市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第100講

100 神と共に

「その名はインマヌエルと呼ばれる」。

(マタイ福音書 一章二三節)


 これはイエスの誕生にあたって、イエスという方においてイザヤの預言が成就したことを告知する福音の言葉です。福音書は直ちに「この名は『神は我々と共におられる』という意味である」と続けて、イエスがこの世界に出現された事実の意義を宣明しています。イエスにおいて、神が人間と共におられるという事実が起こったのです。そして、イエスという特別の人間に起こっただけでなく、イエスによって我々すべての人間に起こる事実であることを告げ知らせます。復活してキリストとして立てられたイエスは、従う弟子たちに言われました、「わたしは世の終わりまで、いつまでもあなたがたと共にいる」(マタイ二八・二〇)。キリストがわたしたちと共にいてくださるのです。そして、キリストにおいて神が共にいてくださるのです。
 昔、神がご自身の民イスラエルを奴隷の家エジプトから救い出そうとしてモーセに現れたとき、「わたしはいる者としている」と名のられ、モーセに繰り返し「わたしはおまえと共にいる」と語りかけられました。モーセと共にいます神によってエジプトから救い出されたイスラエルの民は、その時に結ばれた神との契約に背き、神から離れ去りました。しかし、神は離れ去った民に預言者を送り、その背きを責めると同時に、神が共にいます現実が回復成就する時が来ることを約束されました。そして今、キリストであるイエスによってその約束を成就されたのです。イエス・キリストこそ神が人間と共にいます現実であり、そのキリストによって人間はだれでも神と共にいる者となるのです。
 イエスは世を去る前の夜、これからは聖霊によっていつまでも彼らと共にいる同伴者となるという消息を、弟子たちに詳しく語られました(ヨハネ福音書一四章)。今、わたしたちキリストにある者は、「インマヌエル!」と唱えて、神が共にいてくださる現実に生き、その現実を証言します。わたしたちは、キリストにあって罪を赦し、無条件に受け容れてくださり、聖霊を賜った神の恩恵を賛美し、この神に祈ります。神は遠くにいますのではなく、わたしと共にいまし、わたしに語りかけ、わたしは共にいます神に語ります。キリストにあって、祈りはたんなる願望の表出ではなく、神との親しい対話となり、交わりの甘美な時となります。この交わりを体験した分だけ、わたしたちは神を知ります。
 わたしたち人間はなお涙の谷を歩む者です。歴史の現実は悲惨です。しかし、その中で「涙をことごとくぬぐい取ってくださる」神が共にいてくださることを知っています。わたしたちはこの神を世界に語り伝える責務を負う者です。

                              (二〇一四年9月)