市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第101講

        補   遺  


創造者なる神

 わたしは主である、わたしのほかに神はない。

(イザヤ書四五章六節 協会訳)


神に固有の名前はありません(*1) 。神は働きそのものだからです(*2)。神はこの天地万物を存在させ、生命を生起させている働きそのもの、宇宙を存在させている根源的な働きです。その宇宙の中で人間は自分が体験したごく断片的な神(*3)の働きに対して、その働きの主体に特定の名前をつけて礼拝してきました。その礼拝が宗教です。宗教において礼拝される神には名前があります。その体験はあまりにも断片的で無数にありますから、人間が名付ける神の名は限りなく多くなります。日本だけでも八百万の神々があることになります。部族や民族の共同体はそれぞれの神を持つので、神々の数は数えられないほどになります。
そのような人類の宗教史の中に、神は唯一であるという信仰が生まれます(*4)。これは数の問題ではありません。人間が体験する無数の「聖なるもの」の働きの全体を統一的に理解して、その働きの全体を「神」として崇める信仰です。このような唯一の神、働きの全体としての神には名前のつけようがありません。そのような内容をこめて「神」と言う以外、呼びようがありません。名前をつけるということは、それと並ぶ他の存在と区別することを意味するからです。この唯一の神が人間に語りかけるときには、「わたしは神である。わたしのほかに神はない」と言うほかありません。この神をイスラエルの人々はヘブライ語で「ヤハウェ」と呼び、イスラムの人たちはアラビア語で「アッラー」と呼んだのです(*5)。
冒頭に掲げた聖句は、岩波版(*6)ではヘブライ語聖書に忠実に「わたし(*7)はヤハウェである。わたしのほかに神《エロヒーム》はない」と訳しています。ところがこのヤハウェを表記するヘブライ語四文字は、口にするにはあまりにも神聖であるとして、「主」と呼ぶことになります(*8)。最初期のキリスト教徒が用いたギリシア語訳も、その後の多くの翻訳は(邦訳も含めて)、主という語を用いています。もともとモーセに啓示されたヤハウェという名も、「わたしは成る」という動詞が繰り返されているだけで、神が働きそのものであることを示していました(*9)。このように理解すると、イザヤの言葉は「わたしは万物を成らしめ存在させている働きそのものである。このわたしのほかに神はない」という意味になります。
このヤハウェはイスラエルの宗教史においては、自分たちだけを守る民族の守護神になっていました。そのイスラエルがヤハウェ祭儀の神殿を失うバビロン捕囚という体験の中で、ヤハウェこそ万有を存在させる働きそのものである《エロヒーム》(*10)であるという信仰に到達します(*11)。イザヤの言葉はその証言です。そして、捕囚後に成立したユダヤ教(12)において「はじめに神は天と地を創造された」と宣言するに至るのです。

1 有賀鐵太郎『キリスト教思想における存在論の問題』第一部第五章「神の無名性について―特にフィロンについて―」を参照。
2 神を働きそのものとする理解は、拙著『福音と宗教』(未刊)第二部「福音における神と人間」の重要な主題です。この理解は有賀鐵太郎『キリスト教思想における存在論の問題』第一部第六章「有とハーヤー ―ハヤトロギアについてー」において示されたヘブライ思想の解説を受け継いでいます。詳しくはその有賀論文を参照してください。
3 厳密にいうと、ここでは「神」という語を用いることは正確ではなく、宗教学でいう「聖なるもの」の体験です。その体験は、現代の宗教学が示すように、実に多様多彩で多くあるので、人間の宗教は多神教にならざるをえません。人間の「聖なるもの」の体験の断片性と多様性については、拙著『福音と宗教』(未刊)の第一章「宗教とは何か」で概観しています。
4 人類の宗教はもともと至高の一人の神を信じるものであったが、それが退化して様々な神々にを信じる多神教になったという原始一神教説が唱えられたこともありましたが、その説はは批判されて現在では認められていません。一つの共同体とか文化圏が多くの神々を信じる場合は、神々を一人の至高の神の下に統合しようとする傾向があります。ギリシアの神々はゼウスの下に統合され、古事記の神々は天照大神の下に統合されます。しかし、このような統合は神は唯一であるという信仰には達しません。そのような信仰が生まれるのはイスラエル宗教史という特殊な宗教の歴史においてです。イスラエルの宗教史において成立した唯一神信仰がキリスト教とイスラム教に受け継がれて、一神教世界を形成することになります。
5 ギリシア人は自分たちが神々を指すのに用いていた《テオス》の定冠詞付き単数形で《ホ・テオス》と呼びました。ローマ人は《デウス》、英語を用いる民族はこの唯一神をGod (ゴッド)と呼びました。中国人は至高の支配者を「天」と呼んでいましたので、この語がよく用いられました。福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」にその影響が見られます。日本にキリスト教が入ってきたとき、カトリックの神父たちは《デウス》をどう訳すかに苦労しました。天、天道、大日など神道や仏教の用語が用いられたこともありましたが、結局それまで神々を指すのに用いられていた「神」という語に落ち着いたことになります。日本語の「神」という語の語源と語意については様々な説がありますが、ここではこれまでの語意は無視して、万有を存在させる根源的な働きそのものを指す語として用います。
6 関根清三訳『イザヤ書』(岩波書店版 旧約聖書Z)からの引用。
7 この働きそのものの主体が「わたし」という人称代名詞を用い、語りかける相手の人間に「あなた」とか「あなたたち」と呼びかけて、言葉を用いて交わる人格関係に立つこと、従ってこの神は人格神であることの意味については、少し後の編で触れることにします。
8 ヘブライ語は子音文字だけで表記する言語です。従ってヤハウェという名も四つの子音文字(YHWH)で表記されています。この四文字は「神聖四文字」とされて、口にするのも憚られ、発音の仕方が分からなくなります。正しい発音を維持するために後にマソラ学者が母音記号をつけるようになり、現代用いられている母音記号付き聖書が出来ました。そのさい、ヤハウェの言い換えとして用いられていた「主」のヘブライ語《アドナイ》の母音が当てられて、《エホバ》という発音が行われるようになります。それで創世記二章などで《ヤハウェ・エロヒーム》とあるところが、邦訳の文語訳では「エホバ神」という形が用いられています。この「エホバ」は根拠のない読み方ですので現代では用いられず、「主なる神」と訳すのが普通です。しかし、現代でも「エホバの証人」と名乗る分派があります。
9 ヤハウェがモーセにご自分の名を啓示される記事(出エジプト記三章一四節)で、《ハーヤー》という動詞が三回用いられています。新共同訳では「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」となっています。《ハーヤー》は「ある」と訳されていますが、この動詞はむしろ「成る」とか「起こる」という意味であり、この動詞の意味と二つの文の意味については旧約聖書学者や神学者によって多くの議論が重ねられています。先に注2で引用した有賀論文「有とハーヤー ―ハヤトロギアについて」はその代表的なものです。ここでは神が一語の動詞で指し示されるという事実に注意を促すに止めます。
10 旧約聖書において《ヤハウェ》と《エロヒーム》という二つの~名が混在していることが古くから注目され、この混在の事実が近代以降の旧約聖書の資料分析のきっかけになりました。この二つの~名の用例とその意義については旧約聖書神学に委ねなければなりませんが、拙著『福音と宗教』(未刊)の第三章第一節「聖書の神」でその概略は取り上げることになります。この注をつけた四行「このヤハウェは・・・・・・に至ります」は、イスラエル宗教史のヤハウェ宗教からユダヤ教の唯一神宗教への推移を凝縮したものになります。
11 旧約聖書の「イザヤ書」はそれぞれ違った時期に成立した三つの部分で成り立っています。1 捕囚前の時期にエルサレムで活躍した預言者イザヤの預言集(一〜三九章)、 2 バビロン捕囚の末期に解放と帰還をを預言した無名の預言者の予言集(四〇〜五五章)、3 バビロン捕囚から帰還後、エルサレムに第二神殿が建てられる前後に活躍した無名の預言者の預言集(五六〜六六章)。この三つの部分はそれぞれ、(第一)イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと呼ばれています。本編の引用聖句は捕囚期の第二イザヤからの引用です。
12 以前は捕囚後の第二神殿時代のユダヤ教を「後期ユダヤ教」と呼んでいましたが、最近はそれを現代まで続く歴史をもつユダヤ教の初期の形態として、「初期ユダヤ教」と呼ぶようになっています。前者はイスラエルの十二部族のヤハウェ宗教と捕囚後のユダヤ人の宗教であるユダヤ教とを区別しない立場ですが、後者は両者を区別する立場の呼び方です。