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94 キリスト信仰と創造信仰

 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

(マルコ福音書 一三章三一節)


 わたしは最近この言葉に驚嘆しています。いや、魂が震撼していると言えます。これはイエスが世の終わりについて語られた説話(マルコ福音書では一三章)の最後に出てくる言葉で、三つの共観福音書すべてに伝えられています。これは、イエスが預言された出来事が必ず起こることを保証された言葉ですが、イエスがご自分の言葉の確かさを天地の存在よりも確かなものとされたことで、壮大な視野をもつ驚くべき宣言となっています。
 ここで用いられている動詞は、「過ぎ去る」という意味の動詞の未来形です。イエスは「天地は過ぎ去るであろう。しかし、わたしの言葉は決して過ぎ去ることはないであろう」と宣言しておられるのです。この天地万物は過ぎ去って無くなってしまう時が来るであろう。しかし、わたしが語った言葉は、この天地が過ぎ去って無くなっても、未来永劫無くなることはなく、現実として存在するであろう、とイエスは言っておられるのです。
 いったい、このような宣言をするのは誰でしょうか。それは神か狂人です。この天地万物の存在よりも自分の言葉の方が確かであるというような宣言をするのは、天地を創造し、その存在を自分の意志で決定することができる方、すなわち創造者である神か、自分が死ぬべき存在であることを忘れて創造者なる神であると思い上がった狂人しかありません。このような言葉を発する者は、神か狂人かのどちらかです。
 このような言葉が出て来る背景には、イスラエルの創造信仰があります。この天地万物は神が創造されたものであるという信仰です。その信仰はイスラエルの民の聖典(旧約聖書)の冒頭に宣言されていますが、その信仰は初めからあったものではありません。イスラエルの信仰は本来救済史信仰です。すなわち、自分たちの神は現実の歴史の中で、その民であるイスラエルを苦難から救い出して栄光を与える神であるという信仰です。その信仰は苦難の歴史の中で、自分たちの神は初めにその救済の働きの舞台として天地万物を創造した方であり、終わりにはその救済の完成のために今の天地とは別の新天新地を創造される神であるという信仰を生み出します。歴史的にはバビロン捕囚の頃に創造信仰が形成されたと見られます。
 その創造信仰は、その後のイスラエルの苦難の歴史の中で黙示思想を生み出します。すなわち、今の天地の中で営まれている「この世」は神に敵対する悪によって支配されているが、やがて創造者なる神はこの世界を裁き、新しい天地を創造して、そこでご自分の民を完成される「来るべき世」を待望する思想です。イエスの「天地は過ぎ去るであろう」という言葉には、当時のユダヤ教黙示思想が背後に響いています。では、わたしたちが最も確かなものとしているこの天地が過ぎ去って無くなっても、なお過ぎ去ることなく存続する「わたしの言葉」とはどういう言葉でしょうか。
 それは文字通りにはイエスが語られた言葉を意味しますが、それはイエスにおいて神が語っておられる言葉です。そうでなければイエスは狂人です。そして、イエスにおいて神が語っておられる言葉とは、イエスが語られたとして福音書に伝えられている言葉だけでなく、イエスの出来事、すなわちイエスの生涯、十字架上の死、三日目の復活全体が、それによって神が世界に語りかけられる言葉です(ヘブライ書一・一)。キリストであるイエスの出来事全体が、ここで「わたしの言葉」と言われている神の言葉です。その神の言葉は、この天地を創造され、その存在を決定する方の言葉ですから、被造物である天地よりも確かな現実であると言えます。
 イエス・キリストの出来事を告知する福音は、この意味で神の言葉であり、天地が過ぎ去っても過ぎ去ることのない永遠の言葉です。それはキリストにおける最終的な神の救いの働きを告知する言葉であり、永遠に廃ることはありません。創造信仰は、このキリストにおける救済史の一部です。キリストにおいてその救済の業を成し遂げてくださる神が、始めにこの天地を創造して救済史の舞台とし、終わりの時にこの天地を過ぎ去らせて別の新しい天地を創造し、その働きを完成されるのです。創造信仰は、キリスト信仰の一部として意味づけられ限界づけられます。冒頭のイエスの言葉は、このことを指し示しており、その天地万物の存在を相対化する壮大さに魂が震いおののきます。
 天地万物とは、この世界と宇宙の全体です。その全体を解明する人知の営みが科学ですが、これは現代では大いに進み、人間の知識と生活を豊かにしてきました。それで、科学が人間にとって最も価値あるもの、究極の知恵とされがちですが、科学は過ぎ去る天地万物に関する人間の知識であり、その天地万物を創造された方の救済意志と働きの実現である救済史信仰であるキリスト信仰の一部として限界づけられる営みです。創造信仰は救済史信仰の一部であって、科学とは別次元のものであり、科学に介入したり衝突したりするものではありません。冒頭のイエスの言葉は、科学と信仰という人間の営みの二つの領域がどのような関係にあるかを指し示すきわめて重要な宣言です。

                              (天旅 二〇一一年3号)