナバの説明を納得してサウロを受け入れ、サウロは使徒たちと自由に行き来するようになります。サウロは自分が所属していたギリシア語系ユダヤ人の会堂でもイエスを説いて議論しますが、ユダヤ人は激しくサウロに反対して、サウロを殺そうとします。まさにサウロは自分が迫害したのと同じ理由で、仲間のギリシア語系ユダヤ人の会堂によって命を狙われるのです。サウロの身の安全を心配したエルサレム共同体の人々は、サウロをカイサリアに連れて行って、その港から彼の生まれ故郷のタルソスへ送り出します(使徒九・二八〜三〇)。
この回心から三年後の最初のエルサレム訪問に際して、サウロはペトロのもとに一五日間滞在します(ガラテヤ一・一八〜二〇)。その間、主の兄弟ヤコブのほかは誰にも会わなかったことを強調しています。このことから、まだペトロが使徒としてエルサレムにいる時から、ヤコブは主の兄弟として重視され、ユダヤ人の長老として、エルサレム共同体で重要な役割を果たしていたことがうかがわれます。このサウロとペトロの一五日間に及ぶ共同生活は、その後の福音の進展にとって重要な意味があります。二人は一五日間世間話をしたのではありません。サウロはペトロから地上のイエスの生涯と言動について詳しく聞いたことでしょう。またサウロはここ数年のうちに形成されたエルサレム共同体の信仰告白の定型(コリントT一五・三〜五)も、この時に受けとったことでしょう。後のパウロはこの信仰告白は自分も「受けたもの」であると言っています(コリントT一五・三)。一方、ペトロはファリサイ派聖書学者のサウロから、イエスの出来事の聖書的な意義を教えられたことでしょう。後にペトロはパレスチナユダヤ人の弟子たちの中で、もっともよくパウロを理解した人物として使徒言行録に登場しています。

W エルサレム共同体とアンティオキア共同体の役割分担

アンティオキア共同体におけるバルナバとサウロ

前項のVで見たように、ステファノの殉教が直接のきっかけとなって、このキリストの福音を世界の諸国民に宣べ伝えるための立役者が揃いました。すなわち、サウロ、後の使徒パウロとアンティオキア共同体の登場です。使徒パウロの活動は次項Xで詳しく扱うことになりますが、ここではアンティオキア共同体に焦点を合わせて、とくにこの共同体がエルサレム共同体との関係で、この段階で果たす意義について述べておきます。
ルカ(使徒一一・二五〜二六)はその後の福音の進展にとって重要な出来事として、こう報告しています。「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの共同体に一緒にいて多くの人を教えた」。先に見たように、サウロは回心後ダマスコやアラビアで福音証言の活動をして、三年経ってエルサレムに上り、ペトロと会って語り合い、ギリシア語系ユダヤ人の会堂でキリストの証言をして迫害され命を狙われます。それで仲間に送られて故郷のタルソスに戻ります。これが三五年のことでした。それからおそらく数年後の四〇年前後にバルナバがタルソスで活動しているサウロを見つけて説得し、アンティオキアに連れて帰ります。そのタルソス滞在中サウロは静養していたのではなく、市内と近郊で活発な福音告知の活動を行い、おもに異邦人から成るイエスを信じる仲間の共同体を形成したと見られます。しばらく後に使徒たちは「キリキア州に住む異邦人の兄弟たちに」手紙を送っていますが(使徒一五・二三)、タルソスはキリキア州の州都です。また二六八年のアンティオキアでの司教会議で「タルソスの司教ヘレノス」の活動が伝えられています。サウロの滞在中にタルソスに強大な共同体が形成されたことがうかがわれます。
アンティオキアの共同体は、三九年にアンティオキアに起こったユダヤ人に対する騒乱で、不安定な状況に陥っていたと見られます。サウロの協力の必要を感じたバルナバは、タルソスに出向いてサウロを探し出します。それは難しいことだったようです。ようやくサウロを見つけたバルナバはサウロをアンティオキアに連れてきて、「二人は、丸一年の間そこの共同体に一緒にいて多くの人を教えた」と伝えられています。「丸一年」という期間や「共同体と一緒にいる」という表現が何を意味するのかは争われていますが、おそらく二人は近辺の地域に伝道に出かけないで、じっくりとアンティオキア共同体全体に福音に生きることの仕方と重要性を教えたのでしょう。
なお、ここでルカは短く「このアンティオキアで、弟子たちが初めて《クリスティアノイ》(複数形)と呼ばれるようになったのである」と、弟子たちの呼称について付け加えています(使徒一一・二六)。この呼び方は、弟子たちが自分たちをイエスをキリストと信じる者であると主張していたのを聞いた周囲のギリシア人が、キリストという地位の名称を個人名と取り違えて、彼らを「キリストという人物に帰依する者」とか「キリストに属する者たち」という意味でそう呼んだものと考えられます。周囲の人たちが彼らを《ユーダイオイ》(ユダヤ教徒)と区別するようになったのです。これは、ある宗教の教徒をその開祖の個人名を使って呼ぶヘレニズム世界の人たちの習慣でしょうが、イエスの弟子たちの自覚から出る自称ではなかったでしょう。これは、ヘレニズム世界ではキリストという称号が早くに個人の名前になっていたことの例証になります。《クリスティアノス》(単数形)がキリストにある者の自覚になり、自称となるのは、ずっと後期に書かれたペトロの第一の手紙(ペトロT四・一六)からです。

アンティオキア共同体の飢饉援助活動

これに続いてルカは、アンティオキア共同体がクラウディウス帝の時代に起こった飢饉に際して、エルサレム共同体に援助を送ったことに触れています(使徒一一・二七〜三〇)。エルサレム共同体とアンティオキア共同体の関わりについては前項Vで少し述べました。アンティオキアに成立した異邦人を多く含むアンティオキアの共同体には、十二使徒に直接指導されるエルサレム共同体から預言する者たちが派遣されて指導しました。アンティオキア共同体は、普段はゆとりのある個人の家に集まる「家の集会《エクレシア》」で信仰の交わりと生活を進めていましたが、エルサレムから使徒や預言者が来てアンティオキアの共同体全体に教える時には、どこか大きな場所に集まって彼らの語ることに耳を傾けたようです。このエルサレムから下って来た預言者たちの系列の最初で最高の預言者がバルナバであり、後にエクレシアは「使徒と預言者」という土台の上に建てられた建築にたとえられることになります(エフェソ二・二〇)。このような預言者の中にアガポという預言者がいて、飢饉を予言します。地元の伝承では、アンティオキアの東にあるシルピオン山の山麓に大きな洞窟があり、そこがアンティオキア共同体の全体が集まった場所とされています。この洞窟は「聖ペトロの洞窟」と呼ばれ、後の時代にそれを記念して、その洞窟の前に「聖ペトロ教会」が建てられています。
アンティオキア共同体はキリストの来臨《パルーシア》を熱烈に待ち望む終末信仰が燃える集会でした。後に述べることになりますが、ルカは間近に迫ったキリストの来臨の期待を克服する終末を説く立場ですから、最初期のエルサレム共同体の来臨待望も抑えて記述し、従ってその教えを受け継ぐアンティオキア共同体の来臨待望にも触れていません。しかし、これらの共同体の終末信仰を受け継いで福音を宣べ伝えたパウロの証言(テサロニケ第一書簡第四章)からしても、エルサレムやアンティオキア共同体の終末信仰がそれ以下であったとは考えられません。キリストの来臨の前に来る世界の終末的な状況の中には、世界的な規模の騒乱や飢饉は、覚悟すべきこととして予言されています。経済的に余力があるアンティオキア共同体はその終末信仰に励まされて、ますます熱心に困窮しているエルサレム共同体を援助したことでしょう。アンティオキア共同体は、集会を代表する二人、すなわちバルナバとサウロの二人を派遣して援助の品を送ります。
この飢饉の年代については異論があって決着していません。クラウディウス帝の在位は四一〜五四年で、その間に数回の飢饉がありました。バルナバがそのさい同郷の青年でいとこになるマルコを連れて帰ったという事実(使徒一二・二五)から、(キプロス伝道前の)四四年説が有力です。しかし、この年代は一四年間はエルサレムに行っていないというパウロのガラテヤ書(二・一)の証言との整合性が問題になります。サウロはエルサレムには入らなかったのかもしれません。後にパウロはエルサレム共同体への援助活動を熱心に進めますが、その時にこう述べています。「異邦人はその人たち(エルサレムの聖なる者たち)の霊的なものにあずかったのですから、肉のもの(物質的なもの)で彼らを助ける義務があります」(ローマ一五・二七)。信仰の事柄で多くをエルサレムに負っているアンティオキアの場合も同じ心境でしょう。

バルナバとサウロのキプロス・南ガラテヤ伝道

アンティオキアの共同体は近隣の地域にキリストの福音を熱心に宣べ伝えましたが、その中の一つの場合が、ルカによって使徒言行録の一三〜一四章に詳しく伝えられています。バルナバとサウロはアンティオキア共同体の兄弟たちから祈りと委託を受けて(使徒一三・一〜三)、西に向いキプロスと南ガラテヤ地方にキリストの福音を宣べ伝えます。その伝道旅行で大きな成果を納めた二人は、アンティオキアに帰着するとそこの共同体に成果を報告しています(一四・二一〜二八)。この事実から、この伝道旅行はアンティオキア共同体の活動の一環であり、後のパウロの独立の福音活動とは性格が異なりますので、これを第一次として第二次や第三次と並べるのは疑問です。しかし、後のパウロの福音活動の特色も良く出ていますので、多くの資料を集めたルカの詳しい報告は貴重なものとなります。その伝道旅行を詳しく伝えることはできませんので、その特色の概要だけをここで扱っておきます。
二人はまずバルナバの故郷のキプロス島に向かいます。バルナバは同郷のいとこマルコを助手として連れて行きます。最初に東部にあり島の最大都市でユダヤ人居住者も多いサラミスで活動し、西端のパポスまで島を巡って活動し、パポスでは総督のセルギウス・パウルスに会って福音を説き、彼を信仰に導いています。総督は二人が行う力ある働きを聞いて招き、話を聞いたのでしょう。とくにサウロがイエスに反対した側近のユダヤ人を叱って目を見えなくした奇跡に驚いて回心します。総督というローマの高官が信仰に入ったという事実を、ルカは大きく取り上げて報告していますが、これはキリスト信仰がローマの社会体制に矛盾しないことを示したいルカの護教的な意図から出るのでしょう。ずっと後の時代のことですが、領主が入信すると領民のすべて、または多くが洗礼を受けて入信するという傾向がありましたが、ここでは総督の入信だけが報告されています。ルカはその福音書と使徒言行録の二部作を、ローマの高官テオフィロに献呈しています。ローマの高官が入信したことを機にしたのでしょうか、ユダヤ名サウロは以後そのギリシア語名である同名のパウロス(パウロ)と呼ばれるようになります。ルカは以後の二人の福音活動では、バルナバよりもパウロを前面に出して、福音を語る主要人物として扱うようになります。
パポスから船で対岸の小アジアに渡った「パウロとその一行」は、大陸の港町ベルゲに上陸(そこでマルコは二人から別れてエルサレムに帰ります)。そこから険しい山道を北上して、ガラテヤ州南部の地域の諸都市で福音を告げ知らせます。ガラテヤ州というのはローマ帝国の行政上の区画で、前一世紀にケルト系のガラテヤ人の王国を支配下に置いたローマが、ガラテヤ人の地域(現在のアンカラを含む小アジア中部の地域)の北と南に隣接する地域を合わせて、南北に長い州としたものです。バルナバとパウロがベルゲから北上して福音活動をしたピシディアのアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベの諸都市はみなガラテヤ州南部の地域の都市です。ガラテヤ人の本来の居住地であるガラテヤ地方ではありません。これらの諸都市には、そこに定住しているユダヤ人の共同体があり、ユダヤ教の会堂もありました。パウロの一行はこれらの都市に入るとまずユダヤ教の会堂に入って、そこに集まるユダヤ教徒とユダヤ教の神を慕う異教徒たちにキリストとしてのイエスを宣べ伝えました。このような異教徒は「神を敬う者」とか「神を畏れる者」と呼ばれて、一定の制限つきながらユダヤ人との交わりを許されていました。実はこのような異邦人(非ユダヤ教徒)の多くが福音を信じて、仲間の異邦人に福音を言い広める大きな働きをするようになります。
ガラテヤ州南部に入って最初の都市になるピシディアのアンティオキアの会堂で、パウロが行った福音の告知がルカによって使徒言行録の十三章に詳しく報告されています。この演説は三部に分かれ、それぞれ聴衆への改まった呼びかけで始まっています。第一部は一六〜二五節で、出エジプトから洗礼者ヨハネに至るイスラエルの歴史を振り返って、ダビデの子孫から救い主を起こすとの約束を思い出させ、イエスこそその約束を満たす方であることを語っています。第二部は二六〜三七節で、イスラエルの民はこのイエスを拒否して十字架につけて殺したが、神はイエスを死者の中から復活させてキリストとして立てられたことを告知します。これはパウロが「わたしも受けたもの」と言っているあの福音に他なりません(コリントT一五・三〜五)。いまパウロたちはこの復活されたイエスの証人として前に立っています。そして第三部三八〜四一節の結びで、このイエスをキリストと信じることが、罪の赦しであり、神に義とされることだと呼びかけます。この時にパウロが「モーセの律法では義とされない」と言っているところが、ユダヤ人聴衆の激怒を引き起こします。いくらモーセ宗教(ユダヤ教)を熱心に実行しても義とされて神の民となりえないと主張することは、ユダヤ教を否定することではないか、としてパウロ一行をその地方から追い出します。それでパウロは、それ以後は異邦人に福音を伝える活動を進めることになります(四二〜五二節)。
パウロはその後ヘレニズム世界の諸都市に広く福音を告げ知らせる活動を進めますが、この使徒言行録十三章の記録はその原型を示す実例として重要です。パウロはおもに総督府所在地などの大都市で福音活動を行いますが、それらの都市にはほとんど例外なくユダヤ教の会堂があり、このようにまず会堂で福音が語られ、ユダヤ人に拒否されたパウロは異邦人に向かうことになります。これは最後の活動拠点となるエフェソでも同じです。しかし、使徒言行録における使徒たちの福音告知の表現には、報告者のルカの福音理解が染み込んでいることは留意する必要があります。使徒言行録における使徒の演説は、ペトロのものとパウロのものがほとんどですが、実際にはかなり違うはずの二人の表現は、ルカの福音理解に彩られていて、使徒言行録では殆ど同じになっています。ここでは「救い主」という語の使用や(二三節)、福音が「罪の赦し」を宣べ伝えることとされている(三八節)ことなど、ルカが言いたいことがパウロの口に置かれています。パウロは「罪の赦し」という語を使っていません。それが福音の中心になるのは、コロサイ書(一・一四)やエフェソ書(一・七)の頃からであり、ルカ(二四・四七)もその路線上にあります。
その後パウロの一行はガラテヤ州南部の諸都市を巡り歩いて、そこのユダヤ人会堂や異教の神殿で福音を告げ知らせます。まずピシディアのアンティオキアからセバステ街道を東に向い、イコニオンの会堂で福音を告げ知らせます。ここでも二人の手で不思議な業が行われ、信仰に入る者が出ますが、多くのユダヤ人はモーセ律法(ユダヤ教)の実行では救われないとするパウロに激しく反対して、パウロに石を投げようとします。それを察知した一行は町から逃れて、さらに東のリストラに向かいます。リストラには会堂がなかったのか、ギリシア宗教の神殿の門前で福音を語ります。すると、その言葉を聞いていた足のなえた男が、立ち上がって歩き出すという奇跡が起こります。それを見た群衆は二人をギリシアの神ゼウスとヘルメスの顕現として歓呼し、ゼウス神殿の祭司たちが犠牲の動物を引いて来て、二人を神々の化身として拝もうとします。二人は驚いて、そのような空しい神々からまことの唯一の生ける神に立ち返るように福音を説いているのだと叫んで、ようやくそのような人間を神として拝む愚行をやめさせます。
ところが、先にアンティオキアとイコニオンでユダヤ教宗教を否定するような発言をしたパウロに激怒したユダヤ人が、リストラまで追って来て、パウロに石を投げつけ、倒れたパウロを町の外にひきずり出します。石打ちを受けて生き残った例はないようですが、ここでも奇跡が起こり、弟子たちの祈りでパウロは命を取りとめ、一同と次の町デルべに向かいます。この足のなえた男が歩くようになるとか奇跡的な生還の物語はペトロとの並行記事をなし、ルカがペトロとパウロの二人を、同じように働き、同じ福音を宣べ伝えた同等の使徒として描いていることを印象づけます。デルべでも弟子をつくった一行は、来た道を引き返し、そこから送り出されたアンティオキアの共同体に帰還して、神が与えてくださった大きな成果、とくに多くの異邦人を信仰に導いてくださったことを報告します。アンティオキア共同体の異邦人伝道はバルナバとパウロの働きによって、大きな実を結びます。

エルサレム会議 ー 役割分担の承認

この伝道旅行でパウロは信仰に入った異邦人を、割礼を受けてユダヤ教に改宗させないで受け入れ、神の民とされた者として扱い、「主の晩餐」の交わりにあずからせていたのでしょう。使徒言行録には記録はありませんが、アンティオキア共同体での慣行をそのまま、第一次伝道旅行でも実行していたと推察されます。この割礼なしで義とされた神の民と認めることをユダヤ教の否定だとしたユダヤ教保守派のエルサレム共同体の一部の人たちが、信仰に入った異邦人にまず割礼を受けてユダヤ教に改宗させるべきだと主張して、それをアンティオキア共同体に求めてきます。当時エルサレム共同体は主の兄弟のヤコブが代表していましたから、彼らは「ヤコブのもとから来た人たち」と呼ばれています(ガラテヤ二・一二)。そこで彼らとバルナバやパウロとの間に激論が起こります(使徒一五・一〜五)。
そこでアンティオキア共同体は、バルナバとパウロを代表として派遣して、エルサレムの使徒たちや長老たちと会って、この問題について協議させます。当時のエルサレム共同体は、四〇年代の前半に起こったユダヤの王ヘロデ・アンティパスによる弾圧によって使徒たちはエルサレムを去り、エルサレム共同体はユダヤ人共同体の慣例に従い、その集団の長老たちとその代表である主の兄弟ヤコブによって統率されていました(使徒一二・一〜二三)。バルナバとパウロの二人はエルサレムに上って、使徒たちや他のおもだった人たちと協議します。その協議の経緯は、当事者の一人であるパウロ自身の筆(ガラテヤ二・一〜一〇)と、ルカの使徒言行録(使徒一五・一〜二一)の両方に記録されて伝えられています。この二つの記録は同じ協議のことを記述しているのかどうかが議論されますが、両方とも同じくこの時のエルサレムでの両者の協議を指しているとの通説に従って、その意義を解説しておきます。ただ年代上で有力な説としては、この協議はパウロが独立の福音活動を進めてエーゲ海域に異邦人集会を形成した後(いわゆる第二次伝道旅行の後)、そこで信仰に入った異邦人に割礼を施すべきだと主張したユダヤ人信者の活動家(いわゆるユダヤ主義者)に対して危機感をもったパウロが、その伝道旅行の後に急遽エルサレムを訪問して協議した(使徒一八・一八〜二三)という説があります。この説をとるにしても、異邦人信者に割礼を受けさせるべきかどうかが問題になっている点は同じですから、ここではこの問題についての当事者パウロの明確な主張を聞くことにして、ガラテヤ書二章の記述に従います。

* マーフィー=オコーナーは一九九六年の著作で、この協議がエーゲ海域への第二次伝道旅行の後に行われたことを説得的に主張しています。彼の説について詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音V』六〜一七頁の「コリントからエルサレムに向かう」の項を参照してください。

異邦人で信仰に入った者に割礼を施すべきかどうかをエルサレム共同体の「おもだった人たち」と協議するために、パウロはバルナバと一緒に再びエルサレムに上ります。この日付についてパウロは「その後一四年たってから」と言っていますが、これは回心して三年後に最初にエルサレムに行ってペトロの家に滞在した時(ガラテヤ一・一八〜二四)から一四年後ですから、普通四八年と考えられています。この年は、イエスの復活後七〇年のエルサレム陥落・神殿崩壊までの最初期前期のほぼ中間に当たり、この時期の最大課題が明確になって、福音活動に携わるおもだった者たちによって取り上げられた重要な協議になります。パウロはその重要性を、その啓示がどのような内容を指すにせよ、「啓示によるもの」であったと表現しています。
パウロはこの協議の場にテトスを連れて行きます。テトスはおそらくキリキアの出身者で、パウロの福音告知で信仰に入ったパウロにとって「真実の子」です(テトス一・四)。ギリシア人ですが、割礼を受けることなく(=ユダヤ教に改宗することなく)、アンティオキア共同体の一員としてパウロの福音活動に協力していました。パウロはそのテトスを、割礼なしでキリストの福音に生きる者の実例として連れて行きます。パウロはもちろんエルサレム共同体のおもだった人たちには熱心に、自分の異邦人への福音活動とその成果を知らせ、割礼を受けていないテトスが聖霊の力に満たされて活動した事実を伝えたことでしょう。その結果、彼らはテトスに割礼を受けることを強制しませんでした。彼らはパウロに他の「どんな義務も負わせませんでした」と述べて、この事実を彼らがパウロの「無割礼の福音」を認めたことの何よりの根拠としています。この事実に基づいて「彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです」と述べることができました(ガラテヤ二・七〜八)。ここに来てはじめてパウロは「ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たち」という名をあげて、彼らが「わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出し」、「わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになった」という役割分担が決まったことを告げることになります(ガラテヤ二・九)。ここに名をあげられているヤコブは「主の兄弟ヤコブ」のことであり、四〇年代初頭のヘロデ王の迫害以来エルサレム共同体の統率者であった人物です。使徒であるペトロとヨハネは、この協議のためかまたは偶然にエルサレムに来ていたことになります。
パウロは最後に「ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないように」求められ、パウロはそれを了承して、それ以後この手紙の執筆時まで心がけて来たことを述べています(ガラテヤ二・一〇)。このエルサレム共同体のための募金活動は、パウロの生涯の最後の時期の重大問題になるのですが、この協議のことを伝えるルカ(使徒十五章)はこの問題に触れず、この活動のために心を砕いて労したパウロの募金活動も使徒言行録では一切省略しています(このことは後述)。ここで、この協議のことを伝えるルカの記述となる使徒言行録十五章を見ておきます。最も大きな違いは、パウロがこれをエルサレム共同体のおもだった人たちとの個人的な協議であったとしているのに対して、ルカはこれを当時の福音活動全般を取り仕切っていたヤコブが議長として主宰する使徒会議としていることです。ルカが使徒言行録を書いたのは、エルサレムがローマに占拠され神殿が崩壊してからかなりの年数が経っています。その頃にはエルサレム共同体は辺境ペラに移り、イエスを信じる共同体の大多数は割礼を受けていない異邦人になっていました。使徒パウロの「無割礼の福音」は定着しています。しかし、異邦人信徒が割礼を受けるべきかどうかが大問題であったことをよく知っているルカは、その問題がヤコブを議長とする最初期の使徒たちの会議によって決着していることだとした、と考えられます。それでこの「使徒会議」はエルサレム会議と呼ばれるようになり、最初の全教会会議とされるようになります。総じてルカは最初期の共同体における対立や紛争は隠して、共同体の一致、とくに指導者たちの一致を美しく描くことに心を砕いているようです。

使徒教令の問題

さて、使徒言行録一五章はエルサレム会議の結論として、エルサレム共同体の使徒たちと長老たちが「アンティオキアとシリヤ州とキリキア州に住む異邦人の兄弟たち」に書き送った書簡を引用しています(一五・二二〜二九)。それによると使徒たちと長老たちはまず、アンティオキアに行って異邦人信者は割礼を受けるようにと要求した者は自分たちの勝手な思いで行動したのであり、エルサレム共同体の要請によるものではない(すなわち割礼を受けるようにという要求は使徒や長老から出たものではない)ことを明らかにして、その上で割礼のない異邦人信徒がユダヤ教に忠実なユダヤ人信徒と共同の食事をするために守って欲しい最小限の項目として四項目をあげています。一の「偶像に献げられたもの」というのは具体的には偶像に献げられた肉のこと、二の「血」は生き物の血を食べてはならないというレビ記(一七・一〇〜一四)の規定、三の「絞め殺した動物の肉」は血の詰まっている肉、四の「みだらな行い」はレビ記(一八・六〜一八)が禁じている近親者の間の相姦関係を指しているという祭儀上の要求で、レビ記一七〜一八章に見られるユダヤ人との交わりのために寄留する異邦人になされた守るべき最小限の要求に基づくものと考えられます。後にこれは一と二と四の三項目にまとめられ、偶像礼拝、流血、不品行という宗教的道徳的禁令と解釈されるようになります。
この書簡は後に「使徒教令」と呼ばれることになりますが、問題はパウロがこのような書簡の存在を知らないことです。使徒言行録ではパウロがこの書簡を持参したことになっていますが、パウロはその手紙の中でこの書簡には全然触れていません。パウロは異邦人の信徒とユダヤ人信徒の間の食卓での交わりの問題ではずいぶん苦労し、コリント第一書簡の八章やローマ書の一四章で苦心の筆致で書き送っています。最初期の共同体では礼拝は共同の食事の場で行われたのです。もしこの問題が使徒教令で決着していることを知っていたら、それに基づいて勧めることもできたでしょうが、パウロはこの使徒教令に触れることはありません。エルサレムでの協議では、エルサレムのおもだった人たちは役割の分担を決めた他は異邦人に「何の重荷も負わせなかった」のですから、たとえ軽減された形であってもユダヤ教律法の要求を異邦人に課すことはパウロが諒承しなかったでしょう。おそらくすぐ後に起こったアンティオキアでの食卓での交わりの問題(後述)で危機感を持ったエルサレムとアンティオキアの両共同体が折衝の上で成立させた合意を示す文書を、後ほどルカが入手して使徒言行録のこの場所で用いたのでしょう。もしエルサレム会議の時にこのような文書があり、パウロがそれを知っていたら、すぐ後で触れることになる、アンティオキアで起こった共同の食卓をめぐるあの事件はなかったことでしょう。

X 使徒パウロの独立福音活動

アンティオキアの食卓事件

 バルナバとパウロのエルサレム共同体との協議は、福音告知の活動における役割分担の同意で終わりました。パウロは自分の主張がさしあたり実際面で認められたことには満足したことでしょう。しかしパウロは、人は割礼の有る無しを問わず、すなわちユダヤ教徒であるか否かを問わず、すべて主イエス・キリストを信じる者は「信仰によって義とされる」というパウロの福音理解を、ユダヤ教の中にいる人たちがすべて認めるに至ったのではないことには満足できなかったのではないかと思います。その証拠に、この役割分担の同意の後も、ユダヤ人信者の一部の者たちがエルサレム共同体の権威を背景に、パウロの無割礼の福音に反対して、異邦人信者に割礼を要求する運動を最後まで続けたことがあげられます。パウロが最後に書いたローマ書には、エルサレム共同体の中のユダヤ教の絶対性に固執するユダヤ教徒の信者に、「人は律法(ユダヤ教)の実行ではなく、キリスト信仰によって義とされる」という福音の真理を理解してもらいたいという願いも込められていたと推察されます。
 エルサレムでの協議で問題がすべて解決したのではないことは、すぐに露呈します。この協議の後しばらくして、ペトロがアンティオキアに来て一同と食事をして活動を共にします。共同の食事は集会活動の中心でした。その時に事件が起こります。共同体の一致を美しく語りたいルカはこの問題に触れていませんが、パウロがガラテヤ二章のエルサレムでの協議の記事の直後に、この事件の事実を伝えています(ガラテヤ二・一一〜一四)。「ヤコブのもとからある人びとが来るまでは」異邦人と一緒に食事をしていたペトロが、「彼らが来ると、割礼を受けている者たちを恐れて」、その共同の食事の席から身を引こうとします。ここで「ヤコブのもとから」と名が明記されていることから、この「ある人びと」はヤコブが派遣した使節団と見られます。ペトロが恐れた「割礼を受けている者たち」とはエルサレム共同体の信者ではなく(エルサレム共同体は全員割礼を受けています)、共同体の外のユダヤ人を指していて、当時エルサレム共同体は律法違反を疑われてユダヤ人たちの中で孤立していました。ペトロは自分の行為がその疑いを加速して、エルサレム共同体を窮地に追い込むことを恐れたのではないかと推察されます。
ペトロは苦渋の決断を迫られます。ためらうペトロと一対一で対話して説得しようとしたパウロの説得は成功せず、ついにペトロは異邦人との共同の食卓から身を引きます。この人だけはと期待していた盟友のバルナバまでも、ペトロに同調して身を引きます。ここに至ってパウロはこの問題を集会全体の場に持ち出して、ペトロの行為を「福音の真理」に反するものと批判します。もし使徒教令のようなものがユダヤ人と異邦人の共同の食卓の問題を原則的に解決していたのであれば、このような事件は起こらなかったでしょう。パウロは集会の場でペトロを批判して、福音の立場を明確にします。すなわち、ペトロは異邦人と食事を共にするという形で、自分はユダヤ教律法に拘束されていない異邦人のように行動しながら、異邦人にはユダヤ教律法に従ってユダヤ人のように行動することを強要しているのだと、彼の行動が福音の真理に反することを批判します。パウロにとって救いを求める人にキリスト信仰以外のことを要求すること、この場合はユダヤ人のようになることを求めるのは、まさに今ガラテヤの異邦人信者に割礼を受けてユダヤ教徒になることを要求しているユダヤ主義者と同じであり、パウロには耐えられないことです。ここからパウロの議論は自然にガラテヤ書の主題に戻り、ユダヤ主義者への反論と福音の真理の宣明に入っていきます(一五節以下)。使徒の頭であるペトロとアンティオキア集会の代表者であるバルナバを批判したパウロは、アンティオキア共同体で孤立し、アンティオキアを去らざるをえなくなります。ルカは使徒言行録(一五・三六〜四一)で、マルコを連れて行くかどうか意見が違ってパウロとバルナバが別れたと書いていますが、事実はそのような小さい問題ではないのが実情です。バルナバはユダヤ教に対してパウロのように徹底的になれなかったのでしょう。

パウロの独立自給の福音活動

ここからパウロの福音活動は、もはやアンティオキア共同体からの支援はなく、独立自給の福音活動になります。パウロは同行者としてシラスを選びます。シラスはエルサレム共同体の有力な預言者(指導者)の一人で、ギリシア語をよくする人物であり、パウロが孤立した時の数少ない同調者でした。二人はパウロが以前に活動したシリア州とキリキア州(首都でありパウロの故郷であるタルソスを含む)の諸都市を訪問して集会を励まし、そこからタウルス山脈を越えて、先に福音を伝えたガラテヤ州南部の諸都市を(その時とは逆の方向に)東から西へと歴訪します。デルベ、リストラ、イコニオン、ピシディアのアンティオキアと進みますが、リストラでテモテという若い弟子と会い、この青年を見込んで一行に加えます。テモテはバルナバとパウロの先のガラテヤ州南部の諸都市への伝道のときに信仰に入った青年で、リストラとイコニオン地域での活動で評判の青年でした。父親はギリシア人でしたが母親がユダヤ人で(テモテU一・五)、ユダヤ人と認められていましたが、父親の反対があったのか割礼は受けていませんでした。パウロはこのテモテに割礼を受けさせて、ユダヤ人としてユダヤ人の間で活動しやすいようにします(コリントT九・二〇)。テトスの場合は福音の確認のために割礼にあれほど徹底的に反対したパウロが、テモテの場合は割礼を受けさせています。ユダヤ教を否定するのではなく、宗教としてのユダヤ教の相対的な価値を認めて柔軟に対応するパウロの姿勢がうかがえます。
ピシディアのアンティオキアからさらに西に向ってアジア州に入ろうとしますが、何らかの事情で果たせなかったことを、主の御心でないと感じたパウロは予定を変更して、フリギア・ガラテヤ地方(ガラテヤ州ではなく現在のアンカラを中心とするケルト系住民の居住地域)に達して、しばらく滞在(おそらく越冬)して、その間に一行は福音を伝える働きを進めたのではないかと推察されます。後にパウロが書いたガラテヤの諸集会宛の手紙は、この時の福音活動で成立した集会ではないかと考えられます。ルカがこのガリラヤ地方での福音活動と集会の成立に触れない理由は分かりません。ガラテヤ地方の諸集会は、パウロの必死の説得にも拘らず、結局はユダヤ主義者に屈してパウロから離れたのをルカが知っているからではないかという推察もありえます。一方、ガラテヤ書の宛先は、先にパウロが福音を告げ知らせたガラテヤ州南部の諸都市であるという見方も十分成立します。ガラテヤ書の宛先は北のガラテヤ地方だとする北ガラテヤ説と、ガラテヤ州南部の諸都市だとする南ガラテヤ説が未だに対立しています。
ガラテヤ地方から西に向かったパウロの一行は、ミシア地方から北に向かいビティニア州に入る計画を断念して、そのまま西に向かい、小アジア北西端の港町トロアスに到着します。ここでパウロはこれからの行動を大きく決定することになる幻を見ます。その幻の中で一人のマケドニア人が現れ、マケドニアに渡って助けてくれるように頼みます。パウロは直ちに決心して海を越えて対岸のマケドニアに渡ります。この決定を伝える記事(使徒一六・九〜一〇)から突然「わたしたち章句」が始まります。この章句は「わたしたち」を主語とする章句で、パウロ一行の行動の記録に著者のルカが含まれていることを示唆しています。この「わたしたち章句」はパウロのフィリピでの活動を伝える一六・一七まで続いていったん途絶え、パウロ一行が第三次伝道旅行でフィリピに来た時から最後まで続きます。異説もありますが、この「わたしたち章句」の期間は著者のルカの直接の見聞に基づいている記事だと考えられます。
マケドニア州に渡ったパウロは第一区の都市フィリピで福音を伝え、次に州の首都で総督府所在地の大都市テサロニケにかなりの期間滞在して活動します。そこでもユダヤ人に反対されてべレアに逃れ、そこからおそらく船便でアテネに向かいます。ギリシア文明の中心地アテネでは広場で哲学者らと議論しますが、中でもアテネでは神殿近くのアクロポリスの丘でした福音告知の演説が有名で、現在でもルカが伝える全文(使徒一七・二二〜三一)が刻まれた銘文が見られます。アテネではパウロの一行は信者を獲得することはできなかったようで、パウロは早々に切り上げて、次の大都市コリントに向かいます。コリントはギリシア本土とペロポネソス半島を結ぶ狭い地峡に位置して、地中海貿易の中継地として繁栄した大都市で、(アテネを含む)アカイア州の州都であり総督府の所在地でした。日本で言えば、文化都市京都と商業都市大阪の違いでしょうか。このコリントでは、最近の追放令でローマから移住してきていたユダヤ人アキラ夫妻と知り合い、同じ職業であるテント作りの仕事をして自活しながら福音活動に励みます。そして援助に積極的なフィリピの集会から活動資金が届いた時には伝道活動に専心するという形でした(使徒一八・一〜五)。この独立自給の福音活動の形態は、先のテサロニケの時も、次のエフェソ滞在の時期も同じで、アンティオキアを去ってからのパウロの活動形態となります。この援助資金の提供に対しては、フィリピ書(四・一〇〜一九)でパウロは感謝の気持ちを述べています。
コリントでもパウロはまずユダヤ人の会堂に入ってイエスが復活したキリストであることを告げ知らせます。それは使徒言行録十三章に記録されている通りです。しかしモーセ律法の実行では義とされないという宣言がユダヤ教徒をつまずかせます。パウロは反対されて会堂から追い出されます。しかし異邦人の間に手応えを感じ、ティティオ・ユストという異邦人の家で集会を開いて、福音告知の活動を一年半の長期にわたって続けます。彼はかなりの有力者で、多くの人が集まれる広さの邸宅の所有者だったのでしょう。そのうえ彼の家はユダヤ教会堂の隣にあり、そこで信仰に入ったユダヤ人と異邦人が食事を共にして礼拝をするので、それを律法違反だとするユダヤ人を刺激し、ついにはユダヤ人がパウロを捕まえて総督の法廷に訴えるという事件が起こります。時の総督ガリオンはその訴えをユダヤ教内の教義争いだとして門前払いにして、パウロを釈放します。

エーゲ海地域の異邦人共同体の成立

釈放されたパウロは、春の航路再開を待ってエルサレムに向かいます(使徒一八・一八〜二三)。ルカはこのエルサレム行きを「教会に挨拶をするために」と書いていますが、西に向かって一路ローマを目指していたパウロが、突然反対の東に向かうのは何か緊急の目的があるはずです。先にパウロがガラテヤ書二章で報告しているエルサレム共同体のおもだった人たちとの協議はこの時のエルサレム訪問時であったという見方を紹介しまたが、この見方がパウロの行動をもっともよく説明できるのではないかと思います。ルカはこの役割分担がごく早期に、パウロのマケドニア州やアカイア州での活動の前になされたとして、その後はパウロの一行はユダヤ主義者から煩わされたことに触れていませんが、パウロの手紙にはこの時期にユダヤ主義者からの執拗な対抗活動に悩んでいる様子がうかがえます。異邦人信者に割礼を受けることを要求した彼らを沈黙させるために、パウロは急遽エルサレム共同体と協議する必要を感じ、東に向かったのではないかと考えられます。途中船便の都合でエフェソに立ち寄りますが、滞在を願う人たちを振り切って、再訪を約してエルサレムに向かいます。
その協議の結果は、パウロがガラテヤ書二章で報告する通りですが、そこでなされた二つの合意を伝えるために、アンティオキアで越冬した後、パウロは困難な小アジアの高地地帯を通ってエーゲ海域に向かいます。二つの合意というのは、異邦人信者は割礼を受ける必要はないということ、およびエルサレム共同体への募金です。ガラテアの諸集会にもこの合意を伝えます。普通、この時のエルサレムとアンティオキア滞在以後のパウロの伝道旅行は「第三次伝道旅行」と呼ばれますが、この旅行が募金旅行の様相を呈するようになるのも、この見方でよく説明できます。
エフェソに到着したパウロの一行は、ここに二年も滞在して活動します。エフェソは小アジア西部のエーゲ海に面したアジア州の州都で、総督府の所在地でした。パウロはそういう地域の中心的な大都市に長期にわたって滞在して、周辺の地域に伝道する方策を取っていました。エーゲ海は北のマケドニア州、西のアカイア州、東のアジア州の三つの州に取り囲まれていますが、それぞれの州都になる大都市テサロニケ、コリント、エフェソの三都市を拠点として周辺の各地に伝道し、パウロの一行はエーゲ海地域に福音を満たします。こうしてエーゲ海地域には多くの異邦人を含む信者の共同体が成立し、エルサレムとアンティオキアの二つの拠点を中心に福音が拡大した時代の次の時代に、福音が世界に拡大する事業を担う拠点となります。
テサロニケやコリントなどの大都市と同じで、エフェソでもパウロはまずユダヤ人の会堂に入って福音を告げ知らせますが、激しい反対にあって、信仰に入った少数のユダヤ人と多数の異邦人を引き連れて会堂を出ます。エフェソでは「ティラノの講堂」と呼ばれる講堂で毎日福音を説き、求めに応じて病人をいやし悪霊を追い出すなどの奇跡を行い、それが二年間も続いたので、周辺地域の多くの異邦人がイエスを信じるようになります。エフェソでのパウロ一行の活動は、ルカが使徒言行録の一九章で詳しく報告していますが、パウロ自身もエフェソを出発してすぐ後のコリント滞在中に書いたローマ書(一五・一八b〜一九)で、「キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました」と要約しています。
エフェソ滞在中のパウロの働きについて特記すべきは、現在新約聖書に収められているパウロ書簡のほとんどすべてをこのエフェソで書いたという事実です。テサロニケ第一書簡は少し前のコリント滞在中に書かれましたが、パウロの心痛の種となったガラテヤ書やコリント二書簡は明確にエフェソ滞在中に書かれ、そして最後の書簡になるローマ書はエフェソから出た直後のコリント滞在中に書かれ、フィリピ書やフィレモン書などの獄中書簡もエフェソで投獄された時に書かれたと推測されます。ローマ書はその写しがエフェソにも送られ、コロサイ書やエフェソ書やテサロニケ第二書簡のようにパウロの名で書かれたものもエフェソに集められ、エフェソはパウロ書簡の集積地となります。後にこの地で「パウロ書簡集」が編集されて、新約聖書の重要部分を占めることになります。
エフェソとその後背地の諸都市でのパウロ一行の働きはめざましく、アルテミス神殿を抱える宗教都市エフェソの神殿用品職人に脅威を感じさせるほどになります。その神殿用品職人のデメテリオに扇動されて騒動が起こり、それに巻き込まれてパウロは逮捕され投獄されます。ルカはこの投獄に触れていませんが、フィリピ書とフィレモン書の両獄中書簡はそう推測させます。騒動は役人によって鎮静化しパウロは釈放されますが、エフェソを去ることになります。その後のパウロはエルサレム共同体への援助活動に励みますが、この募金活動は多くの誤解を生んで、パウロの心労は絶えませんでした。その心労と苦心は、「募金の手紙」と呼ばれるコリント第二書簡の八章と九章によく示されています。パウロはエフェソを去った後、コリントに行って冬を越し、そこに援助金を携えた各集会の代表者を集め、彼らと一緒に春の航路再開を待ってエルサレムに向かいます。その間にローマ書という新約聖書中もっとも重要な文書を書き上げます。その最後の部分(ローマ書一五・二五〜三二)で、その献金が受け容れられるかどうか、また自分の身の上にも何かが起こるのではという不安を感じている心情が書かれています。

パウロの最後の日々

エルサレム共同体は生活資材を共有する生活共同体でした。資産のある者が私財を売り払って使徒に委託し、その資産で共同体の信仰生活を維持していました。そのような共同体が成り立ったのは、キリストの来臨が差し迫っているという終末信仰が燃えていたからでした。ルカは彼の終末理解から最初期のエルサレム共同体の差し迫ったキリスト来臨の期待を抑えて描いていますが、エルサレム共同体と来臨信仰を共有するアンティオキア共同体から出たパウロの福音告知がテサロニケ第一書簡に見られるようなものであれば、その母体であるエルサレムとアンティオキアの両共同体の来臨待望がそれ以下であったとは考えられません。そこには自分たちの地上の生活期間中に来臨が起こると待ち望んでいる共同体の姿が見られます。しかしそれは生産手段の共有ではありませんから、いつかはその共有資産は枯渇します。パウロが異邦人信者の割礼問題でエルサレムの指導者と協議したのは五〇年前後(共同体発足後約二〇年)と考えられますが、その時期にはすでにその枯渇が心配されていて、異邦人集会からのエルサレム共同体に対する援助が期待されていました(ガラテヤ二・一〇)。パウロもその援助を約束し、それ以後は自分が形成した異邦人諸集会に働きかけ、援助の資金を準備するようにしていました。パウロがエフェソから(おそらく)追放されてコリントで越冬したのは五六年の冬だと見られますが、援助金の準備はできたとして、各集会の代表者をそこに呼び集め、一緒にエルサレムに上ります。パウロにとってこの事業は、たんに貧しい者を援助する活動ではなく、異邦人を神に献げる祭司の役割を与えられた自分の聖なる勤めであると自覚していました。それで、いかなる危険を冒しても成し遂げなければならなかったのです(ローマ一五・一六)。
コリントからエルサレムへの海路でパウロは各地の集会の人たちに別れを告げていますが、エフェソの人たちの場合に見られるように(使徒二〇・一七〜三八)、それは今生の別れとして描かれています。パウロの最後を知っているルカの筆がそのように描かせたのでしょう。エルサレムに着いたパウロは共同体を代表するヤコブと長老たちと会って、異邦人諸集会からの献金を渡そうとしたはずです。パウロの一行はこのことのために危険を冒してエルサレムに来たのですから。ところがパウロの募金活動に一切触れないルカは、当然のことながら、ここでもその献金が受け取られたのか拒否されたのか沈黙しています。ルカがパウロの募金活動に一切触れないのは使徒言行録の謎の一つですが、これは献金がパウロの心配通りに、拒否されて不成功に終わったことを知っているので、これを伏せたということが考えられます。拒否の理由は、この時のヤコブの言葉(使徒二一・二〇〜二五)が示唆しているように、モーセ律法順守に熱心なエルサレム共同体が、パウロの反律法的な姿勢とその態勢の共同体との一致を拒否したからだと考えられます。パウロにモーセ律法順守の姿勢を示すように求めたエルサレム共同体の求めに応じて、パウロが神殿に入ってユダヤ教の儀礼に参加した時に、異邦人を神殿に入れたと誤解した(故意かもしれません)アジア州出身のユダヤ人に騒がれて騒乱が起こり、パウロは逮捕されるにいたります。パウロが直前にローマ書で心配したとおりになります。
この後ローマ総督や最高法院の法廷でパウロは福音の証しを立て、身の潔白を訴え、最後にはローマ市民権に訴えて皇帝に上訴します。ルカは使徒言行録の二〇章以下で、諸法廷でのパウロの弁論、ローマへの護送、ローマでの福音活動について詳しく記述していますが、ここでは一切省略せざるをえません。ルカはエルサレムに始まったキリストの福音の告知活動が、世界の首都であるローマに到達することを使徒言行録記述の目的としているので、パウロ自身は望まない囚人という形であれ、福音がローマに達したことを語れば目的は達せられたことになります。ルカはパウロの最後を知っているはずですが、使徒言行録の記述をここで打ち切ります。おそらく訴えたユダヤ人の策が功を奏し、パウロは皇帝ネロの法廷で有罪となり処刑され、殉教の死を遂げたと考えられます。
パウロの最後の日々について、このとき獄中のパウロ自身が語るところが一部含まれると見られるテモテへの第二書簡が垣間見させてくれます(以下の数字はこの書簡の章節)。それによると、キリストの福音を命がけで宣べ伝えたパウロはいま「この福音のために苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています」(二・九)。パウロが最後に働いたアジア州(おもにエフェソ)の人々はみなパウロから離れ、オネシフォロ(フィレモン書のオネシモのことか)だけが囚われの場所を捜して訪ねてきたことを感謝しています(一・一五〜一八)。信頼する同労者は遠くへ行き、ルカだけが身近にいるだけで孤独であることを嘆き、テモテに冬になる前にマルコを連れて至急に来るように、その際寒さをしのぐ外套と羊皮紙の書物(おそらく聖書)を持ってくるように求めています(四・九〜一三)。使徒はすでに死を覚悟しており、「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」と語っています(四・六)。それだけに獄中の使徒の孤独が切実です。しかし、使徒はキリストの来臨を見つめて栄光の希望に満たされています(四・六〜八)。

結び 「無割礼の福音」確立のための苦闘とその意義

本節「第一節 ユダヤ教の枠を超えるキリストの福音」において、死者の中から復活したイエスをキリストとして宣べ伝えた使徒たちの中に、二つの流れがあることを見ました。両方とも復活したイエスをキリストとして宣べ伝える点では同じですが、一方は、そのキリストをあくまでユダヤ教の中でのキリスト、すなわちユダヤ教の中にいる者(ユダヤ教徒)に約束された救済者として、このキリストの救済にあずかる者はまずユダヤ教徒でなければならないとしました。わたしはこの立場の人たちを「ユダヤ教内キリスト信仰」と呼んでいます。それで、イエスを復活のキリストとして信じ、このキリストとしてのイエスの救済にあずかろうとする者は、まず割礼を受けてユダヤ教徒となり、ユダヤ教の規定、すなわちモーセ律法を順守しなければならないとしたのです。もう一方は、キリストは世界のすべての民の救済者であり、イエスを復活されたキリストと信じる者は、ユダヤ教徒であれ他の宗教の民であれ、誰であっても差別はなく、すべてこのキリストの信仰によって救われるとしました。それで、ユダヤ教徒でない異邦人であっても、割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、異邦人のままでキリストを信じて救われるのだとしました。わたしはこの立場の人たちを「ユダヤ教外キリスト信仰」と呼んでいます。一方の側に立つパウロは、自分たちを「わたしたち」、他の側に立つ証人を「彼ら」と呼んで、「とにかく、わたしたちにしても彼らにしても」、イエスが復活してキリストとして立てられたと宣べ伝えているのであり、復活者キリストの信仰がすべての信者に共通の信仰であることを、キリストの復活を証言する最初の記録の結論としています(コリントT一五・一一)。
 ある特定の宗教の中にいる者は、自分の宗教を絶対化する傾向があります。すなわち、この宗教に所属し、この宗教を実行する者でなければ、その宗教が約束する救済にあずかれないのは、自明のことです。この宗教の規定を実行しても実行しなくても結果は同じだとか、違う宗教の教徒であっても変わらないとすることは考えられません。その宗教に熱心な人ほど、その思いは強くなります。自分の宗教の規定を順守しないと救われないとする思想を「宗教の絶対化」と呼ぶことにすると、この「宗教の絶対化」はどの宗教にも避けがたい傾向だと言えます。最初にイエスの復活を体験してその証人となった人たちはみなユダヤ人であり、ユダヤ教徒でしたから、自分たちの宗教であるユダヤ教を絶対化する傾向は避けられませんでした。
 この体質に風穴を開けたのが、同じくユダヤ教徒でありながら、ギリシア文化の中で育ったディアスポラのユダヤ人です。ユダヤ教徒の中の多数はギリシア文化が支配するヘレニズム諸都市に生まれ育ったディアスポラ(離散)のユダヤ人でした。彼らの多くもエルサレムに住んで熱心なユダヤ教徒として活躍していました。彼らもイエス復活の証言によってイエスを信じる者となり、最初期のエルサレム共同体に加わっていました。彼らはその育ちのヘレニズム的な自由な背景から、イエスの言葉にある神殿やユダヤ教宗教に対する柔軟な姿勢に共感していたのでしょう。神殿の祭司的宗教やモーセ律法の絶対化には批判的でした。そのようなギリシア語系のユダヤ教徒に対して、ユダヤ教を絶対化する熱心なユダヤ教徒から迫害が起こり、その代表者であるステファノが殺されるにいたります。この迫害によってエルサレムから追われたギリシア語系ユダヤ人が、他の宗教の民にも復活されたイエスをキリストとして宣べ伝え、割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、そのままでキリストの民、神の民となるという福音を告げ知らせるようになります。このような質の福音告知運動の急先鋒が、もともとこの福音の迫害者であったサウロ、後のパウロだったのです。
 同じく復活されたイエスをキリストとして告知する運動に、この二つの潮流があることと、その二つの潮流の間の軋轢と葛藤については、本節でその概略を見ました。この軋轢は、ユダヤ教を絶対化するユダヤ教徒から、パウロの活動によって信仰に入った異邦人信者に割礼を施すことを要求した執拗な対抗運動の形で現れていました。それに対してパウロは「無割礼の福音」を確立するために苦闘し、このようなユダヤ教徒からの策謀によって訴えられ、遂には命を捧げるに至ります。ここで「無割礼の福音」と言っているのは、福音告知の運動の対象として、ペトロには割礼の者たち、すなわちユダヤ教徒が、そしてパウロには無割礼の者たち、すなわち異邦人(非ユダヤ教徒)が割り当てられたという対象の線引きだけではなく(それはエルサレム会議の合意事項でしたが)、無割礼のままキリスト信仰によって義とされ、神の民であり得るという信仰上の原理、神学上の原則の提示です。パウロはこの原理の提示のためにローマ書という新約聖書の中でもっとも重要な文書を書くのです。この神学上の原則は次の第二節の主題として、やや詳しく扱うことになります。しかし、この原則の実現のために苦闘し、そのために命を捧げた使徒パウロの働きを概観する本節の内容も、それに劣らない重要な事実です。もし、パウロがいかなる譲歩や妥協もしないでこの「無割礼の福音」確立のために戦ってくれていなければ、キリストの恩恵の場に生きようとする者はみな割礼を受けていなければならないことになっていたでしょう。パウロは、この福音運動がユダヤ教への改宗運動になることなく、全人類への救済告知となるように戦ったもっとも重要な戦士だったのです。