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104 「働きとしての神」の諸相

 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。

(テサロニケT 二章一三節)


 神とはあらゆる存在を存在させている働き、あらゆる生命を生かしている生命の働きそのものです。同時に、キリストにおいて人間の救いの働きを成し遂げ、その働きをわたしたちの中で働いている働きそのもの、わたしたちの理解をはるかに超えた神秘で根源的な働きです(*1)。しかしその働きは、わたしに向かっては「わたしはあなたを愛している」と語りかける働きです。この働きそのものとわたしは「わたしはあなたを」という呼びかけで関わり合う関係、すなわち人格的な関係です(*2)。神は人間には人格として現れます。人間は神を人格として表象します(*3)。
人格関係は言葉によって成り立ちます。神は人間には言葉をもって語りかけ、自分を示されます(*4)。人間は言葉をもって祈り、神との関わりに入ります(*5)。神は言葉をもって万物を創造されます。神が「光あれ」と言われると、光がありました(*6)。神はキリストにおいて救いの働きを成し遂げ、それを告知する福音の言葉で人間に語りかけ、信じる者の中に働いて人を救われます(*7)。このような神との言葉による関わりを、人間は言葉による人間相互の契約関係を象徴として用いて「神との契約」と呼びました(*8)。人間の歴史の中で進められる人間の救済のための神の働き、すなわち救済史は契約史となりました(*9)。福音を信じてキリストにおける救済にあずかった民エクレシア(*10)は、モーセによって与えられた契約を、福音を準備する契約として「古い契約」と呼び、その証言であるヘブライ語聖書を「旧約聖書」としました。そして、キリストにおいて成就した神との新しい関わりを「新しい契約」と呼び、その現実を証言するギリシア語の諸文書を「新約聖書」としました(*11)。
福音はナザレのイエスというひとりの歴史的人物においてキリストが出現したと告知します。そのイエスは神を父と呼び、自分は父から遣わされた者であり、父から聞いた言葉を語り、父のなさることを見て行うのだと、働きにおける父との一体性を強調されました(*12)。ところがギリシア世界に福音を告知した古代のエクレシアは、ギリシア思想の枠の中で神とイエスの関係を実体的に父と子の関係と理解したので(*13)、父なる神と子なる神との関係、また神の子としての神性と女から生まれたひとりの歴史的人物の人間性がイエスにおいてどういう関係で共存するのか(神性と人間性は相反し両立しません)、という難問が起こりました。旧約聖書にもキリスト(メシア)を神の子とする伝統があります(*14)。また、父としての神と子としての神との関係はどのような関係か、さらにエクレシアの中に働く聖霊が神であるならば、唯一であるはずの神の中で、父としての神と子としての神と聖霊なる神という三者の関係はどうなるのか、という解き難い問題が生じました(*15)。この問題を解決してエクレシア全体の信条を統一するために全地の集会の代表者(司教たち)が呼び集められ(*16)、何回も会議を重ね、ニカイア信条(*17)とかカルケドン信条(*18)というような古代カトリック教会の信条が形成されます。
これらの信条が神学的な形で記述されて、「三位一体」と呼ばれるキリスト教独特の神論が出来上がります。これは、神には父、子、聖霊という三つの位格《ペルソナ》があるが、これは同一の神の三つの現れの相であって、神は唯一の神として一体である、という理解の表現です。この《ペルソナ》というラテン語は神の人格性を指す言葉となり、三つの人格性(三つの意志)が一体であるとはどういう意味なのかが大問題になります。しかし、神を働きと理解し、その働きの三相として、いっさいを存在させる根底の働き(父)、キリストにおいてなされる救済の働き(子)、人間の中での働き(聖霊)として理解すれば、唯一の神の働きの三相として自然に語ることができます。もともと新約聖書は《プロソーポン》という語で神の働きの相を語っていますが(*19)、このギリシア語は「表面、顔、(役者の)面」という意味の語であり、同じ役者が場面によって違う面をつけて行為していると理解すれば、働きとしての唯一の神の働きの三相として理解することができます。福音はこの意味での三一神を告知しています(*20)。

1 この一文は本編に先行する三編、「創造者としての神」、「救済者としての神」、「聖霊として働く神」の三編で述べたことの要約です。神が働きであることを、イスラエルの人たちは「主(ヤハウェ)は活きている」という誓いの言葉で表現していました。この表現に、イスラエルの人たちが神を働きとして理解していたことがよく示されています。
2 ユダヤ人の哲学者マルティン・ブーバーは、人間の真理への追求(宗教とか哲学)が「我とそれ」の関係になっていることを批判し、「我と汝」の関係こそ真理の根底であることを強調しました。聖なるものと関わりを内容とする宗教においても、その聖なるものは力とか祭儀、善悪とか禍福というような活ける人格ではないもの、哲学や科学においては本質とか原理、有とか無というような非人格的なものとの関わりが追求されています。ブーバーの哲学は、聖書に養われたユダヤ人の思想の特色がよく出ています。
3 神を人格として表象するもっとも素朴な形は擬人法でしょう。諸民族の神話において神々は人間と同じような姿で現れ、人間のように語り行動しています。しかし時と共に神の観念には、人間を超える属性、すなわち全知とか全能、永遠とか不変というような属性が付加されて、人間との違いが強調されるようになりますが、神を人格として表象することは変わりません。
4 神がご自分を示される働きを「啓示」と言います。この宇宙とか世界の存在そのものが、それを創造した働きである神を啓示していますが(詩篇八編、ローマ書一章二〇節)、神が人間の救済のためになされる働きを示すために、神は特定の人間を選んで語りかけ、特定の民の歴史の中に働いてご自身を啓示されます。その証言と記録が聖書です。そのさい、神が特定の時期に民や世界に語られる言葉を受けとって人々に伝えるために、神から選ばれた人物が「預言者」と呼ばれます。神の啓示はこのような預言者たちの働きによって、選ばれた民イスラエルの宗教を司どる祭司たちによって組織化されて体制的宗教となり、イスラエルの預言者的宗教が形成されます。
5 神の啓示という神の働きを受けた者は、個人であれ民であれ、その働きに応答します。その応答は神からの語りかけの言葉に従って行動することですが、その行動の中でも特に神の啓示の言葉に対する、言葉による応答が基本となります。その言葉による応答が祈りです。神の言葉に従う行為も、祈りの表現と見ることができます。イスラエルの民の祈りは詩篇の中で、ご自身を啓示し働かれる神への賛美と感謝、苦悩の告白や助けを求める嘆願など多彩な形で表現されています。詩篇の祈りは、預言者的宗教の民の神との関わりの典型として、キリスト教会でも用いられることになります。
6 神の言葉こそ神の働きの根底であることを体験したイスラエルの民は、神と自分たちとの関係だけでなく、世界の万物と神との関係も神の言葉によるものであることを悟るに至ります。そのことは創世記の最初の三章に見られます。この創造物語において、二章(正確には二章四節以下)は、イスラエルの民に古くから伝えられてきた諸伝承を集めた歴史書(ヤハウィスト文書)を用いて、神が人間を土の塵で形を造り、鼻から命の息を吹き込んで生きた者にされたという素朴な創造神話を伝えています。それに対して一章(正確には二章三節まで)は、神は言葉によって天と地の万物を創造され、最後に人間をご自分の像に創造された、と壮大なスケールの宣言しています。この部分は、バビロン捕囚以後に第二神殿で活動した祭司たちによって書かれた歴史書(祭司文書)が用いられています。この違いは、バビロン捕囚において預言が成就するという体験をしたイスラエルが、神の言葉の偉大さとか根源性を深く悟った結果だと考えられます。
7 福音は、神がキリストにおいて救いの働きを成し遂げてくださったことを、人間が人間の言葉で告知します。しかし、その人間の言葉を神の言葉として信じる者を、神は自分の言葉を信じる者として、その人の中に聖霊として働き、救いの働きを進められます。その消息はパウロの手紙(テサロニケT二章一三節)が明らかにしています。
8 その典型は、神がご自分の民として選ばれたイスラエルに民を奴隷の家エジプトから救い出されたとき、シナイでモーセを通してイスラエルの民と結ばれた「シナイ契約」です。この時、シナイでモーセに現れた神ヤハウェは、自分がイスラエルの神となり、モーセを通して与える十の言葉を守るならば、イスラエルはこの神ヤハウェの民となり、保護する神と保護される民となるという契約を結ばれました。このヤハウェとイスラエルの関係は、当時の部族間の宗主契約(強い部族とその部族に依存する部族との間に結ばれる契約)をモデルとしているとされています。
9 神との関わりをこのような契約関係と自覚するイスラエルは、神との関わりの中で歩んできた歴史を契約の枠組みで見るようになり、シナイ契約の他にもノア契約、アブラハム契約、ダビデ契約などの諸契約を語ることになり、人間の救済のための神の働きの歴史(救済史)は諸契約の進展の歴史として語られるようになります。
10 エクレシアが告知した福音の第一項は、キリストにおける神の救済の働きは聖書(旧約聖書)の成就であるという宣言です(ローマ書一章二節、ヘブライ書一章一節)。イエス自身をはじめペトロやパウロやヨハネらの使徒たちはみな聖書を神の言葉と信じるユダヤ人(ユダヤ教徒)です。彼らは、福音が告知するキリストの出来事は聖書が予告していた事柄の実現であるとし、彼らの告知の内容を聖書を根拠にして論証しました。聖書は福音を準備する書となりました。
11 このエクレシアの救済史理解、すなわちイスラエルの歴史の証言である聖書全体を福音の予告また準備とする救済史理解は、神と人間の関わりの歴史を表現する契約史に最大の枠組みを提供することになります。予告であり準備であるイスラエル史の証言としての聖書全体は「旧い契約」となり、成就であり実現である福音は「新しい契約」、もはや古くなることのない最終的な契約となります。すでに預言者エレミヤは、イスラエルがエジプトを脱出した時に結ばれた契約(モーセによるシナイ契約)とは別の新しい契約が神と人との間に結ばれる時が来る事予告していました(エレミヤ書三一章)。エクレシアは、イエスが十字架の上に流された血による契約(マタイ福音書二六章二八節)、すなわちそれが象徴する復活者キリストの死によって実現した神と背く人間の新しい関わり方を福音として告知します。なお、日本語でしばしば見られる「旧訳聖書」、「新訳聖書」という表現は間違いです。
12 イエスが神を父と呼ばれた事実は共観福音書にも十分伝えられていますが、イエスがご自分を父からこの世に遣わされた者であること、また父が語られる言葉を語り、父がなされることを見てことをなす者であることを力を込めて語るのはヨハネ福音書です。その事実を端的に言い表す言葉として、この福音書に見られる「わたしと父は一つである」(一〇章三〇節)や、「わたしを見た者は父を見たのである」(一四章九節)というようなイエスの言葉は、働きにおけるキリストとしてのイエスと神の一体性(同一性)を指しているのであって、実体的に理解すべきではありません。
13 福音ははじめギリシア思想が支配するヘレニズム世界に宣べ伝えられ、その世界にキリスト教という宗教を形成します。その過程で、ヘレニズム世界の基礎になっているギリシア哲学の用語で、その信仰内容を教義化します。ギリシア哲学は物事の《ウーシア》(本質、本性、実体)を追求します。それで福音信仰の内容を教義として確定するにさいして、イエスが父とされた神と、その神の子であるキリストの《ウーシア》が問題とされ、神とキリストの《ウーシア》が同じである《ホモウーシオス》かどうかが争われるようになります。キリスト教の教義の決定のために、本来福音には無縁のギリシア哲学の用語が入ってきます。
14 たとえば詩篇二編七節。
15 全地の司教を招集するのはローマ皇帝です。帝国の統一を強固な信仰共同体であるキリスト教会に託したローマ帝国は、教会の紛争や分裂を恐れて、教会の統一を図るために皇帝が会議を招集して、教義の統一を進めます。皇帝コンスタンティヌスは三一三年にキリスト教を公認した直後の三二五年に第一回の公会議をニカイアに招集しています。その後、皇帝が招集する公会議が何度も開かれることになります。
16 父なる神と子なる神との関係については次の注17を参照してください。両者と聖霊なる神との関係は後に(十一世紀)、聖霊は父なる神から出るとする東方ギリシア正教会と、父なる神と「子からもまた」(ラテン語でフィリオ・クェ)出るとする西方ローマカトリック教会が、相互に相手を破門するという教義上の大問題になります。
17 コンスタンティヌス帝は、当時子なる神キリストは父なる神に従属すると説くアリウスに対して、父と子は神としての《ウーシア》を同じくする(ホモウーシオスである)と主張するアタナシウスが対立し、教会の統一が危うくされているのを憂い、三二五年に第一回の公会議をニカイアに招集します。その公会議でアタナシウス派が勝って、父と子の同一実体《ホモウーシオス》が教義として確立します。そのさい、神としてのキリストの被造,変化,受肉前の非存在などの教説を異端として退ける四つのアナテマ条項を付加します。こうして成立した信条がニカイア信条です。
18 神の子としての神性と女から生まれたひとりの歴史的人物の人間性がイエスにおいてどういう関係で共存するのか(神性と人間性は相反し両立しません)という問題について論争が起こり、四五一年にカルケドンに公会議が招集されます。その公会議は、キリストは完全な神性と完全な人性を備えるとしたうえで(両性論),その両性の関係を「混ざらず,変わらず,分かれず,離れず」という否定の表現によって規定しました。このうち前半(両性論)は神性の優位を主張した単性論を否定したもの,後半の否定表現は人性と神性の明確な区分を主張したネストリウスを批判したものです。これがカルケドン信条です。この信条は、いわゆるカルケドン派教会(のちのカトリック教会と東方正教会)の教義の根幹をなします。宗教改革諸派もこれに含まれます。
19 たとえばパウロは、「キリストの顔に輝く神の栄光」という表現を用いていますが(コリントU 四章六節)、これはキリストにおいて働く神の輝かしい働きを指していると理解できます。
20 新約聖書における福音告知では、父と子と聖霊の名が並列してあげられる箇所は僅かです。新約聖書の諸文書の中で比較的後期に成立した見られるマタイ福音書の最後に、「父と子と聖霊の名にバプテスマせよ」という形で、この時期の福音運動の一角で洗礼の時にこの三つの名が唱えられるようになっていたことがうかがえるだけです(マタイ二八章一九節)。しかし、神が創造者であること、御子であるキリストにおいて神の救いの働きが成し遂げられたこと、聖霊が人間の内で働いておられることは、先行する三編で見たように、新約聖書が証言する福音告知のいたるところに見られます。