市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第99講

99 絶対主体としての神

「それは今、創造された。昔はなかったもの、昨日もなかったもの」。

(イザヤ書 四八章七節 前半)


 これはバビロン捕囚期の預言者(第二イザヤ)が、解放者としてクロスの登場を予告した預言の中の一節です。クロスの登場については、預言者は繰り返し「わたしはお前に昔から知らせ、事が起こる前に告げておいた」と語っていました。それは事が起こったとき、それを起こしたのはわたしだと、他の神々に言わせないためでした。それを前もって告げることができるイスラエルの神ヤハウェだけが、それを定めた者、それを起こした者であることを知らせるためでした。
 ところがその預言者が、ここではまったく逆のことを宣言しています。クロスの登場について、「それは今、創造された」と宣言します。聖書冒頭の「初めに、神は天と地を創造された」という宣言と同じ、《バーラー》(創造する)という動詞がここで用いられています。今の今までなかった事態が、今創造されたのです。だから、それは今の今まで聞かされていませんでした。標題の言葉の後に、「それをお前に聞かせたことはない。見よ、わたしは知っていたと、お前に言わせないためだ」という言葉が続いています。今創造されたことについては、誰も、それが起こることは知っていた、神がそれをなすことは分かっていたと言うことはできません。神は、瞬間瞬間、誰にも拘束されず、自由に、主権的に働かれます。それが「創造」です。
 ところが、人間は「見よ、わたしは知っていた」と言おうとします。人間が形成した「宗教」は、その「わたしは知っていた」の表現です。人間は「宗教」において祭儀を行い、この祭儀をすれば神はこのように働かれるのだと称しています。すなわち、われわれは神がこれからされることを知っていると称しています。このような人間の祭儀に拘束される神は創造者ではありません。このような「宗教」における神は、相手に相関的に働く神、相対的な神です。
 すべての「宗教」の神は相対的な主体(働き手)です。それに対して、預言者がここで宣言する神は、いかなる相手や状況に拘束されることなく、「絶対的に」働く主体です。「今、創造する」神です。聖書は、このような絶対的な主体としての神を啓示します。この神の前ではすべての「宗教」は相対化されます。「隔ての壁」となっている「宗教」の対立を克服して全人類が統合される道は、すべての「宗教」を相対化する絶対主体としての神を認めるところから始まります。

                              (天旅 二〇一二年4号)