市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第107講

        附  論 3

     福音の絶対性とキリスト教の相対性

 1 キリストの絶対性

 わたしたちは「キリストにあって」生きています。キリストはわたしたちの生の根拠であり、意義であり、目標です。キリストなしの生は考えられません。その意味で、キリストはわたしたちにとって絶対的な存在です。
 ところで、「絶対的な存在」といっても、「キリスト」はわたしから離れて別のところにおられる「存在」ではありません。わたしにとって「キリスト」とは、わたしに働きかける神の霊の働きそのものです。神の霊とはどういう霊であるかということも、その働きの内容から知ることができるのであって、あらかじめ神の霊の存在や質を客観的に規定することはできません。以下、この神の霊を「御霊」と呼んで、その働きの姿を述べることにします。
 御霊が働かれるとき、その働きの主体(働きかけをする側)がキリストであり、その働きの客体(働きを受ける側)がわたしです。御霊が働かれるとき、それはキリストがわたしに対して何かをなされるという形をとります。わたしに対する御霊の働きの主体として現れる以外のところにキリストはおられません。そして、御霊の働きの中でキリストが働きかけてくださる対象となるとき、はじめてわたしが存在します。いやむしろわたしが成り立つ、わたしが生まれ出ると言うべきでしょう。そのような御霊の働きがないところには、わたしも生成しません。
 いや、それはおかしい、神の霊があってもなかっても、働いていてもいなくても、わたしは現にここにいるではないか、という反論が聞こえてきます。たしかに、一人の人間としてのわたしは現にここにいます。しかし、御霊が働かれるとき、別のわたしが生成し生き始めるのです。もともといるわたしと、御霊の働きによって生成して生き始めるわたしとの区別は、新約聖書では「わたし」を「いのち」という語で指し、もともといるわたしを「生まれながらのいのち」と呼び、御霊によって生成して生き始めるわたしを「新しいいのち」とか「永遠のいのち」と呼んでいます。二つのいのちを区別することで、もともといるわたしとは別のわたしがいることを指し示し、その別のわたしがどのように生きるのかを語ります。そして、この別のわたしの立場から、もともとのわたしと、そのわたしが所属する世界のことを語ります。
 この神は昔モーセに、燃えながら燃え尽きない柴の中から語りかけるという形で働きかけられました。今は復活されたキリストを通して語りかけられます。そして、その語りかけは、モーセの時は民をエジプトから救い出すという内容でした。今、キリストにあってわたしに語りかける言葉は、「十字架の言葉」です。十字架につけられた姿の復活者キリストが、「わたしはあなたのために死んだ。わたしはあなたを贖った。あなたはわたしのものだ」と語りかけてくださるのです。その語りかけがキリストであり、その語りかけを聞いているのがわたし、すなわち生まれながらのわたしとは別の新しいわたしです。わたしはこの「十字架の言葉」を聞きました。その言葉を受けたことによってわたしがあるのです。その意味でキリストはわたしの存在にとって絶対です。すなわち、キリストがなければわたしがない、という意味で絶対です。

2 キリストの福音とキリスト教

 十字架上に死なれたナザレのイエスを、神は復活させて「主」《ホ・キュリオス》またキリストとしてお立てになった、という告知が福音です。先に述べた御霊の働きの主体としてのキリストは、復活されたイエスにほかなりません。復活によって高く上げられ万物の主とされたイエスが、キリストとして御霊によってわたしに働きかけてくださっているのです。そして、このイエスの十字架と復活によって成し遂げられた事態はすべて、万物の創造者なる神、イエスを世界に遣わされた父なる神の御約束と働きによって終わりの日に実現した事態です。わたしたちはこの復活者イエスを「主イエス・キリスト」と言い表して、世界に告げ知らせています。
 この主イエス・キリストを告げ知らせる言葉が「福音」であるならば、そしてその告知が御霊によってなされるのであれば、「福音」はキリストと一体です。そのとき、キリストを告知する言葉は、御霊の働きの主体となって、キリストがなされる働きをします。そのとき、「福音はすべて信じる者にとって救いに至らせる神の力(=働き)」となります。このような質のキリスト告知の言葉を「キリストの福音」というならば、キリストがわたしにとって絶対であるように、キリストの福音はわたしにとって絶対であるということができます。
 このキリストの福音は、イエスの復活以後、聖霊の著しい働きの中で世界に告げ知らされ始めました。その福音告知は、はじめはユダヤ教の中で行われましたが、すぐにユダヤ教の枠を超えて地中海世界の諸国民に広まりました。その勢いはユダヤ教からの迫害やローマ帝国の迫害も押しとどめることはできず、ローマ帝国の隅々にまでキリストを信じて新しいいのちに生きる者たちの群れ(共同体)ができました。
 キリストの福音によって新しいいのちに生きるようになり、それを救いとして体験した個人も、共同体を形成し、その共同体が増え広がり、一つの社会的勢力となると、共同体の内部では様々な問題に対処するために一致して協力したり、信仰理解についても異なる意見を調整する必要が生じ、また外に対しても自分たちの信仰内容を明確にする必要が生じてきます。そのような必要に対応するために、キリスト者の共同体は組織の統一、信条(信仰内容の表現)の明確化、儀礼の確立などを進め、聖職者組織をもつ新しい「宗教」としての体制を作りあげていきます。ここで「宗教」とは、一定の教義と祭儀をもつ組織体のことを指しており、歴史的・社会的な現象です。その「宗教」の担い手の共同体は「教会」となります。
 キリストの福音によって生み出された共同体がいつ頃から一定の教義と祭儀をもつ組織体としての「キリスト教会」となり、福音がこのような意味での「宗教」となって「キリスト教」という新しい宗教をローマ世界にもたらしたのかについては、様々な見方があり議論があるところですが、この過程は二世紀と三世紀を通じて進み、四世紀には「キリスト教」がローマ帝国の国教となるに至ります。
 キリスト教はキリストの福音から生まれた宗教であり、両者は切り離すことはできません。しかし、キリストの福音という生命の源泉と、歴史的社会的現象として体制化したキリスト教という宗教とは、一応区別して考察しなければなりません。ここで、霊的生命と体制的宗教の関わり方を代表する事例として、イエスの場合とパウロの場合を考察します。

3 イエスにおけるユダヤ教の相対化

 バビロン捕囚を体験したイスラエルの民は、それが預言者たちが伝えた主の言葉に背き続けた罪に対する神の裁きであるとして、捕囚後はモーセ以来伝えられた神の誡めの伝承を集成して「モーセ五書」を形成し、それを「トーラー」(律法)と呼び、それを厳格に順守することによって神の民として歩もうとしました。その後、預言者たちの事蹟と言葉を集めた「預言者」と、詩編や知恵の書を集めた「諸書」が加えられて聖書(旧約聖書)が成立しましたが、根幹は「モーセ五書」です。その律法(トーラー)に記されている祭儀と教義と倫理についての主《ヤハウェ》の命令を守り行うことが神の民としての資格となるとして、その厳格な順守が要求されました。こうして、捕囚後のユダヤ人によって「モーセ五書」の律法を順守することを根本原則とする「宗教」が形成されます。これが「ユダヤ教」です。
 ユダヤ教は典型的な「宗教」です。神殿における壮大な祭儀の体系をもち、大祭司を頂点とする聖職組織によって支配運営され、会堂組織により成員の生活の隅々にまで宗教規定(律法)の徹底履行が求められました。この律法順守こそが神の民の条件であり、神が最終的に栄光を現されるとき、神の民としての栄光にあずかる(=救われる)のはこの律法を守る者だけとされました。この律法をもたない異教徒や、これを守らない者は神の民から除外されることになります。この意味で「律法」が絶対化されることになります。
 このようなユダヤ教という「宗教」が支配する社会にイエスが生まれ、ユダヤ教徒として育ち、ユダヤ教社会で「神の福音」を告知する働きをされました。その結果、イエスはユダヤ教を代表する最高機関である最高法院で、ユダヤ教に背く異端者として死刑の判決を受け、異教徒に引き渡されて十字架につけられます。この事実は、イエスが告知された「福音」とユダヤ教という宗教が真っ向から対立し反発するものであることを指し示しています。いったいイエスはどういう意味でユダヤ教と対立されたのでしょうか。
 イエスが告知された福音の質を示すもっとも顕著な事実は、イエスが当時のユダヤ教社会の落ちこぼれの人たち、「罪人」と呼ばれている人たちと食卓をともにする交わりをもたれ、彼らを自分の仲間として、「あなたたち貧しい人たちは幸いだ。神の国はあなたたちのものだ」と宣言されたことです。「貧しい人」というのは、ユダヤ教社会で「罪人」とされていた人たちに対するイエスの呼び方です。そして、律法を守っていない、むしろ守ることができない人々の間で、悪霊を追い出し病気をいやして、そのような「罪人」にも神の救いの力が働くことを「しるし」として示されました。しかも、それをあえて安息日に行うことで、神の恵みの力は、ユダヤ教律法の順守と関係なく、それを信受する者に与えられことを示されました。
 イエスは律法を否定されたのではありません。汚れとされる病をいやされた者に、モーセ律法に定められた献げ物をして清められたことを証明するように命じておられます。イエスは、律法順守を神の民となるための絶対条件とすることを否定されたのです。ところが、律法順守を神の民の絶対条件とするユダヤ教指導者は、イエスの律法の絶対性の否定を、ユダヤ教そのものの否定として、ユダヤ教に背く異端者として処刑したのです。
 イエスがユダヤ教律法の絶対性を否定されたのは、イエスにとって父の恩恵が絶対であるからです。イエスは、わたしたち人間を絶対無条件の愛で愛してくださる神を「父」と呼んで、その父の恩恵を世界に告知されました。わたしたちは、相手の資格とか善悪を問題にせず、愛を注いでくださる神の愛を「恩恵」と呼んでいます。恩恵は、相手の価値とか資格に絶しているという意味で「絶対」です。イエスが告知される「神の支配」とはまさに「恩恵の支配」のことです。終末的な恩恵の支配が到来した、という告知です。これがイエスの「福音」です。
 イエスは、恩恵の絶対性のゆえに律法の絶対性を否定し、律法を相対的なものとされました。この「律法の相対化」が、律法を絶対とするユダヤ教指導層からユダヤ教そのものの否定とされて処刑されるに至ります。「律法」(トーラー)は当時のユダヤ人にはユダヤ教そのものでしたから、イエスはユダヤ教を相対化されたと言えます。ユダヤ教は「宗教」として、優れた価値と意義がありますが、それでなければ人間は救われないとか完成されないという絶対的なものではありません。

4 パウロにおけるユダヤ教の相対化

 イスラエルが十字架につけて殺したイエスを神は復活させて主またキリストとされました。このキリストによって罪を赦し聖霊を与えてくださるという福音は、はじめユダヤ人(=ユダヤ教徒)に告げ知らされました。この福音を、ユダヤ教の枠を超えて異邦諸国民にもたらしたのは、ギリシア語を用いるユダヤ人でした。とくにその運動を代表するパウロです。パウロは誰よりも広く異邦世界に福音を告知したという働きからだけでなく、異邦人(=非ユダヤ教徒)が割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、すなわち異邦人のままで救われ、神の民となりうるという原理を確立した使徒として、まさに「異邦人への使徒」と呼ばれるにふさわしい人物です。
 この原理は、パウロ自身によってこう宣言されています。「しかし今や、律法とは無関係に、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が現されています。すなわち、イエス・キリスト信仰による神の義であり、すべて信じる者に与えられるのです。そこには何の差別もないからです」。この主張は普通「信仰による義」と呼ばれていますが、それと一体である「律法と無関係に、律法とは別に」という面がパウロの時代には緊急の重大事でした。「律法」(トーラー)とはユダヤ教を指すユダヤ人の呼称であり、パウロのこの言葉は、キリスト信仰による義が、今やユダヤ教とは無関係に、ユダヤ教の外で、様々な宗教の諸国民に差別なく与えられているという宣言となります。
 この宣言に対して、ユダヤ教徒からは当然、イエスを信じるユダヤ人からも猛烈な反対が起こりました。ユダヤ教徒でなくても神の民でありうるという主張は、ユダヤ教を否定する者、ユダヤ教を汚す冒?として、ユダヤ人から激しく批判されます。イエスを信じるユダヤ人からは異邦人信者に割礼を求める対抗運動が、そしてユダヤ教徒からは命を狙う陰謀が、パウロの生涯の終わりまでつきまとい、ついにパウロはこのようなユダヤ教徒の訴追によってローマの法廷で裁かれ、殉教するに至ります。
 パウロはユダヤ教を否定したのではありません。パウロは生涯ユダヤ教徒として生きました。パウロは最後まで、救済史的唯一神の信仰を貫き、それを異邦人のキリスト共同体にもたらしました。パウロが否定したのはユダヤ教の絶対性です。すなわち、割礼を受けてモーセ律法を順守するユダヤ教徒でなければ救われないとか神の民となれないという主張です。パウロはキリスト信仰の絶対性のゆえにユダヤ教を相対化したのです。
 パウロは、最初に(項目1で)述べたようなキリスト信仰、すなわち聖霊の場でキリストの働きにより成立する新しいわたしとキリストの結びつきを絶対とする立場から、ユダヤ教を相対化しているのです。ユダヤ教の中でもこのようなキリスト信仰はありますし、ユダヤ教の外でもこのキリスト信仰はありえます。そうすると、キリスト信仰による救いにとって、ユダヤ教の中にいるか外にいるかは問題でなくなります。
 パウロはこのキリスト信仰の事態を「キリストにあって」という句で語っています。わたしたちがキリストにあって、キリストに結ばれて与えられているいのちの事態は、イエス・キリストの父なる神から無条件絶対の恩恵として与えられているものです。わたしたちの側の宗教的・道徳的・社会的価値とか立場とは全く無関係です。パウロのユダヤ教の相対化も、イエスの場合と同じく、恩恵の絶対性のゆえの相対化です。

5 キリスト教の相対化

 人は「宗教」の中に生まれ落ちます。宗教は人類と共に古く、どの人間社会も先祖伝来の祭儀体系としての宗教の中にあります。生まれながらのわたしが生きている宗教は、わたしたちを深く、わたしたちが自覚する以上に深くわたしを規定しています。
 どの宗教も自己を絶対化する体質があります。他の宗教でもよいとは決して言いません。その宗教の自己絶対化の体質が、宗教間の対立、ひいては宗教によって成立する文明間の対立を「衝突」とし、時には激しい暴力を引き起こします。交通、通信、経済がグローバル化した現代は、異なる宗教をもつ諸民族、諸文明が孤立して生きることは許されず、何らかのかかわりをもたざるをえない状況です。そのような状況で、諸宗教が共存できる原理として「宗教多元主義」が唱えられます。しかし、外の状況に強いられてそれぞれの宗教が自己絶対化を克服することは困難です。それぞれの宗教の中に自己を相対化する原理が必須です。
 キリストの福音から生まれたキリスト教も、一つの宗教としては他の宗教と同じように自己絶対化の体質をもっています。それを克服するには、外の状況から迫られた宗教多元主義ではなく、内から自己を相対化する原理がなければなりません。わたしたちは、その内からの宗教の相対化の範例をイエスの場合とパウロの場合に見ました。イエスは父の恩恵の絶対性を原理とする立場から、ユダヤ教を相対化されました。パウロは、キリスト信仰の絶対性からユダヤ教を相対化しました。それはキリストにおける神の恩恵の絶対性によるユダヤ教の相対化であることも見ました。宗教を相対化するには、宗教を超える絶対的な価値体験、これがなければ自分は自分でありえないという根拠が必要です。
 先に見たように(項目2)、わたしにとってキリストは絶対であり、キリストの福音も絶対です。そのキリストの事態が絶対であるゆえに、キリストの福音から生まれたものであっても、「宗教」となったキリスト教は相対的なものとなります。キリスト教とキリスト教会は、キリストの福音を保持する共同体として、またその営みとして人類史で他では代わりを見出せない貴重な存在です。しかし、それが自己を絶対化し、自己目的となるとき、宗教としてのキリスト教とキリスト教会は、キリストの現実に目覚めた一人ひとりの霊性を抑圧する装置になりかねません。自己を絶対化したユダヤ教がイエスを殺し、パウロを死に追いやったように、自己を絶対化したキリスト教とキリスト教会もその宗教を批判した多くの改革者を追放したり殺したりしました。
 キリスト教の歴史においても、その中に保持されているキリストの福音の現実を再発見して、キリスト教、とくに自己を絶対化している教会を乗り越えようとする運動が繰り返し起こりました。ルターの宗教改革はその代表的な事例です。現代ではキリスト教の自己目的化、自己絶対化の危険は、個々の教会よりもキリスト教原理主義の傾向に見られます。たとえ聖霊運動の中から出たものでも、自分たちの教義や信条(その中にはしばしば文化的背景からきたものが含まれます)以外のものをいっさい許容しない原理主義的傾向は克服されなければなりません。
 イエスは言われました、「この山(サマリア教)でもなく、エルサレム(ユダヤ教)でもなく、父を礼拝する時が来る。・・・まことの礼拝をする者たちが霊と真理によって父を礼拝する時が来るであろう。いや今がその時である」。 (天旅 二〇一一年1号)

【追記】

 本稿は「リバイバル・ジャパン」誌からの依頼で寄稿し、一月一六日号の「神学交歓」欄に掲載されたものです。これは、『天旅』二〇〇四年1号に掲載し、著作『教会の外のキリスト』に「終章」として収めた「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」という論稿を要約し、読みやすく書き直したものです。これは著者の年来の主張ですので、本誌誌友にも改めて目を通していただくのも有益と考え、「リバイバル・ジャパン」誌の了解を得て、本誌に再録しました。
 「リバイバル・ジャパン」誌は、日本におけるプロテスタントの中でも福音主義に立つ流れを代表する月刊誌(月二回発行)ですが、編集者の谷口氏は同誌に「神学交歓」という欄を設けて、「福音主義の中における様々な神学と聖書解釈」を掲載し、「自らの立場と違う聖書解釈を知ることでクリスチャンの相互理解を深めること」を目指しておられます。本稿のような「キリスト教の相対性」を主張する論稿には批判と非難が予想されますが、現代世界の火種になっている諸宗教における原理主義的な傾向を克服するためには、各宗教に自己を相対化する原理が必要であることを思い、あえて同誌に発表しました。
 本稿が掲載された号に、エルサレム在住の正統派ユダヤ教徒でイエスの福音を世界の各地に伝える活動を続けておられるガブリエル・ゲフェン氏の『拡がる「イエスを信じる霊的草の根運動」 ― 教会に属さず自らの共同体でイエスを信じ続ける人々』というリポートが掲載されています。これはまさに本稿が神学的に主張していることを実践しておられる事例であり、インドネシアの諸部族の間でもその共同体生活の中でイエスを信じる人たちがあり、イスラーム世界の指導的な人たちの中にもイエスを言い表す人たちがいることを読み、感銘を受けました。編集者の谷口氏も、図らずも同じ主張の「神学」と「実践」を同時に掲載するようになったことに驚いておられます。