市川喜一著作集 > 第23巻 福音と宗教T > 第11講

第三節 イエスの神 ー イエスとユダヤ教

はじめに

前節「ナザレのイエスーその地上の生涯」では、パレスチナの一地方であるガリラヤの小さな町ナザレで生まれ育ち、比較的若く、わずか三十数歳で首都エルサレムで十字架刑に処せられて地上の生を終えた「ナザレのイエス」という人物の生涯を描きました。しかし、宗教の問題を主題とし、人間の神との関わりを探求することを目的とする本書では、このイエスと神との関わり方が問題です。イエスはどのような神を信じ、その神への信仰をどのように生き、どのような神を人々に宣べ伝え、その宗教信仰の故に彼の時代の宗教権威者から死刑の判決を受けたのでしょうか。そのことを考察する上で、ユダヤ教についての知識、ユダヤ教に対する理解が不可欠です。イエスはユダヤ教の中へ生れ落ち、ユダヤ教の教育を受け、ユダヤ教の神を信じ、ユダヤ教徒たちに教えを説き、ユダヤ教の指導者たちによって死刑の判決を受けたのですから、これは当然です。このイエスという人物の神との関わりを少しでも明らかにするために、本書ではその前提として第一節「聖書の神」を置いて、聖書を神の啓示と信じて従っているユダヤ教の実態を描き、続いて第二節「ナザレのイエスーその地上の生涯」で、そのユダヤ教社会に生きたイエスの生涯の概略を見ました。これらの節を前置きとして、 本節で第二章の主題であるイエスと神の関わり、「イエスの神」を見ることになります。
イエスの生涯とその言動、イエスが宣べ伝えた神について研究し書かれた書物は、この二千年間増加し続け、今では人類の(とくに欧米の)図書館を満たしています。それはイエスを救済者キリストと信じる宗教であるキリスト教を信奉するキリスト教徒が増えて、人類の多数を占めるようになったからでしょう。イエスについての知識は飽和しています。その中でさらに一冊を加える必要はあるのでしょうか。ましてその方面の専門家、キリスト教神学や教会史または歴史専門家でもない者が、この主題に一冊を加える意味はあるのでしょうか。わたしはあると信じています。福音を信じてそれを宣べ伝えている限り、すなわちイエスをキリストとして宣べ伝えている限り、このキリストであるイエスの神との関わりはわたしに決定的な意味をもちます。それを告白することは、この方面に筆を執る者の義務だと考えます。しかし地上のイエスにおいては、キリストとしての姿は隠されています。その姿があらわになって告知されるのは使徒たちの時代からです。本書では第三章以下の諸章です。本章ではあくまで地上のイエスが一人の人間として持った宗教、神との関わりがどのようであったかを見ることになります。

T ユダヤ教諸派とイエス

宗教社会における生

人間はある特定の宗教社会に生まれ落ちます。人間社会はある特定の宗教によって形成されたものであって、それは人間が人間となった時からそうでした。それは人間が宗教するようになった時からでした。人間は衣食住に必要なものを獲得する日常の生活、「俗なる生」の中に、それとは別の世界から来る力とか働きを経験して、それを「聖なるもの」として崇め礼拝するようになります。宗教の始まりです。その聖なるものとの関わりの中で人間は自分の存在の意味や目的を考えるようになります。こうして人間は「宗教する人間」(ホモ・レリギオースス)となります。人間は一人では生きて行けず仲間を作りますが、仲間は同じ宗教を持つことになります。同じ宗教が人間の仲間を結びつける紐帯となります。人間はある親から生まれて親に育てられます。その親と子はすでに同じ宗教をもつ仲間の中にいるのですから、生まれ落ちた子はすでにある特定の宗教の中に生まれ落ちることになります。人間は自分が生まれた宗教の中に生きる他はありません。
現代では多数の人は世俗化された世界に住んでいます。宗教の存在と影響を感じるのはごく希薄です。しかし古代ではそうではありませんでした。宗教が社会のすべてを支配していました。人間はある宗教が支配する社会に生まれ落ち、その宗教の通過儀礼を経て成人となり、その宗教社会の一員として生き、その宗教儀礼によって葬られて生涯を終えます。それ以外の人間の生き方は考えられない時代でした。そして人類は、その歴史の大部分においてこのような在り方が当然でした。
イエスはユダヤ教社会に生まれ落ちます。ユダヤ教の両親のもとに生まれ、ユダヤ教の教育を受けて育ち、ユダヤ教の成人式を経て、ユダヤ教律法のエキスパートとして、ユダヤ教の世界で活躍します。ところが、そのイエスがユダヤ教の最高機関である最高法院から死刑の判決を受けるに至ります。これはイエスの宗教、イエスの神信仰がユダヤ教という社会の支配宗教と対立したからです。イエスはユダヤ教の神を信じ、そのユダヤ人たちに神への信仰を説きましたが、異なる神、違った信仰を説く者として処刑されるに至りました。イエスとユダヤ教はどういう点で対立したのでしょうか。この問題が本節の主題です。
ユダヤ教という宗教については、本章第一節の「聖書の神」でその概略を見ました。そして第二節「ナザレのイエス」で、このユダヤ教の中に生まれ育ち、そこで活躍し、そこで死んだイエスの生涯を見ました。この第三節「イエスとユダヤ教」では、ユダヤ教に生きたイエスがなぜユダヤ教によって殺されたのかを見ることで、イエスと宗教の関係を見ることになります。これを見ることで、人間と宗教の関係を見ることになります。

ユダヤ教の諸派

一口にユダヤ教と言っても、ユダヤ教の中には神との関わり方において微妙に違う諸派があります。イエスの時代、すなわち一世紀のユダヤの実情に詳しいユダヤ人歴史家のヨセフスによると、この時代にはユダヤ教には四つの派があったと伝えられています。すなわち、サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派、それに熱心党の四派です。この中で熱心党《ゼーロータイ》というのはファリサイ派の中の過激派で、神学的・教義的にはファリサイ派とよく似ていますが、ファリサイ派の主流がローマの支配体制とか思想に妥協的であったのを不満として、律法の支配、すなわちユダヤ教の支配を貫くために納税拒否から武力闘争も辞さない過激な思想に至った一派です。ヨセフスはこの一派も一つの派と数えて当時のユダヤ教には四つの「学派」(宗派に対するギリシア的な呼び方)があったと言っています。宗教的な傾向の違いからすれば、熱心党はファリサイ派に含まれますから、当時のユダヤ教には、サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派の三つの宗派があったと言えるでしょう。
では、イエスはどれかの宗派に属して他派を批判し攻撃したのでしょうか。それで攻撃された側から弾圧されて死んだ宗教改革者だったのでしょうか。宗教史にはそのようなケースがよくありました。結果からすると、イエスは最高法院を形成するサドカイ派とファリサイ派の両方から死刑の判決を受けています。三つの宗派の中でエッセネ派は、現在の大祭司は正統な大祭司ではないとして現体制に対抗していましたから、最高法院には議席はなく、イエスの死刑判決には加わっていません。新約聖書にはエッセネ派に対する批判は一切なく、エッセネ派の名前さえ出てきません。新約聖書にはサドカイ派とファリサイ派への激しい批判があるだけです。この両派についてはかなりよく知られています。それで、イエスはエッセネ派の一人ではなかったのか、イエスはエッセネ派の立場からサドカイ派とファリサイ派を激しく批判したのではないかという説が出て、議論されることがあります。それでここでは最初にエッセネ派とイエスの関係について概観し、その上でファリサイ派とかサドカイ派というユダヤ教の主要宗派とイエスの関わり方を見ることにします。

イエスとエッセネ派

だいたいエッセネ派がどういう性格の宗派であったのか、その信仰内容はこれまでよく知られていませんでした。ところが二〇世紀の半ばに死海沿岸のクムランで「死海文書」が発見され、その内容が知られるようになって、その文書を生みだし、その文書に描かれているユダヤ教徒の一派こそがエッセネ派であるという理解が広まり、今ではほぼ通説となっています。エッセネ派の本拠地は荒野にあります。彼らはハスモン家出身の大祭司を正統な大祭司ではないと批判したためにエルサレムを追われて荒れ野に逃れた宗団で、具体的には死海西岸の山地クムランの修道院のような場所にこもって、祈りと聖書研究に励んだユダヤ教徒の集団です。彼らはザドクの子孫として正統な大祭司であると自任する「義の教師」と呼ばれる指導者のもとに、極めて強い終末信仰に貫かれた聖書解釈に基づく独特の神学と、軍隊組織にも似た強固な組織(実際それはローマに対する戦いに用いられます)を造り上げていました。彼らの終末信仰に共鳴する者はクムランだけではなく、ユダヤ教社会の各地に在家の信者として活動していました。イエスの父親のヨセフもそういうエッセネの一人であったという見方もあります。彼らの律法順守の熱意はユダヤ教社会で際立っていました。
新約聖書に登場する主要人物でエッセネ派の者ではないかと推察される最も有力な候補は洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネについては先にやや詳しく述べたのでここでは繰り返しませんが、この荒れ野に育った預言者がヨルダン川一体でイスラエルに悔い改めを迫った時には、死海文書から知られるエッセネ派の教えや慣習からは離れて、独自の「野に叫ぶ声」として、イスラエルに対する神の呼びかけになっていました。それで、イエスがヨハネからバプテスマを受けて、ヨハネの教団の中で活躍し、バプテスマを授ける活動をしたとしても、イエスがエッセネ派になったとか、エッセネ派の信仰に共鳴していたということにはなりません。福音書において示されているイエスの言動には、死海文書と共通するものもありますが、ユダヤ教の律法支配を乗り越えようとするイエスの福音告知は、死海文書の厳しい律法支配の思想とは根本的に対立します。ユダヤ教の刑罰規定に詳しい研究者で、もしエッセネ派がイエスの裁判に加わっていたら、一番先に死刑判決を下したのはエッセネ派だろうという人もいます(シュタウファー)。イエスが洗礼者ヨハネから別れて、ガリラヤで独自の恩恵の支配の福音を告知するようになったのも、律法の枠内にいる洗礼者ヨハネからの決別であったと言えます。エッセネ派の集団とエルサレムの最初期共同体との類比がよく問題となりますが、これはイエスとエッセネ派の関係以後の問題であって、直接イエスとは関わりません。

イエスとファリサイ派

福音書を読むと、イエスがもっとも激しく論争したのはファリサイ派の律法学者たちであったという印象を受けます。これは共観福音書もヨハネ福音書も同じです。共観福音書では「律法学者たちとファリサイ派の人たち」はいつも一緒にイエスに敵対しています。ヨハネ福音書でもユダヤ教指導層の代表者としてファリサイ派があげられています。イエスとファリサイ派の聖書学者とはいつも批判し敵対していたという印象を受けます。しかし事実はもう少し複雑で、そんなに単純ではなかったようです。共観福音書にはイエスがファリサイ派の律法学者と食事を共にしたり、その家で懇談したという記事もあります(ルカ七・三六、一一・三七、一四・一)。安息日の午前の礼拝が終わったあと、親戚や知人の家に行って、食事を共にしたり信仰について語り合うことはユダヤ人の習慣でした。会堂《シナゴーグ》や一般社会で聖書を解釈したりユダヤ教の指導をした律法学者はファリサイ派の人たちでした。イエスがそのような律法学者と話し合ったのは当然であり、招かれれば食事を共にすることもあったでしょう 。
もともとファリサイ派はユダヤ教の目標である清浄規定を民衆の日常生活の中に実現することを目指した運動でした。イスラエルの神は自分の民に聖なる者であること、清くあることを求めました。神殿での宗教生活を重視して、祭儀律法の実行によって清浄を実現しようと務めた祭司宗教に対して、ファリサイ派は民衆の日常生活で律法規定を実行して、神の民としての清さを追求した一派で、その指導的な律法学者は時代とともに変化する民衆の生活状況の中で律法に従うにはどうすればよいかを考え、書かれた聖書の時代と状況に適した解釈を考えて、民衆を指導し、弟子たちに教えていきました。こうして伝えられた教えの伝承が「父祖たちの言い伝え」を形成し、「口伝律法(不文律法)」となります。ファリサイ派においては、口伝律法は成文律法(モーセ五書)と同じように従うべき宗教規範となります。このようなファリサイ派の宗教運動は、おそらく会堂での活動を通じて徐々に民衆に浸透し、イエスの時代ではユダヤ教の主流を形成するようになっていました。パウロも新進気鋭のファリサイ派の律法学者の一人でした。
ファリサイ派は変化する時代の状況に合った聖書解釈を与えるので、進歩的な面がありました。ヘレニズム時代にユダヤ人がギリシア文化の中で暮らすようになった時、ファリサイ派の律法学者たちは伝統のモーセ五書の宗教をギリシア的な生活の中で実行できるように解釈して民衆に説きました。彼らのユダヤ教はギリシア化したユダヤ教となりました。それに対して神殿を拠点として活動する祭司階級の多数を占めるサドカイ派は、口伝律法を認めず、モーセ五書という成文律法だけを従うべき権威としたため、その信仰は保守的となります。もともとモーセ五書の宗教はイスラエルの民の地上での祝福と繁栄を求め保証する宗教であって、ファリサイ派がギリシア的な思考から導入した霊魂の存在とか個人の魂の救済、また死者の復活というような信仰を受け入れません。この区分からしますと、イエスのユダヤ教はむしろギリシア的で、ファリサイ派に属すことになります。イエスは霊魂の存在を前提とし、個人の救済を問題とし、死者の復活を説いています。
もしイエスが当時のユダヤ教の主流となっていたファリサイ派のユダヤ教の立場で聖書を理解していたのであれば、どうしてイエスはファリサイ派の律法学者たちから激しく批判され、殺意に至るまでの敵意を受けることになったのでしょうか。何故福音書であのように激しくファリサイ派律法学者が非難されているのでしょうか。それはイエスの「神の支配」の告知が、先に見たように実は恩恵の支配の告知であり、律法を順守できない「貧しい者」を無条件に受け入れる絶対恩恵の告知であったので、神の律法を順守することが救われて神の民となる条件だとするファリサイ派ユダヤ教の根本的前提を覆すからです。
しかし、福音書の記事があのようにファリサイ派を攻撃するのは、もう一つ別の理由があります。それは福音書が書かれた時代では、ユダヤ教はファリサイ派だけになっていたからです。ユダヤ人はイエスの時代に始まっていた熱心党の反ローマ武力闘争の路線を取るようになり、ついに六六年にローマに対する反乱が勃発します。この対ローマのユダヤ戦争は最終的にはローマの圧倒的な武力によって鎮圧され、七〇年のエルサレムの占領と神殿の破壊に至ります。最初の福音書であるマルコ福音書の成立が七〇年の神殿崩壊の前後の時代であり、他の福音書はそれ以後の成立となります。その時期では、ユダヤ教の中で生き残っていたのはファリサイ派だけであり、他の宗派はユダヤ戦争で壊滅し(熱心党)、拠点である神殿を失ったり(サドカイ派)、参戦するなどして滅び(エッセネ派)、勢力を失っていました。神殿なき後のユダヤ教会堂を指導したのはファリサイ派律法学者たちでした。そのユダヤ教会堂は、復活後イエスをメシアと告知するエクレシアに激しく反対して、そう信じるユダヤ人を会堂から追放するなど、厳しく追及し迫害するようになっていました。そのようなユダヤ教会堂に対して戦ったエクレシアにおいて成立した福音書は、敵対する勢力を、ヨハネ福音書は「ユダヤ人」と呼び、共観福音書は「律法学者たちとファリサイ派の人たち」と呼んで対抗するようになります。これが福音書でファリサイ派がとくにユダヤ教を代表して批判される理由となります。
福音書ではこのような事情でファリサイ派が非難されているのであれば、イエスがすでに十分にギリシア化されたファリサイ派ユダヤ教の立場に立って活動したことを批判する理由はなく、イエスがユダヤ教の基本原理そのものと対立したことが一層明白になると考えられます。その事実を福音書はイエスとファリサイ派の対立として語っているのです。イエスは特定の宗派的立場から他派を攻撃したり他派から迫害されたのではありません。イエスはユダヤ教という宗教体制そのものと対立したのです。この関係は次項のUで詳しく取り上げることになります。

イエスとサドカイ派

イエスとユダヤ教諸派との関係では、もう一つサドカイ派との関係があります。イエスがサドカイ派の律法学者と信仰内容について論争したことは、復活信仰についてイエスがサドカイ派を批判した論争が記録されて伝えられています(マルコ一二・一八〜二七と並行箇所)。それによると、復活ということはないと主張するサドカイ派の者たちが、復活を主張するファリサイ派との論争で普段から用いている議論をイエスに向けて、復活信仰が聖書に矛盾することを突いてきます。この論争に対してイエスは、彼らが依拠する成文律法であるモーセ五書そのものを引いて、彼らの議論を打ち破り、彼らの「大変な思い違い」を明るみに出します。教義上の論争からすると、イエスはファリサイ派の陣営にいて論敵のサドカイ派を論破したように見えますが、イエスの場合は宗派間の争いではなく、両派を含むユダヤ教の宗教原理そのものとの対立であったことは、次項以下で明らかにすることになります。
サドカイ派に対しては、イエスはもともと初めから厳しい姿勢であったようです。洗礼者ヨハネと共にバプテスマ運動を進めていた初期に、エルサレムの神殿で縄の鞭を振るい、その崩壊に言及するなど、神殿を自己の勢力拠点とするサドカイ派には激しい批判を加えていました(ヨハネ福音書二章)。そして最後には内輪の弟子に神殿の崩壊を預言するにいたります(マルコ福音書十三章)。イエスのように純粋に内面的な神との交わりを追及し、民衆にその神の無条件の恩恵を説く者にとって、宗教を自己の権力とか利益のために利用する者は耐えられなかったのでしょう。イエスの神殿批判は、単に洗礼者ヨハネの(エルサレムの大祭司を正統でないとする)エッセネ派的背景から出るものではないと考えられます。

ヘロデ派?

共観福音書にはファリサイ派とサドカイ派に並んで「ヘロデ派」という名称が数回出てきます。マルコ福音書(三・六)によると、律法の問題、とくに安息日の問題でイエスと対立して、イエスに対する殺意を抱いた人々として「ファリサイ派の人々」に加えて「ヘロデ派の人々」が出てきます。もう一箇所、最高法院が皇帝に税金を納めるのは律法に適っているかどうかと尋ねて、イエスの言葉尻を捉えようとした時、イエスのもとに「ファリサイ派やヘロデ派の人を数人」遣わしています(マルコ一二・一三)。この二箇所について、ユダヤ人のために福音書を書いているマタイは、ユダヤ人にもヘロデ派は分りにくいとしたのか、税金問題ではヘロデ派を登場させていますが(マタイ二二・一六)、安息日問題でイエスに対立して殺意をもったのはファリサイ派だけにしています(マタイ一二・一四)。ルカには「ヘロデ派」は出てきません。なお、マルコ福音書(八・一五)では舟の中でイエスは、パンを持ってくるのを忘れた弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言っています。ここではヘロデ派ではなくヘロデの個人名が使われています。マタイ(一六・一一)はここを「ファリサイ派とサドカイ派のパン種」にしています。
このような用例を見ますと、この時代のユダヤ人にも「ヘロデ派」という名称は分かりにくかったようで、ヨセフスもユダヤ教四宗派の名にあげていません。それで現代の研究者が様々な推測を行っていますが解決していません。一般にヘロデの支配を支持する党派と考えられていますが、ここで政治的党派が登場するのは場違いの感じがします。その他に興味深いものとして、これをエッセネ派の別名だとする説があります。これはエッセネ派の預言者がヘロデ大王に王権を得ると預言していたので気に入られ、エッセネ派はヘロデ家から好意的に扱われていたので、当時のユダヤ人の間ではエッセネ派がこのように呼ばれていたという可能性もあります。福音書が書かれた最初期の共同体には多くのエッセネ派の人たちも入って来ており、エルサレム共同体はエッセネ派教団をモデルにしている節もあって、福音書はエッセネ派に対する批判を控えて沈黙しています。この仮説は福音書におけるこの沈黙の謎を解く鍵として興味深いものですが、なお根拠が弱く一般の承認は得ていないようです。

U イエスの霊性とユダヤ教

はじめに ー イエスとユダヤ教の対立

このようにイエスとユダヤ教諸派の関係を一瞥したのは、イエスがユダヤ教の一つの宗派の立場から他派を批判したので、他派から迫害されて殺されたのではなく、イエスはユダヤ教そのものと対立して、ユダヤ教の最高意志決定機関である最高法院の決定により死刑に処せられたことを確認するためです。イエスの死はユダヤ教内部の宗派争いの結果ではなく、イエス対ユダヤ教という宗教そのものとの関わりの結果です。ところで、この問題を論じるに際して、議論を明確にするために「イエスの霊性」という用語を使って議論を進めたいと思います。それでまず「霊性」という語がどのような内容を指す言葉であるのかを明らかにした上で、「イエスの霊性」とユダヤ教という宗教との関わりの問題について議論を進めることになります。このことは人間の霊性と宗教の関係のモデルとして、われわれの宗教問題にとって重要な意味を持つことになります。

霊性とは

人間はよく肉体と精神、身体と心というように二つの面に分けて観察されます。確かに人間は五感が直接知覚する肉体とか身体と呼ばれる部分をもって生きています。それなくしては人間ではありません。しかし人間はそれだけでないことをよく知っています。その肉体とか身体と呼ばれる物質的部分の内側に、というかそれに即してというか、それとは別に精神とか心という別の面を持っていることを自覚しています。では精神とか心とは何であるかということになると、その言葉の定義やそれを見る視点の違いによって様々です。ただ、その精神とか心のあり方とか姿を精神性というような曖昧な言葉で表現しています。そして人間の肉体とか精神のあり方とか姿について、また人間の共同生活についての分析と研究は進み、知識は増し加わって、人間の文化や文明を発展させてきました。しかし人間が人間となったとき以来、人間は宗教する生き物、ホモ・レリギオーススとして生きてきました。すなわち、人間は日常の生活を可能にする日常の体験とは別の世界から来る超越的な力、人間を超えるものの働きに依存して、それを礼拝するというあり方、宗教学的にいうと俗なるものとは別の「聖なるもの」を崇め礼拝する生き方をしてきました。その「聖なるもの」は神とか、その他神に相当する様々な名称で呼ばれましたが、そういう「聖なるもの」に依存しないで、自分から出る「俗なるもの」だけで生きてきた民族はありません。その「聖なるもの」に関わる人間のあり方とか姿を人間の「霊性」と呼ぶことになります。
この霊性について鈴木大拙が言っていることを聞いてみましょう。大拙はその著『日本的霊性』という著書で次のように言っています。大拙は人間を物質と精神の二つの面に分ける二元論的な見方を前提にして、「精神を物質に対峙させた考えの中には、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることが出来ない。精神と物質の奥に、今一つ何かを見なければならないのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相克・相殺などということは免れない。それでは人間はどうしても生きて行くわけにはいかない。何か二つのものを包んで、二つのものが畢竟するに二つでなく一つであり、又一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である」。まことに禅的な説明です。またこうも言っています。「霊性を宗教意識と言ってよい。……ただ、宗教には誤解が多いので、宗教意識とは言わずに霊性と言うのである。……宗教についてはどうしても霊性とでも言うべきはたらきが出て来ないといけないのである。すなわち、霊性に目覚めることによって始めて宗教がわかる」。
聖書には霊性という語は出てきません。旧約聖書ではまだ神話的な形ですが、神は人間を土の塵、すなわち物質的なものでその身体を造り、それに「命の息」を吹き込んだので、人は生きたものになったと記されています(創世記二・七)。旧約聖書を生み出した古代のヘブライ人も、人間の身体は他の物体を構成する物質的なものと同じであるが、そこに神から息を吹き込まれたので、他の生き物にはない特別な生命体となり、その物質的な身体の中に吹き込まれた「命の息」で神との関わりを持つようになったと考えたのでしょう。ヘブライ語では息と霊とは同じ語であり、ヘブライの人たちは身体ではない部分の全体が霊そのものである神との関わりをもつ部分として重視されたのでしょう。そこではまだ霊とか精神とか心などの区別はされていません。後に高度な宗教体系となったユダヤ教において、その基本信条となる「シェマー」でも「あなたは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神であるヤハウェを愛しなさい」と言われていて、神と関わる人間の内面について細かい区別はしないで、その全体で神と関わるように求めています。この神と関わる人間の姿を霊性と言ってよいと思います。詩篇はヘブライの霊性をよく示しています。新約聖書ではパウロがテサロニケの信徒たちに、「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守って」くださるように祈っています(テサロニケT五・二三)。この中で霊《プニュウマ》が霊なる神と直接の関わりをもつ人間の姿に違いありませんが、それは魂《プシュケー》とあまり厳密に区別しないほうがよいでしょう。新約聖書の人たちも詩篇を自分たちの霊性の表現として重んじました。
霊性そのものは普遍的な概念であり、インド的霊性、支那的霊性、日本的霊性、ユダヤ的霊性という区別があるわけではありませんが、霊性は民族がある程度の文化段階に進まないと覚醒されないものですから、霊性が自覚される文化の場の違いによって、霊性にもこのような違いが見られることになります。だいたい霊性というのは人間について言うことであって、もともと純粋に霊的な存在である神とかキリストとかアミダについて語ることではありません。そして人間はどこかの文化の中で人間であるのですから、その霊性にはインド的とか日本的という限定がつくことになります。ブッダはインド的霊性を開花結実させた偉大な人物として尊敬されます。大拙は日本的霊性の自覚を鎌倉時代の仏教、具体的には浄土仏教(とくに親鸞の浄土真宗)と禅仏教の二つに認め、その所説を詳しく展開しており、極めて興味深いものですが、それは別の機会に取り上げることにして、ここではイエスの霊性とユダヤ教という宗教の関係を見なくてはなりません。

イエスのユダヤ的霊性

イエスはユダヤ教徒でした。イエスは聖書が示す神を全面的に信じて、その霊性を発展させたユダヤ教徒です。イエスはユダヤ教の中で生まれ育ち、その霊性は深くユダヤ教によって規定されていました。ユダヤ教が指し示す神については、先に「第一節 聖書の神」でその特質を数点挙げましたが、イエスはその神を信じ、ユダヤ教の信条と儀礼をすべて受け入れていました。イエスの霊性の特徴は、ユダヤ教という宗教の特徴から来るものです。たとえばユダヤ教がもっとも重要で中心的な信条としていた唯一の神への信仰は、当時のアラブ諸民族やインドや支那や日本の宗教にはない信仰であり、イエスの霊性の根幹をなしています。その神への人格的な関わりの鮮烈さは他の宗教には見られないものがあります。イエスはイスラエルの契約信仰を継承し、それを霊性の中に消化しています。イエスは詩篇の霊性に深く共感し、詩篇の言葉を日々唱えて生きました。中でも預言者の書に見られる預言者の霊性に深く共感していた節が見られます。イエスの霊性の深みはわたしたち平凡な霊性の人間にとって推し量ることができないものがありますが、それでも福音書が示しているその言動から、イエスの霊性の一部を推察することは許されるでしょう。
問題はこのようにユダヤ教によって規定されたイエスの霊性がユダヤ教そのものと衝突したことです。イエスはその霊性から出る神をユダヤ教社会に告知しました。その結果、ユダヤ教の最高決定機関である最高法院がイエスをユダヤ教社会に存在させることができない者、取り除かなければならない者として、死刑の判決を下しました。いったいイエスの霊性のどこがユダヤ教と衝突したのでしょうか。そのことを探るために、イエスの霊性の特別の内容、通常のユダヤ教の霊性とは異なる特別な内容を探ることになります。
このことをしようとする際の困難は、福音書という文書はイエスをキリストとして告知するために書かれた文書であるという福音書の性格です。福音書は地上のイエスの言動をそのまま伝えようとする一面がありますが、それが伝承による限り、その伝承の担い手たちの状況に左右される面があります。この担い手の状況を留保なく全面的に地上のイエスの言動に重ねているのがヨハネ福音書です。ヨハネ福音書は復活のイエスを信じるヨハネ共同体が、今キリストであるイエスから聞いている言葉を地上のイエスを語る記述の中に重ねているので、その言葉をそのまま地上のイエスの霊性を指し示す言葉として用いることはできません。その点、共観福音書は比較的イエスの霊性を伝える言動を多くわれわれに伝えていますが、それでもイエスをキリストと信じている担い手の状況を考慮しなければならない場合があります。この点に留意して福音書に見られるイエスの霊性の特質を探り、なぜイエスが十字架の死を遂げることになるのか、その理由を探りたいと思います。

イエスの霊性の直接性 ー アッバ、父よ!

イエスは祈るとき、すなわち神との関わりにあるとき、いつも「アッバ!」と祈ったと弟子たちは伝えています。「アッバ!」はイエスが日常用いたアラム語で「お父さま!」という意味です。イエスは祈るとき、いつも日常子供が父親を呼ぶとき、親愛の情をこめて「お父さま!」と呼んでいたように、神に親しく直接に呼びかけていました。この呼びかけは、決して「おとうちゃま!」というような幼児語ではなく、当時のユダヤ人の家庭で成人の間で父親を呼ぶときによく用いられていた呼びかけの言葉でした。しかし、神に向かって「アッバ!」と呼びかけて祈ることは珍しいこと、まずはないことでした。ユダヤ人の霊性を示す見本として詩篇の祈りを取り上げると、「彼はわたしに呼びかけるであろう、あなたはわたしの父、わたしの神、救いの岩、と」という表現が一例あるだけですが、これはダビデ王に対する神の特別の約束について言われているもので、一般人の祈りのことではありません(詩篇八九・二七)。確かに神はイスラエルの民に対しては父親が子を憐れむように憐れむ方でしたから(詩篇一〇三・一三)、イスラエルの祈りに父のような憐れみ深い神への賛美と呼びかけがないわけではありません。たとえば、イスラエルの民が会堂で捧げる祈りの言葉には「父」という表現もあります。しかし、この呼びかけには多くの形容詞などの修飾語がつき、神の憐れみなどを描写するだけで、イエスの場合のように直接神の懐に飛び込んでいくような直裁な呼びかけではありません。イエスは会堂や街角の人の前で祈るのではなく、ひと気のないところで、この呼びかけをもって神と直接の親しい交わりに入る祈りの人でした(ルカ四・四二、マタイ六・六)。
イエスは弟子たちが祈ることを教えてくださいと願ったとき、「あなたたちは祈るときには、こう言いなさい」と前置きして、「父よ」という呼びかけで始まる「主の祈り」を教えています。わたしは祈りについてのイエスの教えの中で一番重要なものは、その祈りの内容のどれかではなく、この「父よ!」と言って、イエスが祈ったように、直接父との交わりに入って祈れと教えたこと、そしてそのような祈りができるようにしたこと(この点については後述)であると考えています。マタイではこの箇所は「天にいますわたしたちの父よ」になっていますが、この祈りが「主の祈り」として重視されて集会で祈られるようになったとき、共同の祈りとしてマタイによって形式が整えられた結果であって、イエスが弟子たちに教えた時の原型はルカの形であったと考えられます。
弟子たちはイエスの身近にいて、イエスが「アッバ!」と祈る声を何度も聞いていたでしょうし、そのように祈れという教えもこの「アッバ!」という語で教えられたでしょう。弟子たちにとってこの「アッバ!」は、イエスが発したアラム語の中でもっとも印象深い語であったと考えられます。しかし福音書の中ではいつもこの語は「父よ!」という意味のギリシア語に翻訳されて書かれていて、「アッバ!」というアラム語では伝えられていません。唯一の例外は、イエスが最後の夜にゲツセマネで祈った時に、ペトロが聞いた言葉が「アッバ!」であったと伝えられている時です(マルコ一四・三六)。ペトロたちイエスの直弟子からイエスの祈りと祈りについてのイエスの教えは信じる者の共同体に伝えられ、ヘブライ語(アラム語)を使うエルサレムの共同体ではこの「アッバ!」という祈りが捧げられたはずです。そのことは、後にギリシア語を使う共同体において「アッバ」というアラム語が、「マラナ・タ」というアラム語と共に、実際に用いられていたという事実からも十分に理解できます(ローマ八・一五、コリントT一六・二二)。
このローマ書のパウロの証言は重要です。ここでパウロは「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と叫ぶのです」と言っています。「この霊」とは、先行する数節から明らかなように、「神の霊」であり、わたしたちを「神の子とする霊」(ガラテヤ四・六)なのです。話は先走りしますが、わたしたちがイエスをキリストと信じることによって受ける神の霊、聖霊こそ、わたしたちが「アッバ!」と叫んで父なる神との交わりに入り、イエスが祈った祈りの直接性に入ることを実現する力なのです。先にイエスが弟子たちに祈ることを教えたとき、「アッバ!」という言葉を教えるだけではなく、その祈りを実現する方であることを言いましたが、それはイエスを信じる者が受ける聖霊によって実現するのです。こうしてイエスを信じる者はイエスの霊性にあずかる者となります。これはイエスが復活してキリストとして告知されるようになり、そのキリストであるイエスを信じる者について言うことであって、福音を先取りしています。しかし、聖霊によってイエスの霊性にあずかった者は、この「アッバ!」という祈りがいかにイエスの霊性にとって重要な要素であるかを理解しています。
しかし、この「アッバ!」の祈りに表現されているイエスの霊性が、当時のユダヤ教と衝突して死を招いたという形跡は福音書にありません。時々「イエスが安息日を破るだけではなく、神を御自身の父と呼んで、彼自身を神と等しい者とされたからである」というヨハネ福音書五章十八節がその衝突の根拠とされますが、それはこの節の解釈を誤っていると考えます。ヨハネ福音書の五章でイエスはベトザタの池で長年歩けなかった足萎えの人をいやし、その者に床を取り上げて担ぐように命じています。これは安息日にしてならないことをするように命じた安息日律法の違反として、律法学者から厳しく追及されることになります。彼らの追求に対してイエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と答えます(十七節)。この言葉が自分を神と等しい者とするとして、ユダヤ人の殺意を招くことになったとしています(十八節)。十八節だけを単独で読むと、イエスが神を父と呼んだことが自分を神と等しい者としているように読めます。しかし、これはイエスが神を父と呼んでいることを承知しているので、「父が働いている。だからわたしも働くのだ」という言葉が、働きを同じくする者として、神と自分を等しい者とするということになる、という議論です。もしイエスが神を父としていないのであれば、自分とは無関係の方が働いていることにもなるのですから、必ずしも自分を神とするとは限りません。イエスは働きが一つであるという事実を「わたしと父は一つである」と宣言しました(ヨハネ一〇・三〇)。これはキリストとしてのイエスの宣言であって、地上のイエスの霊性の宣言として用いることには慎重でなければなりません。ヨハネ福音書の五章(十八節まで)をイエスの霊性を示す実例とする場合には、その解釈を誤らないように注意しなければなりません。

イエスの霊性の終末性 ー 神の支配

イエスは、洗礼者ヨハネと共に「神の支配」が近いことをイスラエルの民に宣べ伝えました。ところが先に見たように、ヨハネが投獄されてからは、イエスはガリラヤに行って、長い沈黙の後、別人のように新しい面を強調して、「神の支配」を告知することになります。その変化を端的に示す事実は、その時期においてはイエスはもはやバプテスマを行わなかったことです。これは洗礼者ヨハネとの決別を示しています。イエスの「神の支配」の告知に、ヨハネにはない別の面が前面に出て来ることになります。その沈黙の時期の前では、イエスもヨハネと同じようにバプテスマを施し、「神の支配」の接近を宣べ伝えていました。イエスはガリラヤで新しい姿勢で活動を始めますが、「神の支配」の到来が告知の主題であることは、ヨハネと一緒にいた時と変わりませんでした。イエスの活動は最後まで「神の支配」の到来が主題になっています。ただその内容において重点の置きどころが変わったのです。このことを聞いたヨハネは獄中から弟子をイエスのもとに遣わして、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせます(マタイ一一・二〜三)。このヨハネの質問の時期と意図については多くの議論がありますが、わたしは、イエスの変化に驚き動揺したヨハネが本人に確かめないではおれない心境で発した質問であり、従ってイエスの変化が明らかになった後、すなわちイエスがガリラヤに行って新しい姿勢で活動を始めた後(従って投獄後)であったと考えています。
このヨハネからの問いかけに応じて、イエスは自分がしている力ある働きを指し示して、「わたしにつまずかない人は幸いだ」とだけ答えたと伝えられています(マタイ一一・四〜六)。イエスがガリラヤで始めた「恩恵の支配」としての「神の支配」の告知(これが次項の主題です)は、普通のイスラエルの霊性にとっては大きなつまずきです。通常ユダヤ教という宗教にいる者の霊性にとって、ユダヤ教が求める宗教規定の充足なしで「神の支配」に入る、あるいは神の民となるという事は考えられません。ヨハネも熱烈なユダヤ教徒の一人としてユダヤ教の宗教規定(律法)の順守は救いの条件として当然であるとしていました。このようなユダヤ教の霊性を律法主義というならば、ヨハネを含めもともと律法主義的なすべてのユダヤ教徒にとってイエスの霊性はつまずきです。そのつまずきを乗り越えてイエスを信じる者は幸いだと、イエスは答えたわけです。
その後イエスがユダヤ教の民衆に語ったとされる言葉が伝えられていますが(マタイ一一・七〜一九)、これはイエスをキリストと信じる共同体が洗礼者ヨハネをメシアとする人たちに語りかける面があり、ここで用いることには慎重でなければなりません。しかし、イエスがヨハネを預言者以上の預言者とし、ヨハネに神の声を聞いたとすることは事実であると考えられます。イエスがガリラヤではもはやバプテスマを行うことはなく、「神の支配」のヨハネとは異なる側面を強調したとはいえ、イエスの「神の支配」告知の終末的な面が後退したとか無くなったというわけではありません。これはイエスが「人の子」という極めて終末的なイメージを使い続けていることからも十分うかがうことができます。
「人の子」という姿は、もともとダニエル書七章(一三〜一四節)に出て来る姿であって、イスラエルの霊性が生み出した独特の終末的な像です。このダニエル書が書かれた時代(紀元前二世紀半ば)にシリアのセレウコス王朝の異教支配に抵抗してモーセ以来のヤハウェ信仰を貫こうとした「ハシディーム」(敬虔な人々)は、やがては必ず自分たちの信仰が勝利するという確信と希望を、神の終わりの日の働きとして語り、それを「人の子のような者」によって実現される神の働きとして描きました。このダニエル書から始まりその後のユダヤ教の中に、終わりの日における神の働きにより「神の支配」が実現するとの期待に燃え、それを象徴的な数や図形で表現する信仰文書が数多く生み出されることになります。このような文書は黙示文書(黙示文学)と呼ばれていますが、イエスの時代はこのような黙示文書が広く読まれていて、そういう終末的待望がユダヤ教世界に広まっていました。こういう背景の中で、洗礼者ヨハネの「神の支配は迫っている」との使信が大きな反響を呼び起こすのです。
このような黙示文書的な終末待望は、イスラエルの民の霊性に深く根付いている救済史的な信仰の結果です。先に本章「第一節 聖書の神」で見たように、イスラエルの民にとって、そしてそれを引き継いだユダヤ教の人たちの霊性にとって、神は人間の歴史の中で救済の働きを進め、最後にはその働きを完成してくださるという救済史の信仰は不可欠の要素でした。イエスはその救済史的な霊性を、当時の黙示文書に従って「人の子」という姿を用いて語り出します。イエスは自分からメシアであるとか神の子であるとは言いませんでしたが、この「人の子」という語を使うことが多く、これが何を意味するのか研究者の議論を呼ぶことになります。イエスがよく使ったことは、「語録資料Q」にもこの語がよく出てくることからも傍証されます。
ところで、イエスは「人の子」という称号を自分が苦しみを受けることを予告する文の主語として使ったり(マルコ八・三一)、地上の一人の人間を指すのに使ったり(マルコ二・一〇)しているので、この称号の意味が問題になります。しかし、この称号はもともとダニエル書から出た形象であり、神が歴史の終わりにその人格により、またはその人格において、「神の支配」を完成することを指すのですから、イエスが用いる場合にもその意味は基調になっています。イエスは、救済史的な神の働きの完成として「神の支配」の実現を疑うことなく、目前に据えて「神の支配」を告知したと言えるでしょう。イエスの霊性はきわめて終末的であったと言えます。
イエスの霊性の終末性は、ユダヤ教という宗教体制からはどのように扱われたのでしょうか。ユダヤ教はすでに多くの黙示文書を受け容れているのですから、終末的信仰や終末待望に反対するわけではありません。しかし、ユダヤ教徒の終末的な霊性がユダヤ教の信条や儀礼に反するような面を出すようになると、厳しく抑えることになります。これは実際、イエスをキリストと信じる共同体が、終末が近いとしてユダヤ教の規定をないがしろにした時に起こったことでした。少し後の時代になりますが、エルサレム滅亡後にユダヤ教を率いたファリサイ派ユダヤ教は、イエスを信じる集団をその終末的な信仰の故に律法規定をないがしろにする異端として断罪しています。たとえば、キリストを信じるユダヤ教徒が異邦人と食事を共にして交わりを持つことを、イスラエルの民の聖性を汚す異端的行為としています。ユダヤ教会堂での公式の祈祷に、終末的集団を異端《ミーニーム》として呪う文が入ってきます。しかし、イエスの場合はそこまで行っていません。福音書には、ガリラヤにおけるイエスの活動がその告知の終末性の故に訴追されたという形跡はありません。
しかし、もし最後の裁判の場で、大祭司が直接イエスに向かって、「お前はメシアか」と詰問し、イエスが自分を「人の子」として神の栄光の右に座す者と答えたのであれば(マルコ一四・六一〜六四)、イエスはその「人の子」信仰の故に、すなわちその終末的霊性の故に死刑の判決を受けたことになります。しかしこのイエスの答え方が歴史的事実であるか、あるいはイエスをキリストと信じる共同体の信仰告白の一部であるかは問題です。イエスはすでに初期にバプテスマを施してヨハネと戦線を共にしていたとき、神殿宗教の霊性を厳しく批判し、神殿の崩壊を預言するような行動をし(ヨハネ福音書二章)、神殿の支配的勢力であるサドカイ派の大祭司や祭司たちに恨まれ警戒されていましたから、裁判の場でその霊性の終末性が糾弾された可能性はあります。ヨハネ福音書はイエスの最高法院での裁判については、ほとんど何も伝えていません。何も知られていなかったのが真相でしょう。その点、マルコ福音書ははっきりしています。マルコ福音書では裁判の直前に神殿批判の象徴行為をして逮捕され、それがイエスの審問の内容になっているのですから、イエスの終末信仰が裁かれていることははっきりしています(マルコ一四・五七〜五八)。それだけに、神殿粛清を逮捕の直前にもってきたマルコの福音書構成には、イエスをキリストと信じる福音告知の意図がはっきりしているように感じられます。

イエスの霊性における恩恵の絶対性

福音書においてイエスの霊性がユダヤ教と衝突して死刑を招いた理由としてもっとも重視されているのは、イエスの霊性における恩恵の絶対性の理解とその主張です。イエスが洗礼者ヨハネとは訣別してガリラヤで独自の「神の国」告知の活動を始めたこと、その時期にはもはやバプテスマを施すことはなく、イエスが告知する「神の国」は恩恵の支配のことであるという面が前面に出て来ていたことは、本節「ナザレのイエス ー その地上の生涯」において先の項目「U ガリラヤでの『神の国』告知」で詳しく述べたので、ここではそれを繰り返すことはせず、その告知がイエスのどのような霊性を示しているのか、またその霊性がユダヤ教という当時の支配的宗教とどのような葛藤を引き起こしたのか、イエスの霊性とユダヤ教との関係に絞って見ておきたいと思います。
その前に用語について、繰り返しになりますが一言しておきます。福音書によるとイエスの告知の内容は、ギリシア語で《バシレイア・トゥ・テウー》と呼ばれていますが、わたしはこれを意図的に「神の国」と訳したり、「神の支配」と訳したりしています。《バシレイア》(王の支配、王国)という語意からするとどちらの訳も可能ですが、語のニュアンスからすると「支配」は支配関係そのものを指し、「国」は領域とか領民を指すことが多くなるように感じます。聖書の用法は「神の支配」と訳す方が適切ではないかと思うことが多いのですが、邦訳聖書はどれも「神の国」を用いていますのと、その訳の方が適当だと思うこともありますので、両方を互換的に用いることで同じ事態を指していることを示したいからです。マタイ(四・二三)はイエスの告知と教えを「《バシレイア》の福音」と呼んでいます。
イエスはガリラヤでの活動においても「神の支配」を主題にしていたことは、先の小項目で見たように、イエスの霊性における終末性を指し示していました。しかし、このガリラヤでの活動の時期のイエスには、神の恩恵が告知の主題を占めるようになります。同じ「神の支配」ですが、その支配は「恩恵の支配」です。神の恩恵が人間のあらゆる差や条件を吹き飛ばして、圧倒的な現実となって支配しているのです。人間は本性的に自分の値打ちを誇りたい生き物です。神との関わりにおいても、自分はこれだけのことを成し遂げたと、自分の価値を前面に出して、だから神からそれに相当するものを受ける資格があると主張したいものです。古来から人間の霊性、すなわち宗教性というのはこの原理で成り立ってきました。イエスの時代の宗教、すなわちユダヤ教においてもこの原理は変わりません。ユダヤ教にも宗派があり、ユダヤ教の教義の中であるものを重視して中心に置き、またその儀礼の実行の仕方に違いがあったりして、宗派の違いが出て来ていました。しかし、ユダヤ教という宗教を受ける側の人間の霊性には、自分の資格とか価値を主張する基本的な共通の霊性がありました。
そこにイエスが出現して神の恩恵の絶対性を主張したのです。すなわち、神が人間に神の栄光にふさわしい良いものを与え、人間を神の子(神と同質の命に生きる者)となし、ご自分に所属する神の民とするのは、人間の側のそれを受ける資格とか、これだけのことをしたという条件にはまったく関係なしで、神がそうしたいからするのだ、神がよいものを与えたいからあたえるのだという、神の側の絶対的な恩恵の働きによるのだということを主張したのです。絶対性というのは、相手側の状況とか条件とかにまったく関係なしに、自分の側の意志だけによって働く仕方を指しています。
わたしはこのイエスの霊性、神の働きの絶対性を徹底するイエスの霊性は、イスラエル預言者の霊性を受け継いでいるものと理解しています。イスラエルの預言者たち、とくにバビロン捕囚期に出現した第二イザヤと呼ばれる預言者は、神はご自分の民であっても裁くべき時には裁いて滅ぼし、異教の王であっても用いるべき時には救いのために用いるという絶対的な行為者であり、契約の相手であるという相手の資格とか、相手の出方(祭儀などの立派な実行など)に無関係に行動される方であることを示しました。イエスは、この預言者たちの神の絶対性を受け継ぎつつ、その背後に人間のどのような背きをも赦して、無条件に相手を受け入れる絶対的な(相手の状況に絶した)神の愛を見ていたのです。恩恵という働きの絶対性は、神の愛の絶対性から出ます。
このように人間の側の条件を全然問いませんから、イエスの回りには宗教的に何の資格もない者たち、社会的に誇るところのない者たちが集まってきました。当時のユダヤ教社会でそういう無資格者は、徴税人とか遊女と呼ばれて蔑まれていました。徴税人というのは異教の支配者の手先となって交わり、神の民イスラエルから利益を貪って私腹を肥やす者を指し、聖なる神の律法を汚す者の代表格とされていました。自分たちこそ神の聖なる律法を日夜学び、それを実行している者であることを自任し、自らを「義人」と呼んでいたファリサイ派の律法学者たちからは、そのようなユダヤ教の宗教規定を守れない人たちは「罪人」と呼ばれていたのです。そのような罪人たちを回りに集めて、イエスは彼らを「貧しい者」と呼び(彼らは神の前に自分の功績を何も持たない貧しい者です)、「あなたたち貧しい者は幸いだ。神の国はあなたたちのものだ」と祝福したのです。
このイエスの霊性が、神の前に自分の価値を誇るファリサイ派や律法学者たちの霊性と正面から対立し、激突し、最後はイエスを死に至らせるのです。もしイエスのように神の恩恵の絶対性を主張するならば、懸命に律法を学び、ユダヤ教の宗教規定を実行して、神の民として立派に生きようと努力することに何の意味があろうか。イエスの霊性は宗教に生きる人間の霊性の根本に反するものである。そのような霊性から、宗教規定に反して行動すること、もはや宗教的に規定は守らなくてもよいと教えることは宗教の破壊であり、そのような主張をする者は生かしておくことはできない、というのが反対者の霊性です。このことは安息日律法に対するイエスの批判に現れ、その姿勢が反対者のイエスに対する殺意になります(マルコ三・六)。
自分の存在が、自分を存在させている根底そのものに背いており、その背きが自分の悲惨と惨めさの原因であり、その悲惨さからの脱出と救済は、自分が背いているその根源者の無条件の赦しと救済の働きによる以外にないという自覚、霊性という表現を使うならば、自分の救済は絶対者の側からする無条件の恩恵によるとする霊性への到達は、人間の霊性における最大の転換であり、その発見は人間の霊性の最高の到達点です。『日本的霊性』という本を書いた大拙は、日本的霊性の目覚めは鎌倉時代の日本の仏教、具体的には法然・親鸞の浄土仏教(アミダ信仰)と禅仏教に見ています。とくに親鸞のアミダ信仰が日本の庶民の霊性を大きく変えて高い地点に導いたことを高く評価して、その実例として「妙好人」と呼ばれる無名の庶民のアミダ信仰の実例を詳しく紹介しています(浅原才市のことなど)。
親鸞は弥陀の本願に絶対無条件の救済の根拠を見出したのですが、考えてみるとすでに法然・親鸞の千年以上も前にイエスがその霊性に達しているのです。法然・親鸞は十三世紀の日本人ですが、イエスは一世紀のユダヤ人であり、その間には千二百年の歳月が流れています。すでにブッダが現れたインドでも、一世紀前後には人格的絶対者の恩恵に帰依することで魂の救いを求めるバクティ(帰依の意)の信仰が形成され、二世紀にはそういう信仰を説く「阿弥陀経」や「無量寿経」などの浄土経典が生まれています。そして三世紀には龍樹というような大乗仏教の大成者が出ます。その大乗仏教が中国に伝わって、六世紀には曇鸞というような浄土仏教の高僧を生み、中国浄土教を成立させます。日本の浄土教はこのような霊性の伝統から生まれて来たのでしょう。このように極めて大雑把に見ても、本来人間の内面における悟りの境地に救済を求めるブッダの教えの流れを汲むインド、中国、日本の宗教にも、アミダ仏のような絶対無条件の救済者を必要とする霊性が流れていることを知ります。法然・親鸞の仏教を発菩提心という仏教の根幹を否定すると朝廷に訴え、二人を遠島の刑に処したのも、既成の仏教教団の僧侶たちでした。このこともイエスの霊性とユダヤ教の関係によく似ています。このような宗教史の事実によっても、恩恵の絶対性に立つ霊性が普遍的な霊性であることを知り、もっとも早くその霊性に達していたイエスの重要性を改めて実感します。

インドに生まれたバクティ(帰依)の宗教については、ルドルフ・オットーが『インドの恩寵宗教とキリスト教』という書を著しています。もともと人間の内面的な悟りの境地に救済を求めたブッダの宗教の内部に、アミダ仏のような帰依する者(信じる者)を恩恵によって救済するという人格的な絶対者のホトケを立てるようになる人間の霊性については、立川武蔵『ブッダからほとけへ ー 原点から読み解く日本の仏教思想』(岩波書店 二〇一三年)がよくまとめています。この書は「なぜ仏教は救済の宗教となったのか」という問いに答えようとしています。

このようなイエスの霊性はどこから来るのでしょうか。同じユダヤ教に育まれながら、イエスのような霊性と、そのイエスを死に追いやるような宗教性(律法主義)の違いはどこから来るのでしょうか。この霊性の違いは人間の奥底の機微に関わるもので、理性的な説明はできません。人間の霊性の変革や高揚は神の霊によって人間の霊性が変えられることによって起こると言う他はないと思います。新約聖書はイエスを聖霊を受けたことによって神の働きをするようになった「霊の人」として描いています。とくにルカ福音書はイエスが聖霊によってその働きを進めたことを強調するようです。人間の霊性が神の霊、聖霊によって変えられて、新しい霊性を獲得することはパウロがその書簡で強調していることであって、本書でも次章以下で大きな主題となるのですが、ここでもイエスの霊性が聖霊の働きによるものであることを言っておく必要はあるでしょう。ここでは、イエスの霊性が聖霊によるものであることと、その特質を三つに絞ってあげるだけに止め、霊性の問題については次章以下で聖霊に関連してその主題が出てくる時に詳しく論じることにします。

V イエスの神と聖書の神

問題の所在

本章「第二章 聖書の神・イエスの神」では、第一節の「聖書の神」でイエスの時代の宗教であったユダヤ教の成り立ちとその概要、とくに聖書を正典として生み出し、その内容を神の啓示として信奉している宗教の実態を見ました。そして第二節の「ナザレのイエスーその地上の生涯」では、このユダヤ教の世界に生まれ、ユダヤ教によってその霊性を形成したイエスが、その預言者的霊性の権化ともいうべき洗礼者ヨハネの霊性から一歩踏み出して、恩恵の絶対性という霊性に到達し、それを福音として告知したとき、ユダヤ教という宗教から拒否されて死刑の判決を受けるに至ったことを見ました。この事実は、ユダヤ教という宗教がイエスの霊性を拒否したことを示しており、聖書の宗教とイエスの霊性、聖書の宗教が啓示する神とイエスの霊性が指し示す神がどういう関係になるかという問題をわれわれに突きつけます。イエスはユダヤ教によってその霊性を形成し、そのイエスがユダヤ教から拒否されたのですから、イエスを信じイエスに従う者はこの事実をどう受け止めたらよいのでしょうか。聖書の神とイエスの神の関係が問題になってきます。
この問題は、彼の弟子たちがこのイエスを死者の中から復活したキリストであると告知した時、ユダヤ人たちに決定的な選択を迫る問題になりました。少数のユダヤ人は、このイエスこそイスラエルの霊性を完成し、現代のユダヤ教に至るイスラエルの歴史の意義を成就する方であるとして、イエスに従いました。しかし大部分のユダヤ人は最高法院が判決したように、イエスを律法(ユダヤ教の宗教規定)に背く者として拒否しました。イエスを信じた少数のユダヤ人は、同胞のユダヤ人がイエスを信じて、キリストとしてのイエスにおいて実現された聖書の神の終末的な救済にあずかるように必死の努力をしました。その典型の一人がパウロです(それは次章で取り上げます)。しかし、現代に至るまで大多数のユダヤ人はイエスをキリストと信じることを拒否しています。イエスが律法を否定したのは、律法(ユダヤ教の宗教規定)に体現されているユダヤ文化の全体を否定したことであり、ユダヤ人がイエスを拒否することは当然であるとする議論も有力です。
では、ユダヤ人ではない異邦人であるわたしたちはどうすればよいのでしょうか。ユダヤ教徒ではないのですから、ユダヤ教に義理とか責任はありません。しかし、イエスを救い主キリストと信じて、キリストにおける神の恩恵によって生きています。イエスはユダヤ教の神、聖書の神を信じてその霊性を形成した方です。イエスの神を信じるわたしたち異邦人は、聖書の神に対してどのような態度をとればよいのでしょうか。イエスを信じる者とはイエスの神、イエスが指し示した神を信じる者です。「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」を崇めている者です(ペトロT 一・三)。この神は聖書の神と同じ神でしょうか。聖書(旧約聖書)を読むと、ヘブライ人の神は随分イエスの神と違う面もあるようです。イエスの父である神は背く者を無条件で赦す慈愛深い神です。それに対して聖書の神は厳しい律法を与え、従わないものを処罰する神です。イエスの神は愛の神であり、聖書の神は義の神です。イエスの父は敵を赦し、受け入れる神ですが、聖書の神は自分を神としない異教徒を攻撃し、その殲滅を自分の民に命じる神です。イエスの神は血なまぐさい動物犠牲を求める神ではないが、聖書の神は毎年、毎月、いや毎日血なまぐさい犠牲を求める神ではないか。イエスの神は聖書の神とは違う神ではないか。この問題に最初に真剣に取り組んだのがマルキオンです。マルキオンはイエスをキリストとして告知する使徒の福音を聞いて信じた人ですから、第二部で取り上げるべき人物であり、少し先走ることになりますが、このイエスの神と聖書の神との関係に最初に取り組んだ先覚として、またイエスをキリストと信じるわたしたち異教徒(非ユダヤ教徒)の思いの一面を代弁する者として、ここで取り上げておきます。

マルキオンについては拙著『福音の史的展開U』の第八章第一節「ルカ二部作成立の状況と経緯」の中で、四三〇頁の「W マルキオンの衝撃」という項でやや詳しく紹介しておきましたので、本項を読む前にそこを参照しておいてくださるのも有益かと思います。ここでは結論を述べるだけで、マルキオンの主張の状況や根拠について詳しい説明はできないと思います。

マルキオンの解答

このも問いかけに対しマルキオンは否定で答えました。イエスが啓示したイエスの父なる神は聖書の神とは違う神、別の神であるとしたのです。マルキオンは熱烈なパウロ主義者です。小アジア出身で、二世紀の初めに小アジアで活躍したマルキオンは、エーゲ海地域に福音をもたらし、小アジアでただ一人の使徒として信奉されているパウロを尊敬し、パウロが残したパウロの書簡集(牧会書簡を除く十書簡)を熱心に学んだようです。小アジアではこのパウロ書簡集と、ルカが各地で集めたイエスに関わる伝承を集めたルカによる「福音書」(それは現在の正典のルカ福音書とは少し違った形でした)が流布しており、よく読まれていたようです。二世紀初頭のキリスト者の共同体(エクレシア)では、旧約聖書の七十人訳ギリシア語聖書が権威ある神の啓示として用いられていましたが、それに並んでこの二つ(パウロ書簡集と古い形のルカ福音書)が信仰の基準として用いられていました。マルキオンはパウロの弟子として、パウロ書簡集を熱心に学び、そこで大きな問題となっている「福音と律法」の関係について、すなわちイエスの福音と聖書(七十人訳旧約聖書)の関係について思い巡らし、両者があまりにも違うので、イエスの神と聖書の神は違う神、別の神だという結論に達します。
マルキオンは小アジアの北側、黒海沿岸の港町シノペの出身で、船主としてかなりの資産家であり、ローマに出て大きな寄付をしてローマ集会で活躍します。マルキオンは、当時のローマ集会が道徳主義化してパウロの福音からずれて来ているのではないかと心配して、律法とは別のパウロの福音を強調します。ローマ集会の長老が集まってマルキオンを問いただした時、マルキオンは「誰も新しいぶどう酒を古い革袋には入れない」というイエスのたとえを引用して、エクレシアはイエスの福音をユダヤ教律法という古い容器に入れるべきではないと自説を主張して、ローマの集会から追放されるに至った、と伝えられています。ドイツのプロテスタント神学者ハルナックはこのエピソードを引用して、「ルターを思い浮かべない者があろうか」と言って、マルキオンを古代の偉大な神学者の一人に数えています。
ローマを追放されたマルキオンは既存の集会とは別に、自分の福音の主張に聞き従う者たちの集会を形成します。そして、その集会が聞き従うべき信仰の基準として、既成の集会が保持して来た七十人訳ギリシア語聖書に代わって、パウロ書簡集とルカ福音書(現行の正典の形とは違いユダヤ教的要素を削除したもの)を与えたとされています。この福音書と使徒書簡から成るマルキオン聖書が、後に既成の集会に正典的な文書を与える必要とその形を教え、後にテリトゥリアヌスが「新約聖書」と名付けるようになる信仰の基準文書が生まれるようになります。こうして既存のエクレシアとは別にマルキオン派の集会が形成されるようになり、この派の集会は時には既成の集会の勢力をも凌ぐ勢いを見せ、激しい論争の中で四世紀頃まで続いたとされています。
このマルキオン論争に見られるように、イエスの神と聖書の神は同じ神か別の神かの論争は、古代教会を揺るがせた大問題でした。マルキオンはそれに一つの解答を与えたわけです。マルキオンは聖書の神を否定したのではありません。それはイエスが啓示した神とは別の神だとしたのです。反対方向から見れば、イエスがわたしたちに啓示した神は聖書の神とは別のところから来た神としたわけです。聖書の神は万物を造り、その万物を自分に従わせるために律法を与え、それに従うことを要求し、従う者には報償を与え、従わない者を処罰する神、聖書はそれを義と呼び、義の神を人間に啓示しているとしました。その神は確かに万物の創造者として神ではあるが、それは至高の神ではなく半神に過ぎない。当時のグノーシス主義者が言う《デミウールゴス》であるとしたのです。それに対して、イエスは別のところ、完全な光の領域から来て、至高の神を啓示し、その神が愛の神であることを啓示しました。イエスの神は、愛のゆえに背く者を無条件で赦し、受け入れ、自分の民とする神であって、自分が与えた律法に縛りつける神ではないとしました。その神の働きによって、イエスは人々を聖書の神の律法の拘束から解き放ったのです。マルキオンは「対立論」という本を書いて、聖書の神とイエスの神との対比を強調したと伝えられています(その著作は失われています)。

マルキオンの貢献と誤り

マルキオンと対立した既成の諸集会は、マルキオン派の勢いに恐れをなしたのか、マルキオンの教説を異端として激しく攻撃し、彼の著作を焼き捨てるなど徹底的に除去したので、マルキオンの著作は何も残っていません。古代の教会教父たちの著作に散見する引用や反対論からマルキオンの意見を構成する他はないので、推察も多く、不正確さは免れません。それを承知であえて私見を述べると、マルキオンはわたしたちの福音理解に一定の貢献をしましたが、大きな誤りも犯しているので、われわれの判断は慎重でなければならないと思います。一面的な賞賛や断罪はできません。
マルキオンは、まだ揺籃期にあった最初期のキリスト信仰の集会に一定の貢献を果たしました。それはパウロの福音信仰を集会に印象付けたこと、および後に新約聖書として確立する福音信仰の基準になる正典を集会にもたらしたこと、の二点になるのではないかと思います。第一の点について言うと、マルキオンはパウロの書簡集を深く学び理解するところからその改革運動を始めました。マルキオンはパウロの弟子です。パウロが強調した福音と律法の違いに着目してキリストの民の集会を見ると、ユダヤ教の聖書(七十人訳ギリシア語旧約聖書)を神からの啓示として仰いでいるキリストの民は、その神がイスラエルに与えた律法に従うことを重視して道徳化し、パウロが律法の行為ではなくキリストの信仰によって神の民となると主張した福音を十分理解していないと見えたようです。事実、その当時の集会ではパウロの書簡類はあまり読まれず、埋もれてしまっていたようです。とくに指導的なローマの集会でそれを感じたマルキオンは、福音という新しい酒をユダヤ教律法という古い革袋に入れるべきではないと主張して追放されるに至ります。
だいたいキリスト教界での改革運動はパウロのガラテヤ書やローマ書から始まるようです。当時支配的であったカトリック教会に対抗して宗教改革を成し遂げたルターのプロテスタンティズムの神学者が、マルキオンにルター改革の走りを見たのも頷けます。当時そのルター派を異端としたカトリック教会も、現代ではプロテスタント教会を「分かれた兄弟たち」と呼んで異端扱いはしていません。そのように当時のローマ集会はマルキオンを異端扱いして追放しなかったら、その後のキリスト教の歴史も変わっていたかもしれません。しかしその後のマルキオン派の教会は結婚を禁じたりするなど、グノーシス主義化して行きます。マルキオン自身はパウロの弟子であってグノーシス主義者ではなかったと思いますが、旧約聖書を拒否したマルキオン派の教会はグノーシス主義と親近性があり、グノーシス主義化する傾向を避けられなかったようです。マルキオン派の教会は、グノーシス主義に対して必死に戦ったカトリック教会からグノーシス主義のレッテルを貼られ、異端として厳しく批判されて消滅することになります。
マルキオンは自派の教会の人たちに、ユダヤ教の正典である(七十人訳ギリシア語の)聖書に代わって、ユダヤ教的な要素を削除したルカ福音書とパウロ書簡集を信仰の基準として与えました。このマルキオン聖書が刺激となって、反対派のカトリック教会も福音書と使徒書簡との二部で構成される信仰の基準となる文書、すなわち正典を与える必要に迫られます。どの文書を正典とするかについては議論がありましたが、後にテリトゥリアヌスによって「新約聖書」と呼ばれる現在の二七の文書が正典とされるに至ります。現代ではこの新約聖書が使徒たちのキリスト証言として、福音信仰に生きようとする者たちのキリスト信仰の唯一の基準として重視されています。この新約聖書を生み出す機縁と刺激をエクレシアに与えたことが、マルキオンの第二の貢献であったと言えるでしょう。しかし、この新約聖書の形成の過程は、イエスの神を信じる者たちにとってユダヤ人の聖書、あのヘブライ語で書かれた律法、預言者、諸書の三部から成る聖書をどう受け止めるかについての闘争の舞台となります。マルキオン派はこの聖書を明確に拒否しました。グノーシス派の諸集会もほとんど拒否しています。それに対して戦ったカトリック教会は、この聖書を正典として受け入れることで、異端者と自分を区別します。自分たちの正典として使徒たちの証言を新約聖書としたカトリック教会は、ユダヤ人の聖書を旧約聖書と呼んで正典として受け入れます。マルキオン派の教会の成立以来、この旧約聖書の受容の問題がキリスト教会の大きな課題となります。

旧約聖書の受容

しかし、マルキオンがイエスの神は聖書の神とは別であるとして、ユダヤ人の聖書を拒否したのは正しかったのでしょうか。マルキオンに反対したキリスト者たちは、マルキオンがイエスの神を聖書の神とは別の神としたことに反発し、イエスの神は聖書の神と同じ神であることを強く主張しました。イエス自身も、またわれわれにイエス・キリストの福音を伝えたペトロを初めとする十二使徒たちやパウロやヨハネは皆ユダヤ人ではなかったか。彼らはみな神が唯一であることを固く信じ、聖書をその唯一の神の言葉であること、その神は民に契約を与え、その契約に忠実に働いて民を救い、終わりの日にその救済を完成すると約束する神、一言で言うと「救済史」の神ではなかったか。イエスをキリストと信じ、そのイエス・キリストの福音を伝えたペトロやパウロやヨハネたちの使徒に従うわれわれも、当然同じように聖書の神を信じるべきではないか。聖書を拒否したマルキオンは間違っている。われわれキリスト者は聖書をイエスと同じく神の啓示として信じ受け入れなければならない。キリストの民の大勢はこの方向に進み、そう信じる人たちが勝利して正統派となり、マルキオン派を異端として断罪するに至ります。
確かに正統派が言うように、マルキオンは聖書を拒否するという点で間違っていました。正統派の指導的神学者である教父たちは、マルキオンの誤りの第一に唯一神の否定をあげました。マルキオンはイエスの神を聖書の神とは別の神としたので、神は唯一であるというイエスや使徒たちの根本信条に違反しました。しかしわたしは、マルキオンが聖書を拒否することで犯した誤りにおいては、彼が救済史を否定したことが大きな意味を持つと思います。聖書は救済史の証言です。聖書を否定することは救済史を否定することになり、それは救済を人類の歴史から切り離して、根無し草のように、時代の思想や個人(天才的な個人でしょうが)の霊性から出るものにしてしまいます。救済が人間全体の救済であるためには、人間全体の歴史の現実に即したもの、その歴史の中で行われる神の働きでなくてはなりません。人間を人間として存在させている方(創造者)の歴史における働きでなくてはなりません。
マルキオンは聖書を拒否することで、この救済史信仰を捨ててしまうという大きな誤りを犯しました。それはたらいの水をその中の赤ん坊と一緒に捨てる誤りを犯したことです。確かに聖書にはわれわれキリストにある者が受け入れることができない多くの記述があります。聖書には、キリストによって成就したのでもはや行う必要がないものがあります。たとえばレビ記の祭儀規定などはそうです。また、古代という時代の状況からご自身の啓示を保持するイスラエルの民を維持する必要から与えられた多くの戦争規定などもそうです。聖書の神ヤハウェはイスラエルに敵対する民を幼児にいたるまで殲滅するように命じています。正義には適っているのでしょうが、イエスの愛敵の教えからすると到底行えないことなど、取り除きたい記述が聖書には多くあることは事実です。聖書(旧約聖書)を正典として受け入れることを主張した正統派は、この投げ捨ててしまいたい記述を多く含む聖書をどのように受け入れるのかに苦心しなければなりませんでした。この苦心が正統派キリスト教会の聖書解釈の技術を発展させることになります。この聖書解釈の技術についてはここで詳論する場ではないので、これだけにしておき、マルキオンがこの問題、すなわちイエスの神と聖書の神との関係の問題について果たした貢献と犯した誤りについて私見を述べ、この問題がキリスト者にとって、福音と宗教の関係に関わる重い課題であることを明らかにしておきたいと思います。

第二章への結び

本書は『福音と宗教』と題しています。これは福音を信じてキリストにあって生きている者の立場から世界の宗教問題を見る著者の問題意識から出ています。福音は世界に宣べ伝えられなければなりません。そしてわれわれが世界に出て行って福音を宣べ伝えるとき、「序章 福音と諸宗教の遭遇」で述べたように、われわれは世界の諸民族がそれぞれの宗教をもって生きているという現実に直面します。われわれはこの世界の諸民族の宗教をどのように理解し、それにどのように対処したらよいのでしょうか。この問題に直面して、福音を宣べ伝える者たちは立ち止まって、そもそも人間の宗教という営みをどう理解すべきかという基本的な問いかけから出発して、それを近代的な学問の方法を用いて解明し、「宗教学」という学問を成り立たせました。これは「宗教とは何か」という問いに答えようとする学問で、本書では「第一章 宗教とは何か」でその大要をまとめてみました。そこでは近代に入って、世界の宗教の現象や経典の翻訳などの紹介と、それを整理する学術的な方法が開発され、ゼーデルブロムの宗教論から始まり、オットーの『聖なるもの』や、レーウの『宗教現象学』を経て、エリアーデの「ヒエロファニー」(聖なるものの顕現)の宗教学にいたるまで、だいたい人間の宗教的な営みを、人間が理解できる日常生活の俗なるものを超えた「聖なるもの」の現れに対する人間の対応であることと理解していることを知りました。
近代に入って福音を世界にもたらした欧米の宣教師や神父たちはみなキリスト教という宗教の中で福音を知ってそれを告知したのですから、キリスト教という自分の宗教を最高の宗教とし、普遍的で絶対的な真理であるとしましたから、彼らの活動はキリスト教への改宗運動となりました。しかし諸民族の宗教の事実(宗教史)を見ると、果たしてキリスト教という宗教が他の宗教と比べてその絶対性を主張できるであろうかという疑問が生じ、キリスト教の神学者の間で世界の諸宗教の中でのキリスト教の位置について深刻な反省が始まります。この反省から出た諸宗教の神学的理解がキリスト教神学における「宗教の神学」を生み出すことになりますが、これについては第二部第五章の「宗教の神学」で扱うことにして、ここでは順を追って、このようにユダヤ教の中で生きて、そのユダヤ教から死に定められたイエスを復活させることで、このイエスをキリストとした神の救済の働きを記述する「第三章 キリストの福音―その成立と告知」に入らなければなりません。
わたしは前著『福音の史的展開』の終章で、新約聖書の研究の成果として、キリストの福音とキリスト教という宗教の違いを明らかにし、その上で福音の絶対性とキリスト教の相対性という結論を述べました。本書では次の第三章以下で福音がどういう意味で人間にとって絶対的であるのかを明らかにしたいと願っていますが、その福音が人間の世界に現れるために必要な神の働きとして、ユダヤ教の形成とその中に出現したイエスという人物の実像をこの第二章で描きました。ユダヤ教という宗教がなければイエスはなく、イエスがなければユダヤ教の形成は無意味になります。神はイエスという人物をキリストとして世界に与えるために、人類の宗教史の中にイスラエルの民を起こし、ユダヤ教という宗教を出現させたのです。イエスはその中に生まれ、その中でキリストとしての霊性を人間の中に形成したのです。この章の主題はあくまで人間の宗教性の中での出来事であり、本書もその限界の中で記述してきました。しかし、この記述は三章以下で、イエスを死者の中から復活させることで、イエスをキリストとして立て、そのキリストを世界に告知することによって、すなわちキリストの福音によって世界を救済する神の働きの前に必要な神の働きです。人間の歴史の中での神の人間救済の働き、すなわち救済史においてはキリストの復活が決定的な切れ目、人間が踏み越えることができない切れ目を形成します。本書も福音による神の救済を語る第三章はイエスの復活という事実から始まります。本章「聖書の神・イエスの神」はそういう意味で人間の宗教史のクライマックスを形成します。