市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第106講

        附  論 2

     教 会 と は 何 か

エクレシアから教会へ

 福音は世界の諸々の民から主イエス・キリストを信じる者を呼び集めます。ユダヤ人からだけではなく世界のあらゆる民族からです。ということは、ユダヤ教という宗教からだけではなく、世界のあらゆる宗教の民から、キリストとしてのイエスを信じる民を呼び出して一つの群れを創り出します。こうして福音によって様々な宗教から呼び出された者が形成する共同体を、ギリシア語新約聖書は《エクレーシア》と呼びます。まさにこのギリシア語が指し示しているように、呼び出された者たちの集団です。
 《エクレーシア》(以下日本語表記でエクレシア)は終末的な神の国を目指してこの世から、世界の諸宗教から呼び出された者たちの終末的な集団であり、ただ神の霊の働きによって形成された共同体です。それは世界の諸宗教から脱出してきた者たちの霊的な共同体です。少なくとも新約聖書の諸文書が書かれた時期のエクレシアはそのような性質の共同体でした。
 ところが、どのような種類の共同体であれ、人間の集団が社会的な主体として歴史の中で活動するようになると一定の形態とか組織をもたざるをえません。その活動が神と関わる領域、すなわち宗教の領域である場合は制度的な教会とか教団という形をとらざるをえません。二世紀以後の福音の進展においては、内外の要因に促されてエクレシアは他の諸宗教と並ぶ、祭儀(洗礼や聖餐などのサクラメント)と教義と聖職制度をもつ一つの教会となります。
 内外の要因というのは、異なった信仰を唱えて使徒たちから伝えられた信仰から逸脱しようとする教団内の危険と戦う必要と、外の社会から来る迫害に対抗してその存立を図るための一致結束の必要です。このような必要から各地の共同体は、使徒たちの信仰の体現者とされる一人の監督のもとに統合され、全地の共同体はその監督たちの会議によって統合される組織体、すなわちカトリック教会となります。
 こうして御霊の働きとしてのキリストの福音は、他の宗教と並ぶ制度的宗教としてのキリスト教となります。キリスト教は他の宗教との競争やローマ帝国からの激しい迫害に耐え抜いて、ついに四世紀にはローマ帝国の国教となるに至ります。

教会改革の必然

 このように教会には二つの力が働いています。一つは教会がその内に保持する福音によって働く御霊の力であり、それは霊なるキリストとの交わりと、キリストにあって人と人との愛の交わりを形成する力、エクレシアを形成する力です。
 もう一つは、人間の集団が社会的な主体として歴史の中で行動する以上、必然的にその集団を組織化しようとする力です。その力は、霊の事態をも自分がコントロールできる形式(サクラメントや教義)に変えようとする力と一つになって、すべてを形式化し制度化する力となります。
 風は自分の欲するままに吹きます。人間は風をコントロールすることはできません。御霊の働きの場では常に神が働きの主体であり、人間はその働きを受ける客体です。ところが、すべてを支配しようとする人間本性は、霊の事態をも自分がコントロールする客体に変えないではおれないのです。この霊の事態を儀礼や教義で客体化する力が、組織化する力と一つになって制度的教会を形成します。
 教会史はこの二つの力の葛藤と相克の歴史であると見ることができます。第二の組織化と客体化が一つとなった制度化する力が優勢となり、第一の御霊の力を圧迫し圧殺するとき、信仰は形骸化し、教会はその生命を失います。制度化を生み出した人間の本性は必然的に自分が生み出した制度的宗教や教会を絶対化して、それに違反する成員を追放したり処罰し、他の宗教や教会と対立し排撃して争います。教会史はこのような悲劇に満ちています。
 教会がその内に本来の神の民、終末的で霊的な神の民エクレシアを保持する共同体であるためには、つねに第一の御霊の力、神の生命の力によって硬化する制度的教会の枠を打ち破り、自己を超えて自己から出て行かなければなりません。この硬化した制度的宗教や信仰を打破する生命の御霊の発現がリバイバルです。リバイバルは時たま起こればよいものではありません。教会はつねにリバイバルによって改革されていなければなりません。

教会の使命

 福音によって呼び集められた終末的・霊的共同体エクレシアの社会的・歴史的・制度的形態である教会は、何のためにこの世界に存在するのでしょうか。教会の存在理由とそこから出る教会の使命の問題です。まず教会が自分の使命をどう自覚しているか、教会の自覚の問題から入りましょう。この問いに対してはおそらく、教会の使命は世界にキリスト教を伝えて、世界をキリスト教化することである、という答えが自明のこととして返ってくるのではないかと思います。自分たちのキリスト教こそが唯一の普遍的宗教であるとしているからです。伝道とはこのキリスト教を宣布することだというのは自明のこととされています。果たしてそうでしょうか。
 この問題について使徒パウロが注目すべき発言をしています。パウロはコリントの人たちに、「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」と書いています(コリントT一・一七)。この言葉が現在の状況に対して語るところをわたしたちは真剣に聴かなければならないと思います。古代教会以来現在に至るまで、教会は洗礼を授けることをその活動の主要な内容としてきました。それは、洗礼を受けることがキリスト教へ改宗し教会に所属する者となることを意味したからです。しかしパウロは洗礼を授けることと福音を告げ知らせることを別のこととして、自分の使命は洗礼を授けることでなく、福音を告知することだと断言するのです。
 この発言は彼の「無割礼の福音」の延長上にあります。パウロは、ユダヤ教以外の宗教の人がキリストを信じたとき、その人に割礼を授けてユダヤ教に改宗させるべきだという主張に激しく抵抗しました。その主張を受け入れるならば、パウロの活動はユダヤ教への改宗運動となるからです。たしかにパウロの時代では、まだ洗礼はキリスト教への改宗とか教会への加入儀礼ではありませんでした。まだキリスト教という宗教は存在していなかったからです。しかし、ユダヤ教において割礼がもつ意義を知悉しているパウロは、洗礼の将来を予感して、このような預言者的な発言をしたと考えられます。
 教会の使命は異教徒をキリスト教に改宗させることではありません。伝道はキリスト教への改宗運動ではありません。教会は自己の拡大や強化を目的とすべきではありません。むしろ自己を滅して福音と主キリストに仕えるべきです。神が世界に教会を置かれたのは、キリストを証言するためであり、キリストの福音を告知させるためです。パウロが「今や神の義(救い)は律法(ユダヤ教)の外で現された」(ローマ三・二一)と言ったように、教会は自己のために伝道するのではなく、教会の内でも外でも関わりなく、人々がキリストによって救われるために、ただひたすら福音を告知すべきです。神はキリスト教会という特殊な民の存在を願われるのではなく、世界のすべての民がキリストによって救われて御自分の民となることを願っておられるのだとわたしは確信します。神はキリスト教徒だけの神ではなく、すべての国民(すべての宗教の民)の神であると信じます(ローマ三・二九〜三〇)。

(本稿は拙著『福音の史的展開U』の終章「キリストの福音からキリスト教へ」の一部を要約したものです。詳しくは、その章を参照してください。)