市川喜一著作集 > 第23巻 福音と宗教T > 第2講

本  論

第一章 宗教とは何か ― 宗教学の視点から




第一節 近代における宗教学の開始と進展

キリスト教共同体における宗教学の開幕

 先に序章「福音と諸宗教の遭遇」において、福音を世界に告げ知らせることが主から受けた使命であるとして、大航海時代以来自分たちのキリスト教世界以外の地に進出した教会の活動が、そこでの民がキリスト教以外の多くの宗教によって生活している現実に直面したこと、また、それが教会の活動であるため、彼らのキリストを伝える福音活動は不可避的にキリスト教という宗教への改宗運動と重ならざるをえなかった事情を見ました。キリスト教を説くにあたって、彼らは現地の人たちの宗教を理解しようと努めますが、その理解は自分たちの宗教であるキリスト教との比較にならざるをえませんでした。このような海外での伝道活動に従事したカトリックの神父やプロテスタントの宣教師が最初の比較宗教研究者ということになります。そして、彼らの報告書がヨーロッパの神学者たちや思想家にキリスト教以外の諸宗教を広く理解する必要を教え、その研究を刺激し、資料を提供します。
 すでにヨーロッパの神学界でも、近代神学の父と呼ばれるシュライエルマッハーが『宗教論』(一七九九年)を著し、「宗教の本質は思惟でも行為でもなく直感と感情である」として、宗教の独自性、個別性、非合理性を明らかにし、宗教をそれぞれの宗教そのものから理解するように説き、近代宗教学への門戸を開いていました。彼の「信仰とは絶対依存の感情である」という定義は有名です。ただここで「感情」というのは、喜怒哀楽というような次元での感情ではなく、働きかけられたり働きかける人間の精神の深みを指しており、その感情の場で人間は全く依存している存在としているのです。その依存に「絶対」という語がつくのは、様々な依存関係の中で、その依存がなくてもすむ場合があるという性質の依存ではなく、人間としてそれなくしては存在できない根源的な依存であることを指しています。そのような依存の対象が神と呼ばれることになります。このような人間の側の体験的な事実を土台として構築される神学は、人間主義的な近代思潮に適合し、その後の近代主義神学の源流となります。
 彼自身はドイツ敬虔主義の流れを汲む神学者であって、他宗教を専門に研究した学者ではありませんが、宗教を即事的に研究する道を開き、その後(一九世紀以降)の宗教研究に大きな貢献をしました。彼はその宗教論において、どの宗教にも真理契機が含まれていることを主張しています。

 シュライエルマッハーの『宗教論』は佐野・石井訳で岩波文庫に収められています。

 こうしてヨーロッパのキリスト教圏で始まった諸宗教の比較研究は、一九世紀にさらに進展していきますが、その中で特筆すべきはマックス・ミューラーの業績でしょう。彼はドイツで生まれイギリスで活動したインド学者であり言語学者で、ヒンドゥー教のヴェーダやウパニシャッド、仏教のサンスクリット仏典などのインドの宗教聖典を中心に、イスラムから中国の宗教にいたる東方の宗教文献を広く校訂して英訳し、それを五一巻の『東洋の聖典』として刊行(一八七九年〜一九〇四年)、ヨーロッパのキリスト教圏に紹介し、それまで未知の世界であった東方の諸宗教の研究に基礎的な資料を提供します。我が国の仏教学と宗教学もミューラーに師事した学者が多く、彼から大きな影響を受けています。彼は「人類の真の歴史は宗教史である」として、世界の諸宗教を広く比較研究すべきこと、しかも価値判断抜きに客観的学術的に研究すべきことを主張しました。彼は主著の一つを『宗教学概論』(Introduction to the Science of Religion 1873 )と名づけましが、" the Science of Religion " という呼び方に彼の研究の姿勢がこめられています。本書をもって宗教学という名称と学問が始まったと言われ、彼は宗教学の父とも呼ばれています。

マックス・ミューラー『宗教学概論』には比屋根安定による邦訳があります。なお、science(サイエンス) という語が用いられていますが、現代ではサイエンスという語は自然科学とそれに基づく技術を連想させます。しかし、ここでのサイエンスは客観的な学術活動一般を広く指す語であり、ドイツ語の Wissenshaft に相当します。しかし、宗教は人間に主体的なコミットメント(信仰)を要求する対象であり、研究者がそのような主体的コミットメントなしで宗教という対象を理解できるのかが問題になります。ミューラー自身最後まで信仰深いキリスト者であり、「キリスト教だけが人類の宗教として、階級の宗教や選民の宗教としてではなく、人類史を我々自身の宗教として教えることができる」と言っています。研究者自身の信仰と学術的な宗教研究の関係は、宗教研究においては常に念頭に置かなければならない課題です。

 ヨーロッパキリスト教圏の思想は、一七〜一八世紀の啓蒙思想によって大きく変化していきました。すべてを合理的に、また実証的に理解しようとする啓蒙思想の大きなうねりの中で、人間の社会的・歴史的営みである宗教も人文科学や社会科学の一部門として理解の対象となりましたが、その神秘的非合理性や伝統に固執する保守性から、宗教はおもに批判の対象となり、啓蒙思想以後のヨーロッパの社会が宗教的な次元を徐々に見失い世俗化していく要因となります。一九世紀にもその流れは進行し、ついにはマルクスの「宗教は阿片である」という説に至ります。そのような流れの中で、宗教固有の意義を宗教自身の場に立って客観的に、また学術的に確立するために奮闘した研究者が出ます。自身がキリスト教信仰に深い理解をもつ神学者が、その宗教理解に基づいて他宗教や宗教そのものを客観的実証的に理解しようとし、宗教学の伝統を形成していきます。ここでは、このような伝統に連なる宗教学の進展を概観して、福音と宗教との関係を理解するための一助にしたいと思います。

二〇世紀における宗教学の進展

 こうしてヨーロッパのキリスト教圏で始まった宗教学は、その担い手が同時に神学者でもあったという事実が重要な意味をもつことになります。この点は第二部の「宗教の神学」で扱うことになりますが、ここではヨーロッパキリスト教圏における二〇世紀の宗教学の動向を概観しておきます。
 二〇世紀に入る前後にこの世紀の方向を示唆する象徴的な著作が相継いで現れます。一つはドイツの神学者アドルフ・フォン・ハルナックの『キリスト教の本質』(一九〇〇年)です。この書は、当時の神学界の権威であったハルナックが改めて「キリスト教とは何か」という問題について発言したもので、当時の人々に広く読まれました。ここでキリスト教の本質についてのハルナックの所説に立ち入ることは出来ませんが、この書の出現自体がそれまでは何世紀にもわたって問題とならなかった「キリスト教とは何か」という問題が、他の諸宗教との遭遇によってヨーロッパキリスト教世界で問題となってきていたことを象徴しています。しかし宗教学との関連で見ますとハルナックは「キリスト教はその純粋な形態においては他宗教と並ぶ一つの宗教ではなく、唯一の宗教 (die Religion)である」とし、「この宗教(キリスト教)を知らない者は(宗教について)何も知らないが、この宗教をその歴史とともに知っている者はすべて(の宗教)を知っている」として、そのベルリン大学総長就任講演「神学部の課題と一般宗教史」(一九〇一年)において、宗教学部の新設や神学部内に宗教史の講座を設けることに反対しています。このようなハルナックの考え方に問題提起するものとして、先に見たトレルチの『キリスト教の絶対性と宗教史』(一九〇二年)が書かれます。この書については第二部の「宗教の神学」の章で取り上げることになります。

 アドルフ・フォン・ハルナックの『キリスト教の本質』は山谷省吾訳で岩波文庫に収められています。

 次に現れたのが、米国の心理学者ウイリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』(一九〇一〜一九〇二年)です。この書は心理学の立場からおもに欧米のキリスト教世界での霊的体験を様々な状況の人々の手紙や日記などを資料として解析したもので、とくに回心体験を重視して分析し、それによって人間にとって宗教とは何かという問題に迫ろうとしています。二〇世紀初期にはフロイトやユングの活動も始まっており、宗教的経験の理解に心理学、とくに無意識の領域を扱う深層心理学が用いられるようになり、宗教心理学の分野が開拓されることになります。

 ウイリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』は枡田啓三郎訳で岩波文庫に収められています。ギッフィオード講演として行われたこの宗教心理学の古典的名著については、訳者の「解説」をご覧ください。

 続いて一九〇四年にマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を発表して、当時の思想界に大きな衝撃を与えます。ウェーバーは近代の社会学の大成者として重要な学者ですが、社会学にとどまらず政治学や経済学を含む社会科学全般にわたって鋭い考察を行い、西欧の近代社会の問題を深く掘り下げて問題提起した思想家でもあります。ウェーバーは近代西欧社会の基調は合理主義であること、また経済が社会と歴史を動かす大きな力であることを認めています。その合理主義が近代の資本主義を生み出したことについては、当時興りつつあったマルキシズムと見解を共にしていますが、近代合理主義が見捨てて顧みなかった宗教こそが資本主義を成立させた原動力であることを論証し、宗教を阿片として退けるマルキシズムと対峙します。彼は、宗教改革以来西欧社会に確立したプロテスタンティズムの宗教がもたらした世俗内禁欲の精神が、世俗の職業を神の召命(ベルーフ)とする職業人の倫理を生み出し、その倫理が資本主義という合理的経済を形成したことを、この論文で明らかにします。こうして、宗教こそ社会を形成する原動力であることを見たウェーバーは、中国、インド、古代ユダヤの比較文化史的研究を続け、その成果は『世界宗教の経済倫理』(一九二〇年)としてまとめられ、『宗教社会学論集』に収められることになります。その中でも『古代ユダヤ教』は聖書の理解に直接関連し、聖書学と神学に大きな影響を与えます。こうして、ウェーバーによって明らかにされた宗教と社会の緊密な関係は、以後の宗教学に「宗教社会学」という分野を成立させることになります。
 この宗教社会学の分野では、フランスのエミール・デュルケムが宗教の起源や機能を社会的に説明することを提唱し、『宗教生活の原初形態』(一九一二年)を出して大きな貢献をしています。彼は未開社会に見られるトーテム信仰を分析して、トーテムが個人を超えた集団にかかわるものであることを明らかにし、個人を拘束し集団を統合する力を象徴するものとされます。こうしてトーテムは、一つの聖なる力であるとともに社会的・現実的な力となり、神と社会を同時に象徴し、「神と社会の合一」という彼の宗教理論を導き出すことになります。
 ドイツでは先に見たエルンスト・トレルチが『キリスト教諸教会・諸集団の社会教説』(一九一九年)を書いて、キリスト教と社会の関わり方の諸類型を分析します。以後、この宗教と社会の関わりを研究する宗教社会学は、宗教学の重要な分野として進展することになります。
 このように宗教学は二〇世紀には宗教心理学や宗教社会学などの裾野を広げながら進展していきますが、ここでは福音との関係を考察するために、宗教に固有の現象を対象とする狭い意味での宗教学に限定し、その代表的な事例を数例取り上げるだけにとどめます。

 マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は大塚久雄訳で岩波文庫に収められています。『古代ユダヤ教』には内田芳明訳があります(みすず書房)。両書の意義とウェーバーの思想史的意義については、両書につけられた訳者の解説と序文を参照してください。
 エミール・デュルケムの『宗教生活の原初形態』は古野清人訳で岩波文庫にあります。なおこの著作が現れた一九一二年は、後にエリアーデがその著『宗教の歴史と意味』の第二章で宗教の科学的研究の歴史において重要な年であったとして言及しています。事実、この年の前後にはトーテミズム(トーテム信仰)に関連する重要な研究が、宗教学だけでなく文化人類学ではフレイザーの『金枝篇』や精神分析学のフロイトやユングの諸著作にも現れており、宗教学と関連諸学(民俗学、文化人類学など)の進展に時代を画しています。実は、すでに一八八五年にフレイザーは『エンサイクロペディア・ブリタニカ』に「トーテミズム」と「タブー」の項を執筆しており、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてのトーテミズムとタブーに関する議論の中心にいました。デュルケムの研究もこの流れの中での成果と見られます。宗教学と文化人類学の重なりは宗教研究には大きな問題ですが、問題が大きいのでその分野の専門書に委ねます。

宗教の原初形態

 この一九世紀末から二〇世紀初頭にかけては、宗教学の黎明期ともいうべき時期で、ここで名をあげた欧米の学者たちの業績だけでなく、文化人類学、民族学、考古学、心理学、民俗学などの広範囲の研究者たちによって、宗教に関する基礎的研究が進みます。彼らの多くは、未だ地球上に多く残されている未開の原始的な部族民の宗教を研究して、宗教とは何かという問いに答えようとしました。それは、原始的な未開部族における生活ではすべてが宗教であり、宗教が人間の生活のすべての分野で純粋にその姿を現しているからです。すべてが宗教である未開部族の生活を調べることにより、かれらの宗教を知り、それによって人間にとって宗教はいかにして始まったか、すなわち宗教の原初形態を知ることを通して、宗教とは何かという問いに迫ろうとしたのです。
 人間は必ず死にます。動物と違って人間は死者を葬ります。人間は死者を葬るという事実は、ネアンデルタール人以来どの人間集落にも見られる事実であり、考古学的発掘によって様々な埋葬の仕方が知られています。その仕方によって太古の人間が死をどう考えていたのかが推測され、そこに人間の宗教心の始まりを見る見方が出てきます。これは人間の誕生についても同じで、生命の誕生という神秘的な体験を、人間を超えた力の現れとして畏敬し、女性の出産にかかわる部分、腰や乳房を異様に大きくした像を作って拝んだことが、多くの発掘によって知られています。母性は新たな生命を生み出すものとして、後には土地からの豊かな産物を祈願する時の象徴ともなり、大母神や地母神として拝まれました。狩猟部族でも、有名なラスコーの洞窟壁画にも見られるように、人知を超える力による収穫を願った原始の人たちの宗教心が見られます。
 未開の原始的な部族社会で行われている宗教的な営みを考察して、そこから宗教の起源を論じた名著がこの時期に出て、様々な批判を受けながらも現代まで読み継がれ、宗教理解に大きな貢献を果たしました。それらの宗教学の古典的な学説のいくつかをここで見ておきましょう。

アニミズム

 英国の人類学者E・B・タイラー(1832〜1917)は一八七一年に出した『原始文化 ― 神話。哲学・宗教・言語・芸術および慣習の発達に関する研究』でアニミズム論を展開しました。アニミズム(animism)というのは、気息や霊魂を意味するラテン語のアニマanima に由来し、さまざまな霊的存在 (霊魂、神霊、精霊、生霊、死霊、祖霊、妖精、妖怪など)への信仰を意味しています。アニマは人間の身体に宿り、これを生かし、身体を離れても独自に存在しうる実体であると考えられています。またそれは動物、植物、自然物、自然現象にも宿るとされ、霊魂は物に宿っている限り、物を生かしているが、物が消滅し去っても独自に存在し続けると見られ、超自然的または超人間的存在とも呼ばれます。通常、普通の人には不可視的存在であるから霊的とされ、さらに人間と同じように喜怒哀楽の心意をもつと考えられるから人格的とされます。アニミズムは人間の霊魂の観念を人間以外の諸存在にも認め、それらと密接にかかわろうとする営為であると言えます。
 アニミズムの宗教理解はあまりにも主知主義的であるとして、原始宗教の研究者からも批判されました(後述)。そしてアニミズムは原始(未開)社会や原始宗教の特質であり、現代社会や文明宗教においては、その意義と役割を失うかのように考えられてきました。しかし現代の都市生活においても、現代の諸宗教においても、霊魂や死霊、祖霊など霊的存在と無関係の状況は見られず、現代の仏教、キリスト教、イスラム教などの諸宗教においても、その基層部分にはアニミズムが濃厚に見られます。この意味でアニミズムに宗教の本質を見ようとしたタイラーの主張は、今日なお正当性をもっており、現代社会の基層をなす宗教性として重要です。

アニマティズム

 タイラーの弟子で人類学者のマレット R. R.Marett(1866〜1943)は、活力・生命力の観念は霊魂や精霊の観念に、歴史的にも心理的にも先行すると考え、タイラーのアニミズム説を批判修正して、プレアニミズム(前アニミズム説)を唱えました。マレットは、万物を「生きている」ととらえる活力・生命力についての観念や信念は、物に霊魂や精霊が宿るという観念よりもより素朴であり,原初的であると主張しました。これがアニマティズムです。その実例として彼はメラネシアやポリネシアの原住民がもつマナ mana の観念を引用しました。マナは神秘力で、これが槍に含まれていれば,戦士は敵を倒せるし、ある人がマナをもてば、彼の豚が増えるとされます。それで彼の説はマナイズム(マナ説)とも呼ばれます。アニミズムは物に宿る存在を強調したのにたいして、アニマティズムは物のもつ力とか作用を重視したと言えます。
彼は "The Threshold of Religion, 1909" (邦訳は「宗教と呪術―比較宗教学入門」1964)でこのアニマティズムを主張していますが、彼のマナ論は一方でフレーザーの呪術論(後述)の批判でもあります。フレーザーは、呪術とは誤った科学的因果論であって、宗教とは根本的に別物であるとしました。これに対してマレットは、マナの観念によって、宗教と呪術は共通の根から生じたものであることを主張しました。なお、マナの消極的側面として、近づいてはならない超自然的力として、「タブー」の概念が説明されます。

原始一神教

 カトリックの神父でありウイーン学派の民族学者であるW・シュミットは『神観念の起源』(一九二六年)で、それまでの啓蒙主義的進化論的歴史観に反対して、多霊信仰から多神教へ、そして多神教から一神教と進化したのではなく、多霊信仰や多神教は一神教から退化あるいは堕落した形態であるという退化説を唱えました。未開の原始部族と言っても、その文化的な発展には様々の程度があり、一律に論じるべきではないとして、それまでの宗教の発端に関する諸説を批判し、彼がもっとも古い原文化圏に属すると見る原始民族(アフリカのブッシュマンやピグミー、南アジアのアンダマン島人、極北のイヌイットなど)の宗教では、最高なる至上神の崇拝が行われていたことに注目しました。こうした至上神は世界と人間を造った創造神であり、永遠であり滅びることのない全知全能の存在であり、人間界には道徳律を与えて、善悪に応じた賞罰の裁きをする審判の神です。この至上神は彼らの中では唯一の神でしたが、時代が下り文化圏が第一次、第二次と進むに従い、この至高神は影が薄くなり、犠牲を捧げるなどの宗教的礼拝は各種の霊的存在や超自然的な力に対して捧げられるようになり、至高神は「暇な神」(一度世界を創造した後はその進むがままに任せ、自分は何もしない無為な神)になっていきます。こうして原始一神教は、時代と共に多くの霊的存在や超自然的な力の礼拝である多神教に移行します。こうして原始一神教説は、タイラーやマレットらの宗教進化説とは逆の方向の宗教史観をとることになります。
 少し後に宗教の発端を研究してまとめた宗教学者のゼーデルブロムは、宗教の発端としてアニミズム、プレアニミズム(マナイズム)、原始一神教の三つをあげていますが、第三の原始一神教はかなり修正して、「起因者」という表現で取り上げています(次の第二節を参照)。しかし、次節で宗教の発端から歴史時代の神信仰の生成に至る過程をまとめたゼーデルブロムに入る前に、宗教の原初形態との関係で見逃せない呪術との関係やシャマニズムの問題などを見ておかなければなりません。

呪術と宗教

 スコットランド出身の人類学者J・G・フレイザー(1854〜1941)は、大著『金枝篇』を発表して、宗教学、とくに宗教の始まりについての議論に大きな貢献をします。これは大変大きな著作で、初版は一八九〇年ですが、全一三巻が完成したのは一九三六年です。著者自身が編集して、一九二二年に簡約一巻本を出しますが、それでも邦訳の岩波文庫版では五巻になる大著です。『金枝篇』は北イタリアのネミ湖畔に伝わる王位継承の伝承を紹介します。その地の王は祭司であり呪術師でもあったのですが、ネミの祭司職を継承して王になる者は、現在の王を殺して、彼が守っている聖樹の小枝(それが金枝と呼ばれました)を折り取らなければなりませんでした。この伝承から出発して、フレイザーは実に多くの未開部族の資料を駆使して呪術と宗教の関係を論じます。フレイザーはこの書の第一部を王権の発達と共感呪術(後述)の論究に充て、もっとも重視します。それで本書は宗教と呪術の関係を論じる書とされることになります。
呪術も宗教もマナ的な力への信仰を前提としています。呪術とは、何か人間の理解を超えた超自然的なマナ的な力とか霊的存在の働きによって、何らかの目的を達成しようとする儀礼的な行為です。このような呪術を成り立たせる原理は類似の原理と接触の原理です。類似の原理というのは、降雨儀礼で聖なる木の枝を水に浸してしずくを振りまくと、天が感じて本当の雨を降らせるという類いの儀礼です。自然界の行為と天界の出来事に類似関係があるから、両者の観念連合から出てくる信念です。接触の原理というのは、狩猟において射止めたい獣の足跡を見つけ、それに槍を突き刺すと獲物は遠くへ逃げられなくなるという呪術で、感染呪術とも呼ばれます。このような呪術は両者とも、呪術的行為とそれが目的としている超自然的な出来事との間には共感作用があるという信念が根底になります。フレイザーはこれを共感呪術と呼んでいます。
 ホモ・サピエンスとしての人間は知覚によって生じた諸観念の繋がりをもつ体系を作り上げる過程で、様々な観念連合をもちますが、この観念連合が科学においては実験的に確かめられて客観的に妥当するが、呪術の場合は主観的で希望的な連合であるために、しばしば事実に合致せず、誤った観念連合になっている。ここに科学と呪術の違いがあるが、科学と呪術は同じ観念連合と因果律という基本法則に立っている姉妹であり、いわば異母姉妹と言えるとしています。一方、呪術と宗教の関係については、「宗教とは、自然および人間生活のコースを左右し支配すると信じられている人間以上の力に対する宥和・慰撫である」と一応定義したうえで、人間が呪術に失敗して、呪術儀礼の無効性や不毛性に気づき、自分には儀礼によって真に自然界や人間界を支配する力はないのだと無力を自覚したとき、自分以上の力に頭を垂れて随順するようになるとします。こうして、フレイザーは呪術が宗教に先行するという立場から、呪術と宗教の関係を見ています。
 この呪術が宗教に先行し、呪術から宗教が生まれたとするフレイザーの見方には、その後批判や反対も多く出てきます。フランスの社会学者E・デュルケーム(1858〜1917)は、『宗教生活の原初形態』を著し(前述)、オーストラリアのトーテミズムの研究から、宗教が社会を統合する力であることに着目して、宗教が呪術に先行するとして、呪術が宗教の一つの形態、個人的で堕落した形態であることを主張しました。また、ポーランド出身の人類学者のマリノフスキー(1884〜1942)も、呪術は誤った知的認識によるとするフレイザーの呪術論はあまりにも主知主義的過ぎると批判し、呪術は人間のもっと直接的な情動から出て、叫びとか踊りになるものだとしました。マリノフスキーは人間生活には世俗の日常的な常識でことが運ばれる「俗なる領域」と、それとは全く別の原理が支配する「聖なる領域」の二つの領域があるとして、科学は俗なる領域に属し、呪術と宗教は聖なる領域のもので、まったく別物であるとします。フレイザーが科学と呪術を同根の姉妹とすることは、この二つの領域を混同する誤りであると批判します。未開の原始民族にも父祖伝来の生活の知識と技術があり、日常の俗なる領域ではそれで生活できます。しかし、見知らぬ世界に遭遇するとき、日常の知識や技術は役に立たず、人間は呪術や宗教という聖なる領域に入っていきます。たとえば日常の生活でよく知って居る内海で漁をする時は、呪術も宗教も関係ありませんが、未知の外海に出て大きな漁を試みるときには、事前に盛大な呪術儀礼を行い、無事に帰ってきた時には感謝の宗教儀礼を行います。この例にも見られるように、呪術儀礼は事の前に、自分にとって望ましい出来事を招くために行われ、宗教儀礼は事が起こった後にそれを与えた者に対して行われることが多く、儀礼を行うこと自体が目的とされます。人間にとって未来は未知なる世界であり不安の塊ですから、占いとかまじないという呪術的な行為や、その意味を説く宗教祭儀の主要な舞台となります。

シャマニズム

 宗教の原初形態を考察するうえで欠かせない現象にシャマニズムがあります。シャマニズムとはトランス(脱我・恍惚)のような異常な心理状態で、超自然的存在(神霊・精霊・死霊など)と直接交流して、それによって神託・卜占・治病・祭儀などを行う呪術宗教的職能者(シャマン)を中心とする宗教現象を指します。この原初的宗教形態は北アジアのものが著名ですが、世界の各地に広く分布しています。シャマンには女性が多く、日本では「巫女」と呼ばれ、卑弥呼やアマテラスもこのような巫女であったと考えられます。
 シャマンはエクスタシー(脱魂)によるものとポゼッション(憑依)によるものと二つの型がありますが、前者のタイプではシャマンの霊魂が身体を離れて超自然的霊界に飛翔し、後者では超自然的存在がシャマンに来訪・憑依します。脱魂忘我のシャマンは忘我の中で自ら行動するので、覚めた後その体験内容を語ることができるのに対して、憑依の場合は憑依した霊が活躍するので、覚めたシャマンはその内容を語ることができないでいます。実際には両者が同時に起こることも多く、シャマニズムの現象は複雑です。シャマンはその脱我憑依の過程で卜占や治病を行うので、個人の帰依を受け、共同体の進み方を指示して、宗教祭儀の中心的位置を占めることも多くなります。古代日本で政治(共同体の統合)がマツリゴトと呼ばれたように、祭政一致が常態の古代国家ではシャマンが政治の中心に位置することになり、あるいは政治上の権力者が最高祭司の資格をもつのが普通になります。
 シャマニズムは呪術と共に、原始社会や古代国家で広く行われた宗教形態ですが、それは人類の宗教の基層となって、現代の人間生活に深く浸透しています。日本を例にとると、高度に発展した世界宗教を知った近代や現代においても、シャマン的教祖から発する新興宗教が流行し、祖霊崇拝の先祖祭りが行われ、呪術から出る占いや物忌みにとらわれています。流行の星占いも、古代ペルシャの祭司たち(彼らはマギと呼ばれていました)が行っていた占星術の後裔です。彼らは天体の運行は地上の人間界の出来事と照応しているという宗教的確信から、星の動きで人間の運勢を占ったのです。彼らの業がマジック(マギの働き)と呼ばれ、その邦訳が呪術です。このように原始や古代の宗教的思想や習慣が現代社会でも行われていることは、宗教問題を考える上で重要な要素になりますので、本書においても折に触れて取り上げることになります。

 シャマン、シャマニズムは、シャーマン、シャーマニズムと表記されることも多く、標準的な宗教学辞典や著作でも両方とも用いられています。

 タイラーの『原始文化』は比屋根安定訳(抄訳)があります。マレットの邦訳『宗教と呪術―比較宗教学入門』は一九六四年に竹中信常訳で出ています。フレイザーの『金枝篇』は、永橋卓介訳で岩波文庫に収められています。シャマニズムについてはエリアーデの『シャーマニズム』1964がありますが、簡潔に要約したものにエリアーデ・クリアーノ編『エリアーデ世界宗教事典』(奥山訳)の中に「シャーマニズム」の項があります。