市川喜一著作集 > 第23巻 福音と宗教T > 第8講

第二章 聖書の神・イエスの神

はじめに ー イエスの位置について

 これまで第一章「宗教と何か―宗教学の視点から」で、人間の宗教的な営みについて、すなわち世界の宗教史について見てきました。その世界の宗教史の中で、本書の主題である福音に深い関わりのある特異な一つの宗教が形成されていました。それは、福音の母体となるユダヤ教という宗教です。わたしたちがそれに生きかつ告知するキリストの福音は、ユダヤ教という宗教を母体として、ちょうど雛が卵の殻を破るようにして、母体であるユダヤ教という宗教の堅い殻を打ち破って生まれ出た生命体です。前著『福音の史的展開』の終章で見たように、このキリストの福音は古代世界にキリスト教という新しい宗教をもたらしました。しかし、福音そのものはユダヤ教やキリスト教と並ぶ諸宗教の一つとしての宗教ではなく、諸宗教とは別次元の生命体です。それを生み出す母体であるユダヤ教と、それの歴史的果実であるキリスト教と深い関わりのある現実です。第二章では、まず第一節で福音を生み出す母体となったユダヤ教という宗教の概略を見ておきたいと思います。そして、第二節でそのユダヤ教の中で最初に福音を告知する活動をされたイエスの生涯を見て、第三節でイエスとユダヤ教との関係について考察を進めたいと思います。そして第三章以下で、復活されたイエスをキリストとして世界に告知して、そのキリストにおいて成し遂げられた神の救いの働きを告知した使徒たちの福音告知の働きに及びたいと考えています。
ほぼこのような構想で議論を進めて行く予定ですが、ここで問題になるのはイエスという方の位置です。イエスの生涯の概要を伝え、わたしたちがイエスを知るための資料となるのは、ほぼ新約聖書に含まれる四つの福音書だけです。ところがこの福音書という文書の性格が問題です。確かに福音書はみなイエスの言動や働きを伝えています。四つの福音書の中の二つはイエスの誕生から始まり、四つともみなイエスの十字架上の死を詳しく語っていますので、四つの福音書を総合すればイエスの誕生からその死に至るまでの全生涯を知りうるように考えます。しかし福音書はイエスの伝記を記した文書ではありません。福音書はあくまでイエスを復活されたキリストと信じて、その復活者キリストとの交わりに生きている者たちの共同体であるエクレシアが、このイエスこそがキリスト(救済者)であることを世界に告知するために書いた文書なのです。だからこそその文書が福音書と呼ばれるのです。
ごく大雑把に言うと、福音書には二つの面がある、あるいは異なる二つの方向に向かう力が働いているということができます。一つはイエスの言動や生涯を伝えようとする面であり、もう一つはこのイエスがキリストであるから、このキリストを信じて救われるようにと世界に呼びかける面です。この後者の面が福音書の本来の目的です。ところで、福音書には二つのグループがあります。一方はマルコ福音書に代表される共観福音書グループと、他はヨハネ福音書に代表されるヨハネグループです。マルコ福音書はおもにイエスの奇跡の働きと十字架の死に至る生涯に重点を置いています。そして全体的にはマルコ福音書に従いながら、それにイエスの言葉を伝える言葉伝承を多く取り入れて独自に形成されたマタイ福音書とルカ福音書が続き、この三者は同じ立場で書かれているので共観福音書と呼ばれています。それに対してヨハネグループはヨハネ福音書だけですが、そのヨハネ福音書はマルコ福音書とはやや性格が違い、地上のイエスの言動や生涯を伝えながら、そのイエスが語られる言葉に自分たちが復活者キリストとの交わりで聞いている救済者キリストの言葉を継ぎ目なく重ねています。そのため、ヨハネ福音書の方がキリストによる救いを世界に告知するという福音本来の目的に一層近い文書である、すなわち本来の福音書の性格をよく示している文書だと言えます。
四つの福音書の中でどの福音書が一番先に成立したのかという成立時期の問題については、新約聖書の学会では議論が絶えません。共観福音書の中ではマルコ福音書が一番古くて、マタイ福音書とルカ福音書がそれに続いているというのがほぼ定説になっています。ではマルコ福音書とヨハネ福音書とではどちらが早いのかという問題になると、学会ではマルコが古いという説が当然視されていますが、ヨハネの方が古いという有力な見方もあり、ヨハネ福音書の方が(少なくともその原形において)福音書という種類の文書の性格に一層忠実な文書であるだけに、無視できないとわたしは考えています。それが有力な新約学者(H ・ベルガー)によって提唱されているだけに無視できません。
そもそも福音書という種類の文書は、イエスの言動や生涯を伝える伝承(イエス伝承)を用いて、イエスをキリストであると信じて救われるように説き勧める文書なのですから、イエスをキリストであるか否かの問いを棚上げにして、イエスの地上の生涯の詳細を確定しようとするのはお門違いの無理な注文です。それでもイエスはわたしたちと同じく一人の人間として歴史の中でその生涯を生きて死なれた方ですから、その唯一の資料である福音書に基づいて人間イエスの言動と生涯(いわゆる史的イエス)を知ろうとする欲求は理解できます。本書も第二章でこの「史的イエス」を知ろうとする努力の一端を見て、第三章以下でこのイエスをキリストと告知する本来の福音を理解するための一助にしたいと思います。
福音告知はイエスの復活から始まります。もしイエスが復活せず、その生涯が十字架の死で終わっているのであれば、イエスの言動がいかに優れたもの、宗教的なひらめきと真理に満ちたものであっても、イエスは他の聖人や賢人の一人、あるいはすぐれた預言者の一人に過ぎません。イエスがそのようなレベルの方ではなく、キリスト(神から遣わされた救済者)であり、神がその方の中で人間の救いに必要な働きをすべて成し遂げられた方であるのは、その方の復活によって示されたのです。イエスは復活によって初めてキリストになられたのではなく、初めからキリストとして生まれ、キリストとしてその生涯を送られた方であると、わたしは他のキリスト者と共に信じています。しかし、これは信仰の問題です。地上のイエスの生涯に接した人たちには、その事実は隠されていました。イエスに接した周囲の人たちには知られておらず、イエスの教えに直接預かった弟子たちにもそれは隠されていました。イエスご自身もご自分の身分をどのようなものとして自覚されて言い表しておられたか、また有名なフィリポ・カイサリアにおける弟子たちの告白もどういう性格のものであったのかの問題は、これからの諸章でやや詳しく取り扱うことになりますが、ここではそれは隠されていたという事実を述べるにとどめます。この第二章では、ユダヤ教という地上の一宗教の中に生まれ、そのユダヤ教の中で育ち、ユダヤ教の信者たちに神の支配を宣べ伝え、そして最後にそのユダヤ教から死罪を言い渡されて死なれたイエスの生涯を、その唯一の資料である福音書から知りうる限りのことを述べることにします。
しかし、その覆いは取り除かれました。 イエスは事実死者たちの中から復活されました。使徒たちはこの事実に基づいて、復活されたイエスをキリストであると告知し、このキリストの中で神が人間の救いのために必要なこと一切を成し遂げて下さったのであるから、このキリストを信じて救われるように説き勧めます。このことは御子であるキリストについての使徒パウロの次の宣言に明確に示されています。

 「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。(ローマ書一・三〜四)

ここで明白に宣言されているように、キリストは確かに「肉によればダビデの子孫から生まれ」、すなわち人間としての観点からすれば、わたしたちと同じように一人の人間としての同じような状況に生き、ユダヤ教という歴史的宗教の中に歩まれた方です。イエスがキリストであることは隠されていました。誰もその事実に気づいた者はいませんでした。しかし今は違います。イエスは「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」。ここで「定められた」と訳されている語は、明白にされ公示されたという意味です。イエスが世の賢者や聖人や預言者とは違い、キリストであることは明示され、世界に公示されました。それは聖霊によって成し遂げられた神の働きによる出来事です。歴史的に、客観的に証明できることではなく、聖霊によって復活された方に出会い、復活されたキリストとの交わりに生きている者たちの証言によるものです。
初代の使徒たちは復活されたイエスをキリストと告知して、そのキリストを信じて結ばれ、キリストにあって生きることが人間の救いであることを広く当時の世界に告げ知らせました。その中で使徒パウロが書いたローマ書は、人がキリストであるイエスを信じて、キリストにあって生きることが救いであり、その救いが何を意味するのかをもっとも体系的で包括的に告知しているので、もし福音の内容を説き示している文書を広く福音書と呼ぶとすれば、ローマ書こそ最初に書かれた福音書、福音書の基礎をなす基礎福音書と呼ばれるべき文書であると、わたしは考えています。普通福音書と呼ばれている四つの文書は、ローマ書が書かれてからほぼ一世代後かそれ以後に、イエスの地上の言動と生涯を語り伝える口頭の伝承と一部文書化された伝承(いわゆるイエス伝承)を素材としてこの福音を文書化したものです。それは信徒たちへの教化の意味もあったことでしょう。
これで四つの福音書に記されているイエスの生涯の意義には二つの面があることが理解できると思います。この両面、すなわち地上のイエスの生涯と言動を伝える面と、復活後のキリストとしてのイエスの意義を語る面とです。そしてこの両面は切り離すことができません。わたしたちキリストとしてのイエスを宣べ伝える者としては、すでに復活されたキリストとしてのイエスを見ているのですから、純粋に人間としてのイエスの生涯を客観的に物語ることは困難です。しかし、そのような立場を自覚して語ることは、イエスがキリストであることを拒否しながら、自分の立場を自覚せず客観性を標榜して語るよりは客観的だと言えるでしょう。本書の第二章におけるイエスの記述は、このような意味における客観性によって十字架の死に至るまでのイエスの地上の生涯を描こうとするものです。その際、とくにイエスの活動の環境であったユダヤ教との関係に重点をおいて観察することになります。そして、第三章以下で復活後のイエスをキリストとして語る際に、地上のイエスの言動の意義について振り返って語ることになります。こうしてイエスの記述については、本書では第二章と第三章との二つの部分に分けて語ることになりますが、それによってイエスという具体的で歴史的な人物の重要性を理解する助けになるならば幸いです。