市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第105講

        附  論 1

     福 音 と は 何 か 

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 この問いに対する答えは聖書にあります。使徒パウロがこの問いに明確に答えています。

「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、すべて信じる者には、救いに至らせる神の力である」。 (ローマ書一章一六節)

 福音は言葉です。神の御子であり主であるイエス・キリストの出来事を告げ知らせる報知の言葉です。しかし、この言葉は単に情報を伝える言葉ではありません。人格から人格に語りかける愛の言葉です。それは、聴く者を根底から変えてしまう力ある言葉です。道元は「愛語よく回天の力あるを学すべきなり」と言いましたが、福音は人を造り変える神の愛語です。
 この文は、原文の順序通りに並べると、「福音は神の力である・救いに至らせる・すべて信じる者には・ユダヤ人をはじめギリシア人にも」となります。この文の順序にしたがって、福音の本質を見ていきます。

1 「福音は神の力である」。

 パウロは、福音の本質を端的にこう宣言し、その「神の力」に説明をつけていきます。まず、福音は力です。その力は、人の力がなしえないことを成し遂げる大きさ、強さがあります。その力は神の力であるからです。その力は、人を救い造り変える働きにおいて、なしえないことはありません。「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われる力です。

2 「救いに至らせる」

 力には、大きさだけでなく、方向と向きがあります。福音という神の力は、「救いに至らせる」という方向に働く力です。救いとは天の彼方や来世にあるのではありません。現に体験する変化です。人を悲惨な状態に閉じこめている罪や病気や死の支配から解放し、人間存在の根底を変容させ、ついには神の栄光にあずかる姿に完成する、解放・変容・完成の全過程です。

3 「すべて信じる者には」

 このような「救いに至らせる神の力」が働くのは、この福音が信じて受け容れられている場においてです。この力は物理的な力ではなく、言葉によって働く霊的・人格的な力ですから、その言葉を信じて受け入れる者だけに働きます。強力な磁力が働いている磁場でも、磁力を受けて動くのは鉄片だけです。アルミや木片は動きません。そのように福音が告げ知らされている場にあっても、その言葉を信じない者には何の変化も起きません。しかし、それを信じる者には、この神の力が働き、人の思いを超えた変化が起こります。
 そして、その力は「すべて」信じる者に働きます。信じる者の民族、男女、教養、文化程度を問いません。社会的身分、道徳的価値を問いません。誰であっても信じる者は、同じようにこの力を身に受けます。差別はいっさいありません。

4 「ユダヤ人をはじめギリシア人にも」

 この差別の中で、もっとも深刻な差別が宗教的な差別です。ここでユダヤ人というのはモーセ律法を順守するユダヤ教徒のことであり、ギリシア人というのはユダヤ教徒以外のギリシア文化世界の人々、ユダヤ教徒から見た異教徒を指しています。この福音は初めユダヤ教徒の中で生まれました。それで、最初に福音を担ったユダヤ教徒の中には、モーセ律法を守るユダヤ教徒でなければ、イエス・キリストの神の民にはなれないという主張がありました。それに対してパウロは、ユダヤ教徒でなくても、モーセ律法の外にいるギリシア人であっても、福音を信じるならば、すなわち福音が告知するイエス・キリストを信じるならば、ユダヤ教律法とは関係なく、その信仰によって義とされ、救われるとしたのです。

 この真理は現代においても重要です。福音は特定の宗教や教会に閉じこめられていません。いかなる宗教の民でも、キリストを信じる者はこの神の力を受けて救いに至ります。ですから、福音は世界のすべての民族に伝えられなければならないのです。

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 では、このように信じる者を救いに至らせる神の力としての福音とは、どのような内容の言葉でしょうか。これも聖書の中に答えがあります。

「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。(コリントT 一五・三〜五)

 これはパウロの手紙の一節ですが、パウロ自身の言葉ではなく、パウロが「わたしも受けたものです」と言っているように、パウロ以前に福音を宣べ伝えたイエスの弟子たちの告知を伝えています。イエスの伝道につき従ってイエスの働きを見たケファ(ペトロ)を初めとする弟子たちは、イエスがエルサレムで逮捕され、裁判にかけられ、十字架につけられて死に、実際に墓に葬られたことを見ました。そして、その直後イエスが復活して現れてくださったことを体験し、神の霊の注ぎを受けて、神が十字架につけられたイエスを復活させてキリストとしてお立てになったことを世界に告知しました。その告知の言葉がこれです。それは復活されたイエスの顕現を体験した者たちの世界への証言です。
 この告知はまず、復活してキリストと立てられた方が地上では十字架につけられて死なれたという事実を、「わたしたちの罪のために死んだ」と意義づけています。救済者キリストはわたしたち人間を、神に背いた結果陥っている罪の支配から解放し、神のもとに引き戻すために死なれたのです。このキリストの十字架の真義を伝える言葉が「十字架の言葉」であり、それがわたしたち背く者への神の愛語です。
 十字架につけられて死なれたキリストは三日目に復活されました。福音はこの事実の証言です。しかもキリストは、キリストに属する者たちがやがて復活することを保証する「初穂」として復活されたのです(コリントT一五・二〇)。このことは使徒パウロがこの引用文に続く箇所で力をこめて論証した重要な福音の内容です。
 キリストがわたしたちの罪のために死なれたことと、初穂として三日目に復活されたことは、「聖書に書いてあるとおり」に起こりました。それは、キリストの十字架と復活の出来事こそ、神が聖書で終わりの日に成し遂げると約束されていたことの成就であると宣言しているのです。福音は神の終末的な救済を告知する言葉です。
 この福音を信じる者、すなわちこの福音が告知する十字架・復活のキリストを信じる者は、神が終わりの日に注ぐと約束されていた聖霊を賜物として(無代価で、何の条件もなく)受けます。このキリストにあって受ける聖霊の働きこそ、「福音は神の力である」というときの力の中身です。聖霊は救いに至らせる神の力として、わたしたちを「栄光から栄光へ、主と同じ姿に変容」させます(コリントU三・一八)。
 福音は信じる者を救いに至らせる神の力です。福音は十字架の言葉であり、信じる者を罪と死の支配から解放します。福音は恩恵の言葉であり、信じる者に聖霊をもたらし、新しい上からの命、神の愛の命に生きるように、人間を奥底から変容していきます。福音は希望の言葉であり、初穂キリストの復活により、信じる者に復活の希望に生きる力を与えます。福音は、キリストにおける神の恩恵を告知する言葉です。
(天旅 二〇〇九年 1号)